「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


スポンサーサイト

あまり有名でなく高尚でもない男であった

2017年05月29日 18:39

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/28(日) 19:44:53.16 ID:/C3l8YdE
筑前、筑後、および豊前の一部をほぼ支配下に置いた薩摩にとって、今やこの島全体の絶対君主になるために残るは
ただ豊後に進出するだけとなった。
そこで彼らは豊後の殿たちと交渉し、種々の約束と甘言をもって彼らを味方に引き入れようと奔走した。
豊後の嫡子(大友義統)は、この状況について連絡を受けると大いなる危機感に襲われた。
そしてこの恐怖から、彼は関白殿に強く救援を懇請した。
というのは、豊前で戦っている勢は豊後から遠く離れたところにおり、薩摩軍とはかけ離れた別の戦に従軍していて、
急速に有利な戦況は望むべくもなかった。

関白は天下の主となった後、信長時代の仲間であった仙石権兵衛と称する尾張の人物に讃岐国を与えた。
彼は、あまり有名でなく高尚でもない男であったが、決断力に富み独善的で、その他それに類した性格を備えていた。
ただし以前から優秀な武将として知られていた。

関白はこの人物に豊後を援けに行くにように命じた。
そしてさらに、二年前に征服した土佐国のセニョール・チョウスガミ(長宗我部元親)に対しても、
軍勢を率いて豊後の援助に赴くように命じた。
だが自らが出陣するまで、もしくは敵との合戦を伝達するまでは、敵と交戦するのを差し控えるようにと言いつけた。
それゆえ(彼らは)約二千名あまりの実戦の兵士しか伴って行かなかった。

(これらの軍勢)は府内の市で、嫡子および伯叔父なる(田原)親賢の軍勢と合流した。
(親賢)は、(去る日向の合戦で)何千という生命を失わせた最大の責任を負う身であったから、
豊後が破滅して後は、自分の城から外へは決して出ようとしなかった。

豊後の上長であるペドゥロ・ゴーメス師は、贈り物を携えさせて、(既述の)異教徒の新たな主将たちを府内に訪問せしめた。
彼らもまた後には学院に来て手厚くもてなされた。
とりわけ土佐の主将(長宗我部元親)は、要請があれば、司祭や教会を援助する用意があることを示した。
この主将の嗣子である息子(信親)は、一、二度我らの修道院で説教を聴聞し、説話をよく理解したらしく、
キリシタンになりたいとの希望を表明していたが、その数日後に戦死した。



上の話とは少し時間が前後するけど、同じくフロイス日本史から
仙石についてのフロイス評入りの話


子孫秋月氏と改称す。

2017年02月10日 14:09

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 23:28:32.86 ID:JuuVXvpS
吾が高麗町、土佐秋月氏併唐人街、今薩摩鮮俘、陶器を鬻(すきわい)とする事

 前編五十七に、朝鮮の役で法印公(松浦鎮信)がかの地の人を虜として帰陣された後、
その者達を一ヶ所に住ませて、諸臣が在城しているときの食事を調えさせた。
それを人呼んで高麗町ということを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10527.html

 この頃『征韓偉略』を見ると、
「此の役で、慶州の将朴好仁が来援して城に入て勇戦す。
城陥るに及んで囲を潰て走る。
(長宗我部)元親の兵、吉田政重が彼を捕らえ獲た。
翌年に及んで元親は土佐に帰る。
その良将たるを以て、これを遇るに賓客の礼を以てす。
その身を終ふ。子孫秋月氏と改称す。
その余俘を獲る所八十余人。元親はこれを憐れみ宅地を賜って居らしむ。
皆販売を業と為す。時に唐人街と称す。」

 これらは法印公のことと同じである。
ならばさぞ渡鮮の諸家には、これに類似したことがあるのだろう。

 後にまた聞いた。
今薩摩には
島津氏が朝鮮での戦からの帰陣のときの俘虜を住ませたという村がある。
よって今も鮮国の風を存じていて、
その村の者が皆有髪で陶器を造るのを生業としているとか。
きっと世で薩摩焼と称するものは、この朝鮮の子孫が作っているのだろう。

(甲子夜話三篇)

なぜ、秋月と名乗らせたのだろうか?



612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 09:24:29.95 ID:VHI4AhJD
秋の月が故郷の月と同じだった

石田三成、長曽我部

2016年08月10日 07:59

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 06:30:29.84 ID:KNtupSJv
石田三成、長曽我部

石田治部少輔三成は世では"みつなり"と唱えている。
しかしかつて三成に懇ろにしていた伊勢の一身田高田派の一向宗の寺
[この寺の名は忘れた。大寺である。今の上人は先帝の御弟で、奥方は津候の伯母である]
(※専修寺だそうです)
には、三成自筆の仮名文数通あり、皆"かずしげ"と書いてあった。
三を"かず"と訓じ、成を"しげ"と訓じていたのを、今は知る人もいない。
以上は津候の臣、藤堂主計、及び儒臣石川貞一郎の話である。

また津候の家に伝わる石田の仮名文一通にも、"かずしげ"と書いてあるという
津候の祖は三成と同時期の人であり、文通があってもおかしくないので、いよいよ世の誤りを知ることができる。

また長曽我部元親も、その時は"長曽かめ"と唱えていたと聞く。
長曽我部を仮名で"かめ"と書き、またはその四字に仮名をつけた書に、我部に"かめ"の傍書がある。
また拠るところでは、我部をそのころの書に亀と書いた物もあるという。
以上を朝川鼎が語った。

林述斎はこれに関して、以下の話をした。

今人の苗字も近頃唱え違いが多い。
増山は"ましやま"である。建部は"たけべ"である。
なのに人々は、"ますやま"、"たてべ"という。
この類はいかほども有る。松浦は"まつら"であるのに、世では"まつうら"という。

(甲子夜話)



968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:10:30.76 ID:1kSLhF/I
ワタベとワタナベ
ソガワとソゴウ

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:25:31.19 ID:GVKjmEBJ
>>967 三成が「かずしげ」?。うーん本当かな。

囲碁マンガで「ヒカルの碁」の中で、藤原佐為というのがいるが佐為=さい ではなく、
当時の読み方からいえば、「すけため」である、という説があった。音読みと訓読みと
当時の慣例により。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 07:29:35.77 ID:jh0yf/bh
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5177.html
これにも、「かつしげ」と読むとあるな

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 14:29:14.11 ID:BlSChZfX
>>967
この時代でさえわからなくなるんだから、まして現代ではなぁ。

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 16:23:02.25 ID:bEkGN4Oq
にしこりとにしきおり

長宗我部家督のこと

2016年05月14日 08:27

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 20:46:22.05 ID:SNQmTQv8
ある記録によると、豊臣秀吉在世の頃、長宗我部元親は京より帰国し、一門衆・家老を集めて言った

「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてから、未だ家督をだれに継がせるべきか定めていなかった。
しかし私も高齢となったので、信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、彼を家督に立てようと考えているが、
お前たちはどう思うか?」

一座の人々は盛親が不肖であることを知っていたが、あえて返答する者はいなかった。
しかし、元親の婿である吉良親実が進み出て

「信親様のご息女を右衛門太郎殿の奥方として、跡継ぎとされるというのは、御嫡子の筋目が立つに
似たりと雖も、三男の津野孫次郎(親忠)殿は既に秀吉公にも見知り置かれ、御器量も優れておりますから、
津野氏の家を誰か別の者に御相続おおせ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられるのが宜しいと
考えます。」

しかし元親はこれを聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、即ち家長久の基となるのだ!」
そう、いかにも不機嫌そうに反論した。

それでも親実は重ねて
「私は両者何れにも親疎があるわけではありません。私がこの様に申し上げるのは、国家静謐の基を
固く定めたく思っているからです!」

家老の比江山掃部助親興も最前よりこの座に在って控えていたが、進み出て
「只今、吉良氏の仰せられたことは、誰かのためというような依怙の沙汰ではありません。
御家繁盛、子孫長久を祈る良策であります。ですので、是非ともご了承なさるべきです!」

だが、元親は怒りの顔色にて、一言も発せず座を立ち奥へと入り、その日の談合は終わった。

しかし佞臣たちが元親の傍にあり、親実、親興の両人の事を様々に讒言したことで、終に
天正16年10月14日、比江山親興に切腹申し付けられた。吉良親実もこれを聞き、同じく
切腹したと言う。
以後は誰一人元親を諌める者無く、思いのままに盛親を家督に立てた。

(新東鑑)



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:19:35.34 ID:MAGd5jI6
一方武田では…

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 07:51:32.09 ID:Qzbcp+k7
叔姪婚には特に反対はしないんだ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 08:07:45.90 ID:lMYQd5Fe
兄貴たちが死んでしまった表裏さんみたいに、一度別家に入った人間が家督を継ぐのは異例だと思うんだけど、盛親ってそんなに評判良くなかったのかな

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:12:04.97 ID:b93BGPM7
改易されてしまった人を良いように書くわけにはいかんだろ

長宗我部国親の死

2015年01月23日 18:51

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:11:47.26 ID:AyTRGkqD
長宗我部国親が病の身を押して本山氏の浦戸城を落とした後のこと

さる程に覚世(長宗我部国親)は、岡豊に帰りなさって、種々の医療をされたが、針灸調剤の術も絶えて、
既に臨終に及んだので、弥三郎(長宗我部元親)を呼び、
「我は病で命が今に迫っている。本山は怨敵の張本なので、報酬の志深いといえども、時至らずして過ぎ去ってしまった。
そうであるので今度彼が領内に入って一戦に打ち勝ち、三つの城を乗っ取ること、生前の本望、死後の思い出である。
なので我が為には、本山を討つより外に供養なし。我が死んだら、十七日の間は、世法に従って、汝が心に任せよう。
それが過ぎたら、喪服を脱いで甲冑に換えて、軍議に専念しろ。この旨を堅く心得よ。」
と言って、永禄三年六月十五日,、五十七歳で、遂に卒去しなさった。
逃れられない別れで悲しいけれども、そのままであるべきではないと、岡豊の東北、千歳山謙序寺に葬った。
こうして元親は、十七日の作善、心の如く執り行い、悲涙が未だ乾かないといえど、亡父の遺言に任せて、吉良退治の評議をなされた。
(土佐物語)

「討つことだけが供養」と言われる程,本山さん恨まれてたんですね



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 14:01:56.78 ID:otEkF0KP
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:14:53.45 ID:vDZk8E/v
異説もあるみたいだけど親爺さんは本山に討たれてるもんね

本山って元から吉良氏なのかね
それとも三木姉小路のように、吉良を滅ぼして名跡を継いだのかな

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:24:14.07 ID:SuH6zLUr
こんな遺言うっかり脳筋に残したら逆に家滅ぼしかねない

雑談・長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見

2014年06月24日 18:55

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 22:00:57.33 ID:0IYqdZvg
長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見、本能寺直前
ttp://www.47news.jp/CN/201406/CN2014062301002133.html

これでますます光秀の動機が分からなくなったで

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 22:13:24.79 ID:90rTUygq
元親は光秀経由で信長の軍門に降ろうとしたけど、
光秀は手に入れた情報を信長に伝えることで油断を誘い、
ついにアーチーアーチーと言わせることに成功したというわけだな。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 22:15:55.66 ID:ObbiBE9u
裏切りなんて、相手が裏切りを予想していない時でないと成功しないわけで
理由について議論になるのは当たり前と言えなくもない

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/23(月) 22:41:38.97 ID:+NCEOwia
http://www.hayashibara.co.jp/press.php?id=392
内容まとめた本をみんな大好き吉川弘文館から出版するそうだ

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 07:15:00.05 ID:gH2wnzty
誰かの陰謀とかではなく、光秀の厨二病だったのかねえ。魔王信長を討ったぞー、わしに従えー、あ、あれ?みたいな感じか。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 07:52:52.18 ID:onu520G7
元親の時間稼ぎだったのか?それとも本心だったのか?いや仮にそうだったとしても信長が認めるわけないよな
はぁふざけんなマジで、って光秀を折檻したんだろ
晩年になると人は狂暴と化す、秀吉がよい例

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 10:30:28.79 ID:MbN2x83R
戦国時代の武将の行動理念を厨二病とか言っちゃう人って…

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 11:31:11.39 ID:/MOH7K/3
ボケてなくてももともとDQNもいるわけで

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 12:19:08.62 ID:gAl9BQsI
『人間個人にキャラクターなどない(無我)』と言うのが仏教

『人間個人にはそれぞれに本当のキャラクターがある(真我)』と言うのがヒンドゥー教

って理解で合ってる?

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 15:07:20.72 ID:5OIMYWta
>>208
板違い

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 16:36:53.78 ID:8UIVMbnp
長宗我部が恭順したのにノブが殺せと言い張るから光秀が板ばさみになってストレスで狂った説もあったな

笹ヶ峠の合戦

2014年06月04日 18:51

440 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/03(火) 21:37:05.61 ID:qswNWPmO
河野家の家来、大除城主大野直昌の弟に大野直之という者がいた。

直之は菅田城を守っていたが、長曽我部元親と通じ河野家に叛いた。
しかし謀叛は失敗し、降参。直之は小田町で具足5両分(300石)の地を与えられ、兄直昌に厳しく監視されることとなった。
しかし直之はこの処置を不服として、妻子を連れ長曽我部を頼って逐電した。

あくる年(天正2年)長曽我部元親から大除城に西村左近という使者がやってきた。

元親「先年、我らを頼ってきた直之ですが謀叛を悔やんでおり、貴殿を頼って詫び言を申したいそうです。どうか私に河野家へ帰還の仲介をさせてください。」

この申し出に直昌は大変喜び、元親の計らいに感謝した。
そして使者は往復し、再度大除城にやってきた。

元親「このたび兄弟が和睦したのは大変喜ばしいことです。今月下旬に直之をつれて行きますので、国境で引き合わせます。隣国同士の申し合わせなどもしたく思いますので、私も伺います。」

と申し出があり、国境の笹ヶ峠で会見することとなった。
しかし、これは罠だった。

天正2年甲戌8月25日、両方共に御出馬有り。
長宗我部元親は直之を伴って三ツ石の峠に、大野直昌はそれより50町ばかり離れた秋望田まで出向き、互いに礼儀の使者を向かわせた後に会見の場まで進んだ。
元親はこの時、童子ヶ成の茂みに伏兵を置いていた。伏兵は大野勢が間近くなると、どっと鬨の声をあげて襲いかかった。
思いもよらぬ奇襲に大野勢は混乱したが、大野直昌は士卒を制し

直昌「きたなし元親!尋常の合戦では勝ち目がないと思い、だまし討ちとは愚か者め!」

と、秋望田の軍勢と合流し戦ったが、大野勢は素肌に裃という出で立ちだったため立ち直すことは難しく、瞬く間に300人も討ち取られ手負いも多数。
中でも直昌の弟、大野九郎兵衛、東筑前守城戸六郎、土居下野守をはじめとして嘉土・樋口・林・安持・荒川・近沢などの侍大将や物頭70余人は乱戦の中で悉く討死を遂げた。直昌の秘蔵の少姓船草民丸、梅木弥九郎丸も討死した。
長宗我部勢は家老の長野信濃ノ守兄弟が前備えで討死。 寺町右近をはじめ70余人討死、元親の長男弥三郎信親、三男津野弥次郎が手傷を負うなど激戦だった。
大野勢の尾首掃部、尾崎丹後守、土居式部、日野九郎左衛門の四人が敵を食い止めたため、直昌らは妙見ヶ森まで退却することができた。

その夜、大野勢が戦に疲れ果て休んでいると、近江守直好に北極星が語りかけてきた。

北極星「私は国常立尊なり。今から夜襲したら勝てるぞ。」

夢か現か。直好は驚いて直昌に告げると、直昌は大いに喜んで、すぐさま夜襲を仕掛けた。
一方そのころ、長曽我部の陣では、夜明けと共に大野勢に攻めかかろうと軍議をしていた所、大野勢が襲いかかってきたため大混乱に陥った。
まともな応戦もできず、討ち取られる者数知れず。
しかし元親は心剛の大将だったので、ひしひしと物具をかため、士卒を励まし戦ったが、ついに甫見江坂の東まで五十町ばかり退却し、勝敗は決した。
大野勢は小勢だったため、深追いは避け引き返した。
勝ったとはいえ、大野勢の被害は甚大で散々の体だった。

この戦いを笹ヶ峠の合戦といい、以後この地を大野ヶ原と呼ぶようになった。


442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:07:38.94 ID:ujeKQBOe
長宗我部の西伊予攻めの被害は凄まじいな
わざわざ攻める必要があったの?黒瀬を抑えるだけでよかったのでは

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:35:59.73 ID:hHdCeLBU
長宗我部滅亡の遠因だもんな
久武さんさえ生きてれば…

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/03(火) 23:57:21.60 ID:TcYRoZn5
出典何これ
伊予でこんな戦いあったなんて知らないんだけど

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:09:45.84 ID:suBP2CaS
家譜かなんかに記述あるだけで一次資料がないから
未だに実在したと確定されてない戦いじゃなかったか

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:20:22.81 ID:MGbcUGbX
戦国無双4でまんまと色仕掛けに騙された兄弟>大野兄弟
にもこんな勇壮な話が、と思ったら確定してないのか

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 00:26:49.72 ID:Ko1WAuGx
出典は知らんが家紋のサイトには載ってるな

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/04(水) 11:38:42.48 ID:K/FU7+o2
笹が峠の合戦のことは
大野家四十八家次第、伊豫温故禄、予陽河野家譜などに載ってます

史実かどうかは・・・

親実派の怨霊

2014年04月26日 18:49

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 04:25:13.55 ID:iOXbuZnl
親実派の怨霊

天正16年10月、長宗我部元親の怒りを受けて吉良親実が小高坂で切腹をした

この夜親実は小高坂の下村某という侍の家で碁を打っていた
すると元親の使いという者が現われ「殿(元親)の命である。今宵腹を召されよ。我等が検分と報告を承った」
と親実に主命である事を告げた

親実は打ちかけの碁石を置くと
「私は殿(元親)が過っている時には諫め正すのが務めであった。だが心無き者らが殿を誤らせ、
この私を殺そうとしている。長宗我部家もこれまでか」と腹を切り、腸を掴み出した処で首を落とされた

しかし元親の怒りは親実の切腹だけでは収まらなかった

数日の間に親実と親交深かった者や親実の旧臣ら七人が主命の下に続けて弑された



それからしばらくの事
小高坂や親実の墓の辺りに夜毎に人霊が現われるようになった

また小高坂では首のない侍が白馬に乗る様や、僧形の巨人が闇夜を歩き回る姿が目撃された

物の怪を見た者は日を置かずに高熱に犯され、いたるところで大病人や変死者が続出した

親実の処刑を元親に讒言したとされる久武親信の家にも変事が続き
八人の子が次つぎに発狂して七人までが死に、親信の妻も悲嘆のあまりに自害をして果てた

人々はこれを罪なく命を奪われた親実派の怨霊の業だと囁きあった

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 04:45:48.00 ID:iOXbuZnl
まとめの

吉良親実と「七人ミサキ」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2288.html

久武親直の讒言と吉良左京進親実の祟り
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2370.html

とは微妙に異なる話

他に怨霊を恐れた元親が親実の葬儀を行ったところ
親実と家臣らの位牌が踊り出したり宙を舞ったり、
空から親実らの笑い声が聞こえてきたりする逸話などが複数ある模様




96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 07:13:02.49 ID:pYbjAHw+
久武が悪く書かれ過ぎだな
実際は元親の更年期障害が原因だというのに
悪者は主君ではなくいつもお側にいる忠臣

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 10:06:08.32 ID:AFZuOKes
えっ、親直じゃ無くって親信なのか?

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 11:12:52.59 ID:iOXbuZnl
>>97
うん。大高坂←→小高坂とか、讒言の内容も甥・姪の婚姻は不吉だとか盛親への家督相続は
長幼の序に逆らうだとか、久武と吉良の善悪の扱いが異なったり、吉良が掃討されなきゃいけない程
家中で強い権力をもってたとか、
吉良の墓は土まんじゅうに塔婆を立てた粗末なもので柵で隔離されてたとか、位牌が7~8並んで行進したとか、
関連人物名が違うとか

派生型がそこそこ出てくる

万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴

2014年04月11日 18:54

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 18:44:29.57 ID:bHuZaDVA
長宗我部元親はかねてより秀吉公の御成(おなり)を願い
その準備に二・三年をかける程であり
金銀珠玉を費やしたその普請の結構な事、言うことなしであった。
さて既に普請も完了し、御成の日時も決定した所に
どうして誤ったのであろう、御門の寸法が低く、御車の出入りができないとわかった。
これを聞いた元親、大いに怒られたが、余日もなかったので
俄に白木にて御門を建てた。
始めの門は毀ち置かれたが、元親卒去の後、土州吾川郡長濱に菩提寺を建てた際
これを流用し今もあると聞いている。
(土佐物語)

万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴、という逸話。
ちなみに慶長元年4月に秀吉は元親伏見邸に無事御成となり
以下の超豪華メンバーが一同に揃いました。
江戸大納言、筑前中納言、加賀中納言、安芸宰相、大野宰相、越中宰相
結城少将、若狭侍従、郡山侍従、伊賀侍従、吉川侍従、出羽侍従
大崎侍従、安房侍従などなど。




948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 10:55:33.78 ID:cleLH+iX
>>943
えっと、ラスボスと随行が家康・隆景・利家・秀元・信雄・忠興・秀康・木下勝俊
秀保・筒井定次・吉川広家・(´・ω・`)・正宗・里見義康
こんなメンバーの中で恥かいたら....

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 12:00:38.42 ID:vY3+eKpC
そらもう金の十字架よ

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 13:47:17.37 ID:kYjoAw2H
大崎侍従にいじられる

西内喜兵衛、大いに笑って

2014年03月01日 18:45

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:14:28.54 ID:E46mrwC0
西内喜兵衛という者は国中武辺の強力(ごうりき)であった。
長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。

さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。

「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。




491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:51:53.20 ID:pUH9TpJ/
>さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////


虎の爪

2014年02月27日 19:09

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:16:14.48 ID:aiM0GJBc
長曾我部元親が朝鮮の唐島という所に在陣した時の話である。

この頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。

ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:18:59.16 ID:aiM0GJBc
虎は七三郎を打ち捨てて、市左衛門の首にただ一口に食らいついたが
かたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。

さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。

「土佐物語」
[2/2]




466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 19:21:47.80 ID:V1cIhpSV
朝鮮てなんか動物しか存在しないサファリランドだな。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 21:00:26.04 ID:xt96hlO6
>>464
朝鮮どんだけ虎の楽園なんだよ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:21:40.32 ID:egPFUAPb
>>464
朝鮮武勇伝ネタで虎じゃないのはないのか?w

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:24:07.37 ID:B1JE84mz
加藤清正の家臣が虎を退治して苗字が「金玉」になったり
虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:31:53.98 ID:Zhf3pNOF
敵兵がそれほど強くなかった分、虎退治がより大きく扱われてるのもあるな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 01:05:34.78 ID:onJgSEDK
虎がいるのに平然と昼寝するジミー加藤の虎逸話もあるね

長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

2014年02月23日 18:59

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:06:06.55 ID:GO9A0zPx
長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。

「土佐物語」

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:45:31.03 ID:f27vMd/J
コブラみたいなガラガラヘビの大きなやつかな?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 22:39:05.06 ID:QphLMAUJ
朝鮮に渡った諸将が散歩で遭遇するのは虎といにしえから決まっている

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:14:10.77 ID:U2GCbk1u
耳のあるヘビ?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:33:22.46 ID:cWrDbmU5
コブラの腹の広くなってるところじゃね?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:24:31.29 ID:vrRx5zHc
コブラは熱帯の生物だから、半島じゃ寒すぎないかな?

図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:39:48.99 ID:3rGzu6Jd
落ちてた鱗はおそらく目の鱗だろうな。
現存してるのかな?

俵兵衛の鉄砲

2014年02月21日 20:41

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:04:23.94 ID:VVpA5cFN
文禄元年、朝鮮陣の頃の話しである。
壱岐島の海辺に福島左衛門大夫正則、戸田民部少補氏繁、蜂須賀阿波守家政、生駒雅楽頭近世、長宗我部宮内少補元親の五大将が集まり
対馬への渡海について詮議していた。

この時、沖の方で鳥が飛び回っているのが見えたので
正則が「昔、本間孫四郎(南北朝期の武士)は沖の鳥を敵船へ射落としたそうだ。当世ではいかがであろう?」
と言ったところ、元親が「近代は昔と違い、弓の射手は少なくなりました。
しかし鉄砲ならば昔の射手に劣らぬ者がおりましょう」と答えた。

正則これを聞き「土佐の士には鉄砲の名人ありと伝え聞いています。いずれかを召して
あの鳥を撃たせて見せてくださいませんか?」と言い出した。
元親は「家中に鉄砲を撃つ者は数多いが、飛んでいる鳥を撃てる程の者は知りません」と断ったが
正則が「いやいや、たとえ外れたとしても苦しからず、ただ慰みに撃たせてみせてください」と重ねて言うので
元親はそれならば、と足軽の俵兵衛を呼び、あの鳥を撃ち落とせる者を呼んで来いと命じた。

すると俵兵衛「わざわざ人を呼ぶまでもありません。私にお命じ下さい。
常日頃飛ぶ鳥を撃っているので、あの程度の鳥ならば必ず仕留めます」と申し上げた。
元親は打ち笑い「諸将の前を憚らぬその心意気や良し、たとえ撃ち外したとしても恥辱にはあらず。やってみろ」と
命じた。
四人の大将を始めとして、その下の諸士がみな集まり見物となったので、これ以上の晴れがましさはなかったが
元親はもし外れたのならば恥辱とはならずとも、場が白ける事は必至であると内心穏やかではなかった。
                                                (1/2)

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:05:38.15 ID:VVpA5cFN
さて、俵兵衛が飛び回る鳥を狙いを定め打つと、寸分の狂いもなく鳥の体の真ん中に当たり、白毛がばっと散り
沖の方の岩の上へと落ちていった。
大将を始め、皆一同に「やや!撃ち落としたぞ!」と叫び、その賞賛はしばらく鳴りやまなかった。
されば間(距離)を打たせるべしと縄を張らせたところ、おおよそ五十八間であった。

正則は感極まり、昔の那須与一にも劣るべからずとして着ていた羽織を俵兵衛に賜ったので
残り三人の大将もこれにならって羽織を下された。
元親も悦に堪えず、また諸将への返礼なればとして俵兵衛をその場で士分に取り立て
太刀一腰を与えたので、当家他家の面々でこれを羨ましく思わないものはいなかった。

「土佐物語」 (2/2)




426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 17:36:03.92 ID:xCa6m9ns
酔ってなくても気前のよい正則

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 19:37:09.59 ID:3Cg7k0Cq
飛ぶ鳥を落とす勢いの出世だな

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 12:20:21.36 ID:1dTZhzw9
100m越の狙撃とかすっごいやん!

福富親政、朝鮮役にて

2013年05月25日 19:45

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:36:01.66 ID:W44iJUNB
文禄元年(1592)、その頃私は福富七郎兵衛と名乗り、17歳でした。

高麗陣にて12月5日、長宗我部元親公はこう仰られました
「二手か三手を出撃させ、5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
鼻を削いで御帳に記録せよ。但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように。
もしこの暮六つ迄に帰って来なければ、例え敵の鼻を削いで来たとしても、必ず罰を申し付けるであろう。」
この様に固く仰せ付けられました。私はその時、久武内蔵助の組におりました。一組は16人で
構成されていました。

我々は八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出ました。御本陣は組川(ソセン)という場所に
ありましたが、そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

向うは我らの軍勢を見ると、急ぎ逃げ出しました。我々はそれを追いかけましたが、彼らは松林の中に
逃げ込み、そして唐人たちの姿は一人も見えなくなりました。
我々は皆馬から降り松林の中を探索すると、松林の奥に穴があり、唐人たちはどうも、そこに逃げ込んだ
様子でした。そのため我々は、穴の中を狙って鉄砲を何発も撃ちこみましたが、当たったのか
当たらなかったのか、まるで解りませんでした。

この時廣井嘉右衛門という者が、「唐人を穴に追い込んだのに討ち捨てることも出来ずに帰ってしまえば、
後日、我々への批判はどれほどのものに成るだろうか。とにかく、この穴に入って唐人を探し出そう。」
と言い出しました。
穴の入り口は狭く具足姿では入れそうになかったので、具足を脱いで脇差だけの武装が良いと、皆
支度をしていた所、私が召し使っていた久右衛門と言う者が、私にこのように囁きました。

「今こそ手柄を立てる時です!この穴に一番に入るのです!」

私はそれを聞いて「尤もなことだ」と思い、一番に穴の中に入った所、廣井嘉右衛門が後から入ってきて、
私の帯を掴み、穴から引っ張りだそうとしました。
しかし久武久右衛門と言う者が廣井に、「七郎兵衛は若輩者の志で先に入ったのに、お主が
そのようなやり方で、例え功を稼いだとしても、我々は後日の詮議で、一番は七郎兵衛であったと
証言するぞ!」と申し立てたため、廣井も私の帯を放しました。

こうして先頭が私、2番が廣井嘉右衛門、3番が久武久右衛門という順番で穴に入りました。
その他にこの穴に入ろうというものは、一人もおりませんでした。
穴の中で廣井から、「脇差を抜いて手に持っておけ」と言われ、私も尤もなことだと思い、脇差を抜いて
手に持ち、穴の中を進みました。

穴の入り口は狭かったのですが、奥に行くにつれて広くなり、12,3間もありました。
半ばで地面が盛り上がっており、これでは穴の口から撃った鉄砲など、当たるはずも有りません。

奥に隠れていた唐人たちを発見しましたが、彼らは日本人の鉄砲を恐れていたため、立ち向かってくること無く、
我々の姿を見るや、全員残らず抜け穴から逃げ出しました。しかし穴の外に残った者達が、
それを残らず召し捕りました。
この唐人たちは全部で17人。私達は彼らを斬首し、その上で鼻を削ぎ、穴に入った3人で分けました。
私は鼻7つ、廣井嘉右衛門は鼻6つ、久武久右衛門は4つを手にしました。

そうして本陣に帰ったのですが、時間は既に、夜の九ツ(午後11時頃)を過ぎていました。
これは先の軍法に違反しているということで、特に穴に入った3人には、切腹を申し付けると決定し、
私はその覚悟をしました。

所がそれから3日目に元親公の御意にて、「国元から100人ほどしか高麗に召し連れておらず、
その内では切腹する3人も含めて、10人と言えども大切である。よって今回は助けてやる。」と仰られ、
この旨は出頭人の中内勝助と申される方より発表されました。
そして翌12月9日、私たちは元親公にお目見えを許されました。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部軍の一兵卒から見た、朝鮮の役での一コマである。





702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:46:32.33 ID:8QWdfP/d
「おいでませ野間 歓迎 源義朝公」

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 23:05:36.90 ID:w32lz4E7
福留とか久武とか長宗我部の重臣格の一族名だな

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:40:06.31 ID:Ihe91kgD
>>701
>5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
>但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように
>八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出
>そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

4時間で20km行って戦闘して20km帰って来るの?(´・ω・`)

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:47:52.61 ID:zUSlV+Tv
>>705
八ツ時分が、午後1時ではなく、午前1時~3時の方ではないだろうか?

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:57:07.19 ID:TxFi1cNb
超スケベの一里も4kmでええのんけ?

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 00:44:33.30 ID:HTBPF3WR
一里が約4km定められたのは江戸時代で戦国期の一里は1kmなかったって聞くけど?

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 01:08:17.62 ID:/WDr3SNv
中国だと、一里500mだったってのはよく聞くね


福富隼人と、その兄弟

2013年05月24日 19:52

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 20:06:08.91 ID:knNTMBy/
天正14年(1586)、長宗我部元親公の御嫡男である信親公は、豊後の大友が島津に攻められているのを
助けるため、長宗我部や仙石が加勢いたし合戦となり、ここで討死されました。

私の父である福富隼人は長宗我部家に仕えており、この合戦の後、長宗我部が再び九州に出陣した時に
先手を仰せ付けられ、天正14年9月21日、38歳にて討死いたしました。
その合戦の名は豊後府内陣と申します。また、筑紫陣とも呼ばれているそうです。

我が父隼人は討ち死にするまで数度にわたって名を上げる働きを致しましたが、
それらの事については、長くなるので省略します。

こうして私は、幼少(11歳)で父と離れました。

父・隼人は長男でした。
次男の民部は、豊後府内陣において兄隼人と共に、35歳で討ち死にしました。
三男の平兵衛は、伊予南表の大津という所で合戦が有った時、深手を負い、帰陣後30歳で亡くなりました。
四男の新六郎は、阿波国での勝端合戦で、26歳で討ち死にしました。
五男の新九郎も、新六郎と同じく勝端合戦で、20歳で討ち死にしました。

(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部元親が土佐の出来人として成長する裏での、巨大な犠牲の一端が垣間見られる、
福富隼人とその兄弟の戦死についての証言である。





谷忠兵衛忠澄の事

2013年05月21日 19:50

谷忠澄   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。

谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。

しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。

それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。

忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。

忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。

この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。

同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。

豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。

この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)





竹内弥藤次の妻

2013年04月08日 19:53

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 06:39:43.13 ID:kIdZmlHW
長宗我部元親の家臣である久武内蔵助は、伊予国宇和郡の岡本城そ攻略する計略を立て、
この合戦には、侍大将の竹ノ内虎之助、およびその娘婿である弥藤次も一騎当千の侍20人、
小者20人と共に参戦した。

この戦いは不意打ちにより本丸の奪取に成功したものの、竹内虎之助・弥藤次父子は重症を負い、
さらに長宗我部軍は西の丸を確保できず反撃を受け、結果本丸も追い出され攻略に失敗。
久武内蔵助をはじめ佐竹太郎兵衛、山内外記といった3人も討ち取られ、大勢の兵も討たれる大敗を喫した。

敗戦の5日後、土佐の竹内の在所では、『岡本城では、竹内虎之助・弥藤次父子も含め
一人残らず討ち死にをした。』との風聞が流れた。

この時、弥藤次の妻は13歳であったが、「父も夫も討死したのであれば、同前に果てる」と
書き置きし、守り刀にて喉笛を掻っ切って死んだ。

そんな中、虎之助と弥藤次は伊予で傷を直し帰還した。そして妻の自害を知った弥藤次は、
嘆きのあまり切腹しようとした。

しかし虎之助は弥藤次を止めて、言った
「お前は私の甥であり、聟である!そして私にはお前の他にもはや、苗字の一類はおらぬのだ!
お前が死んだからといって、私の娘が帰ってくるわけではない。娘の後世の助けになるという
わけでもない。

そして、我が家も絶え、君にも不忠となる。

どうか、思いとどまってほしい。」

弥藤次はこの理に服し、切腹を止めた。
そして虎之助は知行を弥藤次に譲り、弥藤次は後に竹内玄蕃と名乗った。

虎之助は隠居料を取って、佐竹という城の番頭を勤めた。
(長元物語)





203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 20:44:48.26 ID:OoOODWD4
>>201
戦国時代だけじゃないけど、訃報を信じて殉じちゃう例って案外あるよな。
13歳とは何とも哀れだ。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 21:08:05.15 ID:Y9Ukvved
フィクションだけどジュリエットを思い出した。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 21:53:26.70 ID:qvHDiQxr
>>201
そりゃ殉死連鎖で一族絶えたら洒落にならん

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 11:05:11.58 ID:W0KcGvTL
>>203
白虎隊とかw

207 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/09(火) 19:23:54.65 ID:bYfOHI31
戦国白虎隊

一領具足の提言

2013年04月02日 19:54

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/02(火) 14:09:33.92 ID:vwvdjhzB
長宗我部元親が阿波から帰陣し、家老や城持ちの重臣を召して座敷に集め置かれた。
この時一領具足の武功者たちも10人ばかり召しだされ、これは別の座敷に置かれた。
この両方に元親より仰せ下された内容は

『阿波の攻略がはかどっていない。そこで、なにか良い計略があれば申し出てほしい』

という物であった。家老城持ち衆が申し上げたことは

「阿波の府中の付近は山もなく、長駆して攻撃に向かっても、陣取りが大変難しいと思われます。
その上三好も、未だ阿波半国の大将であり、多くの軍勢を保持しております。
ここはすでに確保した山間部の近辺から、毎年出撃し秋ごとに稲をなぎ倒し、敵の下々を
疲弊させるべきです。そうすれば謀反人も、降参する人間も出てくるでしょう。」

一方、一領具足の者達はこう申し上げた

「我々は早急に阿波を攻略せねばなりません。そうしないと阿波どころか、この土佐本国すら
三好家に取られてしまうからです。何故なら、三好笑巌(康長)は河内の国の半国を知行して
いますが、彼の養子は羽柴筑前守殿(秀吉)の甥(後の秀次)であります。
であれば、筑前守殿に加勢されて笑巌が阿波に渡れば、さほどもかからず三好正安(十河存保)を
討ち果たし、阿波国を残りなく取ってしまわれるでしょう。

決断するのはこの時です!(御分別此時ト言上ス)」

元親は「一領具足の申し様、誠にもって神妙である。では具体的な作戦内容を申してみよ」
と再び尋ねた。

一領具足どもは畏れながら申し上げる

「三好正安の居城の勝端8里隔てた、土佐からの大道筋の抑えの城、一之宮、夷山がありますが、
この間に大道があります。ここを押えて人数をおき、出撃して勝端から3里こちら側の、
中富川までご出馬されたなら、「少人数にて長距離を出撃してきた、これ幸い」と、三好正安自身が
これを討つため出撃してくるでしょう。この時に正安を討ち果たす事が可能だと考えます。」

この一領具足というのは、他家において馬廻分ほどの侍である。
(長元物語)

一領具足による阿波攻略作戦の提言、という逸話である。




901 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/02(火) 19:37:19.41 ID:ASLUBERs
これ結構有名な話だよな?

長宗我部家の61人

2013年03月30日 19:54

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 13:45:26.91 ID:iE0N7KTB
長宗我部元親が逝去した時、御世継ぎであった盛親は、土佐国中の長宗我部直臣の武士の
リストを作り、その中でも元親の覚え優れた者は、特に書き付けて報告するように、と
仰せ付けられた。

これにより久武内蔵介は国中の在地を廻り、村々に在住する小身の侍で、年齢10歳以上を
帳面に書き付けた。
この結果、長宗我部の直臣の武士は老若合わせて9,736人。そのうち元親の覚え優れたものは
61人であった。

この61人の中には、槍働きもなく首も取った事もないのに入ったものも有り、逆に
細々とした合戦で5つ3つの首を取っていても61人の中に入らないものもあった。
それは何故かといえば、こんな仔細が有った。

勝ち戦の時は、ただ首を取れば手柄になるわけではない。功者衆集まり証拠を正し、
しかも証拠が紛れもなくても、証人によって正義の立つことも立たないこともある。

61人の選定は厳重な吟味が行われた。
数年の合戦で首一つを取っただけでも、その首が名の有る侍であるか、又取り難い所で首を取り
朋輩衆に誉れを立てれば、この書き立て中に入った。

首も取らず槍も使わずに書き立てに入るものも有ったが、このような人々は、
懸るべき所で懸り、引くべき所で引く、この判断に優れ的確に部隊を指揮出来る者達である。
このような人は一騎当千と云うべきである。

この調査で槍の武勇は特に入念に調査され、相掛りの槍は書き付けに入れられた。

長宗我部元親が四国において、20年にわたって打ち続いた弓矢の事を、支えた家中を
今回改めて調査し、特に書き付けた老若61人について、このような経緯で選定されたのである。
(長元物語)




872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:16:31.15 ID:WF4EIqSf
直臣だけでほぼ1万とは随分多いな
隠居や部屋住みまで含んでるんだろうけど

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:56:59.07 ID:awDEIkUt
徳川の旗本八幡機ってどんな機体だったんだろうな

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 16:00:07.15 ID:xblWz0i5
そういや徳川の旗本でも5千人くらいだっけか
まあ御家人が倍以上いるだろうけど…

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 16:09:09.26 ID:pie1/wct
勝った兵法が正しい兵法
残念ながら間違いない