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鷹に対する意見の相違

2020年01月02日 15:45

森忠政   
474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 07:40:47.00 ID:Wcs3LzPY
新年明けましておめでとうございます。初夢の鷹にまつわるエピソードを。

鷹に対する意見の相違

ある時、大名衆の寄り合いがあった時のこと、森忠政が金森法印(長近)に声を掛けるとこう言った。

忠政「金森殿、高麗鷹が沢山入って来たので目利きをして、良い鷹を2~3羽選んでもらえませぬか?」
これに長近、答えて曰く
長近「美作殿、鷹など好んでその様に飼って何になるのかね?」

忠政「好き嫌いではなく、鷹は大名でなくては飼えぬ物。鷹を飼うのは大名の義務であって、国への奉公のような物でござる。」

長近の言葉に忠政はこう切り返したと言う。
ちなみに徳川家康が公家の鷹狩を禁じたのが1604年の事とされ、これ以後の事なら1608年に長近が亡くなるまでの4年以内の話であり、
幾ら茶の湯で知られた長近でも80歳超える頃で鷹狩する様な歳でも無さそうだし、鷹のこと聞かれても困ったんじゃなかっタカ?と思った今日この頃。



475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 08:34:34.85 ID:JV2Y+tb7
森家が絡むと何かハラハラする

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 16:59:19.12 ID:nqke4BFJ
嫌疑をかけられてザマァと思うのが森家のやり口
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蛤石の伝説

2019年12月25日 17:34

438 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/24(火) 23:16:18.78 ID:USn1QO3X
蛤石の伝説

天正十四年(1586年)、豊臣秀吉の命で飛騨を制圧した金森長近が辺り一帯の領主として飛騨に入った際のこと。
当初は鍋山城を拠点とした金森長近であったが、新たに高山に自らの新たな城を築くこととなった。
飛騨の旧主である姉小路家の支族の一つ、古河家が領した古河城には蛤石と呼ばれる蛤の様な無数の紋様を持った一対の石があり、その石は夜になると白気を吐き、また石同士が唸り声を上げると地元の民に恐れられていた。
金森長近は自らの新城にこの不思議な石を是非とも運び込みたいと願ったが、配下の侍や築城に関わる民は石の祟りを恐れて金森長近に止める様願い出たが、
長近はそれを拒んで何とか新城にこの石を運び込ませようとしたが、人夫が石を運ぼうとすると石は大変に重たく、何とか運び出すも新城に近づくにつれ石はだんだんと重たくなり、また蛤石はより大き唸り声を上げる様になった。
この報告を受けた金森長近は、遂に蛤石を運ぶのを諦めて元の古河城へ石を戻す事にしたが、すると石は高山の新城に運ぼうとした時よりも軽く、唸り声も無くなったと言う。

これから数十年ののち、飛騨を大旱魃が襲った際に住民達は雨乞いの儀式を行なったが全く効果は無かった。
そこである百姓の提案でこの不思議な蛤石の片割れを城の側にある淵の下へ落として、沈めてみようと言う事になった。そして、蛤石の片割れを淵に沈めてみた所たちまちに空に黒雲が沸き、大粒の雨が降ると田畑を潤し危機は去ったと言う。
また、城に残った蛤石の片割れは雄雌どちらかは分からないものの、以前の様な不思議な出来事を起こす事も無くなったと言う。

古川に伝わる伝説。

439 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/24(火) 23:26:30.29 ID:USn1QO3X
ちなみに淵の下へ沈められた蛤石の片割れはのちに引き上げられ、今では飛騨民族考古館に展示され、もう片方は古河城跡に鎮座している。

飛騨民族考古館
http://kankou.city.takayama.lg.jp/s/2000002/2000026/2000215.html

飛騨民族考古館の蛤石
https://muuseo.com/prin/diaries/24

飛騨古河城の蛤石
https://muuseo.com/prin/diaries/23




440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 02:08:49.81 ID:SoIbsE6s
念のため三木姉小路ではなく公家の姉小路だって注釈あったほうがいいかな

古川って征服後はしばらく可重が入っていたんだっけか

441 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/25(水) 05:35:56.30 ID:VgqG7fAJ
>>440
古川って征服後はしばらく河童が入っていたんだっけか

に見えた

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/25(水) 13:11:39.37 ID:MwGbuxjR
三木の姉小路乗っ取りは将軍や朝廷から認められた上でのことだから正式な継承といっていいし古川の名跡の継承も認められているので全く差し支えないよ

信長は京の町衆の面前で

2019年12月23日 18:36

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 07:50:34.05 ID:njmClHvo
織田信長が若かりし頃の事、尾張統一を果たした1559年、彼は80人の側近を連れて室町将軍・足利義輝との謁見のため上洛する事になった。
その情報を得た隣国の斎藤義龍は好機到来と信長を暗殺するための刺客を選抜して信長一行の後を追わせた。
背後より刺客が迫り来ているとは知らず、京を目指す信長一行であったがこの時美濃からの刺客とは別に、尾張から信長一行を追う者があった。
男色でも知られる那古野弥五郎の配下で丹羽兵蔵と言う侍である。
丹羽と美濃の刺客らは偶然にも琵琶湖を渡る舟の上で鉢合わせ、互いに身の上話をする事になったが、相手の美濃衆を怪しいと感じた丹羽は、三河者を装い巧みに情報を聞き出すと、何と彼らは信長への刺客であると判明。
丹羽は素知らぬフリで京における彼ら刺客連中の宿舎を見定めると、そこに目印(柱を削ったとか)を付け信長一行が逗留する宿舎へ急行。
赤母衣衆の金森長近と蜂屋頼隆に報告。金森と蜂屋が信長にこれを報告した所、信長は美濃の出である金森長近に対し顔見知りも居るだろうから、
彼ら美濃衆に対し信長の元へ「挨拶」に来る様、伝達する旨を命じた。
金森は丹羽に案内され、刺客らの宿舎に向かうと彼らに面会し、暗殺計画が既にバレている事を告げると今なら穏便に済ますから信長の元へ「挨拶」に来る様伝え、刺客らの宿舎を後にした。
刺客らは翌日、今日の町を見物中の、信長と対面。信長は彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で

「この信長を殺しにわざわざ美濃より参った事、祝着至極である。だが、そなたらごときがワシに歯向かうのは蟷螂の斧が如しである。それでもやるかね!?」

と、啖呵を切った為刺客の者達は信長に対して詫びを入れると、はうはうの体で美濃へと逃げ帰ったと言う。

(信長公記)(名将言行録)

余談であるが、丹羽兵蔵が暗殺計画の情報を引き出したのは、刺客一行のなかの最年少の童であったと伝わるが、その方法が如何様な物だったのかは伝わっていない。



434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:05:55.81 ID:1nldD7ts
>>432
原哲夫に採用されそうだな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:39:56.69 ID:z+pALg4m
信長公記の若き信長暗殺計画といえばまとめの2907
信長暗殺計画~比良の奥地に大蛇を見た!~

池の水、全部抜く
みたいな話があったっけ

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 12:37:50.41 ID:DNuEgi6u
>>434
調べ直したら、30名くらいの徒党組んだ刺客集団を率いる6名の武士(小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門)に出会した丹羽兵蔵が、ただ事では無いと感じ、三河の人間を名乗って接近するも斎藤義龍の大事な用事とだけ答えて、後は喋らない。
そこで丹羽は賢い子どもを手懐けて、言葉巧みに彼らの目的を聞き出させた後に刺客連中の宿所を突き止め、金森長近と蜂屋に報告。
信長は金森長近を遣わし、金森は旧知の美濃衆に対し信長は君ら美濃衆の上洛知ってるから自分を挨拶に遣わせた。明日返礼の挨拶に来いと伝達。
ビビった美濃衆は指定された京小川表の管領屋敷で信長と対面して、>>432の通りの啖呵を切られてその迫力に黙り込み退散。
その後、信長一行は近江から念のためルートを変えて八風峠を越えて尾張に帰還。と言う流れの様だ。

滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人である

2019年08月17日 17:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/17(土) 10:41:04.88 ID:+dFIgXP4
私(根岸鎮衛)のもとに来る正逸という導引(あんま)の賤僧がおり、もとより文盲無骨で
その言うところも取るに足りないわけだが、その彼が有る時咄た事に

「太閤秀吉の前に細川幽斎、金森法印(長近)、そしていま一人侍していた折、太閤曰く
「吹けどもふけず、すれどもすれず、という題にて、前を付け歌を詠め」
と有った

ある人は
「ほら(法螺)われて 数珠打きつて力なく するもすられず吹も吹かれず。」

金森法印は
「笛竹の 割れてさゝらに成もせず 吹も吹かれずすれどすられず。」

そう詠んだ。秀吉が「幽斎いかに」り聞いた所、
「何れも面白し。私が考えたものは一向に埒なき趣で、これを申すのも間の抜けた事ですが、
このように詠みました。」

「摺小木と 火吹竹とを取りちがへ 吹もふかれずするもすられず」

そう詠じたという。滑稽さにおいて幽斎はその姿を得た達人であると見えるが。この事は軍談の書や
古記にも見当たらない。私の目の前にいる賤僧の物語であるので、その誤りもあるのだろうが、
聞いたままを記しておく。

(耳嚢)



世上で金銀がたくさんとなったのは

2019年06月25日 15:44

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 00:35:13.79 ID:Qzaauj/K
世上で金銀がたくさんとなったのは、今から50年以来のことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時、作馬不閑(不干斎。佐久間信栄)という者が所持する“雲山”と
いう茶入を金森法印(長近)が黄金百錠で求めた。これが台徳院殿の御聴に達し「その価を
与えよう」と宣った。

折しも金30錠はあったが70錠は不足していたという。今の世と甚だ相違している。

南都東大寺の奉加で頼朝(源頼朝)は「金50両を寄進する」と言われたけれども、その年
は干ばつで調わなかったいうことが『東鑑』に見える。

――『老人雑話』



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:35:45.23 ID:ZgS036DP
太田牛一「秀吉公が出世ののち日本国中に金銀山野に湧き出で」

金森長近の質素

2017年04月14日 16:33

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/14(金) 14:44:24.06 ID:cf+vthNL
金森長近の質素


金森法印(長近)は在所から東照宮(家康)に鮭を献じるときは
藁の苞に包んでいた。

ある時息子の出雲守(可重)があまりにも質素だとして
竹簀で包み替えて捧げられた。

東照宮がご覧になって
「これは父が元々このように包んできたのか
 それとも包み替えたのか」
とお尋ねになると、出雲守はかしこまって
「父が元々藁苞で差し上げようとしたのを
 あまりに見苦しかったので包み替えたのです」
と申したが、公(家康)の仰せに
「汝が父の遅れを取らされるものではないのだから
 一切親のすることは咎めないものだぞ」
とあったのに、上世の淳風を見ることが出来る。


――『野翁物語』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 13:41:59.22 ID:UBkMLfjt
(´・ω・`)「重要なのは包みが質素かどうかでなく鮭の良し悪しでしょ」

萩原町諏訪神社由緒

2015年05月18日 18:22

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/17(日) 20:56:43.21 ID:ZYinC6vy
萩原町諏訪神社由緒


飛州志によると、永正年間に萩原郷上村の住人である内規新七郎頼定が勧進したという。
頼定は信州諏訪の人であり、本国の氏神を祀ったものであろうか。
内規氏は尾州織田氏に滅ぼされ、今も上村に内規屋敷の跡地がある。

天正年間に金森法印(長近)が入国した際、神祠を上村に移して跡地に砦を築き諏訪城といった。
金森氏没落の後、神祠を元の場所に戻したのがすなわちこれである。

はじめ、金森家臣佐藤六右衛門が作事奉行となって、ここに城塁を築く為に神祠を移そうとしたところ、
一匹の蛇が居座っていて、色々手を尽くしたが去ろうとしなかった。
そこで佐藤が傍らの梅の枝を折って蛇の頭を打ち、片目を傷つけられた蛇はついにそこを去った。

しかし修築は成らなかった。
佐藤は大阪の役に赴いて真田の為に討たれたのである。
それを聞いた里民は大いに喜んですぐに工事をやめ、神祠を元の場所に戻した。

以来、この地には欝蒼と樹木が茂るが、奇妙なことに梅の木だけは育たないという。
また、今でも時として片目の蛇が目撃されることがあり、里人はこれを神の使いと伝えている。


出典:岐阜県益田郡誌


※佐藤六右衛門は佐藤六左衛門秀方の誤記のようです。
 もっとも本人は文禄3年に死去、大阪の陣で討ち死にしたのは次男の才次郎方政との事ですが。
 諏訪神社が元の場所に戻ったのも宝永年間、大阪の陣から90年以上後だそうです。




飛騨の蛻庵狐

2014年03月29日 18:39

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/28(金) 20:55:12.83 ID:QvbjpiGx
今は昔の物語
飛騨の松倉城に三木秀綱という殿さまがいた。
殿様はある日、城の中に一匹の白狐を見つけた。
「白狐は稲荷神の使いと言うぞ」
と、白狐を大事にし、蛻庵(ぜいあん)と名付けた。
白狐も人を恐れる様子もなく、よく懐いていた。
奥方も若様も蛻庵を可愛がり、蛻庵もまだ幼い若様の相手をしたりして遊んでいた。
蛻庵はとても、幸せだった。

しかし世は戦国乱世。松倉城も、金森長近という荒武者に攻められた。
殿様は討死し、優しかった奥方も、若様も行方知れずになってしまった。
蛻庵も、もはやこれまでと思い燃え落ちてくる火をかいくぐって城から逃げ出した。
しかし、行くあてなど無い。蛻庵は家族も家も失った。

山をいくつも越え、ふらふらとさまよううち、蛻庵はとうとう信濃まで来てしまった。
その頃はもう冬のまっ最中、冷たい風が吹き荒れて一面真っ白な雪野原。
蛻庵はこのままでは死んでしまう、と思い切って人間に化けて、諏訪公に仕える千野兵庫という者の家に住み込んだという。
千野家では思いがけず、気のきく小者を雇ったと大喜びで、何かにつけて
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、呼び重宝がった。
ところがすっかり安心した蛻庵は、つい尻尾を出してしまった。
「もし、殿さま。蛻庵が尻尾を出しておりますが。」
家の人が主人に言いつけると、
「おいおい、声が大きいぞ。蛻庵に知れたらなんとする。わしもとうに気づいておるわ。蛻庵は白狐じゃ。だが狐でありながら、熱心に奉公しておるではないか。何か事情があるのだろうよ、そのままにしておけ。」
と、家人をたしなめた。
ところが蛻庵はこの話を物陰から、じっと聞いていた。
「なんと優しき殿さまか・・・狐と知りながら、こんなにも大事にしてくださる。末長くこの家で働きたい。しかし、狐とばれてしまっては、殿さまにどのような噂がたつともわからない・・・」
蛻庵は書き置きを残し、そっと千野家を抜け出していった。
手紙には涙の跡が、残っていた。
そしてまた、蛻庵のあてのない旅が始まった。

つづく

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/28(金) 20:58:26.07 ID:QvbjpiGx
つづき

そして流れ流れて木曽の興禅寺に辿り着いた。
蛻庵は今度は僧侶に化け
「修行中の者です。蛻庵と申します。どうぞ私を使ってください。」
と、頼んだ。
住職の桂岳和尚は、大変に偉い人で蛻庵をすぐ狐と見破った。
しかし、蛻庵の正直な心根も見抜いていた。                  
そこでなにくわぬ顔で、
「ふむ、なかなか見どころがありそうじゃ、では当寺の手伝いをしてもらおう。」
と、寺に住み込めることになった。
もとより利口な蛻庵のこと、よく気がつくし、陰日向なく一生懸命に働き、お寺では、
「蛻庵よ、蛻庵よ」
と、大事にされた。
小坊主たちや檀家の人たちにも、親切に接するので、
「蛻庵さま、蛻庵さま」
と、したわれておったという。
とうとう人柄を見込んだ商家の主が
「蛻庵さまを是非わが家の婿に」
と言い出したが、これは和尚様が角が立たぬよう断ってくれた。
蛻庵はやっと、穏やかな日々を手に入れた。

831 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:13:25.28 ID:QvbjpiGx
ある冬の日のこと、興禅寺では下呂の安国寺に用ができ、その使いに蛻庵が選ばれた。
和尚「蛻庵よ、道中くれぐれも気をつけて行って来ておくれ。お主のことだから心配は無いがの。」
蛻庵「はい、和尚さま。きっとやり遂げます。」
蛻庵は旅支度を整え、和尚様からの大切な手紙はしっかりと油紙にくるんで、懐に縫い付けた。
次の朝、蛻庵は暗いうちに興禅寺を出た。
信濃を抜け、なつかしき飛騨の山々を見ながら旅を続け、日和田に着いた頃には、短い冬の日は、とっぷりと暮れていた。」
蛻庵は、とある農家を訪ね、宿を請うた。
ところが飛騨の山中のこと、冬は猟師をして暮らしをたてている農家は多い。
この家の主人もまた猟師だった。
夕飯も終え、囲炉裏火に手をかざすと蛻庵は、旅の疲れから、うつらうつらと眠ってしまった。
実は主人は手練れの猟師だったために、蛻庵の正体を見抜いていた。
「この古狐め、うまく化けたと思っても、わしの目はごまかせんぞ。」
主人は、そうっと鉄砲に弾を込めた。
蛻庵は旅の疲れからか気づく様子もなく眠ったまま。
主人は銃をかまえ
「ズダーン」

832 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:16:54.72 ID:QvbjpiGx
蛻庵は悲鳴をあげると、みるみる狐に姿を変え、そのまま息が絶えた。
主人がしてやったりと死骸をあらためてみると、懐から血染めの手紙が出て来た。
表書きを見ると、下呂の安国寺の住職あて、木曽の興禅寺の桂岳和尚よりではないか。
「これには何か深いわけがあるに違いない」
主人は殺した狐をあらためて見直した。
よくよく見れば、銀色に光るふさふさした毛の見事さ、狐とはいえ気品の高い白狐ではないか。
主人は急いで、狐の死骸を興禅寺へ運び、和尚さまに、わけを話しねんごろに弔ってもらった。

しかしそれから日和田村に、恐ろしい病がはやり出し、蛻庵を殺した猟師の家が真っ先に死に絶えてしまった。
「これは罪もない蛻庵を殺した祟りに違いない」
と村人は興禅寺に駆けつけ、事の次第を話し、蛻庵の供養をねんごろにしてもらった。
すると疫病はみるみる収まり、村は助かった。
そしてこの時以来、日和田村は興禅寺の檀家になっているという。

そしてこの話の証拠に、興禅寺には蛻庵が書き写した般若経があるそうな。

833 名前:人間七七四年[unko] 投稿日:2014/03/28(金) 21:20:09.94 ID:QvbjpiGx
飛騨の蛻庵狐って昔話です。
長話スマン




834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 01:33:10.51 ID:6qWEkOw+
化けるのが下手な狐だな。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:46:18.18 ID:AD0ukCy7
>>832
悲しいけどいい話じゃないのかと思ったら祟るんかいw
狐が恐れられるのも無理からぬ話じゃ

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:57:01.58 ID:IoZIcL5Q
狐が憑いて金持ちになっても要求を満たさなくなったらご破算になるし
わしはここ数年、競馬に行っておらんから狐に憑いてもらっておらんが

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/29(土) 18:57:41.39 ID:uzzzTD31
四国は大師様が狐を追い出したからその心配はなし

金森長近は三度負けた

2012年04月03日 21:29

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/03(火) 16:47:33.39 ID:WQZz4Vfw
天正13年(1585)正月7日、越前大野城主であった金森長近は、羽柴秀吉に
『飛騨の国、攻め取り次第に与える』
との墨付きを得、越前より飛騨に攻めいった。

ところが飛騨の国人たちはこの侵攻に対し同盟を結び強固に抵抗したため、長近は入国することが出来ず、
二度にわたって合戦に打ち負ける有様であった。
この時、とある長瀧寺社僧が

『金森と 銘は打てども 爪切りの 断つに断たれぬ飛騨の細布』

『金森は 袴のまち(両足を分ける部分)にさも似たり 腰が立たねばヒダも取られず』

と詠んで、長近を嘲笑した。

このような状況の中、美濃郡上郡の遠藤慶隆は、長近の嫡男可重の舅であった関係から、長近に対して、
舎弟慶直、同胤元、胤安、その他家来多数を加勢の軍として出し、白川において合戦となった。
しかしこの加勢の軍も、慶直家来鷲見弥五右衛門、遠藤彦次郎などが討ち死にし、一門の胤安も負傷し、
飛騨勢の破竹の勢いに、金森はまたもや敗北したのである。
(濃北一覧)




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 00:53:40.80 ID:W4CIUrd+
金森勢が一気呵成に飛騨を制圧したわけでは無かったんだなあ

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 08:43:44.40 ID:TPQzzYzN
なんとなく飛騨は人跡未踏の山岳地帯だったイメージがあるし、地勢に明るい地元国人
は手強そうだもんな。

奥さんの形見の着物とか残ってるけど、共々落武者狩りにあったんだっけか
親父が色気だして佐々に乗ってなければ、国司夫婦として生涯を終えられたかもなあ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 13:53:19.85 ID:Q1lGLKdq
飛騨は美濃より富山に近い印象
体の丈夫そうな人も多かったな

とっさの歌詠みシリーズ・細川幽斎編

2010年10月14日 00:00

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/12(火) 23:55:20 ID:T1Vrtphw
ある時のこと、豊臣秀吉の側に細川幽斎、金森法印(長近)、そしてあと一人の3人が侍坐していた。
秀吉はこの3人に

「”吹けどもふけず、すれどもすれず”との題にて、前をつけて歌を詠め」

と言い出した。

これに先ず残りの一人が
『わらわれて 数珠うちきってちからなく するもすられず吹きも吹かれず』
金森法印は
『笛竹の 割れてささらになりもせず 吹きもふかれずすれどすられず』
と、それぞれに詠んだ。

秀吉が「幽斎いかに?」と問えば幽斎

「お二人の歌はいずれも面白いものです。私の考えたものなど一向に埒のない
趣向でして、申し上げるのもおこがましいとは存じますが、こんなものもあると、まあ
思ってください。」

と、詠んだのは
『すりこ木と 火吹き竹とを取り違え ふくも吹かれずするもすられず』

秀吉はその歌の滑稽さに大いに喜んだ、とのことである。
一体何パターンあるのかわからない、細川幽斎とっさの気の利いた歌詠みばなしの一つである。
しかし歌を詠む前に自信があるくせにおもいっきり謙遜するのが、いかにも京都人らしい嫌味
ですなw




645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/12(火) 23:58:18 ID:9OYLn8kY
いけずだけど幽斎さんは完璧超人すぐる・・・

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 00:10:54 ID:ytKsGeWf
>>644
平成時代のオレが読んでも普通に笑えた。
細川幽斎のセンスは時代を超えてる。
まさに古今伝授

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 00:17:20 ID:XC9zTnwE
>>645
父親が完璧過ぎるとちょっとグレたくなるんだよ…
また嫁が完璧だったりすると…わかるよな。

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 01:09:42 ID:xW0tMmx1
我が嫁が尺八演奏試みも
吹けどもふけずすれどもすれず



もう寝る

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 01:55:23 ID:VIn4QwUa
>>644
古文で爆睡してて赤点連発してた俺でもすんなり読めて笑えた。
幽斎すげぇよ。

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 02:08:55 ID:qmTvZrbe
>>644
幽斎さんの才能は本当にもう、すごいよな。
そら朝廷が必死こいて助けようとするわけだ。

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/13(水) 09:33:40 ID:22feaARf
>>644
曽呂利新左衛門みたいな逸話だな