庄内藤島一揆

2014年04月13日 18:45

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/12(土) 22:35:03.02 ID:WgiqqBYR
天正18年(1590)から始まった庄内藤島一揆は、雪の荒れ狂う冬を越え翌年になってもおさまらなかった。

この間、攻め手の上杉勢は何度か和睦の使者を送ったが一揆勢は受け入れなかった。
そこで直江兼続は一計を案じ、配下武将を和議に赴かせ起請文を作成し、交渉した。
これに応じた一揆首謀者・金右馬允は佐渡に流された。

それからおよそ三ヶ月後の九月、豊臣政権より藤島一揆の残党狩りを命じる文書が上杉家に届く。
藤島一揆の者たちは、九戸政実の乱とつながりがあるとみられたのだ。
かくして上杉の率いる大軍が庄内に入り、熾烈な残党狩りを行ったのだ。

その様子が『庄内騒動故老聞書』という本に記載してある。
上杉勢は村々を攻め、女子供まで捕らえた。
藪に隠れた者は槍で突き、木に登った者は鉄砲で撃ち殺す。

美形の女性などは侍どもが集団で嬲り、殺される者の数がしれなかった。
太い竹に子供の首を五六個吊し担いで持ち歩き、痩せ馬の尾に老若男女の首を髪で結びつけ、
ひきずって練り歩いた。

溝は死体であふれ、道は屍だらけであった。
修羅の巷とはこのことであろうか。
地獄の責めとはこのことかと生存者の老人は語った。
住民が全滅してしまった村もあった。

狼が夜な夜な死体を食い荒らすので、この夜の終わりかと思えたそうだ。




985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/15(火) 18:19:15.14 ID:90c4I//7
>>955
>>962
上杉の「ぎ」と「あい」は
兼続の場合は偽と哀でいいよ

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