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西内喜兵衛、大いに笑って

2014年03月01日 18:45

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:14:28.54 ID:E46mrwC0
西内喜兵衛という者は国中武辺の強力(ごうりき)であった。
長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。

さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。

「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。




491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:51:53.20 ID:pUH9TpJ/
>さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
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/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
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虎の爪

2014年02月27日 19:09

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:16:14.48 ID:aiM0GJBc
長曾我部元親が朝鮮の唐島という所に在陣した時の話である。

この頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。

ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:18:59.16 ID:aiM0GJBc
虎は七三郎を打ち捨てて、市左衛門の首にただ一口に食らいついたが
かたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。

さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。

「土佐物語」
[2/2]




466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 19:21:47.80 ID:V1cIhpSV
朝鮮てなんか動物しか存在しないサファリランドだな。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 21:00:26.04 ID:xt96hlO6
>>464
朝鮮どんだけ虎の楽園なんだよ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:21:40.32 ID:egPFUAPb
>>464
朝鮮武勇伝ネタで虎じゃないのはないのか?w

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:24:07.37 ID:B1JE84mz
加藤清正の家臣が虎を退治して苗字が「金玉」になったり
虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:31:53.98 ID:Zhf3pNOF
敵兵がそれほど強くなかった分、虎退治がより大きく扱われてるのもあるな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 01:05:34.78 ID:onJgSEDK
虎がいるのに平然と昼寝するジミー加藤の虎逸話もあるね

長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

2014年02月23日 18:59

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:06:06.55 ID:GO9A0zPx
長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。

「土佐物語」

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:45:31.03 ID:f27vMd/J
コブラみたいなガラガラヘビの大きなやつかな?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 22:39:05.06 ID:QphLMAUJ
朝鮮に渡った諸将が散歩で遭遇するのは虎といにしえから決まっている

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:14:10.77 ID:U2GCbk1u
耳のあるヘビ?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:33:22.46 ID:cWrDbmU5
コブラの腹の広くなってるところじゃね?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:24:31.29 ID:vrRx5zHc
コブラは熱帯の生物だから、半島じゃ寒すぎないかな?

図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:39:48.99 ID:3rGzu6Jd
落ちてた鱗はおそらく目の鱗だろうな。
現存してるのかな?

俵兵衛の鉄砲

2014年02月21日 20:41

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:04:23.94 ID:VVpA5cFN
文禄元年、朝鮮陣の頃の話しである。
壱岐島の海辺に福島左衛門大夫正則、戸田民部少補氏繁、蜂須賀阿波守家政、生駒雅楽頭近世、長宗我部宮内少補元親の五大将が集まり
対馬への渡海について詮議していた。

この時、沖の方で鳥が飛び回っているのが見えたので
正則が「昔、本間孫四郎(南北朝期の武士)は沖の鳥を敵船へ射落としたそうだ。当世ではいかがであろう?」
と言ったところ、元親が「近代は昔と違い、弓の射手は少なくなりました。
しかし鉄砲ならば昔の射手に劣らぬ者がおりましょう」と答えた。

正則これを聞き「土佐の士には鉄砲の名人ありと伝え聞いています。いずれかを召して
あの鳥を撃たせて見せてくださいませんか?」と言い出した。
元親は「家中に鉄砲を撃つ者は数多いが、飛んでいる鳥を撃てる程の者は知りません」と断ったが
正則が「いやいや、たとえ外れたとしても苦しからず、ただ慰みに撃たせてみせてください」と重ねて言うので
元親はそれならば、と足軽の俵兵衛を呼び、あの鳥を撃ち落とせる者を呼んで来いと命じた。

すると俵兵衛「わざわざ人を呼ぶまでもありません。私にお命じ下さい。
常日頃飛ぶ鳥を撃っているので、あの程度の鳥ならば必ず仕留めます」と申し上げた。
元親は打ち笑い「諸将の前を憚らぬその心意気や良し、たとえ撃ち外したとしても恥辱にはあらず。やってみろ」と
命じた。
四人の大将を始めとして、その下の諸士がみな集まり見物となったので、これ以上の晴れがましさはなかったが
元親はもし外れたのならば恥辱とはならずとも、場が白ける事は必至であると内心穏やかではなかった。
                                                (1/2)

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:05:38.15 ID:VVpA5cFN
さて、俵兵衛が飛び回る鳥を狙いを定め打つと、寸分の狂いもなく鳥の体の真ん中に当たり、白毛がばっと散り
沖の方の岩の上へと落ちていった。
大将を始め、皆一同に「やや!撃ち落としたぞ!」と叫び、その賞賛はしばらく鳴りやまなかった。
されば間(距離)を打たせるべしと縄を張らせたところ、おおよそ五十八間であった。

正則は感極まり、昔の那須与一にも劣るべからずとして着ていた羽織を俵兵衛に賜ったので
残り三人の大将もこれにならって羽織を下された。
元親も悦に堪えず、また諸将への返礼なればとして俵兵衛をその場で士分に取り立て
太刀一腰を与えたので、当家他家の面々でこれを羨ましく思わないものはいなかった。

「土佐物語」 (2/2)




426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 17:36:03.92 ID:xCa6m9ns
酔ってなくても気前のよい正則

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 19:37:09.59 ID:3Cg7k0Cq
飛ぶ鳥を落とす勢いの出世だな

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 12:20:21.36 ID:1dTZhzw9
100m越の狙撃とかすっごいやん!

福富親政、朝鮮役にて

2013年05月25日 19:45

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:36:01.66 ID:W44iJUNB
文禄元年(1592)、その頃私は福富七郎兵衛と名乗り、17歳でした。

高麗陣にて12月5日、長宗我部元親公はこう仰られました
「二手か三手を出撃させ、5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
鼻を削いで御帳に記録せよ。但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように。
もしこの暮六つ迄に帰って来なければ、例え敵の鼻を削いで来たとしても、必ず罰を申し付けるであろう。」
この様に固く仰せ付けられました。私はその時、久武内蔵助の組におりました。一組は16人で
構成されていました。

我々は八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出ました。御本陣は組川(ソセン)という場所に
ありましたが、そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

向うは我らの軍勢を見ると、急ぎ逃げ出しました。我々はそれを追いかけましたが、彼らは松林の中に
逃げ込み、そして唐人たちの姿は一人も見えなくなりました。
我々は皆馬から降り松林の中を探索すると、松林の奥に穴があり、唐人たちはどうも、そこに逃げ込んだ
様子でした。そのため我々は、穴の中を狙って鉄砲を何発も撃ちこみましたが、当たったのか
当たらなかったのか、まるで解りませんでした。

この時廣井嘉右衛門という者が、「唐人を穴に追い込んだのに討ち捨てることも出来ずに帰ってしまえば、
後日、我々への批判はどれほどのものに成るだろうか。とにかく、この穴に入って唐人を探し出そう。」
と言い出しました。
穴の入り口は狭く具足姿では入れそうになかったので、具足を脱いで脇差だけの武装が良いと、皆
支度をしていた所、私が召し使っていた久右衛門と言う者が、私にこのように囁きました。

「今こそ手柄を立てる時です!この穴に一番に入るのです!」

私はそれを聞いて「尤もなことだ」と思い、一番に穴の中に入った所、廣井嘉右衛門が後から入ってきて、
私の帯を掴み、穴から引っ張りだそうとしました。
しかし久武久右衛門と言う者が廣井に、「七郎兵衛は若輩者の志で先に入ったのに、お主が
そのようなやり方で、例え功を稼いだとしても、我々は後日の詮議で、一番は七郎兵衛であったと
証言するぞ!」と申し立てたため、廣井も私の帯を放しました。

こうして先頭が私、2番が廣井嘉右衛門、3番が久武久右衛門という順番で穴に入りました。
その他にこの穴に入ろうというものは、一人もおりませんでした。
穴の中で廣井から、「脇差を抜いて手に持っておけ」と言われ、私も尤もなことだと思い、脇差を抜いて
手に持ち、穴の中を進みました。

穴の入り口は狭かったのですが、奥に行くにつれて広くなり、12,3間もありました。
半ばで地面が盛り上がっており、これでは穴の口から撃った鉄砲など、当たるはずも有りません。

奥に隠れていた唐人たちを発見しましたが、彼らは日本人の鉄砲を恐れていたため、立ち向かってくること無く、
我々の姿を見るや、全員残らず抜け穴から逃げ出しました。しかし穴の外に残った者達が、
それを残らず召し捕りました。
この唐人たちは全部で17人。私達は彼らを斬首し、その上で鼻を削ぎ、穴に入った3人で分けました。
私は鼻7つ、廣井嘉右衛門は鼻6つ、久武久右衛門は4つを手にしました。

そうして本陣に帰ったのですが、時間は既に、夜の九ツ(午後11時頃)を過ぎていました。
これは先の軍法に違反しているということで、特に穴に入った3人には、切腹を申し付けると決定し、
私はその覚悟をしました。

所がそれから3日目に元親公の御意にて、「国元から100人ほどしか高麗に召し連れておらず、
その内では切腹する3人も含めて、10人と言えども大切である。よって今回は助けてやる。」と仰られ、
この旨は出頭人の中内勝助と申される方より発表されました。
そして翌12月9日、私たちは元親公にお目見えを許されました。
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部軍の一兵卒から見た、朝鮮の役での一コマである。





702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 22:46:32.33 ID:8QWdfP/d
「おいでませ野間 歓迎 源義朝公」

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/24(金) 23:05:36.90 ID:w32lz4E7
福留とか久武とか長宗我部の重臣格の一族名だな

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:40:06.31 ID:Ihe91kgD
>>701
>5,6里ばかり進軍せよ。その途中で唐人に遭遇したなら、それを討ち取り、
>但し暮六つ(午後5時)以前に本陣へ帰るように
>八ツ時分(午後1時頃)に御本陣を出
>そこから6里ばかり進んだ所で、騎馬の唐人の部隊、20騎ばかりを発見しました。

4時間で20km行って戦闘して20km帰って来るの?(´・ω・`)

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:47:52.61 ID:zUSlV+Tv
>>705
八ツ時分が、午後1時ではなく、午前1時~3時の方ではないだろうか?

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/26(日) 12:57:07.19 ID:TxFi1cNb
超スケベの一里も4kmでええのんけ?

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 00:44:33.30 ID:HTBPF3WR
一里が約4km定められたのは江戸時代で戦国期の一里は1kmなかったって聞くけど?

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 01:08:17.62 ID:/WDr3SNv
中国だと、一里500mだったってのはよく聞くね


福富隼人と、その兄弟

2013年05月24日 19:52

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 20:06:08.91 ID:knNTMBy/
天正14年(1586)、長宗我部元親公の御嫡男である信親公は、豊後の大友が島津に攻められているのを
助けるため、長宗我部や仙石が加勢いたし合戦となり、ここで討死されました。

私の父である福富隼人は長宗我部家に仕えており、この合戦の後、長宗我部が再び九州に出陣した時に
先手を仰せ付けられ、天正14年9月21日、38歳にて討死いたしました。
その合戦の名は豊後府内陣と申します。また、筑紫陣とも呼ばれているそうです。

我が父隼人は討ち死にするまで数度にわたって名を上げる働きを致しましたが、
それらの事については、長くなるので省略します。

こうして私は、幼少(11歳)で父と離れました。

父・隼人は長男でした。
次男の民部は、豊後府内陣において兄隼人と共に、35歳で討ち死にしました。
三男の平兵衛は、伊予南表の大津という所で合戦が有った時、深手を負い、帰陣後30歳で亡くなりました。
四男の新六郎は、阿波国での勝端合戦で、26歳で討ち死にしました。
五男の新九郎も、新六郎と同じく勝端合戦で、20歳で討ち死にしました。

(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

長宗我部元親が土佐の出来人として成長する裏での、巨大な犠牲の一端が垣間見られる、
福富隼人とその兄弟の戦死についての証言である。





谷忠兵衛忠澄の事

2013年05月21日 19:50

谷忠澄   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/21(火) 07:45:37.59 ID:EsphktCK
天正十五年の夏、豊臣秀吉の四国攻めの軍勢が迫る中、長宗我部元親は城ごとに軍勢を配置し、
一之宮城は江村孫左エ門、谷忠兵衛(忠澄)の両名に仰せ付けられた。
しかしここに大和大納言・豊臣秀長の軍勢が迫る。

谷忠兵衛は周りからも知慮ある者と呼ばれていたが、事ここに到っては、城攻めの始まる前に、元親公に
講和のための交渉を始めるべきだと考え、江村孫左エ門とも相談し、矢止め(停戦)のための神文を請うため、
元親の居る羽久地城へと参上した。

しかし元親は、谷忠兵衛の進言を聞いて以ての外に激怒し、忠兵衛は全く面目を失った。

それでも現在は一大事の時であると忠兵衛は考え、在城している重臣たち全てと話し合い、何れも
忠兵衛の見解に同心するに至った。

忠兵衛は3日ここに留まり、重臣一同の総意として、豊臣軍との講和をするよう元親に諫言した。
そのため終には元親も、忠兵衛の言う通りにするとした。

忠兵衛はこの講和を認める重臣一同の一札を取ると、一之宮城に帰り、豊臣秀長にこの旨を申し上げ、
降参の首尾を相整えた。

この時、城中よりも軍勢が出て、豊臣軍と対面したが、豊臣の上方勢は何よりも馬が大きく、武装も華やかで、
千騎が二千騎にも見えるようであった。
一方の四国勢は、馬も細く武装も侘しいもので、こちらは千騎が五百騎に見えるようであったと語り伝えられている。

同年12月には元親が降参のため大阪に向かった折にそのお供をし、秀吉にお目見えされ、直々に刀を拝領し
人々から名誉の侍であると大いに褒め称えられた。

豊後の戸次川の戦では、谷忠兵衛はその嫡男が、長宗我部信親と共に討死をした。
このことも有り元親は、信親の遺骸を受け取る使者として、島津の新納忠元の元に使わされた。

この谷忠兵衛は土佐中村城を任され、慶長五年(1600)11月7日、関ヶ原の結果長宗我部が崩壊する中、その地で病死した。
享年67歳であった。
(長曾我部覺書)





竹内弥藤次の妻

2013年04月08日 19:53

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 06:39:43.13 ID:kIdZmlHW
長宗我部元親の家臣である久武内蔵助は、伊予国宇和郡の岡本城そ攻略する計略を立て、
この合戦には、侍大将の竹ノ内虎之助、およびその娘婿である弥藤次も一騎当千の侍20人、
小者20人と共に参戦した。

この戦いは不意打ちにより本丸の奪取に成功したものの、竹内虎之助・弥藤次父子は重症を負い、
さらに長宗我部軍は西の丸を確保できず反撃を受け、結果本丸も追い出され攻略に失敗。
久武内蔵助をはじめ佐竹太郎兵衛、山内外記といった3人も討ち取られ、大勢の兵も討たれる大敗を喫した。

敗戦の5日後、土佐の竹内の在所では、『岡本城では、竹内虎之助・弥藤次父子も含め
一人残らず討ち死にをした。』との風聞が流れた。

この時、弥藤次の妻は13歳であったが、「父も夫も討死したのであれば、同前に果てる」と
書き置きし、守り刀にて喉笛を掻っ切って死んだ。

そんな中、虎之助と弥藤次は伊予で傷を直し帰還した。そして妻の自害を知った弥藤次は、
嘆きのあまり切腹しようとした。

しかし虎之助は弥藤次を止めて、言った
「お前は私の甥であり、聟である!そして私にはお前の他にもはや、苗字の一類はおらぬのだ!
お前が死んだからといって、私の娘が帰ってくるわけではない。娘の後世の助けになるという
わけでもない。

そして、我が家も絶え、君にも不忠となる。

どうか、思いとどまってほしい。」

弥藤次はこの理に服し、切腹を止めた。
そして虎之助は知行を弥藤次に譲り、弥藤次は後に竹内玄蕃と名乗った。

虎之助は隠居料を取って、佐竹という城の番頭を勤めた。
(長元物語)





203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 20:44:48.26 ID:OoOODWD4
>>201
戦国時代だけじゃないけど、訃報を信じて殉じちゃう例って案外あるよな。
13歳とは何とも哀れだ。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 21:08:05.15 ID:Y9Ukvved
フィクションだけどジュリエットを思い出した。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 21:53:26.70 ID:qvHDiQxr
>>201
そりゃ殉死連鎖で一族絶えたら洒落にならん

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 11:05:11.58 ID:W0KcGvTL
>>203
白虎隊とかw

207 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/09(火) 19:23:54.65 ID:bYfOHI31
戦国白虎隊

一領具足の提言

2013年04月02日 19:54

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/02(火) 14:09:33.92 ID:vwvdjhzB
長宗我部元親が阿波から帰陣し、家老や城持ちの重臣を召して座敷に集め置かれた。
この時一領具足の武功者たちも10人ばかり召しだされ、これは別の座敷に置かれた。
この両方に元親より仰せ下された内容は

『阿波の攻略がはかどっていない。そこで、なにか良い計略があれば申し出てほしい』

という物であった。家老城持ち衆が申し上げたことは

「阿波の府中の付近は山もなく、長駆して攻撃に向かっても、陣取りが大変難しいと思われます。
その上三好も、未だ阿波半国の大将であり、多くの軍勢を保持しております。
ここはすでに確保した山間部の近辺から、毎年出撃し秋ごとに稲をなぎ倒し、敵の下々を
疲弊させるべきです。そうすれば謀反人も、降参する人間も出てくるでしょう。」

一方、一領具足の者達はこう申し上げた

「我々は早急に阿波を攻略せねばなりません。そうしないと阿波どころか、この土佐本国すら
三好家に取られてしまうからです。何故なら、三好笑巌(康長)は河内の国の半国を知行して
いますが、彼の養子は羽柴筑前守殿(秀吉)の甥(後の秀次)であります。
であれば、筑前守殿に加勢されて笑巌が阿波に渡れば、さほどもかからず三好正安(十河存保)を
討ち果たし、阿波国を残りなく取ってしまわれるでしょう。

決断するのはこの時です!(御分別此時ト言上ス)」

元親は「一領具足の申し様、誠にもって神妙である。では具体的な作戦内容を申してみよ」
と再び尋ねた。

一領具足どもは畏れながら申し上げる

「三好正安の居城の勝端8里隔てた、土佐からの大道筋の抑えの城、一之宮、夷山がありますが、
この間に大道があります。ここを押えて人数をおき、出撃して勝端から3里こちら側の、
中富川までご出馬されたなら、「少人数にて長距離を出撃してきた、これ幸い」と、三好正安自身が
これを討つため出撃してくるでしょう。この時に正安を討ち果たす事が可能だと考えます。」

この一領具足というのは、他家において馬廻分ほどの侍である。
(長元物語)

一領具足による阿波攻略作戦の提言、という逸話である。




901 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/02(火) 19:37:19.41 ID:ASLUBERs
これ結構有名な話だよな?

長宗我部家の61人

2013年03月30日 19:54

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 13:45:26.91 ID:iE0N7KTB
長宗我部元親が逝去した時、御世継ぎであった盛親は、土佐国中の長宗我部直臣の武士の
リストを作り、その中でも元親の覚え優れた者は、特に書き付けて報告するように、と
仰せ付けられた。

これにより久武内蔵介は国中の在地を廻り、村々に在住する小身の侍で、年齢10歳以上を
帳面に書き付けた。
この結果、長宗我部の直臣の武士は老若合わせて9,736人。そのうち元親の覚え優れたものは
61人であった。

この61人の中には、槍働きもなく首も取った事もないのに入ったものも有り、逆に
細々とした合戦で5つ3つの首を取っていても61人の中に入らないものもあった。
それは何故かといえば、こんな仔細が有った。

勝ち戦の時は、ただ首を取れば手柄になるわけではない。功者衆集まり証拠を正し、
しかも証拠が紛れもなくても、証人によって正義の立つことも立たないこともある。

61人の選定は厳重な吟味が行われた。
数年の合戦で首一つを取っただけでも、その首が名の有る侍であるか、又取り難い所で首を取り
朋輩衆に誉れを立てれば、この書き立て中に入った。

首も取らず槍も使わずに書き立てに入るものも有ったが、このような人々は、
懸るべき所で懸り、引くべき所で引く、この判断に優れ的確に部隊を指揮出来る者達である。
このような人は一騎当千と云うべきである。

この調査で槍の武勇は特に入念に調査され、相掛りの槍は書き付けに入れられた。

長宗我部元親が四国において、20年にわたって打ち続いた弓矢の事を、支えた家中を
今回改めて調査し、特に書き付けた老若61人について、このような経緯で選定されたのである。
(長元物語)




872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:16:31.15 ID:WF4EIqSf
直臣だけでほぼ1万とは随分多いな
隠居や部屋住みまで含んでるんだろうけど

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:56:59.07 ID:awDEIkUt
徳川の旗本八幡機ってどんな機体だったんだろうな

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 16:00:07.15 ID:xblWz0i5
そういや徳川の旗本でも5千人くらいだっけか
まあ御家人が倍以上いるだろうけど…

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 16:09:09.26 ID:pie1/wct
勝った兵法が正しい兵法
残念ながら間違いない

臆病についてのこと

2013年03月29日 19:50

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 14:14:52.59 ID:4Ot2OoDm
長宗我部元親家臣、立石正賀の著した長元物語より、臆病についてのことなど

『田中新右衛門と言う人が語ったことには、臆病という字を”むねの病”と書くのは
尤もだ、と言う。合戦で不利な状況になると、私も人も鑓を取るとき胃が逆流して
吐き出す事がある。これは持病であるからそう言う時に吐きそうになるのである。

桶山善兵衛という武勇の道の巧者の老人の話によると、臆病者というものは、船に酔うような
ものである、例えば、船酔いをする人は、船に乗る時に酔わないよう、胸に灸をすえたり、
あるいは蜜柑の皮を鼻に差し込んだりして予防をし、小浪の時は大丈夫なのだが、
いざ大浪になると胸の内がどうしようもなくなり吐瀉してしまう。

武の道もそういうものである。誰であっても普段は嗜みがあって人並みよりも良く見えるが、
いざ敵との強烈な競り合いになった時には、呼吸が苦しくなり思考は混乱し、
義も理も外聞も忘れてしまうのだ。こういう時は無理をセず、能く能く養生を専らにするのが
第一である。

右の桶山氏がまた言うことには、逃げる時、殊の外急に追われると、腰の抜けるものがある。
しかしそれが臆病だと一概に言うことは出来ない。何故かといえば、いろいろな戦場で
様々な勇者と呼ばれている人の中にも、こういう時腰が立たなくなる者が多かったからである。

また桶山氏の言うことに、敗軍の時、遠くまで逃げるという状況で急に追われると、
先ず兜を捨て、次には具足を捨て、その次には刀脇差を捨て、最後には丸裸になって逃げる
ものである。

このような事について兼ねてから思うのは、人と心を変えることは出来ないので、逃げているその人の
身にならなければ、その気持ちを知ることは出来ない。
合戦で不利な状況になった時に、自分と我が身がどうなるか、実際に試さなければ、
他人の行為について考えても言及しても、必ず真実とかけ離れたものに成るだろう。

ある老人が云うには、具足震い(武者震い)の事について、敵を見てそれに攻め進む心で
震える事もあり、また恐れて震える事もある。その震えがどういうものかは、自身の身の内に
見知るものなのである。』
(長元物語)




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 15:09:59.20 ID:ovQA0ppI
雷神男塾『臆病者は当家に来い!剛の者に生まれ変わらせてやる』

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 21:27:54.51 ID:Q4f9yYZJ
逃げるときはフルチンで逃げよ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 22:24:13.76 ID:H15/4sm3
>このような事について兼ねてから思うのは、人と心を変えることは出来ないので、逃げているその人の
>身にならなければ、その気持ちを知ることは出来ない。
>合戦で不利な状況になった時に、自分と我が身がどうなるか、実際に試さなければ、
>他人の行為について考えても言及しても、必ず真実とかけ離れたものに成るだろう。

色々と考えさせられるねぇ。

人間なんて、知識や科学技術の面で進歩はしても、
根本的な部分はそんなに簡単には変わらないってことだろうな。

>>864
「ヤバいと思ったらすぐ逃げろ」ってのは普遍かつ不変の教訓だと思うw

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 23:38:20.49 ID:1gbpsi9F
逃げる時は茶店のババアに気を付けろ

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 00:12:36.65 ID:pie1/wct
ヤバいと思ったらすぐ逃げろは個人単位だと間違いない原則だけど、
集団戦で個人判断で逃げるとそこから崩れる場合もあるんだろうな
大将って凄い大変だろうな
兵の士気たもつのとか

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 08:35:46.81 ID:586Bs28J
気分はけっこう伝染するから、リーダーは大変だよね

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 08:38:43.34 ID:u9opqUn7
臆病者には臆病者の、暴虎馮河の無謀者には無謀者の、平凡な者には平凡な者なりの働き場を与えよう
が出来る堀、蒲生、黒田も世代変わると仕え勝手激変だしなぁ。

>>867
この大将なら、と思わせる信頼感保つのは大変だろうなぁ。
何度討ち死にの報が飛んでもどうせまた量産型信龍だろ、と思わせて士気が落ちない、なんてのはちょっと異形だけどw

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 10:18:33.71 ID:Ggjwg6L2
「あの一条さんが死ぬわけないじゃん、どーせ下賜されたモン身に着けたヤツを敵が見間違えたんだろ」
と共通した見解が出されるってことだからなw
なかなかねーわ

貫高と石高

2013年02月27日 19:50

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 23:03:24.50 ID:k4fnI85x
昔は、地方の知行を測るのに、『百貫千貫』という単位を使っていた。現代でも仙台では、その単位を使っているところがあると聞く。
しかしこの単位は、西国においてはもはやはっきりと知る人はいない。

武家系図の、相模入道高時(北条高時)の項に領地28万7千貫とある地が、現在知行143万5千石であり、これから
おおよそ田5段を1貫としている計算となる。

またある人が、奥州の人に聞いたことだとして語ったことには、昔は永楽銭10文で、米4合8勺が販売されていたという。
故に100文は4升8合、1貫は4斗8升、100貫は48石に当たる。
ということは、知行100貫というものは、今の知行100石とほぼ同じになる。(おそらくは5公5民計算)
後世、家によっては知行を蔵米にして渡すが、4つ8分の免ならしとして、米48石と名付けて遣わすのは、この古法によるのだという。

しかし今考えてみると、この土佐はそのようではない。
私の友人が、古い證文などによってこれを研究したのだが、彼が言うには、土佐国幡多郡は、中村郷不破村の八幡宮の宝蔵に、
かつてこの地域を治めた一条家の古文書があって、それによると


     於本郷中村
    八幡江新御寄進田之事

                       有間之内
中ノ前田               光任小作
一所壹貫                彌五郎

ハシラ松               目黒之内
一所壹貫分               泉(欠損)

大ホトケ
一所七百五十分          蔵橋分

ミソノ下
一所貳百五十分          立石分

合参貫分宛
 永禄二年巳未3月吉日
                  康政(印)      』

この文書から、現在の八幡の地領の土地を比較して考察してみると、田1歩を1文として、100歩を100文、1000歩を1貫と
していることが解った。これは銭1000文を1貫とするのと同じである。とすれば、1貫は3段3畝10歩である。
100貫は10万歩、現在の計算では33町3段3畝10歩、知行333石3斗3升3合、とするべきであろう。(但し1反=1石とする)
おそらくは関東でも計算式もこのようなものであったのだろう。

かつて一条殿を、幡多郡1万6千貫の主と呼んでいたと伝わる。
これに、先の計算式を当てはめると、5万3千3百石あまり、となる。

現在の幡多郡の石高は、元親以後の(検地の)改出と、開発された新田等を加えて、7万石あまりである。
ということは、かつて幡多郡が1万6千貫であったというのは、この法則からいってほぼ相違無いと考えられる。
(土佐物語)

以上、土佐物語より、貫高と石高についての考察である。土佐物語が成立した頃は既に、貫高の事は全く解らなくなっていたのですね。




758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 23:14:30.67 ID:x1emc8lH
読んでて混乱してきた

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 09:48:40.03 ID:vwFC7TfY
>>757
その頃には「石高」も意味不明になってるけどね。

生産高なのか物成なのかさえ分からなくなってて
現代も議論が分かれてるし。


長宗我部元親が織田信長公に通じられた事に関して

2013年02月26日 19:50

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 12:47:46.52 ID:k4fnI85x
長宗我部元親織田信長公に通じられた事に関してだが、
明智日向守(光秀)家来、斎藤内蔵助(利三)は元親の小舅であった。ここから元親は明智の取り成しを以って、
元親の嫡子。弥三郎の実名の契約を信長公といたし、その偏諱を頂いて、信親と名乗った。
このような友好関係から、四国のことは元親手柄切り取り次第との御朱印を、信長公より下されたのである。

ところがその後ある人が、元親のことを信長公にこう申し入れた
「元親という人物は、四国に並びなき弓取りです。今のように切り取り次第を許していては、後々天下の災いにも
なるでしょう。阿波・讃岐まで手に入れその上淡路にまで手を出すことは、あってはならないと考えます。」

信長もこれを尤もだと考え、その後、先の朱印の内容を一方的に変更し、『切り取っていいのは伊予・讃岐まで。
それに阿波南郡半国を付けて与える』と伝えてきた。

元親はこれに大いに怒り
「四国のことは、私が自分の実力で切り取ったもので、これは信長卿のご恩義ではない!
この要請は私が思いもしなかったことで、驚き入っている。」
と、これを完全に拒絶した。

その後、織田方より重ねて、斎藤内蔵助の兄・石谷兵部少輔(頼辰)が使者に使わされたが、元親はこれにも
拒絶することを言い切った。

これによって織田と長宗我部は断交し、信長は息子である三七殿(信孝)を四国征伐の大将として
泉州岸和田まで出陣させた。

この時、斎藤内蔵助は四国のことを強く気遣かい、明智に謀反を急がせた。よって6月2日、
信長卿は御切腹された。
このため四国は無事にすんだのである。
(土佐物語)

土佐物語より、本能寺の原因についての言及である。




746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 17:03:22.16 ID:Zr0bAbLG
急がせたってことはそれ以前から叛意を持ってたってことだから原因なんかね?

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 21:48:58.74 ID:hTVtKC/m
>>745
結果的には滅んじゃったけどな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:08:59.67 ID:c5vsZAoX
>>753
長宗我部に限った話じゃないけど、そうやって家を大きくしても
結局たったの十数年後に滅びましたというオチが付いちゃうと悲しいねい。

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:28:46.68 ID:Ad6RZUrn
俺も滅亡しようかな・・・

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:38:53.97 ID:2US/it7g
まだ興ってもないじゃないですか!

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 04:52:51.84 ID:mznTk9Ao
>>754
いまの日本企業の平均寿命が30年くらいだったか

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 05:03:00.63 ID:zOS/PnjH
街のラーメン屋の平均寿命も知りたい

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 05:52:59.08 ID:1zHo4Y8F
>>760
今の勤務地の近くにここ2年で4回テナント変わった建物があって内3回はラーメン屋だった

駅前で周りの店は昔からあるのにその建物だけ次々に変わる


スレチすまん

手を汚さず幡多郡を取りたり

2013年02月22日 19:58

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 07:22:27.20 ID:PYli8qM8
土佐の幡多郡を支配していた一条兼定公が没落されたのは、一説に天正元年(1572)8月、兼定公御歳31の時に
法礼がありこれを口実に、所縁によって豊後大友方に送られた。その仔細はこのようなことである。

当時、土佐七郡のうち6郡は長宗我部元親が切り取り、一条氏は本拠の幡多郡をどうにか確保していた有様で、
一条家中には様々な雑説が流れ、諸氏の心はバラバラであった。

ではあったが一条家家老に土居宗珊(宗算)という、武勇智謀に優れた人が有り、この人が生きているうちは
元親も幡多郡に手出しすることは出来ないと、人々も思っていた。

そこで元親も宗珊を殺すための謀略を廻らされ、先ず宗珊方に数通の文を遣わし音物を送り、
親しい友人同士であるかのように、人が思うように仕向けた。
そうしてある時、元親と宗珊が意見を合わせ謀反を企てる準備を行なっているかのような文を落とした。

一条殿はこれをご覧になり、きっと御運の末であったのだろう、真実だとお考えになり、宗珊を召し出して、
その場で手討にしてしまった。

このため一条の家中は勿論、一条家に従っていた国人や城持ちも一条兼定を疑い、仮病を使って出仕を
止めるものが多く、家中は大きな騒動となった。
元親はこれを聞いて、

「手を汚さず幡多郡を取りたり!」

と喜び、一条殿の家老、並びに国人36人の城持ちに申し渡されたことには

『一条殿は我らの先祖をお取り立ていただいた筋であるので、主君だと考えていたのに、私が安芸と合戦の時、
安芸に対して軍勢を御加勢され、私は大変な迷惑に及びました。
その後、津野との合戦の時も、また津野方に加勢なされましたが、この両度とも私は天運にかなって勝利を得たのです。

このように、一条殿は私を御悪みになっておられますが、この度一条の御家から、突然のことで私には
全く思いもよらない事だったのですが、家中の家老国人衆の判断により、私に対して若君の御後見をするように、
と申し遣わされたのです。』

として、元親は一条兼定を隠居させ豊後へ送り、若君である一条内政を元親の後見によって取り立てた。
こうして幡多郡は初めて、元親の支配下となったのである。

一年過ぎた頃一条家の家老や国人達が蜂起し元親と合戦に及んだ。
この時元親は幡多郡の武士たちに、「その郡が乱れている所に、若君を置いておく訳にはいかない。
大津の城に移してこの元近の婿とする」と言い渡し、若君を長岡郡大津城に入れ、元親の息女を輿入れさせた。
一条殿の居城には、普通の者では恐れがあると、吉良左京(親貞:元親弟)を入れたということである。
(土佐物語)

以上、長宗我部元親による一条兼定追放、土佐統一についての逸話である。




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 08:08:20.39 ID:lQ6SLSDO
手紙怖い

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 11:13:05.68 ID:u1ioEcDP
一条さんの悪い話だなw

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 13:57:35.36 ID:BZ6YdGLW
馬超「手紙ごときで情けないな」

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 21:59:07.43 ID:pHhKhLQg
陶晴賢「偽の手紙で離間しようなんて、使い古された手だよね」

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 22:33:19.95 ID:i24N83en
義昭公「ウソはだめだよね」

三斎様「忠利くんへ…」

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/22(金) 23:43:38.41 ID:HaIsVkcW
晴久「こんな見え見えの手に引っかかるわけないだろ。・・・・・・これは利用できる。」

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 16:50:36.38 ID:tILfhH+y
その長宗我部家も関が原後没落してるんだよね
因果応報だな

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 20:02:38.17 ID:bgqSXdkM
まあ、元就さんの
「きっと恨まれてるよ復讐されるよ誰も助けてくれないよ
家族だけが頼りだからなわかってるなおまいらガクブル((;゚Д゚)」
に比べると長宗我部は隙が大きいかな

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 22:24:15.23 ID:dhQT+eJC
肉親相食むことも多いけどね

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 22:33:59.44 ID:j4GGDB0W
山陽の人間は信頼出来ない

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 22:47:23.70 ID:lMZuhj91
やっぱり島根だね!

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/23(土) 22:50:38.87 ID:+pVDKjPo
堀尾忠氏「島根と高知、どっちがよかったんだろう」


君臣合体のお楽しみ

2013年02月02日 19:51

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/01(金) 22:10:36.65 ID:3K8YK6hI
小田原陣が終わって都に戻った豊臣秀吉はある日、聚楽に諸将を召して饗応をした。
そのうちに昔今の物語となり、秀吉が長宗我部元親に向かって

「ところで宮内少輔(元親)は四国を望んだのか?それとも天下を望んだのか?」

そう尋ねられると、元親は畏まって

「どうして四国など望みましょう?天下を心にかけていました。」
と答えた。秀吉は

「宮内少輔の器量では、天下の望みなどどうして叶うだろうか」

これに元親
「悪い時代に産まれたために、天下の主に成りそこなりました。」

秀吉は笑って「それは一体どういうことだ?」と尋ねると、元親

「今は、天晴他人の天下であるので、恐れ多いと思いますが、大度の君と同じ時代に産まれてしまい、
望みを失いましたので、悪い時代に産まれたと申し上げたのです。」

この言葉は秀吉の笑いのツボに入り(殿下笑壺に入りて笑わせ給ひ)、大いに爆笑した。

酒宴の後、秀吉は施薬院を召して、「宮内少輔に茶の湯を所望したい」と話した。
施薬院は畏まり「宮内少輔もかねてから殿下に御成りになって頂きたいと願っていましたが、しかし屋敷が粗末なので、
憚っていたのです。」と申し上げた。これに秀吉は

「いやいや、粗末なのは構わない。茶の湯というものはな、質朴なのを本意とするのだ。
外を飾って華美をなすのは数寄の道ではない。近日中に彼の屋敷に行くぞ!」

と申された。これを聞いて元親は大いに喜び、千宗易に相談してその準備をした。
秀吉は御相伴として、富田将監、稲葉兵庫頭、施薬院を伴った。

元親は路地に茶屋を立て、若い女二人を綺麗ないでたちで控えさせ、女達は秀吉がお通りの時「ちとお腰を掛けていかれませ」
申し上げた。秀吉一行は「いや、急ぐのだ」と言ってそのまま通ろうとするのを、平にと袖に取り付いて招き入れたので、
そこまで言うならと、茶屋に腰を掛け、そこで様々な戯れなどを言った。

ここで女達は餅を出し、まず秀吉に、そして相伴の3人に渡す。その上で「餅の代金を頂きます」と言ってきた。
秀吉は金銀を出して与えたが、他の三人は逃げ出してしまった。食い逃げである。
これを女達は「そうはやるまじ!」と追いかけた。秀吉はこれに

「逃がすな逃がすな!」

と大笑いして声をかけた。

その後数寄屋に入り茶の湯を楽しみ、その後書院に移り、元親からの進上品を受け、さらに施薬院との囲碁を楽しんだ。
この終日の遊行に、秀吉のご機嫌斜めならず、後で千石分の米俵を、元親に与えた。

君臣合体のお楽しみ、目出たかりける次第なり。
(土佐物語)




253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/01(金) 22:22:03.28 ID:YO9iI/fO
肥前名護屋の瓜畑遊びといい、吉野のコスプレ花見大会といい、ラスボスこういうの好きだなぁ

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/01(金) 22:39:24.00 ID:jfYjNynK
千利休プロデュースのイメクラである

285 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/02/03(日) 23:07:03.64 ID:AVr9gRAY
>>252
餅の代金を払わずに逃げて女に追いかけられた相伴って、やっぱりあの人?

286 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/02/03(日) 23:08:10.42 ID:AVr9gRAY
あっ、ちゃんと書いてあったか。
てっきり、あの人かと・・・。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 23:08:36.08 ID:ME/QqaUN
>>285
家康公かw

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/04(月) 00:25:01.35 ID:GBO0glti
家康「さっき嘉定通宝ひろったんでコレで見逃して下さい」(震え声)


槿花の宮の事

2013年01月29日 19:51

333 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 18:39:16.52 ID:QkWcQkiV
槿花の宮の事

長宗我部元親が仁井田を巡見し、堂原に至った所に、槿花の宮という祠が有った。
元親は、これは聞いたこともない祠だと思い、現地の老人を召し寄せその縁起を尋ねた。
老人が畏まって申し上げるには

「この宮については、不思議な物語があります。

志和の城主和泉守の息女は、容色無双の美人でありました。これを西原藤兵衛重介が娶り、
比翼の語らい(いつも寄り添って語り合っていること)の夫婦仲であったのだが、
ある時この妻女が藤兵衛に涙とともに語った
「私には悩ましいことがあります。どうか暇を与えてください!」

藤兵衛は驚き
「これは心得ぬことを。私はお前と、二世までとも思っているのに。さては他の誰かに想いを寄せているのか!?」
これに妻女、涙をこぼし
「申すも恥ずかしいことですが、申さねばお疑いなさるでしょう。
実は、夜な夜な私の寝室に通って来る者があります。どこから来たとも知れず、又如何なる者とも知れず、
夢ともなく現ともなく忍び入ってくるのです。

初めの頃は私もこれを拒みました。しかしついにこれに従い、終夜語らい、この者が帰ったと解ると、
夢が覚めたようになるのです。

始めは、これは夢だと思いました。しかし彼は一夜も欠けることなく現れ、生臭い移り香も感じました。

一体どんな化生の仕業でしょう?わたしは、心ならぬ事とは言いながら、あなたと二世を約束したのに、
このような浅ましいことになってしまいました。
どうかお暇を下さり、私は急いで里に帰ります。とにかくもそうしないと…」
そう、声を上げて泣いた。

しかし藤兵衛はこれを聞いて呆れながら
「一体何を言っているのだ?お前は私と枕を並べて寝ているではないか。それなのに
私が知らないのだから、それは夢に違いない。
そんな夢で、私がどうしてお前を厭う事があるだろうか?そのような事を気にしないように。」
と、苦笑しつつ言った。

だが一方で『もしかして、浮気をしていて私を欺いているのだろうか?いや、不思議のこともあるものだ』
と思い、様々な祈祷をし、憑物落としなどもしたが、妻女はただ、物思いに沈む体であった。

大永七年(1527)三月二十二日、未の刻(午後2時頃)の事である。

妻女は藤兵衛に向かい、世の中の儚い事などを語っていたが、何気なく、ふと立ち上がり、縁の方に
行くかと思えば、庭の梢の上を、まるで平地を行くように歩いて、塀の上にたった。

藤兵衛は突然のことに驚き駆け寄って、彼女を引き止めようとしたが、妻女は
「藤兵衛殿、さらば!」
と言って塀から飛び降りると、はたひろ(約4メートル)ばかりの大蛇となって、淵の中に入っていった。

不思議というのも愚かなことである。下女や端女達は大いに恐れて逃げまわり、藤兵衛は、
妻女がこのような事になったのを見ても、どうしても彼女を名残惜しく思い、途方に暮れて嘆いていた。

そうして、しばらく経った頃の事

あの妻女の父である和泉守が常に召し使っていた次郎介という下部(卑役の雑人)が草刈りに出て、
その川上で鎌を落とした。あたりを見ても見つからず、草を分けて探していると、気がつけば
広々とした野に出た。四方を見渡してみても、全く見慣れぬ場所で、帰る道も解らず、仕方なく
足に任せて歩いていると、そこに大きな築地塀があった。

そして大きな門を始め、中の家も結構と言うばかりの立派な作りである。
門の中を覗いてみると、人一人もおらず、思わず奥に入ってみると、そこに一人の女性が機を織っていた。

334 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 18:39:54.32 ID:QkWcQkiV
そして彼の方を振り向き「それなるは次郎介か?」と声をかけた。
次郎介は驚いた。それはあの、藤兵衛の妻女だったのである。

「ど、どうしてこんな所にいらっしゃるのですか!?姫君が行方不明になって以来、ご両親様のお嘆きは
言葉で表すことも出来ないほどでした!そして御母上君は終に嘆きのあまりお亡くなりになり、
御父上君も嘆きに身体を崩され、今はお命も危ういように見えます。

姫君様!さあそこから出てください!私がお供いたして、帰りましょう!」

妻女はこれを聞くと涙を流しながら
「私がこのようになって後は、我が二親のお嘆きを思って朝暮に悲しく、我ながら浅ましく思っています。
であるが、これは前世からの宿業であるため、仕方のない事なのです。
せめて父君に、このような有様ではあるが、子も多く産んだと言うことも伝えなさい。
少しはお嘆きを安める事も出来るでしょう。
私が再び、人界と交流する事は出来ません。これだけは悲しく思っている。

今日はここの殿も、あびやうし殿といって、ここから二十町ばかり北にあびやうしが淵の主があり、
それへの慰めのため、眷属共をみな引き連れて参られた。よい隙なので、お前にここを見せ、また
今の状況を父君に伝えたいと思い、お前の鎌を取ってここに隠したのです。
お前の鎌はこの機に懸けてあります。これを取って帰り、この有様を詳しく父君に申し上げてください。
絶対に他人には語ってはいけませんよ。」

そう申し渡され、次郎介は
「で、では、お子様達はどこにいらっしゃるのでしょうか?」
と尋ねると、「あそこで昼寝をしています」という。そこでそちらに行って見てみると、
数知れぬほどの小蛇が、うずくまり重なり伏せていた。

次郎介は身の毛がよだったが、何でもないようなふりをして「ど、どうか殿の留守の隙に、
故郷にお帰りください!御供仕ります!」と重ねて申し上げたものの、妻女は涙にむせび
「私もそうしたいが、再び人界に戻ることはならぬのだ。お前は殿の戻らぬ内に、急ぎ帰りなさい!」
と言われ、もはや致し方なく、「又こちらに参ります」と出立すると、妻女は名残惜しげに
見送った。

次郎介が四、五町ばかり歩くと、元の川端に出た。後ろを振り返って見ると、今来た道はどこに行ったのか、
川が流れ草が生い茂り、その跡形も見えなかった。

次郎介はあまりに不思議な事だと思い、友人達に「このような事が有った」と語ったが、
恐ろしさに舌を震わす者も有ったが、「そんな馬鹿なことがあるか」と否定する者も多かった。
と、そんな所に次郎介は、にわかに物怪のように踊り狂い

『人に語るなと言いしものを、悪い奴かな!我が棲家へ連れて行くなり!』

と大声で叫び、その夜行方知れずとなった。

西原藤兵衛はこの話を聞いて
「わが妻女が蛇道へ落ちたとは、なんと嘆かわしいことだろう。一体どういう業因なのだろうか。
せめてその苦しみを助けてやりたい。」
そう思われ、この祠を建てられ、槿花の宮と名付けられました。なんといじらしい心でしょうか。

西原藤兵衛は深く嘆きましたが、間もなく空しくなり、子も無かったためその跡も絶え、城には住人も
おりません。妻女の父和泉守は、悲しみに耐えず、志和の里に天神の宮があったため、一社に祀りこめて、
北野の天神、今天神など、一社の中に社壇を並べられましたが、後に、妻女が蛇道を免れた事が
新たに御託宣あり、諸人これを承り、有難きことと肝に銘じたのであります。」

長宗我部元親はこれを聞くと「そうであるなら西原の城を見よう」と立ち入り一見した。
この城は山の尾先、屏風のような切崖の上に塀をかけており、下は鵜の巣の淵といって、
深いこと限りなく、その藍の水の色からは、大蛇が住んでいるというのも偽りではないと感じさせた。

こうして元親は高岡郡の城々への仕置の下知を完了し、岡豊へと帰られた。
(土佐物語)




335 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/29(火) 22:31:42.54 ID:HfG/u7B+
獣姦NTRとはまた高度な・・・・・・

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 23:35:31.62 ID:gJtbY3kA
しかもヌラヌラした爬虫類
蛇×美女とかいくらなんでもマニアックすぎでしょう

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 23:37:09.82 ID:2atgh01A
古事記における倭迹迹日百襲媛命からの日本の伝統

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 00:58:35.08 ID:1VXwlu3Z
大陸なら蛇女と人間の男の組み合わせもある
蛇女は陰の気が強いから男は死ぬか瀕死化になるけど

狐なら、孫だとされている栗林義長がおるね

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 01:06:40.00 ID:dNqXk2JW
時代はズレるけど、
安倍晴明も妖狐・葛の葉が母親という説もあるね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 15:50:50.19 ID:kVgfvNS6
>>336
蛇の手触りはサラサラだよ
ヌラヌラは両生類、蛙や山椒魚のたぐいかと

『卒塔婆ヶ本』

2013年01月26日 20:03

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 19:25:27.80 ID:1XAQkbOF
永禄12年(1569)、長宗我部元親は宿敵である安芸国虎を滅ぼし、その居城であった安芸城には、弟の
香宗我部親泰を入れた。

この時、国虎の家臣であった畑山内蔵丞・右京の兄弟は、国虎の嫡男である千寿丸を阿波の矢野備後の元に
落ち延びさせ、その後故郷の畑山に帰ったが、安芸一族は皆滅び、その幕下はみな元親に降参していたため
自分たちの身を置く場所もなかった。

そこで、この畑山兄弟は元親家臣の野中三郎左衛門と所縁があったため、これを頼り、元親に降ることを乞い、
そうしてようやく畑山に居住した。

ところが、元親からの内命によって、香宗我部親泰はこの畑山兄弟を謀って安芸城に呼び寄せ。
そこで彼らに詰め腹を切らせて、殺害したのだ。

畑山の家臣たち36人はこの報を聞くと直ぐに集まり、涙を流して評議した

「さても!かのご兄弟をたばかり殺されるとは、無念というにも余りあることだ!
もし我々が従っていれば、あのように暗々と討たせることはなかったのに!
この上は安芸の城に押し入って香宗我部親泰を討取り、この鬱憤を散じよう!」

そうしてこの36人は皆で神水を飲み、出るを最期と思い定め安芸城に向かった。

これを知った香宗我部親泰
「死夫の向かう所、砕き難き習いであれば、小勢といっても侮ってはならない!」と、屈強の兵200人余りを出して
これを防がせた。

36人の者たちは、元より覚悟のことであれば、切られようとも突かれようとも物ともせず、一歩も引かず、
一人残らず一箇所にて討ち死にした。
城兵も、数多討たれたのだという。

この事が岡豊に知らせられると、元親は
「哀れ、なんという剛の者たちだろう。一騎当千とは彼らを指すべき言葉だ。最も勇も有り義もあり、
感嘆するに余りある。
その霊魂を弔わないでおくということがあるだろうか!そしてこれは、緒士に手本として見せるためでもある!」

そう言って、彼らが討ち死にした場所に、36本の卒塔婆を立て、数多の僧を請じて弔った。

それからはその場所のことを、『卒塔婆ヶ本』と呼ぶようになったそうである。
(土佐物語)




289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 19:56:34.90 ID:pktUq91W
弟が汚れ仕事を担当して不穏分子を掃討
それをネタに当主が人心掌握か…さすがに元親も戦国武将だな

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 21:16:49.17 ID:kbbZaQx1
そもそも騙し討ちするなよ(´・ω・`)

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 21:23:50.67 ID:k43E7Hju
山内家一同「そうですね」

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 21:58:26.49 ID:XkN8xL7S
山内一豊「うわー、こいつらマジでクズだな」

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/25(金) 22:03:49.98 ID:kbbZaQx1
因果応報ってやつだね
しかし、どうやって兄弟を誘い出したんだろ?
やっぱり相撲見物か...

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/26(土) 09:34:07.34 ID:k7tv7XKn
>>290
騙し討ちは元親のお得意な手

298 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/26(土) 11:15:51.03 ID:XHq7c7EC
阿波の一宮と細川だっけか

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/26(土) 22:11:26.61 ID:HAsWnEHa
>>298
有名な丈六寺の血天井というやつだな
(あれはたしか新開道善だったはず)

吉田伊賀介の妻

2013年01月21日 19:52

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/21(月) 17:59:11.68 ID:eInuXsaE
吉田伊賀介の妻

長宗我部元親は大軍を本山城攻略に向け、日々夜々鬨の声、鉄砲の音止む隙もなく、
ここに攻め寄せあそこに押し寄せ、打ち合い斬り合い、利を得て進む時もあり、怯れて退く時もあり、
互いに雌雄まちまちにて、この合戦がいつ終わるのかも解らぬほどであった。
この長宗我部の軍勢の中には、先に、これも長宗我部元親と敵対する安芸国虎の支城である馬ノ上城を攻略した
吉田伊賀介も加わっていた。

さてこの頃、吉田伊賀介に城を取られた馬ノ上城の番衆たちは、城主伊賀介の留守を、城を取り戻す
絶好の機会と思い、百四・五十騎の軍勢を集め馬ノ上に押し寄せた。

この時城内では、伊賀介の妻が、女房たちを集めよもやまの話をしていた。
その中にあった14.5歳ばかりの童女、何気なく縁側に出て遠見してみると、大勢がこの城に向かって
押し寄せてきているではないか!大いに驚き「敵寄せて来たり候!」と大声で叫んだ。

と、ここで伊賀介の妻は少しも騒がず、立出でて見渡し

「どうやらこれは、先に逃げ落ちた番衆達が、城を取り返そうと殿の留守に隙を伺い寄せて来たのでしょう。
ならば、我が方も用意せよ!」

そう言うと城中に残っていた全ての女房下女端女、さらに全く役にも立たなさそうな下男共そ呼び集め、下知をして
ある者には頭に兜を着せ、手にも兜を持たせて塀の上に差し出し、また他の者には両手に槍と薙刀を、他には
前後に旗印を、と持たせ、また大旗小旗を木の枝や塀柱に結びつけ、とにかく大勢が城に籠っているように見せかけた。

寄せ手の者達、この意外な風景に驚き、しばらく躊躇していたものの、ついに西の方へと通り過ぎ、安芸へと引き返した。
伊賀介の妻は咄嗟の謀によって、虎口の難を逃れ、夫の名をも挙げたのである。

その頃、誰が詠んだのか

『打落ちし 馬の上人今もまた 乗りも得ずしてかちでいにけり』

という歌で国中の上下男女、この番衆たちの臆病を嘲笑った。この事に安芸国虎は激怒し、その臆病の者達全員を
縛り首にしたそうである。
(土佐物語)

とっさの機転により城を守った、吉田伊賀介の妻についての逸話である。




158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/21(月) 19:52:12.98 ID:zdyBm1jg
>>157
小備後さんの兄嫁かぁ
土佐のお城は「はちきん」で持つ!ということですなw
しかし全員縛り首にしちゃって安芸さんとこは戦力的に大丈夫なのか

仙石秀久の息子について

2012年11月29日 19:50

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 20:33:19.68 ID:hxqGvG8V
仙石秀久長宗我部元親といえば、耳川の戦い戸次川の戦いでの大敗という大きな因縁がある。
その因縁は彼らの子弟にも、不思議に受け継がれていた。

長宗我部元親の後を継いだ盛親が、関ヶ原で西軍に付き、改易され京で寺小屋の師範をしていたこと、
これは有名である。

一方、仙石秀久は東軍に付き、彼の仙谷家は近世大名として生き延びた。
ところが、である

秀久の跡継ぎである仙石秀範は関ヶ原において、父とは違い西軍についた。
そのため戦後、秀久より廃嫡・追放処分を受けた。

こうして仙石秀範は京に牢人し、奇しくも彼も、寺小屋の師範となった。

そして大阪の陣が起こる。仙石秀範も、長宗我部盛親と同じように豊臣方として大阪城に入城した。
この時秀範は豊臣秀頼より、大名格として三万石ほどの所領を与えられたという。
しかし夏の陣で豊臣家が崩壊すると彼は行方不明となる。討ち死にしたとも、丹波に逃亡したのだとも伝わる。
そして、秀範の息子である長太郎、この時十歳は伯耆で捕らえられ、閏6月22日、乳母の子とともに
六条河原で斬首、晒し首とされた。


関が原後、不思議にも長宗我部盛親とほぼ同じような人生を送った、仙石秀久の息子についての話である。




526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 20:37:49.50 ID:mC8QOvN4
もし十河存英も浪人中、寺子屋で教えていたら面白いのに

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:00:15.73 ID:7gcmoWU5
シンクロニシティwとか好きな人は昔からいたんだなー

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:07:25.80 ID:i0SBGpEe
>>525
まてまて、耳川じゃねーだろ

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:12:46.68 ID:hxqGvG8V
>>528
うわ、なんで耳川なんて書いたんだろw;

>>525
1行目

× 耳川の戦い
◯ 戸次川の戦い

申し訳ない

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:13:25.17 ID:eYxSm6Lj
耳川は龍造寺が島津にフルボッコされた戦いだったような

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 21:44:32.63 ID:sbemlcRK
いやいや、一条兼定が長宗我部元親に敗れた戦であろう
それとも柴田勝家が上杉謙信に敗れた戦いだったかな?

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:23:40.95 ID:xvXPbHwF
>>530
それ田手畷の戦い
耳川は日向に進出してきた大友勢を島津がフルボッコにした戦い

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:41:47.33 ID:xvXPbHwF
あれ、田手畷じゃなくて沖田畷だった
詫びとしてちょっとすてがまり要員として井伊勢に吶喊してくる

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/28(水) 23:46:25.07 ID:HGwaImoa
でも井伊直政撃った本人は薩摩に帰れたような

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 00:12:54.99 ID:GxJjnsEb
>>535
柏木源藤さんか
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6524.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6519.html
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-858.html

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 08:24:34.16 ID:ad3LN7d1
宗麟の子分のカニ怪人を釣ったのが耳川
クマーを釣ったのが田手畷
センゴクと信親と十河さん釣ったのが戸次川

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:28:05.83 ID:4awvqKpm
>>537
沖田畷だろw

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:44:27.85 ID:CG4P9gBD
もう何が何やら

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 09:59:31.59 ID:/mCku+bg
家兼じいさまが鍋島祖父と大内を蹴散らしたのが田手畷
島原の戦いは沖田畷

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 11:08:37.38 ID:zK9ZsB66
結局、全部島津の釣り自慢でおk?

長宗我部元親の初上洛の顛末とその影響

2012年06月15日 21:00

919 名前:1/2[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 19:39:48.53 ID:SOUk2O/k
天正13年(1585)の10月はじめ、土佐の長宗我部元親は家老たちの反対をあえて聞かず、
秀吉への臣従のため上阪した。

10月20日浦戸を出港し、程なく堺の港につく。そこで津田宗及の屋敷を宿舎とすると、
ここに羽柴美濃守(秀長)と藤堂与右衛門(高虎)が来訪。秀長は「早々の上洛に、秀吉卿は
御感に思召しておられます。」と伝え、大阪出仕の支度をするよう促した。
藤堂高虎はこの堺から案内として元親に同道した。

大阪に入ると町家で装束を整え登城。桜の門に入ると警固のものが50人、金棒を持って左右に
並び、元親の共の者たちを
「これより先、小姓一人、草履取り一人のみしか同道出来ぬ!」
と押し留めた。これに共をしていた長宗我部家臣団は激昂。
「こんな事は見たこともない!主の供をするのを一体誰が止めるというのか!?」と
大声で叫んだ。この騒ぎを聞いた高虎は警固のものに
「長宗我部の共の衆なら問題はない。入れてやるのだ。」と云えば、警固の者共は金棒を引いて
彼らを門内に入れた。

ここで羽柴秀長が迎えに罷り出て、元親と同道し奥の間に通らせた。ここで高虎は立ち戻り、
「共の衆はここに居よ」と、彼らを侍所に連れて行った。

元親は小袖20,馬代銀百枚、一文字の太刀一腰を進上し秀吉に御礼を申し上げる。
秀吉は対面を許し、「長宗我部早々上洛、感じ入るぞ」との御意を伝え饗膳を下し、
「美濃守(秀長)、施薬院(全宗)相伴せよ」と言って、自分は奥へと下がった。

さてここで元親の前には、七五三の膳部、金銀の造花、京堺の魚鳥、そういった珍しいものが
尽きることがないほど出されて来た。元親は四国の主であったが、このような膳部は見たこともなかった。
正直ビビっていたがそれでも臆せぬ体でこれを賜り、酒を数回やりとりしていると
秀吉卿が再び現れ「長宗我部の折角の上洛だというのに、肴も出していないではないか!」と、
さらに元親の度肝を抜かせる事をいう。これを施薬院を通して聞かされた元親は、「この長曾我部、
結構な膳部を頂きました、有難き幸せ。」と挨拶をし、秀吉は盃を取るとこれを元親に下し、
元親は頂戴して酒を賜った。

このあと元親に引き出物が出され、腰の物(二尺五寸備前兼光)、黄金百枚、梨地の鞍鐙をつけた鬼葦毛の馬、
などが下される。そして秀吉は言う

「長宗我部は酒も数盃となり、酔も出ただろうが珍しい肴があるのだ、もう一献参られよ。
珍しい肴とはな、その方が上洛するというのを、家老たちがそれは無用だと止めただろう?だがその方一人の
覚悟によって上洛をした、と、わしは聞いておる。

この上はお前が人質に出した津野孫次郎(親忠・元親三男)を返してやる。これを肴に、さあ、
もう一献参られよ。」

元親「かたじけなし」と、それを飲み干した。

元親は明日京に上り羽柴秀次に御礼申し上げる予定であったが、秀吉はそれも免除し、すぐに津野親忠と共に
帰国することを許した。翌日、元親親子は堺を出港した。


920 名前:2/2[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 19:40:59.85 ID:SOUk2O/k
元親が帰国すると、土佐の侍町人たちはこれを出迎え、口々に千秋万歳を叫び喜んだ。
翌日、元親は城に家中の者たちを集めると今回の上洛の次第を語り、そして下賜されたもののうち、
最初に太刀を見せた。

「なんと!金で装飾されている!?」土佐者たちは早くも仰天した。

次に黄金百枚を見せた。

「これが判金という物ですか…。はなしには聞いたことがありますが、初めて見た。」

としげしげと眺めていた。そして最期に葦毛の馬に鞍を置いて出すと土佐者たちの驚愕は頂点に達した

「上方という国は一体どんな国なんだ!?こんな馬が存在するなんて!!」

彼らにとって馬といえば、体高一寸ほどの土佐駒であった。上方から来た五寸の馬を見て、
舌を震わせて驚いたのも、仕方のない事であろう。
そして梨地の鞍鐙を見て

「これ光ってる!どうして!?」

などと騒いだ。全く田舎者にも程がある事である。

ところで津野親忠は人質として長く上方に逗留していたので、御供衆まで上方めいた男になって帰ってきた。
これに土佐の者たちは羨み。月代の剃り方から服装まで、土佐の者たちは一斉に真似をした。

それまで土佐の者たちは着物を小袖といい、袖は短く綿をたくさん入れ、帯ははいはたと言う木綿帯をして、袴の
裾も短く、その姿はモグラのようであった。
月代は大きく剃りあげ、刀は三尺ほど、脇差は二尺ほどもある物を差し、顔には武勇を貼り付けていた。

しかしながらそんなモグラ侍を上方侍に見比べると、そのあたりで暴れてるガキ大将すらそんな異風な者はいない。
津野親忠の共の衆に皆習い、着物の脇をすき、袴や袖を長くすれば、男ぶりも良くなり、土佐者たちは
その姿を鏡で見て大いに喜んだという。

翌年、元親が再び上洛した時は、みな上方風の服装をしていた。
この時長宗我部家の諸侍はより合って先年のことを話し、大笑いしたという。

以上、長宗我部元親の初上洛の顛末とその影響、である。
(土佐軍記)




921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 21:12:14.44 ID:C/Wz0oVj
酷い田舎者(´・ω・`)

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:01:56.01 ID:InXLPFz0
>>920
体高一寸…土佐駒とやらはエオヒップスか何かか!?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:29:54.20 ID:9jvgbY92
>>928
 四尺一寸と四尺五寸の四尺が省略されてるんだろう

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 22:43:54.05 ID:DnS5F/ik
手乗り馬かわいい

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:03:28.23 ID:jkSOzJsf
>>919-920
秀吉の人たらしっぷりには毎度関心させられる

長宗我部の奴らも、田舎者丸出しでダサさ全開の昔の自分達を
こうやって省みて記録に残せるっていうのはある意味いい話なのかも

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:13:36.53 ID:STIaeafI
四国征伐中にも上方の軍勢は金ぴかだし馬もでかいしマジ無理だから降伏しようって言ってる家臣いたよね

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/15(金) 23:19:26.46 ID:6SKDqa6T
私です。

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 01:11:30.27 ID:Dxanh6MH
>>919-920
いつ饅頭が出てくるかと思いながら読んでいたw

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 10:03:17.59 ID:J5R7cgVf
>>920
土佐っぽ田舎者すぎてかわいいwww