谷地合戦

2014年11月05日 18:53

下吉忠   
689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 12:13:05.19 ID:bsemGf33
谷地合戦

慶長5(1600)年9月、米沢の直江兼続が山形を攻めた折り、最上方の谷地城将は谷地伯耆といった者が据えられていた
しかし伯耆は山形陣に招聘され、谷地城には伯耆の一族の谷地大学と金山伊豆と300人程の徴用された農民を含む兵らが詰めていた
そこに庄内の大山城を出た下吉忠が3000程の兵力でどっと押し寄せた
谷地城の守兵は命を風塵よりも軽んじ防戦したが
城の各所は破られ、味方も大勢が討たれ、大学と伊豆も手負い傷を負い、大勢は決したかの様に見えた

上杉方からの攻めの手が緩んだ際に、谷地城の谷地大学から下吉忠の元へ使いが出された

谷地方「今は我等(谷地の最上軍駐留部隊)では篭城を続ける事が叶いません。下吉忠さまが武士の名誉を知るなら城内にいる女童と老人を城から出し、
(上杉方の手に落ちていない後方の)寒河江方面に逃がす事を見逃してください。
代償といってはなんですが、城主格の谷地大学と金山伊豆が腹を切り、これ以上は抵抗を止めて谷地城を開城致します」

吉忠は「女童に限らず城さえ明け渡してくれれば、生き残っている将士の命も助けましょう」と回答したが
谷地大学と金山伊豆の他に荒川・虫笠・貝津(貝澤?)といった20人程の士分は「命があろうと城を敵に奪われなんの面目があろうか」と
女童を城から逃がし、城内の掃除をして見苦しい物を武者溜まりに集めて燃やし終わると
身を清め大手門の下吉忠の軍の前で
皆揃って腹を掻き切り果ててしまった

畑谷城・鳥谷ヶ森城・東根城・左沢城以外にも
明け逃げをせずに上杉方に抗った最上軍将士の事跡

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 12:21:43.80 ID:bsemGf33
出典『奥羽永慶軍記』



692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 13:27:07.25 ID:T8ihsOzK
虫笠とはまた珍しい苗字だ

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