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「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

2022年03月18日 15:53

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:14:49.56 ID:l73Nz6xM
青地礼幹可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

青木新兵衛(方斎入道)は方々へ渡り奉公をしていたが越前少将忠直卿に仕えた。
その経緯であるが、あるとき忠直卿の家臣、永見主膳が息子の着付けを三宿勘兵衛(御宿政友)に依頼した時、一座に居合わせた若い衆が武功咄を望んだ。
以下、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4376.html
「真の武士とは」


とほぼ同じ話で、これにより永見主膳に出入りしていた浪人の青木新兵衛が忠直卿に召し出されることとなった。

なお「真の武士とは」では
永見主膳→狛伊勢守、三宿勘兵衛→阿閉掃部
と名前が違っており、
室鳩巣「駿台雑話」の「阿閉掃部」やそれを出典としたと思われる、
神沢杜口「翁草」の「阿閉掃部(注釈では阿閉貞征の息子)」では、「真の武士とは」と両者の名前が同じであるが
主題である「真の武士」という言葉が出てこないので、ほかの出典があるのだろうか。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:20:32.17 ID:l73Nz6xM
青地礼幹は室鳩巣の弟子であり、師弟で同じ話を書いておきながら両者の名前が違う理由は不明。
青地は加賀藩士であり、青木新兵衛も最後は前田利常に仕えているため、師の間違いを青地が正したのかもしれない。
(「可観小説」では「駿台雑話」評や室鳩巣逝去についても書かれている)
また「翁草」には

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13192.html
中々鬼にて御座候


の、伊達政宗が青木新兵衛の松川での戦いぶりを褒めたところ、
帰邸後、秀康が永井善左衛門と取り違えて永井を褒め、永井が「それは青木新兵衛です」と訂正し
秀康が「まあどっちも我が家人なのだから強く穿鑿には及ばない」とごまかした話もあり、
この時点で青木新兵衛が秀康から認識されていたのなら忠直の時に無名だったのはおかしい気もする

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:23:29.67 ID:l73Nz6xM
ついでに山鹿素行「山鹿語類」の「士談五 剛操」には

青木新兵衛が越前で青木紀伊守(青木一矩)に仕えていたころ、同輩の荻野河内のところで寄り合いがあり
その席で武功話をせがまれた新兵衛が、賤ヶ岳の戦いにおける余呉の湖畔での戦いで、立派な前立ての武者と槍合わせをし、
新兵衛が槍をついたところ武者が退いた、という話をしたところ
亭主の河内が「それはそれがしなり。法斎(新兵衛)の具足や指物はこのようなもので、また胴には槍跡がなかっただろうか?」
と尋ねたところその通りだったため、
河内「よい時分におおせられて満足だ、しかしそれがしは槍でつかれもせず、退きもしなかった、
それだけははっきりと言っておこう!」
新兵衛「いや、たしかに某がついて、そなたは退いた!」
と双方引かず、すっかりみんなの興が醒めたところで、河内の十七になる子供が出てきて
「推参ではありますが申し上げます。そもそも殿軍の折ですから双方とも一騎討ちをなさったわけではなく、
それぞれ味方の軍からあまり離れないように戦ったわけですから、一歩、二歩退いたかどうかで言い争っても無意味でしょう。
そのようなことで議論なさるのは、御両人には似つかわしくないと思います」
と言ったところ、新兵衛も大いに感じて穿鑿をやめ、座中も感じて興を催したということだ。

という主君が忠直ではなく青木一矩で、組み合わせた相手も荻野河内と違うが、似た話がある
時代的には山鹿素行の方が古いが、もしこちらが元の話だとすると、青木新兵衛にとってはあまりかっこうのよくない話になる。

後半
「芳斎青木新兵衛の事」後半部分


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 16:21:39.98 ID:Nc2Sr3bk
それ河内の息子のいい話だな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 20:07:44.51 ID:WPcSNcPa
新書太閤記に同じ話あるんだけど、吉川英治の創作だと思ってたわ

「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。
こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。
五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。
思えば、その方々へ、蔭膳の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」
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前田利長家臣、太田但馬守について

2022年03月16日 18:45

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/16(水) 18:28:18.85 ID:W5QHGRnF
「朝野雑載」から前田利長家臣、太田但馬守について

太田但馬守(長知)は土方勘兵衛(雄久)の弟であり、前田利長卿の家臣として高禄をうけ、山口宗永の大聖寺の城攻めには一方の侍大将もして活躍し、
丹羽長重との浅井縄手の合戦でも比類なき下知をくだし前田軍を指揮した。
あるとき、但馬は狐の子を捕らえてなぶり殺しにしたところ、母狐が但馬の部下に取り憑き
「但馬はとがなき我が子をなぶり殺しにする。
この怨念、いずかたへかゆくべき。近日かくのごとくにむくうべし」と言った。
利長卿がある夜、寵妾のもとへ通ったところ、忍んでいる男の影があり、みると太田但馬の姿であった。
利長卿はこの時以来但馬を憎んでいたところ、またある夜、寵妾のところに向かったところ但馬があらわれ、姿を消した。
そのためただちに横山山城守(長知)に命じて但馬を斬り殺させた。
なお但馬はその夜饗応に招かれ、酒宴に出席していたため寵妾のところに通えるはずもなく、
その上、深閨との間には番所も多くあり、その夜に人が通った形跡はなかったということだ。
後日よくよく尋ねたところ、かの母狐の仕業だということになった。
この但馬は性格が我儘で人をそしり、偏狭でおのが功績を人に自慢し、自己の利益を欲し、人の恨みを買うような人物であったけれども
知行二万五千石で第一の老臣だったために、表立って非難する人もいなかった。
結局のところ、不善の家には必ず餘殃があるという言葉の通り、最終的には不慮の災難に遭ったと言えよう。

青地礼幹「可観小説」にもある話らしい

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/16(水) 18:38:17.36 ID:W5QHGRnF
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kakan/kakan_70.pdf
金沢海みらい図書館のサイトで「可観小説」を確認したらほぼ同じ話だった
※管理人注 PDF注意