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親の加賀守の分別を以て

2022年12月16日 19:23

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/15(木) 22:49:24.71 ID:wmHpMfPX
これは要らぬ義にて御座候へども、そのあらましを書き付けておく。

関ヶ原の時、国大名衆の中でも、分別を以てその家を恙無く存続させた人物としては、
鍋島加賀守(直茂)と申し、今の鍋島殿(勝茂)の親父が有る。その当時までは達者で居られた。

加賀守は御所様(徳川家康)が東へ御馬を出された事を聞くと、
「おそらくその跡で御謀反を企てる衆が出てくるだろう。御所様への御馳走として、
国大名衆はあらかたその御供に参ると聞いている。
我が家は東への御供を仕らないが、国を失わないための分別が有る。

銀子五百貫目を東へと持って下り、尾張国から御所様御分国は申すに及ばず、上杉景勝との境目までの
国々の町方にて、五貫匁程づつ、見合い見合いに兵糧を買うために、その町々の年寄共に預けおくべし。

上方に事が起きたとの情報を聞いた時、御所様へ申し上げる内容としては
『鍋島は御所様への御馳走をする覚悟であった所に、上方が蜂起したため、もはや鍋島がそちらへ
出ることは非常に困難になりました。ですのでこの兵糧は我々には必用がなくなりました。』
そう云って、町々において兵糧を差し上げ奉るように。」

そのように申し付け、奉行三人を東へ差し下した。

御所様がはや宇都宮に到着したのと等しく、治部少輔(石田三成)の謀反の情報が入った。
かの鍋島の者共は御所様に先の御断を申し上げ、早くも宇都宮において兵糧を差し上げた。
そして奥州境目までの兵粮米を買い置いていた事を目録にして、尾張からの兵糧米を進上したという。
この時御所様の御分別にも「さては鍋島、心中は別状無い」と思し召したと聞こえている。

鍋島の奥意は、実際には状況を伺っていたのだと言われているが、親の加賀守の分別を以て
(改易で)国から離れる事が無かったのだと、世間ではその頃専ら申していたという。

川角太閤記



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鍋島直茂が寺で湯を所望したところ

2019年06月15日 14:14

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:04:13.92 ID:OGK4Yufa
「葉隠」読むとどっかで見たが三つほどあった

一つ目はまとめの4607で出ていた
鍋島勝茂が農家の庭で米を跨いだら老婆に足を打たれた話

二つ目
勝茂に殉死した中野杢之助の扇子に
「惜しまるゝとき散りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
と辞世の句?一首が書かれていた


三つ目
鍋島直茂が寺で湯を所望したところ
そこの生運という住職が
初めは湯を少なめに、次は多めに出して、直茂を感心させ、そのまま召し出された話。



16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:47:15.19 ID:EI+bsoH8
茶坊‘S 何人おるねん

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/14(金) 20:55:45.50 ID:OGK4Yufa
すいません、二つ目もまとめの6267で出てました

一番乗りは

2017年09月12日 12:06

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 10:21:27.13 ID:JUYJ/n2X
島原の乱の終結後、幕府の下知により九州有馬で戦った諸大名をねぎらうようにと、将軍家光より
大田備中守が豊前小倉まで派遣された。
九州の大名小名が集まった中、備中守が演説した。ここで松平信綱が備中守に向かって申した

「今回、鍋島が軍法を破り、事粗忽が起こった。これについては既に備中守にも伝えてある。
江戸において、如何様にも上意にまかせ申すべきである。」

鍋島(勝茂)はこれを聞いて反論した
「私は全く軍法を破ってはいません。榊原殿が一番に城へ乗り入ったゆえに、彼を討たせては
如何かと存じて押し入ったのです。これは併せて御忠節とも存じます。」

信綱「然らば榊原方へそれを確認すべきだ。」

こうして鍋島方より榊原飛騨守(職直)へ問い合わせた所、この頃榊原は長崎に居たが、これに返答し
「それがしの倅、佐左衛門佐が一番乗りを致したため、倅を見殺しには出来ず、続いて乗り入りました。
倅は若輩なため、御軍法を背きました。全く鍋島の一番乗りではありません。」

そう答えたため、榊原が一番乗りであることが明確と成った。

これにより榊原職直は長崎奉行を解任され、閉門とされた。

(士談)



105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 19:14:38.33 ID:mUmd8lxQ
おい、金の斧と銀の斧持って行け!

勝茂さまの御願文

2017年04月09日 17:13

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/09(日) 00:31:38.41 ID:VKe4zR8e
勝茂さまの時代には、毎年の正月に自ら御願文をお書きになり、神社に納められた。
年の暮れには願ほどきをされたものである。
その内容は、

「家中によい人物が出るように」
「家中から浪人が出ないように」
「家中に病人が出ないように」

の三ヶ条であった。
一鼎の話である 【葉隠】


勝茂さまが御家老たちに、

2017年03月29日 19:12

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 17:29:22.71 ID:pKxeS1VR
勝茂さまが御家老たちに、

「訴訟事を裁くときには、どうか死罪にならぬようにと思いながら、
話を聞くようにせよと、つねづね直茂さまは仰せになっていた。
この言葉は今でも忘れることがないので、皆にも伝えておきたい。
また、大切なことのある場合には酒を飲んではならない。
だいたいにおいて、酒は好ましくないものである。
これも直茂さまが御注意されたことだ」

と仰せられたとのこと 【葉隠】



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 18:21:11.91 ID:lhXZwzZY
本多忠朝「酒に呑まれるやつが悪いのだ」

〔壱岐〕朝鮮鴉之事

2017年02月05日 13:57

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 23:59:21.99 ID:AaFg6Mnf
〔壱岐〕朝鮮鴉之事

 予の小臣に壱岐の人がいる。
話に、かの国には「朝鮮鴉」と呼ぶ、
大きさは鳩のようで黒色鴉に似て白毛の混じった鳥が、夥しく群飛して来て野菜に害をなし、
四、五日を経てまた群飛して去るという。
これは前に記した(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10250.html
カササギである。

 ならば鍋島勝茂が韓征から持ち帰ってその里に繁盛しているという事とは別に、
この鳥が韓土からわが地に渡来する事は今に始まらぬのであろう。
しかし『本草綱目』にも『本草綱目啓蒙』にもこのような無数群行ことは書いてない。
ただ『本草綱目啓蒙』に、筑前筑後では朝鮮がらす、高麗がらすというと載っているので、
かの国などにも飛び渡ることは壱岐と同じであろうか。
ならばいずれにしても勝茂が持ち帰ったというのは珍しくはないことである。

(甲子夜話三篇)



同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

2016年12月27日 17:37

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 00:19:18.76 ID:aNTRDRPX
同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

 予(松浦静山)と同姓の松浦酒之丞の家は同家伊勢守の分家であるが、
実の先祖は信辰といって、法印公(松浦鎮信)の御孫にして久信公の第三子である。

 今も酒之丞の家例には世でいう節分の夜には流俗のように鬼打豆を投擲し、
それからまた別の礼では、正月六日の夜に内称(内緒)豆といって家先から別に豆打ちをする。
されども世俗に憚り暗所で小投する。
人はその由縁を知らない。かの家もまたその由縁が伝わっていない。

 臣の某が考えるには、この事は久信公が朝鮮におわしたときの佳例を伝えたものであろうとのことだ。内称豆とは、もしかすると今では他を憚っての言い分であろうと。
曰く、平戸在住の者の中で中山氏や立石氏等は公の韓役に随った者の子孫である。
これらの家には、今も世で節分というのに拘らず年々正月六日の夜に節分と称して鬼打豆の事をする。
この始まりを聞くと
朝鮮在陣の年、年が暮れて春が来たが暦を知る者がいなかったので春冬の境を決めることができなかった。
上下は図って、しばらくその六日を節分とし各々が本国の佳儀を調えた。
よって酒之丞の家でも久信公在陣の佳例を用いた。
 わが臣の両氏のように、他の韓行きの子孫にはなおこのことがある。
佐賀公にも、正月六日には節分の儀式があるという。
これらもまたかの祖先勝茂の征韓在陣の故事によるのであろう。


(甲子夜話三篇)



466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 09:57:35.79 ID:YyfEjHIw
???「ダレニモ ナイショダヨ」

切腹を御許しください

2016年12月17日 21:19

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/17(土) 13:47:28.88 ID:RmYfwQ7x
勝茂さまの病気の回復の見込みがなくなったとき、
光茂さまへ、志波喜左衛門が、

「私は、以前から殿のお供をいたす約束をしております。
ご回復の見込みがないよう思いますゆえ、
殿のお命の代わりとして私が腹を切ったならば、
もしかすると御回復することがあるかもしれません。
いずれ冥途へお供する身体ですから、切腹を御許しください」

と申し上げた。
光茂さまが、増上寺の和尚に、

「命の代わりとして切腹をするということは許されますか」

とお尋ねしたところ、

「そのようなことは絶対に許されていない。
剛の者であるから、大切に召抱えておかれるように」

との答えであった。
光茂さまは腹を切ることは許さず、
しかし、その忠義の心にすっかりと感心され、
子孫を疎かにするようなことがあってはならぬと、
自ら筆をとり、そのことを記された。
いまだに子孫はその書付を持っているということだ 【葉隠】



昔の人の言葉を参考にし、他人にも相談をするならば

2016年11月12日 15:59

313 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/11(金) 17:47:37.99 ID:TF19QdX0
昔の人が残した名言や行動を聞き覚えておくのは、古人の知恵、経験にあやかるためである。
私心を働かせないためである。
我一個の感情、知識だけでなく、昔の人の言葉を参考にし、他人にも相談をするならば、
客観が加わり、間違いということもなく、悪事も起こらないものである。
勝茂さまはよく直茂さまに相談し、お知恵を借りておられた。
これは『御咄聞書』に書いてある。
とても立派なお心掛けであられた。
また、ある方は弟たちを家来として召しかかえ、
江戸や上方に行くとき、いつも彼らを連れていき、
日々起こる公私の出来事すべてを弟たちと相談して決めたので、
其の方の立ち振舞いには間違いの起こることがなかったとのことだ。 【葉隠】



嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)



徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足

2015年09月04日 09:55

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/03(木) 20:53:18.32 ID:5AXdqxaN
徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足
http://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=display_itemdetail&id=6
青漆塗萌黄糸威二枚胴具足

鍋島勝茂が島原の乱で着用したこの甲冑、青漆とは漆に藍や石黄を混ぜて青く(実際は緑色)
した技法である。なお、この技法自体は江戸時代後期からのものとされる。

最近、この甲冑のレプリカが甲冑師の西岡文夫氏に発注され復元されたが、驚くべき事実が
明らかになった。

西岡氏は当初、レプリカにごく普通に青漆を塗ってみたが、経年劣化を考えても実物と色合いが
全く違う。そこで国立文化財機構 東京文化財研究所保存修復科学センターの北野信彦氏に
科学的調査を依頼し、徴古館の甲冑を調査したところ、青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で
作製された塗料であることが明らかになった。

なお、日光東照宮の平成の大修理で、陽明門羽目板の下から松と鶴絵図が発見されたのはニュースで
報道されましたが、この絵にも同じ技法の塗料が使用されているとのこと。

陽明門壁画公開について
http://www.toshogu.jp/blog/2013/12/post-24.html

詳細は日本甲冑武具研究保存会の会報、甲冑武具研究191号を参照のこと


西岡氏は最初に塗った漆を全て剥がしてまた新塗料を塗りなおしたので、相当難儀されたそうです。




655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 02:53:48.83 ID:Nusp8EWX
甲冑は1家に一つは欲しいですな

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 08:22:16.42 ID:yYyhqmta
甲冑のは鍋島家が勝茂の頃から新技術の取得に熱心だったという話か

元旦の参詣

2015年01月01日 17:18

477 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/01(木) 13:44:21.24 ID:SOQqwQep
元旦に勝茂さまは与賀、本庄、白山八幡の三社へ御参詣になった。
ある年の元旦、五男の直澄さまが正月の挨拶に遅れてこられた。
勝茂さまが、
「おまえはどうして遅れてきたのか」
と御注意なさると直澄さまは、
「父上がいつも三社参りをされているので、わたしも後に習い参詣するようにしたのです。」
と申し上げた。
それを聞き、勝茂さまは、
「おまえまでが元旦の参詣をしなくともよい。
わたしはすでに両親もおらず、かと言って在国中であるがゆえ、
江戸の将軍さまへの御挨拶にも上がれない。
要するに、自分より上の者に対する礼が欠けることないよう、参詣しているのだ。
おまえなどは、わたしに元旦の挨拶にくればそれですむことだ。」
とお諭しなされたとのこと。
次代の光茂さまは、元旦に向陽軒のお宮へ御参詣になられたということである 【葉隠】



478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/01(木) 14:11:56.74 ID:HE/RFR7h
>>477
なんか勝手な理屈だな

ビードロの屏風

2014年08月08日 19:12

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/08(金) 15:41:10.42 ID:jqaERPuC
勝茂さまが御参覲へ向かう少し前のこと、長崎にはじめてビードロの屏風がもたらされた。
勝茂さまは珍しい物だからと将軍さまに御献上なさろうとお買い求めになった。
壊れやすい物なので、家中の者どもには、よく注意するようにと、何度も仰せになられた。
さて、屏風を納めるための箱が出来上がったので、
御進物役の鍋島采女が屏風を箱に納めるため受け取り、家屋へと持ち帰った。
そこへ、友人の枝吉利左衛門が訪ねてきて、

「ビードロの屏風なる物を、話の種に是非見たい」

と言い出した。采女は、

「もう箱に納めたので、悪いが見せることは出来ない」

と断ったが、利左衛門は是非見たいと言い張って箱から取り出した。
と、そのとき、誤って取り落とし、ビードロの屏風を破いてしまった(おそらくは割れた)。」
利左衛門は屏風をそのままに、

「人の運命とは、さてさて分からぬものぞ」

と言い捨て立ち去った(1/2)

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/08(金) 15:56:36.78 ID:jqaERPuC
立ち去る様子が心配であったので、采女は利左衛門を呼び戻し、

「御心配されるな。わざとなされたことではないのだから、御前へは申し上げようがある。
なにも気にかけられることはない。
もっともこのことは他言無用ですぞ」

と慰めた。利左衛門は、

「殿の大切な道具を破ったことには変わりない。腹を切る覚悟です」

と言い出した。采女は、

「さてさて武士が気の小さいことを言われる。どんな宝でも、人の命に代えられるものか」

と言って、ひとり勝茂さまの御前へ出向き、

「御献上品のビードロの屏風、とりわけ大事の品と心得お預りしましたので、
家にて箱にしっかりと納まっているか調べていましたところ、取り落とし破ってしまいました。
このこと、わざわざ人を通して申し上げる必要もございませぬゆえ、
勝茂さまへ直に申し上げに参りました」

と言い捨て、御前を退った。
勝茂さまは采女の様子を見て御心配になられ、すぐにお呼び戻しになり、

「少しもかまわぬ。気にするな」

と仰せになり、それですんだ (2/2) 【葉隠】

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/08(金) 16:05:33.68 ID:jqaERPuC
追記

その後、利左衛門と采女はこのことをいっさい口外しなかった。
利左衛門はいつか恩返しをしようと思っていたところ、
勝茂さまがお亡くなりになり、采女は追腹を切ることを決めた。
そこで利左衛門は、浴衣一枚と大きな敷物一枚を采女に贈った。
采女はたいそう喜んで、その浴衣を着て追腹を切った。
介錯は三谷千左衛門。
この話につけても、大切な道具は軽々しく取り扱わないようすべきであろう




474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/08(金) 21:43:44.64 ID:QNYEbE6G
いい話のようなそうでもないような…w

鍋島は、卑怯ものでござった

2014年05月30日 18:52

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 03:33:59.36 ID:nOyEJ+RM
佐賀の戦国研究会アカウント(@sagasengoku)からの転載、転載なんで改行、段落割り以外は変えてないのでそこのところはご容赦を

関ヶ原も終わり徳川政権が確立した頃、江戸では鍋島家・桜田屋敷と、伊達家の屋敷が隣りだった。
佐賀から倉町宗伯という者、江戸へ医術修行に登っていたが、伊達政宗公と懇意になり、度々伊達屋敷を訪れていた。

ある時、伊達家へ、立花宗茂公がお出でになった。
話の始めに伊達政宗公が問われたのは、『関ヶ原後、立花殿と鍋島殿と合戦をしたというのは、我が屋敷の隣の鍋島殿であるか。』
立花宗茂公答えて曰く『いかにも。左様にございます。』
伊達政宗『その時は、勝利とはならなかったようだが、どの様な事だったのか。』
立花宗茂公答えて曰く『鍋島は、卑怯ものでござった。その為、あの一戦(江上八院の戦い)は我等勝利を得られぬ結果となりました』 
伊達政宗公『時に、宗伯よ。立花殿の話は、その通りであるか?』

たまたまこの様な場に居合わせてしまった倉町宗伯、答えて曰く
倉町『いや、左様にてはあらず。かねて立花様と、あるじ鍋島家はご昵懇であった為、前もって使者を立て申した。
今度思いがけなく討伐の命を受けた為、近日中に柳川を攻める事になる。武具その他籠城の御用意をなされよ、
よく準備が整ったと知らせを貰えれば軍勢を差し向ける、かねてご懇意の間柄、事前に申し通しておきまする、と直茂公の意思を申し上げた所、
立花様はご返答に(用意と言っても特に無い。いつでも攻めて来られるがよかろう。)とあられた。双方合戦の日時を決めて一戦をしたのでござる。
この時の鍋島家の使者は、それがしが親族、倉町出雲(備前左衛門信秀)でござる。ただ今の立花様が仰せのお話は、納得できかねまする。』
倉町は、苦々しい気持ちで申し上げた。

すると立花宗茂公は大変、御不快な様子になられた。
後日、伊達政宗公が鍋島勝茂公と面談した時、政宗公が「先だってこういう事があってな」と、この時の話をした。
勝茂公は大変お喜びになられ、倉町宗伯へ50石の御扶持を与えられたそうだ。

(焼残反故:勝茂公譜考補二より)

もめごとがあった話だけど、オチが倉町の忠義を褒める話なのでいい話スレに




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 07:51:56.94 ID:HYw8PQtp
良い話なのか悪い話なのか良く分からないけど、立花宗茂が捏造するようなカス野郎だったってこと?
どっちかというと悪い話っぽい

というか形式的な質問なのか知らないけど、
伊達政宗「その鍋島とは隣家の鍋島か?」
というのに驚いた。当時はまだ情報社会じゃないからそんな事も認知してなかったのか。
いかに北と南とは言え。

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 08:00:57.94 ID:86xlVFgA
いや
両家の返答はどちらも正しいでしょ

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 10:23:42.23 ID:hDYmQrCK
倉町がこの場で立花をdisる発言はやりにくいけど、
主家の名誉のために意見をはっきり伝えて反論した忠義あふれる良い話だと思った

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 11:11:01.17 ID:PbtyJr34
宗茂にとっちゃ浪人する羽目になった思い出したくもない敗戦だろうに
そういうの気にしないでズカズカ聞こうとする所が実に政宗

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 11:25:28.65 ID:DAxvciZu
遺恨ある同士を煽ってニヤニヤしてるいつもの政宗としか。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 11:41:32.86 ID:nOyEJ+RM
>>33
それはさすがにうがち過ぎじゃあないかなあ
伊達が鍋島家を知らんってこともないだろう
肥前名護屋に赴いたこともあるわけだし、成富兵庫と陣張りでごちゃごちゃした話もあったし
ただ「あーお隣さんの鍋島さんね!」ぐらいの感覚じゃね

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 16:00:26.29 ID:WSay/2xj
>>37
同感w

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:44:46.75 ID:QA3YBDlj
江上八院の戦いの時、立花家は薦野半左衛門を使者に徳川と和睦交渉中
だったから、表立って宗茂が戦いに出るのはまずいって小野和泉が代わりに
戦ったんだよなあ

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/30(金) 19:53:42.42 ID:86xlVFgA
伊達さまと最上さまが揉めるのは良い
鍋島と立花は揉めたらダメ

なぜなら九州は修羅の国だから(笑)

その後、直茂さまはお側の人々に

2014年02月02日 19:05

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/02(日) 10:52:56.47 ID:kDIVB2yG
佐賀城の普請ができたので、父上さまにも御覧いだだこうということになり、勝茂さまが直茂さまを御迎えした。
そして勝茂さまが立付袴の姿で、城の各所ひとつひとつを細かく御説明されながら案内をされた。
その後、直茂さまはお側の人々に、
「勝茂は敵が攻めてきた時のことを熱心に説明していたが、腹を切る場所を忘れているのではないだろうか」
と洩らされたとのことだ 【葉隠】




460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/02(日) 11:01:54.36 ID:/hb/3e18
不謹慎やな

大野千兵衛始末

2013年06月21日 19:50

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 00:57:29.98 ID:TY5j+8Ym
大野千兵衛の兄と、蓮池の鍛冶職人に衆道のうえで遺恨がうまれた。
まわりの者たちがなんとか仲裁しようと働いたが、
二人は和解せずに訴え出ることとなった。
その頃、勝茂さまは江戸においでになられて、
鍋島甲斐守直澄さまが国をお預かりしておられた。
直澄さまはこの訴えをお聞きになると、
「その二人に勝負させよ。
両者ともに助太刀のないようにするのだ。
もし一対一の勝負に助太刀する者があれば、
その者には処罰がくだるものと思え」
と仰せになった。
して、町の中に決闘場を作らせそこで勝負を行わせることとした。
そして勝負の当日、町中ということもあり、
見物人が隙間もなくひしめく状態となった。
大野は早くから決闘場に到着したのだが、
相手の鍛冶のいっこうに来る様子がない。
日が傾き始めたころには見物人たちは、
「これはもう来ないだろうな」
と帰り始めたところ、
「来た、鍛冶が来たぞ!」
と声があがり、見物人たちはどっと戻ってきた。
鍛冶は一人で、刀一本を差し小さな笠を被るという出で立ちだった。
決闘場へ入ると、笠を脱ぎ捨て左手をさしだす姿で、
「いざ、立ち合おうぞ」
と、大野に呼び掛けた。
このとき、待つ大野はもろ肌脱ぎになっていたが、
着物を直すまもなくそばにいた者たちに押し出された。
そうして切っ先から火を出すばかりに激しく斬り合った。
見物人たちがかたずを飲んで見守るうちに、
大野が太股を斬られてばったり倒れた。
その瞬間に、何者かが決闘場に飛び込んできて、
「おのれ、逃がさぬぞ」
と叫ぶやいなや、ただ一太刀で鍛冶を斬り伏せた。
大野の弟、千兵衛であった。
鍛冶も大野(兄)もその場で絶命した。(1/2)

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 01:18:28.08 ID:TY5j+8Ym
この始末が直澄さま、家老衆に報告されると、
「助太刀はならぬと命じられたにもかかわらず、
助太刀するとは千兵衛は不届き者である。
処罰するべきであろう」
と評議が進んだ。
ちょうどそのとき、勝茂さまが帰国された。
勝茂さまは事件の詳細をお聞きになると、
「千兵衛はひとかどの者だ。
目の前で身内を斬られながら、
自分の命が惜しいからといって、
おめおめと引き下がるような者は武士ではなかろう」
と仰せになり、千兵衛をお褒めになり助命した。
その処置をくだしたあとに、
次は直澄さまを呼び出し、
「留守の間に思慮の浅いはからいをしてくれたものだ。
とくに見世物のような形で勝負をさせたことは言語道断である」
と、厳しくお叱りになられた。
この千兵衛は後には御鷹師にまで御取り立てされ召し使われた。
千兵衛はその御恩を深く感じ、後追腹を切った 【葉隠】(2/2)





起き上がり小法師のように

2013年05月03日 19:52

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 11:37:56.35 ID:8SKGvBND
浪人になったからとうろたえるのはもってのほかだ。
勝茂さまの時代に仕えた人たちは、

「七度浪人しない者は本当の奉公人ではない」
(七度浪人せねば誠の奉公人にてなし)

「七転八起 七転八起」

と、口癖のように申していたとのことだ。
成富兵庫も七度浪人を言い渡されたという。
起き上がり小法師のように心掛けていればよい。
殿も、家臣のためを思い言い渡すこともあろう 【葉隠】





172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 11:44:23.98 ID:gebgZCnY
起き上がり小法師ってそんな昔からメジャーだったんだ

上下の礼儀を乱すことと、武士の道に反すること、

2013年04月05日 19:58

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/05(金) 13:13:23.29 ID:Bn/oqp9M
勝茂さまの御嫡子忠直さまが十五歳のころ、
お台所の下男が無礼な振る舞いをして、
それを足軽が殴りつけたのだが、
顔を殴られた下男が怒り、足軽を返り討ちに斬り殺した。
下男は長幼の序もとい上下の礼儀に逆らい、
そのうえ相手を斬り殺したのであるから、
斬首にすべきだとの意見が家老たちより上がってきた。
それをお聞きなされた忠直さまは、
「上下の礼儀を乱すことと、武士の道に反すること、
どちらが深い罪だろうか?」
と家老たちに問い掛けると、返答できる者はいなかった。
すると忠直さまは、
「罪の判断がつきかねるときは、
それを軽い方にすると古典で読んだことがある。
しばらく小屋で謹慎させておくように」
とお命じになられたとのことだ 【葉隠】




922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 01:01:05.87 ID:63eEMAob
>>918
態度の悪い奴の顔を殴るのは武士の道に反する事になんのか?
何か足軽は殺され損だな

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 01:09:33.13 ID:mDly+u/L
この足軽は自分から喧嘩を仕掛けておいたにも関わらず、逆襲されて殺されてるわけだから
武士としては心得不行き届きになる

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 01:13:29.31 ID:DOwNY/e1
殴らないで一気に斬れば良いのか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 01:37:40.77 ID:YiAoh9Gu
「顔まで殴られたなら自分の善悪関係なく仕返しするべき」
な考え方は葉隠に他にも出てくる。
顔まで殴るってのは常朝さん的に悪なんだろ

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 02:16:17.74 ID:Bj7pDrD4
最初に無礼な振る舞いをしてた下男を足軽が殴って叱ったら
逆ギレされて殺されたように感じるな

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 02:27:57.99 ID:YiAoh9Gu
無礼な振る舞いとられる側に問題がないともいえない。
尊敬している上役に無礼な態度とる下の者はいないわけで。
尊敬できない上役に力のみでやられたら、
この時代はこうなってもおかしくはないような。
上下の礼儀と武士の誇りの問題。
嘘でも礼儀に徹するか、気持ちを表現するか

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 03:19:03.53 ID:Bj7pDrD4
でも下男って普通平民身分の奉公人じゃね?
それが足軽とはいえ武士階級を殺して謹慎ですむのか

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 03:25:53.01 ID:YvzN2uUk
そこは返り討ちってのもあるんじゃないか

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 04:18:28.85 ID:wHjkAEEW
>>928
逆上して襲いかかってくる事も考えられるのに、それであっさり斬られてるのはどうよ、という事ではないだろうか
武士のくせに殺られるとは、なんと情けない、取り潰しだ!
なんてのもあるし

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 10:12:49.89 ID:63eEMAob
武士の世界も色々大変だなあ

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 11:34:03.23 ID:Bi1QDmwI
無礼討ちも迂闊に出来ないこんな世の中じゃ…

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 12:04:42.39 ID:YiAoh9Gu
>>928
平民とは言うが別に固定された身分じゃないからな
召し抱える者さえいれば台所の下男もすぐ武士になれるのが中世日本
イギリス、インドより全然ゆるいと思う

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/06(土) 12:13:23.94 ID:YiAoh9Gu
あ!イギリスもドレイクみたいに武勲あげれば貴族になれるしな~
ドレイクの部下も日本で武士になってるしw

歴戦の御老体

2013年03月21日 19:51

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 01:30:12.75 ID:Vqoo2WvQ
石井茂右衛門が乱心して、
女房を引き連れ百姓の家に大小を抜身にして立て籠った。
その女房というのは、中野将監の娘であった。
この一件は素早く勝茂さままで届き、
「この一件、すべて中野一門に任せる。
茂右衛門は討ち捨て、女房は生きて取り戻すように」
と仰せ付けられた。
仰せを受けた中野一門は、策を考えながら現場へ向かった。
そのころ山本神右衛門は入道隠居の身であったが、
「島原でうけた傷がまだ治らぬが、私も行こう」
と言い出した。皆が、
「乱心者一人に歴戦の御老体がお出ましになることはありません」
と言って止めると、激しく怒りながら、
「貴様らに何がわかるか。体は動かぬが指図はこの私がする。
しくじって中野一門の恥になってはならぬ」
と、乗り物にのりこみ、袖がらみ一本を持たせ、
家来どもに入念にこと細かく指示をして出掛けた。
そして打ち合わせ通り、百姓家の両側の壁を打ち破り、
茂右衛門が左右どちらに対処するか迷う隙に、
棒で打ち伏せて捕らえた。
神右衛門の家来は指示通りに、
壁を打ち破ると同時に袖がらみを差し入れて、
女房の着物にひっかけ無事に外へと引き出した。
神右衛門はその女房を駕籠に乗せると、
「私はこの仕事のためだけに来た。
あとの始末はよく心づかいしてやれ。
勝茂さまが女房を無事に取り返せとおっしゃったから、
少しのケガもさせてはらないないと思い来ただけだ。
わざわざ年寄が出向いた理由はそれだけのことよ」
と言い残しそのまま帰った。
茂右衛門はその場で斬り捨てた。
介錯は成富次左衛門である 【葉隠】




794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 08:33:20.52 ID:mbqVQr6r
切り捨てたのに介錯があるのか
よくわからんな

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 10:48:30.45 ID:NWfeoRh9
>>790
袖がらみを人質救出に使うという手もあるのか。
トゲが凄いから使い手が未熟だと怪我させそうな気がするけど。

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 19:06:02.99 ID:Vqoo2WvQ
>>794
捕らえてから座らせて切腹なしの斬首だろうね

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/21(木) 21:50:53.40 ID:qAKcSG+A
片方の壁だけだと、確かに人質を引き寄せて準備されちゃいそうだもんなー

これが戦国武士の風習だったのである

2013年02月10日 18:55

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/09(土) 20:00:07.77 ID:SDvMJ5MH
島内新左衛門は直茂さまと戦場を駆け巡ってきた古強者だ。
応仁以来の戦乱も治まった勝茂さまの御代、ある日のこと、
新左衛門に御礼日のお目見えがおおせつけられた。
登城して勝茂さまが部屋にお入りになると、
皆々が平伏するなか、新左衛門だけは、
人々の間に背筋を伸ばし微動だにせず座っていた。
勝茂さまが、
「新左衛門、めでたき日だな」
と御言葉をおかけになると、
新左衛門ははじめて礼をした。
新左衛門はいつもこのスタイルを貫いたが、
これが戦国武士の風習だったのである【葉隠】