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「義鑑公御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」

2021年12月26日 15:58

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 23:13:53.37 ID:fzoKlB+k
大友記」より「義鑑公(宗麟)御舎弟八郎殿、大内家を継ぎたまうこと」
百済国の王子林処(琳聖)王太子より二十八代の後胤、周防豊大内義隆公、安芸の毛利陸奥守元就と戦いたまうこと類度におよばれども、
大内殿大身にましませば御馬を出さるることなく、冷泉院などという侍大将に人数少々相添えあしらわせたまう。
元就公は仕出の侍、弓矢をとりて、かく器用なれば心がけ深くして大内殿の国おおかた元就が手に入り、
大軍をもって義隆居城周防山口へよせければ、義隆一戦にも及ばず深川大寧寺にいらせたまう。
元就つづいて追いかくれば、力なく天文二十年辛亥九月朔日に義隆公、父子ともに御腹召さる。
既に大内家退転しければ大内殿家老陶尾張守晴基(陶晴賢)、
「義鎮公御舎弟八郎御曹司を申しうけ奉り義隆公御跡目に仕りすべまいらせたき」よし、田原近江守を頼りにせんと申し上げる。
右の旨言上しければ、義鎮公仰せら候は
「尾張あるじの義隆をうたせ、元就という敵と合戦ならず、居城山口をさえ敵にとられ籠るべき一城もなく、義隆跡に仕えすべしと申すも無分別なり。
義隆跡に八郎まいりたりと元就聞きそろわば、時日をうつさず大軍をもって押し寄すべし。
その時尾張一身の才覚にて元就に手向かいなるまじく候。
たとい一戦に及ぶといえども、しばしもこらうべきようなければ追い崩れならん事うたがいなし」よし、何事も聞き入れるべかるずとある気配にそうらえども
八郎殿おことわりありて「義隆あとのき、元就手指国にてそうらえば、元就におそれ自ら退き仕り候と、諸人のあざけりも口惜しき次第にて御座候。
元就と一戦を遂げ討死仕り候事ならば子の上の面目にて候」とて義隆跡目に御約束なり。
尾張守よろこび安芸国厳島に城郭を構え、八郎殿を大内義長と号し厳島へいれまいらす。
元就はやりたる大将なれば、やがて押し寄せ一日一夜攻めし戦い、尾張守打ち負け周防豊国長府谷長福寺へ引き退き、
毛利つづいて追いかくれば尾張守討死いたす。義長公力なく御腹召さる。
それより中国八カ国、毛利成敗とぞなりにけり。

毛利元就が大内義隆を討った逆臣で、陶晴賢が大内家再興に努力した忠臣みたいな



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厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ

2020年04月10日 17:53

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 00:58:54.03 ID:Z0cMNdBb
或いは曰く、毛利元就は陶晴賢が厳島に渡海することを聞いて、元就より、追手の物見を二人、
搦手の物見には志路源蔵を遣わした。この時、厳島社に元就より病気回復の願書を納めさせ、
源蔵は神主の姿で参拝した。故にこれを咎める者は無かった。

その願書を陶晴賢が見て、元就の病気を真と思い喜んだという。

この願書には弘治元年(天文二十四年)十月二十八日とあるという。(筆者注:厳島合戦は十月一日であり、
この日付は九月二十八日の間違いと思われる)

毛利元就記



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 07:38:28.78 ID:oP8U78Ec
>>963
神社をも利用する元就…

“大内本”

2019年04月02日 18:09

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/02(火) 17:44:28.73 ID:caEwBzl0
大内介(大内氏)は西国一の大名であった。周防山口の城に居住した。紙を大明に遣わし、書物を
刷らせて取り寄せた。今に至って“山口本”とも“大内本”ともいう。

この家臣に陶氏あり。陶は後に大内を取って除け、繁昌した。大内は子孫かすかにして信長の時分
まではいたという。

毛利元就は陶・尼子などを滅ぼして大名となる。元就の父を弘元という。弘元の時は、いまだ微々
たるものであった。

――『老人雑話』


吉川元春と陶隆房の兄弟の昵契

2018年07月21日 18:14

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/21(土) 17:06:40.52 ID:t7W75aUO
天文18年8月3日、毛利元就、隆元、吉川元春小早川隆景の父子四人は山口へ下向した。
熊谷伊豆守、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、山田の一族である羽仁己斐以下の者達も
これに従って下向した。大内義隆はこれを大いに喜び、毛利に随従してきた者達には安芸への帰国を許し、
毛利父子四人は山口に逗留させた。この時、大内義隆は家臣である内藤氏の娘を養女とし、毛利隆元との
婚姻を望み、婚約を調えた。

また吉川元春と陶隆房に兄弟の昵契を結ばせた。
この時吉川元春からは吉光の脇差が引き出物として出され、陶隆房からは、天下無双の名馬である「近江黒」が
出された。この馬は近江の六角氏より将軍足利義晴へ奉られ、柳営より大内義隆に下されたのを、陶隆房が
給わり、この度元春に進められたのだ、と聞き及んでいる。

(安西軍策)

陶隆房と吉川元春が義兄弟とされた時のお話


山田の怨霊

2018年05月23日 18:01

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 15:33:48.62 ID:9bph0DTt
天文二十三年三月二十四日、前日の二十三日に故宗像氏男の後室と娘を殺した吉田飛騨守と峰玄蕃は、
家老である石松和泉守の宅へ行き、
「陶全羨(晴賢)の命により昨夜後室、姫君を殺し申したり。この旨を大将である宗像氏貞様へ
言上いたしたく、これについて、和泉守殿も同道して頂きたい。」と申し入れると、和泉守も
「尤もである」と同じて、3人で御前に罷り出て申し上げた

「全羨より仰せ付けられた趣を以て、氏男の後室姫君を殺しました。これも大将の御為の忠義と
存ずる故であります。」

実は氏男の後室は氏貞の腹違いの姉であり、彼はこの事を非常に嘆き悲しんだが、全羨入道の
指図ということであればどうにも出来なかった。

後室、姫君の遺骸は石松、許斐、占部、吉田といった家臣たちにより、増福禅寺に葬られた。
後室を栄林院妙周、姫君を心源院妙安と号した。
作法通りに法事が執行され、墓を築いて翌朝これを見ると、母娘の二つの墓は、四つに破れていた。

これを知った吉田飛騨守は大いに驚き、鎮国寺の僧侶である法念という者を招いてこの事を告げ、
祈念するよう求めた所、法念は「我に秘法あり、怨霊をして畜生道に堕在させれば祟をなすこと
できなくなります。」と、巨大な釜を鋳させて墓を覆い、その上に糞土を覆いかけ、邪術を
行った。ところが、その術がいまだ終わらぬ前に、身の丈ほどの髪をうち靡かでた女性が現れ、
覆っていた釜はたちまち砕き割れ、法念はこの破片に当たり即死した。彼の胸のあたりには、
3つの穴が空いていた。

その夜、吉田飛騨守も法念と同じ頃に、胸に穴ができ心身悩乱して
「今我山田の怨霊のために突き殺される!たすけよ!たすけよ!」と絶叫して死んだ。
飛騨守の妻も狂乱し「胸痛や!」と叫び苦しんでいたが、そのうちに

『我は氏男の後室であるが、汝が男に胸を刺された苦しみ、今思い知らせよう!』

そう罵り叫び、心身悩乱し、十余日過ぎてこれも胸に穴出来て狂い死にをした。その他吉田の一族、
峰氏の一類、同じ日に十七人まで胸痛に悩乱して死んだ。

弘治元年正月二十三日、山田の怨霊は野中勘解由に祟った。野中は「私は吉田飛騨守と断金の
友である故に、後室姫君を殺せと談じた罪逃れがたい!今、我が生命が召し取られる!
ああ、胸が苦しい!」
そう叫んで忽ち死んだ。

同年十月二十三日の夜、陶全羨の夢に、婦人が幼女を連れ、侍女四人を従え全羨の枕元に立った。
『我は宗像氏男の妻である。我に何の罪があったか。讒者の実否をも正さず殺害した、その怨み
深い。汝を殺してその家を滅ぼすべし。』

果たして十一月朔日、毛利元就に攻められ陶全羨は自害した。

弘治二年三月二十三日、宗像氏貞の十五歳になる妹が俄に狂病に罹り群臣に向かって罵り叫んだ
『大逆非道の者共かな!我が胸を見よ、この苦しみ氏貞へと思えども、大神宮の神職なれば
力なし。怨むる所は家臣共に有り!』
そう喚いて二十三日の夜半に忽ち死んだ。氏貞は大いに驚き、弘治三年の春、「妙周妙安の
御霊を祭るべし」と田島の坤ノ山に一宇の社を建立して氏八幡と号して神事をなし、
かつ毎月二十三日かた二十四日までは増福禅寺の本尊地蔵菩薩の御前にて衆僧を集め法華経を
読誦させた。

幸いにも、殺害されたのは二十三日の五更(午前三~五時)であった事より、月待の二十三夜の三夜供養にあわせ、
妙周妙安が地蔵菩薩の化身であると、様々な事を成して怨霊を宥めた事で、亡魂もそれなりに嬉しく思ったのか、
氏八幡の巫女に宣託し
『今は氏八幡として祭られ、本地は地蔵菩薩となりぬること嬉けれ。荒れる霊も治まるべし。』
と聞こえたという。
末世とはいえ、不思議なる事共である。

(宗像軍記)


山田事件



941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 15:41:13.82 ID:L8aloBMb
>>940
怖い話になっとるw

>この苦しみ氏貞へと思えども、大神宮の神職なれば力なし。
妙にリアルだな(´・ω・`)

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 15:56:16.03 ID:VkStT/Ab
怨霊を鎮めるのではなくて地獄に堕とすとか駄目なやつだよね

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 19:01:51.36 ID:tYfyA9ZY
20人以上呪い殺すとか、歴史に残るレベルの怨霊じゃね・・・

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 20:32:18.64 ID:vVQTpGDO
>>940
全然いい話じゃない orz

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 03:17:46.36 ID:kjZ5Tp+r
早良親王「なにそれ怖い」

山田事件

2018年05月22日 21:21

785 名前:1/2[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 00:07:01.30 ID:yNjh7yJS
天文23年2月下旬、宗像家の家臣の中に、陶全羨(晴賢)き媚びへつらうものあり、
周防国に使いを立て讒言を行った
宗像氏男の後室は山田の邑に有り、旧好の臣達に密かに命じて、息女を豊後大友の方へ
遣わし、宗麟の子息のうち何れなりとも婿として宗像の家督を譲り、全羨様より遣わされた
氏貞様を攻め殺そうと議されております。ご油断なきように。』

これに全羨は大いに怒り、
「後室息女は先だって、男子を殺した時藍島に流すべしと申し渡したはずなのに、山田の邑に
召し置いているとは心得がたい!そういう事なら、宗像家の男子を殺したというのも偽りであろう。
この男子成人の上は彼に家を継がせるつもりなのだ。今は天下争乱の時であるから、この入道の
威を借りて暫くは当家に従う色を見せ、氏貞は私が宗像に遣わしたから、已むを得ず仮の主君として
頂いているのだろう。

急ぎ氏男の後室および二人の子供を殺し、その首を持ってくること無ければ、大軍で押し渡り
白山城を攻め破り、一人残らず妻子共に串刺しにすべし!」

そう、江良源左衛門賢盛を使いとして宗像家中に命じた。
これを受けて宗像の群臣は、石松和泉守の宿所に集まり詮議を行った。意見はまちまちであったが、
許斐氏鏡、占部貞安進み出て
「これはおそらく、家中に讒者があり全羨に悪しく申したものと考えます。あのように申せば
全羨が立腹するのも当然でしょう。ですが、後室息女共に何も知らず、明け暮れ山田の草庵にて
氏男様の菩提を弔い、また殺害された男児国丸様が、今も吉田飛騨守の元で養育されていると信じ、
毎日法華経を読誦し、その無事を祈られています。そのような方々を無下に殺すなど出来るでしょうか!?
遠賀の高倉に移し隠し置いて、全羨には事の仔細をありのままに申しましょう。
男子は先だって殺したことは事実です。また後室の陰謀ばるものは跡形もない虚言ですと申せば、
女子の事ですから、何事が有るでしょうか。ただ、後室母娘を高倉に遣わすべきです!」

そう申した所、吉田飛騨守が進み出た
「私は国丸様を預かりますと後室に嘘を言って殺害しました。しかし陶全羨は私が助け置いていると
疑われ、山口に召喚して殺すとの事です。またこの事が後室のお耳び入れば、私が今まで後室を
騙し奉り、3年前に国丸様を殺した罪は逃れがたいものとなります。
あなた方はいか様にも道を立てられよ。この飛騨においては、全羨の命に従い氏貞様を主君と
奉る上は別の主君など持ちません。後室息女を殺し全羨に首を見せ、3年前に国丸様を手に掛けた
ことも正直に申せば、我が身の科を免れ、また宗像社務七十九代の後栄ともなるでしょう。」
そう、言葉荒く申し、辺りを払うがごとく見えた。

占部日向守が進み出て「この上は誰に憚ることもない。氏貞様は年若いが我らの大将である。
明日、この事を申し上げて、氏貞様のお計らい次第に従うとしよう。」と申すと、各々も
最もであると同意し、この日、三月二十三日の評定はこれにて終了し、それぞれ宿所へと
帰った。

しかし吉田飛騨守は妻の弟である峰玄蕃を呼び
「今日の石松和泉守宿所での詮議では、占部、許斐の一族は道理を立てるような者が多く、老臣である
石松和泉守の言葉も出ぬ前から何かと申し立てたこと心得難い。あれでは明日氏貞様へどのように申す
だろうか。そうなれば我らの身の上にも大事となるだろう。
そこで、今夜の内に山田の邑に行き、後室息女を殺すのだ。お前も来い。」

玄蕃は驚き止めた
「これは大事の思い立ちです。しかしやはり、明日の御詮議次第とすべきではないでしょうか。」

786 名前:2/2[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 00:07:35.16 ID:yNjh7yJS
ところが彼の姉である飛騨守の妻が説得した
「既に歳五十となる飛騨守の申される事に従わないとは何という若輩者でしょう。私達はあなたの
行く末を思えばこそ、代々の主君の妻子を殺すと申しているのです。飛騨殿のお供をして山田へ行き、
殺してくるよう、偏に頼み申します。」

そして飛騨守は
「ならば、私の存分ばかり聞いた所で納得しないだろう。中山勘解由左衛門は私の知古の友であり、
また石松和泉守は此の家の大老でも有る。この二人に相談いたせ」という。

玄蕃は先ず野中に相談すると、似るを以て友というが、彼もまた大悪人であり飛騨の意見が
尤もであると同意した。その足にて石松和泉守と談じたが、彼は既に七十あまりの年齢で、
老いぼれとなり人の言うことに従うだけで、もはや善悪の判断もできなくなっていたため、
「いかにも飛騨の申されること理り至極」と言うばかりであった。

そうして飛騨守は「今はこれまでぞ、明日まで引き伸ばせば何が起こるか解らない。」と、
玄蕃を同道して山田の邑に参り、後室の侍女に申し上げた

「実は俄に藍島に朝鮮よりの流船が来たため、我らはその見聞に遣わされる事となり、
その御暇乞いのためまかり出ました。」

これに対応した花見の少将と申す女房は
「今夜は二十三夜の御月待のため、今御行水をされております。暫くお待ち下さい。この事を
申し上げてきます。」
と申し、暫く待っていた所、後室は浴室より出て、姫君と共に窓前に座した。
少将が「吉田飛騨守、峰玄蕃が明日藍島への御用にて渡海すると、先刻より御暇乞のためとして
罷り出、お待ちされております。」と報告すると、後室は
「ならば待ちかねているだろう。ここへ」と飛騨を召され、玄蕃もそれに相従った。

飛騨守に向かって後室は言った
「この頃、うち続いて夢見が悪く、気にかかることが多いのです。どうでしょう、国丸殿には
何事も無いでしょうか?久しく見ることもなく、懐かしさだけが募ります。どうか良く良く、
養育をして下さい。」

そう言い終わらぬ内に、飛騨守は後室の御前に駆け寄り懐中より氷の如き短剣を抜き胸のあたりを
刺し貫いた。彼女は「あっ…」との言葉だけを最期に、そのまま空しくなった。
同時に峰玄蕃は姫君を刺殺した。
侍女である小少将、花見の少将、小萩、月白の四人は混乱し、「これはいかなる事か!?」と
両人に取り付いたが、彼らは二刀づつ刺し通し、四人共に斃れた。あはれと言うも愚かである。

(宗像軍記)

宗像家における「山田事件」についての記述である。


宗像氏男跡目の事

山田の怨霊



787 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/22(火) 07:48:43.97 ID:m1d/dBwZ
うーむ、えぐい。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 14:54:20.06 ID:hFRPbsPL
>>786
>うち続いて夢見が悪く
カーチャン…

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 15:10:48.60 ID:fU0KShZ6
国丸って氏隆のことか?96まで生きてたよな

宗像大宮司より見た大寧寺の変

2018年05月20日 17:51

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 17:45:33.12 ID:YeJdzbDA
天文20年8月6日、宗像大宮司氏男と香月次郎左衛門隆光は、宗像を出立して同9日、
山口へと参着した。そして相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を
申し入れると、同11日、両人供に築山の御所に召され、義隆より直々に「遠国よりの参勤
神妙なり」との言葉をいただき、また大友や島津の軍謀の事なども聞かれ、九国(九州)の
太平の事を祝し、ご機嫌殊に麗しかった。

そして「両人供に路次の労を休められよ」との仰せにて、宗像氏男香月隆光は自分の旅館に戻った。


このような所、同月26日に、大内義隆の家老である陶尾張守隆房は、主君義隆へ恨みを持つ
事があって、逆心を企て山口を攻めようと若山の城を出陣した、との情報が聞こえた。
宗像氏男香月隆光大内義隆に命ぜられ、五百騎あまりを付けられ千把ヶ嶽に差し向けられたが、
陶方の宮川甲斐守、江良丹後守率いる二千騎と戦いもみ合っている所に、黒川形部より使いが来て、
『山口の搦手が敵に破られ陶勢が乱入し、築山の御所にも火がかけられ、大内義隆は行方も知れず
落ち行かれた』と伝えられた。

宗像、香月は「今は是迄」と打ち揃って長門国へと落ちていくと、付き従う軍勢はみな散り散りとなった。
そんな中、深川の大寧寺に義隆が居るとの情報を聞き、ここを尋ねていったものの、早くも昨日
御自害されたと言われ、両人供に力を失い

「大内殿の家の滅亡は此の時に究った。本来そうする必要のない公卿殿上人までみな討ち死にし、
或いは自害されたという。我ら武門に生まれ、生きて帰って誰に面を向けるべきだろうか。」

そう考え、両人ともに腹を掻っ切って死んだ。あわれという言葉もない。

(宗像軍記)

宗像大宮司より見た大寧寺の変


宗像氏男跡目の事


その頃、芸州に毛利元就という人が

2018年04月07日 18:13

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/07(土) 17:03:13.59 ID:lWxpVVTl
その年、天文二十四年十月、改元ありて弘治元年となる。

長門国では大内殿を討った陶尾張入道(晴賢)の子息、阿波守(長房か?)がその威勢を
近国にまで広げ、主君である大内義長とも不和なり、これにより大内家中の重臣層、
相良、杉、内藤といった者達と、陶晴賢勢との紛争が起こるように成った。

その頃、芸州に毛利元就という人があった。彼は始め、大内義隆の被官であり、安芸国にて
武田刑部大輔信実と国を争っていたが、武田の家老である熊谷伊豆守信直が武田に背き、
毛利に一味したため、終に武田は自害し、安芸は毛利元就が一国平均に治めた。

その後、元就は出雲国尼子と合戦をし、この折大内殿より度々合力があった。
しかし義隆生害により毛利は強く不安を覚え、また大内重臣の内藤氏が元就の子息の縁者で
あったため、陶と対立する大内家老衆と毛利は一味し、諸境に出城を取り、陶晴賢勢と
戦争状態に入った。

陶の運が尽きたのは、彼が芸州宮島に攻め来たのを、弘治元年十二月朔日の夜に入って、
毛利は風雨、夜に紛れ襲来したため、陶晴賢勢は大混乱に陥り忽ち敗軍し、陶晴賢、同長房は
討ち死にし、陶の家老である三浦越中守は突撃して防戦を行ったものの、小早川隆景勢が
すぐに馳せ寄り、越中守を討ち取った。

こうして陶勢は尽く討ち取られ、さらに毛利勢は周防長門へ侵攻し勢いを振るい、
大内義長も長門国府の長福寺にて自害し、内藤下野守は同国勝山にて自害、陶五郎は
周防の富田若山にて自害、江良弾正、伊香賀左衛門は須々麿にて自害した。

毛利元就は、このように忽ちのうちに大内義隆の恨みを晴らし、周防長門の主となった。

(足利季世記)

色々史実とは異なるものの、畿内から見た毛利元就の勃興についての記事


大内家滅亡

2018年04月05日 17:54

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/04(水) 20:58:14.12 ID:Y93a5UA7
天文二十年七月、細川右京太夫晴元の軍勢が近江坂本より打ち立て京の相国寺に陣を取った。
しかしこれに敵対する三好筑前守長慶は、七月十四日、相国寺へ押し寄せ火をかけ攻め込むと、
晴元勢は一戦にも及べず散々に落ちていった。(相国寺の戦い)

この時、京はこのように乱れきっているが、西国は猶静謐であるため、公方足利義輝、および
細川晴元は、猶も三好が京に迫ることあらば、慧林院殿(足利義稙)の時のように、中国の
大内の元へ御動座あるべき由、内々に評定がなされた。

ところが、その年の天文二十年九月二日、大内義隆の家老である陶晴賢が謀反を起こし、
大内殿を攻めたところ、不慮の一戦叶わずして、義隆は長門国に落ちていった。

その頃、京都の大乱の故に、公家衆も多く大内殿を頼んで周防へ下向され、
禁裏様(天皇)をも山口に行幸されるようにと、大内は多年に渡り支度をしていた。

しかしこのような災い起こり、前関白二条尹房、持明院中納言元規、前左大臣三条公頼といった
人々がここにて自害した。
大内殿は長門国深川にて自害。御年四十五歳であったという。藤三位親世、藤中将良豊も
自害された。

この人々は都の乱を避けてこの国に下られ、このように亡んだこと。一業所感(人はいずれも、
同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ)とも言うべきであろう。

陶晴賢は主を亡ぼし、豊後の大友義鎮(宗麟)を頼み、次弟を申し受けて大内八郎義長と号し、
山口の館に移しこれを主とし、自分は執事となり、心のまま振る舞った。
そして子息の阿波守(長房)に家督を譲り、入道して法名全羨と号した。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元の周防亡命の計画が有ったとか、大内は山口に天皇まで迎え入れようとしていた
らしいとか、大内が亡びなかったら戦国史はどうなっていたんでしょうかね。



陶興房、我が子を殺害すること

2017年12月10日 17:56

陶興房   
401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 10:58:48.78 ID:OPxf38VL
陶興房、我が子を殺害すること

大内義興・義隆の家老を務め軍事政治に活躍した陶興房には1人の麒麟児とも言うべき嫡男が居た。
名を次郎興昌。彼は器量骨柄に優れ、父興房をして
「次郎は武も文も全備し、そのほかの芸能の道から弓馬は達者だし乱舞にも堪能、詩歌・管弦に至るまで、
人間がたしなむべき道では何一つとして劣ったものが無い。今の乱世において希有な存在である」

と評されるほどであった。しかし次郎は常日頃から何れ自らの主人となる筈の義隆を見掛けると、
「隋の煬帝の詩に出そうな大将だ。坊主くずれか流浪の公家みたいな事ばかりして、こんな人を武士が主君と仰ぐものではない」

と影で馬鹿にしており父の興房も次郎のその様な言動を知ると、一抹の不安を覚えた。
ある日越前より幸若太夫が下向して来た折、義隆は太夫に烏帽子折を所望した。その舞を見た者は貴賎問わず感動し、涙に袖を濡らさぬ者は居ないほどであった。
興房が宿に戻り次郎を呼ぶと
「お前は何時も好んで舞を踊っているが、幸若の音曲も習ってみるか?」
と言うと次郎は
「私が幸若を真似るのは実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、父の命であれば、似せて舞ってみましょう」
と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、先に見た幸若の舞よりもさらに趣深いものだった。
興房は我が子の才能に驚くと共に、これでは次郎は才を鼻にかけて益々主人の義隆様を侮る様になるのではないかと不安を高めていった。

またある日、大明国から義隆に書簡が送られた際のこと。義隆は香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、興房は自宅へ帰ると、次郎を呼び寄せ
「お前は今日の書簡の内容を覚えているか?」
と問うと、次郎は
「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。しかし推量で内容を当ててみましょう」
と言うと硯に墨をすり、聞いた内容を書き記して読み上げた所、その内容は一字一句違わぬ上に読み上げる口上も非常に立派なものであった。
その後も興房は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、また主人義隆を軽んじるような考え方もやめなかった。
父の興房は、
「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、大内家の頭痛の種になるかもしれない。主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」
と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
次郎は十五歳(墓の説明には二十五歳)になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶興房は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせ跡を継がせた。
(陰徳記)

陶五郎隆房、後の陶晴賢である。



402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/10(日) 13:59:52.11 ID:TC+Z/ZXd
>>401
なんという皮肉w

403 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 14:37:48.38 ID:AbautfzL
陶さん家は興房の長兄である武護が在京中にいきなり摂津へ出奔して坊さんになって3年後に帰って来たかと思ったら次兄の興明を殺して家督を奪い、
当時筆頭家老の内藤弘矩を讒言で死に追いやった後讒訴がバレて義興から死を賜った末に興房が家督を継ぐと言う何か最近似た様なアレな事件が起きてたり何かもうアレよね…
義興義隆時代にまともに大内家に忠を尽くしたのが興房だけなんじゃねーか?って言う…

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 15:03:34.26 ID:AbautfzL
て言うか、調べたら父親の陶弘護暗殺事件も色々闇が深そうだなぁ… 大内家の内情ェ…

三十人の墓

2017年11月04日 13:38

232 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 22:49:27.68 ID:lfiJSEc0
三十人の墓

広島市佐伯区の町中にある標高53mの海老山公園。
中世期には近隣の五日市城を居城とした宍戸備前守弥七郎元続(広島県北の宍戸氏でなく、厳島神主家の家臣である神領衆宍戸氏)
の支城があり、
当時は海に出た島城だった(現在近隣は埋め立て地となり住宅街の真っただ中)とも伝わる。
毛利元就と陶晴賢の合戦時、厳島に攻め込む直前の陶軍3万に攻め込まれた海老山城は
城主宍戸孫六以下30人の兵が討ち死に。死んだ30人の兵の亡骸は近隣住民により海老山に葬られ、墓石が作られたと伝わる。
https://i.imgur.com/FhteTPN.jpg
https://i.imgur.com/oCW5fJv.jpg
https://i.imgur.com/rhvuwgo.jpg
https://i.imgur.com/vGndI6B.jpg

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/04(土) 07:49:48.97 ID:gZX9IM+r
追記

神領衆宍戸氏とこの海老山城の落城について調べてみたけど、
広島県史の記載によると厳島神主家の配下である神領衆は毛利方と陶方に分かれ、
宍戸・野坂・栗栖・大野といった陶方についた神領衆は滅亡したという記述が有るようだったり、
厳島合戦の時、陶軍は山口の玖珂郡(現山口県岩国市)今津・室木の浜から500艘の船で厳島へ向かったとされているので、厳島合戦前に厳島から東北に10km位先にある海老山城を攻めるってのはちょっと疑問に思うんだけど、
実際のところはどうだったんだろうか?
https://i.imgur.com/XXEVtBR.png



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 08:32:36.87 ID:2m9NcCoW
海老山の宍戸も他の宍戸のうにじつは大内方についいてて毛利に攻め滅ぼされたとか

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/04(土) 08:51:44.61 ID:gZX9IM+r
>>236
https://i.imgur.com/emjyjgZ.jpg
もしかして:実は毛利がやった?

と、自分も思ったけど
Wikipediaの防芸引分や折敷畑の戦いの項を参照すると、吉川元春と熊谷信直の事前の調略や交渉が上手く進んで1日で佐東銀山城・己斐城・草津城・桜尾城の4城、厳島を押さえた。
と有るので、翌年まだ反毛利側の白井氏や離反した野間氏と陶水軍が東の仁保城奪回に何度か攻め込んだりしてるから、その折に海老山城でも戦が有ったのかもしれないですね

山口きらめーる255号より

2017年11月03日 20:59

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/03(金) 05:23:44.99 ID:Do5pozMZ
途中送信しちまったい

http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol255/web/omoyama.php

山口きらめーる255号より

毛利元就と陶晴賢の決戦が行われた厳島の合戦。主に毛利方で後世に書かれた軍記物では陶軍2~3万対毛利軍4~5千と語られるこの戦、
山口県史等に研究記載された話としては、戦死者は主に陶氏の家臣や山口県東部の周防国側の大内氏家臣、厳島神主家の家臣である神領衆の一部で
山口県西部に居た大内氏有力家臣の内藤氏や杉氏の参戦は無く実際の陶軍は1万居るか居ないかの戦力であったのでは無いかと言われている。
実際は軍記物で語られる様な兵数差が4倍を超える程の差は無く、毛利元就の軍が寡兵を持って自軍の数倍に値する陶軍を破ったと言うのは毛利側(で軍記物を書いたK川さんの)の誇張では無いか?
と言う悪い話



大内勢、味方を討って手柄を得る

2016年10月22日 17:14

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)



238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)

元就、軍議の席次を巡って争う

2016年10月16日 15:38

216 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 08:19:22.67 ID:IWC7trJD
元就、軍議の席次を巡って争う

天文22年(1553年)、先年の陶隆房謀反の後、大内家の当主が義隆から義長へと代わると、備後国で元々大内方だった旗返城の江田隆連が離反し、尼子方へ鞍替え。尼子晴久は数万の兵を備後に向けて発する。
これを討つため毛利元就をはじめとする安芸の国人衆の軍は旗返表へ集結。次いで大内義長の命を受けた陶尾張守入道全薑(陶隆房改め晴賢)が同年6月10日に1万の兵を率いて旗返に到着すると、大内方の諸将は旗返攻略の軍議を開くため陶の陣に集った。

いざ軍議を開こうという段になって席次を巡り争う者があった。毛利元就と平賀太郎左衛門隆宗である。

元就は、「合戦評定のときに、陶の入道の左の席は元就でなければならん。何故なら
すでに備芸の半分以上を幕下に収め、そのうえ一昨年の上洛の際には、
万松院義晴公のご推挙をもって従四位に叙せられたうえに義晴公にご相伴まで許されているのだ。
だから、安芸や備後国の中には自分に肩を並べる弓取りはいない。
誰が自分より上座に座ることができるというのか」と主張し、対して平賀太郎左衛門は

「元就の武威がどんなに盛んで、
当国の半ば過ぎを手中にしているといっても、
昔から宍戸・平賀・毛利といい続けてきたものだ。
昔から決まっている座配なのだから、正四位であろうと従四位であろうと関係ない。
陶入道の左の席には、しきたり通りこの隆宗こそが着くべきだ」と言い返した。

どちらも主張を譲らず平行線となり、陶もその様子にこのままでは敵と戦う前から味方が割れてしまうのではないかと内心ハラハラしながら見ていたものの結論は出ず、陶入道は
「私の判断ではどうにもならない。ならば神前にて決めよう」と提案すると、元就と隆宗もこれ以上話しても仕方なしと判断し、近くの八幡の神前にて占いを受けたところ
「左の座は元就」
と神託が下った。しかしそれでも一同は納得せず、15日は元就、16日は平賀と順番に左座に着席して会議を行った。

(陰徳記)

元就にしては大人気ない珍しいエピソードの様な気がする。後、平賀隆宗はこの4年くらい前に死んでるはずなんだけど陰徳記だからまぁ良いか…

217 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/16(日) 10:34:24.81 ID:IWC7trJD
>>216の事について改めて調べて見たけど従四位の叙任や相伴衆になった年もこの話より未来の出来事だな… どんだけ適当なんだよ香川さん…

続き
大内勢、味方を討って手柄を得る


雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

2016年10月09日 12:33

188 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 01:11:35.87 ID:IrCiT5D0
雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

1541年正月14日、前年より吉田郡山城を攻めていた尼子晴久の率いる三万の雲州勢は長き攻防の末、毛利元就と陶隆房率いる大内方の援軍の前に撤退を余儀なくされる。
余勢を駆った毛利元就と陶隆房はそれぞれ芸州の反大内勢力である、佐東銀山城の安芸武田氏と、桜尾城の友田氏を滅ぼし芸州の勢力はほぼ大内方へ靡く事となった。
また、先の吉田郡山城合戦まで尼子方だった芸備雲石の国人13名(三吉広隆、福屋隆兼、高野山久意、三沢為清、三刀屋久祐、本庄常光、
宍道正隆、河津久家、吉川興経、山内隆通、宮若狭守、古志吉信、出羽助森)が陶隆房に
「義隆卿が自ら雲州を攻められるならば、我ら13名は味方し先陣いたします。尼子を退治した暁には備雲石の三国から身分の大小に関わらず今の所領と同じだけの所領を御加増下さい」
と内応を申し出た。
是を受け陶隆房は直ちに主君義隆にこの事を申し上げ、雲州攻めを上申。義隆は叔父の大内高広、杉、内藤、青景以下の家臣や子らを集め相談した。
隆房は他の意見を聞こうともせず、尼子攻めを主張。その主張はこの機を逃しては先の13名の国人どもに義隆様は父君義興公に智勇劣ると侮られ、再び尼子へ掌返され今後当家に味方する者は無くなるでしょう。
1日も早く雲州を攻める決を下されます様にと、大変強い物であった。
誰もが押し黙る中、相良武任が進み出て、
隆房殿の仰る事はもっともながら、幾ら13名の国人が味方しようと今我らが雲州を攻めれば先の尼子晴久が毛利の吉田郡山を攻めた二の舞となるでしょう。
先代義興公も雲州攻めを画策したものの九州の敵が筑、豊を攻めた事に妨げられ、事を為し得ませんでした。また今の尼子方の郎党には英雄豪傑数多く、軍勢も当家が殊更多い訳ではありません。
ここは石州から陥れ、一城ずつ落として兵を堅め徐々に雲州を攻略してはどうだろうか?
隆房殿が戦いを急がれ敵をたちどころに打ち破ろうとするのは戦法として危うい。
先ずこちらが負けぬ工夫をし、戦わずして勝つと常々おっしゃっておられる事こそ、隆房殿の御父興房殿もご存知のところです。
今義隆公のご智勇、先代義興公に劣っておられる筈はありませんが、老功の将と若年の将とでは、世間の対応からして全く違います。
若き義隆公のご武勇のみを頼りに、敵を打ち破る事容易く思い数カ所の敵城を越え月山富田城まで進攻の作戦を立ててもご勝利かどうか甚だ確かではありません。
それにしても隆房殿が武勇を誇り敵を侮られるのは頷けない事です。
今少し他の国人の意見も聞くべきです。
と意見を述べた。次に冷泉隆豊
隆房殿、武任殿お二人の言い分どちらも理にかなっています。隆房殿が言われる通り敵の国人数名が同心して味方に加わりその上敵軍が吉田表で敗軍した折ですから、この破竹の勢いに乗り敵国を攻めるは道理にかなっています。
また武任殿が義興公の遠路ご進行の経験を例に出されたのもごもっともです。私からご両人の議を相兼ている謀りごとを申し上げましょう。

まず芸州へ進攻し、味方に与する国人たち、同じく備後の侍達から人質を取り堅められ、次に石州に暫く在陣して本庄、小笠原、更に雲州の三沢、三刀屋、河津などの人質も取り、
赤穴の城を攻め落として軍士を入れ、その後出雲に攻め入り降る者から人質を取り、敵するものは城を攻め、尼子の本拠を攻め急ぎする事なく、国中の城々を味方で守り堅め、謀りごとを先にして戦いを後にすれば敵は士気衰え、やがて降旗を立てるでしょう
と述べた。満座の者はこの意見に賛同し、その日の評定はこれで決着がついた。
しかしながら、隆房と武任とはこの時の議論に互いに含むところがあり、泥中に荊あるがごとく、たちまち不和となって、これがついには大内家滅亡のもととなったという事である。



189 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 08:24:07.32 ID:Xify1bNh
相良のが陶よりまともな事言ってる気がする

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 08:39:49.17 ID:t9v3aFpB
冷泉発言は後年元就が行った尼子十旗&月山富田城攻略戦そのものだったりする
でも陶の性格からして相良や冷泉のような戦略を取るのは無理だろうな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 11:40:43.39 ID:Oau9qfpR
>>189
ただの慎重論、臆病者あるあるです

192 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 11:49:45.17 ID:YB5Da6Hm
>>191
お晴カス

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 14:26:28.85 ID:Oau9qfpR
>>192
臆病者久幸おつ

197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 15:07:23.02 ID:YB5Da6Hm
>>196
(晴賢の晴だったんだけどなぁ…まいっか)
その臆病尼子比丘尼に救われたのは誰でしたかのう?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:57:38.33 ID:Oau9qfpR
臆病者あるあるですね

199 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/10(月) 07:43:12.23 ID:dtnoel3P
経久「晴久君、ちょっと話があるから雪隠裏行こうか」

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 11:04:09.18 ID:M8uKGH4G
老害おつ

鷹羽の心根

2016年03月08日 13:11

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:17:29.27 ID:iMfW4Wz6
(大内)義隆公は、ことのほか芸能や美しいものを愛し、講西寺に立ち寄った際に
その境内で演奏をしていた流浪の芸人の笛吹きを召し抱え、さらにはその者の子供が
美童であり鼓に秀でていたため小姓として、鷹羽と名乗らせた。
陶(隆房)殿が兵を挙げると、義隆公は吉見(正頼)殿を頼って長門の大寧寺まで
落ち延びたが、そこで塀に囲まれ自害することとなった。
鷹羽も義隆公に従っていたので同地で殉死するか戦って死んだと思われたが、ある日、
山口の地でこれを見かけた者があった。
「義隆公のお伴をしたのではなかったのか」と問うと、「我が死んだごときではご主君への
恩は返せぬ。かと言って戦う力もないので、私のような者でもご主君の敵を討つことができる
機会を探しているのです」と語った。
それを聞いた相手は、他の者に「命を惜しんであのような嘘をつくとは、生まれが賤しい者は
心情も賤しい」と語り、それを聞いた者たちも鷹羽を臆病者・恩知らずと罵り嘲った。
半年後、陶殿を毒殺せんという企みが発覚し、その下手人として台所に紛れ込んでいた
鷹羽が捕えられた。
陶殿は豪気なおかただったので、主君のために尽くそうとした鷹羽に感心し、右腕の肘から
先を切り落とすだけで、鷹羽の命を許した。
鷹羽が臆病者であるという悪評はおさまったが、片腕となった鷹羽は得意の鼓で稼ぐことも
できず、乞食などして糊口を凌いでいたので、口が悪い人は「身の程知らずのことを企んだ
罰である。元の身分に戻っただけのことよ」と笑いあった。
そうこうするうちに、鷹羽の姿は山口から消え、誰もそのことを忘れてしまった。
弘治元年、陶殿は大軍を率いて安芸厳島に上陸したが、そこで毛利軍に敗れ自害なされた。
厳島から引き揚げの際、毛利軍は自軍の中に見慣れぬ怪しげ者が紛れ込んでいるのを見つけ、
大内方の兵が毛利軍の振りをして逃げ延びようとしているのだと思い、これを殺した。
殺された者は右腕が無く、素性を問われて「義隆公の恩に預かった鷹羽という者である」
とだけ名乗り、後は経文を唱えるだけで何も語らなかったという。
これを伝え聞いた(鷹羽親子が召し抱えられた場となった)講西寺の和尚は、鷹羽の心根を
哀れに思い、小さな墓を建て祭ったということである。
(防長古老説話集)

非力な美少年が、何としてもご主人様の仇を獲ろうとして果たせなかった(あるいは
果たせた?)哀しくも美しい話



439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:49:39.00 ID:ZeNQm+KB
史記の刺客列伝か侠客列伝に出てくるような剛の者だな。
結果、名が高く残ったいい話だと受けとりたい

小早川隆景、城に入る

2015年04月09日 18:36

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/08(水) 21:45:32.14 ID:dF0Y/VTy
天文24年(1555)の厳島合戦。陶晴賢の本拠である岩国に集結した防長豊築四ヶ国の軍勢は、船数500艘にて
宇賀島を先手として厳島に押し渡った。

岩国勢は次第次第に渡海し、陶入道も塔ノ岡と云うところに陣取り、もしかすれば毛利勢の後ろ巻きも
あるだろうと、毛利方の籠もる宮尾城を昼夜の区別なく軍勢を立ち代わり立ち代わり攻め立てたため、
城中は水の手を掘り切られ難渋し、櫓の下にまで金掘を入れられ、もはや落城と思うこと度々であった。

この事が城中より毛利元就に注進されると、元就は廿日市という所に陣取っていたが、そこから
厳島の向かいである火立岩まで打ち出て、そこで様々に評定を行った。

この時、元就はその三男である小早川隆景を呼び出して命じた
「その方、どうにか謀って厳島の城に籠もり、城中の兵に、あと3日落城しないように
固く防ぐよう伝えるのだ。その3日のうちに、必ず後ろ巻をする。」

隆景はこれを聞くと、一言の異論もなく陣所に帰り、漁舟を準備させ、船に心得のある侍二人を
漁師、釣り人に変装させ、自分は船底に隠れ、数百艘の周防兵の船の間を、ゆるゆると魚を売りながら
通り過ぎ、磯近くになると、隆景も櫓を押して船を城の岸際に付けると、城内に駆け入った。

城内はこれに力を得て、喜ぶこと限りなかった。

(中国治乱記)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 04:43:07.38 ID:LrHymSvD
>>812
魚売りに来るとかよくある風景だったのかな

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 08:55:22.80 ID:1FdY/eOk
買う方は戦場に銭もってきてんのかなあ
死んだら全部とられるのによく分からん

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 09:28:18.74 ID:6urWHmJB
死に物狂いで戦って生き残ろう、あわよくば手柄も立てよう
その為にもまず旨いもん食って気合入れようって奴もいたんじゃね

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:23:33.66 ID:E2+xEx5L
陣借りつってな牢人が現地募集してるところに集まって銭と米を貰って参戦するんだわ
持ってないほうがおかしいぜ

あと銭米だけもらってトンズラしようとか馬鹿なことは考えるなよ
周りは人殺し連中だから卑怯者を殺すのに躊躇いはない

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 10:30:41.49 ID:E2+xEx5L
だいたい金庫なんてもんはねえんだ
留守中に誰が守ってくれるんよ
持っていくのが普通っしょ
女房ひとりなら強盗強姦されちゃって子が産れるってもんよ
だから秀吉に弟妹がいたってのはあり得る話

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 11:02:41.93 ID:XGMpCMnt
現代語訳雑兵物語みたいな

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 13:26:36.08 ID:98gd9DXO
この時代の商人は金儲けに命懸けてたって言うしな

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 19:46:09.00 ID:m2yjwN5M
人が集まれば商売ができるからな。
長陣の最中にはいろんな商人が出入りしてたみたいだし。
陣中で兵糧の代わりに銭を支給することもあったとか。

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/09(木) 22:06:46.89 ID:xmXMS0v0
そういえば、小田原陣では私娼もだいぶ集まったらしいね

陶との決別

2014年10月27日 18:44

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 00:11:17.39 ID:+GEva5ce
備後国荏田、旗返城の城主・江田入道(隆連)はもともと大内氏に従っていたが、
大寧寺の変で大内義隆が滅びると、天文22年(1553)、尼子方に鞍替えをした。

これにより、大内義長の命と称して陶晴賢は遣いを以って、毛利元就に江田を退治するよう伝えた。
元就は四千騎を率いて備後へと出陣、これを知った江田隆連は出雲へ注進し、尼子晴久は
「元就が小勢にて他国へ出たのは願う所である。急ぎ江田の後詰して元就を討ち滅ぼし、芸州を
切り従えてその後防州へと討ち入るべし!」と、出雲・伯耆・美作の軍兵二万騎を発した。
ここに備後泉合戦と呼ばれる大規模な戦闘が起こり、毛利元就は苦戦を強いられながら、
陶晴賢よりの援軍もあり、11月13日、ついに旗返城を開城させた。

さて、問題はその後に起こった

毛利元就は児玉若狭守、国司雅楽充両人を使いとして、大内義長ならびに陶入道(晴賢)に申し入れをした
『江田の旗返城は毛利家一分の手立てを以って切り取り、また尼子との国境であり、雲州へ出兵する折の
筋道ですから、かの城は我々に預けていただきたい。』

しかしこれを聞いた陶晴賢は許容せず、かねてから旗返城には江良丹後守を入れていたのだが、
元就も彼の下知に従わせようとした。

これに怒った元就は、それまで従っていた陶と決別することを決意し、その頃、かねてから内通していた
吉見大蔵大輔正頼が、居城である石見国津和野で陶に背くと決心したことに、二宮隠岐守、伊藤三郎左衛門を
加勢として、兵600とともに津和野城に派遣した。

吉見正頼が大内家に背いたことに対し、陶晴賢は吉見退治のため天文23年3月、大軍を以って津和野の城を
取り囲んだ。これによって元就にも遣いによって、出陣有るべき旨が伝えられた。
しかし元就はこれに返答せず、その遣いを追い返した。

(芸侯三家誌)


大寧寺の変の後、当初陶晴賢に従っていた毛利元就が、敵対することを決断した経緯である。




640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/27(月) 15:34:44.20 ID:9bjUCH30
天下統一では江田豊前守とされた人ですな。
実際は豊前守ではない。

大内義隆の娘・珠光

2014年09月14日 18:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:08:41.55 ID:8tyGaRkz
大内義隆の娘・珠光


大内義隆のいえば、陶晴賢の下克上を受けた人、陶晴賢とアッー!した人として有名である。
彼は衆道も好きだが女道も好む両刀使いであった。
そんな彼にも子供はいた。

長男・義尊、次男・義教(問田亀鶴丸)、そして長女・珠光である。

珠光の母は不明であるが、珠光は成長すると、家中でも美貌がとても評判の娘になった。

時は1550年、大内家中が不穏な空気に包まれていた中、相良武任はこちらも美貌で
評判になっている娘を陶隆房の子・長房に嫁がせようと画策した。
しかし、隆房は格の違いを理由に拒否。
更に大内家中は混沌とした空気となってしまった。

年は明け、1551年になると義隆は決断する。
自分の娘を隆房に嫁がせてやろう、と。
しかし、隆房は適当な理由をつけてこれを辞退してしまう。

そこから先は義隆はほとんど対策もとらないまま運命の8月を迎えてしまった。

20日に隆房挙兵、29日に山口を放棄。珠光は父に従い大寧寺に入った。

9月1日、大寧寺も落ち、義隆は子供たちに落ち延びるよう促す。
嫡男・義尊は若年の武将・小幡義実に託した。
次男・亀鶴丸も他の武将に託し、長女・珠光にも落ち延びるよう促した。
しかし、珠光はこれを拒否して父らと運命を共にする決断をする。

かくして大内義隆・珠光父娘らは自害して果てた。
珠光は享年わずか15歳の若さだったという。



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:25:51.01 ID:cbRYxJFg
あーあ田亀丸かわいそう

大内滅亡のこと

2013年04月07日 19:02

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:46:13.00 ID:PtH2bR3D
中国の大内殿は、阿波の徳雲院(細川持隆)殿の舅の御家であったが、この御家が滅んだ様には、
こんな事が有った。それは天文20年(1551)の事である。

大内(義隆)殿が御茶数寄をなさろうと、堺の町のせうおう(武野紹鴎か)と申す侘び数寄の者を呼び下し、
四畳半の数寄屋を建てて、茶の湯を行った所、御内の家老に須江(陶隆房)殿と申す人があり、この人が

「大内家は16ヶ国の守護であるのに、四畳半ばかりの場所で茶の湯をするなど、沙汰の限りである!」

そう申して、陶殿は自分の茶の湯のやり方を紹鴎に見せた。
彼は大きな広間にかんす(茶釜)を数多据え、茶臼を数多取り並べ、大勢の小姓に茶を轢かせて
点てさせ、運ばせて紹鴎に飲ませ、

「陶が数寄はこの如くである!」

と言い放った。これに紹鴎は面目を失い、大内殿に暇乞いすらせず堺へと帰った。
このことは大きな遺恨と成り、大内殿は陶に対して悪心を起こし、また陶の方もそれを感じて、大内殿に対して悪心を持った。
そして両者の悪心は重なっていき、終に陶は大内殿を切腹させ、16ヶ国を陶が進退したのである。

ところが森(毛利)殿は陶に従わず、このため陶が毛利殿の城を取り囲んだ所、伊予の野島、来島といった者達が
毛利殿の味方をし陶殿の兵糧船を遮断したため、兵糧が欠乏し、陶軍が撤退を始めた所を毛利は討って出て
陶殿を討ち果たした。

これ以後毛利殿が中国西国13ヶ国を、太閤様の御代頃まで持ち伝えられた。
(三好記)

三好記より、大内義隆の滅亡についての逸話である




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 16:55:51.90 ID:lWQzATh/
毛利が13ヶ国・・・だと

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 17:25:42.09 ID:QgSSx+3i
大内16ヶ国って確実に大友と尼子の領地も入れてるだろ

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 18:28:00.18 ID:WEgCBbGA
陶が居なきゃ、元々大内は持たなかったんじゃないの

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 19:01:24.04 ID:6e0cDLXg
最後の当主<筒だっけ

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 21:37:29.78 ID:CrUnkdXS
>>196
んなこともねえだよ。内藤とか実績のある重臣は他にもいる。
毛利は陶とやる時にそいつらを切り崩すのに全力を突っ込んでる。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 23:13:19.35 ID:jTQp3WsN
てか、元就は隆房につく気満々じゃなかったっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 00:24:39.86 ID:mnZw7MK7
毛利側資料によれば、陶から義隆を諌めるために隠居させ、嫡子に跡を継がせるから協力して欲しい、という要請があって応じたけど、蓋を開けてみたら主殺しだったので引いた、ってことになってる。
かけらも信憑性無いけどな

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 07:21:10.48 ID:LZJGEpGb
>>199
元就は陶につくと見せかけて他の国人調略のために時間稼ぎしてた
反旗翻してからの行動が非常に鮮やか