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田手畷の戦い

2020年01月19日 21:24

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 14:17:38.24 ID:ZiDYjxZ8
三前二島(筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬)の守護である大宰少弐政資は、去る明応六年大内義興に滅ぼされた。
嫡子少弐高経も討たれ、家は既に断絶の様相であった。
ここに政資の次男が、父生害の時は十歳であったがこれを東肥前の馬場、横岳(資貞)らが、慈恩を忘れず同国
綾部の城に取り隠した。彼は成長の後父兄の古きことを思い出し、世の転変を伺い、どうにかして義兵を挙げ
会稽の恥を雪がなければと肺肝を砕いた。横岳資貞はこれを憐れみ、元服を進め、少弐資元と名乗られた。
彼は密かに廻文をまわして旧好の武士を招き、時を待ち、運を計った。

大内に付き従っていた肥前の諸士は抜け抜けに馳せ参り、また豊後の大内(政親)もこの事を聞いて、資元を
聟に取ったため、その威勢いよいよ強くなり、大内に対し謀を成した。

大内家はこれを伝え聞くと安からず思い、急ぎ討手を遣わそうとしたものの、思いもよらずそれが延引した所に、
少弐資元は対馬の宗対馬守義盛を通して京の将軍家に訴え、家断絶を嘆き申し上げると、将軍足利義稙公は
この訴えを御許容あって、肥前守に成し給わった。

大永の末の年、肥前国の筑紫尚門、朝日頼貫の讒言によって、大内氏(大内義隆)は少弐資元を滅ぼそうとし、
大宰府に在った大内の代官・杉豊後守興運は筑紫、朝日と談合して、享禄三年の秋、1万余騎を催して
東肥前に乱入した。この時少弐資元は多久の城に隠居し、新たに嫡子の少弐冬尚が綾部城を守っていたが、
馬場、横岳、武藤出雲といった人々を駆り催し、東肥前に出向して天地をひしめき防ぎ戦った。

杉の軍は勝ちに乗じ、少弐冬尚は退いた。神埼に陣していた龍造寺和泉守(家兼)は、家門である少弐の
難儀を聞き、一族を率して一つになり先陣に進むと、保、高木、小田、犬塚等の諸侍も鞭を上げて少弐に
馳せ加わり、田伝村にて相支え、ここを最後と戦ったものの、少弐方はついに敗色になって、先陣の龍造寺勢も
御陣が崩れようとした、その所に、

ここに誰とも知らぬ、赤装束の赤熊(の面をつけた)武者が百騎ばかり陣中より出て、追いかける敵を切り崩した。
杉方は思いもかけず突き返されたため色めき立った。これに剛忠公(龍造寺家兼)は大いに力を得て、自ら諸卒を
いさめ、突き戦った所、中国方は散々に敗北し、討たれる者数しれぬ有様であった。朝日頼重と筑紫尚門は
ただ二騎踏み留まり、「返せ返せ!」と呼に敵を数多討ち取ったが戦死した。その他少弐方が討ち取った
首は八百余級であった。

少弐冬尚は勝鬨を執り行い、龍造寺剛忠公の軍功を感じて、同国川副庄一千町を授けられた。大内は安からず思い
将軍家に少弐を誅するべしと訴えたが、御免無き故に双方無事となった。

かくして龍造寺剛忠公は御帰陣の後、あの赤熊武者について問うた所、その答えは
「彼らは本庄村の牢人、鍋島平右衛門尉清久父子とその一族です。年来彼の地に居住し、いかにしても
今後の機会に武功を顕して一所でも安堵を得たいと思っていた所に、今度の乱が出来て、これを幸いと
討ち出てきたわけですが、『中国方に付くべきか、少弐殿に参るべきか』と疑議を成し、本庄の神社に参り
鬮にて占い、その結果として参ったのです。」

これを聞いて、龍造寺剛忠公は御感のあまり、鍋島清久の嫡子・左近将監清正を聟に取ろうとしたが、既に
妻が有ったため、次男・孫四郎清房を、嫡子である龍造寺家純公の御娘に娶せ、本庄の八十町を聟への
引き出物とした。彼は後に、駿河守清房・法名剛意と名乗った。
これより龍造寺剛忠公の威勢次第につのり、近境を覆わんとした。

(肥陽軍記)

少弐勢が大内氏を破った田手畷の戦いと、鍋島清久の「赤熊の計」についてのお話。



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 21:12:49.07 ID:RWxrI8n9
>>549
熊さんなの竜造寺じゃなくてむしろ鍋島直茂のおじいちゃんだったのか
肥前の熊って異名となんか関わりあるのかなー

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/22(水) 19:08:20.57 ID:33CWx1bL
>>553
サラッと流されてるけど龍造寺家兼はこの時点ですでに77歳のお爺ちゃんだよな

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 00:11:18.39 ID:wsaLouGR
>>573
凄いな。人望もあったんだろうな。
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その御利益で、清久さまのお家は

2014年06月22日 18:57

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 11:50:09.60 ID:ETnj9PZ6
鍋島清久さまは本庄村にお住まいになられていた。
村の祭の季節が来ると、清久さま御夫婦は毎夜、家を脱け出し一晩中、堀の水面を棹でお叩きになった。
それは、人々が祭のためにと、堀を干し上げて鮒を根こそぎ捕るので、
少しでも魚たちが逃げてくれるようにとのお考えからそのようになされていたのである。
これはほんの一例で、御慈悲深い御善行は数えきれないほどであった。
清久さまは彦山権現を御信仰なされ、大晦日には御参詣して一夜を神前におこもりされるのが常であった。
ある年のこと、いつものように神社へお登りされる途中、大雪が降り、崖から落ちてしまわれた。
道を探して谷間を歩いておられると、そこに阿弥陀三尊の仏像を見つけた。
清久さまは持ち帰られ徳善に彦山権現を勧請するときにその御本尊となされた。
彦山権現の御本地は、阿弥陀様の三尊だということであるが、誠に不思議な出来事だ。
その御利益で、清久さまのお家はたいそうに御繁盛なさったように思う。
古老から聞いた話だ 【葉隠】

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 12:05:36.34 ID:ETnj9PZ6
鍋島清久は鍋島直茂の祖父で、清久の代から龍造寺家に仕え始めました。
戦場では赤熊の面をつけ戦う剛の者であったとのこと




183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/22(日) 13:11:14.41 ID:cF8mPCGL
>>181
農民「鮒が居ねえ」
農民「せっかくの祭りだってのに…」

葉隠から、ちょっと不思議な話

2013年07月03日 19:51

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 08:48:12.34 ID:tR9aGuPf
鍋島直茂の祖父、鍋島清久が本庄の社に年越しの参籠をしたとき、
その社には既に一人の尼が参籠をしていたので、清久は尼に素性を尋ねたところ、
「一生行脚をしている者で、生まれた土地も父母も存じません」という返事であった。
清久は尼の身を哀れんで屋敷に連れ帰り、元日の祝膳を出してやり、五日間屋敷に置いておいたところ、
よく気が付いてこまめに立ち働くので、約束して夫婦になった。
この妻が産んだ子が、直茂の父である鍋島清房だということである、妻の名は松月妙栄(妙英とも)と言った。
清房が三歳になると、妙英は清久に暇乞いをし屋敷を出ていった。
清久は止めようと後を追ったがどうしても追いつけず、ついには筑後川を越え高良山の方へ向かい、やがて行方が分からなくなったという事である。

葉隠から、ちょっと不思議な話。
おとぎ話みたいだな。




602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 13:38:57.93 ID:dTwRYJ14
九州だから猫岳の猫かもしれんな

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 14:02:01.16 ID:fycOV6BR
鍋島のほうが化け猫だったのか

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 21:27:31.89 ID:TmhV5QdQ
>清久は止めようと後を追ったがどうしても追いつけず

左慈を追いかけた許褚思い出したw

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 21:51:27.05 ID:iNC3M3XN
本当は遊女に産ませたのを、跡取りが遊女の息子とは聞こえが悪いので、
行脚の尼ということにしたのかなと思った

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 21:58:33.29 ID:HEsRDELb
「三国志演義」には許チョが左慈を追っかけるが追いつけない、て描写があるが
「三国志」「後漢書」「捜神記」「神仙伝」といった書物には左慈と許チョの話はでてこないはず
「神仙伝」には孫策が馬で左慈を追うが、どうしても追いつけなかった、て話があるから
そちらのほうが例としては適当かと

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/04(木) 08:26:16.04 ID:rQA4dZJ8
>>605
俺もそう思ったわ