142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 14:51:56.49 ID:vyOfXi5D
永井カ事
永井(長井)と申すは初めは永江(長江)とも名乗った。美濃居益(今須)の城主なり。これも初めは
公方に奉仕し、京都に参勤した。嘉吉の頃、備中守高景と申す人は土岐殿の外戚で同国の豊島(富島)
を知行した。
斎藤と仲が悪くなって度々合戦があり、備中守高景と同子息・四郎左衛門景秀は討死したのであった。
その跡を永井藤左衛門が知行して斎藤に従った。石丸丹波守(利光)父子は明応5年(1496)、斎
藤持是院(斎藤妙椿。妙純の誤り)に滅ぼされた。
斎藤カ事
美濃斎藤は元は越前の住人、利仁将軍の末葉なり。代々美濃国革手(川手)の城主である。土岐は屋形、
斎藤は守護代なり。しかしながら、前代の時には“土岐斎藤”といって国人も一双のように思ったので
ある。元弘の昔にも、土岐頼員は斎藤利行の婿であった。その後、高氏(足利尊氏)の御代となっても
斎藤はなおも美濃に繁昌したのである。
その初めの祖を越前守経永と号す。その子・利明、その子・越前守利永、その次・利藤。帯刀左衛門尉
は成人の子が無く、利明の二男・三位僧都妙椿(斎藤妙椿)が世を継ぎ給う。その人は武道・和歌の達
者で持是院大年公清法印とも申す。明応5年12月7日に逝去なされた。姪を養子として斎藤駿河守基
秀(妙純)と号す。また利国とも名乗った。この人に子無くして利藤の子・利綱にしばらく家督を譲り、
この人の時に斎藤家は断絶した。
しかるに、斎藤家の家僕は永井藤左衛門や同豊後守などであった。豊後守は山城国西の岡より牢人して
斎藤家に来たり、藤左衛門の与力となって度々合戦に労功を積み“永井豊後守”と号してかの家の家僕
となる。斎藤の家督断絶の時、かの家領を両人で知行した。
その頃、公方・義尹(足利義稙)と細川高国より斎藤を召されたのだが、上らなかったので公方より勢
を向けられ、永正17年(1520年)に近江勢が向かった時、革手の城はあまりに要害悪しきとして
稲葉山を取り立てこれを城となした。
その後、藤左衛門と豊後守は不和になって豊後守は病死し、その子・山城守利政の代になってやがて藤
左衛門を討ち取り、斎藤を名乗って自ら美濃半国を知行し、入道して“道三”と号す。
――『江濃記』
老人雑話にもありますが、江濃記も父子二代の下克上を記述してますね。
永井カ事
永井(長井)と申すは初めは永江(長江)とも名乗った。美濃居益(今須)の城主なり。これも初めは
公方に奉仕し、京都に参勤した。嘉吉の頃、備中守高景と申す人は土岐殿の外戚で同国の豊島(富島)
を知行した。
斎藤と仲が悪くなって度々合戦があり、備中守高景と同子息・四郎左衛門景秀は討死したのであった。
その跡を永井藤左衛門が知行して斎藤に従った。石丸丹波守(利光)父子は明応5年(1496)、斎
藤持是院(斎藤妙椿。妙純の誤り)に滅ぼされた。
斎藤カ事
美濃斎藤は元は越前の住人、利仁将軍の末葉なり。代々美濃国革手(川手)の城主である。土岐は屋形、
斎藤は守護代なり。しかしながら、前代の時には“土岐斎藤”といって国人も一双のように思ったので
ある。元弘の昔にも、土岐頼員は斎藤利行の婿であった。その後、高氏(足利尊氏)の御代となっても
斎藤はなおも美濃に繁昌したのである。
その初めの祖を越前守経永と号す。その子・利明、その子・越前守利永、その次・利藤。帯刀左衛門尉
は成人の子が無く、利明の二男・三位僧都妙椿(斎藤妙椿)が世を継ぎ給う。その人は武道・和歌の達
者で持是院大年公清法印とも申す。明応5年12月7日に逝去なされた。姪を養子として斎藤駿河守基
秀(妙純)と号す。また利国とも名乗った。この人に子無くして利藤の子・利綱にしばらく家督を譲り、
この人の時に斎藤家は断絶した。
しかるに、斎藤家の家僕は永井藤左衛門や同豊後守などであった。豊後守は山城国西の岡より牢人して
斎藤家に来たり、藤左衛門の与力となって度々合戦に労功を積み“永井豊後守”と号してかの家の家僕
となる。斎藤の家督断絶の時、かの家領を両人で知行した。
その頃、公方・義尹(足利義稙)と細川高国より斎藤を召されたのだが、上らなかったので公方より勢
を向けられ、永正17年(1520年)に近江勢が向かった時、革手の城はあまりに要害悪しきとして
稲葉山を取り立てこれを城となした。
その後、藤左衛門と豊後守は不和になって豊後守は病死し、その子・山城守利政の代になってやがて藤
左衛門を討ち取り、斎藤を名乗って自ら美濃半国を知行し、入道して“道三”と号す。
――『江濃記』
老人雑話にもありますが、江濃記も父子二代の下克上を記述してますね。
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