852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 09:18:18.75 ID:0cxHtuhD
応仁以来の乱世のよって、その習礼も未熟であったが、慶長の末、東照宮(徳川家康)の命に曰く、
「年号の字は、漢唐の吉例を鑑みてこれを用い、重ねて習礼が整った以降は、本朝の旧式を用いる
べし」と仰られたため、慶長の改元があって、元和が用いられた。
慶長は漢の章帝の年号、元和は唐の憲宗の年号である。これは今の太上皇(後水尾上皇)が御在位の時の
ことである。
(改元物語)
元和令(武家諸法度)を領下された時は、金地院の伝長老(崇伝)に草稿を奉らせた。
その書法は、貞永、建武等の式目に習った。
当時は合戦の後で、世の人々は武事をのみ習い、いまだ文字(漢字)を識れる人は多くなかったため、
世間一般の書法もまた、識字の低さに合わせたものであった。
だが、この元和令が過去の漢文で書かれた式目の書法に倣ったのは、今後は文を以て治を興すという意思を
示されたのだと聞き及んでいる。
そうであるのに、その後の代々に領下された法令は、みな仮名交じりで記されており、これはまた
本朝の文学が、日々に衰えていることの一端であろう。
(折たく柴の記)
元和改元と武家諸法度についてのお話
応仁以来の乱世のよって、その習礼も未熟であったが、慶長の末、東照宮(徳川家康)の命に曰く、
「年号の字は、漢唐の吉例を鑑みてこれを用い、重ねて習礼が整った以降は、本朝の旧式を用いる
べし」と仰られたため、慶長の改元があって、元和が用いられた。
慶長は漢の章帝の年号、元和は唐の憲宗の年号である。これは今の太上皇(後水尾上皇)が御在位の時の
ことである。
(改元物語)
元和令(武家諸法度)を領下された時は、金地院の伝長老(崇伝)に草稿を奉らせた。
その書法は、貞永、建武等の式目に習った。
当時は合戦の後で、世の人々は武事をのみ習い、いまだ文字(漢字)を識れる人は多くなかったため、
世間一般の書法もまた、識字の低さに合わせたものであった。
だが、この元和令が過去の漢文で書かれた式目の書法に倣ったのは、今後は文を以て治を興すという意思を
示されたのだと聞き及んでいる。
そうであるのに、その後の代々に領下された法令は、みな仮名交じりで記されており、これはまた
本朝の文学が、日々に衰えていることの一端であろう。
(折たく柴の記)
元和改元と武家諸法度についてのお話
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