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徳川家康の鷹狩のスケジュール

2020年10月06日 18:06

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/06(火) 16:16:17.61 ID:KnRn4aXP
慶長十七年正月

七日、今日より三河国吉良で御鷹野を成されるため駿府を出発された。この日は田中まで進まれた。
八日、相良でお止まり宿された
九日、横須賀に到着された
十日、中泉に到着された。この晩、織田有楽が江戸から帰る途中、ここに於いて家康公に御目見得し、
   鷹狩で得た鶴を賜った。また上洛することを仰せに成ったという
十一日、当所で御鷹場のため御逗留
十二日、浜名に到着
十三日、吉田に到着、城主松平玄蕃頭に銀百枚を賜る
十四日、吉良に到着(中略)

十六日、御放鷹。今日青山図書助が御使いのために来た。これは御鷹野の御見回りと云々。
    京極若狭守忠高、同丹後守が使者を以て御服并びに嘉肴を献じたという。
十七日、御鷹野。今日、鷹の捕らえた鶴を仙洞御所(上皇)に進上、また伝奏の広橋兼勝、勧修寺光豊には
    鷹の捕らえた雁を各3羽ずつ遣わしたという
十八日、御鷹野。鷹の捕らえた鶴を秀頼公に贈るという
十九日、御鷹野。今日成瀬隼人正、竹腰山城守に、駿府に参るよう仰せに成った。これは名古屋の
    御普請についての仰せ付けと云々

二十日、岡崎着。城主本多豊後守に銀子百枚賜ると云々

二十一日、御鷹野。松平摂津守御前に出ると云々
二十二日、御鷹野にて得た鶴を主上(天皇)に進ずると云々
二十三日、御鷹野。成瀬隼人正、竹腰山城守が参ったと云々
二十四日、御放鷹。松平筑前守利光(前田利常)、御服二十領を献ずる。そして家康公の御鷹の捕らえた鶴が
     遣わされたと云々
二十五日、御鷹野。羽柴右近(森)忠政、緞子御袴を献上したと云々。
二十六日、大樹寺に御参詣。これは御祖父の菩提所であり、銀子五十枚を住持の僧に賜った。
     また正應寺(松應寺カ)にも参った。これは故大納言殿(松平広忠)の墳墓の所である。
     銀五十枚を院主が賜ったという。
二十七日、名古屋到着。

駿府記

駿府記より、慶長十七年一月、豊臣家との関係も割と安定していた頃の徳川家康の鷹狩のスケジュール。



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大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事

2020年10月04日 17:10

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:11:40.63 ID:ODrWroWV
慶長二十年五月八日
辰刻(午前八時頃)、片桐市正(且元)の使者が言上した所によると、秀頼并びに御母(淀殿)は、
大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)をはじめ、その他究竟の士と共に二之丸帯曲輪に引き籠もって
いるという。幕府(秀忠)は使いとして安藤対馬守(重信)に参上するように申し、彼に
「秀頼并びに御母、その他が帯曲輪に籠もっているが、彼らに切腹を申し付けるよう。」と仰せに成った。
午刻(正午)に井伊掃部助直孝を召し、秀頼母子、その他帯曲輪に籠もる者達は切腹有るべしと
仰せに成ったという。

(中略)

また戦場に於いて首実検があった、真田左衛門佐(信繁)首、御宿監物首、大野道犬首を、
越前少将(松平忠直)が持ち来たという。

十一日
長宗我部宮内少輔(盛親)が八幡あたりに置いて蜂須賀蓬庵(家政)の従者によって生け捕りにされ、
二条御所西御門前に、長宗我部は搦められたまま晒された。諸人これを見て「猪のようだ」と言ったという。

十二日
今回の大阪からの落人が国々に逃げ散っているため、これを速やかに搦め捕って引き出すようにと、
諸代官、守護、地頭に仰せ遣わされた。
今日、秀頼の息女(七歳)が京極若狭守(忠高)によって探し出され捕らえられたとの注進があった。
秀頼には男児が有るとのことも内々に聞き召され、急ぎ尋ね出すようにと、所々に触れられた。

十四日
今日、大阪奉行であった水原石見守が、二条御所の近辺に忍んでいるのを訴える人があり、
藤堂和泉守(高虎)が討手を遣わした所、石見守は覚悟を致してこれと戦い、寄手三人が切り伏せられ
戦死した。そして石見守の頸は西御門前に晒されたという。

十五日
今日、長宗我部宮内少輔が一条の大路を渡され、六条において梟首、三条河原に晒された。
また大阪残党七十二人が、粟田口、并びに東寺辺りで梟首されたという。

二十日
大野道犬が大仏の辺りで生け捕られ、真田左衛門佐妻が、紀州いとの郡に忍び居たのを、浅野但馬守(長晟)が
これを捕らえ差し出した。真田は黄金五十七枚を秀頼より給わり、また来国俊の脇差を所持していた。
これは御前に差し出されたが、但馬守が賜ったという。

二十一日
秀頼の子息(八歳)、伏見農人橋の辺りに忍び居た所を捜し出され、捕らえ出された。容貌美麗という。

二十三日
伏見より、将軍家(秀忠)が二条御所に御着きになり、御密談に刻を移され、午刻に幕下は還御された。
未刻(午後二時頃)、秀頼子息(八歳)、六条河原に於いて殺し給わった。
乳母の夫である田中六左衛門も同時に誅された。乳母は命を赦されたという。

二十八日
井伊掃部助、藤堂和泉守を幕府(秀忠)が御前に召され、金銀の千枚吹、分銅二宛が拝領された。
その上、御知行が下されることを直接に仰せに成られた。これは今度の大阪表、六、七日の合戦の
働きの功によるものである。

今日、片桐市正且元が病死した(歳六十)。駿府より申し来たという。

駿府記

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事



395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:27:43.11 ID:LT28x8Lw
大野道犬は2度死ぬ

汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので

2020年09月26日 17:53

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 17:01:50.27 ID:rnApk812
慶長十九年十月八日、今日、竹中伊豆守(重利)が御普請の隙が明き、江戸への参府のため
大御所(家康)に御目見した。この時大御所の仰せに

「汝は福島左衛門大夫正則の友人であるので、彼のもとに使いをしてもらいたい。その内容は、
今度秀頼が野心の巧を起こしたが、これは秀頼が行ったことではない。織田有楽、大野修理、
木村長門、渡辺権兵衛、その他若輩の者達が秀頼に悪逆を進めたのだろう。

正則は太閤に好まれていたことで、秀頼とも疎遠ではない。しかしながら今度の秀頼の別心について
どのように考えているかという事について、彼が我等父子に対して逆心など有るはずもないが、下々は
狐疑を作るものである。
であるので、手元より人数を国元に下し、息男である備後守(忠勝)を添えて、大阪表の攻め口に加勢し、
正則は江戸に在るように。」

と仰せになり、江戸に遣わしたという。

駿府記

正則をむしろ気遣っているっぽい



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 17:58:21.29 ID:FUSAutg7
そりゃあ広島49万石がトチ狂って大坂方に付かれたら大変だからな、気も遣うだろ

589 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/26(土) 19:04:56.47 ID:NnWHuGt1
有楽が野心の側近連中に加えられてるのね
まぁ息子がバリバリの過激派だしそれ掣肘してないしそうも見えるか

『駿府記』より、大阪冬の陣の勃発について

2020年09月24日 18:35

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 17:28:03.64 ID:tQa17/WK
慶長十九年
九月二十五日、今日大阪の片桐市正(且元)より駿府に飛脚が参着した。その状に云わく、
去る十八日駿河より大阪に帰り、御意の旨を申し上げ、末々将軍家と不和に成るのは如何かとして、
秀頼が江戸に在府するか、御母(淀殿)が江戸に在府するか、そうでなければ大坂城より退き、
御国替えが然るべしとの旨を申し上げたところ、これを秀頼并びに御母は不快に思われ、
市正を殺害するとの内存があると知らせてきた者が有ったため、出仕を止め引き籠もった、
という内容を上野介(本多正純)が上聞に入れた。大御所(家康)はいよいよご立腹なされた。

十月朔日、京都より伊賀守(板倉勝重)の飛脚が到来した。その状に云わく、去る二十五日、
大阪において大野修理、青木民部少、石川伊豆、薄田隼人正、渡辺右衛門佐、木村長門守、
織田左門、その他十余輩が、秀頼の仰せによって市正を殺そうとしたが、市正はこれを知って
私邸に引き籠もっているという旨を、本多上野介、板倉内膳正(重昌)が大御所に言上した。

これに対してご立腹甚だしく、大阪へ御出馬する事を、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江へ
仰せ触れられた。また江戸の幕下(秀忠)にも仰せ遣わされた。

また伊賀守より飛脚が到来し、その書状に云わく、市正が駿府に下向したなら。秀頼をも城から出して、
織田常真(信雄)を大坂城に入れ、彼を大将として籠城するとの旨を、織田左門その他が談合していると云う。

六日、京都の伊賀守より飛脚到来。織田有楽が伊賀守方へ一通の書状を遣わした。その書状に云わく、
今度の大阪の雑説について、市正の駿河への御使いの内容が悪しき故に、秀頼公が御折檻に及んだ所、
市正とその弟の主膳が摂津棘木(茨木・市正領)へ立ち退き、これによって大阪は以ての外の騒動と
なったが、我等は全く両御所(家康・秀忠)に対して野心は存ぜず、という旨が宣われているという。

七日、今日、片桐市正・主膳の使者である小島勝兵衛、梅津忠介が来て、大阪より茨木へ立ち退いた
事について、本多上野介を通して言上した。両使は召し出され、御服、御羽織を拝領した。
また御書が遣わされ、その内容は『今度佞人達が様々に申した事により、茨木まで立ち退いたとの事、
神妙に思う。なお本多上野介に報告するように。』というものだという。

駿府記

大阪冬の陣の勃発について。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 23:54:48.52 ID:T4NDgTeu
織田左門は頼長か、こいつ織田の血筋使って悪さしようとしてんなぁ
親父の有楽はさすがに状況のやばさ理解してすぐに書状送ってるのね

『駿府記』より、方広寺鐘銘事件について

2020年09月23日 18:41

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:18:37.90 ID:Nl3xNW4I
慶長十九年
七月二十一日、大御所が源氏物語の講釈を受けられた。飛鳥井(雅庸)が講読し、御数寄屋次之間にて
行われた。その後近習四、五輩、および伝長老、板倉内膳(重昌)の両人が召された。仰せに曰く
「(方広寺)大仏の鐘銘に関東不吉の語があり、また上棟の日も吉日ではない。」
とお腹立ちだったという。

二十六日、今日、片桐市正(且元)より一通の書状、并びに板倉伊賀守(勝重)の書状が駿府に
到来した。その内容は、

『方広寺大仏の供養を来月三日、開眼を十八日に成す予定であるが、その十八日には豊国臨時祭が有るため、
三日の早朝に開眼を行い、その後供養を行いたいのだと、秀頼が仰せに成っている』という。

大御所は「今度の大仏供養については、棟札といい鐘の銘といい、遺憾で不快である。
また往時源頼朝の時代も、開眼と堂供養の間は十年を隔てている。先例を考え、諸事後難無きように。」
と仰せ遣わし、本多上野介(正純)、伝長老がこれを奉った。

八月二日、方広寺大仏殿の鐘銘の正確な写しが駿府に到来した。中井大和守(正清)がこれを捧げた。
件の鐘銘は東福寺の韓長老がこれを書いたが、『国家安康』の語が不快であり、その他にも文章の中に
所々不快の語があった。一通を写し、これを江戸に遣わした。林道春がこれを奉った。

四日、大仏殿の棟札の写しが駿府に到来した。中井大和守がこれを奉った。照高院道勝法親王がこれを
書かれたのだが、大御所の御意に叶わず、ご不快にて、仰せに曰く
「鐘銘については、奈良大仏の鐘銘に准ずるべき旨を云っていたのだが、相違え、また秀頼より、
彼が出京するために、供奉の者たちを諸大夫に任じたいと云ってきたため、諸大夫に任官させたのだが、
その秀頼の出京は中止に成ったという。頗る不審である。」

五日、今日、大仏の鐘銘と棟札の内容を、大阪より片桐市正が大御所に捧げ、御前において、金地院崇伝が
これを読み、中井大和守が差し上げた。その内容はそれまでに報告されていた書付の内容と相違無く、
件の鐘銘の善悪について、五山衆に評価させ、それを書き記して提出するようにと仰せに成った。
この御使いとして、板倉内膳正が京都に赴くようにと仰せに成られた。

駿府記

方広寺鐘銘事件について。実は棟札の問題とセットだったんですね。



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/22(火) 23:52:42.97 ID:XZPd+AJg
丸島氏が言っていたと思うけど
豊臣家が何個もやらかしててそのうちの1個が鐘銘ってだけなのよね、しかも鐘銘に関しては確認とって西国じゃそういうのもあるんだろうぐらいで落ち着いてるようで
出兵の決定打は取次の片桐の追放とのことみたいね

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:03:18.16 ID:aMwBT9L+
追放じゃなくて退転じゃないの
関東にとっては同じことだろうけど

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 00:54:08.28 ID:FN2WPn7a
>>348
片桐且元・織田信雄が暗殺されかねない危険な状況だったのだし、
同時期に多数の重臣が退去しているのだから、より酷いわな。

徳川が腹黒いとか言われる方広寺鐘銘事件とか福島・加藤など豊臣恩顧の大名の改易とかは、
調べれば調べるほど、こりゃ当然そうなるわな…という感じ。

もちろん、大久保長安事件とか宇都宮城釣天井事件とか、
徳川内部での騒動だとアレだけど。

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物

2020年09月22日 18:13

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/21(月) 19:50:19.72 ID:W/E8RYZN
慶長十九年四月五日
今日駿府の前の浜において、亀に似た魚が網によって引き揚げられた、漁師たちはこれを城に運んできたが、
二十余人で運ぶほどの大きさであった。

背は黒く、亀の甲羅のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三股に分かれていて大鱗が有り、腹の色は斑であった。
諸人はこれを見て様々に噂し合ったという。

駿府記

駿府の浜に揚がった謎の巨大生物について



562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/23(水) 21:49:32.28 ID:BWWDYY4m
う~マンボウ!でござる

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 00:58:04.17 ID:YyyVtWjH
北条氏康も大きな亀が捕れて喜んだ逸話があった気がする

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 10:40:03.20 ID:9hWHoZeS
鱗があるなら魚だろう
サメだなたぶん

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 19:10:00.52 ID:mX0GhiAu
ヤリマンボウらしいけど、ヤリマンボウちゅう名前だけでおなかいっぱいだよ

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/24(木) 20:00:21.66 ID:8wpI9iGO
ヤリマンに棒が生えたのか、ヤリマンのための棒なのか…

悪口の罪軽からず

2020年09月19日 17:58

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/18(金) 21:18:26.35 ID:E9wTxwXD
慶長十七年七月十三日、彦坂九郎兵衛の申す所によると、一昨夜、飯田伝吉朝比奈甚太郎松野勘介
(共に中将殿(徳川頼宣)御小姓)が駿府の町中に於いて喧嘩に及んだ。これは甚太郎、勘介が伝吉に対し
悪口を吐き、剰え刀を抜いてかかり向かった事が原因であった。

その時伝吉は堪忍能わず、散々に切り合い、その場において松野勘介とその郎党を殺し、朝比奈甚太郎
二、三箇所の疵によって倒れ臥した。

伝吉はその場から逐電したが、大御所(徳川家康)はこの事件を聞き召されると
「飯田は手柄を顕した。」と御感になり、これを召し返した。
また生き残った朝比奈甚太郎に対しては「悪口の罪軽からず、殺害されるべし」と仰せになった。

駿府記



『駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)

2020年08月18日 18:42

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 18:23:32.60 ID:rP7c6Hcr
駿府記』から権現様の老いてなお元気な話や怪奇話、珍しい贈答品の話(悪い話を含む)
慶長16年
8月13日、朝、御浅間に出られ、鉄砲を放たれた。的を2町より遠くに置かれ、的に5度も当たった。近侍の者はみな、当たらなかった。
午刻に前殿の櫓の上に鳶が止まっていた。鉄砲を放たれ、3発とも当たった。鳶2羽を撃ち落とし、1羽は足を撃たれて飛び去っていった。距離は50間だったという
(江戸在府中の)9月19日、海上に白鳥が多いことを大御所が聞こし召され、鉄砲の上手な家臣を数人召し連れ出御されたが、風波が悪く、お船が揺れ動き、照準が定まらないので還御された
慶長17年
2月3日、遠州堺川にて鹿狩り。およそ5、6千人を引き連れ、大御所は鉄砲の巧みな者数十人を供にして撃たせた。イノシシ2、30頭を捕獲した。大雨が降ってきたので狩りを中止し、浜松に到着した
12月20日、「寒食」(古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと)として麺料理を出したところ、お気に召さなかった。与安法印が策を練り、ショウガ汁を多くして麺を柔らかくしたところ、ご機嫌が直った
同月26日、藤堂高虎細川忠利がお目見え、島津忠恒は「焼酒(アハモリ、琉球酒)」2壺と砂糖5桶を献上した
慶長18年11月18日、鷹狩り。路地において百姓が目安を差し出したので、代官深津八九郎と百姓を御前において対決させ(遂対決)、直に訴えを聞いた。すこぶる代官に私曲があったのですぐに代官の職を召し上げた(24日にも目安あり)
慶長19年4月5日、駿府面前の浜で亀に似た肴が引き揚げられた。漁師が20人あまりで担いで持ってきた。背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり、腹の色はぶちだった。諸人がこれを見た

12月、このたび、平野の御殿を阿部正次が普請したところ、小壺1個が出土した。壺の中には黄金30両、「金具」9塊、南鐐(美しい銀)100両が入っていた。伊丹康勝が持ってきて語るには「5、60年前に埋めたものではないでしょうか」。発掘された金は阿部が賜った

慶長20年11月10日、大御所は越谷に渡御されたが、お鷹場に水が溜まっており、鷹狩りはなされなかった。このため代官が勘気を被った
12月9日、引き続き中原に逗留。御小人頭の稲垣権右衛門を誅殺した。鷹狩りのときに御鷹を損じたからである



450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 11:45:50.55 ID:SM/T+GPd
>背中は黒く亀甲のようで、頭は犬の顔のよう、尾は三つ叉になっており、大きなひれがあり
マンボウか何かだったのかな

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 12:57:48.29 ID:ChT2jncQ
家康は大将は自ら戦うものではないとか言ってたと思うが、鉄砲が上手かったというのはほんとなのかね?
とこで学んだんだ?

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 00:06:44.13 ID:gTXp9QmS
>>451
一揆の頃は自らノリノリで戦ってたよ。人手不足だったんだろうけど
鬼武蔵を打ち取る鉄砲の名人もいるし
教える人はごろごろいたんだろ。