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信玄公軍法、4人のままになり給う事

2019年05月24日 14:43

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:04:29.85 ID:W72lPDZB
一、馬場美濃(信春)は戦のなされようを申し上げる。

一、山県三郎兵衛(昌景)は「御働きなされて良いかと」と勧め申し上げる。

一、内藤修理(昌豊)は「どこどこへ御働きなされよ」と、指図申し上げる。その様子は北条家を掠め給う
  場合でも伊豆か相模か鉢形か。関東ならば新田・足利か。家康ならば遠州か三河か。信長の東美濃か。
  さては越後かと、様子を推測して内藤が申し上げた。

一、高坂弾正はこのうえなく敵国へ深く働き、あるいは「御一戦は必ず御延引」と計り申し上げる。良く隠
  密することにより、働きは前に知れず。ただし侍大将衆は存じているのである。

一、信玄公軍法の事、馬場美濃守・内藤修理・高坂弾正・山県三郎兵衛4人のままになり給う事、口伝あり。

――『甲陽軍鑑』

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937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 01:09:09.84 ID:+ueqcqA2
何言ってんだか良く分かんない



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現在刀脇差を差すのは

2019年03月22日 12:45

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/22(金) 09:01:12.17 ID:OztkscXW
天文年中に、武田信玄が武器制作のことを諸臣に命じて、その議論を記録した『武具要説』(高坂彈正の
著とされる)という書がある。
その中に刀脇差について、長短得失の論が有る。信玄の頃より刀は大小を差すようになったものと考えられる。
現在刀脇差を差すのは、戦国の風俗が、今に伝わったものである。

(安斉随筆)



740 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/03/22(金) 10:50:26.30 ID:tK1z/NHF
二本差しって調べたら大小腰にさすだけじゃなくって違う意味もあるのね

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。

2015年07月04日 12:31

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 20:50:59.40 ID:wVydyIW8
天正4年、武田勝頼は高天神城に兵糧を入れるとして出陣し、この時家康が高天神への
抑えの城として築いた横須賀城の徳川勢と対峙した。

武田勝頼はこの時、十七手の備にて徳川家康が陣を張る山から降り川を越えてくれば決戦をしようと
待ち構えていたが、家康は先年長篠にて勝ち、次第に我が鋒先強くなるべきと、工夫し、勝って兜の緒を締め、
少しも取り合おうとしなかった。
そのため勝頼は、横須賀城を右に見て少し後ろにまわり、徒歩の者30人ばかり引き連れて、横須賀城の
偵察に出た。手を出してこない徳川勢への挑発である。

この様子を高坂弾正は見て、急ぎ後から一騎で乗り付けると勝頼に向かって申し上げた
「敵に対して少しも警戒しないのはどういうことですか!去年の勝ちの勢いに乗じて家康が
たった今でも攻めかかってきたなら、我らは去年長篠の敗北で、ただでさえおくれ心を抱いているのですから、
千に一つも我が方が勝つことはないでしょう。

その上、家康の居城浜松へは、ここから道程5,6里程度ですが、甲州へは、高天神、遠州の小山、
駿河府中、富士の大宮を経由して、五日路です。五日の路を長篠に続けて負けては、どうやって引き取ると
言うのでしょうか?一騎一人、残らないでしょう。
その事をご分別無いのは、口惜しき限りです!」

しかし勝頼はこれを聞くと

「其方の言い分は尤もである。しかし家康は、一人の覚悟で我らと合戦しようとは思わないだろう。
必ず信長を後ろ盾にして戦おうとするはずだ。
去年、長篠において我らは後れを取り、大身・小身共に、法性院殿(信玄)ご秘蔵の衆を多く
討ち死にさせてしまったのは、私の分別違いの故である。

どういう事かといえば、信長は国を多く持つ大身であるのに、合戦において木の柵を二重三重に結った。
まさか信長があれほどまで慎重に戦を行うとは考えなかった事こそ、この勝頼のし損ないであった。
しかし、敵が柵を構築したのは、例えで言えば、碁であれば寝濱(ねばま:不正な手段)を使ったような
ものである。そして我々が柵が構築されている所に攻めかかったのは、先に言う碁打ちならば、見落としという
ものである。

敵は寝濱をして勝ち、我々は見落としをして負けた。これは、我々が元より不利で、敵方が
その強みで勝ったのだとは、いささか考え難い。このように、敵方にそれほど強みがあるとは
私は考えていない。だからこそ、重ねて合戦しようとも、信長・家康の二旗が揃わねば我らと
合戦しないだろう。」

高坂弾正は愕然として言った
「なんと力を落とすご発言でしょうか。信玄公御代の侍大将で生き残ったのは私一人ですが、
その私をも殺すつもりで、そのように仰っているのですか!?
何を申しても、勝頼公の御疵は、無二に強すぎるのは大いなる疵なのです!」

この高坂の言葉に、勝頼も本陣に帰り、早々に引き取った。前線に出ていた小笠原衆、山縣衆も、
撤退時に敵が追撃することはなかった。
次の日、生け捕った徳川軍の兵に尋ねると、徳川の中でも若者たちは攻めかかっての合戦を主張したが、
内藤四郎左衛門という弓矢巧者の兵がしきりに止め、家康に意見したため、合戦が起こらなかったのだという。

(甲陽軍鑑)

長篠の合戦の敗因に関する、武田勝頼の認識が表されている一節である。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 22:59:46.34 ID:TLX/Z1sW
ひとこと脳筋

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 23:51:59.43 ID:57etRZVb
弓矢巧者の内藤四郎左衛門というと、徳川16神将の内藤正成で間違いないかな?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:22:51.74 ID:Xen6Hxvi
>>21
うむ内藤正成で合ってる

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 00:47:37.20 ID:H6t4ua6a
勝頼って、万を超す様な大軍の総司令官には向いてないよな。

騎兵の千や二千も与えて、
「あの辺で暴れておいで」って指示したら大活躍しそうだが。

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 02:54:27.56 ID:rV9MEbVl
弾正が小姑に見えてくる

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 07:32:39.98 ID:kd25Cj4f
弾正というと真っ先に爆弾正が思い浮かぶようになってしまった

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 09:32:30.73 ID:b1sslmBb
>>24
親父の元愛人だしな

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 14:51:47.26 ID:e+nJ1CZf
まあ赤穂浪士も吉良の首を浅野の墓前に供えたしな

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/04(土) 20:26:02.13 ID:rOGjjh0i
信玄も煩い老臣を合戦で死なせてるからね
長篠は武田家を新にさせるいい合戦

五ヶ条の意見

2015年06月16日 16:05

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:08:50.33 ID:cMKL/ioB
天正3年(1575)、長篠の戦いに敗北した武田勝頼に対し、重臣である高坂弾正は五ヶ条の
意見を申し上げた。

一、駿河、遠江は北条氏に割譲し、北条氏政の幕下となって、勝頼公は甲州、信州、上野三ヵ国にて、
  氏政の先鋒を勤める、という姿勢を見せることが尤もと考えます。

一、その上で、北条氏康の御娘子がおられると承っております。これを武田家に迎え、
  勝頼公は北条氏政の妹婿となられるべきです。

一、木曽氏を上野小幡に、小幡上野を信州木曽にそれぞれ転封なさるべきです。

一、現在、足軽大将が見な人数持ちとなっています。長篠で討ち死にした馬場、内藤、山縣の三人の子供らを
  初めとして、みな同心を取り上げ奥近習になだれ、小身にて召し使われるべきです。もし明日にも私が
  果てましたら、息子の源五郎も小身になされ、私が現在従えている同心を、誰なりともお預けなされようと、
  尤もなことだと考えます。

一、典厩(武田信豊)、穴山殿(信君)には腹を切らせるべきです。穴山殿の処分を典厩に仰せ付けられ、
  その後典厩の処分を私に仰せ付けられるのが良いでしょう。


このように申し上げたが、勝頼はこれらに首肯せず、五ヶ条のうち、北条氏政の妹婿に成ることだけには
同意した。また長篠で戦死した諸将の家に介入したのは、真田源太左衛門の跡に弟喜兵衛(昌幸)を据えた
ばかりであった。

(甲陽軍鑑)



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:34:07.90 ID:axgfOGho
転封ったって小幡のが大身で木曽じゃ足りないよな

こういう素人レベルの『俺様が考えた理想の武田家』なところが嫌いだわ甲陽軍鑑

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:37:04.05 ID:Q3zfaRYo
木曽と小幡を入れ替えてたら歴史変わってたかな。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 14:49:46.69 ID:IGpsxmOD
木曾が先祖伝来の土地を離れるとは思えませんがね
だいたい織田に走る要因になってしまう

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 19:29:31.33 ID:PDfzcvuj
>>934
武田裏切りと討伐軍返り討ちで木曽を含めた筑摩郡と安曇郡を恩賞に貰い
嬉々として松本に本拠移したよね

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 20:02:04.23 ID:Rd8qqwng
>>936
そして、3ヶ月で木曽に逃げ戻った…

高坂の臆病分別

2015年06月15日 18:28

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 18:25:24.09 ID:TFr5nDKH
天正2年。武田勝頼は徳川方の高天神城を降伏させ、遠江の城東郡を手に入れた。
これについて甲府御館で御祝いがあり、召しだされた侍大将衆に盃が下された。
高坂弾正(春日虎綱)は盃を下された後、立ちながら長坂長閑に向かって言った

「武田の御家滅亡と定められた御盃はこれである。」

「弾正の言っていることは話にならない」
長坂は言い返した。

その後、内藤修理と高坂弾正の共に、3年の内に当家滅亡と発言した。人々がその理由を尋ねると、
内藤も高坂も同じように語った
「東美濃において数カ所の城を落とし、その上高天神城を落城させ、城東郡を手に入れられた。
しかしこの成功のため勝頼公は、家老衆の意見を御取り上げすることがなくなり、長坂長閑、跡部大炊介の
言うがままになってしまった。
やがて信長家康の両軍を相手にして、勝頼公は無理な御一戦を遂げられることに成るだろう。
その時は面々方々、みな討ち死にすてその後武田家滅亡疑いない。
この原因は、東美濃、遠州城東郡の両所における御手柄、しかも1年の内にこのように成った故である。」

人々はこれを聞くと、「高坂、内藤は臆病分別である」と笑った。さらにこの話は、長坂、跡部より
勝頼に伝えられ、勝頼も内々に、高坂、内藤を悪しく思うように成った。しかしそうは言っても
信玄以来の侍大将であったため、高坂は勝頼の近くに参り、周りの人を下がらせて意見を述べた

「東美濃を、信長の子息でこの甲府におられる御坊に下され、彼を誰か近き御親類衆の聟になされ、
信長と和平を結び、また城東郡を、家康の弟源三郎が信玄公の時代に人質に召し置かれていましたが、
彼は甲州より脱走しました。しかし和平の扱いをする上は万事を差置き、信玄公の御息女である
おきく御料人、信玄公はこれを伊勢の長島に嫁がせると決めて居られましたが、この御料人を
家康の舎弟へ嫁がせましょう。

こうして信長、家康と和睦した上で、北条に対し攻めこむべきです。そうなれば家康は領地を返還されたことを
信長からの恩以上に忝く思い、加勢を申し出るでしょうし、更に信長も、都の敵に対処するのに
当家との御無事を喜び、加勢を差し寄越すこと疑いありません。
こうして当方の所領する国に、小田原北条氏の持ち分を加え一つに御支配なされれば、以後勝頼公の
思し召しに叶わぬことなどなくなると、私は分別しております。」

後で勝頼はこの高坂の申し出について、長坂長閑に相談した。長坂はこれを聞くと
「勿体なき弾正の分別違いです。都へのお望みをなくして向かってくる敵と和睦し、今まで味方である
北条殿を敵にするというのは全く心得ることの出来ない義であります。
取った国郡を人のほうに渡すというのは、下劣な喩え話に『猫に鰹節を預ける』などといいますが、
おおかた弾正の分別もそのたぐいの事です。」

勝頼は長坂の判断を尊重していたので、これにより弾正の意見を取り上げることはなかった。

(甲陽軍鑑)



919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:22:12.63 ID:ZwfcSEVp
普通なら打ち首だろ
主家の滅亡を予知するなんてな

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:31:32.84 ID:zYQMxmTq
戦がなくなった江戸時代は切腹をも厭わない諫言が最大の忠義みたいになってましてこんな話ばかりです
あ、別に黒田家譜を名指ししてるわけでは有りません

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:32:59.65 ID:6paD1heP
典型的な事後予言かと思われます

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:33:32.07 ID:n+THu5Ck
これだけ言われても何もできない勝頼さんかわいそう

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 20:06:23.37 ID:ciLV2POB
もし仮にこの記述が本当のことだとしてだ、
高坂弾正にせよ内藤修理にせよ現在進行形で戦争してる相手に領土を割譲、和睦の上、
その和睦相手の為に先鋒務めろとか内通疑われて殺されても文句言えないよなw

ていうか、「勿体ない」って、
「とんでもない」とか「途方もない」とかそういう意味でも使ったんだ。

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 22:16:29.77 ID:55JkhUFl
つーか天目山で最期まで付き従った長坂長閑、跡部大炊介が何故ここまでこきおろされなきゃならんのだ!?

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 22:55:53.42 ID:5I8D26Wu
大久保彦左衛門「だってあいつ嫌いだしー」

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 03:15:50.77 ID:md4jrR7f
>>923
もともとが仏教の『勿体(物体)』が無いってこと否定的な言葉。
そこからさらに勿体は尊いものって考えから惜しいとかおそれ多いって意味でも使われるようになった。

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 08:12:33.18 ID:8ssKM7dD
扱いにくい老臣っているよね
長篠で一掃した勝頼は策士といっていい

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 08:24:11.99 ID:5lmlGBWs
つまり策士、策に溺れる、か

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 10:43:35.80 ID:YGT/T4l7
川中島あたりのせいもあるが、武田って重臣が討ち死にしすぎなイメージがある

実際にちゃんと調べてはないから偏見だけども
なにか軍制に欠陥があったんでは?とも思っちゃうな

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:18:10.62 ID:5lmlGBWs
>>918
なんか松姫を信忠に送り届ければすべて上手くいくような気がしてきた


人を卑しまず

2015年01月28日 18:55

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 00:07:45.64 ID:MjY3Egu+
 今から二十年前に、都の妙心寺に大休(宗休)という名僧がいた。
この和尚の前で、人が人を誉めれば、和尚はその人は死んでいるかと聞きなさる。
今は存命であると申すと、大休は、
「誉めてはならぬ。(今後)どのような失敗をするかわかぬであろう。」
と仰る。
 またある人が人を悪く言えば、大休はその人は死んでいるかと仰せられる。
今は生きていると申すと、大休は、
「謗ってはならない。これからどのような手柄を立てるかわからぬではないか。」
と仰る。
「人の善悪は死後にならないと言うべきではない。」
と大休和尚はいつも言っていたと、策彦(周良)和尚は信玄公に語ったことがある。
 武士はなおのことその心がある。
失敗したものは、此の次こそ是非に。と思うから、卑しめてはならない。
失敗していないものは、上手く行っているので、今後も失敗の無いように心がけるので、なおのこと卑しめてはならない。
そのように思って人を卑しまず、極めて自分の心に当てはめるので、猛き武士は人を腹立たせるようなことをせず、
どのような小者・中間にも、それぞれに慇懃な態度なのである。
(甲陽軍鑑)




刀・脇差しと扇・鼻紙

2014年12月31日 17:45

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 22:11:32.08 ID:/ob9LCCD
ある時、曽根内匠高坂弾正に問うた
「良き大将なのに無行儀である事があります。逆に悪しき大将なのに行儀が良いこともあります。
これはどういう事でしょうか?願わくば高坂殿のご意見をお聞かせいただきたい。」

高坂これに
「それは、例えば侍が急の用で家を出る時、刀・脇差しを挿したものの、扇・鼻紙を忘れる
事がある。しかしこの時、刀・脇差しは忘れていない。それと同じように、良き大将は無行儀であっても
主人として名を得ること、あるいは徳ある儀に関して少しも問題はないのである。

例えば、織田信長は行儀の荒い人物ではあるが、人の目利き上手であり、池田・柴田・滝川・木下・丹羽・
河尻・佐久間などと言う者共、武辺がなければ分別が優れ、いずれも小身である者達から目利きをし、
取り立てて一廉の侍と、近国、他国まで名を響かせた。
すなわち信長は、扇・鼻紙を忘れても刀・脇差しを忘れぬ心を持っているのである。

さてまた、中国の大内殿は文ありて行儀は良いが、人の目利きが下手であり取り立てられるほどの侍でも、
10人中9人まで役に立たない。しかしそんな者達に沢山の知行を与え、人に対する詮索も不行儀であり、
仕置も悪しくあったために、重臣の陶という家老に国をかすめ取られた。この事で、大内殿は行儀がいいが
悪しき大将と人に言われる。すなわち扇・鼻紙を正しく忘れないが、刀・脇差しを忘れる心の
持ち主であるということなのだ。」

(甲陽軍鑑)

それにしても甲陽軍鑑は、大内をdisる時、何故かくも情熱的なのか。





127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 22:18:08.31 ID:bR3TdRI4
そりゃ大内ほどのわかりやすい反面教師はそうそういないからな

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 10:03:50.41 ID:xypsizFZ
義隆って元々そういう性質なのかな
それとも息子を失ったことで変わってしまっただけなのかな
元親も信親を失ってからだいぶ変わってしまったみたいだよね

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 11:09:42.11 ID:xypsizFZ
文弱の素質はあったけど、晴持死なせるまでは上手く文武のバランスとって他国圧倒してたよね>義隆
人生どこに落とし穴があるかわからん

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 21:48:16.67 ID:kYm45lMl
大内は急進的な拡張主義者
だからつかえる人材も使えない人材をバカスカ入れて勢力を拡張する
10人取り立てて半分無能でも半分ものになったらそれでいいや、というタイプ
こういうタイプは攻勢にはいいが、守勢に陥ると弱い
なんでかってリストラが下手だからだ
一方信長や秀吉は、味方だろうが何だろうが苛烈に首を切ることを恐れなかった
まあそれで恨みも買ったわけだが

上杉憲政の事

2014年12月30日 18:34

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/29(月) 18:15:10.22 ID:bsB4V5dL
ある時、小山田弥三郎の所に振舞いとして、内藤修理、馬場美濃、山縣、小幡上総、浅利、高坂弾正
といった人々が参り雑談になった所で、馬場美濃が小幡上総に尋ねた
上杉憲政についてですが、この話は本当なのでしょうか?彼は弓を射る侍には、武辺の覚えがなくても
弓大将にさせるという事を聞き及んでいます。」

小幡上総は答えた
「彼の父が管領であった頃はそんな事はなかったのですが、憲政の代になってからは、
あなたの仰るとおりです。」

これを聞いた内藤修理
「それは散々の儀ですな。そのようでは、馬をよく乗るなら馬喰でも上杉家に留めて騎馬の五百騎も
千騎も預けかねませんな。そんな分別だからこそ、自分よりも少数の敵である北条氏康に度々
負けたのでしょう。つまり氏康の武辺が良かったというより、道理によってああなったのですね。」

次に小山田弥三郎が発言した
上杉憲政は人を見る目がありません。憲政が取り立てた者は10人中9人が微弱であり、憲政公の為も思わず、
口で管領をあがめるばかりで、内々には後ろ暗く、しかも武道は臆病第一と聞こえています。」

これに山縣三郎兵衛は
上杉憲政のこと、私が聞いた話では、高野聖が半弓で鍋釜の盗人を一人射殺したからといって、
足軽をあずけ弓大将にしたそうです。一事が万事にわたるのですから、どうして人を見知ろうとされないのか。」

ここで高坂弾正が言った
「人を褒めるのも誹るのも、自身が沙汰す場合、悪大将は例え自分の被官であっても、良き者の志が
及ばないため、当然目が届かないのです。

だいたい、良き大将というものは、3万4万の人数を連れても5千の敵に気遣います。少数の軍勢で
大軍を引き連れ、どこかと同盟して切り取ろうと考えた小身の昔より、いかに大きくなろうとも
後まで気遣いすること。私はそう理解しています。

ただし、それは主を持たぬ大名についての話です。一万の人数を引き回していても、後ろに大将があって
その先陣をする人は、敵に向かってあまり遠慮だてしてはいけません。何故ならば侍大将がそういう遠慮を
しているのを、至らぬ者達は『敵に怯えているのだ』と思ってしまうからです。そうして総軍が気遣いをして
敵に怯え、味方の威勢弱くなります。

私が考えるに、上杉憲政公の家臣たちもこの類ではないのでしょうか?それで氏康に度々
打ち負かされるのでしょう。」

これを聞いて浅利は
「そういうことを考えて、小幡上総殿などは上杉憲政公に余り奉公立てしなかったのですね。
それは尤もな道理です。」

そう言ってから、各々座敷を立った。

(甲陽軍鑑)

武田家家臣団による、上杉憲政に対する分析である。



123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 06:25:52.71 ID:D4stKxCF
>>118
高野聖が殺生をするのか
今さらなことかもしれんが

南蛮流

2014年12月24日 18:54

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 12:46:43.77 ID:HxV7pn93
中国牢人の井上新左衛門と申す侍が、雑談にこのようなことを言った

「唐ではどうして、賤しい者であっても心が至っていれば良き人だと褒めるのでしょうか?
南蛮においては、値の高価な小袖を着て、綺羅をよく飾る人の事を良き人と申すそうです。」

これを聞いた高坂弾正は、こう感層を述べた
「なるほど、末になった家の家人への評価は、南蛮流になるという事なのだな。」

(甲陽軍鑑)

南蛮人というものに、とにかく派手に着飾る人達、という印象があったらしい



81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 18:28:25.74 ID:SZ1LYYAu
実際西洋の騎士道はそんな傾向があったらしい<派手に着飾る
地味な格好の騎士は「もっと派手な格好するべき!」と
主君から手紙で諭されたっていう話読んだことある

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 22:44:27.74 ID:qceWfv8x
ラスボスにケンカ売ってんの?

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 23:45:15.58 ID:esU+ghwv
この頃の日本の兜もたいがいのような気も…

それはともかく、中国への評価も含め、雑談ながらも微妙な後味、
ちょっと悪い話の真骨頂と感服つかまつりました。
中国牢人というのがよくわかりませんが、この井上なる者、
見聞が広いですなあ

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 00:08:22.99 ID:bOSKA9Mw
中国=日本の中国地方でしょう。間違いなく。

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 02:37:38.48 ID:PzZGYbI7
井上っていえば毛利だよな

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 03:00:09.15 ID:g1yonbhp
大陸浪人か何かだと思ったのか……

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 03:34:46.68 ID:p6+nfb/S
それは伊達さん家

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 08:27:40.47 ID:qxXtWW9z
小学だか中学だかで障害事件を起こしたんだっけ?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 12:35:16.33 ID:sB4PfAt3
姜ハンも
「虚仮威しの日本の鎧兜にビビんじゃねー」
と書いてたなそういや

茶の湯者と数奇者

2014年12月21日 17:34

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 09:58:07.04 ID:E91JbBFN
四国牢人の村上源之丞と申す者が、堺の武野紹鴎の雑談を聞いたと私(高坂弾正)に語った。
それによると、数奇者と茶の湯者は別なのだという。

茶の湯者というのは手前よく茶を点て、料理よくして、いかにも塩梅良く茶湯座敷にて振る舞いをする
人の事を言う。

さてまた、数寄者というのは、振る舞いが一汁一菜の粗末なもので、また茶も雲脚(品質の劣る抹茶)であっても、
心の綺麗な者を数寄者と名づけて呼ぶのだそうだ。
元来、数寄とは禅僧から出た言葉であるため、そのようなのだという。

仏教諸宗が仏語を大切にするのに対し、禅宗は仏心といって意地を肝要としており、
誠の心の多き志を執り行う人の点てる茶を、数寄者の振る舞いと呼ぶのだ。と言ったそうだ。

(甲陽軍鑑)




417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 10:27:43.20 ID:E3XGtuvH
山上宗二に数寄者と呼ばれた三好実休の評価が爆あげやな。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 14:32:33.32 ID:7ipULcLW
調べたら、伊勢物語にも数寄者という言葉が出てたようだが

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 15:34:01.64 ID:vBhL3OLv
ヨシ、おら天下一のスキモノになる!

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 15:43:30.82 ID:ad3ek2aq
自重して下さい宗麟さん

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/21(日) 16:13:31.06 ID:dwZE2B/I
義統の分も全部宗麟のせいにされてそうな気もする

ただこの理屈を

2014年12月11日 18:36

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/11(木) 02:13:40.44 ID:oE57dufK
(両上杉が関東諸)国をよく治めていたところに、大事を引き起こす事が一つ起こった。詳細は次のようである。
扇谷(=上杉定正)に中次彦四郎・曽我伝吉という二人の殿方がいた。この二人は仲が良く、互いに相談し、分別もあるので、良く奉公し扇谷殿の心をとらえていた。
後に扇谷へ諫言できるほどまでになったが、彼等は家運を傾ける類の諫臣であった。
二人が言うことは続けて上手くいくので、定正は二人に官位を与え中次主馬助・曽我右衛門佐とし、すっかり扇谷殿は曽我・中次の言いなりとなってしまった。
ある時、二人は談合して、それぞれの所領を沢山取ろうと思い、扇谷殿へ

「財政の収入がなく、物事が不便であるのに、家老衆が江戸・河越の国中に徘徊して遊んでおります。
将来は彼らの子供が扇谷家の子孫に敵対し、ご子孫は今の公方のようになってしまうだろう。
そして家老衆は今の両上杉殿のようになることは少しも違わないだろう。ご分別を。」

と申し上げると、扇谷殿は武州江戸の太田道灌を召し寄せて殺しなさった。
これを聞いて残る上田・見田・荻谷を始めとした道灌の一族、城主共は言うに及ばず、少しでも所領をもつものは、おおかた身構えて、それぞれの屋敷に引き籠もった。
その年のうちに、この事で山内殿と扇谷殿の間に所領争いが起こり、羽入の峰・岩戸の峰・ふく田の郷・奈良梨などと申すところで大きな合戦あった。
味方も敵も見分けがつかず、日頃心懸けをしていない奉公人共は働く術を知らず、行ったり来たりとうろつき回る。
小旗を捨て、或いは槍を切り折り杖として逃げる者は後ろを見ず、
主を捨てて、自分の在所へ逃げてしまうものが扇谷にも、山内にも一合戦に二人三人と出る。
勿論関東・奥州北国にも、たびたび手柄を立てる大剛の者があまたいたが。家運が傾いた徴候だろうか、若武者にも負けてしまう。
しかも十人の中に八人九人は心懸けの無い弱者共に掻き回されて、長年合戦に慣れている者も、自分の身を守るだけで何の手柄にも立てられない。
これらは味方の中の裏切りによるものである。この時節に伊豆の早雲が出てきて、小田原を乗っ取ったのである。明応四年乙卯のことであったと聞いている。
前代のことである。しかも他国の事、人からの雑談によるものを書き記したので、相違なことは多いのは確かだろうが、ただこの理屈を勝頼公の代の参考にしてほしい。
(甲陽軍鑑)




信玄の天下の仕置

2014年11月26日 18:50

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 00:44:53.72 ID:ZRAx/03K
>>861の続き

真田安房守(昌幸)は再び高坂弾正に問うた
「大敵の押さえのためには、せめて配下に一国を与えなければ都が危うくなります。ここを考えれば、
信長が配下を大身にしているのも、この他に仕置の有り様がないからでは有りませんか?
彼の行っている仕置よりも、良い方法があるのでしょうか?願わくば高坂弾正殿の工夫を
お聞きしたい。」

高坂は申した
「私が存じているのは大したことではないが、4年前信玄公が御他界されたが、今も御在世ならば
天下の仕置をしていたこと疑いない。なぜならあの時、伊勢、越前、河内、和泉、四国、その他
紀伊国大和国の小身なる者達まで信玄公に内通し、その都入りを皆が待ち望んでいたからである。
であるからあの時は、三河の家康さえ押しつぶせば、信長がいくら大身でも、さほど手間は取らなかったであろう。
(このあと家康の攻略について色々書かれているが略)

家康さえ滅却すれば信玄公の都入りに問題はなかった。しかればその春、東美濃に発向なされる時、
3月15日、その前の14日に私を召し寄せられ、「信州勢1万5千の人数を預けるので、北越の輝虎を
押さえるように。」と命ぜられ、その時「私の煩いもこのように平癒したので、来年中には都に
旗を立てる」と言われた。

天下の仕置とは都をさして申す。何故ならそこに日本の主、帝王が御座なされているためである。
であるから、信玄公の煩いが後まで平癒し、3年の内に都に上がり参内を遂げ、勅命を以って都の意見を
仕るようになれば、天下(畿内近国)に信玄公が居ない時は危うくなる。
だからと言って都の周りに大身のものを置くのも危うい。

よって、都のある山城国は禁中への恐れにこれといった城はないので、屋敷構えを良くして
その屋敷のまもりに逍遥軒(武田信廉)を差し置き、都近国には敵を押さえるために、馬場、山縣、
内藤、小山田弥三郎、又は木曽殿、小幡、安中、相木など、そういった者たちを1国に1人づつ
郡代に定めて、その他は譜代の小身なる者たちをいかほども取り立て、仲の良し悪しを目付け・横目に
尋ねて、それをうまく組み合わせて一国の中に何人も置く。
その他、日本を皆治めれば、遠国にはまた、国の2つや3つもくれて置く仕置ならば、たとえ信玄公の
亡くなられた後、どれほど分別のない侍に跡を継がせたとしても3年は保つことができるだろう。

前の大将が死んで3年も保てるようにするのは、前代の手柄である。
4年目からは後を継いだ大将の分別が良ければ誉れを得て、悪ければ恥を得る。
中でも、天下の権を2代保つのは、ただの家を百代保つより弓箭を取っての誉れである。
信玄公がかつてそのようにおっしゃったのを存じている。

そこから考えれば、今、織田城介殿(信忠)、三介殿(信雄)は信長に良く似た若者たちであるが、
信長死後は危うい。」

そう、高坂弾正が真田安房守に信長に関する話をした。

(甲陽軍鑑)




895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 02:20:14.72 ID:q9TPqEjk
信玄の上洛開始時ってもう輝虎→謙信だよな
単に旧知だから輝虎と呼んだんかな
まあ甲陽軍鑑だからあんま細かい突っ込みはなしか

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 10:27:35.38 ID:G7qfaeAX
結局、それぞれ一国を任せるんかい

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/26(水) 15:52:04.16 ID:E4HgbFfa
織徳同盟は両家の利害が見事に合致していたんだろうな

信長の仕置が

2014年11月23日 18:58

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 03:23:28.21 ID:DnDEKrTy
真田源太左衛門(信綱)、同兵部介(昌輝)は長篠で討ち死にした後、彼らの弟である
武藤喜兵衛に兄の後を継ぐよう武田勝頼が命じ、真田安房守(昌幸)と称した。

この安房守がある時、高坂弾正に問うた

織田信長は長篠において当屋形勝頼公に勝ち、その余勢を以って越前の朝倉、伊勢の国司を
完全に滅ぼしました。そうして四国、西国、関東奥州までも末には治めるであろうこと、
長篠の勝利を得て以降一層その姿勢を強めています。

ですが、信長の仕置が、源頼朝や執権の北条家、あるいは足利尊氏にように、代替りまで無事にあって、
末代までも人が沙汰するような仕置に、信長のそれもそうなると、弾正殿は見ておられますか?
願わくばこの事について、ご意見を伺わせて頂きたい。」

高坂弾正は答えた
「信長の仕置についてだが、今は先ず危うい。何故かといえば、家臣に大国を与え彼らを国主に
任じている。その中には才能ある人物が居ないということはない。

そうして、明日にでも信長が病死すれば、子息城之介(信忠)は大身の二代目であるから、
どうしても全てのことを仔細に見ることはない。

一方で出頭してきた侍は何事も明細であるから、元からの大身と出頭の大身とを比べれば、
同じ時代においては出頭の者が勝つものなのだ。

そうした家臣を必要以上に大身にすることを止めれば、そして信長の仕置さえ良ければ、嫡子城介信忠も、
その舎弟で伊勢国司に定められた三介(信雄)も、殊の外能く生まれついた大将だと聞いているので、
信長死後も治まるであろう。」

(甲陽軍鑑)

高坂弾正による信長の仕置についての批評である。




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 11:38:04.18 ID:5tWOOnpY
丸で本能寺秀吉関ヶ原と見てきた人間が書いたようだw

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 12:12:38.50 ID:Yg3gQ5Ct
茶筅丸は有能なのか

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:57:01.40 ID:YMT1P9bd
信雄が能く生まれついた・・・?

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 15:42:57.59 ID:JtT4Q6pC
>>865
大名としてはポンコツだけど一領主としての統治能力はあるんでね?

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 17:18:38.37 ID:PyDVnSzn
その根拠は?

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 18:04:32.52 ID:fjKL9pZL
>>863
同感。典型的な事後予言にみえる…
「甲陽軍鑑」の価値が暴落した感じ

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 18:52:45.28 ID:DnDEKrTy
>>863
>>868
安国寺恵瓊の、信長が「左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」もそう思うのか…w

[ 続きを読む ]

家康の運命について

2014年11月03日 18:06

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 00:19:27.88 ID:kjKdqvYr
ある時、長遠寺での振る舞いに、武田信玄の重臣である馬場美濃守、内藤修理正、高坂弾正、山縣三郎兵衛、
原隼人佐、小山田弥三郎などの大身衆が寄り集まり、一日雑談したことがあった。
ここで

「山縣三郎兵衛殿は駿河江尻の城代であるので、遠州浜松の徳川家康の噂をよく聞いておられます。
また内藤殿には関東の安房、佐竹、会津のことを語っていただきたい。
小山田殿は小田原の近くなので北条家のことを語っていただきた。
高坂殿、馬場美濃守殿は越後、越中までのことを語っていただきたい。」

そう促され、山縣が先ず家康のことを語った。
「徳川家康は今川義元公が討ち死にされてより以降、ここ10年ほどで国持と成った者ですが、駿河の
全盛期の作法を幼いころから見聞きしたためでしょうか、信玄公が奉行衆を使って公事(裁判)を
裁く様子に、少し似てきているようです。彼の公事の裁きは、どのような訴訟であっても珍しき事は
聞きませんが、それは家康が最近になって国持に成ったためでしょう。我々が感心するような裁きは、
あと十年過ぎても無いでしょうね。

ところであの若い家康が申し付けた三人の奉行ですが、それぞれ三様の性格の者に言いつけたようで、
仏高力・鬼作左・どちへんなしの天野三兵などと、浜松にて落書が立ったそうです。
昔、私が未だ三十ばかりの時、信州更科の奉行に、まだ若き武藤殿、櫻井殿、今井殿だけは
宿老でしたが、今福浄閑は中老でした。この四人、歳も性格もそれぞれ違った人達を、信玄公が
奉行に申し付けた事に、この頃の家康が少しずつ似ているのは不思議なことです。」

これに馬場美濃、内藤、高坂らは「家康は只者では有りませんね。」と言い合い、
中に馬場美濃が語ったことは

「家康の今後の身の上について、私は思うところがある。この美濃の生命をあと20年ほど生かしてもらい、
この考えが当たるかどうか試したく思うが、20年生きれば80歳に今少しとなる。金の鎖でつないでも
叶わぬことを願ってしまったな。」

そう言って笑った。これに高坂弾正が「家康の今後の身の上を、馬場殿はどのようにお考えなのですか?」
と尋ねた。すると馬場美濃守
「おやおや、弾正殿は私よりも先に、それについて考えがあるのでしょう?」と言った。

ここで小山田弥三郎が手を合わせて
「御両所の考えを、願わくばお聞かせいただけないでしょうか?」としきりに所望した。

そこで高坂弾正
「美濃殿の考えを承りたいので、先ず私が下座から申しましょう。
家康は今、織田信長と二世までの入魂と言っていい関係で、双方が加勢を助け合い、それ故に二人の関係は
堅固です。ですが信長は今や、敵は上方十四ヶ国の間に、信長に国を取られていなくても、あえて
信長の分国に攻め込もうと考える武士は一人も有りません。それ故に、次第に現在のような大身となりました。

一方、家康はいつまでも三河一国、遠州の3分の1だけならば、終には家康は信長の被官のようになり、
信長はそれを喜ぶでしょうが、仮に明日にでも信玄公が亡くなられた場合、信長は安堵し、
今でこそ家康を、嫡子の城介殿(信忠)と同様に思っていると、献上された3つの大桃のうち一つを
贈る程ですが、強敵・大敵である信玄公が居なくなれば、信長は家康を殺すでしょう。
もしそうならないのなら、家康の果報というのは少し考えがたいほどです。」

これを聞いて馬場美濃は大誓文を立てて「私もそう思う。」と言った。
内藤修理も同じ意見であると誓文を立てた。

(甲陽軍鑑)

家康の運命についての、武田家家中の予測である。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 09:08:11.50 ID:JaF+NvrO
無知ですまんのだが「馬場美濃は大誓文を~」とあるが
この(大)誓文って起請文って理解で合ってる?
ただの雑談中の意見交換でなんで起請文を出すの?

当代日本の四大将、十三大将

2014年10月21日 18:51

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 20:08:14.63 ID:kfPo7VuV
>>529
ここにあった四大将、十三大将の詳しい内容があったので。


当代日本の四大将は、御歳が上の方から先に記す

一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公は、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死であった。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公は、53歳にて天正元年4月12日に他界。病死であった。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公は、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死であった。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生している。

右に続く大将衆大小、老若共に名高き武士は

一、丹波・赤井悪右衛門(赤井直正)
一、四国土佐・長宗我部(元親)
一、同伊予・来島(村上通康)
一、安芸毛利家・吉川(元春)
一、越前・朝倉叔父金吾(朝倉宗滴)
一、安芸・小早川(隆景)
一、江州北ノ郡・浅井備前(長政)
一、三好家・松永弾正(久秀)
一、徳川家康
一、安房里見家・柾木大膳
一、上杉家・大田三楽
一、会津・(蘆名)盛氏
一、上総・万喜少弼(土岐為頼)

合わせて13人。この他、さきの四大将の下に形の如き武士はあれども、主を持っている以上大将とは言わない。
ただし十三大将の中にも主持はあるが、それはその主君が軽い存在で、家臣我儘となりて斯くの如しなり。

(甲陽軍鑑)




576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 03:50:22.56 ID:5Z8fl2kS
赤鬼はまあなんとなく判るが来島はその筋に有名だったんか?

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 06:47:01.10 ID:hcgNTIxT
TERU 「『主君が軽い存在』…」

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 08:41:19.28 ID:g4cr/wW1
また柾木大膳か! たしか朝倉宗滴もなぜかその名前を挙げてて唐突すぎる…って空気読めない柾木大膳か!

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 09:17:18.30 ID:tFKhZDfj
>>575
徳川家康だけなぜ徳川家康?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 12:19:52.60 ID:A8BRs30w
両川は納得としても、千葉県武将が二人もランクインしてるのは興味深いところだね
来島通康は味方に付けたら海戦必ず勝つる、ってくらい地味に西国じゃ重要な制海番長だけど、
東国まで名が知られてたとはちょっと意外

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 14:27:34.75 ID:5Z8fl2kS
鑓大膳よりも息子のほうが本当はやり手だったようにも思えるが

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 14:36:56.98 ID:AreZlHCo
憲時のことか?

村上通康は河野通直の婿で一族に列したし経歴的には妥当でしょ

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 15:13:20.85 ID:RmqB/YLm
村上ではやはり因島が一番知名度がないか

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 15:22:23.01 ID:K7knQcDA
一次史料で最も古くから活動が確認されてるのは実は因島村上なんだよね
だがまあ如何せん来島の通康や能島の武吉らのネームバリューには伍し難い

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 01:33:31.68 ID:vWKROlyd
九州勢がいないのは遠いから?


586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 01:50:58.43 ID:ArfTlqLq
>>585
>>575に続く文章が

『右四大将よりも大身の衆は、日本国において中国には毛利殿、筑紫に大友殿、関東に上杉殿とあったが、
もはや生まれ変わって前代ほどの勢力はなく、よって現在は先の四人が大領の持ち主である。
そしてこの四大将に次の十三大将を合わせた十七人の大将衆を、この頃の扶桑国の名将として
その名を呼ぶ。』

とあるので、九州は大友氏が衰退したという認識はあったみたい。


587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 06:46:11.98 ID:N9GXbLcM
脳筋は眼中にないと

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 07:13:37.01 ID:Y3gINTJz
>>575
>> ただし十三大将の中にも主持はあるが、それはその主君が軽い存在で、家臣我儘となりて斯くの如しなり。

TERU・・・。

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 08:44:49.56 ID:PoKFTnPg
朝倉義景「…」
上杉憲政「…」

里見義堯「!?」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 12:16:39.85 ID:r7lBZQqQ
宗運さんの名声が天下に響くのはいつになりますか

四郎殿にとって、強すぎるのは

2014年10月19日 18:57

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 18:59:03.23 ID:5L8VGV04
一昨年の4月28日に越後の国の上杉輝虎は小田原の北条殿に頼まれ、信州の国橋・長沼に出陣した時、
信玄公が未だ出馬する前に、伊那より四郎殿(武田勝頼)が夜駆けに駆けつけ、謙信1万5千あまりの兵に、
わずか800の備にて合戦を仕掛けた。

この時謙信は攻めてきたのが四郎殿と聞くと、涙を流しながら「無類の若者かな」と褒め、陣を返し
撤退した。

ただし、殿に下がって物見をする侍が2騎残っていたが、そこに四郎殿は乗り付け1騎を斬り落とした。
その頃我々(高坂弾正)もようやく到着し、もう一人の者も斬り落としたので、さすがの謙信の衆も
撤退の早々にこの両人を捨てて引き下がった。

我らが斬り落とした者は、元来逍遥軒殿(武田信廉)の被官で落合彦介と申す者であった。
そしてそれぞれ御舎兄金丸平三郎殿と喧嘩相手であった。

四郎殿は、18歳の初陣から当年26歳まで9年の間に大体の合戦で、このような先陣の強き働きを
なされたのだが、ただあまりに強すぎたので、今年か来年の間には討ち死にするだろうと考えていた。

この時、阿部加賀守は
「今回の陣触れに関しては、今から20日の間に必ず三河・遠江に発向し、家康と手切れをするのだから、
このような合戦は無事に帰ってこそ後に生きるというのに、武士としては立派ではあるが、
四郎殿はひとしお危ういように思う。」
と語った。

これを山県三郎兵衛(昌景)が聞き
「四郎殿にとって、強すぎるのは一つの疵です。しかもこれは、大将としては大きな傷であり、
結局は弱いことよりも劣るのです。」
そう言って座敷を立った。

(甲陽軍鑑)

信玄存命時の、武田家家中の勝頼への評である。




559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/18(土) 20:45:32.03 ID:lVg2/OKe
謙信が意気に感じて兵を引くのは好きだな
父の留守を守るためにわずかな手勢で健気に向かってくる若武者とかいかにも好きそう

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 03:07:23.14 ID:Tv8WWEMi
もはや源平の時代だよ

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 08:52:48.57 ID:TjrpS9Oh
勝頼は伊達成実ポジションだったら大暴れ出来ただろうに

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 15:08:57.49 ID:x/pZEeRK
>>559
この二人わりと近いものがあるよな
同盟してれば仲良くなれたかもしれないのに

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 16:31:13.46 ID:TUmAzWEe
同盟組むには周辺の係争地が豊かすぎた

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 17:24:33.51 ID:9gmNVTqM
遺言で謙信を頼れとかなかったっけ?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:41:53.76 ID:qtXAqo3a
>>561
諏訪家にやった四男坊扱いのままだったら幸せだったかもなあ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 18:53:39.12 ID:sunMNw+P
>>568
しようがない
兄貴と親父がダメになっちまったんだし

御大将とは大工である

2014年09月30日 18:51

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 20:45:27.62 ID:1BBydUsO
これは高坂弾正が言われたことである。

武田信玄公は国法・軍法を、このよう物に例えられた。

「御大将とは大工であると考えるべきである。その下の侍大将、足軽大将、および一切の物頭は
くさび・釘である。彼らは大将の命令を伝える。

出頭衆、あるいは大将の言葉を承って御使に走りめぐる衆は、才槌、金鎚である。
諸奉行は鉋、ノミ、鋸、錐である。
御目付、横目の二十人衆、御中間頭は、京砥、上野砥のごときものである。道具の刃物が切れなくなれば、
砥石を以って刃を研ぐ。

さてまた、総人数は材木である。備は家である。

そうして、よき御大将の分別というのは、番匠箱より思案、工夫という名の壺金を取り出し、
古今に栄え、あるいは衰えた家の軍立の例に引きあわせて自軍の備を見て、材木が腐った家の柱を抜き替え、
また新しい柱であっても、やがて折れるであろう所は、使わずに火にくべるように、
随分と思慮して全体を見ることが必要なのである。」

(甲陽軍鑑)




912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:29:02.73 ID:+SrwTmVi
人は家

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 22:34:21.26 ID:JPew2WhF
人は掘る

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:35:38.70 ID:DQjemt6O
人は城・石垣・堀
情けは味方 仇は敵の方が短くてわかりやすいな

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:43:17.71 ID:BYTve94f
それ下の句があったのか・・・知らんかった・・・

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/29(月) 23:57:25.03 ID:SiOnZHRP
>>914
短歌の方がいいじゃん

雑談・例の武田信玄のラブレターの件などについて

2014年01月30日 19:15

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:56:03.48 ID:XRYkZD9m
一応言っておくと、例の武田信玄の書状は、宛名に「春日源助」とあるのが、「春日」の部分が後世の書き足しだと
判明していて、なおかつ高坂弾正は「源助」と名乗ったことはないので、この書状は高坂弾正宛ではないと
現在はほぼ証明されてる。

229 名前:            [sage] 投稿日:2014/01/28(火) 20:13:27.89 ID:oXF87jrd
亀過ぎてなんだが
>>104も言ってるように、例の武田信玄のラブレター「浮気の弁明」って、
ほぼ100%に近い確率で高坂弾正に送ったものじゃないらしい。
結構いろんな戦国を扱った本とかにも書かれていることだが
高坂昌信は幼名は源五郎で「源助」と名乗ったことはない、ばかりか
歴史新書刊の『戦国武将と男色』によると
宛名の名字は「原物の苗字を消して」書き変えてあるとか。
弥七郎との男色遊びにうつつを抜かしていたことを疑われ、口うるさい老臣=源助に咎められた。
その弁明のため弥七郎を尋問に来させようとしたところ断られたとする、
いわば弥七郎と男色関係になってないただ親しくしょうとしていただけだが迷惑をかけてしまったという
反省と釈明文だったのではないか、としている。
その老臣とは山本勘助だろうと。
勘助は源助を名乗っていたし、そしてそれがすごいシックリときた。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:22:38.43 ID:Y0k8Yh2o
>>229
まあ昔から今に至るまでそっちの人たちは
「あの有名人も男色だった」って創作するのが好きだしな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/28(火) 22:37:47.10 ID:W2h1GP8n
>>229
高坂昌信の価値値下がり

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:03:18.92 ID:KqdjWVtZ
>>229
老臣てそんな事まであーだこーだ言うのか?

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:04:24.54 ID:LhXBngxh
男色のもつれで、殺し合いとか謀反とかもある時代だからねぇ
もっとも、新しい解釈が正しいとは限らんが

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:14:00.11 ID:utcKB+T2
>>242
信玄の若いころの話だからねえ。

グレてた信長にガンガン言いまくった平手政秀の例もあるし

[ 続きを読む ]

高坂弾正の立身

2014年01月16日 19:12

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 07:41:36.23 ID:RJKrsCC3
拙者、高坂弾正と申すは、武田信玄公の臣下の中で一番の臆病者である。

下々の者から子供たちまでからかって、
『保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃げ弾正』(保科弾正は他人を先に”やる”弾正、高坂弾正は逃げ出す弾正)
と言いふらされたものだ。

私の家は春日源五郎の名を代々継いでいたと言っても、父は春日大隅という甲州井沢の大百姓の
出身であり、私は幼少から故郷を離れ、姉婿と田地のことで公事(訴)に及び、私が負けた時に、
この公事の場からご奉公の命を頂いた。

この時信玄公は22歳、わたしは16歳で、最初は小人(雑役)であったのに、幸運にも廿人衆(徒歩で
軍隊の先導をする下級武士)を経て、はからずも1ヶ月も経たないうちに近習の地位に任じられ、
信玄公の側近く、御膝元に奉公する身となったのだ。なんという幸運な機会に恵まれたことだろう。

その後は、ご意向に沿うことが出来ず仮にも一月もの間仕事を与えられない、などという事もなく、
無難に引き続き奉公いたし、春日弾正と称して尼飾城主に任じられ、今は海津城主の高坂家を継いで
高坂弾正と呼ばれるに至った。

まことに、ご奉公に出仕してから24歳までは、同輩には「あのようなマヌケ者の弾正を昇進させるのは
ひとえに信玄公の見込み違いだ」などと、あちこちから言われたものであった。しかし、この事は
私にとって薬となり、信玄公の意に沿うように。一段とご奉公に精を入れたのだ。

(甲陽軍鑑)




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 20:34:42.42 ID:9idnpS5s
高坂殿の尻穴が大変な事になってる事について一切触れられていないとはどういうおつもりか!!

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:18:55.21 ID:QyqN7lNg
高坂はケツの穴の小さい男じゃないからだろ!
言わせんな恥ずかしい!

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:36:55.83 ID:0WnoPM87
やっぱりこういう流れになるのかよ!

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:56:03.48 ID:XRYkZD9m
一応言っておくと、例の武田信玄の書状は、宛名に「春日源助」とあるのが、「春日」の部分が後世の書き足しだと
判明していて、なおかつ高坂弾正は「源助」と名乗ったことはないので、この書状は高坂弾正宛ではないと
現在はほぼ証明されてる。

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 23:08:01.59 ID:A2ZHz1rm
信玄の書状でも無い?

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/17(金) 11:27:50.79 ID:ME3V0Bit
なんで相手の意見を否定するのに証拠を相手に出させようとするんだよw

「敵に敬意」を

2013年09月29日 19:07

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 20:23:44.23 ID:nMAxIXjX
敵方であっても国持大名ほどの人には、侮蔑して足軽大将とか何とかと呼ぶことはせず、ただ「大将」と呼ぶべきである。

敵の大将を口汚くいうのは、弱将の下に属する未熟な兵達の作法だ。
大体一国の大将ならば、敵味方にかかわりなく、話すときでも書面でも、敬意を表すのが礼というものだ。

何故なら、日本全体でも一国の将と言えるのは百人に満たず、66人にすぎない。
だからこそ、一国の将で古来から続いている大将には、その家柄を思い敬うべきであり、
同様に新たに興った国持大将には、その知恵や強運を思えば、下卑するのは非礼で良くない事である。

敵を謗るというのは、自分の国が逆に弱いからである。
(甲陽軍鑑)

高坂弾正の言葉とされる、「敵に敬意」を求めた文章である。




213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:50:28.48 ID:EG2E+pLz
関係ないけど何でいつも66なんだろう
語呂のよさか?

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:58:05.48 ID:Yr2aFeBO
日本に66国あるからじゃないの?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:59:02.96 ID:WXmCcbYa
律令国が66と普通されてるのは知った上で
壱岐対馬をなぜ含めないのか、てこと?

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 22:43:42.10 ID:Yr2aFeBO
いや、壱岐とか対馬とかの領主を国主と認めるのは無理がねえか?
面積的にも人口的にも。

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 22:46:47.43 ID:TLyaxDR1
陸奥国はざっくりし過ぎ

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:12:36.73 ID:OXNdQZbX
佐渡や淡路だってあるし志摩なんかどうすんだ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:32:07.75 ID:dAO5GwXk
>>216
壱岐と対馬は普通に一国だけど?

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:41:38.30 ID:BEFIsqj9
隠岐も一国やね
八丈島は知らん

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:43:45.37 ID:dAO5GwXk
ああ、江戸時代の国持ち大名の事かな
としても対馬宗氏は一応国主大名

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:57:48.59 ID:0fYBd+Sd
話がかみあってねえな

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 02:19:55.46 ID:BEFIsqj9
>>213
唐の律令制の影響だろう
壱岐国、対馬国入れる場合は備前、備中、備後をまとめて吉備国とし六十六国にするらしい

無理矢理感が強いので書状ではたいてい『日本六十余州』って書かれているね

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 08:25:11.43 ID:neBnQWq3
>>219
いや、ルールとしては国だし、国主だけどさ。
それで実質的に大和の国主とかと戦国武将として同格か、と言われるとなんか違うだろ。
この逸話の場合は、それなりの力のある人として国主を語ってるんだし。