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落人と思しき者があるか

2022年05月03日 15:59

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/03(火) 15:23:45.96 ID:EacVBKZg
或る記に、大阪夏の陣での大阪落城後、蜂須賀蓬庵(家政)の使いである長坂三郎左衛門は、
八幡の茶店にて暫く休息している時、亭主に「すまないがこの辺りに、落人と思しき者があるか」
と尋ねた。亭主が申すには

「されば、不審なる者があります。いかにも忍ぶ人と見え、夜々にこちらの方に来て、食物を調え
帰る人があり、私は覚束なく思いその跡を付けて参った所、葭原の中に隠れ住んでいるようでした。」

長坂はこれを聞くと大いに喜び、茶屋の亭主を案内者として、若党・中間を葭原の中に分け入らせ、
捜し求めた所、長宗我部盛親主従の二人、飢えが迫っていたのか、疲れ伏している所を捜し当てた。
故に忽ち二人を搦め捕ったという。

(新東鑑)



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四石取りになど

2021年11月19日 17:27

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 13:00:05.02 ID:furH5ySo
「醒睡笑」とともに落語の元祖とされる「昨日は今日の物語」から

昔、下京に道無というものがいた。
良い娘を持っていたため他人が縁談を勧めた。
道無「相手はどのくらいの身上か?」
「四国の主であったが、今は浪人じゃ」
道無「おかしなことを、十石取りにでさえ惜しむ娘を四石取りになど」
とついに承知しなかった。

四国の主、もしあの人だとしたら縁談進めなくて正解だった気がする



201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 13:34:01.89 ID:825YLhYZ
どうせ今浪人じゃ娘食わせられないことに変わらないし

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 14:05:43.91 ID:tqj7QyJe
大阪城で露と消えそう

かの浪人が甲冑を帯びて発足した

2021年11月15日 17:58

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/15(月) 16:14:38.47 ID:jIwKfpHp
或る本に、豊臣秀頼公が大阪籠城との噂があったため、京都所司代である板倉勝重
長宗我部盛親を招き饗応の上に、

「貴殿の御事は、(関ヶ原とその後の土佐での騒動で)一旦御不審を蒙られたが、私がこのように
有る上は、宜しきように相計らい、帰国のことを執政申すでしょう。
ですので、例え大阪から召されたとしても、決して許諾されないように。」

そう懇ろに申されたので、盛親もこれに同意した。
そして勝重の邸宅より、直に大阪に下ったという。

また或る本に、無禅という人物があり、彼は七歳の時より近衛家に召し使われ、七代の間近衛殿の門を
出なかった奉公人で、百十九歳まで生きたが、相国寺門前に家があった。
また、同町の藪の中に、寺子を取って物を教え、渡世していた浪人があった。

大阪籠城の刻、ある朝、かの浪人が二、三人と共に甲冑を帯びて発足した。
この浪人が長宗我部盛親であったことは、後に知れた。
無禅は同町において、「異なる出で立ちの男かな。」と、盛親を直に目の当たりにしたと語った。

後で聞くと、寺町今出川の辻に於いて、この一行は二、三十騎ばかりになり、馬鑓等を持たせていた。
寺町三条に至ると二、三百騎になり、伏見では大方千騎にもなったと人々は言い合った。
珍事であるので町所より所司代へ訴え出ると、板倉の某は大いに怒り
「それと知っていれば討って捨てていたものを!」と言われたとか。

当時こういった物語が日々数多有り、皆実見の事だという。

新東鑑

長宗我部盛親の大阪入城についての逸話



その後は誰も元親を諌める者は無く

2021年11月14日 18:14

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/14(日) 17:12:00.36 ID:6NTUgv30
或る記に、太閤御在世の時、長宗我部元親は京都より国元の土佐に下り、一門衆・家老を集めて申した
「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてより、未だ家督を誰に継がしむべしとも定めず、私も傾く年齢と成った。
そこで信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、家督に立てようと思う。如何あるべし。」

そのように尋ねると一座の人々は、盛親が不肖であることを知りつつ、敢えて返答する者も無かった所に、
元親の婿である吉良左京進親実が進み出て言った

「信親御息女を右衛門太郎殿の奥方と成して跡継と成されるというのは、御嫡子の筋目立つに似たりと雖も、
津野孫次郎殿(親忠:吉良親実が実際に跡継として推したのは次男・香川親和とされ、ここでは
三男・津野親忠と混同されている)は、秀吉公にも知られておられ、御器量も優れておられます。
津野氏の家を別人に御相続仰せ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられることが宜しいでしょう。」

そのように申すと元親は聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、家長久の基である!」と、甚だ不興げに
申された。しかし親実は重ねて
「私は何れにも親疎はありません。私の申し上げる所は国家静謐の基を固く定めたい為に
考えたところなのです。」と諫言した。すると家老である掃部助元辰(比江山親興)も、
最前よりこの座に在って控えていたのだが、進み出て

「只今吉良氏が仰せに成った事は、誰かのためというような、依怙の沙汰では有りません。
御家繁栄、子孫長久を祈る良策でありますから、是非ともこれをご了承なさるべきです。」
と諌めた。

しかし元親はいよいよ怒れる顔色にて、一言の答えも無く座を立ち、奥へと入った。そのため、
その日の相談は中止と成った。
然るに佞臣たちが元親の傍に在り、親実、元辰両人の事を様々に讒言したことで、遂に
天正十六年十月十四日に掃部助に切腹を仰せ付けられた。親実もこれを聞いて、同じく切腹したとか。
吉良親実の切腹は実際には天正十七年九月以降と考えられる)

その後は誰も元親を諌める者は無く、思いのままに盛親を立て、家督としたという。

新東鑑

「七人ミサキ」の話に繋がる、長宗我部家盛親家督相続についてのお話



今も親しく語らい合う仲である

2021年03月04日 18:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 14:22:47.53 ID:835zJEu+
長宗我部の家人に、廿牧勘解由という武功の人があった。この人が人に語ったことによると

「大阪八尾にて、藤堂殿と長宗我部殿が戦ったが、朝の合戦の時に私も似合いの高名などしたものの、
後の合戦に味方打ち負けて、私も鑓を引き退いた。
この時、和泉守殿の母衣頭に名村岩石見という武功の者、私を見かけ、「返して勝負をせよ!」と
罵った。しかし「駆け引きは時によるべし。おのれのくそを喰らえ!」と言って退いた。

その折ふし、私の妹婿である伊尾木権兵衛という者が、「影湯殿、私もここに居る。返し合わせて
勝負しましょう。」と言ったため、鑓の準備をして二人共に引き返した。

その時、敵である石見はどう思ったのか、または功者であったためだろうか、南の方にゆく落人があり
さしかかって勝負すると見えた。その落人は、何の何某と申したが、その名も忘れた。
彼は終にそこで討たれた。
私たちはほど近くに在ったので、助け合わせたいと思ったが、敵は大勢に見えたため退散した。」
と言った。

堀伊織という人、これも藤堂にて母衣を預かる人であるが、ある時私に
「其の方は、今はいかなる浪人衆と話すのか」
と尋ねられ、廿牧勘解由の事を言って、彼が物語した内容を語った所、横手を打って
「さてもその事は、石見がいつも語っていて、「私に糞を食わせて退きし者があった。」と言っていたが、
誠であったのだな。その人を呼ぶことなるまいか。」

そう言われたので、「やすき事なり。」と廿牧を呼びにやって、石見と伊織と、勘解由と私の四人にて、
かの時のことを語った。笑い話と成り、
「偽りが無ければ、互いに物語しあえるものである。」などと言って、酒など飲んで立ち別れた。
これを交わりの初めとして、何れも親しくなった。

伊織の子供は、松平越前守殿の元に二人ある。今も親しく語らい合う仲である。

備前老人物語



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 17:31:47.95 ID:Dp28Kb2/
八尾の戦いというと
元長宗我部家臣で改易ののちに藤堂家臣となった桑名弥次兵衛吉成の
旧主と戦うのに忍びず、一人突撃して戦死した話が印象的

真田一人の出丸のように

2020年12月10日 16:51

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 02:05:05.67 ID:bcPmQbhp
大阪冬の陣で、八町目に有った真田ヵ丸と申す出丸は、長宗我部と真田が
半分に割って持っていたのであるが、世間は真田一人の出丸のように風聞している。

長澤聞書

今でもそうだな



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 11:19:31.97 ID:rQHSFasw
長宗我部は長いから
短い真田でいいや
ってことだったり

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 17:15:20.90 ID:WqAn93fS
長宗我部は名前が当時的に呼びづらいか認識しづらいで公家の日記でめっちゃ読み間違いされてなかったっけ

ちょうすがめ・・?ちゃうすかめ・・・?もういいわ!真田丸!
ってなったかもしれない

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事

2020年10月04日 17:10

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:11:40.63 ID:ODrWroWV
慶長二十年五月八日
辰刻(午前八時頃)、片桐市正(且元)の使者が言上した所によると、秀頼并びに御母(淀殿)は、
大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)をはじめ、その他究竟の士と共に二之丸帯曲輪に引き籠もって
いるという。幕府(秀忠)は使いとして安藤対馬守(重信)に参上するように申し、彼に
「秀頼并びに御母、その他が帯曲輪に籠もっているが、彼らに切腹を申し付けるよう。」と仰せに成った。
午刻(正午)に井伊掃部助直孝を召し、秀頼母子、その他帯曲輪に籠もる者達は切腹有るべしと
仰せに成ったという。

(中略)

また戦場に於いて首実検があった、真田左衛門佐(信繁)首、御宿監物首、大野道犬首を、
越前少将(松平忠直)が持ち来たという。

十一日
長宗我部宮内少輔(盛親)が八幡あたりに置いて蜂須賀蓬庵(家政)の従者によって生け捕りにされ、
二条御所西御門前に、長宗我部は搦められたまま晒された。諸人これを見て「猪のようだ」と言ったという。

十二日
今回の大阪からの落人が国々に逃げ散っているため、これを速やかに搦め捕って引き出すようにと、
諸代官、守護、地頭に仰せ遣わされた。
今日、秀頼の息女(七歳)が京極若狭守(忠高)によって探し出され捕らえられたとの注進があった。
秀頼には男児が有るとのことも内々に聞き召され、急ぎ尋ね出すようにと、所々に触れられた。

十四日
今日、大阪奉行であった水原石見守が、二条御所の近辺に忍んでいるのを訴える人があり、
藤堂和泉守(高虎)が討手を遣わした所、石見守は覚悟を致してこれと戦い、寄手三人が切り伏せられ
戦死した。そして石見守の頸は西御門前に晒されたという。

十五日
今日、長宗我部宮内少輔が一条の大路を渡され、六条において梟首、三条河原に晒された。
また大阪残党七十二人が、粟田口、并びに東寺辺りで梟首されたという。

二十日
大野道犬が大仏の辺りで生け捕られ、真田左衛門佐妻が、紀州いとの郡に忍び居たのを、浅野但馬守(長晟)が
これを捕らえ差し出した。真田は黄金五十七枚を秀頼より給わり、また来国俊の脇差を所持していた。
これは御前に差し出されたが、但馬守が賜ったという。

二十一日
秀頼の子息(八歳)、伏見農人橋の辺りに忍び居た所を捜し出され、捕らえ出された。容貌美麗という。

二十三日
伏見より、将軍家(秀忠)が二条御所に御着きになり、御密談に刻を移され、午刻に幕下は還御された。
未刻(午後二時頃)、秀頼子息(八歳)、六条河原に於いて殺し給わった。
乳母の夫である田中六左衛門も同時に誅された。乳母は命を赦されたという。

二十八日
井伊掃部助、藤堂和泉守を幕府(秀忠)が御前に召され、金銀の千枚吹、分銅二宛が拝領された。
その上、御知行が下されることを直接に仰せに成られた。これは今度の大阪表、六、七日の合戦の
働きの功によるものである。

今日、片桐市正且元が病死した(歳六十)。駿府より申し来たという。

駿府記

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事



395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:27:43.11 ID:LT28x8Lw
大野道犬は2度死ぬ

大阪夏の陣直前、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂

2020年09月28日 18:09

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 18:01:53.65 ID:J1AvwdnW
慶長二十年

四月十二日
京都の板倉伊賀守(勝重)より飛脚到来。これの申す所によると、去る九日の夜、
大阪の本城よし大野修理太夫(治長)が宿舎に帰る所、何者とも知れぬ人物がその跡をつけ、
脇差で修理の左の脇から肩先に突き抜いたという。この者は突き捨てて一町ほど逃亡したが、
そこで修理の郎党達が追いつき切り留めた。
この者は修理太夫の弟である主馬(治房)の家来であったという。

この事件によって城中の緒牢人は、互いに疑いあい騒動と成ったという。

十三日
今日、大阪より織田有楽、同息・武蔵守(尚長)が大御所の元に参り御前に出た。
大阪の情勢は現在、諸牢人が三つに分かれているという。

七組の頭、大野修理太夫(治長)、後藤又兵衛(基次)の一組、
木村長門守(重成)、渡辺内蔵助(糺)、真田左衛門佐(信繁)、明石掃部助(全登)の一組、
大野主馬(治房)、長宗我部宮内省輔(盛親)、毛利豊前守(毛利勝永)、仙石豊前守(秀範)の一組

この三つに分裂しているのだという。

『駿府記』

大阪夏の陣直前の、大野治長襲撃事件と牢人間の分裂について。



370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/28(月) 23:43:19.12 ID:CFvMgXPO
取次の退去で冬の陣になりーの
自分で出した分も含めて和睦条件がこなせないままこれまた取次の治長が家中問題で襲われ―の

もうまるで統制も取れてないな

大野治長は片桐退去までの行動は最悪だけどその後の行動はかなり現実的よね、まぁ周りからすりゃ原因のお前がなに止める側に回ってるねん感もありそうだけども

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:11:07.87 ID:0Z7Z+w/e
片桐退去の時点でもう滅亡するまでやり合しかなくなってしまったのに、
その主犯だった大野がなんとか外交的に豊臣が残るだろうなんて甘い考えにすがるのは、今さら感がものすごい。

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/29(火) 00:50:50.34 ID:143NSg4c
講和時点でちゃんと和睦条件こなせるだけの器量が秀頼にあればあんな無様な事にはならなかったろうけど
そもそもそこで和睦条件こなせるだけの器量あったら最初から揉めないというなんとも言えない状況が

藤堂家の大阪夏の陣

2020年01月08日 16:51

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/08(水) 02:03:41.49 ID:EdAeePYM
明夏陣、大阪より京都を焼き払うという風聞が有り、大阪から京都への通路を防衛するため、
和泉様(藤堂高虎)は諸勢にさきがけて四月四日に淀に御着陣され、同二十五日まで淀に御在陣。
その間、淀城の御普請を仰せ付けになった。

権現様(徳川家康)、台徳院様(徳川秀忠)が京伏見へ着座成されたため、淀を四月二十六日に
御陣替えになり、五月五日に千塚に御着陣になった。

五月六日、八尾表に、木村長門守(重成)、長宗我部(盛親)の人数、約一万二千が打ち出た。
和泉様の左備は長宗我部の隊と戦い、終日の働きの末、ついに長宗我部は敗軍し大阪へと追い込めた。
この戦いで藤堂仁右衛門、藤堂勘解由、桑名彌次兵衛、山岡兵部、その他、侍数多討ち死にした、
右備は長宗我部の先手の者に木村長門守人数が加わった部隊と戦い、この戦いで首級数多討ち取った。
我が方においても、藤堂新七、藤堂玄蕃、その他、侍多く討ち死にした。
その夜はその場所、八尾に陣所を据えられた。

六日の合戦で御家中の物頭、その他侍数多討ち死にし、終日の戦のため人馬は疲れ切っていたので、
翌七日の御先手は、新手の人持ち衆へ仰せ付けられるようにと、両上様(家康、秀忠)に和泉様より
六日の晩にお理を仰せ上げられたため、七日は越前宰相(松平忠直)、加賀筑前殿(前田利常)を御先手に
仰せ付けられた。

七日には、敵味方ともに人数を打ち立て互いに鉄砲を撃たせていた。そのような中、台徳院様が御供四、五騎を
召し連れ和泉様の御陣所へ御成になり、戦の御手立てに関する御談合をなされ、御本陣へと帰られた。
その後、惣懸り(総攻撃)という事となり、御家中衆も殊の外稼ぎ、首数数多討ち取った。

両日の首数、都合三千七百七十三を討ち取った。

(藤堂家覺書)

藤堂家の大阪夏の陣について



長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆について

2020年01月03日 16:57

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/03(金) 15:32:01.50 ID:09lJbNmQ
慶長五年霜月の頃であっただろうか、長宗我部元親はこの度、石田三成の企てた逆心に同意し、
濃州関ヶ原を退散して土佐国へ下り、連々と公儀に、井伊兵部少輔(直政)を通じて弁明に
尽くし(使いは盛親家来・立石助兵衛、横山四郎兵衛)、兵部殿より盛親の自国居住を
仰せ入れになった。

盛親は霜月に上洛したが(ただし詳しい月日は知らず)、兵部殿を以て命が下り、土佐国を此の方に渡すよう
仰せ入れになった。盛親は、土佐国を引き渡す旨の判形を家来に持たせ遣わし、兵部殿より御家来(鈴木平兵衛)を
差し下した。

この時、山内対馬守(一豊)に土佐国が下される事になっており、先立って鈴木平兵衛と同年の冬、土州へ
差し下した。ところがこの時、長宗我部家来達が城を明け渡すことは出来ないと一揆を催し、鈴木平兵衛を
雪蹊寺に取り囲んだ。しかし盛親の家老たちが「主人が上方に有りながら一揆を起こせば、盛親の身上が
果ててしまう。すぐに明け渡すべし」旨を申したため、異事無く渡したのだと、この一揆に参加した者共は
申し伝えている。

(長曾我部覺書)

長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆についての記録



長曽我部元親の3女阿古姫は

2019年07月20日 18:04

阿古姫   
291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/20(土) 17:51:58.27 ID:xNepVVg0
長曽我部元親の3女阿古姫は大坂の陣の際に夫や盛親に従って幼い子たちを連れて大坂城に入ったが、夏の陣で落城に見舞われた
この時夫は戦死したが阿古姫親子は伊達政宗軍に捕らえられ、戦後そのまま伊達家家臣となった
阿古姫の次男が有名な柴田外記である
土佐のあたらしい国主の山内氏は長曽我部氏やその旧家臣を低く置く措置をとっていったため、先代の阿古姫たちを頼って
長曽我部一門やその家臣の一部が集まり一種のコミュニティーを作り仙台藩に仕えたという
江戸時代、多くの長曽我部一門は幕府に遠慮して苗字を変えていたが、多くが明治維新後に長曽我部などに戻したという



293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 21:51:24.68 ID:qLU8C8qo
>>291
龍馬とかが物語の開幕で郷士とかいじめられるあれか

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 21:56:07.62 ID:tvy6NoWG
なお幕末の土佐藩執政吉田東洋も長宗我部侍の模様。

龍馬は長宗我部とは何の関係もない模様

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 22:37:47.16 ID:QYh0WFsm
東洋は備後守重俊の子孫だよね

敗走した後、残された兵卒はどうなったか?

2017年12月22日 17:41

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 21:58:50.88 ID:JNQX2C1W
天正十五年正月十九日、島津修理大夫義久は戸次川合戦についての弁明および
秀吉への恭順の意を示す書状を豊臣秀長および石田三成に寄せた

先年冬、互いに使者を指し登せ友誼を定めようとしたところに
かくの如くも首尾(戸次川合戦)となってしまい
急使を得て追って飛脚を申し付けいたします

そもそも大友家が他邦と連合し、こちらに攻めてきたのは歴然たるゆえ
分国および日向の境まで発足いたし、防ぎ矢として軍勢を差し向けたところ
仙石殿・長宗我部殿が義統と一致をなされたため、両将に対し

「この度の御下りは関白殿下の御下知であろうが
 当家は大坂に対して毛頭も逆心を構え存ぜざる上は、何卒御引き取りを願いたい」

と申し上げたところ聞く耳を持たれず、我らに攻めかかってこられました
異議に及ばず一戦して勝利を得たものの
敗北した豊後勢が、仙石および長宗我部勢に紛れ区別できなくなり
結果的に数千騎を討ち果たす事になってしまいましたが
これはもとより本意ではありません
しかしながら、我らの間に疎隔が存じていないのは
合戦後、府内において、京・四州の士卒が難儀のところを
我が弟、中務少補家久が大船三・四艘程も調達し
彼らを送り出したことを持っても明白であり
これを証しとして、何卒秀吉公へのお取り成しをお願い申し上げます

(合伝流闘徴禄日本戦史)

軍監が供回りのみを連れて敗走した後、残された兵卒はどうなったか?
という疑問に対する答えが書かれた書状である
当時仙石家にいた後藤又兵衛や庄林一心もこの船で帰ってきたのかも知れませんね



418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 22:59:32.94 ID:7a3MXH0t
ちょっとイラッとしたから数千人ぶち殺したけど冷静になったらやべーわってことで船を何艘か用意したんで許してくれやってことか
さすが鬼島津無茶苦茶やんけ

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 23:14:18.95 ID:Q69eCTkr
何を普通だと思ってるのか知らんがどういう解釈だ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 07:50:28.68 ID:PM/fY5US
鬼は鬼畜の意

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 08:34:01.60 ID:q+zFI8EU
お手紙でなんとかしてしまう引きこもり長男最強やん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 09:46:11.23 ID:qpbVehiP
形に残るものでは相手をなだめるのが基本かと

「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


桑名弥次兵衛は、長宗我部耳目の臣であった

2016年07月04日 18:41

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:02:44.48 ID:mNniwc6S
桑名弥次兵衛貞敬は、元は長宗我部耳目の臣であったが、関ヶ原の後浪人していたのを、
武勇のほまれが有ったので藤堂高虎が招き物頭とした。

大坂の陣が起こると、長宗我部盛親は家臣の山崎与助に命じて再三にわたって桑名を招いたが、
桑名はそれに従わず、

「盛親公は先主です。恩を被ること厚かったといっても、私もまた、度々の戦功をいたして
それを謝する所ありました。
一方、現在の主人より恩を被ることも、また莫大です。その上近年天下治平にして合戦無く、そのため
新主への奉公は未だ勤まっていません。
ですので、お招きに従うことは出来ません。

ただし、私を招いて頂いたこと、世に忝なく存ずる所です。
ですので、御陣と見れば一番に駆け入って、討ち死にいたしましょう。
これはそちらと敵対を為すに似ていますが、物頭をも仕る私が御手にかかり討ち死にすれば、
御武辺の飾りともなるでしょう。
また、現在の主人に対しても、死を以って恩に報いるという道に叶います。
であるため、今、お召に応じることは出来ませんが、どうぞ死後をご覧下さるべし。」

そう返答したという。

(慶元記)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:23:43.43 ID:br89QJVi
吉成の別名で貞敬なんてあったっけ?

天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

2016年05月29日 13:07

658 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:04:09.47 ID:BEJ0ECpz
大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼
大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、
秀頼に書状を送った

『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。
であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。
その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。
七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も
よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。

承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは
信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』

この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、
この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。

秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ
誰も言葉を発せようとしなかった。

が、ここで長宗我部盛親が進み出た

「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。
去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が
言っていたのは、つまりこの事であったのです。
あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。

今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。
しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。
そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると
成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。
その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。
であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや
自滅より他ありません、

万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。
秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、
この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか?

不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして
武名を千歳に残すことこそ願うべきです。
ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。
去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。
これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。
同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。

ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。
ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば
左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。
木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。
伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。
かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」

この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」
そう異口同音に言い合った。

659 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:06:14.29 ID:BEJ0ECpz
が、ここに小幡景憲があった。小幡は松平定勝、板倉勝重と申し合わせて大阪城に入っていた。
彼は武田二十四将の一人、小幡昌盛の次男であり武田兵法を良くすること、大阪城中に知られ、
大野主馬介治房が取り持って豊臣秀頼によって召し出された。
新参ではあったが弓矢の智識(合戦の専門家)であるとのことで、大野治長は彼を評定の席に
召し出し、その末座に在ったのだ。

彼は先程の盛親の言葉が、関東のために甚だよろしくないと判断した。
そこで進み出て申し上げた

「古参の歴々を差し置いて末座から異見するのは憚りあることですが、心頭に浮かんだことをそのまま
差し置くのは不忠の至りですから、その一通りを言上いたします。

徳川家康公は近代の良将たちと、あるいは敵対しあるいは従い、大いにその兵法を学ばれ、
治乱盛衰の機微を察し、欲を抑えることを心がけ、権謀に通じ、その知識の高さは現在において
万々の上に出ています。

聞いた所によると、京都伏見方面には既に段々と軍勢が登っているとのことです。
これは能く状況を知っているということでしょう。
大御所は必ず、盛親殿のような雄偉の将が京都を抑え、美濃の近くまで進出すれば
事難しくなると推察された事でしょう。それを知ったからこそ早速軍兵を登らせたのです。
そのような所にもし諸国の假武者(傭兵)を以って向かえば、敵のために捕虜にされに行くような
ものです。

この大阪城は、城郭の破却こそされたと言っても、七重の曲輪などはなお残っており、敵を防ぐに
便利です。そして八万の兵にその兵糧、玉薬は何れも欠けることなく、ことに城兵の武勇は、去年
両将軍にもみせつけたのですから、敵も簡単には攻め掛かって来ないでしょう。

城兵たちはただ、心を一つにして九死に一生の合戦を遂げるのです。そうすれば、特に西国の者達は、
去年の大阪の勝ち戦によって我々への見方を変えていますから、今度も暫く持久戦を遂げれば、その結果
我らに加担するものも多く出るでしょう。であれば、頼み有る戦となります。

それにこの大阪城本丸は、太閤御苦労の縄張りをして残した物ですから、仮に1,2の曲輪が
破却されても、この城を守衛する事こそ孝子の御本意というべきでしょう。」

そう雄弁を以って語った。
この時、大野治長は元から他境へ軍を出すこと好まなかったため、小幡の意見に方針を決定した
のである。
これは秀頼公の不運であり、天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

(慶元記)



661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 11:44:32.98 ID:kKdVXExc
大野主馬って悪い話ばっかだね。いい話といったら逃げずに死んだことくらいか。

これも人煙のため

2016年05月21日 14:49

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 23:41:45.80 ID:S7g6JhYO
 一学(市川一学)の兵書講義のとき予(松浦静山)は
「かつて浪花茶臼山の行って所々を眺めたが、御城とは近いように思われた」

と話しをしたら、一学は受けて以下の話をなされた。

「それがしもかつて遠遊したとき見ましたが、それに同じく思われました。
古人が伝え聞くには、この御陣のとき、茶臼山から真田丸までの間は三十丁余のつもりで御陣を構えたが、
実は十八丁であったそうです。そのときは人煙が覆って暗かったので、このような近いところも遠く見えたといいます。

 また長宗我部が守った所から、藤堂の陣までは、二十丁ばかりというが、実は六丁であったといいます。
これも人煙のためであったといいます。

 また冬の御陣のときは、城内を外堀の向かいから望むと、立て連ねていた旗幟の紋が、うちかすんで鮮やかでなかったといいます。
これも人煙がたってそうなったとのことです。
 夏御陣のときは、旗幟の紋が行燈の傍らの物を見るようによく見分けることができたそうです。
これはそのとき人気が一つでなかったためだそうです。」
(甲子夜話)

距離の測り間違えってけっこう致命的なような



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 00:02:11.96 ID:PiBkDXt/
霧のせいで時間を計り間違えるとより悲惨
と相手方の又兵衛さんが

長宗我部家督のこと

2016年05月14日 08:27

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 20:46:22.05 ID:SNQmTQv8
ある記録によると、豊臣秀吉在世の頃、長宗我部元親は京より帰国し、一門衆・家老を集めて言った

「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてから、未だ家督をだれに継がせるべきか定めていなかった。
しかし私も高齢となったので、信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、彼を家督に立てようと考えているが、
お前たちはどう思うか?」

一座の人々は盛親が不肖であることを知っていたが、あえて返答する者はいなかった。
しかし、元親の婿である吉良親実が進み出て

「信親様のご息女を右衛門太郎殿の奥方として、跡継ぎとされるというのは、御嫡子の筋目が立つに
似たりと雖も、三男の津野孫次郎(親忠)殿は既に秀吉公にも見知り置かれ、御器量も優れておりますから、
津野氏の家を誰か別の者に御相続おおせ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられるのが宜しいと
考えます。」

しかし元親はこれを聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、即ち家長久の基となるのだ!」
そう、いかにも不機嫌そうに反論した。

それでも親実は重ねて
「私は両者何れにも親疎があるわけではありません。私がこの様に申し上げるのは、国家静謐の基を
固く定めたく思っているからです!」

家老の比江山掃部助親興も最前よりこの座に在って控えていたが、進み出て
「只今、吉良氏の仰せられたことは、誰かのためというような依怙の沙汰ではありません。
御家繁盛、子孫長久を祈る良策であります。ですので、是非ともご了承なさるべきです!」

だが、元親は怒りの顔色にて、一言も発せず座を立ち奥へと入り、その日の談合は終わった。

しかし佞臣たちが元親の傍にあり、親実、親興の両人の事を様々に讒言したことで、終に
天正16年10月14日、比江山親興に切腹申し付けられた。吉良親実もこれを聞き、同じく
切腹したと言う。
以後は誰一人元親を諌める者無く、思いのままに盛親を家督に立てた。

(新東鑑)



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:19:35.34 ID:MAGd5jI6
一方武田では…

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 07:51:32.09 ID:Qzbcp+k7
叔姪婚には特に反対はしないんだ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 08:07:45.90 ID:lMYQd5Fe
兄貴たちが死んでしまった表裏さんみたいに、一度別家に入った人間が家督を継ぐのは異例だと思うんだけど、盛親ってそんなに評判良くなかったのかな

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:12:04.97 ID:b93BGPM7
改易されてしまった人を良いように書くわけにはいかんだろ

うまくこの戦争が終わったら

2016年05月06日 17:53

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:26:09.94 ID:YyOFRyTP
毛利安左衛門は長宗我部宮内少輔(盛親)に属して大坂の陣で戦ったが、生命を助かり、
後に人々にこう語った

「戦場の事については、今時の壮士たちが畳の上で推量しているものとは違って、簡単に
高名手柄の成るものではない。

おおよそ戦場においては、昼夜の境なく心は苦しみ、寒暑を防ぐことも出来ず、兵粮と言っては
黒米を食い、おっ立て汁に塩を舐めてようやく飢えを助け、寄せ手は竹束の陰に武具を枕とし、
霜露に晒されながら夜を明かす。

城中ではなおさら、今や攻める、今や討ち死にすると寝食も忘れて緊張している中、色々な雑説が流れ、
何某は内通するとか、誰は敵を手引して今夜火を掛けるとか、様々な危ういことが、
毎日毎日言いふらされていた。そのため膝を並べる同僚の面々であっても油断できず、片時も
安き心で居られず、手柄高名を心がける以前の問題であり、勇気を折る事しか無かった。

普通の喧嘩であれば、互いの怒りから勇気も出て、死も顧みない心にも成れるが、合戦は敵に対して
私の怒りなど無く、ただ忠と義を盾にして争う事であるから、喧嘩ほどの勇気も出ない。
であるから、十人中九人までは、このような状況に日夜悩まされると、高名立身の望みも失せて、

『うまくこの戦争が終わったら武士を辞め、どんな賤しき業をしてでも、一生を過ごすのだ!』

そう思う者ばかりとなるのである。」

(新東鑑)

大坂の陣に、大阪方で参戦した武士の回想。大阪城内の雰囲気が見えるようです。



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:48:54.52 ID:VjacA46w
織田頼長「せやろ?」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 21:50:59.76 ID:tNQfI0do
>>588
大阪の陣って、武士が必要とされなくなる世の中が目前に迫っていて、その恐怖から逃れるために死に場所を求めて参戦する場だと思ってたんだけど

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 22:23:31.74 ID:jl9/eRDb
大坂の陣に参加する人の多くは、成功できなかった人たちがイチかバチかで行ったけど、
周りも似たような人ばっかりだからまとまらないんだよ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 12:19:30.86 ID:DFAR/Q3V
大坂の陣で大阪方に参加したのは、徳川家が改易しまくったせいで無職になってしまった武士たち

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 14:27:09.70 ID:jeuPwFxy
いや再就職出来なかった奴等だろ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 22:22:12.91 ID:mUyupg5Q
>>588
俺この戦争が終わったら武士辞めるんだ(死亡旗)

大阪夏の陣・桑名弥次兵衛の最期

2013年10月31日 19:17

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 20:09:13.61 ID:vPGML2T9
慶長20年(1615)5月6日、大阪夏の陣で藤堂高虎の軍と長宗我部盛親の軍が激突した、
八尾・若江の戦いでのこと。

桑名弥次兵衛は元々長宗我部譜代の重臣で、幡多郡中村の城主であり、合戦のたびに武功を上げた、
天下に名の知れた勇者であったが、慶長5年、関が原の戦いの結果長宗我部家が没落すると、
桑名には井伊家や蜂須賀家などから仕官の誘いがあったが、かつて秀吉の四国征伐の時、
彼の降伏を周旋された縁を以って、藤堂高虎に7千石で使えた。

そしていかなる不思議であろうか、この日、八尾において旧主たる長宗我部盛親の軍と
戦うことに成ったのである。

桑名弥次兵衛を始めとして、その嫡子将監一久、そして杉立九郎左衛門、市田十右兵衛、鶴原善左衛門、
入交助左衛門といった、旧長宗我部配下の土佐組は、群がる敵を次々と突きたて、
先手を置い崩し、長宗我部旗本にまで切り入った。

長宗我部譜代の者達は皆、互いに見知った相手であった。
長宗我部の旗本たちは桑名を見るや、口々に叫んだ

「お主は桑名ではないか!」
「それ逃がすな!桑名弥次兵衛を討ち取れ!」

そういって我も我もと桑名に切ってかかった。中でも近藤長兵衛が先に進み、
無二無三に突いて掛かり、桑名弥次兵衛の槍を突き折った。

そこで桑名は刀を抜き近藤と打ち合ったが、刀も打ち落され、最期は短刀を握ったところを
近藤の槍に貫かれた。

多くの土佐組の面々も、組頭である桑名弥次兵衛と、同じ場所で討ち死にした。

『彼らは新主への奉公もはたし、また旧君への志も立てたのだ。』

合戦後、人々は彼らの戦いに感じ入り、そう言い合った。

長宗我部盛親も哀れに思ったのか、夜に入り、桑名弥次兵衛の首を嫡子将監の陣所に
送り返してきたと伝わる。

(元和先鋒録)




622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 22:15:59.34 ID:eSNBBkKf
盛親の隊って、夜になる前に壊滅してるよね?

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 07:14:19.20 ID:uRpDfnGO
してないだろ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 09:44:19.74 ID:DhARhHe+
部隊としては壊滅してたが首一つ届けられないような文字通りの全滅してた訳ではないだろ

今どき畳の上では想像も出来ないことだろう

2013年10月20日 19:13

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 11:03:07.98 ID:o9prHf2z
これは毛利安右衛門という浪人が
大阪の陣で長宗我部盛親の手勢に属して戦ったときのことを
嘘偽りなく、ありのままに語ったことである。


「今どき畳の上では想像も出来ないことだろう。
戦というものは昼夜油断なく心を苦しめ、夜は露霜に犯され安々と眠ることも出来ず、
いざ攻撃というときに、竹束の陰にいて夜を明かすまでの心持といったらない。

城内の者は昼夜油断なく守って、食事はただ飢えを助けるまでのこと、
うまい、まずい、などとは寝言にも出せず、なかなかに浅ましいことである。

喧嘩なら互いの怒りの上の事で、死んでもそれまでだが、合戦には怒りはない。
ただ主君への忠を思って働くまでのことである。

城の中でも寄せ手の中でも流言飛語を放ち合い、
誰々は逆心を企て敵に内通したとか、やれ何だとか、
毎日毎夜さまざまな風説が立って人の心を驚かす。

さて敵と取り結び、互いに鑓を合わせる時は、土煙が立ってすさまじいものである。
一命を捨てての合戦なれば、人々の心は朧月夜に夢路を行くが如くで、
場なれて武功のある人などは、場数少なき者とは違い、
少々は目もあいて、はっきりしているであろうが、
『それでも朧月夜のようになることは同じだ』と、場数を踏んだ士もよく物語った。」

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 11:04:01.82 ID:o9prHf2z
「我らは鴫野堤の合戦(八尾の戦い)に、堤の下に皆々折り敷いて鑓を伏せていたところが、
藤堂和泉守高虎の軍勢が寄せてきた。
だんだんと寄せ太鼓の音が近くなってくる。
大将、長宗我部盛親は『采配を出すまで、必ずともに静まって控えておれ!』と
馬を乗り回して下知をする。

この時、思わずわなわなと震えがこみ上げて来た。
これは口惜しい事かな、と思って周りを見るに、やはりみな震えているではないか。

やがて間近くなって、鑓を合わせるとなると、たちまちに震えが止まった。
この時、藤堂勢の先手では、歴々の人が討死にをされた。

戦場で討死にと言えば、ただ戦って死んだとばかり思うだろうが、
なかなかそうではない。

目を廻したところを首を掻かれたり、手傷を負っているところを押し伏せられて首を取られたり、
あるいは長柄の鑓で叩き殺され、または踏み殺されなどして、いろいろの死にようがある、

それを討死にとさえ言えば、世間では互いに勝負して死んだものと思っているのだ。」


『二川随筆』より





534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 14:20:07.11 ID:fcksWb1h
流石に真に迫る物が有るな・・・

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 14:32:01.94 ID:Y2EKd+Ow
逆に乱戦の中で背中に傷を負ったりしたら臆病者にされたりするんだろうか