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天下で切支丹御法度となった事

2018年06月27日 19:18

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 13:58:19.61 ID:Py8YpCep
天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、
五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。
これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。

伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。

三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。
宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。
以降、切支丹は厳重に禁止された。

(長澤聞書)



884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 15:07:23.54 ID:tCs7j6lY
キリシタンって普通に他宗を攻撃する排他的なカルト教団だし
弾圧されるのも残当

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 15:22:46.48 ID:H7tae2x0
キリスト教が長崎でどんだけ破壊と殺戮やったか知ると、そりゃ報復も苛烈になるわって思う
松倉勝家がどうであろうと、キリスト教を旗印にして嫌がる村まで道連れに軍事反乱まで起こしてるし

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/27(水) 17:49:50.02 ID:Ys4oUs31
ほんまかいなというエピソードだけど・・・
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大阪の陣の頃の世間の風潮

2018年06月26日 10:34

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 20:34:10.90 ID:X2M4avTS
・その頃(大阪の陣当時)、弓で的を射ることが流行った。京において勧進(興行)されたのは
「射ながし」と言って、さし矢に星をかけ、弓場の作法も無しに射た。
又は、世間で兵庫付と言って、弓場の付け様、檜垣の塀の切り様、矢代の気味、前弓後弓の次第、
星の射上垣破という、先例よりの作法を吟味して射た。これは関白様が弓を好む方々の射礼を
お聞きになり、そのうち兵庫付の作法が良いと言われたことによる。

・この頃の流行り道具(武器)は鍵鑓で、上下ともに用い、10人の内8,9人はこれを持ち鑓としていた。
対の鑓はおおかた二間半から三間柄(約4.5~5.5メートル)であった。

・その頃侍も町人も残らず茶の湯が流行り、円座を敷いて炒り大豆を拵え、茶の立て様や呑み様を
稽古した。当時茶の湯の上手と呼ばれたのは、古田織部、小堀遠州、桑山左近、永井信濃守であった。

・大阪籠城の間、世間では米の値段が17,8匁くらいであったが(1俵当たりか)、大阪では高騰し、
10日ほど130匁まで騰った事もあった。

・その頃、侍または町人百姓まで、牢人といえば隠棲している者であっても頼もしく思い、一度も
会ったことがない者でも近づきと成り肝煎りとなったものであった。

・その頃は、奉公人を召し抱える時も、その人物を万事吟味し、品々良き者を召し抱えるよう
御内の者に仰せ付けていた。意図的に贔屓するようなことは出来なかった。召し使わす者も
その先祖まで良く良く吟味された。

(長澤聞書)

大阪の陣の頃の世間の風潮について



40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 22:36:19.51 ID:yfM2uK9e
武器にも流行り廃りがあるんか。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/26(火) 21:45:36.17 ID:WN+xHaZ/
鍵槍って十手みたいな補助部分が相手の武器引っ掛けるのに便利そうではあるね

軍法は、聖人賢人の作法

2018年06月25日 16:53

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 21:54:29.29 ID:AYWzaaZT
後藤又兵衛は常にこう話していた
「軍法は、聖人賢人の作法であり、常によく行儀作法をいたし、大将たる人は臣に慈悲深く、
欲を浅く士の吟味よく召し、もし戦が起ころうとしたなら、すぐにその備を作れるように、
よく注意しておくものだと伝わっている。」

(長澤聞書)



38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/25(月) 14:13:22.54 ID:121ckDlk
よく吟味した上で奉公構にしました
(長政)

大阪冬の陣の和睦の時

2018年06月24日 14:44

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 00:07:50.74 ID:AYWzaaZT
大阪冬の陣の和睦の時、大阪城内では、城の弾薬、兵糧米などが尽きようとしているので、
豊臣秀頼一人が腹を切る事で、籠城衆を助けるのだと取り沙汰された。
そして、例え兵粮が多く有ったのとしても、大阪城から5里隔てた幕府方の附城4ヶ所ほどに
それぞれに大名衆を置き、結局兵糧攻めにされるのだとも言われた。

その時城内より遣いとして参ったのは松の丸殿孝蔵主であったという。
大阪章(ふみ)と申すのは文英清韓長老が書いたものだという。

(長澤聞書)

冬の陣講和の時に、大阪城内で言われていたこと



879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 15:54:28.25 ID:u7rojT8f
結局、遅かれ早かれだったな。