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悪口の罪軽からず

2020年09月19日 17:58

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/18(金) 21:18:26.35 ID:E9wTxwXD
慶長十七年七月十三日、彦坂九郎兵衛の申す所によると、一昨夜、飯田伝吉朝比奈甚太郎松野勘介
(共に中将殿(徳川頼宣)御小姓)が駿府の町中に於いて喧嘩に及んだ。これは甚太郎、勘介が伝吉に対し
悪口を吐き、剰え刀を抜いてかかり向かった事が原因であった。

その時伝吉は堪忍能わず、散々に切り合い、その場において松野勘介とその郎党を殺し、朝比奈甚太郎
二、三箇所の疵によって倒れ臥した。

伝吉はその場から逐電したが、大御所(徳川家康)はこの事件を聞き召されると
「飯田は手柄を顕した。」と御感になり、これを召し返した。
また生き残った朝比奈甚太郎に対しては「悪口の罪軽からず、殺害されるべし」と仰せになった。

駿府記



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慶長17年7月11日の喧嘩

2016年07月29日 14:11

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 03:19:32.15 ID:stCyV8p8
慶長17年7月11日、黄昏後に駿府御城下の市町において、飯田伝吉(元高麗人)
と、朝比奈甚太郎ならびに松野勘助(徳川頼宣の近臣)が喧嘩した。

その子細は、朝比奈と松野が飯田に対して悪口を吐き、あまつさえ帯刀を抜いて
切りかかったため、伝吉はこれを黙ってはおれず、松野と従僕をともにたちまち
殺害した。朝比奈も3ヶ所傷を受けて倒れ伏したので、飯田は退き行方をくらませた。

町司・彦坂九兵衛(光正)は、この旨を大神君(徳川家康)のお耳に入れ、大神君は
飯田の神妙の働きを感心なされて、速やかに飯田を呼び戻しなさった。

また、朝比奈の過言の咎と未熟の振る舞いに御不興なされ、朝比奈に切腹を仰せ
付けなさったということである。

――『関難間記』



慶長17年、駿府城下の喧嘩顛末

2010年12月26日 00:00

979 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/25(土) 12:28:17 ID:ERpvuv5a
慶長17年(1612)7月11日、駿府でのこと

黄昏の頃駿府の市街において、当時の駿府城主徳川頼宣の家臣である飯田伝吉が、
同僚である朝比奈甚太郎松野勘助と喧嘩となった。
(ちなみに飯田は朝鮮から帰化した者だったそうだ。)

その喧嘩の仔細はこうである、朝比奈と松野が飯田に対して悪口を言い、さらに刀を抜いて
斬りかかろうとした。おそらく脅しのつもりだったのだろう。が、これに飯田伝吉は、彼らの挑発に
遂に耐え切れず自らも刀を抜き立ち向かい、松野とその従僕をたちまち斬り殺した。
朝比奈も死にはしなかったものの、三ヶ所に傷を負ってその場に倒れた。
飯田はそこから退転した。

この事件は駿府町奉行彦坂九兵衛より、徳川家康にまで報告される。

これを聞いた家康は、飯田伝吉が侮辱した相手を見事に斬り捨て退けた手腕が
神妙であると褒め、速やかに召し返すことを命じた。

また重症を負いながら生きながらえた朝比奈甚太郎に対しては、相手を過言によって
侮辱した罪もある上、返り討ちに会うなど未練の振る舞いであると、切腹を申し付けた。

この当時の武士というものが、どういう所を認められどういうところが忌避されるか、
何となく見えてくる記録である。