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正信偈合戦顛末

2018年12月24日 03:34

顕如   
583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 23:41:06.86 ID:riCaTj9j
 1570年、本願寺顕如は全国の門徒たちに織田信長との決戦を呼びかける檄を飛ばした。
その後。信長が軍勢を率いて摂津河内に迫ってくると、その動きはすぐに本願寺側に
伝わった。信長軍の中にも一向宗の門徒が多数いたので簡単に情報が漏れたのである。
 迎え撃つために富田や唐崎、西面、柱本、鳥飼、一津屋の門徒が集結し、彼らは
味舌下の明善寺の住職 正義坊と、その檀家の勘兵衛の指揮に従って戦うことになった。
 門徒衆は本願寺から支給された槍を一本ずつ装備していた。指揮官の勘兵衛
槍の扱いを教えようとはせず、「5人から6人の厚さでずらっと並ぶように」とだけ
指示した。門徒たちがその通りに5~6列で横並びになると、対峙する信長軍も
同じ5~6列の厚さで並んでじわじわと近づいてきた。
 両軍が互いの顔を見分けることができるほど接近すると、教主の本願寺顕如
陣中の大きな櫓にのぼって「国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓」
などと親鸞聖人の教えの正信偈(しょうしんげ)を唱え始めた。
 正義坊と勘兵衛はその正信偈に合わせて槍を振り上げたり、振り下ろしたりするよう
門徒たちに命じた。すると、敵の信長軍の方から正信偈を唱える声が聞こえてきて、
その声に合わせて信長軍の兵士たちも槍を上げたり、下ろしたりする動作を始めた。
両軍がにらみあったまま、同じ動作を繰り返すばかりでぶつかる気配は見られない。
そのうち、信長が業を煮やしたのか、信長軍の方から法螺貝の音が聞こえてきて
さっさと退却していったので、その日の戦いは勝敗なしの引き分けになった。
 これが後に正信偈合戦と呼ばれる合戦である。
 本願寺側は敵軍が同じ一向宗の門徒ばかりで戦意がないのを見抜いて、あらかじめ
両軍とも戦うふりだけするよう根回ししていたのであった。



586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 11:24:11.01 ID:WanFXouX
>>583 の戦いで兵士が信長の指揮に逆らって怠慢行為をしたら、後で恐ろしい処罰を
受けそうだが、はたして大丈夫だったのか気になる

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 22:06:47.53 ID:t8Zi+qo1
>>583
正義坊って90年台のアニメに出てきそう



590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:10:00.59 ID:4szgCXxf
>>583
あえて信長陣営に残ってかく乱する一向宗徒がたくさんいたんだろうな
そりゃ10年もかかるわ

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:07:15.64 ID:m1+OhMdA
>>583 で紹介した「正信偈合戦」の話には続きと言える逸話が存在しているが、
内容がどちらかといえば悪い方の話だったので、「戦国ちょっと悪い話」のスレに載せました

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/24(月) 00:21:08.78 ID:S0D4pHu3
戦場で両軍から南無不可思議光~法蔵菩薩因位時~
とか聞こえてくるのか。想像したらワロタ



548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 23:04:25.86 ID:m1+OhMdA
この話は「戦国ちょっといい話46」の >> 583 で紹介した「正信偈合戦」
の続きにあたる逸話である。

 十年も続いた信長と本願寺の争いは和睦という形で一応の決着はついたが、
信長の方はそれで済ませるつもりはかけらもなかった。本願寺の側に属して
戦っていた摂津の人々が和睦成立後にそれぞれの村に帰って元の生活に戻った頃、
突如として信長軍が村々に襲撃を仕掛けてきた。信長軍の一番の目標は摂津近辺の
門徒を率いて戦った二人の指揮官、味舌下の明善寺の正義坊とその檀家の勘兵衛
討つことであった。
 襲撃を受けた村では一向一揆に加担したと見なされた村人が捕らえられ、次々と
命を奪われていった。その光景は凄惨で、流血の現場を「流れの馬場」、
死体を積み上げた場所を「しかばね谷」と呼ぶほどであった。
 襲撃を事前に察知して運良く逃れた正義坊は、勘兵衛を連れて北の山へ落ちのびた。
「明善寺の正義坊は手ごわいぞ!」
 信長は騎馬兵三千人に正義坊への追撃を命じた。正義坊たちは箕面の止々呂美という
ところで追いつかれ、檀家の勘兵衛が身代わりとなって捕まり、その場で殺されてしまった。
 その後、勘兵衛がいた地元の明善寺周辺では亡くなった勘兵衛の霊を弔うために
供養塔を建て、念仏講をおこなった。無念講と呼ばれるその念仏講はこの時から
始まったそうである。



※出典 高槻物語(管理人調べ)
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下間頼広の出奔と栄転

2017年09月04日 18:23

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/04(月) 16:28:42.46 ID:FQvaBL80
下間頼広の出奔と栄転


下間頼広の父は本願寺の僧で執事職を務めた下間頼龍である。
頼龍は天正8(1580)年に法主の顕如が信長に降伏した際、和睦条約に連署したが
主戦派だった顕如の長男・教如の側近であった為に、翌年には教如の
石山への再籠城の企てに従ったので、顕如からは叱責され謹慎を命じられた。

その経緯から頼龍は本願寺が東西に分裂したときは教如に従い
東本願寺の設立を助けた為、教如は頼龍の嫡男である頼広に執事職を約束した。
ところが慶長14(1609)年に頼龍が亡くなると
なぜか教如は約束を反故にし、頼広に蟄居を命じてしまった。

ここで頼広の母の七条は、池田輝政に教如との取りなしを依頼した。
七条は輝政の母善応院と織田信時(信長の異母兄とされる)との娘であり
(信時の死後に善応院は池田恒興と再婚し、七条は恒興の養女になっている)
輝政から見れば異父姉にあたり、頼広は甥っ子ということになる。

しかし輝政の教如への説得は上手く行かず、教如の頑なな態度に
憤慨した輝政は、七条と頼広たちを自分の元へ出奔させた。
また輝政は自領の真宗系寺院全てに対し西本願寺の方に付くように通達し
従わなかった寺の寺領を取り上げたので、池田家が転封された後に入領した
本多忠政が逆に西本願寺派の寺院を弾圧するようになるなど、遺恨となった。

一方頼広は輝政の長男の利隆の家臣になり三千石を取って、重利と名乗った。
利隆が家督を継ぐと池田姓を許された重利は、重臣として家康にも拝謁し
大阪夏の陣では尼崎城で戦功を立て、戦後に1万石を与えられ大名になったという。


――『播磨新宮町史』など



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 00:41:44.16 ID:gmaXA5XC
まあ池田なんて本来門跡と面会できるだけで感謝しなきゃいけない身分だからなぁ

本願寺ゆかりの名菓「松風」

2014年06月19日 20:08

顕如   
155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/18(水) 23:52:15.99 ID:+WQhUVu9
本願寺ゆかりの名菓「松風」
京都山科に本願寺が建立され(文明十五年、西暦1483年)、
「寺中は広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし」と言われた頃から本願寺に仕え、
供物や諸事に携わってきた亀屋陸奥(屋号は後年名乗る)は、
顕如上人の時代、元亀元年(1570年)に始まった織田信長と
石山本願寺の戦いの間も本願寺に従っていた。

織田の攻撃が激しくなるなか、糧道もしだいに閉ざされ
城内には食料が不足しはじめる。
そこで亀屋陸奥三代目大塚治右衛門春近が
試行錯誤して兵糧代わりとなる菓子を創製し、
この菓子は法城を守る門徒衆の貴重な食料として用いられた。
しかし、11年間続いた戦の趨勢は織田に傾き、
本願寺は織田と和睦することになった。

顕如上人は織田との和睦後に京都六条下間(しもつま)邸にて
「わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風」と歌を詠んだ。
この歌から「松風」銘を賜ったのが前出の菓子だった。
天正十九年(1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、
亀屋陸奥も御用達の御供物司として本願寺の寺内に移った。
そして「松風」はその後も作り続けられ、四百年余りの洗練をへて
現代まで続く名菓「松風」になったという。


ちなみにこのお菓子は司馬遼太郎の「燃えよ剣」「関ヶ原」にも
登場しているとのこと。

出典は「松風」の袋及び亀屋陸奥のウェブサイト




156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 07:09:47.53 ID:v+zgn3ub
兵糧がなければお菓子を食べればいいじゃない byマリー・アントワネット

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 09:40:39.71 ID:4sF6OMto
それって本当に元ネタあるんかね
ルソーの作り話なんかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 10:12:29.15 ID:l2mT80Av
恵帝「米がないなら肉を食えばいいじゃない」

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 14:13:43.77 ID:aXHq4YyQ
顕如と教如が菓子食いながら降伏する・降伏しないで言い争いしてたと思うと草

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 14:54:05.81 ID:NFDi6Zt+
菓子だと思うから滑稽に感じるだろうけど、門主と新門がレーションやカロリーメイトで
食い凌ぎつつと置き換えると切迫感ある

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 15:45:08.16 ID:EfOmYfAw
>>157
作り話だよ

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/19(木) 16:35:37.20 ID:u8m4c7Ry
水がないなら米で馬を洗えばいいじゃない

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/20(金) 00:39:16.72 ID:eh/iMmQC
>>157
物の本によると、いろんな王族の女性に対する、庶民の暮らしをわかってないネタのテンプレだったとか
最後の女王であり、最後にこのネタを使われたせいでマリーのエピで固定化した。

天正12年5月、謀反発覚

2013年07月11日 19:51

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 20:36:32.30 ID:oZdMkUTU
天正12年(1584)5月、小牧長久手の戦線が膠着する中、京都において佐久間甚五郎という人物による
羽柴秀吉への謀反が発覚した。

それについて、一条車之町は内裏の近所、六丁の内にあるのだが、この謀反人はそこに家を借りていた。
また実相院の辻は同じ町同然の地域であったので、この両町の者どもが、佐久間甚五郎について
届け出なかったことは仔細があるに違いないと、45,6人が搦め捕られた。
そのうち内裏の公人、出納台人、並びに公家方の殿原も27,8人が捕らえられた。
彼らは小野木清次が城代を勤める淀城の天守に留め置かれたという。

また前田玄以よりの申し付けで、さきの両町から更に20余人が搦め捕られ、二条蛸薬師に籠を作り
そこに入れ置いたという。

この時、当門跡(本願寺顕如)より。捕えられた公家の殿原の内に門徒の者があるので、
淀城の小野木清次に彼らを解放するように頼んだが、小野木は
「私一人の心得ではどうにも出来ません。」
と答えた。

門跡からの御使として河野越中が交渉したものの、相調わず、6月15日頃に寺に帰られた。
(宇野主水記)

京都で起こった、秀吉への謀反未遂事件についての記録である。




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 22:23:13.01 ID:AVC8iHTn
>>32
だからどうした。落ちは?

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 22:29:09.48 ID:2WVDUyd9
落ちなど蛇足

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/10(水) 23:02:37.24 ID:+5lIfH6R
具体的にどういう謀反の計画で、佐久間甚五郎はどうなったんだw

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 10:57:16.94 ID:wvtNuZ/B
末期のラスボスならポポポポーン♪だろうな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 13:46:33.82 ID:udJZzolC
>>32
何が何だかわからないが、謀反なら仕方ない

灰賦峠(はいぶきとうげ)

2012年04月11日 21:32

顕如   
567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 06:32:38.10 ID:c9VH0Kjr
天正10年5月末、石山本願寺を明け渡し紀州に逃れていた顕如に対して、信長が和睦の約束を
破って三千人の討伐軍を差し向けたとの知らせが深日(ふけ)の里の金乗寺に もたらされた。
金乗寺の門徒総代である了性が付近住民と協力して顕如が逃れるための時間稼ぎをすることになった。
了性は元々は右入道という武将であったが、武士の生き方に疑問を感じて一向宗門徒となった男で、
温厚な人柄と武芸・教養にすぐれていることで知られる人物である。
 同年6月2日、了性は1800名ほどの門徒とともに強い風の吹く峠で待ち伏せし、風上から
大量の灰をばらまいて敵兵の目潰しをした上で、皆で崖の上から石を投げつけて戦った。この作戦は
功を奏して織田軍はいったん退却した。ところが、翌3日に陣容を立て直した織田軍が再び攻めてきた。
今度は布切れで目をおおって万全の対策をしていたため、灰の目潰し作戦は通用せず、たちまち
門徒たちは敗色濃厚になった。ところが、いきなり織田軍は全軍撤退していなくなった。昨日の6月2日に
本能寺が明智光秀の軍勢に襲撃され、織田信長が自害したとの知らせが織田軍に入ったからだ。
 そんなことは知る由もない門徒たちは「阿弥陀様のご加護だ」「了性様のおかげだ」と喜び合った。
 後に、灰をまいて織田軍を撃退した場所を灰賦峠(はいぶきとうげ)と呼ぶようになったそうである。




568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 07:04:49.78 ID:LKbIk1nm
はいはい、わかりました。


なんちて

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 07:56:56.72 ID:JLUIdyL6
四国攻めの準備もしていたからそのついでに紀州攻めたとか?
深日の宗徒たちも迷惑な話しだな

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 14:11:51.35 ID:zUJmFxTp
地元だがそんな話聞いたこともない……ソースは?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 15:40:46.06 ID:c9VH0Kjr
>>571
大阪伝承地誌集成という本に岬町の伝承として載っていた

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 18:39:44.78 ID:Pdzssr0W
この話に似ている
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?q=%C0%D0%BB%B3%B9%E7%C0%EF

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 18:59:11.49 ID:i3AsRaLp
史実だと、本能寺前の本願寺と信長の関係は良好で、
雑賀衆は四国攻めに船を提供していたりする。
顕如は石山本願寺退去後、すぐに和歌山駅前にある本願寺鷺森別院に移っているし。

本能寺前に信長と争っていた紀州の勢力は高野山。

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:04:27.08 ID:y8nsyZbw
為政者vs宗教って、民衆の反発招きたくない為政者側からしたらあまり好ましくないもんな
宗教vs宗教となると、ものすごく悲惨なのは現代でも変わってないな

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:05:48.52 ID:vfrypgz6
四国攻めの織田軍を見て勘違いした民衆の間で本願寺攻めの噂がたったりはあったかもな

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 19:17:04.26 ID:i3AsRaLp
>>573の話だと、東本願寺と西本願寺の争いのために存在しない合戦を
捏造したわけだけど、>>567の話だと東西本願寺とはまるで無関係だから、
>>573の話から合戦話だけをもってきて、縁起話を作り上げた感じなのかな。

>>576
いや、民衆レベルの噂でもそれはないでそ。その軍勢に雑賀衆が参加しているわ、
紀州では顕如の警護に信長が兵よこしたりしているわ、高野山攻めやっているわだし。

鷺森合戦

2011年09月22日 22:04

顕如   
62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 14:01:05.83 ID:Iv38V+0w
織田信長を苦しませ続けた本願寺との戦い、所謂石山合戦の最終局面において、法主顕如
朝廷の仲介による講和を受け入れた。にもかかわらずその息子、教如はこれに従わず
石山本願寺に残り猶も抗戦を続けた。

これを恨みに思った織田信長は本願寺の殲滅を決意。天正10年(1582)6月2日、突如として
顕如らが大阪から退去した紀伊の国鷺森に大軍を向かわせた!世にいう鷺森合戦の勃発である。

織田の大軍に完全に包囲され、顕如は慨嘆した

「このように信長の軍勢に取り巻かれたが、信長の怒りは無理も無い事で、これは当然の報復である。
ああ、本願寺の真の敵は信長ではなく、(講和の後も抵抗を続けた)教如だったのだ!」

そして自害を覚悟した。その時である!

何と言う事であろう、織田軍が一斉に退却して行くではないか!?
おかげで顕如たちは命を永らえた。だが、一体何が起こったのか!?

天正10年6月2日。そう、本能寺の変の起こった当日である。
この変の勃発を伝えられた織田軍は、急ぎ帰っていったのだ。
阿弥陀如来がお守りしてくれたのだろうか?本願寺はこうして、危うい所で滅亡から逃れたのである。


…と、この鷺森合戦ですが、実はこれ寛永15年(1636)に西本願寺より刊行された「本願寺表裏問答」という本で
捏造されたつくり話なのです。
実際の信長は、鷺森に退去した顕如一行の身の安全を保証し、才賀で当地の有力者である
鈴木孫一と土橋若太夫の紛争が起こると、わざわざ家臣を派遣して顕如達の警護をさせたほどでした。

この本の刊行当時、西本願寺と、教如によって始められた東本願寺との対立が激化し、西本願寺はこの話を
作ることで、「本願寺を滅亡の瀬戸際に追いやった教如に正当性はない!」と批判したのです。
実にくだらない話ですが、この鷺森合戦は後に陰徳太平記や明智軍記というような軍記物にも取り入れられ
あたかも実際にあった出来事のように語られてしまい、後々まで石山合戦のイメージ形成に
大きな影響を与えました。

そんな、つくり話が事実のように扱われてしまったお話。




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 14:13:24.91 ID:PhWsnRKn
宗教って本当にくだらない…

石山合戦の講和と傭兵たち

2011年09月07日 22:24

教如   
776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 18:05:20.62 ID:J8aLuBdL
天正8年(1580)、長らく織田信長と戦っていた石山本願寺であったが、朝廷からの勅命による和議を受け入れ、
本願寺顕如は大阪からの退去に同意した。

ところがこれに断固として反対する集団があった。石山本願寺に籠っていた、雑賀、淡路からの傭兵たちである。

「我々は山越(傭兵に支払われる給与)で今まで妻子を養ってきた!そうであるのに急にここを退去せよというのは
我々にとって迷惑である!」

彼らがそういうのも最もであろう。ここを追い出されれば、自分たちはたちまち困窮してしまうのだ。
そこで彼らは石山本願寺の新門跡の教如を立て

「先ず(講和派の)本門跡(顕如)と北の方を城から出し、自分たちはこのまま大阪城(石山本願寺)に籠ろう!」
と主張した。

これに教如も同調し、石山本願寺は抗戦派が占拠する形となった。
そのため顕如とその北の方、そして下間、平井、矢木といった重臣たちは勅使にお礼を申し上げた上で
雑賀からの迎えの船にのり、4月9日に大阪を退出した。

まるで後の大阪の陣の最後を彷彿とさせるような、石山合戦再末期の、石山本願寺の様相である。
(信長公記)




780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 23:10:19.17 ID:RhUBYnRm
>>776
ちょうどセンゴクでやってるところだな