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大内か、陶か、

2014年08月18日 18:51

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 13:46:30.58 ID:040eP83M
天文20年(1551)、陶隆房が主君・大内義隆への反抗を強め、大内家が大寧寺の変に向けて
緊迫の度が増す中、大内配下の有力国人である毛利元就のもとには、大内義隆方、陶隆房方双方より
加勢の申し出が来た。

このような中、元就の前に児玉三郎右衛門(就忠)が座していたが、元就は児玉に
「どちらに与するべきだろうか?」
と尋ねた。児玉は少しも思案する様子もなく、即座に
「陶に一味然るべきです。」
と答えた。これに元就は笑い出し
「当家興亡の大事は今この時だというのに、いささかの思慮にも及ばないとは、
いい加減な意見なのだろう?」

「とんでもありません。この考えは兼ねてから我が心で量見していた物なのです。」

その後、元就は子の隆元、元春、隆景、その他の重臣たちを集め、このことを評議した。
ここで熊谷伊豆(信直)が発言した

大内義隆は、近年武業を取り失い、遊楽に浸っており、その家人は多くそれを疎み、
大内家内の権勢は、却って陶に及びません。大内義隆が勝利することはないでしょう。

尤も、主従が争う時、主を助ける事は義に当たります。ですが滅びようとするものに対し、
そちらに与して共に滅んでは益がありません。

そもそも毛利家は大内家に対し、重恩の家というわけではありません。時の権威に従って、
一旦麾下に属したにすぎないのです。ですから、ひとまず陶に一味して、重ねて
大内義隆の敗北後、その泉下の恨みを散ぜられる謀を行えば、当家はいよいよ興隆するでしょう。」

この言葉に元就は
「先に児玉が申したことも、今の熊谷の言葉と符合している。そして私が心に考えていることも、
その通りである、」

こうして一座の衆議はこれに決し、陶隆房に対し一味する返答を行った。

(芸侯三家誌)

毛利元就が陶に与することを決めた協議についてのお話。




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 15:26:10.22 ID:9GbdPUW0
書状で言ってることのかけらもないのがな

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:09:54.29 ID:/Bls1iEJ
隆元がもどっててよかったな。

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:20:32.05 ID:wRMqwQur
こんな状態でよく何年も持ったな

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 16:21:55.31 ID:1+7elZ3Y
うーんこの元就クオリティ

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毛利元就と琵琶法師3 あれ、良い話・・・・?

2014年04月20日 18:47

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 11:01:35.31 ID:VScin6KQ

毛利元就と琵琶法師3

元就が座頭衆と言う琵琶法師の間諜集団を組織していたのは先に上げたとおりだが、後年
陶晴賢が主君・大内義隆に謀反、殺害した後に毛利家と争うようになった頃、陶晴賢も一人の
琵琶法師を間諜として元就の元に送り込む。この琵琶法師は元就に気に入られ、様々な情報を
陶側に流したため、元就側の情報は陶に筒抜けとなってしまった。

しかし、周辺に間諜が入り込んだことに気づいた元就は先ごろ迎えたその琵琶法師が怪しいと気づき、
逆にその法師を利用して偽の情報を敵側に流すことにした。
先ず陶配下で堅城、岩国城城主の永来丹後守がこちらに内通した。
と、偽の情報をかの法師から陶晴賢に流したうえ、更に岩国へその物証となる偽の書状を送り、
それをあえて陶側に奪われるよう手配した。自らの間諜からの情報と元就の偽手紙に引っかかった
陶晴賢は激怒して名将としても知られる永来丹後守を殺害してしまった。

計画が成功した元就は更にその法師を自分の側近として、厳島合戦直前の軍議にも参加させた。
そこで元就は
(●▲●)「陶軍に厳島に渡られると困るわー、厳島に作った城はがいにこまい(大変小さい)し、制海権取られて海から攻撃されるし困るわー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(ほうほう、これは良い情報なんだ!)
(●▲●)「陸路で草津・廿日市に攻めてくるなら岩国の弘中隆包がうちに寝返るけん、助かるんじゃがのー(チラッチラッ)」
(*^◯^*)(!これは一大事なんだ、殿にお知らせせねば!)

全部嘘である。
(つづく)

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 11:29:22.72 ID:VScin6KQ
(つづき)
数に劣る元就は、険しい山で形成された厳島に陶軍を誘い込み、数の優劣を無くした上で
敵の船を焼き、退路を断って決戦することを狙ったのであった。

法師(*^◯^*)からの情報を受け取った陶晴賢は直前にも、毛利家老・桂元澄から内応の手紙(これも嘘)を受け取っており、
厳島に渡ることを決め、弘治元年(1555年)10月2-3万の大軍で厳島へ渡海。なお、この時弘中隆包が厳島への渡海を反対したが、
法師(*^◯^*)からの偽情報の為、却下されたと言う。

戦の経緯は省くが結果はご存知のとおり陶軍総大将・陶晴賢討ち死に、弘中隆包親子も討ち死に、陶軍は約5000人の使者を出し、
毛利側大勝利に終わった。
さて、例の法師(*^◯^*)の顛末であるが・・・

(○▽○)「おどれのおかげでわしゃあ、長年の思いを遂げることが出来たわい。褒美に塩(死を)くれちゃるわ、ありがたく飲めや」
(*^◯^*)「えっ?ぇっ?」(ざばーん)
(*^◯^*)「くぁwせdrftgyべいすたんlp;」

開戦直前に元就に海に沈められたそうである。めでたしめでたし。
あれ、良い話・・・・?




833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/20(日) 22:22:10.28 ID:Isu6luxe
おぼれる者は久しからず、晴(賢)の世も夢の如し
といったところだろうか…( ;∀;)イイハナシダナー

834 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/20(日) 22:49:58.73 ID:VScin6KQ
某完璧超人以前に西国無双と呼ばれた人だけど、ちょっと騙され過ぎじゃないですかねぇ、晴賢さん

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 00:01:21.95 ID:urSpSXSo
純粋な武辺者なんでしょ

大内義隆公の山口退去

2013年01月17日 19:51

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 01:57:41.77 ID:Qg3I4pHf
最近ものの本を手に入れたので、陶隆房の謀反から変な意味で有名になってしまった
大内義隆公の山口退去までを。

天文二十年八月二十八日、陶隆房は遂に謀反の軍を挙げ、それぞれ山口の西と南西より兵を進発させた。
山口の大内氏館に集った義隆方の緒将はここで一戦し館を枕に自刃することを主張たが、館は
防ぐに向いていないため法泉寺に拠を移すことを薦める者も居た。
また寵臣ら(纏めにあるアイツとか)がそれを推したため、義隆は館を捨て、大内氏館の北、山間の
法泉寺に入ることを決した。
それに従った兵三千余。本営を法泉寺に定め、迎撃のため冷泉隆豊らの緒将を近隣に配した。
ところがその夜、大内氏館退去を聞いた内藤興盛は叛旗を翻して陶方に参陣し、また
法泉寺にあった義隆方の兵はその多くが逃散してしまった。

明けて二十九日、本営の守りを補強するため隆豊ら緒将を本営に呼び戻すことになったのだが、
その使者に立ったのが阿川隆康
義隆の侍大将・先手衆であり、平素より自ら十人力を誇っていた人物である。
皆その最期の戦闘はどれほどのものになるかと期待していたのだが、彼は本営召還の命を隆豊らに伝えた後、
鎧兜を脱ぎ捨てて逃亡してしまった。
衆これを見て更に意気消沈したという。
昼頃になり、山口へ陶方の兵が押し出してきた。その数五千余。
それを迎えた隆豊らの緒将がいざ最期の戦と出戦しようとしたその時、ついと一人の兵士が進み出で、
陶方の不忠を罵り責めた。
陶方の兵はこれに恥じ入って進まず、また義隆方も敢えて出戦せず、矢戦のみ行ったあと
互いに退いたという。
その日、義隆は捲土重来を期して長門に逃れることとなる。
法泉寺に残った陶隆康(隆房の伯従父)は義隆の名を騙って陶方を引き付け、
その嫡子隆弘や貫隆仲と共に戦死した。

名があろうとあるまいと、その人の生き様は土壇場に現れるのだなぁと思った次第。




小早川隆景の予言による最初の犠牲者

2012年06月29日 21:01

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 22:16:18.78 ID:DdCRKXiK
 小早川隆景は幼名を徳寿丸といい、幼くして聡明さは他を絶していた。
13歳で人質として大内氏に行き三年を過ごして帰ってきたが、その際に父の毛利元就にこのように報告した。

「大内氏は必ず滅亡するに違いありません。
なぜならば、大内義隆の贅沢は度を外れていて、政治も自ら行わず家臣の陶隆房は諌言を尽くして、ついには
義隆の意に反するようになりました。
そこへ相良武任という者が義隆に阿諛追従して、隆房を讒言しました。
なので群臣は皆義隆を嫌い、武任を憎み、隆房に心を寄せる者が多くなっています。
主君が隆房を疎んじ、家臣一同が隆房に帰服しているような状況ですから、隆房が兵をあげるのは
時間の問題でしょう。」

元就はこれを聞いてうなずいたが、果たしてその後、隆景の予言したとおりとなった。


小早川隆景の予言による最初の犠牲者




220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 22:24:04.30 ID:rXHmKKR5
隆景を件(くだん)扱いするなwwww

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:22:03.55 ID:hWKR8dCb
隆景が毛利宗家継いでたらどうなってたんだろ

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 00:27:14.93 ID:JDqW3Uy+
元春が生きてると成り立たないからifとしても想像しづらいw

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:02:50.87 ID:cbJOdNM1
兄弟仲が悪いままだったなら、あるいは……

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 01:21:25.21 ID:1uc45loy
隆景のワンマンに吉川家との溝が更に開いていく様子しか見えない
バランサーは必要なのだよ、でも輝元には無理なのだよ

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 02:34:30.81 ID:UQoMqn1U
隆景の人生に人質になってる暇なんて無いよなー

元春と隆景は隆元が死んだ後から責任感が出てきたんじゃねーかな?
毛利家伝統の若いころろくでなしな奴が年取るとめっちゃ真面目な原理で。

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 05:35:17.67 ID:BMIywk23
毛利家中って預言者多いなw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 05:44:45.04 ID:tNfUpQeG
安国寺恵瓊は隆景の真似をしたかっただけなのかもしれないな。

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 07:16:30.68 ID:cyq+WLeb
これ隆景自身が義隆をたらし込んてないか?w

伊香賀隆正の立ち腹

2011年10月29日 22:02

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:25:21.40 ID:max6tfAO
自分は訳も解釈も自信がないけど投下するぜ!

1555年、厳島に渡り、宮尾城を攻めていた陶軍数万は、
10月1日未明の奇襲によって混乱し、あっという間に総崩れとなった。
大将の陶入道は踏みとどまって戦い、討ち死にすべしと心に決めたが、側近たちに引き立てられて退却する。
上陸した大元浦まで退いて陣を立て直そうとするも失敗、
捲土重来を胸に浜づたいに逃れ船を探すも、船影一つ見当たらない。

もはや、これまで。
陶入道の手を引き、腰を押して進んできた側近たちも、
情けなくも雑兵の手で討たれるよりは、と覚悟を決めた。
小姓に持たせていた胡餅を分け合って食べ、
松の葉で綴じた木の葉を杯として、酒の代わりに谷川の水を注いで呑み交わし、
脇差を扇に見立てて謡い舞う。別れの宴だった。

入道は石の上に座し、腹を十字に掻っ切った。
腸を掴み出そうとしたところに太刀が振り下ろされ、首が落ちた。

介錯をしたのは伊香賀民部少輔隆正、陶入道の乳人(養育係)を務めた男だった。
伊香賀は刀を取り落とし、入道の遺骸を掻き抱いて、
「あなた様が赤子のころから一日も、片時も離れずに、慈しんで参りましたものを。
日に日に成長されるのがどんなに嬉しかったことか。昔のこともまるで昨日のように覚えております。
私こそが先立つべきなのに、その首をこの手で落とさねばならないとは」
と、泣き崩れた。享年35、早すぎる死であった。

残った者たちは陶入道の首を小袖に包み、岩陰に厳重に隠し終えると、
さて自分たちも、と思い思いに刺し違えて息を引き取った。
伊香賀も入道のそばで死にたかったが、
自分の遺骸が近くで見つかると主君の首も探し出されてしまうだろうと考え、
数百メートルも離れた浜辺で、立ったまま腹を掻き破り、自分で首を押し切って果てたという。




333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 15:43:51.44 ID:K73uKaNZ
こういう話、いかにも武士らしくて好きだよ
ただ誰が見ていてどうやって記録したんだろうと思ってしまう

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:07:24.96 ID:b9rL1d7r
生き残った人とか近隣の村人とかじゃね

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:09:44.90 ID:ayWuz64l
なんと冷静なツッコミ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:21:14.47 ID:oErLQ1t4
近隣の村人がそんな至近距離に居るわけないだろ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 16:38:20.35 ID:9Qm7ZXcp
まあ端的に言うと身分ある武士が一人で居るということはありえず、必ず下人などが付いるものなので、
この手の話は伝わるのは生き残った下人などからだろうね。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:13:22.64 ID:uD6DEZs5
久しぶりに逸話らしい逸話を読んだ気がする
ありがとう、>>332

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:15:47.97 ID:eGAHmx0f
伊香賀さんの無念っぷりが泣ける



345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 19:50:16.66 ID:max6tfAO
>>332だけども遅レスすまん。

>>333
これは胡餅を持たされてた陶入道の小姓が生き残って敵方(毛利)に話したってことになってる。
ただ、ここからは悪い話で、こいつは伊香賀民部に
「おまえはまだ幼いから敵も殺しはしないだろう。いいか、絶対に入道の死をバラすなよ。
山口に帰ってから信用できる重臣だけにそっと話すんだぞ。わかったな」
と念を押されたにもかかわらず、自分から落ち武者狩りの毛利勢のところに行って、
「大将首の在り処を教えるから命を助けてください」と、さっそくゲロったんだ。
民部が浮かばれないよう……
まあ出典が「陰徳記」(軍記物)なので、信憑性はアレだけどね。

>>338
べ、べつにアンタを喜ばせるために拾ってきたんじゃな(ry
こちらこそありがとう。


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:21:55.76 ID:qxlDkG4y
船を完全に抑えられて、島全体が「殺し間」と化した厳島から生きて帰れ、
というのも無理ゲーだと思うぜ。
厳島まではフェリーで10分だから、泳ぎが得意なら泳いで帰るのも
不可能じゃないかも知れないが

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:58:56.43 ID:CkTUFiVV
>>346
対岸は毛利の勢力圏だから周防まで泳がなきゃならないしねえ
しかも台風?で荒れてる10月の瀬戸内海を…




対岸で船探せよとか言わない

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 22:24:29.48 ID:XIlXBcBZ
でも秀家さんならw

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:14:40.87 ID:Ve/6I5UE
宮島の鹿って、泳いで本州まで行くんだろ?
鹿も四つ足、馬も四つ足。 鹿にできて馬にできないはずはない。

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:19:03.69 ID:9Qm7ZXcp
>>349
義経公お疲れ様です。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 23:32:53.90 ID:CkTUFiVV
梶原景時「鹿は偶蹄目で山を移動するのが得意で馬は奇蹄目で平原を移動するのが得意」

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:12:53.85 ID:7hXNx9WP
>>346
というか、毎年何人も宮島から本土まで泳いで渡ってる。
…トライアスロンやってるからな、宮島w
ttp://www.cci201.or.jp/ta/2011top.html

多分ウヨウヨいる毛利勢に見つからずに泳ぎきって逃げ切れるかは知らない。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:29:59.14 ID:S7hOMOuG
>>349
これがホントの馬鹿ってか

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 02:20:17.70 ID:2aqRBeZV
>>352
流石に夏だねトライアスロン

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 02:27:31.82 ID:17zPE6cd
>>352
「泳いで参ったー!」って言っちゃう人でてきそう

部下は隆房に有無を言わせず

2011年10月01日 22:06

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 02:20:18.05 ID:ifv7643A
上の方で株が下がった陶さんの話でも。旧暦だけど10月1日は命日らしいしね。

というわけで厳島合戦のときの陶さん。このときには剃髪して、名を晴賢から全薑(ぜんきょう)に改めていた。
毛利軍の朝駆け(夜討ち?)に虚を衝かれ、混乱し総崩れとなる陶の大軍。
一部は踏みとどまって奮戦防衛するが、
狭すぎて大軍の利が発揮できないどころか、大人数があだになって槍が振るえない。

(#゚д゚)「あんな小人数相手に、何押し負けてんの! 返せ! 戻せ!」
部下A「無理ですよ。狭いんで動けませんて。俺らは逃げます」
(;゚д゚)「大将を、捨てていく・・・だと・・・?」

(#゚д゚)「フ、フン、臆病風に吹かれた者など足手まといよ。三千の精鋭ども、集え!」
部下「えーと、だいたい五百人ぐらいしか残ってませんが」
(;゚д゚)「えっ」
部下「ここでは地の利が悪うございます、一旦引き、陣を立て直してください!
   我らはそれまでの時間稼ぎに引き返して防戦いたしますので」
(#゚д゚)「ヤダもん! わしもここで討ち死にするもん!」
部下「お早く! 敵軍の鬨の声がすぐそこまで迫っております!」
(#゚д゚)「でも」
部下「御免!」
( ゚д゚)「・・・・・・!」

部下は隆房に有無を言わせず、肘をつかんで引き立てた。
反対側の肘も捕らえられ、ズルズルと引き摺られてゆく大将でした。

この先は切なすぎて、笑い話にできないんだよな。





陶氏最期の風景

2011年10月01日 22:05

146 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 17:31:25.80 ID:hMTHCs4a
では、ゼンキョーさんの末路はスッ飛ばして

陶晴賢(隆房)の死後、大内氏は急速に崩壊、2年後の弘治3年(1557)3月には毛利軍が山口まで侵攻した。
大内義長は、重臣・内藤隆世の命と引き換えに長府へ退去する事を許されたが、毛利軍はあっさり約定を破り
長府にも押し寄せ、義長は下関に程近い長福院で最後を待つばかりとなった。

陶氏の家臣・野上隠岐守房忠は、ひとり山口に残された晴賢の末っ子・鶴寿丸のもとに駆けつけ、六歳になる
この幼子をかき抱いて言った。

「義長公は、毛利と申す人のせいで山口を追われ、長府へお出でになりました。今は大勢の敵に囲まれており、
近日中に御自害なさる由にございます。されば敵は若様をも捜し出し、殺さんとするでしょう。
もはや落ち延びる事もかないませぬ。雑兵の手にかかるよりは長府へ参り、主君の義長公とともに逝かれませ。

さすれば『幼少ながら死に場所を知っている、さすがは陶入道の子よ』と、世人こぞって若様を称えましょうぞ。
亡き父上や兄上方も、さぞかし喜びまする。そうお思いになりませぬか。」

涙を押さえて説く房忠に、鶴寿丸が「では、ご主君のおともをして、いずこへゆくのだ?」
と問うと房忠は、
「極楽という良い所です。水面に七宝のごとき花が咲き誇る池のほとりに、金銀瑠璃で飾った楼閣が立ち、
天より音楽が降り注ぎ、世にも珍しい鳥が飛び交う、面白きこと限り無き所にございまする。
その地にて、父上や兄上方にもお会いになり、ともに仏になるのです。」と答えた。

147 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 17:33:29.45 ID:hMTHCs4a
「そうか。そこには、ふねでゆくのか?それとも、うまでゆくのか?」と、なおも問う鶴寿丸。
「どちらでも。舟ならば彼岸への渡し舟が、馬ならば馬頭観音が馬となられて、お迎えに来てくれます。

ただ、その時には敵が太刀を並べて参り、私も太刀で若様を打ちまする。そこで少しも恐れず、笑っておれば
父上様方に会いに行けましょう。もし心残り等して泣いてしまえば、地獄と申す所へ行き、赤鬼青鬼どもの
責め苦を味わい、父上様方に会えませぬ。その上、世人は後々まで『あれが陶入道の子か』と笑うでしょう。」

「そうか。ちちうえにあえるなら、なんでこわがるものか。さぁはよう、ご主君のもとへまいろう。」
「天晴れ!さすがは・・・入道様の・・・・・・」

「?ふさただは、なぜなくのじゃ?主君のおともをして、人にもほめられるのに、なにがかなしいのだ?」
「・・・・・・」
「そ、そうか。わしは、しぬのじゃな。い、いやじゃ!ははうえや、うばとはなれて、しぬのはいやじゃ!」

真相に気づいた鶴寿丸は大声で泣き出したが、すぐに涙をぬぐうと、
「や、やぁふさただ!いまはこうでも長府へまいれば、かなしみも、なきもせぬわ!こころやすくおもえ!」
と言って、顔を赤くしながらも、房忠の隣に立った。

長府で義長と合流した鶴寿丸は見事に殉死を遂げ、介錯をした房忠も腹十文字に切って後を追ったという、
「陰徳太平記」に記された陶氏最期の風景。




149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/01(土) 22:40:56.42 ID:YkmngnrG
>>146
大内義隆没後は、なんかもう見ていられないよ大内氏
義弘公あたりから延々と積み上げてきた輝かしい歴史が…
史跡こそあれ、山口が西の京と呼ばれてたなんて嘘みたいだ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 03:41:55.86 ID:KLnfSjZa
>>149
義興が上洛なんてしなければ大内はもっと続いただろうなあ

いりこ酒の隆房様

2011年09月26日 22:01

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 22:04:22.92 ID:AQD8nKru
市松さんみたいな人発見w

陶隆房(後に晴賢)は、いりこ酒(ヒレ酒のにぼしバージョン)が山口で大流行したときに、
夜な夜な諸将の主催する酒宴に顔を出してたんだが、ある日、オールで遊んで朝帰りした。
酔いも覚めやらず、寝所の外で鳥の声を聞いていると、家の中から近習が話す声が聞こえてきた。
近習たちは隆房の帰宅に気づいていない様子だった。

「殿はこんな時間まで、どこで何をされているのやら。心配だなあ」
「なに、殿はいりこ酒だ。いりこ酒の隆房様よ!」

馬鹿にされたと思ってカチンときた隆房は、荒々しく障子を開け放つと、脇差を抜いて
「いりこ酒」と言った近習に斬りかかり、反対側の庭まで追い詰めて首を差し出せと迫った。
近習は縁側に上がり「殿の悪口を言ったのではなく、ちょっとふざけただけですが、
そこまでお怒りならどうぞお好きになさってください」と諸肩脱いで首を延べ、
隆房は一も二もなくその首を落としてしまった。

この近習は隆房の乳兄弟で、父親も隆房が赤子のころから養育係として仕えている。
父親を呼んで成り行きを話し、死骸を弔ってやるようにと言うと、父親は息子の遺体を庭に突き落とした。
曰く、「こんな不届き者、私の息子じゃありません。天魔か狐の類でしょう」
この父親、他の人にも悲しみを見せなかったが、夜になるとこらえきれずに涙で枕を濡らした。
それでも、その後も隆房を恨む気配もなく、一途に仕えていたため、
隆房も自分の行いを恥じて、近習を殺したことを悔やんだそうな。

酒癖の悪い主君を持っちゃった家は大変だね。




110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 23:09:16.77 ID:hR4yMktv
>109
乳兄弟を切るなんて嫌な話だ
首を出されたら切らないで引くわけにはいかなかったんだろうな
そもそもその程度でカッとなって斬りかかったのが間違いだろうけど

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 23:49:28.32 ID:YzF229A4
近習は最期の言動を見る感じ
「ああ、この人はダメだ」と思いつつ斬られてそうなのがまた悲しい

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 00:53:45.98 ID:sVDG7Hm8
しかしこの陶さんが西国無双の侍大将って呼ばれてたんだもんなあ
人品は関係ないんだろうな

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 01:39:59.84 ID:qskgS5Z1
信長が舅殿を斬るようなもんか

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 16:21:00.32 ID:jSz+peDf
陶の評判大暴落w

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/26(月) 19:16:00.10 ID:bXtP2px0
乳兄弟と穴兄弟(アーッ的なほう)

どっちの絆が強いのかね・・・

相良武任の辞世の句

2010年11月01日 00:00

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 19:38:45 ID:cm4c9LzF
相良武任の辞世の句を最近知って同情してしまった。

空蝉の つくしよしとは 思はねど 身はもぬけつつ なくなくぞ行く




185 名前:sage[] 投稿日:2010/10/31(日) 21:13:37 ID:m8oslHVx
>>184

周防守護代の家柄の、あの方が許しません。


191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/31(日) 22:54:54 ID:UmnmHU72
>>184
相良さんは人吉相良の一族らしいが人吉球磨の山ん中まで逃げればよかったのに・・・
表は2万石でも山深い盆地の人吉は実質10万石ってぐらい豊かなのにね。
他の九州南部地域と違い焼酎を米でつくってるしねえ。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 00:11:59 ID:Q8ALSc9m
>>184

大内義隆の寵臣だけあって辞世も風雅に溢れていますね
主君義隆が諦観の境地とも言うべき歌を残しているのに対して
あえて未練を残しつつと言うのもおもしろいですね。
関わりは無い人物ですが武田勝頼の辞世などはもう悲惨の一語ですが

「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」

武田の弓勢も衰え僅かの供と逃げ惑い、小山田か北条を頼るつもりで東へと進んでいる筈なのに
もはや行き着く先は西方浄土であろう。

武田勝頼勝頼が落ち延びながら見上げた月は
きっと自身の雲行きと同じく雲で少し遮られた弓張り月だったのではと思いますが
弓張り月は秋の言葉なので雲懸った所も合わせて春の言葉である朧月が良く似合います
亡くなる寸前であろうともこれだけ言葉に趣向を凝らす古人は偉大ですね。

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/01(月) 01:04:29 ID:soExALX+
>>197
洒落た歌がよめるってかっこいいすなぁ




Wikipedia相良武任
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%AD%A6%E4%BB%BB