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長宗我部国親の死

2015年01月23日 18:51

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 13:11:47.26 ID:AyTRGkqD
長宗我部国親が病の身を押して本山氏の浦戸城を落とした後のこと

さる程に覚世(長宗我部国親)は、岡豊に帰りなさって、種々の医療をされたが、針灸調剤の術も絶えて、
既に臨終に及んだので、弥三郎(長宗我部元親)を呼び、
「我は病で命が今に迫っている。本山は怨敵の張本なので、報酬の志深いといえども、時至らずして過ぎ去ってしまった。
そうであるので今度彼が領内に入って一戦に打ち勝ち、三つの城を乗っ取ること、生前の本望、死後の思い出である。
なので我が為には、本山を討つより外に供養なし。我が死んだら、十七日の間は、世法に従って、汝が心に任せよう。
それが過ぎたら、喪服を脱いで甲冑に換えて、軍議に専念しろ。この旨を堅く心得よ。」
と言って、永禄三年六月十五日,、五十七歳で、遂に卒去しなさった。
逃れられない別れで悲しいけれども、そのままであるべきではないと、岡豊の東北、千歳山謙序寺に葬った。
こうして元親は、十七日の作善、心の如く執り行い、悲涙が未だ乾かないといえど、亡父の遺言に任せて、吉良退治の評議をなされた。
(土佐物語)

「討つことだけが供養」と言われる程,本山さん恨まれてたんですね



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/23(金) 14:01:56.78 ID:otEkF0KP
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:14:53.45 ID:vDZk8E/v
異説もあるみたいだけど親爺さんは本山に討たれてるもんね

本山って元から吉良氏なのかね
それとも三木姉小路のように、吉良を滅ぼして名跡を継いだのかな

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/24(土) 01:24:14.07 ID:SuH6zLUr
こんな遺言うっかり脳筋に残したら逆に家滅ぼしかねない

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江村小備後・五輪切り由来

2013年01月23日 19:51

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 19:19:13.08 ID:e1TzfBPV
江村小備後(親家)といえば、長宗我部家の家臣のうち、その武勇が四国のみならず中国九州まで鳴り響いた、
長宗我部家を代表する豪の者であった。
これはその江村小備後が、13歳の時の事である。

そのころ、江村の近辺では多くの人が失踪する事件があった。
それも、死んで失せるとか、飛んで失せるとか、そういうことではない。座敷の中に皆で集まって居る時に、
立ち上がったわけでも、その場から出て行ったわけでもないのに、かき消すように消えてしまうのだ。

一体どんな化け物の所業なのか。最初は人の目にも見えなかったが、後にはその姿を顕し、あるいは鬼の姿となり、
または女に変じ男に化して、上下を選ばず男女の区別なく、思うままに取り失われたので、
近隣の者たちは貴賎を問わず、申の刻より後(午後5時頃)になると、家の中に人も入れず、外に出ることもなく、
門を閉じてじっと朝を待った。

これに憤ったのが、当時13歳の少年である、江村小備後であった。
「一体何者の仕業であっても、私が住む近辺でこのように不快なことが行われているのを、余所に聞いて暮らすということが
あっていいものか!」

そして或夜、深夜に及んで人が皆寝静まった後、誰も連れず唯一人だけで、西江村の住居を出て、丑寅の方に
向かって歩いていくと、そこに七尺ばかり(約2メートル12センチ)の大法師が、物も言わずに立っていた。

小備後、これこそ話に聞く化け物だ、と思ったが、何事もないような顔をして近づき、すれ違い様!
抜き打ちにはたと斬った!

太刀音高く、手応えあり!倒れる!と見えたが、これも掻き消すように消えてしまった。
その時、小備後は大声を上げた

「化け物を斬ったるぞ!続け者共!!」

近所の者達この声に驚き、手に手に松明を燈してその場に駆けつけてみれば、地面に血が流れているではないか。
この血の跡を追っていくと、遥か北の山に、大きな古い墓の五輪塔が倒れて、空の倫牌が2つに割れ、そこから血が流れていた。

江村の人々は、「このような古石に誑かされ、数多の男女が悩まされたとは、なんと安からぬことであろうか。
さあ、この墳墓を掘り起こし、白骨と五輪を大路にさらすべし!」と評議したが、長宗我部国親がこの話を聞き、

「これは稀代の不思議な出来事である。墓の主はきっと、罪業深く、悪趣に堕した人なのだろう。
誠に憐れなことではないか。」

そう言って石塔を新たに立て、僧を呼んで墓の前で経を読み弔わせた。
この国親の情けが伝わったのだろうか、その後化け物があらわれることはなかったそうである。

そして、江村小備後がこの時化け物を斬った刀は「五輪切り」と名付けられ、後に長宗我部信親に捧げられたという。
(土佐物語)

江村小備後の化け物退治の逸話、そして名刀五輪切りの由来である。




下田駿河守の滅亡

2013年01月18日 20:05

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 20:05:46.33 ID:Ljq41Z5p
天文16年(1547)、長宗我部国親下田駿河守が籠る、下田城(別名・蛸の森城)攻めを
決断し、久武肥後・福留隼人を大将として総勢800騎、本拠である岡豊を出立しようとする所に、
尼僧が一人、福留隼人の元を訪れ、畏まってこう、申し上げた

「私は、下田の百姓の妻でありました。
夫は死にましたが、常陸という一子があり、これを杖とも柱とも思い頼って生きていたのですが、
去年の秋、年貢の納入が遅滞した咎で、常陸は是非もなく殺されてしまったのです。

それから、このような、明日をも知れぬ老いの身の、頼る所もないままに、所縁の者になんとか
扶けられ、今日まで存命して参りました。

こちらではこの度、下田に御旗を向けられるということです。ならば!私が城中に手引きし、
お手を砕かれるまでもなく、城を焼き崩し、下田殿に思い知らせ、それを我が子への供養とし、
この老尼の、恨みを晴らしたいのです!」

そう言って、声を上げて泣いた。
福留隼人もこれを聞くと涙を流し、直ぐに国親に報告した。国親はこれを大いに喜び、
屈強な若侍3人を老尼につけて遣わした。
その上で、城中に火の手が上がれば攻め入るようにと、軍兵250騎を、福留隼人を大将に、
片山・衣笠の山陰に、10人、20人、5人7人と分散して忍ばせ、合図の煙を待った。

さて、老尼は3人の男を下人に仕立てて、一人には袋に衣装を入れて持たせ、残りの2人には
雑掌と思えるものを担がせた。これには火打石・火付け竹・その他兵具が入れてあった。
そして下女一人を召しつれ、下田の城のある蛸の森へと参った。

老尼は番の者に近づくと、「衣笠の何某の母ですが、御台所様へお目見えのため参りました。」
と言うと、番人は問題ないといって、懇ろにして彼女を通した。
元より内部の事は知っており、直ぐに木陰に隠れて支度をし、そのまま火をかけた。
その時丁度西風激しく、堀門矢倉に延焼し、黒煙が天を焼くように上がった。

城中はこれを敵の仕業とは思わず、何かの過失と考え、「火を防げ!財宝を避難させろ!」と
上へ下への大騒ぎとなっていた。

ここで国親が付けた3人の男たちが、そこかしこに走り鬨の声を上げると、隠れ伏せていた
長宗我部の軍勢は火の手を見て、貝を吹き太鼓を打ち、鬨を作って押し寄せた。

下田の城兵たちは大いに驚き、敵を防ごうとしたものの、城の猛火が襲い来て、
為す術もなく我先にと落ちていった。

これにより勇猛の名高き下田駿河守も、遂に討ち死にし、下田城は落城した。

この頃、誰が詠んだのか

『いでもせで 焼崩したる蛸魚の森 いかなべの料理なるらん』

という歌が人口に膾炙したそうである。
(土佐物語)

長宗我部国親の、下田城攻めに関する逸話である。





201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 12:53:25.71 ID:CQbuSB+b
>>196
長宗我部国親にとっては城攻め成功、尼僧にとっては仇討成功で
普通に良い話に思えてしまった。
強いて言えば情け無用の徴税で恨みを買い破滅した下田駿河守の悪い話か?
(しかしこの尼僧、かつては「百姓の妻」だったという割に
巧妙果敢に城に放火するわ、若侍ら長宗我部陣営と見事に連携取ってるわと
本当は過去に忍者やってた前歴あるんじゃね?という位に工作レベル高いな)