534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 10:51:39.98 ID:k5W8PY2+
そして阿曽沼広長は
慶長5(1600)年7月、南部利直は徳川家康の要請を受け、兵5000を伴い米沢口からの最上義光の上杉攻めに加勢するべく山形の勝山に出陣していた
そこに上方で西国大名が挙兵した知らせと家康父子の会津攻めの中止と西進、更には伊達との国境で一揆が発生したとの報が立て続けに早馬で届いた
利直「かような時に他国に大軍を持ったまま長居する訳にはいかぬ。さりとて起請連判をしたからには全兵を引き揚げる事もまずい
・・・!
…阿曽沼(広長)殿、浜田(喜六)殿、最上への体面もある故そち達と兵500を山形に残しこれを任せる。最上殿に引き続き助力してくれ
なにかあったら使番で連絡を取り合う事にしよう」
南部利直はそのまま本陣を畳むと兵4500を連れ帰国の途についた
阿曽沼広長「…といった訳で我等が山形の陣を任されました」
最上義光「…それではお二方には城南の守備をお願いできますでしょうか?」
しかしこれは南部利直の謀で、阿曽沼広長の領地の遠野は広長の留守中に帰国した利直に収公されてしまった
「山形の昔話」「岩手の昔話」ほか
※阿曽沼氏は元は独立大名だったが、奥州仕置で南部の下に付与されてしまった
※浜田喜六も南部氏と対立していた旧葛西氏の重臣の浜田広綱の弟と言われる
そして阿曽沼広長は
慶長5(1600)年7月、南部利直は徳川家康の要請を受け、兵5000を伴い米沢口からの最上義光の上杉攻めに加勢するべく山形の勝山に出陣していた
そこに上方で西国大名が挙兵した知らせと家康父子の会津攻めの中止と西進、更には伊達との国境で一揆が発生したとの報が立て続けに早馬で届いた
利直「かような時に他国に大軍を持ったまま長居する訳にはいかぬ。さりとて起請連判をしたからには全兵を引き揚げる事もまずい
・・・!
…阿曽沼(広長)殿、浜田(喜六)殿、最上への体面もある故そち達と兵500を山形に残しこれを任せる。最上殿に引き続き助力してくれ
なにかあったら使番で連絡を取り合う事にしよう」
南部利直はそのまま本陣を畳むと兵4500を連れ帰国の途についた
阿曽沼広長「…といった訳で我等が山形の陣を任されました」
最上義光「…それではお二方には城南の守備をお願いできますでしょうか?」
しかしこれは南部利直の謀で、阿曽沼広長の領地の遠野は広長の留守中に帰国した利直に収公されてしまった
「山形の昔話」「岩手の昔話」ほか
※阿曽沼氏は元は独立大名だったが、奥州仕置で南部の下に付与されてしまった
※浜田喜六も南部氏と対立していた旧葛西氏の重臣の浜田広綱の弟と言われる
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