家康は利根か

2017年09月22日 19:09

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 15:43:53.29 ID:SmL/qRqe
ある時、穴山梅雪が馬場美濃(信春)の向かって聞いた

徳川家康というのは、人に優れて利根な人物か?」

これに馬場美濃
「なんという不案内なお尋ねか。

謡、舞、或いは物を読んでその理解が早いことを利根といい、
その所作がらが良いのを器用とも利発とも言います。

座配や時宜についての仕様が良く、大身とも小身とも、付き合って一つも軽薄な所がないのを
利発者、あるいは公界者と言います。

芸の理解が良くなく、座配なども良くないが、武義について勝れた者、放し打ちの一度も二度も
致したような者を利口者、
槍脇を勤め首尾の良きこと2,3度有れば甲斐甲斐しき者と言います。
そしてそのような働きが重なれば兵者(つわもの)とも、覚えの者とも言い、
その覚えが重なると、大剛の者、
その人物に、さらに分別工夫が有ればそれを名人と言います。

徳川家康は三河一国から遠江まで手をかけ、日本の弓矢取りの中でも若手の代表格と言えるでしょう。
そういった人物に対し、利根かどうかと尋ねるのは、いかがなものでしょうか?」

この話の内容から考えるに、利根、利発、利口、覚えの者、大剛の者などという区別であるが、
馬場の言っている理屈も正しいとは言い難い。これはその当時の、世俗における理屈を伝えている
だけなのだろう。

ただし、何事でもその道々に定まった言葉というものがあり、その弁えなく使ってしまっては、
その言葉の持つ意味が消えてしまう。
そういった意味で、例えば同じ学問僧を指す言葉であるが、教家においては所化と呼び、
洞下においては江湖と呼び、開山派では衆寮と呼ぶように、その品によってその言が変わるのだと
心に付けて、言葉に気をつけてその説を詳しく説明すれば、みだりな言葉の出ることは無い。

そういった中、「武辺者」という言葉を定まったものとして使う向きがあるが、この意味合いも
東西都鄙によって別であり、家によっても変化する。その文字の字義、理えお正し、言葉をみだりに
致さないこと、これも君子の戒めの一つである。

(士談)

言葉を使う時はその意味や定義をきちんと押さえておかないといかんよ、というお話



248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 16:45:29.09 ID:j6deZQvo
いちいち呼び変えるのって大ふへんだなぁ

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/22(金) 17:38:47.63 ID:OQHDg4wR
なるほど、儒者の書きそうな書物だ
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「武田の弓矢は今、頂上に登った」

2017年05月15日 12:09

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 09:52:56.00 ID:LUvPc2Sq
武田信玄が北条と、駿河国薩タ山で対陣した。
正月18日より4月20日までの、93日間の対陣であり、その間日夜競り合いがあった。

武田軍は一番より十番まで、一手切りに足軽を配備していたが、跡部大炊介(勝資)がこの番に
当たっていた日、北条軍の松田の兵に押し立てられ、二町ばかり敗北し、さらにその場に押し留まった。

このため武田信玄は馬場美濃(信春)に対処を命じた。
しかしこの時、馬場の兵は僅かに百騎あまりであり、跡部の三百ばかりの救援には如何かとあって、
彼はこの役割を内藤修理亮(昌豊)に譲ろうとした。しかし内藤は
「あのように気負った敵に対するのは、馬場ならではである」
そう言って辞退したため、結局馬場がこれを請けて現場へと向かった。

現場に向かうに先立って、馬場は「大炊介は早々に引き取るように命じてください」と望み、
信玄は百足の指物の衆を出して、その通りに申し渡した。

馬場は己の兵を3つに分けると、一手は敵に向かい、足早に撤退する跡部の軍に付いてくる敵軍を、
跡部と交代して引き受けた。
一手は脇より横筋から弓鉄砲にて懸った。これにて松田の軍2500は悉く崩れた。
最後の一手は後備えにて、この場所の武田の備えを回復し、さらに敵の二の木戸まで押し込み、
引き上げた。馬場一大の深入りであった。

「面白さに我を忘れてしまったよ。」
これは合戦の後、馬場が内藤に語った言葉である。
信玄は馬場の戦いを、「武田の弓矢は今、頂上に登った」と評した。

(士談)



903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 10:14:54.19 ID:wjrkMz9Q
頂上に達したら下るだけ、と突っ込みたくなった

馬場美濃守が言うには

2015年02月27日 18:37

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 08:51:26.56 ID:83Rm2EW+
信長・家康が勢いに乗って後を追ってきたら、信濃の中まで入れて一合戦しましょう。
そこでは敵は大軍といえども、勝頼公の勝ちは必定でありましょう。」
と申すと、長坂長閑殿は、
「新羅三郎公より武田始まって信玄公までの二十七代の間、敵を見て軍勢を引き込むことは無かったので、
二十八代勝頼公の御大に軍勢をひくのはいかがかと思う。」
と言い、勝頼公はその意見に賛成し軍勢を引き入れなさらなかった。

 次に馬場美濃守が言うには
「それでは長篠の城を力攻めしてはどうか、味方の死傷者は千人出るであろう。
すると、この長篠の城には多くて鉄砲五百丁あるであろう。
ならば、一時攻め寄せるなら、始めの鉄砲で五百人討ち死にし、二番目は慌てて撃つのであろう。
これは手負いが五百人、合わせて死傷者が千人は出るであろうが、そのうち死傷者が少しは少ないかもしれない。
それを機会に軍勢を引くことがもっともである。」
また長坂長閑が言うには、
「『味方の一騎が討たれたら、敵の千騎が勢いを得る』と言われているように、この大軍を引受けて、味方千人を失うのはいかがか。」
これも勝頼公は長閑殿の意見をもっともであると思われた。

 また馬場美濃守が言うには、
「そうであるなら、城を攻め落とし、敵を追い出して、城に御屋形様を置いて、
逍遥軒公を始め御親類衆を尽く後ろに陣を敷いて、総勢を御旗本の先鋒とし、
山県と内藤と拙者の三人が、川を越えて、時々の競り合いをして長期戦に持ち込めば、
味方は信州から人夫の運送が近くてよいが、敵は河内・和泉の軍勢もあるので、長く陣を張れず、
最後には信長は引き上げるでしょう。」
長坂長閑が申すには、
「馬場美濃の判断は悪い。信長程の大将がただ引くであろうか。押しかけて戦をする時はどうするのだ。」
馬場美濃が言うには、
「そうなれば合戦をなされないのは叶わぬことであろう。」
長閑が言うには、
「むこうから仕掛けられて合戦するのも、こちらから進むのも同じであろう。」
長閑の意見に勝頼は大きくうなずいて、
「御旗・楯無よ、明日の合戦は延ばさぬ」
と御誓文を立てられた、御旗は八幡太郎義家公の御旗である。楯無とは新羅三郎公の御具足である。
(甲陽軍鑑)




479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 09:57:03.08 ID:bOUTJH8i
馬場さんは一体何を言ってるんだ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 09:58:31.70 ID:Zm7NHSqI
長閑は批判するだけで代案は出さんのじゃの


馬場さんはどうにかして撤兵したかったんでしょ

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 10:32:29.86 ID:zNeTheTz
武田の軍勢で死傷者一千も出したらその後がガタガタになりそうな

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 13:09:32.43 ID:/it2LZ40
死傷一千でガタガタなら信玄時代にとっくに崩壊
してる様にも思うけど

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 14:17:20.82 ID:zcdkFO7v
長閑の言うことは尤もなのに
おかしく聞こえるのは軍鑑だからか

鉄砲が五百あるからって最初の一撃で五百死ぬってどうなのよ

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/27(金) 14:20:35.76 ID:VjeZRkmf
>>480
勝頼は主戦じゃからの
代案ださんのは主君の意向に従ってるのよ

町人という奴らは

2014年11月24日 19:42

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 00:44:25.78 ID:y+GediFy
ある時小山田弥三郎がこう申した
「馬場殿(信春)、内藤殿(昌豊)、山縣殿(昌景)、高坂殿(弾正)聞いてください。
町人という奴らは武辺のことも、力の強い者ばかり手柄をすると思っているようで、
普広院殿(足利義教)を討った赤松右京太夫(満祐)を贔屓の町人が、これを褒めて書いた書物に、
赤松の力を三百人力なんて書いてありましたよ。」

そう言って笑った所に、馬場美濃申した

「ならば我々侍衆が商いの雑談をするときは、そのような不案内なことが多い。であるから
町人は侍のことをおかしく思い笑うのだ。
その道々によって、家業ではないものを取り沙汰すると、可笑しくなるものなのだよ。」

(甲陽軍鑑)




239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 01:21:48.16 ID:1NJ9pL/0
あるある系だな

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 02:37:36.19 ID:np/t14KB
>>238
兄貴の弥三郎信有だね

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 03:23:08.45 ID:wYDw5PAS
親父も信有(出羽守)でややこしい

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 05:45:46.78 ID:aquGLh07
至極普通の雑談も載っているんだな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 10:57:52.13 ID:VtyZGG8U
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4590.html?sp&sp
出典はないけど一応前に出てるな

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 12:40:20.44 ID:1NJ9pL/0
>>242
じいちゃんも信有(越中守)

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 12:58:55.64 ID:W6FwY664
朝倉、河野、福原、小山田家は累代諱かぶり四天王

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 15:43:36.06 ID:aquGLh07
力が何人力とか 身長が何尺とか 鬼のような形相とか
きっとみんな商人が広めたデマなんだろうなw

家康の運命について

2014年11月03日 18:06

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 00:19:27.88 ID:kjKdqvYr
ある時、長遠寺での振る舞いに、武田信玄の重臣である馬場美濃守、内藤修理正、高坂弾正、山縣三郎兵衛、
原隼人佐、小山田弥三郎などの大身衆が寄り集まり、一日雑談したことがあった。
ここで

「山縣三郎兵衛殿は駿河江尻の城代であるので、遠州浜松の徳川家康の噂をよく聞いておられます。
また内藤殿には関東の安房、佐竹、会津のことを語っていただきたい。
小山田殿は小田原の近くなので北条家のことを語っていただきた。
高坂殿、馬場美濃守殿は越後、越中までのことを語っていただきたい。」

そう促され、山縣が先ず家康のことを語った。
「徳川家康は今川義元公が討ち死にされてより以降、ここ10年ほどで国持と成った者ですが、駿河の
全盛期の作法を幼いころから見聞きしたためでしょうか、信玄公が奉行衆を使って公事(裁判)を
裁く様子に、少し似てきているようです。彼の公事の裁きは、どのような訴訟であっても珍しき事は
聞きませんが、それは家康が最近になって国持に成ったためでしょう。我々が感心するような裁きは、
あと十年過ぎても無いでしょうね。

ところであの若い家康が申し付けた三人の奉行ですが、それぞれ三様の性格の者に言いつけたようで、
仏高力・鬼作左・どちへんなしの天野三兵などと、浜松にて落書が立ったそうです。
昔、私が未だ三十ばかりの時、信州更科の奉行に、まだ若き武藤殿、櫻井殿、今井殿だけは
宿老でしたが、今福浄閑は中老でした。この四人、歳も性格もそれぞれ違った人達を、信玄公が
奉行に申し付けた事に、この頃の家康が少しずつ似ているのは不思議なことです。」

これに馬場美濃、内藤、高坂らは「家康は只者では有りませんね。」と言い合い、
中に馬場美濃が語ったことは

「家康の今後の身の上について、私は思うところがある。この美濃の生命をあと20年ほど生かしてもらい、
この考えが当たるかどうか試したく思うが、20年生きれば80歳に今少しとなる。金の鎖でつないでも
叶わぬことを願ってしまったな。」

そう言って笑った。これに高坂弾正が「家康の今後の身の上を、馬場殿はどのようにお考えなのですか?」
と尋ねた。すると馬場美濃守
「おやおや、弾正殿は私よりも先に、それについて考えがあるのでしょう?」と言った。

ここで小山田弥三郎が手を合わせて
「御両所の考えを、願わくばお聞かせいただけないでしょうか?」としきりに所望した。

そこで高坂弾正
「美濃殿の考えを承りたいので、先ず私が下座から申しましょう。
家康は今、織田信長と二世までの入魂と言っていい関係で、双方が加勢を助け合い、それ故に二人の関係は
堅固です。ですが信長は今や、敵は上方十四ヶ国の間に、信長に国を取られていなくても、あえて
信長の分国に攻め込もうと考える武士は一人も有りません。それ故に、次第に現在のような大身となりました。

一方、家康はいつまでも三河一国、遠州の3分の1だけならば、終には家康は信長の被官のようになり、
信長はそれを喜ぶでしょうが、仮に明日にでも信玄公が亡くなられた場合、信長は安堵し、
今でこそ家康を、嫡子の城介殿(信忠)と同様に思っていると、献上された3つの大桃のうち一つを
贈る程ですが、強敵・大敵である信玄公が居なくなれば、信長は家康を殺すでしょう。
もしそうならないのなら、家康の果報というのは少し考えがたいほどです。」

これを聞いて馬場美濃は大誓文を立てて「私もそう思う。」と言った。
内藤修理も同じ意見であると誓文を立てた。

(甲陽軍鑑)

家康の運命についての、武田家家中の予測である。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 09:08:11.50 ID:JaF+NvrO
無知ですまんのだが「馬場美濃は大誓文を~」とあるが
この(大)誓文って起請文って理解で合ってる?
ただの雑談中の意見交換でなんで起請文を出すの?

軍法というもの

2014年10月15日 18:50

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 21:00:58.05 ID:qBeoyuNj
ある時穴山殿(信君)が馬場美濃(信春)に問われたことがあった

織田信長は今や天下を意見するほどの人です。ところが聞き及ぶ限りでは、彼の軍法で
人の手本に出来るほどのものはひとつも有りません。これはどういう事でしょうか?」

馬場美濃はこれに答えた
「信長の敵は、美濃衆に7年ほど手間取ったばかりで、残りは皆信長に怯えた人々ばかりでした。
なので軍法も必要としなかったのです。
それに信玄公は上杉輝虎との間で、おおかた世間にあるほどの手立て、はかりごとは行いましたので、
他国の弓矢の事は御当家において、さほど面白く感じないのです。

織田信長は今年38歳。天下も三好殿を押しのけ、都のことで本当に自分の意見を通せるようになったのは
去年7月からのことです。

軍法というものは大敵、強敵に逢っての手立てですから、信長は国を隔てているため、信玄輝虎とは
終に武辺の参会が無く、なかんずく只今は信長の嫡子城之介殿(信忠)を信玄公の御聟にとある
縁辺であります。であるに付き信長が手立てを考えねばならない敵はさほども有りません。

12年以前の今川義元との合戦の時、信長は27歳で無類の手柄を立てました。そのころ信長は小身であり
若かったので、大敵には様々なはかりごとを使って勝利を得ました。

はかりごと・手立ての軍法がない弓矢は、例えば下手が集まって行う能を見物するようなものです。
失敗するんじゃないかと思い、見ながら危なく思います。

信長の弓矢は、美濃国と7年の間取り合いをして武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上殿(義清)との取り合いで武功の分別を定められました。
村上殿は信州の内四郡、越後一郡の、合わせて五郡の領主でしたが、広い国であるため
彼の支配地は甲斐一国の一倍半ほどもあり、その上強敵でした。

現在我々と対立している徳川家康は、今の日本国において北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長
四大将に続く存在で、名のある大将十三人を選べば、おおかた家康はその一人に入るでしょう。
我々は今年か来年の間には、その家康と必ず一戦せねばなりません。
でありますから、織田信長も後のことを考え、今でこそ当家と縁辺の無事を保っていますが、
家康に信長が加勢すれば、我らは両家を相手にしなければならなくなります。

信玄公が合戦を遂げられ、京都までその誉れを輝かせるためにも、ここでは猶以って軍法が必要となります。」

そう申し聞かせたのである。

(甲陽軍鑑)




馬場信春「ここには自分勝手に来たので」

2013年11月04日 19:04

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 20:15:13.20 ID:mwjttES5
1569年の武田による小田原包囲から4日後
信玄は宿城を焼き払うよう命じ、内藤昌豊は商家、民家まで片っ端から火をかけていた。
その時、信玄の陣にいた馬場信春が信玄に「松田尾張守の家は城下より、離れたところにありますが、やはり焼いた方がいいですか?」と聞いた
(城の近くを焼くのは兵法であるため)
信玄「ん~どうしようか?焼いたら後で詰るかな?」と悩んだ。
それもそのはず、この松田尾張守は赤具足で暴れまくる事で有名だったのである
さすがの信玄もそれで悩んでいたのだ

それに対し馬場信春「それではこうしましょう、私は元々牧島の留守を命ぜられた者、ここには自分勝手に来たので、勝手に振る舞いましょう」と
松田さん家を全焼させてしまった

と一旦ここで終わり皆引き上げて行ったのだが、小田原の外れで家を全焼された松田尾張守の一族の1人、境川蔵人が追撃し馬上から
「勝負!勝負!」と叫ぶも、武田軍は総ガン無視、帰還したとさ

松田尾張守(とその一族)の悪い話
関八州古戦録から




645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 21:23:27.35 ID:NhPVn3Ot
馬場さんは燃やすのが好きやのうw

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 23:21:30.64 ID:sChgrsKX
赤鬼さんは追わなかったのか

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/04(月) 10:58:04.03 ID:n8N2BR16
赤鬼さんは甥っ子だからなあ
一族とはいえ憲秀の家とは別にちゃんと活躍してる家だしな

敵と向き合う心がけ

2013年03月24日 19:04

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 20:00:33.26 ID:90sbCDzh
甲陽軍鑑に書かれている話だ。
ある者が、
「敵と向き合うと、わたしは暗闇に入ったような心地になる。
そのせいなのか、合戦ではよく手傷をおう。
あなたは幾度も手柄をあげておられるが、
手傷をおうということがない。
なにか心がけしていることがおありか」
と尋ねた。尋ねられた者は、
「わたしも敵と向かったときは暗闇に入った心地になる。
その時、ふっと少し心を沈めると、朧月夜くらいになってくる。
それを待ってから斬り込んでいくから、
手傷をおわないのではないかと思う」
と答えた。

いざというときにその者の会得した極意があらわれる。
この返答をした者は、馬場美濃守だとのこと。
詳しい話は『古老物語』に書いてある 【葉隠】

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/23(土) 20:04:44.00 ID:90sbCDzh
余談だが、
『武士道』という言葉が歴史上最初に表記されたのは甲陽軍鑑だとのこと






馬場信春の信長公記での活躍について、そしてその考察

2012年10月03日 20:27

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 04:23:11.74 ID:703xjnuS
馬場信春の信長公記での活躍について

馬場信春は実際の活躍が極めて不明な中、信長公記にだけは「中にも馬場美濃守手前の働き比類なし」と活躍が記録されている。
では信長公記における「比類なし」と称えられた働きとはどのようなものだろうか。
織田家以外の武将で同様に称えられた武将を見てみよう。


林弥七郎

林弥七郎と申す者隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き侯ところへ橋本一巴鉄炮の名仁渡し合ひ(中略、過去スレ弓vs鉄砲参照)
林弥七郎弓と太刀との働き比類なき仕立なり。

美濃屋小四郎

(三好勢により将軍義輝殺害、さらにその弟の足利周暠も殺害、美濃屋は周暠に特に目をかけられていた家臣)
美濃屋小四郎未だ若年十五、六にして討手の大将平田和泉を切り殺し御相伴仕り、高名比類なし。

三好左京大夫義継

御女房衆御息達みなさし殺し、切つて出で余多の者に手を負はせ、
其の後左京大夫殿腹十文字に切り、比類なき御働き哀れなる有様なり。

高橋甚三郎景業

(朝倉)義景に腹をきらせ、鳥井与七高橋甚三郎介錯を致し両人の者も追腹仕り侯。中にも高橋甚三郎が働き比類なきの由に侯。

諏訪勝右衛門女房

諏訪勝右衛門女房刀を披き切つて廻し、比類なき働き前代未聞の次第なり。

土屋右衛門尉昌恒

武田四郎勝頼若衆土屋右衛門尉、弓を取りてさしつめ引きつめ散貼に矢数射尽し能き武者余多射倒し追腹仕り、高名比類なき働きなり。

武田麟岳

りんがく長老、中にも比類なき働きなり。(麟岳は如意山宝珠寺の住職で勝頼の従弟であり、敵を9人斬って死んだという。)


このように概ね個人的武勇を示して討死した者を「比類なし」と称える場合がほとんどである。
また三好義継を除いては一軍を率いるほどの大将はおらず、
出家した僧や女性までも含まれている。

馬場信春も同様だとしたら、彼の姿も見えてくるのではなかろうか。




684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 07:34:38.20 ID:SFQprfYR
多分、前と同じ方だと思うけど一応
他の方々、度々の長文のややスレ違い、ご容赦下さい

まず、信長公記の長篠の合戦の項目に
武田勝頼の部下が攻め寄せる様が記載されているけど
それによれば一番手が「山県三郎兵衛」(昌景)、2番手が「正用軒」(武田信廉)
3番手が「西上野小幡一党」、4番手が「典厩」(武田信豊)と挙げられていって、
5番手に「馬場美濃守」が「推太鼓にてかかり来り、人数を備へ、右同前に勢衆討たれ引き退く」とあるから
この記載からも「馬場美濃守」が大勢の部下を持ち、
武田方において山県昌景、武田信廉、武田信豊ら
有力武将と並べられる格をもった部将であったことが分かります
信長公記の記述から、馬場信春が一武者に過ぎなかったって解釈するのは無理があるでしょう

まとめると一次資料と信頼性の高いといわれる信長公記の記載だけからも、
(>>623にもあるけど)馬場美濃守が牧之島城代を務めていたのはほぼ間違いなく
(ちなみに>>619では甲陽軍鑑の記載上で馬場美濃守は城代経験がないとおっしゃられているけど
甲陽軍艦にも品33に「信玄公馬場美濃守をめし、信州まきの島城代に被仰付候」(原文ママ)とあって
城代であったことが明記されてます)
武田御一門衆の重鎮武田信廉、武田信豊、宿老中の宿老山県昌景、上野の有力先方衆小幡一党と
並べられる武将であったことが分かりますので、
馬場信春に関する一次資料が少ないとしても、こうした武将がただの平武将だと理解するのは困難です

あと一次資料が少ないことに関して、多くの方に誤解があるようなので付言しますと
武田の直臣関係の史料は、武田家が滅亡したこともあり残りが悪く、
かつ従来学会において、(武田家に限らず)大名自身に比べ、その家臣団に対する関心が薄かったため、
家臣クラスが出した文書の集積分析が現状発展途上であり、むしろ一次資料が少ないことの方が普通です

だから家臣クラスの実態に関して、
一次資料が少ない→ほかの逸話は全て創作だ、とするよりは
一次資料からここまでは分かる→他の詳しいことは不明ながら、今後の研究の発展を待ちましょう、
とするのが今のところは穏当なのではないでしょうか

このスレはまとめサイトを通じて比較的影響力が強いため、偏向した認識が広まるのを恐れて
ややスレ違いながら長文書き込みいたしました
お目汚し失礼いたしました



参考
雑談・甲陽軍感について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6842.html


685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 08:02:50.09 ID:pNp2QEwi
逸話を楽しむことと、知識の偏向は違うから >>684 さんの姿勢は
良いことだと思いますよ。

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 09:15:26.49 ID:yBCynJqv
将軍家からもらった感状の姓が違ってたけど、そっちに改姓しちゃった人もあるからな~
上の間違いへの対応は、今も昔も難しいよね~

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 09:40:03.89 ID:qrUiVBrA
>>684
乙です。勉強になります。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/03(水) 10:46:44.91 ID:DFAL9Sec
評価が極端に振れるのはよくある事だな、「戦国最強武田軍団!!」と、「戦国最強(笑)武田軍団(笑)」なんて。
まあ、だいたいそんな両極端なのは淘汰されて>>684みたいに落ち着くよね。

「不死身の鬼美濃」馬場信春

2012年09月30日 20:12

619 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/30(日) 15:55:03.14 ID:T6lieRIp
甲陽軍鑑といえば間違いが多く、その記述内容は極めて信憑性が低いと言われる。
とりわけ山本勘助の活躍はその実在すら疑われるほど怪しいものなのは周知の通り。
しかし甲陽軍鑑の怪しさはこれだけにとどまらない。
その活躍が怪しい人物がもう一人いるのだ。

その人物とは、「不死身の鬼美濃」で知られる馬場信春

武田四名臣の一人とされ、甲陽軍鑑の中でもさかんに信玄に助言するさまが描かれる。
しかし実際の活躍の記録は信長公記での長篠の合戦の記録にとどまる。
三方原の合戦の後、信春が800の手勢で信長軍1万を退けたという話もあるが、これも明白に誤りである。
なぜならこの戦いで美濃岩村城を信春が落としたことになっているからだ。
実際の岩村城は三方原以前に武田方に降っており、三方原後秋山虎繁が入城しており、馬場の記録はない。
さらに馬場発給の竜朱印状はなく、政治的に高い地位にいた記録はない。

実は甲陽軍鑑の中でもよく読めば馬場の地位の低さが見えてくる。
他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
また他の将がいずれも城主、城代経験があるのに対し、馬場はない。
さらには築城術を山本勘助から教わったなどという怪しい話が残るばかりである。




620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 16:00:35.30 ID:5uAaIze5
まあ講談でお馴染みの武将ってそういうの多いからなあ

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 16:05:12.89 ID:XjEq5PrD
深志城代じゃなかったの?

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 18:26:43.69 ID:q0viYpZX
無名の人ほど尾鰭ついたエピソード作りやすかったのかなぁ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 20:45:05.61 ID:/SVpEYRs
んーどこから突っ込んだものやら…
以下、ややスレ違いかつ長文の為、適当に読み飛ばしてください

まず甲陽軍鑑は、近年の研究によれば、国語学的には、その語彙は江戸期ではなく戦国期の語彙が多くを占めており
書誌学的研究からは、編者とされる小幡景憲がかなり原資料に充実に書写を行っていたことが、明らかになっていて
少なくとも(関係者の多くが生存していた)元和年間の認識が反映された、
武田時代の史料や関係者からの聞き取りを踏まえた記述を含む史料である(丸島和洋氏)といった感じに、
かつての通説が言うほどいい加減なものではなく、
一定の配慮・留保はしつつも以前よりはやや肯定的に評価するのが最近の学会の風潮になっている

で、馬場については、
>>他の四名臣や秋山、原昌胤などは20代で150騎ほどを与えられているが、馬場は32歳でようやく50騎である。
馬場は、他の4名臣や秋山、原昌胤と比べると15歳くらい年上だから
馬場が25くらいの時期、ようやく晴信がクーデターを起こして甲斐一国をまとめ挙げた段階
他の武将は、20代の頃、信濃への侵攻を重ねて武田家の所領が急速に拡大している時期にあたり
若くても出世しやすかった
実際、この時期に馬場も120騎持ちに加増されたと甲陽軍鑑にも記してあったはず
異なる時期・状況での麾下兵力を比べるのは誤解を招くのではなかろうか

あと信春が少なくとも牧之島城代だったことは間違いないはず
武田勝頼の代に牧之島城代を信春の息子とされる「馬場民部少輔」が務めているけど
(勝頼が馬場民部少輔の同心衆に軍記粛正を指示する文書が残っている)
父の後を継いだ以外に考えられないし

馬場信春がその知名度に比べてえらく一次資料が少ない謎な人物であることは確かだけど
だからといって、「怪しい話」で一括りにしてしまうのはいかがなものか

ややスレ違いな長文失礼しました

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 23:12:03.26 ID:KqbV6UIN
そういや馬場美濃守って、諱は確定したんだっけ?

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 23:35:46.45 ID:eh+JOYTU
>>632
日向なのか大和なのか・・・


637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 01:03:58.13 ID:keNEq6Ue
日向(ひなた)氏、だろ

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 07:14:07.26 ID:PA4vPWOX
内藤さんは感状スルーされるわ、馬場さんはそんな偉くなかった可能性あるわ、

武田四名臣は五人で龍造寺四天王の逆バージョンだな
二人はプリキュ…武田四名臣!

ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐を

2010年09月03日 00:01

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/01(水) 23:54:14 ID:6/ABmZ/y
小山田信茂が馬場信房にこう言った。
「ご存知ですか。町人どもは将軍義教を殺した赤松満祐
三百人力なんて言ってもてはやしたそうです。
アホですよね、手柄を立てる奴は怪力だと思ってるんですよ。」

これに馬場は答えた。
「逆もまたしかりではないだろうか。
町人どもは侍が商売についてあれこれ言うのを馬鹿にしていることだろう。
自分がよく知らないことをどうこう言えば、誰とてそうなる。」




833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/01(水) 23:58:49 ID:qbf46KH+
小人で有名だった赤松さんね