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長宗我部元親の家臣、田中新右衛門の話

2022年06月12日 14:08

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/11(土) 18:36:07.05 ID:E6KPR8lH
「朝野雑載」から長宗我部元親の家臣、田中新右衛門の話

田中新右衛門がいうことには
「我は無筆である。
「臆病」という字をある僧に尋ねたところ、「胸のやまい」と言われた。
これほど尤もな字はあるまい。
戦に臨んで吐く者がいるが、これは胸にその持病があるためだろうか。
臆病は船酔いと同じことである。
舟に乗る時、胸に灸を据え、鼻に橘の皮をさしこめば、小波の時は酔わず、大波の時は胸の内がこみあげて吐いてしまう。
誰でも常の時は、武を嗜もうがみっともない振る舞いなどしない。
苦戦する時は、生まれついての胸のやまいが起こり、心が迷い、義理も外聞も捨ててしまうのだ。」



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一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語

2022年04月24日 15:51

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:51:27.66 ID:5fJXLANX
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6484.html
天正二年、一条康政(たぶん兼定を勘違い)は

上記の話は「大友興廃記」では一条康政(兼定)暗殺の次に出ているが、古今の例については省略されているのでそこも含めて投稿

大友興廃記」より
一条殿藤の奇特 附・飛梅 并・紫珊瑚の物語

一条康政公(兼定)の家滅びて、天正二年甲戌に豊後国に渡海なさった。
御館を出立なさるときに、年来秘蔵の藤に暇乞いのために門前から戻り、馬の鞭で藤の糸を撫で上げなさって
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と遊ばれたあと渡海なさった。
そののち、長宗我部元親が一条殿御自愛の藤を見ようと前述の御所に立ち入ったが、この藤は一房も咲いてなかった。
人々が不審がっていると、蜷川新右衛門尉の末裔で道馮(蜷川親長、道標)という人が元親のそばにいたが
道馮「康政はこの藤に名残を惜しんで
「植えおきし 池の藤波 心あらば 今年ばかりは 咲くな匂うな」
と詠んだそうなので、もしかするとそのためではないでしょうか」
と申したところ
元親「上代はともかく、今の末代でそのような奇特もなかろう」と同意しなかった。

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:53:24.81 ID:5fJXLANX
道馮「それはそうですが、上代に咲く花は末代にも咲くのは道理です。
草木も春は花咲き、夏は繁り、秋は実り、冬は枯れるでしょう。
このように天地のいぶきが中より出るため、花には仏性があるといえるのです。
すべてのものは天理をそなえているのですから、この藤にも心があって、歌の心を天理の性に受けたのでしょう。
その昔、天神(菅原道真公)が筑紫に左遷された時、御跡を慕って梅は飛び、桜は名残を惜しんで枯れたところ
菅相公が不思議がり、哀れに思い
「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に なにとて松の つれなかるらん」
と詠まれたところ松も飛び参って、今の世までも「飛梅」「追い松」と名を残しています。
また上野岑雄(かんつけのみねお)という人は、別れを嘆き、なれ親しんだ桜の木に対して
「ふか草の 野辺に桜し 心あらば この春ばかり 墨染めに咲け」
と詠んだところ、草木に心はないと世の人は言いますが、ものの哀れを知って墨染めに咲いたと承っております。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 21:55:09.45 ID:5fJXLANX
また異国でもそのようなことがあります。
田真・田慶・田広(以下「二十四孝」に収められている話。酈食其を煮殺した田広とは別人)という三兄弟がいました。
父の死後、父親の愛した紫珊瑚(花蘇芳)という木を三つに切って形見分けしようとしたところ、木は枯れてしまいました。
三人が「これからは鼎に囲んで見よう」と言ったところ蘇って元の色になり盛んに咲いたということです。
また摩頂松ということがあります。
玄奘法師(三蔵法師)が西域に行く時、霊巌寺の松を撫でていうには
「吾西に去らば汝も西に長ずべし。吾帰らばすなわち東へ向かえ」と約束しました。
はたしてのちに松はたちまち東に向かったため、玄奘の弟子はこれを見て師の帰還を知ったと言います。
康政も「ことしばかりは」と詠まれたので、来春は元のように咲くでしょう、そうなれば歌の奇特と納得されるでしょう」

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/23(土) 22:00:10.93 ID:5fJXLANX
と和漢の名木の奇特を述べたところ、元親も近習ももっともだとは思ったものの、来春咲くまでは承諾できかねる、と言い合った。
翌年の春、一年がまんしたぶん、藤は三尺ほどに咲いたため
人々は「道馮が去年言ったことは道理だった。道馮の予言通りの奇特だ」と感心した。
元親も我を折って、藤の奇特を認めた。
そののち、この奇特を太閤秀吉公が聞こしめし、この藤を召し上らせて、京都において一条殿(一条内基?兼定の息子の内政の元服を執り行っている)に進上なさったため、大変大事にされた。
あるとき奏聞したところ、天子もこの藤も御覧にいれたそうだ。
されば草木さえこのように振る舞うのに、譜代相伝の臣下が無下に浅ましいことをしたというのも、康政公の御代に一条の家自滅到来の時節だったということだろう。



その後は誰も元親を諌める者は無く

2021年11月14日 18:14

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/14(日) 17:12:00.36 ID:6NTUgv30
或る記に、太閤御在世の時、長宗我部元親は京都より国元の土佐に下り、一門衆・家老を集めて申した
「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてより、未だ家督を誰に継がしむべしとも定めず、私も傾く年齢と成った。
そこで信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、家督に立てようと思う。如何あるべし。」

そのように尋ねると一座の人々は、盛親が不肖であることを知りつつ、敢えて返答する者も無かった所に、
元親の婿である吉良左京進親実が進み出て言った

「信親御息女を右衛門太郎殿の奥方と成して跡継と成されるというのは、御嫡子の筋目立つに似たりと雖も、
津野孫次郎殿(親忠:吉良親実が実際に跡継として推したのは次男・香川親和とされ、ここでは
三男・津野親忠と混同されている)は、秀吉公にも知られておられ、御器量も優れておられます。
津野氏の家を別人に御相続仰せ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられることが宜しいでしょう。」

そのように申すと元親は聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、家長久の基である!」と、甚だ不興げに
申された。しかし親実は重ねて
「私は何れにも親疎はありません。私の申し上げる所は国家静謐の基を固く定めたい為に
考えたところなのです。」と諫言した。すると家老である掃部助元辰(比江山親興)も、
最前よりこの座に在って控えていたのだが、進み出て

「只今吉良氏が仰せに成った事は、誰かのためというような、依怙の沙汰では有りません。
御家繁栄、子孫長久を祈る良策でありますから、是非ともこれをご了承なさるべきです。」
と諌めた。

しかし元親はいよいよ怒れる顔色にて、一言の答えも無く座を立ち、奥へと入った。そのため、
その日の相談は中止と成った。
然るに佞臣たちが元親の傍に在り、親実、元辰両人の事を様々に讒言したことで、遂に
天正十六年十月十四日に掃部助に切腹を仰せ付けられた。親実もこれを聞いて、同じく切腹したとか。
吉良親実の切腹は実際には天正十七年九月以降と考えられる)

その後は誰も元親を諌める者は無く、思いのままに盛親を立て、家督としたという。

新東鑑

「七人ミサキ」の話に繋がる、長宗我部家盛親家督相続についてのお話



阿州の老父が語って曰く、

2021年09月30日 15:31

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/29(水) 20:55:33.28 ID:bIhkFL35
阿州の老父が語って曰く、

「阿波国は辺鄙の山国であるから、刀脇差といっても世間の結構な拵えのように
は10人に1人もならずして、“山刀”といって椛巻の鞘で葛巻の柄のものを誰も
彼もが差しており、山賤の男どもが用いるに足るようなものだった。故に山中の
凡民までも武用に立たない者は1人もいなかった。

むかし阿州海部の城主、左近将監吉清(友光の子)という人がいた。その武功は
世に隠れなし。自ら刀を作ることを喜んで濃州備州の鍛冶を招き、これらととも
に鉄を鍛え刀を作った。後年は上手になってその作を世に遣り、人に用いられた。

“海部打”は刀が折れず屈せずして、竹木を切るによろしく、また物切れである。

元亀年中に阿讃の内乱があった。(海部氏は)寒川氏を攻めんと讃州に出陣した。
その留守を考えた土佐の元親(長宗我部元親)は阿州へ出陣し、海部城を陥して
南方二郡を奪った。これより食邑を失って、三好家に寄食した。

その以前に元親の弟弥九郎(島親益)が上洛して帰路の時に、海部佐奈の湊に舟
かかりした。すると海部より押し寄せて弥九郎を打ち殺した。

元親はその憤り深く、四国が元親に属する時に殺されんことを恐れて姓名を変え
て行方をくらまし、京家になって蜂須賀阿波守殿に出仕した。元和寛永の打物に
海部左近将監吉辰という者がこれである。

また備中国松山の城主、石川左衛門尉という人も刀を作ることを好み、その作が
世に残っているのだとか」

――『南海通記(老父夜話記)』



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 02:52:10.09 ID:lSVtxilg
鍛治師って火の熱で目がやられて隻眼でタタラで膝関節がやられて足が悪いって聞くけど実際どうなんやろ

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 03:57:29.37 ID:kqNBNHgI
映像とか見てて思うけど刀鍛冶ってゴーグルしなくて異物が目に飛び込まんのかな?

讃州十河城落去記

2021年09月26日 16:19

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/26(日) 16:01:29.54 ID:diCd1wL4
讃州十河城落去記

天正11年(1583)5月、元親(長宗我部元親)は東方利運となって平木城に到り、
十河城を攻めるべしと大兵を向かわせた。すると、城守の三好隼人佐(十河存之)より
阿州岩倉城主の長宗我部掃部助方(比江山親興)へ伝をもって頼んで来た。

「この城の運、今時に到りぬ。道口を開けて給わらば城を明け渡し申すべし」との通達
で、掃部助より元親に達す。元親は曰く「この城は阿讃両州の悪党どもが寄り集まって、
境目で狼藉をなし盗賊をなした。この時に悪人の根を絶たねば、何の時を期すべきぞや。
救うべからず」と仰せになった。

隼人佐の重ねての申しようは「私は三好の末に生まれて盗賊の名を得るべき者にあらず。
去年より附城を構えられ、海陸の通路を絶たれ、領内の秋毛も3年の間費耗されて衆兵
は餓死に及んだ。故に糧食を奪って身命を続けたのだ。

武士は勝って盛るも運、負けて衰えるも運である。元親は弓矢を取って達人なのだから、
これの程を観察なさるべきではないか。ただし死を賜るといっても、私は逃れるべき身
にあらず」と申し述べられた。元親も哀れに思われ、屋島の浦へ送り遣わされた。

四国は元親の領国となり立ち寄る陰もなければ、隼人佐はまず備前を目指して渡られた。
事窮まる時は死を恐れぬ習いなれば、千余人は1人も離れずに付き従い、屋島の奥庵治
浦まで退いた。

さてまた、十河城へは長宗我部右兵衛尉親吉を城主として、組与力多兵を付けられ入城
した。中讃州綾部鷲ノ山の城主、新名内膳を殺害してその城を入交孫右衛門に遣わし入
城した。この新名に罪は無く、城を取らんがためと聞く。入交は当国の目付である。

それより元親、香西氏が城に来たり「中讃岐にして手次よき城である」として2万人の
内の足軽人夫をかけて西の方に二重堀を掘らせて堅固に取り固めさせ、仕置あって西長
尾城に到り、国中の兵将はこれより在宅の暇を賜って各々自分の居城へ引き退き、初め
て軍労の心を緩めた。

――『南海通記



仙石権平は18歳の若武者なれども

2021年09月26日 16:18

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:03:22.21 ID:LfzgQiPE
(引田の戦いの時)

天正11年春、土佐の元親は阿州大窪を越して寒川郡に入り、田面山に陣して三
好存保(十河存保)の居城虎丸を疲らせんがため与田、入野に入って麦薙をなし、
早苗を返した。

元親父子が虎丸の麓に陣をおいて昼食をなし給うところ、香川信景と大西上野介
(頼包)は手勢を分けて引田の浦に発行せんとした。

仙石権兵衛尉秀久は2千余人をもって引田の浦に到着、家臣の森九郎左衛門(村
吉)を与地山の城に籠らせ、山西のやうを聞き合わせるところに、土佐の兵1万
余人が与田入野に入り香川信景と大西上野介が引田に向かうとの知らせがあった。

仙石氏は1千余人を三手に分け、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平(森権平)
を兵将として引田中山に入れて伏せ置き、西方の兵が来るのを待った。

土佐方は引田に強兵がいると知らずに押し寄せ、山中で強兵に行き当たり大慌て
して追い返され、足並みを乱し与田口まで敗北した。仙石衆は逃げる敵を追って
競い来る。香川方と大西方は敵が少兵と見切り、自兵を遣わして戦を始めた。

一方、元親は引田表の鉄砲の音を聞きなさり「今この辺りに戦うべき敵はいない。
仙石権兵衛という者が、羽柴秀吉から讃岐国を賜うべきとの朱印を受け下向した
と聞く。きっとその仙石権兵衛だろう。桑名太郎左衛門、中島与市兵衛、行って
見て来い」と仰せになった。

2人が馳せて行くと香川信景と国吉三郎兵衛、大西上野介が合戦を取り結んでい
たので2人の使いも手筈に合わせ、元親父子の旗本も程なく押し寄られ、敵味方
入り乱れ、黒煙を立てて攻め戦う。

仙石方は少兵なので西方の猛勢に押し立てられて敗軍した。桑名太郎左衛門、中
島与市兵衛は2度の槍場にて首2つずつを取る。前田平兵衛、その弟彦六は2人
で仙石勘解由を討ち、仙石方は追い立てられ引田中山道に引き入る。敵も逃げる
のを追って山中に入り来る。

仙石権平は18歳の若武者なれども、大剛にして奇才あれば、地利を計って自兵
を下知し、返し合わせて奮戦し、敵を破って勝ちを制し引こうとした。そこへ土
佐方の稲吉新蔵人が名乗りをあげ、互いに馬上で渡し合い、両敵ともに深手を負
い、権平は続く兵なく新蔵人は味方が続き、権平はここにて討たれた。

すなわちその所に石碑を立て今の世までも隠れなし。その権平の墓に霊妙なるこ
と多く、民間の説に残される。権平は仙石秀久の従弟である。一説には仙石氏家
臣の森九郎左衛門の息男ともいう。両説を存じて知る人を待つ。

――『南海通記』



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:35:50.59 ID:tSG7PRda
八十八箇所の最後の大窪寺のためか大窪には讃岐イメージがあった
八十八箇所五番目の地蔵寺には同族の森甚太夫家の墓地もあったっけ

「女郎が淵」

2021年08月24日 17:23

瑠璃姫   
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/24(火) 15:54:45.59 ID:G7GDo+f3
伊予国大洲の米津に、津々喜氏の居城である米津城(滝之城)という城があった。切り立った崖の上に有り、
難攻の城であったという。近辺に白滝という場所があり、そこは城主らの遊園の地であった。

しかし元亀元年(1571)秋、ここに土佐長宗我部氏の軍勢が襲来した。これに城方は懸命に抗戦した。
城主の奥方であった瑠璃姫は清流長刀の指南であり、さらに吹き矢については神業と言われるほどの
腕前であった。また彼女の娘である八重姫、九重姫は八双手裏剣の名手であり、彼女らも大いに奮戦した。

そして瑠璃姫の吹き矢に苛まれた長宗我部軍はジリジリと後退を始めた。
これを見た瑠璃姫は侍女に「もう一息です、残った吹き矢をすべてここに持ってきなさい!」
と命じた。ところがこの時、吹き矢を運んできた侍女の一人がこのように叫んでしまった
「瑠璃姫様、残りの吹き矢はこれだけ、十数本しかございません!」

この叫びは長宗我部軍の耳にも入った。彼らは吹き矢が残り少ないことを知るとたちまち勢いを
盛り返し、城は遂に落ちた。瑠璃姫らは城主の嫡男である尊雄丸を連れ、どうにか白滝の雌滝の上まで
逃げたものの、追手は迫り、瑠璃姫は「もはやこれまで」と、八重姫、九重姫を呼んで言った

「尊雄丸が敵に捕らえられる辱めを受けるのは不憫です。私はこの子とともにこの滝に身を投げます。
あなたたち姉妹は後に生き残り、我が一族の霊を慰め、冥福を祈るように。」

そして追いすがる二人の姫を振り払い、尊雄丸とともに身を投げ滝壺へと消えた。
残された二人の姉妹は母の言いつけに従って逃げ延び、後にこの地に、瑠璃姫と尊雄丸を祀る
観音堂を建立した。
これ以来、この白滝に住む者達は毎年十一月二十三日に「瑠璃姫祭り」をして、二人の霊を慰めるのだという。

伊予国大洲の伝説「女郎が淵」より



959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/24(火) 16:48:43.03 ID:yM+0MafG
読み方は米津(よなづ)なのか
徳島の作詞作曲家の影響で「よねづ」と呼びそうだった

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/24(火) 20:25:10.88 ID:IXgKP0fT
>>958
長刀はまだ判らんでもないけど姫が吹き矢の名手って設定はどうなの?
娘に至っては手裏剣の名手だし忍びの者か何かなの?
素性が気になってしかたないんだけど
さらに吹き矢で後退する長曾我部軍ってのもなんだかな…
シチュエーションが判らないけど…竹束とか板盾とか無いんです?

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/24(火) 21:04:22.20 ID:vkouVMX0
吹き矢とか手裏剣なんて戦ではさほど使えないだろうしそこら辺は後世の創作でしょうね
お話としては面白いけど

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/24(火) 21:08:51.24 ID:02N8vyrY
>>960
>>958の
>切り立った崖の上に有り、 難攻の城であったという。
ここだけ読めば竹束や板盾持って攻めるのは不向きだと思うけど?
実際に調べてみたけど標高は低いが攻めるには難儀しそうな山城跡に思うよ。

津々喜谷氏 るり姫(ソース?)
http://pipinohoshi.blog51.fc2.com/blog-entry-134.html

白滝で祈る:るり姫伝説第2話
https://makild.exblog.jp/13068713/

伊予 米津城の写真集
https://www.hb.pei.jp/shiro/iyo/yonazu-jyo/thumb/

970 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/24(火) 22:55:34.81 ID:kYsNSRET
リアルな話をすると逸話に書かれてる1571年は長宗我部元親もまだ伊予に攻め込むどころではないし、一条氏を倒してから1578年くらいに大洲市の南の宇和郡に攻め入ってるからちょっと話に疑問符付くんだけどね。
でも、女性だって投擲術なら会得しやすそうだし中国地方や九州、同じ伊予でも戦国期に武装して戦った姫と女中達の話は有るんだから寄手が何処まで苦戦したとか誇張の有無は置いてもそう言う話が有っても良いとは思うし、その方が一々非現実的だと断じるよりも浪漫がある。

謙信と猛猿

2021年08月20日 16:52

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 16:04:56.65 ID:R9Sq4sPr
天文二十二年、二十四歳、閏二月、長尾景虎は上洛した。

伝に云う、この時将軍である足利義輝公は宣われた
「景虎は若年より弓箭を取って、その武名は世に知らないものは居ない。
ちょうど今、土佐の長宗我部元親が献上してきた猛き猿がある。これは世に稀な猛獣であり、
檻に入れ、鉄でその檻を包んでいるほどだ。そこで景虎出仕の際、これを檻より出して路次に
繋ぎ置き、景虎の勇を試みよう。」

この猿は行き交う人を見ては必ず牙を鳴らして躍り上がり、叫声も凄まじいものであった。
この猿を以て景虎を試すという事は洛中に聞こえ、世の人は皆、景虎出仕の日を待って見物した。

景虎は洛中に間諜を置いていたので、この事を素早く聞きつけ、近習の士である鬼小島弥太郎という
大力の兵に下知して、巡礼の姿をさせて猿の餌食を持たせ、かの檻の方へ遣わした。

鬼小島は往来の人に交わり、番所に近づくと番士に話しかけ、件の猿に近づくと、猿は鬼小島を見つけ、
牙を鳴らし喚き叫んだ。そこで鬼小島は餌食を出しこれを与えると、猿は喜んでこれを食うこと三度にして
猿も殊の外静まった。この時、鬼小島はまた餌食を、今度は檻の外に置いた。

猿はこれを見て格子より手を出して取ろうとしたが、鬼小島は無双の大力であり、去る年、
越府往下の橋を修理した時、三十人持の大木を軽々と持ち上げた。これ故に世の人は彼を「鬼小島」
と呼んだのである。このような大力故に、猿の手をむずと捕らえ、格子の角木に押し当てて、
しばらく押し付けると、大力に痛めつけられ猿は涙を流して苦悩した。鬼小島は手を離さず、
半時ばかり痛めつけると、猿は弱って地に伏して啼いた。そして鬼小島は旅宿に還った。

翌日、景虎出仕の時、鬼小島も側に供した。洛中の貴賤は景虎が猿に遭った時の剛臆を見ようと
群衆した。公方家の諸士も景虎の出仕の様子、また猿の有様を見ようと皆々伺候した。
景虎は猿の前を洋々と通るが、猿は側に在る鬼小島を見知っていたため、恐怖した様子で
地に伏した。鬼小島は猿を睨んで通ったが、猿は頭を垂れ平伏した。

これを見た公方も管領も三好一門も奇特の思いを成し、御前首尾よく退出して帰られたが、
公方を初め奉り、細川右京太夫氏綱、三好筑前守長慶以下も
「景虎は若年より弓馬のみに心を寄せ、礼儀など知らないと思っていたが、出仕の礼神妙であった」
と褒め称えたと云われる。

太祖一代軍記

猛猿のお話の上杉謙信バージョン。長宗我部元親は天文八年生まれなのでこの時十四歳ですね。
家督もまだ継いでないので足利義輝に猿を贈るのはちょっと難しいかな。




445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 21:22:23.14 ID:QWEeROo3
>>444
> 猛猿のお話の上杉謙信バージョン

やいこの縮緬坊主エテ公一匹躾けンのに子分の手ェ借りるたァ臍が茶ァ沸かすぜ若僧それっくれェも手前ェで出来ねえくせに軍神様が聞いて呆れらァ第一(でーいち)手前ェァ不敗だ何だ豪傑風ェ吹かしてやがるが本当(ふんと)ァ何遍も負けてベソかいて逃げてやがんの知ってんだぞこの童貞野郎こちとらァ本物の生涯(しょうげー)負け無しだあんな猿なんざ自分(てめえ)で四つに畳んで座布団に敷いちまわァ手前ェみてぇな張子の蛇のお兄ィさんたァお兄ィさんが違うんでぃ解ったか篦棒奴解ったら一昨日出直して来やがれっ。

※太田道灌は江戸者なので一切噛まず一息で二秒以内にこの啖呵を切ります。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:05:45.08 ID:46XUOyEh
その太田道灌、山吹の歌を家来に聞かされたら
「なな屁、や屁?なんだかくさそうな感じだなあ」
とか言いそうだ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:23:43.09 ID:BUA5xDqI
>>445
そのセリフ読んでたら森山未來が出てきた

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 23:34:44.65 ID:ewp9KiJx
>>446
おいおい、坂東武者は土蜘蛛や蝦夷の類じゃないんだぜ。

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 07:22:08.67 ID:unjCq8w5
>>444
猛猿注意
https://i.imgur.com/ZaqmVog.jpg
ZaqmVog.jpg


451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:17:17.10 ID:2oZ3rl14
>>447
> 森山未來

何者だ其奴ぁ?と思って調べたら関西者じゃねえか。
口跡が薄汚く粘る関西弁じゃこの啖呵ァ切れやしねェよ。

453 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 17:36:18.57 ID:unjCq8w5
>>451
烏にゃ越えられぬ、富士より向こうのお国言葉は大層威勢が良いですね。人が沢山下って
合い集まる東国ならではの江戸っ子気質に溢れチャキチャキの威勢に満ちた、大
衆文化の新境地。鎌倉から戦国期に戊辰戦争、数々の大戦を経て育まれた土地ならではですね。

太刀受けの阿弥陀如来

2020年10月22日 18:16

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/22(木) 00:31:52.31 ID:AywwUuma
ではその香川から

太刀受けの阿弥陀如来

戦国時代、土佐の長宗我部元親が讃岐を平定しようと、阿波から乱入してきた。そして本山寺を
本陣としようとしたが。この時の住職は
「ここは殺生禁断の地であり、立ち入られては困る。」
と言って、長宗我部軍の要求を拒否した。
すると兵士たちは、やにわに住職を、一刀のもと斬り殺した。

そして寺院の中に入ろうとすると、先程斬り殺したばかりの住職が本堂の縁側に立って、兵の侵入を
拒んでいた。これは不思議なことだと思って彼等がよく見ると、赤い血の跡が点々として、本堂の
内陣の中まで入っていた。尚もその跡を辿ったところ、厨子の中にまで血の跡は続いていた。

厨子の扉が少し開いていたため中を覗くと、脇仏の阿弥陀如来の、右の肘から血が流れていた。
「さては阿弥陀如来が住職の身代わりの成ったのか」と恐ろしくなり、長宗我部の軍は早々に
引き退いていったという。

これ以後、その阿弥陀如来は「身代わりの阿弥陀如来」と呼ばれるようになった。

『巡礼と遍路・寺々の物語』



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/22(木) 07:59:12.36 ID:JQqpQXTA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5989.html
同じ話は前にも出てた

長曾我部元親の降伏

2020年01月02日 15:46

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 02:30:52.93 ID:4TxiWVEV
天正十五年の夏、太閤様(豊臣秀吉)より四国に御討手の勢が下ることを、長曾我部元親公は聞き及ばれ、
防衛のため城ごとに御手分けを成され、一宮へは江村孫左衛門(親俊)、谷忠兵衛(忠澄)の両頭が
仰せ付けられた。

ここには上方勢の内、大和大納言殿(豊臣秀長)が向かわれたが、大納言殿はこの城に入った谷忠兵衛が
知慮有る者と聞き及ばれており、未だ城攻めを行わない先に、谷に対し
「自分が扱いをするので、長曾我部元親へ降伏するよう伝えるように」と仰せ付けられた。
谷は江村孫左衛門と相談し、秀長軍と矢留(停戦)を申し合わせ、神文の一札を請い、羽久地(白地)の城へ
参ると、この事を詳細も報告した。

ところがこれを聞いた元親公は以ての外に立腹され、谷忠兵衛は即時に面目を失った。しかし谷は、これが
一大事の儀であると理解しており、終夜に渡り長宗我部家の総老中と相談を極め、何れも谷に同心した。
谷は三日間この城に留まり、総老中たちは元親公へ御諌め申し上げた、終には元親公もこれに同意した。
そして谷忠兵衛と老中の一札を取り、一宮に帰ると大納言殿へこの事を申し上げ、降参の首尾は相調った。

これ故に城中の者達も外に出て上方勢と出会ったが、上方勢は第一に馬が大きく、物具等も花やかで、
千騎が二千騎にも見えた。
それに対し四国勢は、第一馬細く、物具等も侘びしく、千騎が五百騎ほどにしか見えなかったと伝え聞いている。

同年十月、太閤様へ元親公の御降参が成った時、谷忠兵衛もこれに御供をし、太閤様に御目見得仕り、
家助の御刀を拝領した。この時人は皆、「谷忠兵衛は特に侍名利の者である」と褒め称えたという。

その後、谷忠兵衛は中村の城主を仰せ付けられ、この中村で相果てた。現在も正福寺にその位牌がある。
この谷忠兵衛の嫡子は豊後陣にて長宗我部信親公の御供をし、一所にて討死した。信親公御死骸の
御迎えにも、この忠兵衛が遣わされたと伝えられている。

なお、先にある神文の一札とは、美濃守殿(豊臣秀長)より元親公の御身上について、四国の内三ヶ国は
御取り上げになり、本国土州一ヶ国にて御断成されば、自身がその扱いを成すと申され、この時に
江村孫左衛門と申し合わせ、谷忠兵衛が元親公を諌め奉る為に頂いた神文一札なのである。

(長曾我部覺書)

長曾我部元親の降伏について



私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかった

2018年10月24日 18:19

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 22:56:21.95 ID:3ItfLnKv
私は昨年の書簡で、豊後の王(大友宗麟)の甥にして婿である土佐の王(一条兼定)が、豊後に於いて
キリシタンと成りしことを報告した。この王は一人の家臣(長宗我部元親)が反乱したためその国を逐われて
豊後に滞在していたが、前の書簡に認めた如くその国に帰り、短期間に国を回復した。

彼は豊後に在った3,4ヶ月間デウスの事を聴き、よく事理を理解する人であったため、多くの質問をなして
キリシタンとなる決心を成すにいたり、しばしば私に洗礼を請うたが、考えることがありこれを延期していた。
そのような中私は下(ximo)の地方巡察に行くこととなり、もし土佐の王が私が帰る前に病に罹り、又は
その国へ帰る事態となれば、府内にとどまるパードレ(ジョアン・バウチスタ)に洗礼を授けるよう
予め定めておいた。

我らの主は、土佐国の大身たちがその国を統治するため、人を遣わして彼を招くに至らしめ給いしが故に、
直に洗礼を授け、彼はその国を悉くキリシタンとする決意を成して出発した。その国に着きて、我等の主の
御加護により短期間に土佐全国を領し、暴君(元親)は多数の兵とともに守っていた主要な一城のみを有した。

王は我等の主が彼に与えた御恵を忘れず、甚だ良き町に立派なるコレジョを建てることを命じ、その町、
およびその他の地において6,7千クルサド(1クルサドは銀40匁に当たる)の収入を得るべき地を寄進し、
又国内の主要なる町々には大なる家を建て宣教師に説教を始めさせた。

かくして土佐の多数の主だった者たちはすでにキリシタンと成らんとせしが、デウスの隠れたる裁断により、
破滅が近づくのを悟った坊主達が努力したため、形成はたちまち一変し、王は一戦において敵に破られ逃げ、
味方の大身の城に入った。王は同所に在って私が臼杵に着いたのを聞き、書簡を託して人を私のもとに
派遣した。書簡の訳文は次のとおりである

『尊師が下より帰られたのを聞き、この家臣を貴地に派遣して私のことを告げ、私のためにデウスに
祈られんことを請はしむ。尊師の出発後、我が臣下の者数人が使いを遣わして私を招き、再び土佐に入国する
途が開けた為、私は尊師の手によって洗礼を受けることを望んでいたが待つこと出来ず、府内のパードレに
洗礼を受けることを請うた。その後私が国に着いて、我等が主デウスの御助により、間もなく
ファタ(Fata・幡多)の城とその町の他は悉く占領した、同所にはトソガミ(tosogami・長宗我部)が
5、6千の兵とともに籠もっていたが、これを守り続ける見込みはなかった。

私は我等が主デウスより受けた御恵を思い、パードレが当国に来るために、直ぐに会堂を建てることとし、
これに大いなる収入を永久に寄進し、国内の他の町々に大いなる家を建て、説教を始めさせる事とした。
臣下の多数は、私がキリシタンと成った後、我等の主より大いに保護を受けたのを見て、キリシタンと成らんと
決心したため、人を遣わして説教を成す者の派遣を請わんとしたが、この時意外にも形成一変し、私は再び
追い出され、今は長島(Nangaxima)の城に在る。

私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかったが、それにもかかわらず、何故にこの不幸が
起こったのか疑惑を持たざるを得ない。我等の主が、もし私が罪人であるため罰し給うたとするなら、
敵は異教徒であり、その主君に謀反を起こした者であり、更に大なる罪人である。この故に、尊師に請う所は
この疑惑を解き、また私一人異教徒の間に居るが故に、デウスの事に関する書籍を送付される事である。

私は一人だが、今日まで日曜日(の礼拝)を忘れた事は無い。当所に、昔山口においてキリシタンと成りたる
トビヤス(Tobias)という盲人が有る。彼と語ることで喜んでいる。

我等の主デウスに、私のために祈り、常に書簡を送り給え。私も又これを成すべし。』

右の書簡に対し返書を送り彼を慰めた。デウスがしばしば、最も愛する者に艱難を与えたもう事を述べたが、
彼はこれにて慰められ、すぐに他の書簡を送り、已に安心し疑惑も懐かず、デウスに祈ることを請うた。

(1576年9月9日(天正4年8月17日)付パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)

一条兼定が宣教師に送った、四万十川の戦いでの敗北を受けての書状の内容である。


信長四国征伐の事情

2018年10月08日 18:37

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 17:44:01.59 ID:N7Ecm7CH
元親(長宗我部元親)は天正4年(1576)よりおよそ7年の間に四国を切り従え、天正10年には元親が
ことごとく押領した。(原注:長曽我部記・土佐軍記)信長公はこれを御聞きになって元親に対し、

「土佐・阿波両国は与えよう。伊予・讃岐は献上せよ」と仰せ遣わされた。元親は「これは思いも寄らぬ仰せ
かな。それがしが四国を押領したのは、まったくもって信長から恩賜されたわけではない。すべてそれがしが

数年武力をもって切り取った国々である。何の子細があって信長に進上することだろうか。仮に討手を差し
下されようとも、どうして容易に避け渡すことであろう」と返答した。これに信長公は、

「元親は猛勇に誇り、不礼の返答をしたことは捨て置けぬ。それならば武力をもって討ち滅ぼすべし」と仰せ
になって三男・三七信孝に四国を拝領なされ、「手柄次第に切り取るべし」と丹羽五郎左衛門長秀・

織田七兵衛信澄(津田信澄)・蜂屋伯耆守頼隆を差し添えなさった。この輩は「近日中に四国へと押し渡って
長宗我部の領国をことごとく切り取り、元親のこの頃勝ち誇る矛先を挫く」と大軍を引き連れ摂津住吉の浦に

参着した。折しも梅雨の晴れ間もないので大坂の城で人馬を休め、雨が晴れて順風の時節を待って過ごした。

古写本の長曽我部記、ならびに土佐軍記を捜索するに元親は四国押領の後は織田殿へ5,6度も使者を出して
ますます昵懇との旨を記し、織田殿がとかく争論したとは見えない。まして信孝の四国拝領のことも聞こえず。

今その事情を按ずるに、元親は明智光秀の被官・斎藤利三の妹婿である。それゆえに元親がその初め織田殿へ
通じた時も光秀の計らいであっただろう。とすれば光秀の救援となるのは元親の右に出る者はいない。

織田殿は近頃光秀を快しとされなかったために、その助けとなるであろう元親をまず除きなさらんとの内意で
元親へは御指図もなく信孝らをただちに討手に遣わされたのか、または三好笑岩(康長)は秀吉の甥・秀次を

養子としたわけだが、いま四国で元親に従わないのは三好一族ばかりであった。その三好が元親に攻められて
危うきこと旦夕に迫るゆえに、笑岩から秀吉の備中の陣へそのことを申し送って愁訴し、秀吉から織田殿へ

四国征伐を勧めてにわかにこの事が起こったのか、この二つの内どれかだろう。元親の側ではその事を知らず、
その内に織田殿も横死され、信孝らも大坂まで出軍したのみでこの事は止んだために、四国の側ではこの事に
ついてまったく取り沙汰さなかったものであろう。

――『改正三河後風土記』


仙石は四国を指して逃げにけり

2018年10月04日 21:33

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 12:28:26.47 ID:AKjHBDtu
太閤秀吉公、長宗我部元親親子、仙石権兵衛尉を大将として、四国勢を大友加勢として差し越され
島津義久と豊州脇津留、迫の口等にて合戦あり。

はじめ脇津留の戦には、長宗我部、仙石利を得ると言えども、迫の口の戦に利を失い四国勢敗亡す。
長宗我部嫡子信重(親)戦死、仙石権兵衛尉は小舟に乗りて阿波の洲本に渡りけりと言いて
その頃の落書に

仙石は四国を指して逃げにけり
三国一の臆病の者

(大友公卿家覚書)

仙石権兵衛と言えば…のこの逸話。
本文にある脇津留は土佐勢が伊集院・新納らと死闘を繰り広げた地で
迫の口は仙石隊が島津家久・本庄主税助と対峙した場所です。
正面を家久、左斜めの小山を本庄に押さえられた仙石秀久は動けに動けず
頃合いは良しと山から駆け下りた本庄隊の突撃とそれに続く家久隊の攻撃によって敗走、勝敗が決しました。



266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/04(木) 16:41:47.49 ID:5I0E/ccX
仙石を擁護するとしたら、まさかあそこまで四国勢が弱いとは…となるけど、
そもそもめちゃくちゃやって、四国勢の力を発揮させられなかったバカ軍監が仙石なわけだしなぁ…

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 18:21:05.13 ID:l4Rx9ZXQ
>>266
九州上陸当初は割とまとまってた四国勢だけど
仙石が補給名目の収奪や苦役等の軍政で在地勢力の反感を買ったあたりから
十河・長宗我部共に距離を置き始めた感じがありますね

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/05(金) 21:12:44.95 ID:lNaCgzgy
大友って土佐一条氏を支援してたよな。

だから大友と長曾我部の関係ってあまり良くなかったんじゃないかと思うんだが、どうだろう?

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 01:39:17.12 ID:mHUusYx1
大友宗麟の娘が一条兼定の継室だけど婚姻したのがまだ土佐に影響力があった時代のことで後に大友は一条の領土回復を支援してるけど改宗した婿のために義理を果たしただけとちゃうんかな
大友にしたら土佐なんかいらんし彫塑とコトを構えようなんて思ってないかと

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 09:45:56.70 ID:TCdNhDe3
宗麟が四万十川合戦で義理を果たしてからもう10年以上経ってるし
仙石はアカンけど長宗我部親子はまぁ見どころあるわってフロイス評や
戸次川前後の元親・宗麟のお手紙やり取り見ると悪くはない感じはするね

敗走した後、残された兵卒はどうなったか?

2017年12月22日 17:41

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 21:58:50.88 ID:JNQX2C1W
天正十五年正月十九日、島津修理大夫義久は戸次川合戦についての弁明および
秀吉への恭順の意を示す書状を豊臣秀長および石田三成に寄せた

先年冬、互いに使者を指し登せ友誼を定めようとしたところに
かくの如くも首尾(戸次川合戦)となってしまい
急使を得て追って飛脚を申し付けいたします

そもそも大友家が他邦と連合し、こちらに攻めてきたのは歴然たるゆえ
分国および日向の境まで発足いたし、防ぎ矢として軍勢を差し向けたところ
仙石殿・長宗我部殿が義統と一致をなされたため、両将に対し

「この度の御下りは関白殿下の御下知であろうが
 当家は大坂に対して毛頭も逆心を構え存ぜざる上は、何卒御引き取りを願いたい」

と申し上げたところ聞く耳を持たれず、我らに攻めかかってこられました
異議に及ばず一戦して勝利を得たものの
敗北した豊後勢が、仙石および長宗我部勢に紛れ区別できなくなり
結果的に数千騎を討ち果たす事になってしまいましたが
これはもとより本意ではありません
しかしながら、我らの間に疎隔が存じていないのは
合戦後、府内において、京・四州の士卒が難儀のところを
我が弟、中務少補家久が大船三・四艘程も調達し
彼らを送り出したことを持っても明白であり
これを証しとして、何卒秀吉公へのお取り成しをお願い申し上げます

(合伝流闘徴禄日本戦史)

軍監が供回りのみを連れて敗走した後、残された兵卒はどうなったか?
という疑問に対する答えが書かれた書状である
当時仙石家にいた後藤又兵衛や庄林一心もこの船で帰ってきたのかも知れませんね



418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 22:59:32.94 ID:7a3MXH0t
ちょっとイラッとしたから数千人ぶち殺したけど冷静になったらやべーわってことで船を何艘か用意したんで許してくれやってことか
さすが鬼島津無茶苦茶やんけ

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 23:14:18.95 ID:Q69eCTkr
何を普通だと思ってるのか知らんがどういう解釈だ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 07:50:28.68 ID:PM/fY5US
鬼は鬼畜の意

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 08:34:01.60 ID:q+zFI8EU
お手紙でなんとかしてしまう引きこもり長男最強やん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 09:46:11.23 ID:qpbVehiP
形に残るものでは相手をなだめるのが基本かと

伊予日振島における戦後処理の逸話

2017年12月13日 19:35

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:36:08.43 ID:RImMcwen
戸次川合戦敗退後、長宗我部元親は伊予日振島に逃れ
桑名将監を使者として、合戦詳細を秀吉公に知らせた
秀吉公はじめてそのいくさの詳細を知り
さても仙石手に合わざる合戦し
信親を討たさつる事の不便さよと仰せられ涙を流された

また合戦の三日後にあたる十二月十五日
大友宗麟は慰問状を日振島の元親に使わし
その内容は以下の通りである

この度のいくさはご挨拶の仕様もないが
無事御渡海の段は安堵に存じます
(長宗我部殿の当方に対する)これまでの様々な件に御入魂の次第は
永々忘却してはならぬ事であります
勝敗については戦場の習いにて、お気になさることもないでしょう
また兼ねて戸次利光城(鶴ヶ城)に差し向けられた鉄砲衆ですが
昨夜全員無事にこちらに帰還いたしました
そちらにお送りしたいと存じますが、船を揃えるのに難儀しており
船便があり次第お送りいたします

天正十五年十二月十五日
                         休庵宗滴判
追伸
 御子息信親戦場の儀については、様々な風聞があり
 未だ実否は分明ならず、奇怪千万な次第です
 こちらで詳細がわかり次第、お知らせ申し上げます

(続く)

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:37:24.97 ID:RImMcwen
(続き)

信親遺骸返却について島津と交渉しつつ
合戦後十三日目には奥長門守を使者とし
宗麟がこもる丹生島城(臼杵城)へ鉄砲隊を派遣した
その際の書状の大意は以下の通り

この度敗戦の成り行き、都鄙において外聞を失い全く無念な次第です
されども今はお城を固守することが肝要であり
自分も加勢に馳せ、共に籠るべき所ですが
退陣口の仕合、覚悟に任せず困難なため
まずは有り合わせの鉄砲の人数を差し出しますのでお頼み申します

天正十五年十二月二十五日
                         長宮元親判

結局元親は土佐本国に帰ることはなく
敗軍を糾合し、丹生島城宗麟と連携を取りながら豊臣本軍を待ち
翌天正十五年三月の秀長軍到来をもってはじめて伊予日振島を出た

(土佐軍記その他)

長宗我部元親、伊予日振島における戦後処理の逸話である



504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:57:19.08 ID:b83ZmTWr
この頃は宗滴と号していたのか

戸次川合戦長宗我部信親の最期

2017年11月06日 17:27

242 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:27:04.80 ID:STEkgEWa
戸次川合戦長宗我部信親の最期

去る程に信親は、味方皆打ち負けて散々になり
元親の生死も知らざれば、今はこれまでとただ一途に思い定め
上下心を一致して龍粧(戸次川地名)に備を配り
静まり返って敵を待ち受けた

勇気最盛なる新納勢は、僅かな長宗我部勢が控えているの見て
ここはいささかも休むべきにはあらずと、三手に別れ閑閑と打ってかかる
信親七百余騎、三手に颯爽と別れて駆け合い
汗馬東西に駆け違い、旌旗南北に開き分かれ
追いつ返しつ、巻きつ巻きられつ、互いに命を惜しまず七、八度と戦い
新納が五千余騎、残りわずかまでに討たれたが
長宗我部勢も大半が傷をこうむり、(血で)朱になってその場にとどまった

伊勢兵部丞一千余騎、戦い屈したる長宗我部勢を
弊に乗って討たんとして横合いに駆け向うが
信親もとより思い切った事なれば、相懸かりに懸りて
弓手に側め、馬主に背け、打っては駆け通り、突いては押し払い
四武の衛陣堅きを砕き、揉み違い入り乱れ、喚き叫んで戦い続けた
敵味方の討たれた者は数知れず、互いに龍虎の争いなれば
このいくさ、いつ果てるのかもわからなかった

(続く)

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:29:50.91 ID:STEkgEWa
新納武蔵守は槍を取り、猪の怒れる如く大きく猛って突いて回る
細川源左衛門これを見て、願う所と槍を提げて向かい
武蔵守、物々しやと人を交えもせずに戦ったが
源左衛門に左腕をしたたかに突かれ、危うくなったところに
郎党二人駆け来たり、武蔵守を押し隔てて戦い
さらに伊勢兵部丞が馬を駆け寄せ、源左衛門に槍を付けたので
源左衛門ようやく若党に首を取られ討ち死にした

信親はあまりに手広く駆り立て戦う内に、乗り換えたる馬は三頭
平頭三太刀斬られて、犬居にどうと臥した
敵これを大将と見知ったので、駆け寄せ討ち取らんと進み近づくが
信親四尺三寸の大長刀を提げ、大勢の中へ割って入り
籠手・薙手・開手・十文字、八方乱して切りつけ
強靭の兵二十四、五騎を薙ぎ払ったので、長刀の柄は中より折れてしまった

(続く)

244 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/06(月) 13:40:06.17 ID:STEkgEWa
敵二人得たり賢しと両方から飛びかかり打つ太刀を
信親さっと飛び違え、二人共に同じ枕に蹴り倒し、太刀を抜き胴を切り捨てた
新納これを見て、一騎打ちの勝負は叶うまじ
総軍一度に懸かれと下知すれば、蟻の如く集い、蜂の如く行き合い
信親の上に重なって前後左右より押し取り巻き
穂前を揃えて突く槍を、ひらりと飛び越え
持って開いては丁と切り、飛び違えては、はたと切る
されどもその身鉄石にあらざれば、精力疲れ、ついに鈴木内膳に討たれた
信親行年二十二歳、その死を惜しまぬ者はいなかった

吉良播磨守、本山将監、石谷兵部少輔らも何のために惜しむ命ぞやと
真っ先に敵の中に駈け入り、枕を並べて討ち死にした
これらを始めとして、桑名太郎左衛門……
(以下数頁に渡り延々と討ち死にした者の列挙が続く、下画像参照)
https://imgur.com/a/krw3g
https://imgur.com/a/2iU01
seGpd7c.png
NovRfsD.jpg


……この他精兵都合七百余人、我先にと駆け出で駆け出で
一騎も残らず皆斬り死にした
味方の討ち死には二千七百二十七名と聞いている

(土佐物語)



245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 14:30:51.09 ID:TScJL+6v
センゴクすごく悪い話だ

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/06(月) 14:54:27.14 ID:uHhFmV3f
>>242-244
脚色もあるんだろうけど凄まじい、描写が詳しくてこのまま剣劇にできそうだ。

その持ち主の名をしるして

2017年10月31日 18:02

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 17:31:16.90 ID:jQaAtfFj
長宗我部元親が土佐において弓矢の盛りであった頃、家中の者、各役の道具番は道具にその持ち主の
名をしるして置いた。
このため普段も取り違えること無く、戦の場においても、取り落とした様が無作法であれば、その者の
誤りとなった。
これによって、持ち主たちはそれぞれ、一層心を尽くして疎かにしなくなったそうである。

弓矢の詮議が詳細な家では、心の付けように工夫があるものなのだ。

(士談)



信親忠死の跡なれば

2017年08月31日 16:58

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 14:48:51.99 ID:D/ZmCpnd
去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには

「権兵衛は元来強気無法の者であれば
 敵を侮るな、一人駆けはするな
 衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
 宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
 察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
 この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
 かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
 一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
 我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
 今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
 土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」

そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。

(土佐物語)



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:50:37.09 ID:tjcfsPmD
十河家.....。

豊後勢から見た戸次川合戦渡河

2017年08月23日 18:22

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:25:11.58 ID:anEy0bRv
豊後勢から見た戸次川合戦渡河

大友義統は鶴ヶ城の難儀を聞き、援兵を考えたが譜代の家人は
島津に心を寄せ内通(原文:ヨソ聞キシタル)の有様のため
如何ともし難い状況であった。
そこに仙石・長宗我部「殿下の御下向あるまでは
進んで合戦するべからずとの上意とは言え
鶴ヶ城の危機を見捨てるのもまた難しいのでないか」との進言をし
これ幸いと大友軍勢相加わり、都合六千余の勢が十二月十二日の未明に府内を出発し
鶴ヶ城の西北、川を隔てて鏡城と呼ばれるところに着陣した。
旗馬印をおびただしく並べ蟠踞すると、前は竹中村、後ろは深い谷のために
幾千万騎もあるように見え、城を攻めあぐねていた島津勢
この有様に気を奪われて慌てふためき、我先にと馬を返して
坂原山まで三十余丁の地点まで引き返した。
そこでしばらく人馬を休めると斥候の者を召し
「汝等これより立ち帰り、後詰の勢の分際を見極めて来るべし」
と言い含め、方々に遣わした。
(続く)

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:27:15.55 ID:anEy0bRv
さて仙石権兵衛、諸卒に下知して言うには
「機を先する時は人を制するに利あり
 おおよそ川を隔て陣を取るに
 渡して戦いに勝たない事はなしと言うがいかがが?」
士卒ども難所を越えて血気盛んの故か
この川を渡して敵を蹴散らすべしと申し上げた。
長宗我部元親これを深く制して曰く
「川を渡して勝ちたる例は多いと言えど、不案内なる敵地へ入って
そのような働きをするのは殿下(秀吉)の覚えもいかがであろうか。
またこの川の形勢を見るに、こちらの岸は高く
馬の乗り上げが難しい。ここは敵と対峙し
敵がもし川を渡って来たらその半途を打てばよい。
ここは平に待ちたまえ」と制したが
権兵衛もとより短才愚蒙の人だったので
聞かぬ顔にて馬をさっと打ち入れると
その手の兵千五百余我先にと川を渡り始めた。
元親も今はこれまで、やむを得なしと、身をかたくし怒りながら川を渡った。
「豊薩軍記」



74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:50:58.54 ID:9wzzu0EL
慌てふためいた「ように見せた」んだろうな

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 20:00:30.68 ID:mYgG+7Q6
お家芸の釣り野伏ですね

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 20:07:35.32 ID:1E7jkg3i
短才愚蒙ってすげえ言われようw

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 22:47:42.19 ID:Cz0GgWje
なんでこんなアホなことしたんだろう、経験豊富な武将だったのに。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 23:31:57.49 ID:EQZ+wj9p
讃岐もらったし、いいとこ見せたかったんじゃないの

軍監の命なれば是非に及ばず

2017年08月22日 17:59

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:34:50.20 ID:W9FCLw1N
天正十四年十二月、豊後国戸次川合戦軍議での事である。
軍監仙石秀久、戸次川を目の前にして発議して曰く
「この川は九州一の大河にて頗る難所とは言え、大勢に切所はなし。何ぞ恐るるに足らん
 いざ、諸軍一同に渡して一戦に勝負を決すべし」
これに対し長宗我部元親曰く
「この川を渡るのは殊の外面倒なり。敵が川端に引いて備えるは堤の陰に伏兵あるべし。
 川の半途で鉄砲を打ちかけられれば先陣は全滅し、一陣敗れれば残りも全うする事は叶わず。
 ことさら島津は大敵といい、強敵といい、最も侮りがたし。殿下(秀吉)の戒めらるるは正に今日にあり
 しばらく川をへだてて対峙し、敵の虚実をはかって方便あるべし」
十河民部存保もまた諫めて曰く
「敵は目に余る大軍で、この小兵をもって大河を渡り、後詰(ごづめ)野戦するはもっての外なり。
 守りを固め、敵が大河を越えて来たらば一戦し、また越えて来ねばかねて御定めの如く、殿下の御出馬を待つべし」
秀久服せず曰く
「昔より川を渡った者が勝ち、渡された者が負ける事少なからず。早く川を渡れば人を制する利といい
 上方への聞こえといい、急ぎ渡し然るべし」

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:36:28.43 ID:W9FCLw1N
この時、はるか前方に元親麾下の細川源左衛門がおり、この勇士は四国のいくさにて高名を立て
秀久も見知っていたのでこれを呼び、渡河の可否について述べよと命ずると
「川向こうの小藪に伏兵あるべし。もし渡さば川中にて鉄砲うち掛けられ、先手破れ後手敗軍とならん
 対陣し敵の動きを見て方便あるべし」
これに対し秀久
「治承の昔、足利又太郎(足利忠綱)は宇治川にて、源頼政大勢にて防ぐと言えども遂に渡り済まし
 また後の元暦承久の合戦でも、川向こうの大勢を相手に渡すなり。我等も見聞する所、川を渡り利を失う事少なし」
源左衛門曰く
「昔は鉄砲なし今は鉄砲あり、いくさの様も変われり、ご思案あれ」
秀久曰く
「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
ここに至りて諸将は無謀の策を喜ばざりしも、軍監の命なれば是非に及ばず、また味方を捨て一人身を全うするもならず
三軍和せざるは敗軍の兆しなりとてその議に従い、一同渡河の準備に取り掛かった。  

「土佐軍記」



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 06:48:59.75 ID:inKWe/E+
今も昔も指示する立場の人間がええかっこしいなら苦労するわ

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 07:33:00.57 ID:+wZ6x60J
元親を憎んでる十河は負けると分かった上で仙石に同調したと思ってたけど違うのか

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 08:02:52.86 ID:HRLKmaln
四国勢はもちろん案内役の戸次隊のこのあとのことを考えるといたたまれない