fc2ブログ

信長公の時代の人々の雑談

2015年09月17日 08:55

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 23:06:07.98 ID:a/0PR1Q8
高山南坊(右近)、長九郎左衛門(連龍)、山崎長門守(長徳)、内藤如安、彼らは信長公の時代の人である
彼らが集まり雑談した際、こんな事を言った

「信長公が天下(畿内近国)に入られると、国の関々を開けられ、往還を一つにし、人の移動を
ゆるゆると仰せ付けられた。これは日本の国々の次第をよく聞き届ける事ではじめて、六十六カ国を
治めることが出来る、との御分別からであった。

太閤様は御所様(家康)との和睦が済んだ時、太閤様の御分別には、家康公と和解した以上、
最早日本は治まったと思われ、高麗船・唐船などの着く、九州の長崎、博多津、坊津といった浦々で、
唐船に乗る商人などをしきりに呼び付け、高麗や唐への渡海の様子を聞かれていた。
このような事を始めたのは、御所様との和解とほぼ同時期で、当時早くも高麗にお心がけを
されていたのだと聞こえている。

御所様(徳川家康)が関ヶ原の役も治まり、大阪へ移動する時、羽柴肥前守殿(前田利長)が
申し上げた。その内容はこうであった

『秀頼様には遠国に領地を仰せ付け、大阪城はこの勢いで接収して然るべきです。』

これを聞いた御所様は思われた『いやいや、これは肥前守と仲の良い者達が内談し、私の胸の内を
知ろうとしてこのような事を言っているのだ。』
そして肥前守への返答は

『いやいや、今回のことは治部少輔の仕出かしたことであり、秀頼公はご幼少であるため責任はない。
ただ、このまま別状なくこちらに置き奉るつもりである。』

こう答えたゆえに、その時は特に混乱が起きなかったのだと言われている。

御所様のご分別のように、大名衆は、この二人の談合において、御所様の口ぶりを集中して見ており、
そして様々に推量した。肥前守の提案に乗らなかった事は、偏にご分別厚く、おおくくりに時節を
ご覧に成ることの上手であるかな。』

彼らはこのような雑談をしていたと聞いている。

(川角太閤記)



713 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/17(木) 09:33:15.89 ID:xWUpAs5D
山崎長門守って吉家じゃなく一族の長徳の方だろうね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:19:48.42 ID:i3bbEaxY
高山右近と長連って個人的にすごく良いメンバーだ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:38:02.04 ID:kwnDb1cB
ながつらだって、ぷっダッサ(笑)

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 01:39:22.90 ID:MMe+h1uc
お、おう

スポンサーサイト



長連龍の復讐

2010年08月21日 00:00

長連龍   
724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 04:27:43 ID:YoNjKuoT
>>472にも出たけども、連龍メインの焼き直しとして……

能登畠山家重臣長氏に長連龍という者があった。
はじめは僧籍にあり、30歳くらいの時に戦の人手として還俗し、武将として働くようになる。

さて1577年に上杉軍は能登へ攻め入り、七尾城を陥落させた。
その際、畠山方死守派の長氏は連龍を使者に織田へ送ったが、内応派の温井氏や遊佐氏らにより、
連龍を除いて長氏一族はみな殺されるか叩き出されることになった。
連龍にしてみれば、応援の約束をこぎつけて戻ってみると、城すでに落ち一族ちりぢりのありさまである。

連龍は生き残った一族や旧臣、浪人らを集めて、一度はかつての居城を取り戻すも、再び追われた。
その後織田に属した神保氏を頼って体勢を整えるも、
謙信の死によって情勢がゆらいだことで温井氏・遊佐氏らは織田に降伏、信長は連龍に彼らを許すように命じた。
しかし連龍はこれに従わなかった。
信長は苛烈で知られ、そもそも恩のある相手だが、それでも服せぬほど復讐の念は強かった。

この後も何度か温井氏・遊佐氏らから信長へ降伏の申し出があり、
その度信長は許すよう命令したが連龍は常に不服の態度を示した。
そのうち一度は、信長は連龍から贈られた脇差を返している。「いい加減にしておけ」ということだろう。
しかしなお連龍は服さず、攻撃を続け、土地を切り取り、主導権をかけた決戦で勝ち続けた。

やがて、とうとう温井氏・遊佐氏は信長に、七尾城を明け渡して降伏したいと申し出た。
温井氏・遊佐氏らは一旦上杉方へ寝返ったものの、上杉家臣で七尾城へ派遣された鯵坂なる者を追い出して
七尾城を奪回し、かつての合議制を取り戻していたが、それを手放し預けるので助けて欲しいというわけである。
これに対し信長は、申し出を受け容れ、すぐさま城代を送り、さらに連龍に対しては
「これまでの戦功は認めて鹿島半群をあげよう。城は福水がよいだろう」
と知行を出しアドバイスまでするという具体的な行動を初めて起こした。
これまでの「自重しる」「だが断る」では済まない。
さすがに連龍もこの時ばかりは従い、その通りにした。
七尾城代が派遣されると、温井氏は退去、遊佐氏は逐電した。

しかしやはりそれで終わることはなく、連龍はその年のうちに遊佐氏一族を見つけ出し皆殺しにした。
温井氏はこれに危機感をおぼえ越後へ亡命するも、本能寺後の時分に背く動きを見せたとして、
連龍および佐久間盛政を先陣とした前田利家軍に攻められ、敗死した。
この間に、連龍は他にも、同じく父の仇である三宅氏や八代氏も討っている。
温井氏反乱討伐事件は1582年のことで、実に5年間に渡る徹底した仇討ちはようやく終結した。

連龍はこの後からは、前田利家の部下として大小の戦を果敢に戦い、
ついには前田家老八家のうち一家として三万三千石を拝するようになるが、それはまた別の話。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 04:29:04 ID:YoNjKuoT
復讐劇としては血生臭すぎて悪い話に投下しようかとも思いましたが、
>>472の参照が楽そうなのでこちらに。

余談ですが、連龍は魚津攻めにも従軍しており、その際には長景連という者を討っています。
氏姓のとおり連龍の貴重な親族で、越後へ亡命していたもののようです。
恐らく連龍の織田への忠誠心を試すためにそのように担当させられたものと思いますが、
当の連龍の心中が定かでないとはいえ、彼自身の手で貴重な親族を一人葬ったことは事実で、
ヒロイックな要素だと思います。

まあ、忠誠心を疑われて与えられた軍備を没収されるというリスクを回避する意味でも、
連龍が渋ってもどうせ他の織田方が攻めこんで景連の首を取っちゃうだろうからという意味でも、
他に選択肢は無いのでしょうがないといえばしょうがないですが。

以上、長文お疲れ様でした。




728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 10:58:37 ID:D0NOOOKb
>>724
スレチ覚悟で言うが、そこまでやった人物なのに、野望では能力値低めよね。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 15:48:21 ID:sSkb6E9k
>>724
かなりの能力や気概があるのに、ノブヤボではほとんど無名だけど


732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 16:29:25 ID:Hb+JP50y
信長にこれだけ気を遣わせるってことは中々の人物だったみたいだね。
使えない人間だとすぐ追放or処分だろうからね。

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 16:49:45 ID:CvpODJTI
信長さんは「家族の仇!」とかでがんばっちゃう人には甘いんじゃないか

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 17:00:36 ID:18D4hvC/
アレ?最初は能登一国やると言われてたのに、反故にされて利家付になって(´・ω・`)ショボーンって話もなかったっけ?w

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/20(金) 17:24:47 ID:YoNjKuoT
>>728,731
能力に対してはあえて言いませんが、
義理はもっと高くしてあげて欲しいと思います

>>732,733
信長が気を使っていたというよりは、
もともとの信長の望みは能登を織田の旗の下に入れることで、
当時はまだ加賀が収まっていない状態だったため
能登への進入が難しかったところを、
軍備さえ与えて放っておけば連龍が勝手に能登内の上杉の勢力をどんどん駆逐してくれるので、
それもいいかなと放っておいただけ。でもそれだと示しがつかないので、
自重を求める命令だけは強硬に・・・みたいな感じだったと俺は思っています

>>734
それは初耳