673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/03(金) 21:36:49.07 ID:QWsdQD4s
日向伊東家の旧臣である長倉勘解由左衛門祐政は忠勇義烈の士であり、島津家に奪われた本国を
必ず回復すると、密書を以って日向に残った伊東家故旧の輩に作戦を授け、ここには3,40人、
あそこには5,60人と一味連判をして、天正6年10月10日、火の手を合図に蜂起し、
贈於郡に討ち入って一時に本国を乗っ取ろうとの謀りであった。
ところが、この同志の中から薩摩に心変わりしたものが出て、この計画を密告したため、
同月9日、一味の者達大勢が薩摩勢によって討ち取られた。
伊東旧臣たちを後援していた豊後の大友家は、兵員を載せた船を、内海折生迫まで乗り付け、
合図は今かと待っていたが、火の手は上がらず音もせず、手筈相違したため、空しく豊後へと帰っていった。
しかし長倉祐政の策によって、同月24日に平野や三納の兵たちが平郡粂田に火の手を上げ河原田へと
押し寄せ、贈於郡に討ち入ろうとした。
しかし諸方と当初の計画と違い、また既に多くの一味の者が討ち取られており、一方敵はますます大勢となり、
僅か千名に満たないこの軍勢は多くの死傷者を出し三納城へと挽き退いた。
三納城には八代駿河守を初めとして、佐土原摂津守、湯地三河守ら伊東家に忠烈なる人々立て籠もって、
少しも弛まず11月18日まで島津勢の攻撃を退けた。
そこで島津勢は策を設けた。彼らは六野原に伏兵を置き、三納城の囲みを解いて撤退した。
三納城の兵たちは敵地の中にあり、他に頼む援兵も無かったため、敵が退いたのを幸いと、城を出て
豊後へ向かった。そこで伏兵を受け、駿河守、摂津守、三河守以下、名ある忠臣30余人が討ち死にした。
この時は本国を回復する絶好の機会であったのだが、心変わりの者があってその事を成せなかったのは、
伊東家の運命拙き故とは言いながら、口惜しいことである。
(日向纂記)
674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/03(金) 21:59:58.87 ID:PsfaBUpp
確かにこりゃ口惜しい
日向伊東家の旧臣である長倉勘解由左衛門祐政は忠勇義烈の士であり、島津家に奪われた本国を
必ず回復すると、密書を以って日向に残った伊東家故旧の輩に作戦を授け、ここには3,40人、
あそこには5,60人と一味連判をして、天正6年10月10日、火の手を合図に蜂起し、
贈於郡に討ち入って一時に本国を乗っ取ろうとの謀りであった。
ところが、この同志の中から薩摩に心変わりしたものが出て、この計画を密告したため、
同月9日、一味の者達大勢が薩摩勢によって討ち取られた。
伊東旧臣たちを後援していた豊後の大友家は、兵員を載せた船を、内海折生迫まで乗り付け、
合図は今かと待っていたが、火の手は上がらず音もせず、手筈相違したため、空しく豊後へと帰っていった。
しかし長倉祐政の策によって、同月24日に平野や三納の兵たちが平郡粂田に火の手を上げ河原田へと
押し寄せ、贈於郡に討ち入ろうとした。
しかし諸方と当初の計画と違い、また既に多くの一味の者が討ち取られており、一方敵はますます大勢となり、
僅か千名に満たないこの軍勢は多くの死傷者を出し三納城へと挽き退いた。
三納城には八代駿河守を初めとして、佐土原摂津守、湯地三河守ら伊東家に忠烈なる人々立て籠もって、
少しも弛まず11月18日まで島津勢の攻撃を退けた。
そこで島津勢は策を設けた。彼らは六野原に伏兵を置き、三納城の囲みを解いて撤退した。
三納城の兵たちは敵地の中にあり、他に頼む援兵も無かったため、敵が退いたのを幸いと、城を出て
豊後へ向かった。そこで伏兵を受け、駿河守、摂津守、三河守以下、名ある忠臣30余人が討ち死にした。
この時は本国を回復する絶好の機会であったのだが、心変わりの者があってその事を成せなかったのは、
伊東家の運命拙き故とは言いながら、口惜しいことである。
(日向纂記)
674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/03(金) 21:59:58.87 ID:PsfaBUpp
確かにこりゃ口惜しい
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