旧伊東勢蜂起の失敗

2016年06月04日 14:33

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/03(金) 21:36:49.07 ID:QWsdQD4s
日向伊東家の旧臣である長倉勘解由左衛門祐政は忠勇義烈の士であり、島津家に奪われた本国を
必ず回復すると、密書を以って日向に残った伊東家故旧の輩に作戦を授け、ここには3,40人、
あそこには5,60人と一味連判をして、天正6年10月10日、火の手を合図に蜂起し、
贈於郡に討ち入って一時に本国を乗っ取ろうとの謀りであった。

ところが、この同志の中から薩摩に心変わりしたものが出て、この計画を密告したため、
同月9日、一味の者達大勢が薩摩勢によって討ち取られた。
伊東旧臣たちを後援していた豊後の大友家は、兵員を載せた船を、内海折生迫まで乗り付け、
合図は今かと待っていたが、火の手は上がらず音もせず、手筈相違したため、空しく豊後へと帰っていった。

しかし長倉祐政の策によって、同月24日に平野や三納の兵たちが平郡粂田に火の手を上げ河原田へと
押し寄せ、贈於郡に討ち入ろうとした。

しかし諸方と当初の計画と違い、また既に多くの一味の者が討ち取られており、一方敵はますます大勢となり、
僅か千名に満たないこの軍勢は多くの死傷者を出し三納城へと挽き退いた。

三納城には八代駿河守を初めとして、佐土原摂津守、湯地三河守ら伊東家に忠烈なる人々立て籠もって、
少しも弛まず11月18日まで島津勢の攻撃を退けた。
そこで島津勢は策を設けた。彼らは六野原に伏兵を置き、三納城の囲みを解いて撤退した。
三納城の兵たちは敵地の中にあり、他に頼む援兵も無かったため、敵が退いたのを幸いと、城を出て
豊後へ向かった。そこで伏兵を受け、駿河守、摂津守、三河守以下、名ある忠臣30余人が討ち死にした。

この時は本国を回復する絶好の機会であったのだが、心変わりの者があってその事を成せなかったのは、
伊東家の運命拙き故とは言いながら、口惜しいことである。

(日向纂記)



674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/03(金) 21:59:58.87 ID:PsfaBUpp
確かにこりゃ口惜しい

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彼は義士である

2016年05月27日 17:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 21:05:11.45 ID:Fuik+Qgj
天正6年7月6日、島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、伊集院忠棟を大将に大軍を
送ったが、石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、島津勢は500が負傷、
また多くの討ち死にを出し終に撃退された。

同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、さらなる大軍を以って
再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、
講和を受け入れ城を開城することと決まった。

講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。主従の礼を取ろう、ということである。

しかし長倉

「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」

そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。

この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、義弘はそれを制して
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に

「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」

「豊後へ。」

そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。

(日向纂記)