fc2ブログ

決しかねる二つのこと

2019年02月25日 21:29

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 19:56:05.69 ID:kCbdXMQS
山崎の合戦の時、高山右近は自陣にて薙刀の鞘を外し、床几に腰を掛け、未だ合戦に至らないところに、
高山の家臣の甘利という者、彼は高山に寵遇されず、末座にしか居なかったが、高山の前に進み出て、
跪いてこう尋ねた

「私には今ここに、二つのうちどちらを選ぶべきか決しかねていることがあります。恐れながら
殿にその判断を承りたいのです。」

「それは一体何事か」

甘利は言った
「勇智の名のある者は、遠国、他家にあっても伝を求めて家に招き、高知を賜って恩顧薄くありません。
いわんや元よりこの高山家の家臣たちは、殿にとっての干城になるべき人材だとご覧になれば、人並みの
御言葉をもかけられます。

であれば、私が人数成らぬ体にて捨て置かれているのは、そのような御用に立たない者と思し召されて
いるからでしょう。

今、私が敵を斬り陣を破れば、それは殿のお眼鏡が違っていた事となり、これは不忠と言うべきでしょう。
だからといって、攻めかかるのに遅れ、退却することに先立てば、武士の名を失い、父祖を汚し、これは
不孝となってしまいます。

不忠の罪と不孝の罪、いずれが重いのかと、案じわずらっているのです。」

高山は甘利をじっと見ていたが、一言も答えなかった。
そうしている内に、敵すでに近くなると、甘利は

「たとえ不忠の罪であったとしても、拾い頸をし、敵の行く手を遮るくらいであれば、そのように悪しく
捉えられる事も無いでしょう。そして怯弱不孝の罪は重ねて補い難いものですから、あちらを捨てこちらを
取りましょう。」

そう言うと味方に先んじて攻め入り、高山家の一番槍を合わせ、兜首を獲った。
また明智光秀の軍が敗北し逃走を始めると、これを追って光秀の甥である明石義太夫を討ち取った。

直諫すべき時でなければ、みだりに主君の非を言うべきではない。
甘利の言葉はまことに無礼である。しかしその無礼を聞き届け、自ら反省することが出来なければ
暗君と言うべきである。

(武将感状記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 20:44:44.21 ID:Z+5elnds
こんなめんどくさい事ばかり考えてなきゃいかんのかと思うと絶対武士とかに生まれたくないな
もっとも平民に生まれたらもっと悲惨な人生なんだろうけど

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 09:52:51.69 ID:WuMV8JSF
>>761
これは単純に嫌味を言っただけかと

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 11:29:34.76 ID:YGzEIqam
>>761
多分こんなに面倒な奴だから厚遇されなかったんだろうね

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 19:46:02.19 ID:eCED7ohD
高山は松永、和田、荒木、明智、全ての主家を裏切ってる
こんな変節漢にいい家臣がいるわけがない
結局大名より宗教を選び家臣を路頭に迷わせたクズ
スポンサーサイト



伊勢貞興、諏訪盛直の討死

2018年09月21日 09:59

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 18:40:30.90 ID:9YaWm/t0
(山崎の戦いの時)

寄手の先陣・高山南坊(右近)は味方が天王山を取り敷いたのを見て、そのまま山崎の大総門を押し開き、
打って出た。柴田源左衛門の備は総門の間際なので一番にこれを受けて鉄砲を撃ちかけ撃ちかけ防ぐとも、

池田父子(恒興・元助)と中川(清秀)の勢も追々雲の湧く如く競い掛かり、柴田源左衛門は散々に追い
崩され、それより段々と先手を追い立て厳しく厳しく攻め戦った。

中川は山を登って光秀の右備の諏訪飛騨守(盛直)・御牧三左衛門(量重)と弟の勘兵衛(御牧量則)の
左から打って掛かる。池田父子は川を越えて左備の伊勢与三郎(貞興)・津田与三郎(重久)の備の右を

突いて互いに箕の手形になって左右より挟んで引き包み討たんとす。斎藤(利三)の備に組みする先手の
近江勢は三方の敵を見て大いに恐れ、裏崩れして四方に敗走した。阿閉・後藤・多賀・久能・小川らは

取って返して諏訪・御牧を救わんと備も立てず専らに中川と池田に打って掛かり、一戦に追いまくられて
四方へさっと逃げ散った。高山・中川・池田の輩は逃げる近江侍どもは追い捨てて、また津田・伊勢・

諏訪・御牧らを討ち取らんと競い掛かる。伊勢が諏訪と御牧に向かって「さても申す甲斐もなき近江勢の
臆病者! 足手纏いが何になろうか、落ち失せたことは幸いなり! いざや花々しく討死して骸の恥辱を

すすぐべし!」と言えば御牧兄弟も同意して残兵千余騎は魚鱗に備え、勝ち誇る池田父子・中川・高山の
9千5,6百の大勢の中へ遠慮会釈もなく馳せ入り、敵を数多討ち取って伊勢も諏訪も同じ枕に討死した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


南坊が最初に総門を固めたのは

2018年09月13日 21:13

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 14:10:04.47 ID:Lb9DTZ1/
(山崎の戦いの時)

明智勢総軍1万4千余人は淀を出て狐川まで打ち立った。先手は川より向こうの方へ出張、
光秀は川より東に陣取った。明けて6月13日寅の刻、池田父子(恒興・元助)が

山崎表へ進んで見れば、高山南坊(右近重友)は総門を差し固め他の兵は1人も通行させ
なかった。池田父子はこれを見て、「高山は異心か! 油断するな!」と言いながら、

川に沿って細道より山崎の東総構の外を巡り、明智勢に打って掛からんと馬を速めて急ぎ
行く。南坊はその間に総門より打ち出て池田勢より遥かに先に進んでいた。

かくて南坊が最初に総門を固めたのは他の勢を入り交えずして先陣せんと心掛けた武辺の
嗜み、素晴らしくもまた殊勝なことよと敵味方ともに感じ入った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


荒木は思わず計らず、信長の敵と

2018年03月18日 19:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 20:24:38.14 ID:3TbVHzKY
天正6年の秋の頃より、摂津国有岡方面では雑説が流れ、しきりにこの方面の者達が
織田信長の敵に成るとの風聞が聞こえた。それはあってはならないことであると、
信長より織田政権の歴々が差し下され調査が行われるということで、荒木信濃守(村重)にも
雑説があったため、彼は茨木城まで移動し、そこから安土へと向かおうとしたところ、
茨木城の守備を担当していた中川瀬兵衛(清秀)がこのように諫言をした

「絶対に安土に行くべきではありません。安土に置いて切腹させられるよりも、摂津国表へ
軍勢を引き請けるべきです。合戦に及んだとしても、手に溜めず切り崩せるのに、安土に置いて
犬死するなど、沙汰の限りです。」

もう申し留めたため、荒木は有岡に立ち返り、思わず計らず、信長の敵となってしまった。

この時荒木は、国中の年寄共を集めて談合に及んだのだが、皆も中川瀬兵衛が申す所に
同心した。
その中で、高槻城守であり、高山飛騨守の息子である高山右近だけは
「言語道断である!荒木摂津守の普段の覚悟と相違した、曲事の仔細である!
信長の御芳志のかたじけなさを、たった今忘れ去り御敵申し上げるなど、
沙汰の限りである!」

そう、一人反対したが、彼以外は尽く中川の意見に同心し、高山の意見には同意しなかった。
ために是非に及ばず、高山も最後には摂津国衆の総意に同心した。

(立入左京亮入道隆佐記)

ちなみに荒木村重、「信濃守」は自称(受領名)で、「摂津守」は正式な任官ですね



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 21:04:41.19 ID:jtiZDeeJ
このあと、清秀は右近に説得されて荒木を裏切るんだよね

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 00:21:49.38 ID:yFZe1MKP
そもそも荒木が翻身しようとしたきっかけも中川が原因なんだよな
早死にしても仕方ないわなこのオッサン

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 05:58:38.93 ID:jdyuLToD
でも賤ヶ岳だと…よく分からない人ですよね…

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 07:38:22.99 ID:4WKc0lBa
人望はあったらしい

信長公の時代の人々の雑談

2015年09月17日 08:55

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 23:06:07.98 ID:a/0PR1Q8
高山南坊(右近)、長九郎左衛門(連龍)、山崎長門守(長徳)、内藤如安、彼らは信長公の時代の人である
彼らが集まり雑談した際、こんな事を言った

「信長公が天下(畿内近国)に入られると、国の関々を開けられ、往還を一つにし、人の移動を
ゆるゆると仰せ付けられた。これは日本の国々の次第をよく聞き届ける事ではじめて、六十六カ国を
治めることが出来る、との御分別からであった。

太閤様は御所様(家康)との和睦が済んだ時、太閤様の御分別には、家康公と和解した以上、
最早日本は治まったと思われ、高麗船・唐船などの着く、九州の長崎、博多津、坊津といった浦々で、
唐船に乗る商人などをしきりに呼び付け、高麗や唐への渡海の様子を聞かれていた。
このような事を始めたのは、御所様との和解とほぼ同時期で、当時早くも高麗にお心がけを
されていたのだと聞こえている。

御所様(徳川家康)が関ヶ原の役も治まり、大阪へ移動する時、羽柴肥前守殿(前田利長)が
申し上げた。その内容はこうであった

『秀頼様には遠国に領地を仰せ付け、大阪城はこの勢いで接収して然るべきです。』

これを聞いた御所様は思われた『いやいや、これは肥前守と仲の良い者達が内談し、私の胸の内を
知ろうとしてこのような事を言っているのだ。』
そして肥前守への返答は

『いやいや、今回のことは治部少輔の仕出かしたことであり、秀頼公はご幼少であるため責任はない。
ただ、このまま別状なくこちらに置き奉るつもりである。』

こう答えたゆえに、その時は特に混乱が起きなかったのだと言われている。

御所様のご分別のように、大名衆は、この二人の談合において、御所様の口ぶりを集中して見ており、
そして様々に推量した。肥前守の提案に乗らなかった事は、偏にご分別厚く、おおくくりに時節を
ご覧に成ることの上手であるかな。』

彼らはこのような雑談をしていたと聞いている。

(川角太閤記)



713 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/17(木) 09:33:15.89 ID:xWUpAs5D
山崎長門守って吉家じゃなく一族の長徳の方だろうね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:19:48.42 ID:i3bbEaxY
高山右近と長連って個人的にすごく良いメンバーだ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:38:02.04 ID:kwnDb1cB
ながつらだって、ぷっダッサ(笑)

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 01:39:22.90 ID:MMe+h1uc
お、おう

【ニュース】キリシタン大名の高山右近「福者」に 

2015年06月21日 14:09

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 10:42:11.08 ID:IWGHGpvY
【国際】キリシタン大名の高山右近「福者」に…バチカン審査委了承
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1434848601/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150621-00000002-mai-soci



211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 14:43:26.82 ID:f/EHBiN5
福者とか聖人ってのは殉教者でないと認められないのかー
右近はべつに磔になったわけじゃなく、追放だからあんまりピンと来ないな


まあジジイになってから、北陸から九州まで護送されて
船旅も楽じゃなかったろうから、すぐ向こうで死んじゃったわけだが

天主教のこと

2015年06月18日 18:01

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 12:58:05.93 ID:KmJa9IYX
慶長19年正月、前田利常より使者を以って幕府に申し立てがあった。それは高山右近、内藤飛騨守(如安 )が
天主教を信じる徒であることが明白であるため、両人を召し捕り牢に入れ、京都所司代まで送ったことを
注進するものであった。
また京都所司代の板倉伊賀守(勝重)よりも、邪宗の徒数十人を召し捕った旨注進があった。
その後、高山、内藤を始め百余人を長崎に遣わし、長谷川藤広に命じて船に乗せ遠島に追放となった。

この天主教が日本に渡って来たのは、大友家より始まった事だという。
大友宗麟は大国を領し西海まで勢いを振るっていた頃、南蛮国と音信し彼の国の者と交易が始まったが、
この宗門を信じる者は交易でも必ず利益が多かったため、日本の民も追々邪宗門に入る者が多くなり、
大友宗麟も信じるように成った。それより追々広まり、京都にまで広まって、高山右近、荒木摂津守(村重)らも
みな邪宗の信者と成った。

ところが、荒木村重が織田信長に対し逆意を起こした時、邪宗の僧が一人、荒木方であった高山右近の元に
使者に立ち信長に味方するよう招いた。高山は即座に信長に帰服した。これによって荒木は叶わず逃げ去った。

この功績により、織田信長は邪宗の僧を取り立てた。そのため天下に邪宗が広まったという。


(明良洪範)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 13:14:55.04 ID:WmjIKTeR
本能寺の時はイエズス会は右近に日本語では明智への帰順
ポルトガル語では帰順の反対の手紙を出したとかいうけど
この時もどっちに転んでもいいように日本語ポルトガル語で二枚舌使ってたりして

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:18:14.07 ID:zJOa01Hx
邪宗の僧って誰のことだろう?

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:36:57.06 ID:nJFH4AZE
>>948
オルガンティノ

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 00:56:35.78 ID:ZqwZEobT
>>947
明智に強要されたからやで

ニュース・高山右近が「福者」に

2015年03月23日 18:30

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 12:13:02.09 ID:JX5Y7Kcm
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150322-00000002-mai-eurp

>法王は禁教下に信仰を死守した潜伏キリシタンを「指針」とたたえた。
>キリシタン大名の高山右近(1552~1615)がカトリックで「聖人」に次ぐ「福者」に認定される見通しで、
>法王は来年、日本で予定される列福式に「可能なら行きたい」と述べたという。




772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 12:51:49.61 ID:OKQLwotX
摂津での下剋上を生き延び、山崎の合戦で奮闘
利休七哲の一人で、城造りも出来る。

江戸時代になり、藩が先祖の話を盛ってプロパガンダされた人達
よりも凄いと思うが、何故かいまいち人気がでない印象。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 13:09:43.02 ID:c6wqUJta
右近を間違いなく美化しているフロイスなど宣教師の記録を読んですら、一種の狂信者みたいな印象しか持てないんだよなあ。
領内で寺社の破却に強制改宗、僧侶や改宗を拒む人間の追放とかもやってるし。

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 13:52:53.58 ID:UI+n2Hb0
2015年北陸新幹線開業

観光地金沢

金沢城

高山右近

高山右近について知る人が1000人くらいは増えそう

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 13:56:19.71 ID:yhrG7vrH
キリシタン大名って歴史ある神社仏閣をけし飛ばした印象であんまりイメージ良くないなあ
世間一般的にはどんなもんなんだろう

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 14:04:04.68 ID:4fgLFcC2
キリシタンじゃなくても寺を燃やした人がいるから何とも言えない

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 14:04:30.73 ID:5Aes7DBh
へうげもののほうが知名度アップ大きいか

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 16:32:15.27 ID:D7GH2UlQ
首切られたのに生き残ったり、
茶人や庭師の功績があったり、
外国でキリスト教の偉い人として人生終えたりする凄い人だと思ってる

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 17:23:47.03 ID:wUXvendR
昨年は生田斗真が演じてたので知名度アップしてそう。

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 20:19:29.05 ID:qbwZI+nq
高山右近というと工場長と三斎様とBBQパーリィやった人ですね

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/24(火) 11:15:05.43 ID:D6tZgQIG
寺を焼き討ちしたのか…

高山右近の宗教政策

2014年03月18日 18:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 00:33:22.16 ID:9DuFYx0x
大河に高山右近が出てきたので、彼の宗教政策がどんなものであったかを、ルイス・フロイスの日本史から一つ


信長の在世中のこと

高山右近殿の所領である、高槻領の仏僧たちは、我らの教えを聞こうとも、それを望みもせず、ましてや
キリシタンに成ろうと決心することはなかった。
高山右近殿は、彼らの所にあれこれ使者を遣わして説教を聞くようにと願い、

「もし全くその気持ちがなければ、予は貴僧らを領内に留めおく訳には行かぬ」

と伝えた。そこで終に彼らは説教を聞くに至り、百名以上の仏僧がキリシタンと成り、領内にあった
神と仏の寺社は尽く焼却され、そのうち利用できるものは教会に変えられた。

それらの中では摂津国で高名な、忍頂寺と呼ばれる寺院があった。この寺は現在では、
同地方で最も立派な教会の一つとなっている。
そこでは大規模に偶像が破壊された。すなわち彼の地には多数の寺院があり、仏僧らは山間部に
これら大量の悪魔の像を隠匿していたが、それらはまもなく破壊され火中に投ぜられた。

(ルイス・フロイス『日本史』)




769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 20:17:25.11 ID:NH+WarT0
やっぱり右近も寺社焼き討ち仏像破壊してたのか

前田利長、未来への遺産

2013年07月05日 20:01

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 02:45:02.26 ID:pyXRG0Tz
利長、未来への遺産


「瑞龍公世家」や「加賀藩史料」などによると加賀の太守・前田利長は、
弟の利常に跡を譲ってから自身は越中の開発をめざした。

関野と呼ばれた沼地を高山右近に拓かせ、詩経から引用して高岡と命名。
「前田家長久のために、何とかして財政の基盤となるものを…」
この頃病魔に侵されて臥せりがちだった利長は死を意識しつつ、高岡の整備を進める。
そして領内の優秀な鋳物師たちを集め、五千坪近い土地と諸役免除といった特権を与えて優遇した。
それは高岡を工業都市として発展させようとする利長の決意の表れでもあった。

利長の死後、一時高岡は衰退したものの利常たちの庇護で盛り返し、金物加工をメインに越中経済の中心になった。
そして今でも富山県は銅工業やアルミ加工などにおいて日本一のシェアを誇る工業県の地位を守り続けている。




613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 03:30:50.27 ID:STkZBiM/
神通川…いや、なんでもないです。

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 03:48:56.63 ID:2oT87jeU
赤座さんが溺れたのは庄川だっけ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 05:47:23.85 ID:pyXRG0Tz
>>613
アレは飛騨からの汚染だから越中は被害者なのよ

天正12年・羽柴筑前殿に関すること

2012年08月28日 20:52

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/28(火) 06:47:12.43 ID:aOmWG0Hq
『ここに羽柴筑前(秀吉)殿に関して、尊師が知りたいと思われるであろうことを少々述べます。

筑前殿は日本六十五カ国において、内裏に次いで、最も富み、かつ強勢によって日本全国より尊崇を受ける大身です。
一般の噂に寄れば、彼は何事においてもその前任者信長と比べ、遥かに優越しています。

彼は単にデウスの教えに反対しないのみならず、大いに我等が聖教を尊ぶ姿勢を示し、
坊主の欺瞞の宗旨(仏教)よりも真理であることを認め、キリシタンを信頼し、常に側近にある大身等の子息が
キリシタンとなるのを見て喜ばれます。

ジェスト(高山)右近殿に対しては、毎日城中において語り、彼を賞賛し、青年にしてかくも欲を制する者はいないと
考えておられるそうです。

他にもまた、デウスの教えに対する羽柴殿の愛情と行為を我等が信じるべき、多くの確実な理由があります。
その主なものは、彼が親類及び異教徒である親友よりも、キリシタンの方を信用しているという事です。

例えば、大坂に次いで彼が有する最も良き城は信長を殺害した明智の居た城ですが、ここは彼の地位にとって
重要なものの一つであるため、彼は稀な才能を有するキリシタンの老貴族(不明)を同城の守将としました。
彼の書記官(安威五左衛門尉志門)もキリシタンです。

また海の司令官にして塩飽諸島(瀬戸内)から堺に至るまでを監督するのは、尊師もご存知の(小西)隆佐の子、
アゴスチニョ(小西行長)です。彼は今、五畿内の地方において大いなる名声と収入を有しております。

さらに羽柴殿がその身辺を守るために常にその側近においているジュスト右近殿は、この地方において
最も槍術における達人として知られています。

ジョーチン隆佐はその収入の管理者にして、茶の湯の道具を保管しています。
尊師がご存知のようにこの道具は日本の宝物であり富です。

シメアン池田丹後(池田教正)殿に対しては大いなる名誉を与え、過ぐる戦争において為したことに対し、
その地位を引き上げ収入を増やすことを約束しました。

また大和国に逐われた三箇(サンチョ)殿の子マンショを呼び戻し、その戦争における勇猛さを見て、
多くの恩恵を与えて自分に仕えさせました。』
ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)

後に禁教令を受けて大いに非難するフロイスも、この頃は秀吉をキリスト教の外護者としていたのである。





200 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/08/28(火) 08:07:35.30 ID:RaXf7quw
さすがの神もラスボスの豹変までは予知できなかったか

天正12年、荒木村重

2012年08月23日 20:58

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 17:42:28.64 ID:0hZ60kwz
荒木摂津(村重)は摂津国の領主であったが、3年間信長と戦い、その頃彼に使えていたジェスト(高山右近)の言を
用いなかったため、その領地を尽く失ったことは、尊師の既にご存知のところです。
彼はそれ以来五畿内のキリシタンに対し、心底からの憎悪の念を抱きました。

信長の死後、彼は大いに謙遜を示して羽柴殿(秀吉)に仕え、他の小姓と等しく茶の用を務めていました。
そして彼は海の司令官アゴスチニョ(小西行長)とその父が羽柴殿より寵を受けるのを妬み、
羽柴殿の前で密かに、また極めて巧みに彼らに対する重大なる偽の証言をしたのです。

彼が巧妙にこれを為したため、羽柴殿はこれを信じ、ジョーチンとアゴスチニョ父子の任を解き、
全キリシタンに大いなる打撃と恐怖の念を与えました。
ですが我等の主デウスは罪なきものに慈悲の目を向け給い、荒木は大いに信用を失い、
ジョーチンとその子アゴスチニョは最初に地位に復帰したのみならず、今はさらに恩寵を加えられ、その収入もまた
倍増するに至っています。

その荒木が羽柴殿と共に茶の湯の場にあった時、羽柴殿はジュスト(高山右近)の事について、その類い稀な
才知と善良なることを語り始めました。彼は荒木にとって甚だしき敵なので直ちにこれに答えました

「そうではありません。殿下が賞賛されている所は彼が外見を偽ったものであり、心中にそのような善良さは
持っていません。」

この言葉に羽柴殿は大いに怒り、彼を呼ぶのに再び「汝」という言葉を使って言われました

「去れ!かくの如き言葉を発してはならぬ!余は彼が内心も外見も異なる所がない事を良く知っておる!」

これによって荒木は直ちに羽柴殿の寵を失い、羽柴殿は再び彼を見ることを欲しませんでした。
荒木は多数の仲介者を通じて宥免を請いましたが、羽柴殿はついに彼を許しませんでした。

そして今度の戦争(小牧・長久手の戦い)において羽柴殿が多数の人を殺した時、荒木は都において彼を軽蔑する
発言をしました。この事が大阪にあった羽柴殿の夫人の耳に入り、彼女より使者を以って厳しく譴責されたのです。
荒木は羽柴殿が帰京した後、殺害されることを恐れて、妻と家を捨てて寺院に入り坊主となりました。
ですが果たして死罪を免れる事ができるかどうか、明らかではありません。
(ルイス・フロイス・天正12年次日本耶蘇会年報)

ルイス・フロイスによって伝えられる、天正12年(1584)ごろの荒木村重の動向である。




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 19:24:16.36 ID:ijGl90yK
そりゃ村重は右近に梯子外されて酷い目にあってるんだから文句の一つも出るだろうよw

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 20:17:50.77 ID:pm0V7Yjv
>>114 妻を捨てたということは、道糞になって以降に再び妻帯したのかな? 単なる妾?

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 07:48:53.20 ID:tZ3UYXU1
道糞さんは波乱万丈の結果、比較的良い晩年だったよね。
フロイスの記述は貴重な歴史なのに、もう少しフェアに記述されていれば・・・

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 10:35:02.23 ID:g66CsgaY
道糞は賤ヶ岳で中川清秀討ち死にして嬉しかっただろうな
もうちょっと長生きしてればジュストが追放されるのも
見れたのに

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 10:51:45.73 ID:38zWfZKr
道糞て見るとつい「みちぐそ」さんて読んでまう…

黒田官兵衛陥落のいきさつ

2012年06月17日 21:05

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 08:11:23.18 ID:bipRdTOp
黒官「おや小西殿、その異国の書物はなんですかな?」

小西「これは黒田殿、この書物は聖書と言って・・・・・」

黒官「ふむふむ・・・」

ガシッ!
黒官「!!」

蒲生「黒田殿!伴天連の教えは、」
高山「良いものですぞ!」


黒田孝高は最初小西行長がきっかけでキリストの教えに興味をもち、蒲生氏郷高山右近
強く勧誘したので教徒となった。

ルイス・フロイスの日本史より

黒田官兵衛陥落のいきさつ




987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 09:22:37.79 ID:ouFC4Z+h
これは悪い話なのかw
その後黒官も戦場に説教師を連れて行って熱心に布教をするんだよな。
毛利秀包や大友義統を教徒にしたのは黒官。

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 09:24:21.86 ID:vz74pWME
官兵衛さんは腹黒キャラに描かれることが多いけど数々の逸話からすると人当たりが良く付き合いやすい人と思って良いのかな

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 09:54:53.41 ID:E7pWIq+2
実はソレすら演技…なんてねw
謀殺とかはあの件くらいしかやってないし、割と黒官さんは汚れてないイメージ

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 10:27:34.55 ID:v0aB3C/m
黒官は冗談が好きで思わず野心めいたこと言ったばかりに腹黒キャラにされてるイメージがある。
信長が大魔王にされたように。

本当は結構な律義者だったのでは?
関ヶ原後の九州北部制圧もただ単に反乱分子の鎮圧に回ってただけっぽいし。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 12:34:35.39 ID:lwLnVLvX
名前に黒がついていれば悪役にされるんだよ、
と大伴黒主が

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 12:50:01.77 ID:vKFNom+q
ホッシャ

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 13:18:17.41 ID:wu8WFZfR
>>989
城井さんの件も、時間的制約もあってやむを得ずって感じだし、後で神社建てたりと、
生涯で悔いの残った出来事ランキングのけっこう上位っぽい

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 13:22:04.34 ID:FeA03xLK
小西高山に嵌められたら悪い話?

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/17(日) 13:48:47.80 ID:T61oWLJw
城井で手間取ったら佐々の二の舞だからね

高山右近の神社仏閣破壊と、普門寺の毘沙門天像

2012年03月24日 21:32

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 13:54:55.97 ID:ej/gOXIN
キリシタン大名として有名な高山右近は領民にもキリシタンになるよう布教を熱心に行い、
それに伴って領内の神社仏閣を破壊して仏教徒に迫害を加えるようになった。
領内にあった普門寺にも高山右近の軍勢がやってきて危機的状況におちいった。その時、
寺の中に安置されていた毘沙門天像の憤怒の形相がさらに怒った顔に変貌し、強烈なオーラを放った。
すると、右近の軍勢の陣中に魔風が吹き荒れ、おそれおののいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすかのように
逃げ去っていった。こうして、普門寺は破壊の危機をまぬがれたのである。




432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/24(土) 14:07:45.28 ID:jWhDnIq7
でも右近の土地では神仏のご利益は激減し・・・
日本赤軍のテロリストが10年潜伏できる摩訶不思議な街になってしまった・・。

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 15:17:22.18 ID:EcmlSvgL
戦国時代の仏像は暴れん坊が多いな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 18:20:05.24 ID:Pkwbnu+v
日本各地で鬼が暴れてるんだから仏像もジッとしてられないだろ

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 20:35:59.24 ID:gls/6TXm
毘沙門天にいっては現世に降臨してるしなw

村重、出家する

2011年09月05日 22:04

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 00:24:20.49 ID:in8MiQF5
村重、出家する


信長に謀反して敗れ、天下に汚名を轟かせた荒木村重
彼は反省するどころか、いち早く降伏して助かった高山右近を恨み、そのためにキリシタン嫌いになっていた。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
荒木はキリシタンである小西行長を讒訴した。
が、これは失敗し、小西は何ともなかった。

しかし懲りない村重。
ある茶会で秀吉と同席した時、秀吉が右近の話をし始めると、右近を讒訴しようとした。
「殿の讃えられる右近の勇気は実は見せかけのもので、本物ではございません」
「出て行け!右近が裏表の全くない人物であることは俺が良く知っておるわ!」
秀吉の怒りを買った村重は、長く引見を許されなかった。

まだ懲りない村重。
秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣すると、京にいた村重は、今度は秀吉の悪口を言い始めた。
これが運悪く北政所の耳に入ってしまい、彼女に叱責された村重は、死刑にされることを恐れ、ついに出家したという。




703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 00:30:08.67 ID:91CMIHtn
小物すぎだろ。出家するだけで命が助かってよかったな。

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 00:31:19.43 ID:kXaVKb61
さすが道糞の名にふさわしい男

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 00:38:20.69 ID:8CcnIR3T
>>702
なんか、荒木道糞と名のる人間とは思えない小物振りだな。

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 01:00:09.18 ID:S34bd7Vb
謙遜して道糞名乗ったんじゃなくて
本当に心根クソな奴が開き直っただけに見えてくる

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 01:52:16.05 ID:HzJyI8Kr
秀吉が大物に見える

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 02:05:30.49 ID:67lIseDQ
言った後で周りの反応見て後悔するタイプなんかねw

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 08:32:52.36 ID:qICeGW/6
結局はウコンも追放されキリシタンも絶滅だから荒木さんの言ったことは効いていたわけだ
さすがだ

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 11:41:39.21 ID:UwBRUzbm
元ネタ宣教師くさいなw

711 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/05(月) 12:59:20.67 ID:BO/3Tn1L
糞だけに肥やしになったわけだw

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/05(月) 13:31:53.49 ID:m84arMM+
と言うか荒木は秀吉とトラブッテ織田家から離反したのに何やってんだww

賤ヶ岳の中川瀬兵衛と高山右近・考えさせられる話

2008年10月16日 00:19

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 14:57:01 ID:AqjKZIq2
ちょっといい話というより、ちょっと考えさせられる話

 羽柴秀吉と柴田勝家が争っていたころ、勝家配下の武将佐久間盛政が突出して秀吉方の
砦に侵攻して来た。
 砦を守っていた武将は高山右近、中川瀬兵衛の二名で、それぞれ300人ずつ手勢を従えていた。
高山右近は敵の侵攻に対し、「こちらは合わせて600人しかいないから、ここで無駄死にするよりも
一時撤退して本隊と合流してから戦おう」と主張し、それに対して中川瀬兵衛は「敵の進撃を少しでも
遅らせるためにここで籠城しよう」と主張した。
 結局、二人は喧嘩別れになり、高山右近率いる300人の兵のみが砦から撤退した。残った中川瀬兵衛の
軍勢300人は佐久間盛政の攻撃を奮戦して受け止め、全滅するまで戦い、進撃を遅らせることには成功した。
 世間の人々は命がけで戦った中川瀬兵衛を勇者としてほめたたえ、戦友を見捨てて逃げた高山右近を
臆病者として非難した。だが、部下の命を無駄に死なせたくないと撤退を選んだ高山右近と、部下を死なせる
ことになっても全体の勝利に貢献したいと思った中川瀬兵衛。本当に正しかったのはどちらなのだろうか。




322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 16:25:35 ID:UsfC1+4C
俺としてはどちらも悪くない判断だとは思う

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/13(日) 17:59:25 ID:4T6p3u6I
>>321
当時なら中川。現代なら高山が正しい…だと思うけど。
ただこの戦いに限れば、戦死しても無駄死にでは無い気がする。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 18:02:37 ID:Njo99i/G
上司にしたいのは高山で、部下に欲しいのは中川だな

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 20:15:16 ID:RoMbE5lx
高山も残って損害を与えすぎると、陣取らないで素直に撤退していた可能性があるからな。
高山の選択で正解!



326 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/13(日) 21:17:58 ID:5SAhL3Iq
小牧長久手で羽柴秀次が家康に補足された際に堀秀政は攻めてきた徳川の一軍を撃破したが
その後さらなる敵軍に包囲される危機が迫っていたので、先陣の援軍要請を無視してほぼ無傷で撤退してしまった。
急を聞いて駆け付けた豊臣の援軍が現れてた時には先陣の池田や森は討ち死に。
戦上手の堀はこんな感じの行動をしてる。
やはり一戦して小勝でも良いからポイントを稼いで一気に撤退するが解答だろう。
秀吉に激怒された秀次が堀を恨んだかどうかは知らんがな!



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 22:19:53 ID:jk3Vh3es
>>321
両方とも残って籠城していても、
両方ともに撤退していても全滅する可能性が高いんじゃないか?
2つに分かれて片方が籠城して時間稼ぎしたから
結果的に高山の撤退が成功したんだと思う。

328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/13(日) 22:21:30 ID:5R3g+BX/
>>321
中川思考の武将
道雪、宗茂、紹雲、家久、義弘、元春、左近、幸村、謙信

高山思考の武将
信長、秀吉、義久、宗麟、隆景、元就、家康、氏康、政宗

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 22:49:44 ID:5SAhL3Iq
>>328
中川思考でなおかつ佐久間ごときレベルなら勝っちゃいそうなメンバーだなw
柴田も敵数を誤認して撤退しそうw
このまま後詰めに敦賀で待ってるよ~って伝令出して勝手に追撃戦に移りそうだわw
高山思考のメンバーは確かに残っていたら全滅しそうなメンバーだから撤退して後詰め待ちした方がいいな。
まーこの後に秀吉は神速の行軍しちまったわけだが。