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元和改元と武家諸法度について

2019年05月01日 16:21

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 09:18:18.75 ID:0cxHtuhD
応仁以来の乱世のよって、その習礼も未熟であったが、慶長の末、東照宮(徳川家康)の命に曰く、
「年号の字は、漢唐の吉例を鑑みてこれを用い、重ねて習礼が整った以降は、本朝の旧式を用いる
べし」と仰られたため、慶長の改元があって、元和が用いられた。

慶長は漢の章帝の年号、元和は唐の憲宗の年号である。これは今の太上皇(後水尾上皇)が御在位の時の
ことである。
(改元物語)

元和令(武家諸法度)を領下された時は、金地院の伝長老(崇伝)に草稿を奉らせた。
その書法は、貞永、建武等の式目に習った。
当時は合戦の後で、世の人々は武事をのみ習い、いまだ文字(漢字)を識れる人は多くなかったため、
世間一般の書法もまた、識字の低さに合わせたものであった。

だが、この元和令が過去の漢文で書かれた式目の書法に倣ったのは、今後は文を以て治を興すという意思を
示されたのだと聞き及んでいる。

そうであるのに、その後の代々に領下された法令は、みな仮名交じりで記されており、これはまた
本朝の文学が、日々に衰えていることの一端であろう。
(折たく柴の記)

元和改元と武家諸法度についてのお話



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古き武辺者たちは目引き鼻引き笑っているのだ。

2019年01月22日 17:58

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 22:07:09.62 ID:y1eQSZez
大阪夏の陣の後、京都にて大坂での働きの良し悪しについての御詮索が行われたが、或いは伝長老
金地院崇伝)に相申したるという人もあり、または宗哲法印(片山宗哲)に相たるという人もあり、
或いは自分たちで互いに言い合って証人に相立ちたる人もあった。事おかしき証人である。

昔は出家や医者などを武辺の証人に立てるような人に対しては、中々付き合いもしなかったものだが、
今の世は末世にも成り、出家と医者が武辺の脈を取り、或いは察すれば武辺と成るようだ。

又は、度々武辺をした者を、昔は武辺の証人として立てたもので、その生きている間に敵の顔が
赤いか黒いかも知らぬような者を、武辺の証人に立てるような事は、笑って腹筋が痛くなるほど
おかしな事である。
(又は度々の武辺したる者を、昔は武辺のせう人には立て有に、一代之内敵のかほの赤きも黒きも
しらざる者を、武辺のせう人に立る事、腹筋のいたきほどおかしき事なり。)

相国様(徳川家康)はもとより度々合戦を経験した、日本では勿論異国までも隠れなき御武辺第一の
相国様であるが、おかしく思われながらもそれなりに対応し打ち置かせられているので、そういった
報告をした者達で自分の説明が通ったと武辺顔をしている者も多い。しかしそれを、古き武辺者たちは
目引き鼻引き笑っているのだ。

(三河物語)


家康の切腹を止めた僧とは!?

2011年07月21日 23:28

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 14:17:44.49 ID:vHCnjWK7
天王寺・岡山合戦で追い込まれた家康、切腹を決意するがその場にいた僧に止められている

その大功を成した僧、一人は有名な金地院崇伝
もう一人は文殊院勢誉であるが、この人物は慶長17年に既に亡くなっている

ああ、家康公の徳は死者すらその死を思い止どませる為に戻るのであった
ちなみに他の家康が切腹を口走ったという史料は当時、家康に弾圧されていた宣教師の記録だそうです




77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 15:52:15.09 ID:fcLL2PT8
>>76
その話の出典は何なんでしょうか。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 17:12:49.81 ID:vHCnjWK7
>>77
老将談話

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 18:31:51.65 ID:fcLL2PT8
>>77
ありがとうございます。

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 19:03:22.98 ID:vHCnjWK7
>>79
訂正、「老将座談」でした
http://kindai.da.ndl.go.jp/JPEG/11H7RH.jpg

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 19:51:28.16 ID:xIsJGKG9
ときに、そういう古書の画像ってアップしてOKなん?
権利関係とかはかなり曖昧そうだけど

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 19:53:46.29 ID:UzSZ0ZkC
国会図書館の近代デジタルライブラリーの書物だから普通にOKじゃね

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 20:03:51.35 ID:eiNKjSwT
だな

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 20:04:50.57 ID:vHCnjWK7
大日本史料もネットで無料で見れるし、国立情報学研究所で論文の検索も容易で
その情報を元に国会図書館で複写を頼めば、郵送してくれる

かつて大学は情報を参照し易いという点のみでも絶対的な優位を保っていただけに
凄い時代になったものです

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/21(木) 20:13:37.16 ID:xIsJGKG9
あ、ほんとだ。よくURL見て無かったよ。
ホントに便利な世の中になったもんすね

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/22(金) 00:13:43.80 ID:fdJPcbNp
文殊院勢誉さんは高野山の僧だそうで

徳川家康、法師武者に

2011年02月14日 00:01

737 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/02/12(土) 23:50:18 ID:9dJHA8T1
大坂の陣の折の話である。

徳川家康は大阪城に近づくと、率いてきた軍勢に、一斉に鎧の着用を命じた。
と、ここで金地院崇伝ともう一人の僧、そしてやはり頭をまるめている儒学者の林羅山
家康のもとにやってきた。

甲冑を着込んで。

どう考えても戦闘に参加しないこの坊主頭の方々が、命令を守り人並みに甲冑を着込んだ姿に、
家康は周りの者達に、苦笑いしながらこんな言葉をかけた

「我らが手にも三人の法師武者があるわ」

これは幸若舞「堀河夜討」(源頼朝が京の義經を謀殺しようと土佐坊昌俊を派遣した事件)の
一節、「我らが手に三人の法師武者がある」から取ったものである。

この言葉に家康の陣の者たち、大いに笑いに包まれたという。
幸若舞は当時の流行歌のようなものなので、その歌詞は常識の範疇なんですね。

大坂の陣開戦前の、ちょっとコミカルなひとこま。




738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 00:08:43 ID:S+HF8EsR
>一人の僧

天海だったかな?

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 00:33:40 ID:vdBJgzcm
>>737
>>738
大坂城の博物館に伝天海着用の甲冑があるらしいけど、その時のかねえ
関ヶ原合戦図屏風にも鎧姿の“南光坊”が描いてある物があるとか

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 00:40:10 ID:bkRgrFXX
山崎の恨みはらさいでか!

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 00:56:01 ID:iR8VTLZV
>>742
顕如所用と伝わる兜もあるな

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 04:21:45 ID:k6MLXP8v
>>742
関ヶ原の屏風の南光坊は後世の後付けだったはず
正直、家康は天海を近従させるほど仲が良いイメージが無い
そして>>737の3人の坊さんは絶対事前に家康と打ち合わせしてる

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 08:18:33 ID:zQGldhXw
イメージで言われても困るがな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/13(日) 14:39:03 ID:6xDFA7sH
>>737
権現様の円熟味と戦前の緊張感が和らいだ情景が目に浮かぶ逸話だな