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蛇姫と血洗いの池

2016年09月23日 14:27

196 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/22(木) 21:59:52.19 ID:dJOGzWtm
蛇姫と血洗いの池

毛利元就の初陣にして、西国の桶狭間とも言われる有田中井手の戦い。数で勝る武田元繁の軍を5分の1の寡兵で打ち破り、元就の武名を一躍高めたのがこの戦である。
この戦で敗死した武将の1人に、安芸武田家重臣の熊谷元直が居たのであるが、彼の遺骸は戦場に置き去りにされたままであった。
元直の妻は父親、香川光景が大蛇退治をした(実際に退治したのは弟で家臣の香川勝雄)事などから蛇姫とあだ名される女性であったが
夫の骸を持ち帰らなかった家臣らに腹を立て、その夜馬に乗ると1人戦場跡に赴き首の無い数々の死体の中から元直の腕に有った腫れ物の痕を頼りに夫の遺骸を探した。
やっとの思いで夫の遺骸を見付けた蛇姫であったが、彼女の力では夫の遺骸を馬に乗せ持ち帰ることができず、
彼女は泣く泣く夫の右腕を切り取って持ち帰り、熊谷氏の菩提寺である観音寺に湧く井戸で持ち帰った右腕を洗い清めて亡き夫を弔った。
観音寺は今は史跡として残るのみであるが、その境内には蛇姫が夫の右腕を洗い清めた血洗いの井戸が今も「清泉」と呼ばれ残っている。

http://www.cf.city.hiroshima.jp/kabe-k/kabemap03.pdf
(広島県史他)



197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/22(木) 22:04:52.04 ID:dJOGzWtm
>>196追記
なお、右腕は清められた後に埋葬したとされるが、続武将感状記によると元直の妻こと蛇姫はこの後死ぬまで夫の右腕を大事に持って居たとのことである…

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 22:11:03.64 ID:S011pzfY
名前と前半の紹介のせいでてっきり清姫のような半分妖怪か剛力な女性かと思いきや
心はともかく体は普通の女性並であったか

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 22:11:49.47 ID:ZPAfABT5
>>197
いい話が恐いい話になってるじゃねーかw

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/22(木) 23:44:40.35 ID:aXC+X0IO
一物じゃなくて右腕?よっぽど小さかったんだな

201 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/09/23(金) 00:10:03.80 ID:T7h1F4dk
この女丈夫の娘は絶世の美女、孫娘は後に実家の香川家の一族が書いた陰徳太平記によるとゴニョゴニョ… のあの人

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佐伯七郎二郎謀殺

2014年11月16日 17:28

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/15(土) 19:20:23.83 ID:rdZeeh9k
美作の毛利方の城・高田城は、、尼子再興軍と結んだ同国の蘆田、三浦といった国人に攻め立てられ、
毛利は香川光景を美作守とし、大将として新たに派遣した。

蘆田、三浦らは宇喜多和泉守(直家)にも支援を受け毎日のように城下まで攻めこみ、度々足軽の迫合が
あった。この状況に高田城内も動揺し、城の二の丸に熊野入道という者があったが、彼は元来出雲の者で、
尼子に志を通じて、兵糧蔵に火を掛けて敵陣へと立ち退いた。これにより城兵は、殊の外騒動した。

そんな中、城中に佐伯七郎二郎という、大力で知勇優れた者があった。かつて尼子が月山富田城に
籠城していた折、山中鹿之助が自分の下に付けたいと懇望し、妹を嫁がせたほど評価していた人物であった。

そして今、尼子再興の時節であるため、彼が再興軍に志を通じることもあると香川光景は疑い、
佐伯の下僕で、12,3歳ばかりの者を近づけ、折々酒食などを与えよく懐け、その後、様々なことを
尋ねてみると、この下僕は言った。

「三の曲輪の懸出の雪隠の下より、文を持って通う者が居ます。」

香川はさてこそと思い、宗像三郎左衛門、江戸三郎右衛門などに下知して、
かの雪隠の周りに伏兵を置いて待ち受けていた所に、敵が一人忍びきたのを、たちまち絡め取って
持っていた文を見ると、それは尼子方の蘆田五郎太郎の文であった。

これによって佐伯の逆意紛れ無しとなったがしかし彼は優れた力量の持ち主であったので、
たやすく討ち果たすというわけにはいかず、各々詮議して、先ず矢倉の普請を言いつけ
佐伯に奉行させて、その虚を窺って斬り殺すべしとし、討ち手の者達に言いつけたが、
佐伯は以ての外に用心していて少しも油断の体がなく、討ち手の者達は隙を窺うことも出来なかった。

ここで、香川光景の次男・兵部大輔春継が普請場に出て、佐伯とともに矢倉で工匠の働きを監督していたが、
佐伯の気が緩んだ所を見計らい、抜き打ちに、眉間を二刀打った。

佐伯、とっさに矢倉より飛び降りたが、痛手を負っていたためそのまま倒れた。しかしそれでも
刀を抜こうとしていた所を、兵部大輔が続けて飛び降り、その腕を切り落としたため、佐伯は
刀を抜くことも出来ず討たれた。
品川市右衛門はこの時離れた場所に居たが、この様子を見て走り来て、佐伯が倒れた所を斬りつけた。

(芸侯三家誌)


尼子に通じた佐伯七郎二郎を謀殺した折の逸話である。




安芸武田氏の滅亡と香川光景

2014年10月01日 19:00

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 12:58:48.12 ID:7JEovelS
安芸香川家は鎌倉景政の子孫にあたり、讃岐香川家の一族でもある。
香川方景の代から安芸武田家に仕え始めた。

方景の曾孫にあたる香川光景という者がいた。
彼が安芸香川家の当主として君臨していたころ、安芸武田家の重臣である熊谷家が離反し滅亡へまっしぐら、家中は分裂状態であった。
そんな中、武勇優れていた武田光和(何故か蒼天録では政治20統率12知略9)が病死してしまった。(光和死亡年は1535年とも1540年とも)

ここにきて香川光景は品川家と対立し、完全に安芸武田家は分裂してしまう。
光景は安芸国内を駆けずり回り、奇跡的に光和の庶子(三男)・小三郎(のちの武田宗慶)を見つけだし、毛利元就に助力を乞い、安芸武田家の復興を目論んだ。

光景は結局これ以降子と共に毛利家に仕えることになり、安芸武田家の復興もできなかった。
しかしながら、武田宗慶は元就によく仕え、その子孫は周防武田家となり今日東広島市と呉市に学校を経営している。

滅亡してしまった仕えた家を後世まで命脈を伝えさせた忠臣のいい話。


と、話はこれだけで終わると思っただろうが、ここで俺は1つ驚きの事実を発見した。
香川光景が国司元相・平賀元相の99歳コンビより長く生きた可能性が出てきたからだ。
光景の次男・春継は1545年生まれ。
弟ともされている勝雄は1515年生まれ。
光景自身は1605年に没したとされている。

彼の生年がわかる史料が見つかればもしかすると新たなる100歳超武将と判明するかもしれない。
たとえ80代・90代と判明しようが、十分長寿だけどね。


宗慶は玖珂町誌より一部抜粋。

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/01(水) 13:04:37.28 ID:7JEovelS
安芸香川家一族一覧

経景承久の乱勲功1180~1190生?
景光 1210? 弟景則子孫讃岐香川家
安景 なし?
清景(景信?) なし?
行景 なし?
景光 なし?
遠景 1240
景春南北朝 1280 兄行景あり
景信足利尊氏仕 1320
師景今川貞世属1391明徳の乱 1370?
方景応仁の乱時当主 1420?若くても1440生 かの播磨屋では二代欠落と見ている
吉景 1450~1460生?
元景兄行景1517戦死 1480?
光景?-1605 1505?蒼天録1502生 武田元繁・光和・信実、毛利家仕 伝弟勝雄(学雄と同一人物か)1515生
広景弟春継1545生 毛利家仕

安景~景光の4代は略されて無い場合あり




香川光景、厳島合戦の論功行賞にて

2011年11月21日 22:00

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/21(月) 08:14:24.02 ID:O5OCu3zQ
厳島合戦が寡兵の毛利勢の大勝利に決し、論功行賞を行っていたときのこと
毛利元就が以前から「家臣にしたい」と言っていた大和伊豆守を殺すことなく生け捕った香川光景は、
期待に胸躍らせて元就の前に進んだ

元就「ようやったのう。ワシがかねてから言っていたことを乱戦のさなかに思い出し、
   あの大和を見事捕虜にしたとは大したものじゃ

   だが、ワシャぁな

   オマエのことを頼もしく思って、譜代でもないのに国境の要衝を任しとんのじゃ!
   陸から攻められようもんならイの一番にオマエんとこの城が狙われるじゃろうが!
   それを開けっ放しにして厳島に出てくる、ちゅうのはどういう了見じゃい!」

褒めてもらえると思っていたら烈火のごとく怒られたでござるの巻き
しかし香川も、平伏しながらも黙ってはいなかった

香川「大殿のお子さんらも全員この決死の戦に出てきとるでしょーが!
   今回負けたら御家滅亡になりますじゃろがい!
   皆死ぬんなら、ワシだって及ばずとも戦って、一緒に死のうと思っとりました
   また、勝つのでありゃァ城の一個や二個奪われようとも、取り返しゃァ済むことじゃ
   城にいるウチの女房子供が殺されようが捕まろうが、知ったことじゃありませんわ
   大殿や御一族と生死存亡を共にできなくて何が忠義じゃ!」

勢いに押されたのかもっともだと思ったのか、元就は香川の格別の忠節を褒め称え、
重ねて手柄を褒めたので、香川は満足して、喜色満面で退出したのだった