あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


スポンサーサイト

谷忠兵衛忠澄の事

2013年05月21日 19:50

谷忠澄   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。

谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。

しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。

それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。

忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。

忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。

この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。

同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。

豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。

この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)





黒田官兵衛、戸次川の敗戦を

2010年09月21日 00:00

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 18:12:20 ID:dlbYe5so
九州征伐でのこと

戸次川の戦いで仙石秀久長宗我部元親の軍が壊滅した、との情報を得た毛利軍は、
これを陣中に知らせるべきかどうかを早速議論した。
この時目付の黒田官兵衛はこのように発言した

「豊後国戸次川での敗戦は確かなようです。
ですが、九州征伐軍全体の規模から考えれば、ここの程度の敗戦は大したことはありません。
こんな事を秘密にすれば、却って陣中に疑念と混乱を呼ぶことに成るでしょう。
ただありのままに、陣中に知らせればよいのです。

大体考えても見てください。仙石や長宗我部程度の者達が3人5人と討死したところで、
それが上様(秀吉)の弱みになると思いますか?」

これにより毛利陣中に、戸次川の戦いの敗戦はそのままに伝えられたとのことである。
そしてこんな場所とはいえ、『仙石や長宗我部程度の者』と、言わずもがなの発言をしてしまうのは、
やはり官兵衛さんは頭はいいけど一言多いな、と思わざるをえないのである。

そんな黒田官兵衛、戸次川の敗戦をありのままに知らせる、と言うお話。




171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 18:26:44 ID:CT+iKuZ/
如水って嫌われるタイプの人間だよな
常に上から目線

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 18:30:43 ID:VvQB9qq6
これはそなたらの為にやっているのだぞw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 19:19:13 ID:mAEDSKF3
>>169
毒(毛利、長曾我部)をもって毒(島津)を制す

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/20(月) 21:18:27 ID:8AJVZYjN
官兵衛、こりゃ確かに嫌われて領地少なくしかもらえないわ

仙石秀久と長曽我部信親と十河存保・悪い話

2008年10月16日 10:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/12(火) 07:13:45 ID:0By7/lLV
四国で泥沼の争いをした長曽我部信親と十河存保
二人とも仙石秀久のせいで戸次川の戦いで戦死する
十河は九州仕置きの後改易
長曽我部は関ヶ原の後改易

でもそれから30年後に再び仙石と十河と長曽我部が共に味方として戦うときが来たんだな
十河存保の息子の十河存秀と仇敵長曽我部家の元大名長曽我部盛親
さらには憎き仙石秀久の次男仙石秀範

三人とも大阪の陣で大阪方について、そろって死んだ

人の縁の不思議な話



新納武蔵守忠元と遺体の返還・いい話

2008年10月15日 14:21

89 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/12/16(日) 23:36:36 ID:jW4n4EPS
島津家臣 新納武蔵守忠元
鬼武蔵と言われた猛将だが戸次川の戦いのさい敵将長曽我部信親を討ちとるが長曽我部の家臣谷忠澄が遺体の返還を願い出ると涙を流しその遺体を返還した
更に岡豊城まで僧を同行させた。




関連
信親の遺品
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3265.html