罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに

2017年06月18日 16:12

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 01:15:39.27 ID:G1R0oyIu
村越茂助は家康の家臣でしたが、ふとしたことから勘気にふれ、目通りの叶わぬ身分となりました。
茂助は心中不平でなりませんでした。一にも徳川、二にも権現様と主家大切に働いて来たのに、
身に覚えの無い理由で遠ざけられるということは憤懣にすら値するものでありました。彼は門を閉じました。
戸外へ出ません、出たところで見るもの聞くもの、ことごとく癪に障ることばかり、いい加減なおべんちゃら武士が、
大手を振って歩き、正義の士はすべて不遇にいるように見えて、腹が立ってたまらないのでありました。
ほど経て、家康の方から茂助を呼び出しましたが、茂助は応じません。
「拙者は御勘気にふれた身の上でござる。お目通りはおそれ多い。」
嫌味と鬱憤とを言って、決して伺候しませんでした。ところがそこへ伏見の大地震が起こりました。
人畜の死傷も数多く、建物の倒れたものは枚挙にいとまありません。世間は物情騒然として、流言は日に盛んです。
こうなると根が忠義一徹な茂助ですから、家康の安否が気になってたまりません。
「権現様はいかがなされましたか。」
まず本多正信まで問い合わせました。
「その方、それほど心配になるか。」
正信はにっこり笑って言いました。
「よい機、と言っては悪いが、今こそお詫び申し上げる時ではないか。のう、すぐ参れ、参ってお見舞申し上げい。」
しかし、茂助は頭を横に振ったのでした。
「拙者は御勘気にふれた身でござる。押し付けがましく参上するのは如何かと存じまする。」
「それがいかぬと言うものじゃ。」
正信は言葉を尽くして説き聞かせた上、家族の者をそれぞれ知人にあずけて、ただ一人伏見へやることになりました。
もし家康の気持ちが元通りであれば、その場で討たれる覚悟をしていたのです。まことに悲壮な見舞い人と言わなければなりません。
伏見の家康の住居は、地震のためにひどく破損し、見るからに酷い有様になっておりました。
しかし隆々たる家康の声望は、そうしたうちにも無言の威力を示しました。
諸国の大名はこぞって見舞いにやってきます。家康は家康でこの機を逃さず、大名の心をつかむ工作を怠りませんでした。
彼は自ら握り飯を握って、見舞いの大名にそれを接待していたのです。村越茂助は、そうした家康の前に進んで、
村越茂助にござりまする。」
こう言って、言葉のかかるのを待ちました。一言、言葉があったなら、すぐその場の仕事を手伝おうと思ったのです。
ところが、家康は横目でじろりと見たきり、ついに一言の言葉も与えませんでした。
茂助の失望といったらありません。彼はすごすごと立ち戻りましたが、途中から再び引き返して、
「茂助でございます。殿、茂助でございます。」
ほとんど泣くばかりに言いました。が、これも白い目で黙殺されてしまったのでした。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 01:17:02.93 ID:G1R0oyIu
駄目だ!絶望のあまり、茂助はよろよろと立ち上がって戻りかけました。その時です。
いたわるような声が耳元でしたのでした。それは阿部正勝です。茂助はすがりつかんばかり、それまでのことを話しました。
「わかった、が誠意じゃ。誠意が通るまでの辛抱、よいか。」
「はっ。」
再び、茂助はとって返しました。が、もう物を言う元気もなく、黙って家康の前にうずくまったのでした。
しばらくして、家康は、茂助の居るのに気づきました。二人の目がはたと会いました。
滲むような柔い人情が、お互いの目の中に光りました。
「茂助。」
「殿。」
茂助の目先は、ぼうと霞んできたのでした。嬉しさのあまり、罪も恨みも一切の雑念の消えた新しい世界がそこに開けたのです。
「いかが致した。」

『明良洪範』(良将言行録)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 07:00:26.50 ID:OqsrfH6f
>>41
身に覚えがないんだろ
折れるな茂助!

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:03:34.38 ID:oqc2RtC1
>>41
笑った
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垣築地騒動

2016年11月27日 08:26

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 19:56:41.38 ID:rZZPmzCC
石田三成と、徳川家康の屋敷は、道を隔てて隣に面していた。
徳川屋敷で垣築地を築いた時、石田屋敷との境目の普請をしていると、三成の下々の者4,50人ほど
出てきて、徳川方の垣築地を築く者達と諍いを起こし、治部少の下々の者は叩き出され逃げた。
この時、築地の普請をしている者たちは500人だったという。

その後、三成方より徳川家の阿部善右衛門(正勝)の所に、『迷惑を仕ったので、今回の騒動に
関わった者を処分してほしい。』と要請された。
阿部善右衛門は徳川家康にこの事を申し上げた所、家康は「如何様にもそなた次第に申し付けよ」
と言ったため、善右衛門はそれを三成方に伝えた。

すると三成方より「普請奉行に対して処分を行ってほしい」と要求された。しかし善右衛門は
これに「普請奉行は十余人おります。何れの者を処分するのか、指示して下さい」と返事をした。

善右衛門は、石田三成の要求をハッキリと拒否するのは難しいと判断し、当時騒動のあった場の
責任者の奉行は普請場に出さず宿に居させて、その他の者に普請奉行を命じ現場に出させた。

このため石田家の者たちは、普請場で当時の普請奉行を見つけることが出来ず、またその奉行の名も
知らなかったため、以降何も言ってこなかった。

(慶長年中卜斎記)