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この者達の忠孝を認めぬと言うのなら

2019年09月20日 15:25

198 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/19(木) 19:18:26.41 ID:/7Fim3py
「それは、長束大蔵大輔の仕掛けた事だ。」の後日談

関ヶ原の戦いで斬首された長束正家
当主が死んで路頭に迷った長束家の家臣達を召抱えたのは他ならぬ伊奈忠次であった

家康は「逆賊として斬首された者の家臣を召し抱えるなど、他の者に不興を買う。おぬしの為にならぬぞ。」とたしなめた

しかし忠次はこう反論した
「確かに長束正家は逆賊かもしれませぬ。ですがその家臣は正家に最後まで尽くして逃げ出さなかった忠臣であります。
この者達の忠孝を認めぬと言うのなら
私は腹を斬ってこの者達に報いねばなりますまい。」
と家康に詰め寄りこれを認めさせた

こうして長束正家の家臣とその家族達は伊奈忠次に救われ
かろうじて生き残った長束の子孫はやがて徳川家光と手紙のやり取りをする程の関係にまで快復するのであった



199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/19(木) 21:08:41.28 ID:bQC3nvG5
旧豊臣の奉行衆には実務的な優秀な部下も多かったろうからなぁ

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 12:33:41.67 ID:gTVfXKay
武田の旧臣を幕下に加えてたくせによく言う

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 20:44:34.93 ID:7bj0T1un
武田の部下は俺のもの
長束の部下も俺のもの

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/22(日) 21:13:09.23 ID:5Wnbhz7y
北条の家臣も多く召し抱えとる

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 01:26:19.01 ID:Jl+ho/kN
北条は別に秀吉から召し抱えるなとか言われてないだろ?

204 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/23(月) 08:09:57.82 ID:2hnkMw8k
>>198
伊奈忠次「うちの父親も殿に弓引いた逆賊なんすけどね。信康様の件で私も再び出て行きましたけど」
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太閤の家において三奉行とは

2016年07月19日 18:47

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 02:53:44.13 ID:wR6zY0cc
太閤の家において三奉行とは、石田治部少(三成)、増田右衛門(長盛)、
長束大蔵(正家)のことである。

四奉行は、先の3人に徳善院(前田玄以)を加えたものである。五奉行は
先の4人に浅野弾正(長政)を加えたものである。

――『武功雑記』



この余毒は今をもっても

2015年11月04日 06:05

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 23:56:28.08 ID:bhR3e0Bl
 公儀の御普請等は、秀吉公の御代では長束大蔵正家、増田右衛門長盛が小身者から立身しましたものが担当しており、計算に熟達していましたので、
入札をさせるといつも安価なものを落札しました。
御普請がたとえば百貫目と思われたものを、五十貫目で済むような事になって、御物入りは甚だ減少しましたが、
請負の者どもは手間を省きますので、見ただけで甚だ粗末だと分かるような作業ををなします。

この余毒は今をもってもそのままでございます。このようなことに、御心得もあったほうがよいと思われます。
 (本阿弥行状記)



590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 00:27:25.23 ID:RBafTIef
ああ、傾いてしまったのか

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 02:14:17.45 ID:5iQ9a0fy
この辺は今も昔も変わらんなぁ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 07:10:00.13 ID:O4p6ypS3
そういや、いい話で
旭(姫)貸せい
みたいな話


593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 08:02:33.05 ID:pK8faU3P
座布団あげてくれい

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 10:31:18.40 ID:wD7WT3L3
やっぱ長束や増田って有能だったんだな

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 12:51:27.24 ID:aF8ep+uU
消えた五十貫目は請負の者どもの給与が犠牲になったの?

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/04(水) 13:44:54.19 ID:q4LR4mSc
最低経費40のところを100と申請、60の仕事をして残り40は懐に
 ↓
50でやれと言われて、懐に10入れるために40の仕事で済ませる

こんな感じ?

598 名前:761[sage] 投稿日:2015/11/06(金) 20:48:34.36 ID:Wpc71CSp
安物買いの銭失いか~
二人の有能なイメージがちょっと崩れたw

人さらいを推奨する困った仏様の話

2014年06月01日 18:50

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 01:35:38.43 ID:1UNbZRtP
天正頃、通古賀(福岡県太宰府市)の村で遊んでいた少年に旅の僧が話しかける事案が発生。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 01:38:56.18 ID:1UNbZRtP
(つづき)
少年の父、松田金六さんによると、僧は 下野国佐野 在住の武士、松田新入斎
と名乗ったという。

新入斎は佐野で子孫繁栄を祈願していたが、薬師如来から「家の武名を揚げる
子が欲しいなら西海道に行き、同苗の家を探せ」とそそのかされ、主君の佐野
宗綱氏の許可を受けて九州を放浪。
目的を果たせぬまま帰還しようとしたところ、目を患ったため数日この村に留
まっていた。

新入斎は「眼を病んで逗留したのは薬師如来が私にこの少年を発見させるため」
「少年を養子としてもらいうけたい」などと言い強く迫ったが、金六さんは拒否。
すると新入斎は宿としていた家の主人と結託し、夜陰に乗じて少年の誘拐に
及んだ。
金六さんはあわてて追跡、無事少年の奪還に成功した。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 01:40:13.48 ID:1UNbZRtP
(つづき)
前夜、誘拐されたわが子を取り戻したとお知らせした松田金六さんだったが、
翌朝日がさしてみると、連れ戻したのは少年ではなく薬師如来像だったという。
仏の意思を畏れた金六さんはこれ以上新入斎を追及せず、薬師如来像を屋敷で
祀ることにした。

誘拐された少年は松田金七郎秀宣と名乗り、関ヶ原の戦いで武名を挙げたとい
う。
『王城神社縁起』



どうも松田金七郎は大和出身のようだが、福岡にこんな伝承もあるってことで。
松田金七郎が使えた長束正家の子孫が佐野と名乗ったらしい、というのは関係あるだろうか…

以上、人さらいを推奨する困った仏様の話。(完)




420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 06:48:39.48 ID:GwIS5Af9
薬師如来像wwww

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 06:58:46.42 ID:Pqit+aei
薬師如水像wwww

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 10:14:24.53 ID:6pn3D5Lr
語り口調がタイムスクープハンターみたいで好き

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 10:50:25.11 ID:7FuU9Mq2
「そそのかされ」ってw

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 16:16:04.19 ID:El8X3Key
特殊な交渉術を使ったんや

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/01(日) 16:51:58.40 ID:ep0TcIJC
殺害から始まる交渉術

長束正家、最後の模様

2013年07月09日 19:50

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/09(火) 18:13:17.65 ID:KgHgRreq
正家は後事についての遺言を書き残し、家人奥村左馬・西川兵庫・小西
治右衛門・長束与十郎らに形見を与え、白装束で切腹の座についた。

池田(備中守長吉)・亀井(武蔵守茲矩)に向かい「ここまで御出でいた
だきご苦労な事です。それでは今生の暇をたまわりましょう」と告げ、
切腹しようとしたところで、長束は再び両人に向かって「それがしの
家来奥村左馬は身近くで召し使ってきたものであるので冥途の供をする
覚悟と見えます。しかし無益の事でありますから殉死を留めて頂きたい」
と懇ろに言い残して切腹した。

奥村左馬は介錯したその刀を腹に突きたてようとしたが、(池田)備中守
家人武蔵掃部・瀧川織部らが間髪入れずに飛びついて刀を奪い、色々と
教訓したので奥村も力なく承引した。後に寺沢志摩守が召し出して領地
千石を与えられたと言う。

(關原軍記大成)

長束正家の最後の模様である





吉川広家漁火をみて敗兆を知る

2013年05月08日 19:51

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:10:00.33 ID:97/v4Lob
吉川広家漁火をみて敗兆を知る

広家は石田三成に与力していたが、ある日美濃路をさして来る
敗軍の士卒があった。戦いも始まらないのになんびとだと尋ね
させると水口城主長束正家であった。

正家は「あれを見てくれ、海上に雲霞の如く兵船が押し寄せて
敵に取り囲まれたらどうしようかと存じ、あなたと合流してから
戦おうと人数を引き取ってきた」と言う。

広家が水上を見るとそれは漁火の影であった。「これは兵船に
あらず漁火の光です」と告げると正家は言葉も無かった。

広家はこれは衰運のなすところこそと思い、たちまち心を翻し
徳永法印も諭したのを幸いとして遂に関東に味方した。

このたび広家がもし関東に味方せずば、いかに毛利家に西国を
賜うことが出来たであろうか。

知勇兼備よく機変を考え禄を本家へ譲り周防長門の主となったが
自身は退いて陪臣となった。

(近古武談)




223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:46:11.03 ID:SeK/Wbwr
美濃路で海上も糞もないだろうに
漁火って木曽川とか長良川の鵜飼の篝火かね?

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 13:51:33.49 ID:GqUWQBhZ
>>223
多分伊勢路と間違えているんだと思う

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 14:46:59.92 ID:HDRoXa+z
琵琶湖じゃね?淡海ってことで

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 15:17:29.21 ID:cV3DKTfK
伊勢の安濃津城攻めの後だろう

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/08(水) 15:38:53.99 ID:97/v4Lob
家康と誤認して正家が動揺したと言われるのは、一般的には阿野津攻めの前かな。

史実では8月5日頃に正家と恵瓊が伊勢へ向かい。
広家もその頃までは瀬田で普請をしてて、同じ時期に伊勢に陣替えになった筈。

徳川軍団、水口城下行進!

2012年10月03日 20:28

699 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/03(水) 06:02:14.76 ID:VeVuyAD+
関が原の直前、京から関東に上杉征伐しに行く時の家康がとても狙われていたらしい。
なんせ征伐されそうな上杉派、挙兵する反家康派が石田三成をはじめウヨウヨいるのだ。
家康が江戸に帰る時の、佐和山付近での家康暗殺計画を三成が検討していたり、
長束正家の家康暗殺未遂という話があるが、
(伏見にいた頃から三成が襲撃を検討していて、それを榊原康政が食い止めたという話まである
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5671.html

さて、↑の長束正家による家康暗殺未遂(?)は失敗に終わり、甲賀衆の知らせで
家康はふらふら~とうまいこと正家の城下水口を通過することに成功した。
この時長束軍が家康を取り逃がした後、軍勢を繰り出したという話がある。
家康は諦めるが、後ろに来る徳川軍(といっても少数)を通過させないように邪魔をしようとしたのだ。
ここで合戦が起これば当然、徳川不利な情勢になるのを見据えて。
かといってとぼとぼ伏見に帰っても鳥居元忠に怒られるだけである。待機していてもそれはそれで困るだろう。

後ろの徳川軍を率いていたのは本多忠勝を筆頭に服部正成成瀬正成水野勝成
錚々たる三河武士。当然帰るなんて選択肢はないし、家康の身が危ない以上一刻も早く合流したい。
忠勝は彼らに命じ火縄銃に火を灯し臨戦態勢をとった。
すわ合戦、かとおもいきや忠勝は兵に掛け声を叫ばせながら、水口城下を行進した。
臨戦態勢でやる気満々で城下を練り歩いているのだ。
さすがに長束勢もこれには手が出せず、結果忠勝率いる徳川軍も無事に江戸に行くことができたのである。

出典は家康の侍医板垣卜斎の「慶長年中卜斎記」だそうだが、ネットのあちらこちらから
適当に抜き出してきた話なので信憑性は低いかも。
・・・しかし、長束正家の妻は忠勝の妹(姪とも)なのだが。




700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 10:18:42.88 ID:Lo7jkwgW
このメンバーでは臨戦態勢とってなくても仕掛けるのに相当勇気がいるぞ。

舟戸久左衛門、長束正家への降伏勧告の使者となる

2012年09月06日 20:30

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 22:16:31.38 ID:+M9VKx6M
関ヶ原の決戦の後、近江水口城に籠る長束正家に対し、池田輝政は家臣。舟戸久左衛門を遣わして
降伏の説得をするようにと命じた。

これに舟戸久左衛門は困惑した。「わたしはその様な事のできる器ではありません。もっと老巧の者を
選んで遣わすべきです。」

しかし輝政は聞かず、強いて彼を使者とした。舟戸は致し方なくその命を排し、それから鍛冶の命じて
一辺3,4寸の、方形の鉄板を作らせこれを懐に入れ水口城に至り、案内を乞うて入城し、正家に対面すると
懇切に、主人輝政の言葉を言上した

「今降伏なされば、貴方様の一命のみならず、本領も安堵され士卒も助かるのです。」

長束正家はこれを聞くと
「その志、たいへんかたじけなく思う。その仰せに従って降伏することが可能なら降伏したいのだが、
我が士卒達は伊勢阿野津の城攻めに疲れて関ヶ原の戦場で功がなかったのを憤慨し、この城を枕として
目に立つほどの一戦をすることを、必死の思いで期待している。ならば士卒の心を問わずに私一人が降伏して、
何の益があるだろうか。
この趣を以って、宜しくそなたの主人の返答申されよ。」

その言葉に、降伏を受け入れる様子は見えなかった。

ここで舟戸、正家の小姓を呼び、懐の鉄板を取り出して言った

「これを火にて焼いて下さい。我が主人輝政の志、私の言葉、これらが長束様を欺くものではない証拠として、
貴方様の眼前で鉄火を行います!」

そしてまた懐中より午王の神符を取り出し、片手に握った。
その決意は顔前に溢れ、これを見た正家は涙をポロポロと流し

「貴殿のそのような真心に接しては、私はもう致し方ない。まさしく誠の武士で有るかな。この上は
たとえ欺かれて降伏したとしても、これもまた武士の一義、恨み悔いるには及ばない。」

そう言うと小姓を呼んで何事か囁いたが、暫くして小姓が脇差一腰を持って出てきた所を、
正家は舟戸に親しく声をかけ

「これは見苦しいものであるが、いささかお主のこの度の志に報いようとしたものである。帰ってお主の主人に
私の降伏を伝えられよ。」

と、それを与えた。
ところがそれでも舟戸が、なかなか座を立ちかねている体を見て正家

「ああ、私が忘れていた。」と小姓を呼び硯を取り寄せ、證文を書いてこれを与えた。
舟戸はが立ち返りこの旨を申し上げると、池田輝政は彼を激賞した。
ちなみにこの時長束正家舟戸久左衛門に与えた脇差は、無銘で一尺あまりの貞宗鍛えだという。

舟戸久左衛門長束正家への降伏勧告の使者となる。という逸話である。
(武士道美譚)

まあ正家さん、懸念した通り欺かれて切腹させられちゃうんですけどね。




319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 22:24:53.41 ID:+EboGKCu
正家さんの正室は本多忠勝の妹だそうだが
このだまし討ちで本多と池田の仲が悪くなって姫路城奪われた
なんて話はないよね

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 22:37:42.16 ID:djK8oeQ1
忠勝妹は本多家に返されたけど腫れ物扱いだった、とかそういう話を何処かで読んだな

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 00:10:44.16 ID:QWniifPv
本領安堵とか言ってる時点で嘘だと見破れよ…

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 00:26:18.87 ID:y4TWJCG7
嘘つかなきゃならなかった舟戸も苦しかったろうな
明らかに助かる状況じゃないし
長束さんもわかってて降伏したんじゃない?

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 00:52:18.73 ID:Nrb5jCBI
いや正家も判っていたでしょ
判っていて、それでも舟戸の覚悟に感激して降伏を受諾した
だから池田輝政は舟戸を激賞したと

長束正家の丹羽時代

2012年02月21日 21:51

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:24:43.89 ID:KPCabQ3p
今度は長束正家の丹羽時代

長束藤兵衛藤原正家は近江の産。彼は英才俊逸にて将帥の器量、勇謀は常の人のものではなく、
その上天下無双の算術の使い手であった。

かれは若年の頃から諸国を遊歴し、ある時、未だ小身であった丹羽長秀に、僅かの切米(サラリー)で
召し出された。この時正家は

「一人の食はこれで足ります」

と、長秀に仕えた。

以後、長秀の軍事を助けたが、その戦功、謀才は比類なく、まさに将帥の器量であり、
おいおい加増され、長秀が近江に転封になった頃には千石となった。
しかしそれとて、正家のそれまでの軍忠功労には全く足りない僅かなものであったが、正家は不満を
漏らすこともなく、むしろ諸臣を上回って戦功忠貞にいささかも怠ることがなかった。

天正に至ると、丹羽家世子鍋丸(長重)7歳にいたって、これに補佐の良臣を選ぶこととなった。
長秀は深慮により誰にも相談すること無く、突然正家に1万石を与え、棟梁の職の補佐として、
鍋丸に付くことを命じた。

この大抜擢に丹羽家の諸老臣はこの人事を喜ばないこと、甚だしいものだったという。
しかし正家は実直に長重を補佐した。

この、比較的軽輩であった正家を、俄に重職に付けたことは、後年太閤秀吉が、丹羽長秀の深慮の
素晴らしさであると、徳川家康に物語ったそうである。


(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)





49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 15:34:09.28 ID:0g2MJ6pw
最後に負けちゃったから算盤得意な官僚みたいな認識になっちゃったんかね

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 16:56:36.20 ID:JsKOu3DC
>>49
実際には、軍功は無かったような。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:09:31.57 ID:RQ7L1Xdl
>>48
正家の嫁さんが本多忠勝の妹らしいんだけど
忠勝は正家の助命嘆願しなかったのかね?

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:18:05.51 ID:dfb/uBpK
信之が東軍だった真田は擁護もできるがなぁ
思いっきり西軍に付いた上に伏見攻めの動きがある以上嘆願のしようが無いでしょ

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/22(水) 23:27:47.03 ID:2aJOXZC0
>>54
謎が多いんだよな>長束正家の妻
本多忠勝の父は、忠勝が3歳の時に亡くなっているから、異父妹なんだろうがそれでも
長束正家と歳が離れていると思うし、真田家と違って積極的な交流をした痕跡は無いし

長束正家が秀吉家臣になった過程

2012年02月20日 21:56

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:19:56.53 ID:nLmDcz47
天正13年(1585)、越前の丹羽長重は家臣が佐々成政と内通したとの疑いにより、羽柴秀吉によって
改易された。丹羽家の家臣団は解体し皆流浪の身となったが、秀吉は、自分への謀反に関わっていない
忠孝の士は召し出すと伝え、中でも長束正家に対しては、別して自分に仕えるように要請した。

しかし長束正家はこれを固辞し、丹羽長重が転封された若狭に供奉し続けた。
この正家の態度に秀吉は激怒し、丹羽長重がこれをさせていると判断した。そして長重の元に

『お前は長束正家の事に関して、上意に背くつもりか!?』

と疑念を伝えた。これに驚いた丹羽長重は正家を説得し、秀吉のもとに上京させた。
秀吉は正家を召し出すと、以ての外の形相で叱りつける。しかし正家は少しも恐れず、こう、申し上げた

「仮に秀吉公に召しだされたのが、故越前守(丹羽長秀)の御在世の頃であったなら、わたしも有難き仰せであると、
すぐにこれをお受けいたしたでしょう。ですが今、我が主君長重は至って若輩であり、特にこの度、亡主長秀の
封国を召し上げられ、長秀の旧功ももはや効力を持ちません。

このような状況で年若の主を見捨てて、秀吉公の碌を拝領するなど出来る訳がありません!

この度長重が受けたお疑いに関しては、私が今説明したように、長重には全く身に覚えのないものであります。
もしこれで主人長重への疑いが解けないというのなら、私はたとえ、命を奪うとと言われても秀吉公の
御要請を受ける事はできません!」

これを聞くと秀吉はしばらく黙り込んだ。そして表情を和らげ

「お前の言ったこと、全て受け入れよう。長重に罪はない。ただし逃げ去った逆臣共を召し捕らえるまでは、
その旧領は預かり置く。
誓って長重に対して疎意は無い!」

そう懇切に語りかけた。この天下人の言葉に正家は平伏し、ここで秀吉に奉公することとなった。


長束正家が秀吉家臣になった過程である。

(丹羽歴代年譜付録・家臣伝)




31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:23:12.36 ID:vI3rFB5f
全盛期の秀吉だな

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 17:25:52.76 ID:blQA/Yqh
預かったまま返さない所がラスボスだな。


33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 18:28:35.55 ID:UWar5jKR
丹羽家の石高長秀亡くなったあたりの時代はたしか百万石超えてたよな
長重が相当な器量じゃないと秀吉じゃなくて家康だとしても召し上げだろうよ

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 20:41:14.76 ID:LpPsIjhQ
前田家も利家が秀吉より先に死んでいれば半分以下になってだろうね
かつ関ヶ原まで生きていれば取り潰されたかも
上手い時期に死んだよなあ

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 20:57:53.49 ID:Lb8o9tNP
家を考えると秀吉より先に死ぬわけにはいかん!と必死に養生してたんじゃないかと思ってしまうw

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 21:02:35.87 ID:bkyxPwdY
利家さんって、ラスボスの悪行に対してストッパーになったことあるのかしら?

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 21:32:03.20 ID:G8DkWrOh
長重が1571年生まれで長秀が死んだのは1585年
その時点での長重が相当な器量を見せてたらむしろ警戒されるよな

病床の親父の代わりに出陣したりしてるだけでも立派なもんなのに

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 22:14:00.81 ID:LX5lPerm
丹羽家が駄目だったのは、長秀に優秀な親戚が居なかったから。
堀家の堀直政や龍造寺の鍋島のように。
同じように蒲生ちゃん家もかわいそう。

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 22:45:14.72 ID:6vZ1ILT0
でも何とか大名に返り咲いてんだよな

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:02:25.26 ID:IQuINJMQ
>>39
長重は徳川秀忠と「深い仲」だったとかなんとか…

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:18:19.83 ID:G8DkWrOh
長重の母親は織田信広の娘、妻は信長の娘だからな
縁戚に頼るどころか逆に丹羽家が守らなきゃいけなくなってる

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/20(月) 23:20:03.85 ID:v4XNkNyx
親も息子も人並みの器量ならば、
跡継ぎは20代後半に作って60歳過ぎで死ぬのが最もいい世代交代だな。


43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 09:24:37.09 ID:KWQMo+UP
>>38
森家の場合は末弟に跡継がすなと長可が言い残したのに
感激されながら継ぐことになったんだっけ

かがみん超優秀

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:05:00.20 ID:1OKi15MZ
>>34
利家は、秀頼の傳役を確保した時点で安全圏だろ。

それまでは、量産型中納言の中でも下位だったのが
大納言に任命されてランク急上昇だしな。

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:08:21.94 ID:3F2J2OTb
柴田から自分にひよったりしているのに、前田頼っちゃうのな

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 10:18:34.59 ID:Vi4JJYHc
若い頃からの友達だったからというのもあったかもな

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 12:32:21.49 ID:WDpK0d5P
>>44
秀吉より先に死んでいた場合、傅役だからとか関係なくなるだろ
利家の子じゃ当てにならんし

織田信澄討伐顛末

2011年10月22日 22:03

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 22:02:09.69 ID:nVKMcVLq
天正十年(1582)六月、丹羽長秀織田信孝の四国攻めの補佐として大阪にあった。
ここに、明智光秀が京の本能寺、および妙覚寺において、織田信長・信忠親子を弑殺したとの情報を得る。
長秀は切歯扼腕し、信孝と共に大逆の光秀を討つことを議した。
この時、織田信澄は、彼が明智光秀の婿であったのでこれを大阪の守備に残し、長秀・信孝は馬を走らせ
森口まで進んだ。

しかし、織田信澄はやはり明智光秀に与していた。

信澄は長秀たちが出陣すると密かに伊丹の一揆を大阪に呼び寄せ、長秀勢が明智との合戦に及べば
この一揆勢を持って挟撃する、という密謀を進めていたのだ。

時に、大阪に残っていた丹羽長秀の家臣である長束藤兵衛正家がこの情報を察知した。

長束はすぐさま急使を立て森口の長秀に伝える。長秀は知らせを聞いて驚愕し、すぐさま信孝の元へと行くと

「信澄は大賊の婿であります!更に長年それと親しんできました。先ずこれを誅するべきです!」

信孝も同意し、軍勢を大阪に返し、信澄の居る大阪城(本願寺の跡地に作られたものだろう)を、
信孝は搦手より、長秀は追手より攻め立て、ついに信澄を千貫櫓にて討ち取った。
ちなみに信澄の首を取ったのは、長秀の家臣、上田左太郎重安(宗箇)であったという。

時に六月六日。これこそ賊魁明智光秀に打撃を与えた、最初の一撃であった!
…と、丹羽家では記録している。

なにげに10年ほど後には有名になる人たちが活躍している、丹羽家においてはこう事になっていた、という、
織田信澄を討ち取った顛末である。
(丹羽家譜)




425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/21(金) 22:36:17.23 ID:Mukm8SQ5
胸糞悪い話だ

「それは、長束大蔵大輔の仕掛けた事だ。」

2011年09月08日 22:05

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 00:17:15.97 ID:+5j/TItu
小田原攻めのころ、関東では大軍の長陣によるものか、米価が高騰し、諸大名はその対応に頭を悩ませた。
徳川家でも困り果てた家臣たちが主君にこの件について相談したが、家康は言う。

「どれだけ高くとも良い。周辺で米を買え。」
「それでは大損になりますが?」
「かまわん、どんどん買い取るのだ。」

家康の言う通りにしたところ、「小田原では米が高く売れる」という評判があちこちに流れ、
諸国から商人が米を売りに来るようになった。すると、急に米価は下がり安定した。

それから少しして、家康が荷駄奉行の伊奈忠次を呼んで指示を与えた時、忠次がこんな事を言い出した。

「昨年から有事に備えて兵糧を買い集め、沼津に運んでおきました。ところが今、関東に来てみれば、
こちらの米価も、江尻や沼津の米価も、そう変わりがありません。これでは運送費の分、
こちらで買った方が得でした。なぜこんな事になったのでしょう?合点が行かぬことでございます。」

家康は、苦い顔をして答えた。

「それは、長束大蔵大輔(正家)の仕掛けた事だ。あの男は、さしたる武功も無いが、こういう計略に
抜群の才を持つので、関白から要地に一城をも与えられているのだ。
それよりわしは、お前の職分で今ごろそんな事に気づいている方が、合点が行かぬわい。」

忠次は冷や汗を流しながら、主君の前を退出した。(天元実記)


こういうのも秀吉の『戦争』だったんだろうなあ

後日談
この者達の忠孝を認めぬと言うのなら


783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 00:35:32.51 ID:9E2t5uxO
家康も認める長束正家の手腕はやっぱすげー

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 00:43:46.80 ID:GCb/dbCD
家中随一の内政屋、忠次よりはるかに経済に詳しい家康凄過ぎw

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 00:51:29.06 ID:9E2t5uxO
家康は土井利勝にも、お前もうちょっと人見ろよって言ってる逸話なかったっけ

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 01:53:19.80 ID:gCxiSUv2
>>785
これかな?

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5140.html


787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/08(木) 15:30:43.37 ID:o3NfJ4+8
家康「わっちは賢狸イエヤスそれくらい見抜けて当然でありんす」

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:52:48.37 ID:No37d+WJ
>>782
さすが下々が「上様にはよく商いを遊ばさる」と評判しただけあるな。
米が上がると城の米蔵を開いて売って、下がると米を買って蔵に入れてたしな。


815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:59:15.32 ID:PaRCRtRi
それって米価を調整して生産者と消費者の双方を守ってるだけじゃないの?

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 21:05:02.79 ID:No37d+WJ
駿府に隠居してからもしてたらしいから、儲かるからしただけと思うけどなw

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 21:33:05.05 ID:fSdvAoWz
そういう財テクは秀吉から学んだんだろうね>家康
太閤になってからも蔵米算用状という、蔵入地から納められる米の量と
その相場価格を記した文書を見て、自ら買い時売り時を決めてたというから只事ではない
当時は畿内と東北地方では米価に8倍もの差がついてたというから、
公儀として米の流通販売権を掌握してたらボロい商売だったろうな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 21:45:10.69 ID:bxd+qlrb
家康や秀吉が商売をするのはいい話になるのに前田利家だと悪い話になってしまう不思議





・・・あれ、ここ悪い話スレか。

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 21:52:22.64 ID:bG0sHAHA
つーか米などを売買するのは、例の秀吉の鳥取城攻めの前、鳥取城の連中が兵糧を高値で売った例を
出すまでもなく、秀吉や家康に限らず戦国大名なら普通の事。

タイミングや状況を間違えると「鳥取城渇え殺し」になるわけだがw

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 22:13:00.17 ID:fSdvAoWz
「安く手に入れたものを高く売る」という点で見たら誰でもやる普通の商行為だろうけど、
秀吉や家康のように日本全国に直轄地を持ち、地方の米を都市部で独占的に販売し差益を得るとか、
米相場に介入して米価をコントロールするってのはやはり天下人じゃないとできないこと
貨幣価値があるため稲作に向かない土地でも無理やり米を作らせたという米作偏重が
江戸時代に頻発した飢饉の原因の一つとなったという見方もあるから、悪い話と云えなくもない

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 22:20:04.36 ID:SKGSreut
武将風雲録では基本です

徳川家康「八万でそちらに行くので」

2011年05月10日 00:00

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 20:08:35.27 ID:FI8daPcE
慶長五年七月二五日、丁度小山会議が行われた日付の書状がある

大意として
「八万でそちらに行くので、その分の兵糧を用意するように」

この書状、徳川家康長束正家に出した書状である。
これについて識者はそのまま家康が上方の情勢を知らなかったと見ている
が、……自分としてはどう見ても脅しにしか見れない

この書状は正家には届かなかったが、違う形で彼の元に届いた様である
八月五日に伊勢を攻めようとした正家と安国寺恵瓊は海に船を見ると
それを家康と誤認して逃げ出しているからである

噂として家康が西上している噂は流れていたが、ひょっとしたらこの書状も
含めて家康の仕込みだったのかもしれない
そんな関ヶ原の心理戦を伺わせる話




天正15年、安芸の宮島水精寺歌会

2011年01月29日 00:01

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 22:34:20 ID:+Dhh+RyE
1587年(天正15年)島津征伐に向かう途中、安芸の宮島の水精寺で歌会を開いた秀吉たちが詠んだ歌
豊臣秀吉
ききしより 眺めにあかぬ 厳島 見せばやと思う雲の上人

長束正家
宮島の 春の景色は 君が代の 風ふかぬとや花もしるらむ

増田長盛
ゆく舟も 君がみゆきの 折をえて 浪もしづけき春の宮島

石田三成
春ごとの 頃しもたえぬ 山桜 よも霧島の心ちこそすれ

大谷吉継
都人に 眺められつつ しま山の 花のいろ香も名こそたかけれ

ここで長束と増田のいう「君」=秀吉だよね。
あと大谷の「しま山」は島津とかけている、と思う
資料に歌の意味とか背景の解説がないんでなんとなくしか分からない…
詳しい人がいたらお願いします




547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 22:55:03 ID:pwnIT3PV
大谷吉継の和歌を
「この宮島の景色は全国で有名なのは、都人が評価しているからなのだ(自分の目にはそうでもない)
同じように「島なんとか」とかも有名だが、実際はたいしたことないだろう」
と解釈してしまった
いや、三成でもあるまいし、そんな空気を読めないことは言わないか

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:15:46 ID:I9P1dmMH
>>546
大谷さんのは素直に
『(秀吉などの)都から来た人々に眺められているためか、厳島の山に咲く山桜の色や香りも、
より一層引き立っているようである』

でいいと思うよ。

あと順に
秀吉『聞いていたよりもずっと眺めていて飽きない厳島の風景である。
    京の宮中の人々にも見せてやりたいものだ』

長塚『宮島のこの春の景色の中に、確かに君(秀吉の)の世の風が吹いているとは
   花も知らないであろう』

増田『海を行船も、君(秀吉)の行幸という素晴らしい時期を得たため、静かな波の中を
    進んでいく春の宮島の風景である』

石田『春のたびの、とりわけて花の盛んな時期の山桜である。
    その花の盛んな様は既に、ずっと南にある霧島にいるような心地がする』

こんな感じかと

550 名前:546[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:55:00 ID:+Dhh+RyE
>>549ありがとうございます
ひらがなで「しま」って書いてあるから掛け言葉だと思いこんでた。
霧島って今噴火してるところだけど桜の名所なのか



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/27(木) 23:59:17 ID:mvYmcyAc
ttp://www.city-kirishima.jp/modules/page059/index.php?id=18

桜特集するサイト市がつくっとるね
まぁ当時どうだったかは分らんけど適してはいたんじゃないか

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:05:34 ID:gANGkQga
長束と増田は諂ってて好きになれんないかにもって感じだ

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:10:29 ID:ug6x0t/F
秀吉は辞世も名歌だが、何気にこの歌もいいな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/28(金) 00:52:35 ID:swpyhMCd
秀吉の歌は変に捻ってないシンプルな構成だから俺も好きだわ

555 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/28(金) 05:43:55 ID:MhR7EtTZ
俺には大谷の歌は>>547の意味に思える。
ていうかこれ悪い話なのか?