大阪御帰陣のとき神尾局早く御熨斗鮑を奉りし事

2016年11月12日 15:58

阿茶局   
314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/12(土) 00:00:23.39 ID:Azqxj2FA
大阪御帰陣のとき神尾局早く御熨斗鮑を奉りし事

 或る人が言った。
大坂夏御陣御凱旋のとき、御本陣茶臼山から二条の御城へ
遷られるのが神速であったので誰も来ると思っていなかったところ、
神尾の局は早くも御のしあわびを三方に載せて捧げていた。
これに神祖は殊に御感があったという。

 この局は後に東福門院の御母代となり、特別に一位の勅授があった。
雲光院殿と申すは彼女のことである。
(甲子夜話続編)


そんなに凱旋の行進が速かったのですかね




315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/12(土) 00:30:57.26 ID:GlCndA1b
勝ったとはいえ付近に敗残兵が潜んでいるかもしれないし
万が一のために早急に安全な場所に避難したということだろう

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/12(土) 01:09:12.96 ID:nPnZFCQB
(ノ∀`)アチャー
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私が及ぶところではない

2016年05月20日 10:43

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 00:23:35.05 ID:igMUeQhK
ある時、将軍徳川秀忠は駿府城の二の丸に1ヶ月ばかり滞在していたことがあった。
大御所である家康は阿茶局を召して言った

「将軍は壮年であるのに、旅住にあるのも既に一月なれば、いろいろ退屈にも思っているだろう。
美しい花(女性)に菓子を持たせて、我が命だと言って遣わせば、拒否もしないだろう。
お前の心得にて計ってくれないだろうか?」

これに阿茶局
「よくお心付きたる仰せです。」と、早速女性を選びこれに菓子を持たせて、宵の口の頃、ひそかに
参上させた。

尤も、秀忠にはかねてより阿茶局から斯くと申し上げ置いてあったため、秀忠は裃を着た姿で女性を
待っていた。女性が秀忠の部屋の前に来ると、彼は自ら立って戸を開け、彼女を上座に座らせ、
持ってきた菓子を頂き、手をついてそれへの御礼を申し上げると、女性に

「さあ、早く帰られよ。」

と、自ら先に立って戸口まで送った。その姿意義正しく、言語厳かであり、女性は顔を真赤にして
立ち帰り、この事を阿茶局に報告した。

このように、秀忠が女性を、あくまで家康からの遣いとして対処したことを聞いた家康は
「早くも帰されたのか。将軍は元より律儀な人であるが、私が及ぶところではないな。」
そう感嘆したという。

(慶元記)




是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり

2016年04月13日 15:16

519 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:54:58.69 ID:9iw9dGpA
片桐且元が駿府にて幕府との交渉にあたっていた時、大阪においては、「今回は秀頼公の御使者(且元)
ばかりにて淀様からの御使者が無い」と、前々より関東に下った経験があり物馴れた女中三人を下し、
ご機嫌伺いとして江戸駿府の様子を見てくるようにと、大蔵卿局(大野治長母)、二位局淀殿女中頭)、
正栄尼(渡辺糺母)の3人を八月二十三日に出発させた。八月晦日に駿府に到着すると、この三女は
早速片桐且元と対面し、そこから下向の理由を家康側室・阿茶局へと連絡すると、明日登城すべき旨
申し来たため、三女は喜んで用意した。

九月朔日、八つ時(午後2時頃)三女は徳川家康の御前に召し出された。家康は三女の口上を直に聞き、
「秀頼公夫婦、並びに母儀にも恙無く大慶に思う。」と答えた。
三女は謹んで申し上げた
「今度、鐘銘において韓長老が不調法を行ったため御機嫌宜しからず、供養などまで延期を仰せられた事は、
御母子も殊更困惑されています。」
これに対し、家康
「それは世上の聞こえを憚って一段と申し付けたまでの事であり、苦しからず思っておる。」
こう言う家康は機嫌も常と変わらなかったため、三女は大いに喜んで宿舎に帰り、早速飛脚を以って
大阪へ注進。翌日、江戸へと出発した。

そして江戸への御礼を終え、十一日に再び駿府へと戻り阿茶局と対面して江戸の様子を報告した。
阿茶局は御前より下されたという御菓子を贈りながら言った
「今後はあなた方とも、しばしばこの様にお付き合いできますね。ほんとうに嬉しい。」
「…は?どうしてそのように仰るのですか?」

阿茶局は意外そうに
「ご存知ありませんか?しかじかの事により、淀様が関東に下向なさること、片桐且元が大方お請けして、
品川表にて御屋敷の地までも願いの通りに許可されましたから、おっつけ御下向あるでしょう。
その折にはあなた方もお供として同行されるでしょうから、このように申したのです。

さらに且元は本多正信の縁者に仰せ付けられましたし、尚以ってめでたい事です。」

三女は聞くごとに耳驚き、挨拶もそこそこに暇乞いをして、十二日の早朝、駿府を立ち退いて道を急ぎ
遠州浜松の付近で且元に追いついた。三女は先ず万事を知らぬふりをして申した

「かねて案じていたのと違い、大御所の御機嫌も甚だ宜しく、互いに安堵いたしました。」
且元
「そうではない。関東には様々な思惑があって、今回且元には御難題を仰せ出され、私は甚だ迷惑している。」
三女が強いてその訳を尋ねると、且元は三ヶ条の趣き(豊臣家の大阪からの転封、もしくは秀頼の江戸への参勤、
又は淀殿の江戸への下向)を以ってこれを語った。三女は問うた

「この内何れを関東の意に任せるのでしょうか?」

520 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:56:09.09 ID:9iw9dGpA
且元は胸中に深慮有りといえども、天下の大事であるからここで軽々しく女に語るべきではないと考え、
あえて「これ皆天下の御大切である。であるが御所替にもまた御参勤にも及ばぬよう、淀様が御下向の儀さえ
御得心あれば、事済むものである。各々帰られれば、この段たって申し上げて欲しい。」と申した。

三女は心に思った。『且元は駿府で既にこの事をお請けし、その上本多正信の縁者になったので、万事関東の意に
叶うよう取り計らうのも当然だ。』そう察すると、先ず「尤もの事です」と同意したふりをして、
そこからいよいよ且元の所存を聞き出そうと同道して上った。近江国土山に宿した夜、且元は三女に申した
「私は去る八月大仏供の延期についての交渉で関東に下り、久しく駿河に逗留していたため、今度の駿府の模様を
板倉伊賀守殿に報告すべきことがある。次の機会にしようとすればまた延びのびになってしまうので、ここから
直に京都に立ち寄り用事を済ませて大阪に下る。あなた方は先に大阪に上られよ。」

こうして三女は土山から直に大阪に登り、九月十九日到着。そして関東のあらまし、また且元の方針を
散々に讒言した。
日頃から関係の悪かった且元の事であるから、三女は言葉を揃へ、中でも正栄尼が申したのは、
「仄かに聞いたことによると、淀様を大御所の御台にもなされるとか。将軍の御台所と御連枝の淀様が
左様な儀は人倫の道にあるまじきこと!これも且元が申し勧めているそうです。その証拠に、淀様が
関東へ下ることが決定すれば品川にて御屋敷地を下さると固く約束なされたとのことです。これは
阿茶局が申していました。その上且元は、君にも伺うこと無く本多佐渡守と縁者に成りました。
これは上を蔑ろにする行為です!」

このように言葉巧みに申し上げると、淀殿も甚だ怒り「私は賤しくも織田信長の姪、浅井備前守長政の娘であり
秀吉にまみえたことさえ常々口惜しく思っていたのに、今関東に人質として下される事思いもよらぬ!
その上家康の妻と成るなど、無念の至りである。秀頼、もし私を関東に下すというのなた、生きて恥を
抱えるより、ここで剣に伏せるにしかず!」そう涙を流して訴えた

秀頼も「母を売って何の面目があるだろうか。それは考えもできないことだ。片桐が登城すれば
その実否を正そう」と発言した。

大野治長、渡辺糺といった奸臣たちは、普段から且元を強く憎んでいたため、折を得たと様々に
讒言を構えた。

是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり。

(慶元記)


阿茶局

2015年05月27日 16:01

阿茶局   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/26(火) 20:49:13.15 ID:FAT8l6IJ
阿茶局

阿茶局は、武田家の家臣であった飯田久右衛門の娘で、今川家の家臣、神尾孫兵衛久宗の妻と成った。

かつて、徳川家康が今川家で人質として生活を送っていた時、この神尾孫兵衛夫婦は家康に、
厚く礼を以って保護していた。
今川義元が桶狭間で戦死した時、神尾孫兵衛も同じく討ち死にした。
その妻はこの時妊娠していたが、実家の甲州に帰り、そこで男児を出産して猪之助と名づけた。

武田家滅亡の時、家康が甲州に入ると、この妻が息子を携えて道の傍で拝伏しているのに家康は気づいた。
家康は彼女が甲州に居る故を聞き、旧情を思い出し、彼女を召し出し、遠江にて奉公するようにと命じた。
すると、この妻が非常に明敏で、奉仕すること怠らず、家康はこれを高く評価し、後に奥の老女となり
阿茶局の名付けられた。

慶長19年大阪冬の陣の時、彼女は講和交渉の使者として大阪城中まで数度にわたって往復し、
大阪方の大蔵卿局、常光院(淀殿妹お初)などを説得した。
大阪冬の陣でついに講和が調ったのは、この局の功なのである。

この講和交渉の時、彼女が乗っていた肩輿は鉄で作られていて、矢石を防ぐようになっていた。
この肩輿は今、遠山七之助の家に伝わっているそうである。

後年、東福門院(秀忠娘)の入内の時に、御母代となり、従一位に叙任し慶賀を執行した。
没後、霊光院殿従一位尼公松誉周栄大姉と号す。

(明良洪範)