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坂梨弥吾助の奮戦

2013年11月22日 18:55

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/21(木) 23:28:00.00 ID:m1yqi8VD
天正十三(1585)年、薩摩の島津軍が肥後中部・内陸部を支配していた阿蘇大宮司家領へ攻め込んだ年
圧倒的な兵力を持った薩州勢の前に阿蘇配下の平野部諸城はことごとく落城。筆頭家老甲斐親英も敵へ寝返ってしまう。
これを聞いた家臣団は大宮司惟光に身の危険が及ぶことを恐れ、惟光・惟善兄弟の目丸への避難を提案
先代当主惟種の近習坂梨弥吾助惟連、西源兵衛惟惟景、渡辺軍兵衛といった大宮司家へ忠誠を誓う家臣達がこれに付き添った。

その道中何者とも知れぬ者達が追いすがり、惟光・惟善兄弟を捕えようと襲いかかるが
渡辺軍兵衛は槍で突き伏せて退散せしめ、西源兵衛は肩に乗せた惟光をしっかりと離さず
坂梨弥吾助は先頭に立って10人あまりを切り伏せるなど家臣三人の武勇もあって無事目丸の隠れ家へ辿り着いた。

この後も阿蘇家は秀吉の九州征伐時に当主幼少を理由に参上しなかったため所領没収、肥後国人一揆や惟光処刑といった苦しい時期を送るが
関ヶ原を経て肥後を支配した加藤清正の配慮によって慶長六(1601)年弟惟善が社家として阿蘇家復興を許される。
その際最後まで惟善に付き従った坂梨惟連・西惟景は惟善より恩賞が下され
特に弥吾助こと惟連は忠勤功労第一であるとして阿蘇家家司・惣庄屋に任ぜられた。

惟連は慶安四(1651)年二月に80余年の生涯を閉じるが、以降も坂梨家は先祖同様阿蘇家を支え今日に至っている。

http://seiwabunraku.hinokuni-net.jp/play/play08/




682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 00:28:47.09 ID:FnK7PD8H
>>681
国道57号の滝室坂の辺りも含めて、あの辺り一帯が坂梨だから、そこら辺の人か>坂梨弥吾助
坂梨氏や西氏、高森氏とかは阿蘇氏の通字の「惟」の字使ってるし、元々阿蘇氏の一族とかだったのかな?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 01:38:40.42 ID:hBdr+YrO
>>682
坂梨、西、高森の三つとも阿蘇家の分家で、結構な重鎮
他に村山とか上島、中村、光永、竹永、仁田水なんかも。
(マイナーどこでは津邑、阿蘇品、白石、二子石といったメンツなどあり)
阿蘇流坂梨の姓は複数の系統があって、異なる時代に阿蘇家の一族が家祖の異なる坂梨家を作ってるのでややこしい。

ちなみに北里氏や木山氏のように阿蘇氏以外の氏族ながら「惟」の通字を賜った一族もあり
佐伯氏、大蔵系氏族のようにもともと「惟」の字を使う者達もおったそうな

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 01:44:37.53 ID:hBdr+YrO
あと、「坂梨」という苗字は平家の落ち武者が
「坂が無い(梨)=平」という意味で作った苗字・地名であるともされ

「平家出身の坂梨氏が住んでいた地にちなんで阿蘇氏の一族が多系統の坂梨姓を名乗った」
という更にややこしい説もあるらしい

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 08:08:15.75 ID:QGru8z6r
そんなにオレオレ坂梨があったら価値がなくなりそうなのにどんだけブランドなんだ坂梨

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 16:07:21.42 ID:UzDP5ZQf
戦国時代の逸話じゃないけど坂梨にまつわる話を一つ
滝室坂の辺りは豊後街道(肥後街道)にあって、参勤交代で鶴崎の港に向かう途上になるんだけど
今も当時を思わせるような石畳の道が残ってたりするんだ。
あるときここを通りかかった武士が「坂梨という名なのにこれほどの坂があるとすれば、大坂にはどんな辛い坂があるんだ・・・」と悲嘆して
ついに自殺をしたっていう昔話があったりする。

俗に「大坂に坂なし、坂梨に坂有り」なんて言われる滝室坂の逸話
戦国時代じゃないからスレチだけどね

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/23(土) 19:14:00.73 ID:d29KtPWM
坂梨ってゅうのにぃ。。

これほどの坂。。。

じゃあ、大坂って。。。

もぅマヂ無理。。。

切腹しょ。。。。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/24(日) 02:04:12.90 ID:2X3nnihr
お話にしたって豆腐メンタル過ぎだな

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阿蘇神社・大宮司家の事

2012年03月24日 21:32

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 15:57:25.16 ID:oAc8BpWY
阿蘇神社の大宮司家はその名とは裏腹に阿蘇外輪山の外側、矢部に城(岩尾城)と館(浜の館)を構えていた。

この矢部も戦国末期になると島津の侵攻にさらされることになり、
阿蘇大宮司家の幼い兄弟(惟光と惟善)は浜の館から逃れることになる。
このとき逃亡先として阿蘇内輪や豊後などの意見もあったが侍女の小宰相が
「私の田舎(目丸)は草深きところ、そこなら追っ手もおよびますまい」
と提案した事により目丸(浜の館から直線で10数キロ離れた山中)に逃れる事になった。
目丸では当時4歳の惟光と惟善兄弟を2年にわたって匿う事になる。

秀吉の九州征伐により惟光兄弟は浜の館に帰り咲き、兄弟を匿った目丸の山崎家にはその後莫大な恩賞が
与えられた。
①肩付茶入「松風」(大宮司家が後奈良天皇勅使烏丸中納言より下賜されたもの)
②惟光用の鎧(子供用)
③琵琶、手鏡、こうがいetc
さらに目丸地区の全家に阿蘇家の家紋「鷹の羽」の使用と郷士の身分が与えられた。
目丸地区では村人全員が島津の襲撃に備え男は「棒術」を女は「薙刀」を身につけており、
郷土芸能「目丸の棒踊り」はこの棒術稽古の名残と言われている…



まあ現在の目丸地区が民家10数軒の限界集落モドキなのは余談

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 16:02:39.93 ID:oAc8BpWY
余談その2

その後の惟光兄弟は九州征伐後、阿蘇家がとり潰されたため惟光は加藤家に惟善は小西家に預けられる。
しかし惟光は何故か梅北の乱に関わっているとされ、秀吉の命で切腹している。
惟善は関ヶ原後に加藤清正の庇護を受け、徳川幕府より阿蘇大宮司職(一千石)に返り咲いた。




408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 16:33:25.84 ID:wrNJS7ty
>>407
小西家に預けられたコレ善が清正の庇護うけてんの?
これって逆じゃないの?

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 18:03:34.12 ID:oAc8BpWY
>>408
惟光と惟善の預け先が逆じゃないかって意味かな?
惟光は加藤家であってる。
惟光は加藤領の熊本花岡山で切腹してる。

この花岡山は清正公が何度も訪れて座っていた石とか、西郷隆盛軍が砲台を置いた跡とか、神風連の乱の際の
官軍方の墓とか色々歴史遺産があるんだけど、
朝鮮人集落が出来たせいで今は中腹までラブホ街って残念な結果になってる。(東大教授の
カンサンジュンもここで育った)

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 18:11:54.12 ID:NBz6mScN
>>408
ヒント  関が原後

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 20:33:58.83 ID:kAzeNOjO
肥後一国を治めるなら阿蘇神社との関係は大事だ罠。

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 22:13:33.08 ID:7ItA0jxh
肥後の国人ってたいていひどい目にあったNE!

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 22:29:57.98 ID:Ms2LYsAm
城氏とか小代氏、名和氏辺りは大坂にいたおかげで難を逃れたけどね。
まあ小代氏は津奈木に飛ばされ、名和氏も筑前、城氏も筑後に飛ばされたけど

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/25(日) 00:11:10.49 ID:XyreI16B
>>412
立花さんにもボコされたし・・・