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井田次郎を討ちとる事

2022年06月25日 15:37

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:26:12.05 ID:DUnRauTi
大友興廃記」より「井田次郎(井田親氏)を討ちとる事

立花城主・戸次道雪(立花道雪)、岩屋城代・高橋紹運がある時会合して評定することには
紹運「秋月種実は宗麟公に属せず、古所の城に籠り、われらが領土を塞ぐのみならず、ややもすれば立花・岩屋に手を回し人民を悩ましておる。
宗麟公も近日中に古所の城に押し寄せ、一戦すべしと思われていることだろう。」
道雪「かねてから我もそう思っていた。
とはいえ、かの城は三方は険阻にして山が高く鳥でなければ通えぬところで、一方は平地に続くといえど道が狭小な天然の要害である。
力攻めでは利を得ることはなかろう。
近くの大日寺は後ろに石垣山があり、前は平地である。
立花・岩屋、両城の兵六千人を出し、屈強な兵三千人を石垣山の後ろに隠しておいて
足軽の者を三百人ほど出し、種実の城下のあちこちに放火をさせ、秋月勢を誘い出すのはどうであろう。
足軽たちには弱々しく逃げさせ、大日寺まで引き上げさせれば、秋月兵は勝ちに乗じて寺まで来るであろう。
そこへ石垣山に伏せていた諸軍勢で四方から攻め寄せて、一人も残らず討ち取るのがよかろう」
紹運ももっともだと賛成し、ひそかに諸軍勢を石垣山に控えさせたあと、翌日の早朝からその企てを実行した。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:28:29.96 ID:DUnRauTi
秋月種実は城下への放火の件を聞き、井田左馬之助(井田親之)の嫡男、井田次郎(井田親氏)を近づけ
「急いで道雪・紹運の雑人らの首を刎ねよ」と命じた。
井田次郎は「それがし不才でありながら弓馬の家に生まれ、十三より侍一与の頭を仰つけられ、二十の今日にいたるまで数度の高名をあげました。
これはすべて君恩の厚きによるものです。
勝敗は軍勢の多寡で決まるものではなく、時の運によるものです。
このたび敵が小勢だからといってあなどるのは良将とはいえません。
とはいえ時を急がねばならぬ時に猶予するのは臆したと思われるでしょうから、すぐ出向きます」
と千人の兵を引き連れて道雪・紹運の足軽どもに打ち掛かっていったところ、足軽どもは大日寺を指して逃げていった。
秋月兵たちが五里ほど休まず駆け、疲れたところに石垣山に伏せていた兵、四千余が襲いかかって来たため、秋月勢は驚いた。
しかし親氏は下知して軍勢を鶴翼に開き、魚鱗の敵に当たり、命を惜しまず戦った。
とはいえ秋月勢は疲労のうえ小勢であったため、次々討ち取られていった。
親氏が討ち死にの覚悟を決めたところに、道雪の従者、十時摂津守(十時連貞?)が
「御名字を名乗りたまえ、組み打ちをいたそう」と言って来た。
親氏「名は名乗らぬが、組み打ちには応じよう」
と馬上でむずと組み、ともに落馬した。
十時は老武者で(連貞は当時35歳くらいのはず)、親氏は若武者のため、十時は押し伏せられて頸を掻き切られそうになった。
そこへ駆けつけてきた十時の郎党が親氏を打ち、親氏が弱ったところを十時は頸を掻き切った。
十時が親氏の相貌を見たところ、年の頃は二十ほどで、容顔世にすぐれ、たとえれば梨花が春雨に濡れて綻びているような美しさであった。
死骸をあらためると油箪に入れられた横笛が出てきたため、顔貌といい、常人ではあるまいと道雪・紹運に横笛とともに首実検ということになった。

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:31:35.24 ID:DUnRauTi
両大将とも涙を流し、誰であろうと思っているところに紹運の兵に見知ってる者がいて
「これこそ秋月種実が家老・井田左馬之助親之が一子、井田次郎親氏と申す者です。
十二、三歳の時より勇者の誉れを得て、秋月家中では文武両道の忠臣として崇敬を集めている者でありました」
と申したため、道雪・紹運とも感涙し
「人の親として子を想う気持ちは誰でも同じである。親之も不憫なことだ」
と死骸に笛を添えて丁重に親之の方へ送り届けた。
親之は道雪の使者に「弓矢を取る者のならいとはいえ、戦場では子より先に死のうと心を定めておったのに、
ただ一人の息子である親氏に先立たれるとは、跡に残れる老いぼれの身こそ口惜しいことよ」
と不覚の涙を流し、使者もともに涙を流した。
親之は「愁嘆にひたってしまい、道雪の情けに礼を言わずすまなかった」と言ったのち、主君・秋月種実に息子・親氏の訃報を知らせた。
種実は驚き、いそいで井田の私宅に駆けつけ、頸と死骸を自分の膝の上に抱き寄せ、髪を掻き撫でて咽び泣いた。
種実「ああ幼稚の頃より我が膝の上にのせ、成人後もその才を頼もしいものと思っていたのに短命で死すとは
噫天喪予(ああ、天われをほろぼせり)」
と泣いては口説き、息絶えるかのようにのたまった。
そののち種実からも道雪に、親氏の死骸を送り届けたことへの礼があった。
老父・親之は「ただ一人の息子に先立たれ、老衰の身として甲斐なき命をながらうことよ」
と明け暮れに嘆いていたが、しばらくして合戦が起きた時
「このたびの合戦にて必ず討死すべし」と思い定め、
出陣の朝、親氏を葬った寺に詣で、本尊に暇乞いをしたあと、一首の歌を仏壇の左の柱に書きつけた。
「子を思ふ、道にはよしや迷ふとも、後の世照らせ、有明の月」
親之はその日の戦において先駆けをし、比類なき働きをしたあと、戦場のうちに命を留め、名を九州の青天に挙げたということだ。



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子孫に於いて疎略の義は有るまじきと

2020年01月18日 14:51

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 00:33:23.36 ID:YdSzXlXL
高橋紹運公が未だ御若年にて豊後に御在居の時、弥七郎(孫七郎ヵ)と申していた時分、御舎兄の吉弘鎮信公より、
彼を斎藤鎮実の御妹と婚約させたいとの仰入があり、これにより縁談についてはまとまったのだが、その頃豊前表
では中国衆との防戦の最中であり、かれこれと時が移ってしまった所、ある時孫七郎公が斎藤鎮実と対談した。

心静かに挨拶を交わした上で、公は仰せになった
「兄である鎮信より内々に、御妹子を申し請け、私の宿へ迎えることを御契約申し置いていたのに、世上の惣劇の
故に今まで引き延してしまいました。この事について、私は必ず申し請けたいと考えており、その事をお心得に
成って頂きたいと、このように直談いたしました。」

これに斎藤鎮実
「仰せのように内々に鎮信殿と話し合いをし、その通りの首尾となりました。しかしながら、その後妹が
疱瘡を患いまして、見苦しい容姿と成ってしまいました。このままではもご覧に入れる事も難しく、現状として、
この婚姻をすすめるのは叶い難いと思っています。」
このように返答した。これに対し公は仰せになった

「それは近頃、思いもよらぬ御意であります。私は聊かも、好色を求める人間ではありません。
斎藤殿は御先祖以来、豊州家(大友家)において流石の弓取りの名を保っております。であればその血筋を
受ければ、子孫に於いて定めて疎略の義は有るまじきと、頼もしく思い所望したのです。
御辞退の義には及びません。」

これにより、間もなく斎藤鎮実妹との御祝儀があり、この御腹より、統虎公(立花宗茂)、統増公(立花直次)が
御誕生され、御兄弟共に日本国内は言うに及ばず、朝鮮までも隠れなき名将と成られたのは、実に殊勝なる事で
ある。この頃孫七郎公は未だ二十歳にも満たなかったと云うが、その御きざしは衆に異なるものがあったのだろう。
古より申し伝わるように、名人たらん者は幼童より必ず異相著るる者とは、信なのだろう。

高橋紹運記)



538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 00:48:16.10 ID:0JGxBTZh
疱瘡持ちの嫁さん貰うシリーズですか
明智に吉川に高橋紹運と、テンプレートになってますけど何が原典なんでしょうね

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 05:56:14.22 ID:UWi0SAIY
医療が未発達だったからそういう逸話が本当に多かっただけじゃないの

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 06:03:00.48 ID:Zhqw+bSz
>>538
醜女の嫁って、それこそ三国志の孔明の嫁あたりからある話だしなぁ。

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 11:34:13.15 ID:2U4nJWKR
周瑜は美人の嫁さんを貰ったから短命に

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 11:58:49.57 ID:dKp/1rIQ
名家の姫と言えば可憐な美少女をイメージするけど、実際にはそうとは限らないわけで…もちろん大事なのは縁と血ではあっても、醜女が過ぎる場合には疱瘡で顔が崩れたと言い訳してるのかも、あるいはそう言い訳するのが暗黙の了解だったとか

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:07:07.59 ID:xSQfNlxX
ほうそういうことですか。
アバターが可愛くても実際はブスというような

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:19:04.75 ID:0LkwBpdk
ブスでもないのに相手にされてない姫もいるわけで

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 13:50:27.12 ID:JM3woESP
性格も大事っすよ
あと知性も

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 19:49:41.45 ID:oIA+ZnYN
武家の娘は、口吸いといって精子を飲むことも
嫁入り前に教えられてたらしいな。
春画見て勉強したり。

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/18(土) 20:10:22.07 ID:0JGxBTZh
どうなんだろ、戦国時代以外でも疱瘡持ちの嫁さん貰うって話あるんですかね
いやまぁ貰うのはいいんですけど武家の正室なりが疱瘡って割と風評として最悪な部類な気もするんでわざわざお話にして広めるかなって

高橋の長刀打

2017年10月17日 16:55

関内記   
325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 12:51:30.84 ID:NnEHy8T9
筑紫広門と高橋紹運の戦いの時、筑紫が兵を出して岩屋へと攻め寄せた時、紹運の家臣である
関内記の長刀持ちが、打物の鞘を外して用意していた所、どうしたわけか実淵勘解由という侍の頬先に
刀の先をひっかけ、流血におよんだ。
実淵は以ての外に腹を立て、今にも斬りかかろうとしたのを、内記は様々に弁解したが、全く承知なかった。
しかし内記の父・善虎という者がこの騒ぎを聞きつけてやって来て、言葉を尽くしたことで、ようやく
堪忍に及んだ。

この時善虎は内記を叱りつけた
「あれほど多い敵の面を斬らずに、味方の顔を斬るとは言語道断の次第なり!」

しかし内記
「私の存ずるところではありません。長刀持ちの若党の誤りであり、私にはどうにも出来ません。」

「それも其方が常々不覚悟の故に、未だ敵にも逢わぬ内に、早く長刀の鞘を外させていたためだ!
いつでも、敵が近くなってから打物の鞘を外し、敵の顔だけを斬れ!」

内記はこれに一言も反論せず、

「ならば、斬ってみせん」

そういうと長刀を取り陣所を出て大いに戦った。
この当時、関内記の事は”高橋の長刀打”と、九州において大いに評判に成ったという。

(士談)



326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 17:29:10.79 ID:7bJ1dOiZ
いかにも江戸時代っぽ

立花家の今村五郎兵衛さんのお話

2014年10月28日 18:41

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 13:16:28.28 ID:4vDE5H6o
初めて投稿します。
立花家の今村五郎兵衛さんのお話。
高橋紹運の岩屋合戦の時、高橋統増は宝満城においてわずかな高橋・筑紫両家の兵と籠城していた。
父・紹運の岩屋戦死後、宝満城内は、寄り合い所帯であり兵数も少ないことから戦意に乏しかった。
そこに、島津勢が一万の大軍で迫ってr来る。しかも、軍の前面には岩屋城で捕えた婦女子を押し立てている。
城内が動揺する中、島津氏の使者がやってきて、

「紹運殿も岩屋城にて討ち死にされ、筑紫広門殿もわが陣にある。これ以上の抵抗は無駄である。
今、開城すれば統増殿ならびに城兵一同、命はお助けいたそう。」

という。
このままでは、筑紫広門を捕えられている筑紫の兵が反乱をおこし、宝満城は自壊しかねない。
そこで、統増の前で軍議を行った。

「開城などすれば、岩屋城にて討ち死になさった紹運様に申し訳が立たん。世人も我らを嘲笑うであろう。」

との意見もあったが、

「立花城の宗茂様と合流し、下知を仰ぐべき。」

と決まって、返事を出した。

「われわれの立花城撤退を認めれば開城致す。拒まれるならば岩屋城同様、最後の一兵まで戦いますぞ。」

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/28(火) 13:22:37.80 ID:4vDE5H6o
これに対して島津側は、籠城衆すべての立花城撤退を認め、証拠として誓紙を差し出した。

源右衛門は使者に対して、 「統増公を立花城へ帰城させて頂けるのであれば和議致し開城しましょう。
もしそれが出来ないのであれば、城を枕に討ち死にするまでです。」
と返答した。島津側はこれを了承し、誓紙を持って保証した。
8月6日、統増以下家中の者は宝満城を下城する。しかし島津方は統増一行を取り囲み、立花城へは送らず、
天拝山の麓にある武蔵村、帆足弾正の屋敷に軟禁するのである。
「約束が違う」と島津将に詰問する源右衛門に、 「島津の慣習として、弓矢の前では、空誓紙もあり得る。」
とうそぶいたという。自らの甘さに高橋家中の者は悔しさに泣いた。

郎党が武蔵村へ連行される時の事である。
一行が道を進んでいる時、野道の方からキジが1羽飛び立ち、丁度一行の上を横切ろうとした。
この時、高橋家中の臣・今村五郎兵衛が四尺六寸の大太刀を抜き放ち、一刀の許、真っ二つに
斬り裂いたのである。薩軍の将はあまりの早業に唖然としたという。今村五郎兵衛の憤りと
怒りの成せる技だったのだろうか。


今村五郎兵衛さんのかっこいいんだか悪いんだかよくわからないお話。




島津軍と二人のババァ

2014年05月27日 18:50

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/26(月) 23:18:07.90 ID:A5iNOr3E
島津軍と二人のババァ

岩屋城を攻めあぐねた島津軍は、老婆に金をやり、岩屋城の水源を聞き出した。
水を断たれた岩屋城の将兵は力を落として玉砕、城将の高橋紹運も散った。

戦後、紹運を慕っていた領民はこの老婆を憎み、水源に石で生き埋めにした。
現在でも岩屋城の背後、古代山城・大野城跡の一角に「石こづんばば」と呼ばれる
石積みがある。

実際には、その石積みは大野城に関係する古代のものらしいのだが、近年まで麓の
村には、山に入るとき、石を持って登り、「石こづんばば」に積むという風習が
あったという。

ちなみにこの老婆、島津軍の陣跡地に化けて出て村人に祟り、そちらでは「陣の尾
ばば」と呼ばれ忌まれた。



一方、岩屋城から南に4kmほど、島津軍本陣の近くに二日市八幡宮と言う神社があった。
当時の軍勢にとって、寺社を略奪するのは当然だった。御神木といえども木材になる。
二日市八幡宮の御神木も、島津兵によって切り倒されることになった。

しかしここで、一人の老婆が島津軍兵の前に立ちはだかった。
「御神木ば切るなら、ワシを斬ってからにせんね!」
勢いを恐れたか意気に感じたか、島津兵は御神木の銀杏を切りかけたまま、去った。
現在でもこの銀杏は健在で、切りかけた斧痕も残っているそうだ。




383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 06:58:15.40 ID:R4x/uPLU
次の大河ドラマは戦国ババア伝説で

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 07:49:56.89 ID:ue6OUBYC
家康が最も恐れたババア

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 10:47:08.06 ID:N/8n1Nn3
>>384
食い逃げしようとしたら「金払えっ!」って追っかけて来たババアだな

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 18:17:55.27 ID:aNldT3ir
あれって民間伝承が出典でいいのかね?
「この本が出典」ってのを聞いたことがないんだが

敵に首をとらせてこそ

2014年02月01日 19:12

261 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/01/31(金) 20:37:10.35 ID:cr09cwaY
流れを読まずに申し訳ないが、衝撃を受けた話を見たので投下

高橋紹運は岩屋城にて壮絶な最期を遂げた際にこんな話が残っている

いよいよ自刃の際に
「火を放って死体を焼き、首を敵に渡さないように致しましょう」という意見があった。

それを聞いた紹運はこう答えた。
「その儀無用である。そのまま敵に首をとらせてこそ義を守って討死した事が分る。
死体が見えなければ逃げたと思う者もあろう。武士は屍を晒さぬもの、というが
それは死ぬ場所によるのだ。敢えて首を取らせよ。」

(筑後実記)




262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 20:39:10.97 ID:QpF9bl2g
自分の首を取らせる事が義を守った証明になるか
俺の首も・・・誰もいらないか

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 21:31:15.96 ID:Xg1VsbmI
同じ義を守ったと言うのでも
戦場や志半ばで死ねば義の人って言われるけど
下手に生き残ったりすると胡散臭く言われるんだよな

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/31(金) 21:47:20.30 ID:xSFv6YZ/
数年前に見た赤穂浪士の映画思い出した。
生き残った赤穂浪士の苦労をことさら大きく描いた作品だったよ。
まあでも派手に討ち死にした軍勢のなかで生き残ると肩身狭い場合もあるのかもしれないね。

討ち入りした四十七士には武士だけでなく町人たちからも助命嘆願が出たけれど、
あまりにも武士らしい討ち入りを果たしてしまったから余生で傷がつくよりは、
武士らしいままで終わりにしようって幕府の武家的な温情からの助命嘆願は受けなかったという話もあるし

265 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/01(土) 01:27:41.59 ID:az4wvYAw
>>262最後まで本分を全うした末なら貴殿の首にも義を貫いた勇士としての価値がある。

有り難くわしがいただこうぞ?

高橋紹運と立花宗茂、父子の別れ

2013年08月25日 19:56

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/24(土) 22:09:27.70 ID:s3ENaWub
高橋紹運がその子宗茂を、立花道雪の養子とすることと成り、一日宴を張り
杯を挙げ、宗茂にこの様に言った

「今日以後、お主は道雪の子である。夢にもこの紹運の子であると思ってはならない。
もし明日にも、不幸にして武道において私が道雪と相戦うことに成るかもしれない。
一旦戦端が開かれれば、お主は道雪の先陣として、この紹運と戦うのだ。

あの道雪は、いささかの未練であっても嫌悪する豪勇の士である。
お主がいささかでも未練の念を発し躊躇する様子があれば、道雪は直ちにお主を義絶するであろう。

もし道雪に義絶されるようなことがあればそれは、武士の恥辱であり末代までの笑い草と成る。
その時は、この刀を以って潔く腹を切れ。
誓って、ここに帰ってきてはならんぞ。」

そう語ると長光の一刀を与えた。
宗茂は涙を流して、これを受け取ったという。
(古雄逸談)

高橋紹運立花宗茂の、父子の別れについての逸話である。





谷川大膳の節義

2012年11月30日 19:52

621 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/29(木) 20:54:38.49 ID:CYfM9YTg
前に出ているかもしれないが岩屋城に関するお話

高橋紹運の家臣に谷川大膳という者が居た。
岩屋落城前日に紹運の命を受け立花城に使いをし、
島津軍の厳重な包囲をかいくぐり岩屋に戻ったが
時遅く、城は落城し主君も切腹。
そんな事を知らない谷川大膳は門を叩くがどうも様子がおかしい。
そうこうしている間に島津の兵に囲まれ、島津忠長の陣へ連行された。

大膳は尋問を受けたが、悪びれる様子もなく姓名を名乗り
主君の命で立花城に使いした事を申し述べた。
その態度に感じ入った島津忠長は紹運の死と落城を告げ
「当家に仕える気は無いか?今まで受けていた俸禄と
おなじ分を進ぜよう」と誘った。

622 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/29(木) 21:03:11.22 ID:CYfM9YTg
続き

大膳はそれを聞くと
「忝い次第ですが、この期に及んでそんな望みはありません。
主君の最期に遅れ、お供が出来なかった事が残念でなりません。
そこでお願いしたい事があります。
立花城からの返書は私の首にかけてあります。
どうかこれだけは、私の首を落とした後立花城に返していただきたい。
もし叶わぬなら、首をはねた後、ご覧いただきたい。」と涙を浮かべ言った。

これを聞いた忠長は涙を流しつつ
「これぞ誠の武士である。紹運殿はいかに名将であった事かがよく分かる。
この者を殺してはならない、またその書状も見る必要はない
大切にしまって立花城へ帰られるがいい」と言って、縄を解き刀を返したばかりか
馬に乗らせ足軽数人までつけて送り返したという。

623 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/29(木) 21:12:41.15 ID:CYfM9YTg
続き

大膳は立花城に帰ると立花統虎に書状を返すと
切腹しようとしたので、統虎は驚いてこれを止め
「今そなたが死ぬ事は犬死に等しい。亡き父上(紹運)も喜ばれまい。
どうか、これからは余に仕え、余の馬前で死んでくれよ。」と言った。

その後は立花家に仕え統虎の兵学師範となったが
後に剃髪し、紹運はじめ戦死者を弔いながら一生を終えたそうである。

浅川聞書に伝わるお話ですが、死んだ人たちよりも生きながらえた方が
つらかったのかも知れませんね。
視点によっては良い話では無いかもしれません。




624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/29(木) 21:54:11.70 ID:oQXW4n1B
生きるのも死ぬのもどっちもつらいだろ
優劣つける必要ない

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 21:58:28.03 ID:5Za6BvO6
いい話だと思うよ

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 22:34:39.91 ID:CG4P9gBD
>>624
そこに拘らなかったら侍じゃないと思う

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 22:47:30.88 ID:oQXW4n1B
>>626
なるほど
では生きるか死ぬかどちらに理屈をつけるべきだろうか?

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 23:08:08.85 ID:IJMIozKW
やっぱ島津忠長は情の深い名将だな
某SLGじゃ出てこないかモブ扱いだけどさ

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 23:33:50.19 ID:CG4P9gBD
>>627
そんな難しいことわかんねえよ
ただ生きることに理屈はいらないけど、死ぬ時にに生きてて良かったって思うためには死ぬ理由はあった方がいいかもしれない
矛盾してるか

家伝について

2012年11月16日 19:58

参考
紹運の恩忘れがたく
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7022.html


428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 00:30:39.18 ID:rQ8ZDRBb
皆様、レスありがとうございます。
戦前、「玉砕の美学」みたいに一部のキチ軍部に利用されたことを祖父は苦々しく思っており
「何も成せない我々子孫が紹運公や岩屋城のことを他人に軽々しく自慢するものではない」という考えで
父親もほぼ同じ考えです。私自身は自慢とかではなく、
今は損得勘定でものを考える時代かもしれないが、昔はこういう人もいたのだと。
ただし祖父や父親は当然2ちゃんなど見ないので禁を犯して書き込みました。

先述した某はもともと高橋家に仕えていたわけではなく斎藤鎮実の家臣だったそうです。
紹運に姫が輿入れした際に付き随った一人だったとか。(疱瘡を罹って醜くなっても・・・の有名な話ですね)
鎮実は心からこの縁談に感謝して、高橋家に忠節を尽くしてくれとお供の者に何度も言ったとか。
この鎮実は先年、耳川の戦いで戦死していますから
某が岩屋城に籠った理由のひとつに紹運への忠節はもちろんのこと
鎮実の仇を幾分かでも返したかったというのがあるのかもしれません。
このような経歴なので道雪の話も伝わっています。
今風に言えば非常にクセの強かった御方らしく、たまにまわりがドン引きするような言動もあったとか。
在陣中(高橋鑑種討伐の時か?)、寄せ手の吉岡氏と斎藤鎮実の家臣同士のいざこざがあって
どちらも相手が悪いとなかなか引かないでいると、道雪から使者が到着
「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」
このようなニュアンスのことを伝えられてかなり鎮実は困ったそうです。
おそらく吉岡にも伝令がw

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 00:31:09.59 ID:rQ8ZDRBb
あと紹運について断片的に。
夫婦仲はとてもよく、たまに近くの寺へともに参詣していたそうです。
寡黙な御方だったそうですが、気配りというか家臣や領民の困り事はすぐに解決させていたとか。
岩屋城に籠る際も「我らも!」という多くの人を宝満城へ行かせたらしいです。
もう先の運命はわかっていたのでしょうね。
激しく攻めたてられる岩屋城を向かいの宝満城に詰めた方々はどのような気持ちで見ていたでしょう
多くの身内がいたはずですが、それを想像すると我が事のように胸が痛いです。

先述した甲冑と紹運からの書状のほかに伝わっているものがもうひとつ。
僧形の武将を中心に下に二人の武将が描かれている肖像画があります。
賛もあり快心筆とあります。確認する術がありませんが
降伏勧告の使者として遣わされた地元の荘厳寺・快心和尚の可能性もあるかもしれません。
僧形の武将は紹運で、あとの二人は左側は同じく僧形の某
右側は生前に特に親交が篤かった伊藤総右衛門と伝わっております。
もうネタ切れですのでこのことについて書き込むこともないでしょうが
長文&スレ汚しすみませんでした。





430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 02:00:30.63 ID:t6dSQXQO
>>428
乙です
こういう家伝の話は滅多に聞く事がないから凄く得した気分だわ

やっぱり道雪公は流石だなw
大友家には一癖も二癖もある人がいっぱいいたんだな

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 02:13:05.59 ID:rlci3xn3
>>428
ありがとう。非常に面白かったし、道雪という人間を考える上でも参考になった。
道雪は異教徒の癖にフロイスにほめられてたり、興味深い人物だよね。

時に一つ質問なんだけれども、家に伝わっている紹運からの書状って、どこかで活字化されてたりする?
詳しく聞くと身バレになっちゃうだろうから、なってるかどうかだけ教えて欲しい。
大友氏の史料は、滅んだワリに残っているとはいっても少ないからね。
まだ公開されていないのであったら、是非大友研究に寄与して欲しいと思うわけですよ。

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 02:54:06.05 ID:qvE7DD8g
>>413
>>428
面白い話ありがとう。
家伝の話なんて聞いたの初めてかもしれんw

しかし、この道雪伝とされるこのセリフ、

>「このような時に猛々しきは大いに結構。しかしながら軍規を乱さばこの立花の敵。
>立花の敵なら大友の敵。敵ならば今すぐあの城に(攻城中の城の事)入ってはいかが?」

いかにも道雪が言いそうで笑ったw

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 03:45:38.35 ID:fFArB14/
真夜中にこんな良い話を知り、妙にアガってしまい
眠れなくなった俺にとっては体にちょっと悪い話


382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/31(金) 09:53:03.86 ID:6m//xU86
まとめサイト見てここに来たけど
以前、高橋紹運の家臣の子孫で家伝を書き込んだ人
俺の高校時代の友人だと思う
紹運と道雪の話のやつ
俺は今、地元を離れているので長い間会ってないけど
お互い日本史好きもあって仲良かったので他人に話さないことも話してくれたし
家にも遊びに行った事があるし紹運の肖像画とかも見せてもらった
曲がった事や嘘が嫌いで確かに「サムライ」みたいな今時に少ない奴だったねw
実はスレの時代と違うけど彼のおじいさんの弟さんが太平洋戦争で亡くなってるんだけど
亡くなる1日前の日付で書かれた手紙の話も聞いたことがある
両親や兄妹への感謝の言葉と晴れやかな今の心境みたいなものが書かれてて
「国を守るために、皆様を守るため、祖霊のもとへと参ります。さようなら」だったかな
血は争えないなと感じ入って、よく内容を覚えてる
ちなみに神風特別攻撃隊だよ

紹運の恩忘れがたく

2012年11月15日 19:51

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 15:50:35.83 ID:WYmcdPDJ
家伝である故に出典書はないのでスレ違いならスルーしてください。

天正12年、高橋紹運は筑後猫尾城攻略中に筑紫広門に宝満城を攻撃されるが和議を結んだ。
その戦いで某(うちの先祖)は足に重症を負い
満足な戦働きが出来ぬからと息子に家督を譲って隠居した。
その際、紹運から相続の許可とねぎらいの感謝の言葉
そしてどこで聞きつけたのか、目を患っていた妻への薬もあわせて届けられた。
某にはとても買うことができない高価な薬だったという。
天正14年、島津氏が北進し岩屋城に侵攻が目前の中
息子は宝満城へ詰めることとなったが
某はどうしても紹運の恩忘れがたく、頭を剃って入道姿になると
妻へ息子への遺言のようなものを残し岩屋城に籠ることを願った。
(このことから岩屋城の士気は高かったのだろうが、まわりからみれば絶望的な状況だったのであろう)
そしてご存知の通り、岩屋城は壮絶な玉砕を遂げた。
某の遺骸は大手門のそばで見つかったそうだが
その時身につけていた甲冑と紹運からの書状は我が家の家宝となっている。

某から息子への遺言を要約すればこのように。
「宝満城で忠義を尽くせ。家を頼む。母や兄弟を大切にしろ。
 隠居までに殿(紹運)への忠義は尽くしてきたが
 まだいただいた薬の恩をまったく返しておらぬ故にこうのような仕儀と相成った」

立花城からの援軍の面々もしかり、紹運のまわりにはこういう人間が多かったのだろう


続き
家伝について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7026.html


414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 17:40:57.53 ID:lXvY0Pro
人徳だな

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/15(木) 18:20:09.42 ID:/7LaIWeh
>>413
全然スレ違いでなく、むしろ貴重な話だと思う
家に伝わる話なんかそうそう聞けるものでもないし

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/15(木) 19:35:04.42 ID:iHVHX2HN
>>413
ホントに紹運って爽やかでいい話しかないなあw

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 00:16:00.99 ID:agL61KHg
>>413
家宝うpうpw
は冗談にせよ、面白い話でした

ある親子のお話

2012年10月19日 20:05

983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/18(木) 20:31:56.98 ID:nb7gs4IC
埋めがてら、ある親子のお話を
前に出てたらごめんなさい。

父「パパと山に登ろうか」
子「わーい」

山に着くとパパは急に言いました。

父「さて、ここで不意に敵が襲ってきたらどうする?」
子「えっ?じゃあ、あそこに登って防ぎます。」
父「あそこに登るのは時間がかかるからダメ!
 パパならここで兵を二手に分けて防ぐね。」

こんな調子で、山や野原を散策する度にいきなり飛び出すパパからの質問。
自然と子供は周囲を見ながら戦術や陣形を考えるようになりました。
この子はやがて元服し高橋統虎と名乗ります。

高橋紹運の子育ての1ページでした。




984 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/18(木) 20:43:35.98 ID:5BaWZdNd
宗茂は武士としての環境と才能に恵まれてるな
幼少期に母からの愛情が欠ける、
半士半農の貧しい家に生まれる、
幼少期に他国で人質となる。
ような人生送ってたら・・・
天下を目指す宗茂が見れたかもしれない

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/18(木) 20:52:31.51 ID:ilV3yPHM
>>961
三歳「妻に言い寄られてから、斬るようじゃ無能。俺クラスだと...」

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/18(木) 21:02:46.98 ID:uGTOJj5W
>>984
「殿が率先して干飯を片付けている・・・!お家はもうおしまいじゃ!」

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/18(木) 21:38:05.69 ID:mm/4BQFP
>>984
作左みたいな家臣がいたらもしかして・・・

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/18(木) 22:11:24.34 ID:1bm6QtRn
あと、もっと京に近い所で1540年頃生まれてれば。

989 名前: 忍法帖【Lv=39,xxxPT】(1+0:8) [sage] 投稿日:2012/10/19(金) 01:08:22.36 ID:haOmlFRL
イガグリを押し付けるのも教育ですか?

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 01:12:44.11 ID:wZ3XAPw7
>>983
参謀旅行ってやつだな

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 10:06:36.87 ID:e/ugMP0Q
>984
あと、めんどくさい家臣団を忘れてる

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 10:58:06.00 ID:MrlCTSX8
あそこの家臣は割とめんどくさいほうじゃね?
三河武士とか黒田武士みたいな別格中の別格と比べるのが間違いなだけで

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 15:29:57.82 ID:9+l2T6yk
しかしタヌキさんよくグレなかったな。おかーちゃんの愛情がないだけでDQNになるのがいるのに


994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 15:45:29.89 ID:5k7PsNqj
父ちゃんあっさり死んじゃうし、酒井忠次を筆頭にめんどくさい側近に囲まれて
グレる暇も無かったんじゃないか?

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 15:48:23.84 ID:Z8QFrMpQ
若い頃の家康も十分めんどくさいから

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 16:09:39.91 ID:rG23TCW9
隣家の孕石さんとご近所トラブルおこして何年もたってからぶっ殺すような可愛げのない
餓鬼といういいかたもできる

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 16:53:10.33 ID:sMW7gQmF
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4448.html
信長「昔のことをあとからネチネチと言うとは」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3189.html
秀吉「いじめられたくらいで殺すって、器が小さいの」

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/19(金) 17:56:34.90 ID:LKiZj7eH
良くも悪くも、家康は恩義や恨みをよく覚えていて後で応報するよな

筑紫広門は常にこれらの城を攻略しようと策を練っていた

2012年10月15日 20:12

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 20:43:47.80 ID:Lc9bBxPg
高橋紹運が宝満・岩屋城督、立花道雪が立花城督になって以降、
筑紫広門は常にこれらの城を攻略しようと策を練っていた。例えば…
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-856.html
立花城には計略を仕掛け、岩屋城には秋月種実とともに幾度と無く攻めるが、
その度に撃退されてしまっていた。そこで広門は一計を案じた。

↑のリンク先にも名前が出てくるが、筑紫方に武蔵城という城があった。
ここは宝満・岩屋城と、旧・大宰府の条坊があった広い平野(二日市など)を挟んだ
天拝山の麓にあり、その中腹の飯盛城とともに帆足弾正という武将が守っていた。
この山を越えるとすぐ肥前の筑紫居城・勝尾城に繋がり、
いわば筑前における筑紫方の前線基地である。
広門は帆足備後(弾正とも)に命じ、家臣を茶売りに変装させて岩屋城へと侵入させた。
戦時中の城とはいえ、城内には住居もあり、普段は商人なども行き交っていた。
まんまと侵入に成功した筑紫方の茶売りは、城内のいたるところに
「たまご火」を仕掛け、武蔵城へと逃げ帰ってきた。

この「たまご火」というのは、その名の通り見た目は卵なのだが、
卵の殻の中に一種の自動発火装置のようなものが仕込まれており、
それ自体に大した威力はないが、燃えやすいものの近くに置いておけば…
燃え移って延焼していくという仕組みだ。

岩屋城内は突然いたるところで起こった火事に大混乱。
この混乱に乗じて筑紫衆は観世音寺近辺まで詰め寄り、
このままでは岩屋城陥落も間近かと思われたが、
高橋方後詰の宝満山城の兵士たちが救援にかけつけたため、
筑紫方は自軍の損害も考えて、早々と引き返した。
しかし城内の家屋は残らず火災で焼け落ちてしまい、かなりの被害を受けたという。

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 20:46:35.86 ID:Lc9bBxPg
攻め切れなかった筑紫勢、被害を蒙った高橋勢どちらにも悪かった話。


ちなみにその後も秋月・筑紫連合軍と大友軍の小競り合いは続く。
1584(天正12)年に立花道雪・高橋紹運が筑後へ出陣した隙を突いて
秋月種長(種実が前年に家督を譲る)が留守中の立花城を攻めるも、
立花統虎(宗茂)がこれを見事に撃退している。

しかしついに城攻めが成功する時がやってくる。
立花道雪が筑後の陣中で病没し大友軍が陣引きしようとしていた頃、
筑紫広門は今度は兵300人全員を山伏修験者の姿に変装させて宝満山に侵入、
不意を襲って山上の僧坊や城に放火して、これを占拠してしまった。
宝満山は元々修験道の霊場で山中いたるところに僧坊があり、
山伏の姿になって入れば怪しまれなかったのだろう。
広門さんは放火とか変装とか鉄砲盗人とか、そういう計略が得意みたいですね。

そしてこの5ヵ月後に、「筑紫の押しかけ姫」の逸話と繋がるのである。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6441.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-828.html
上の逸話では本当にいきなり姫が押しかけたように書かれているが、
筑紫広門は大友家との和睦の交換条件として宝満山城を手に入れておきたかったようだ。
島津軍が北上するという時に、すぐ後方に敵の城があっては
岩屋城を守ることもできないため、高橋紹運としても婚姻は渡りに船の話だった。
宝満山城はその後、筑紫家と高橋家の相城となる。そしてかの有名な岩屋城の戦いへ…。




859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 22:05:02.78 ID:TDtkLp3S
長繁「あれ?あいつら敵だっけ味方だっけ?・・・とりあえず攻めとくか」

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 22:27:12.93 ID:xnTH6Cms
たまご火かぁ
そんなのが当時あったんだね
さすがノブヤボで知謀の数値高いだけのことはあるな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 23:55:42.01 ID:nJktpLb6
ええっと筑紫さんが秋月さんんを裏切った悪い話?

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/15(月) 00:09:12.18 ID:60ZXLO6g
自動発火ってどうやったんだろうか
火薬や硝石は輸入物使ってたから黄燐とかも手に入ったのかな?それなら可能かもしれないけど
夕方くらいに仕掛けておいて翌日、日が上って気温上昇とともに発火とか

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/15(月) 00:21:44.97 ID:z9QFnsn3
天かすとかでも応用すれば

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/15(月) 00:47:44.52 ID:IfDTvJXs
>>862
大友家の朝倉一玄も「留守の火縄」って
自動発火の計略をやってた話もあるし
そういう研究してる人は結構いたんじゃないかな

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/15(月) 09:21:10.57 ID:2uUmQsPB
幕末に鳥羽伏見で負けて幕軍が立ち退き、もぬけの空になった大坂城でも
器物目当てに町民が入り込むのを官軍はあえて制止せず
案の定幕軍が仕掛けていった地雷火が爆発して町民が吹っ飛んだのを確認してから入城したという。

地雷火ってどんなんだろう?砲術の伝書とかに書いてあるのかな。

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/15(月) 15:59:22.12 ID:DCFAPyWL
接触地雷はその当時もうあったよ。
確実性にかけるので、電線張っての
遠隔操作の地雷火の方が多かったけど。

道雪は板輿に乗ったまま口を開いた

2012年08月14日 20:51

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 21:36:00.63 ID:MZsX/QvQ
天正12年(1584)、「龍造寺隆信、沖田畷に死す」の報を受けた大友宗麟は、次男親家・三男親盛へ龍造寺氏に
奪われた筑後の平定を命じた。二人は筑後の各城を攻略していったが7月、猫尾城を攻めるに及んで戦線は膠着。
数十日経っても好転しない事態に、宗麟は立花道雪高橋紹運の両将に援軍を要請した。

8月18日、猫尾城への急行・奇襲を目指し居城を発った立花・高橋勢が夜を迎えたところで、
高橋家の家臣が紹運に申し上げた。

「もはや夜半を過ぎ、月も傾きました。このまま進めば、筑後川辺りで夜が明けまする。明るい日差しのもと、
見通しの良い河原端を敵中行軍するのは、いかがなものでしょうか?」
「ならばその事、道雪殿に相談して参れ。」

紹運よりの使者・萩尾大学が口上を述べ終わると、道雪は板輿に乗ったまま口を開いた。

「ああ、早く夜が明けぬものか?!我らを見つけて寄せる者、みな撫で斬りにしてくれようぞ!!」

興奮した道雪は板輿の縁を叩き出し、あわてて自軍に戻った萩尾は、
「つまらぬ使者をして、恥をかいたではないか。」とグチをこぼした。(常山紀談より)


結局、両将は強行軍を敢行。途中、本当に筑後川の河原で城方の物見に会ったり、秋月勢と交戦したりするも
これを蹴散らして猫尾城に到着。9月1日には城を落としてしまったという。

まあ、これを見た親家・親盛が「ツマンネ。あとは二人でよろしく」とグレて帰ってしまい、老体をおして
筑後国を転戦せにゃならなくなったベッキーは翌年死んじゃうのですが・・・




72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 21:43:48.89 ID:P5RY1qih
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6453.html
ツマンネといった親家・親盛にベッキーがあきれた話
(まとめスレの関連リンク用に)

(管理人:ありがとうございますm(_ _)m)
73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 21:59:17.34 ID:pO2U2TVn
カミナリ様の心意気を示すいい話なんだろうがソーリンの倅どもは本当に…

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 22:00:29.42 ID:UaTtOTGh
まあホントに、信長の所以上におもいっきりダメ息子だらけだよねw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 22:42:39.94 ID:94udm6dJ
息子が全員常真様みたいな言い方しちゃイヤン

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 22:47:30.69 ID:z2gHxsM2
>>71
いい話?

立花道雪「豊後もここまで…」

2012年05月28日 21:00

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 00:38:13.62 ID:p2y0Ubt2
耳川の戦いの後、筑後の国人たちは大友を見限り竜造寺・秋月勢に寝返るものが続出した。
そんな中、数少ない大友方に残っていた問註所統景より一族の問註所鑑景との戦いにさいし大友家に援軍要請が入る。

筑後回復の機は今とばかり宗麟次男・三男の田原親家・親盛を大将副将に約7千の軍勢で筑後になだれ込んだ。
が、初戦の猫尾城攻略から苦戦、黒木氏の猫尾城には竜造寺からの鉄砲隊が援軍として入場しており、城方の反撃悩まされていた。
豊後勢は耳川で歴戦の武将の多くが戦死しており、若い武将ばかりなのも苦戦に拍車をかけていたのだった。

城攻め1ヶ月で業を煮やした大友軍は立花道雪高橋紹運に出陣を要請、形勢は一気に逆転する。
両将は筑前より一直線に猫尾城へ進軍、立ちふさがる竜造寺・秋月連合軍を片っ端から蹴散らすのであった。
竜造寺からの増援軍も激戦の末に破り(この激戦で道雪の弟戸次次右衛門など戦死)、即猫尾城攻略に取りかかる。
そしてこの猫尾城もすぐに落城。城主黒木家永は13歳の娘に介錯され自害している。
その後も山下・谷川・辺春・兼松・鷹尾などいくつもの城を攻略。
そんな中、竜造寺もさらなる援軍を繰り出し柳川城で戦線は膠着するのだった。

そんな柳川での対陣中、いきなり田原親家・親盛兄弟が撤退してしまう。その理由は
「自分たちがどんだけ頑張っても手柄は道雪・紹運コンビのものになってしまうのでツマラナイ」
と言うものであった。そのまま豊後まで引き上げる田原勢。
さすがの道雪も
「豊後もここまで落ちぶれたか・・・」
と嘆くのであった。




568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 00:48:02.49 ID:Ll6xSbPx
加藤清正「大友のボンボンどもはわかっていない。戦で名を上げるには目立ってなんぼよ!」

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 01:11:16.55 ID:Wd1uPV5f
>13歳の娘に介錯

これも凄いな。つか当時は山城ばっかで家族は城内に居ないと思ってたよ

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 01:19:26.09 ID:4lp7fMbE
真面目な人って他人にも真面目を強いることが多いからね

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 01:42:39.32 ID:aRqkqxJd
無理せず初めから立花さん呼び寄せとけよ

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 04:41:16.04 ID:cvjlR2ei
宗麟は1人くらい息子を道雪に預けて鍛えて貰えば良かったのに。

多分遠慮なく鍛えてくれる気がする。

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 12:11:14.36 ID:Nv1mXfCM
鬼のしごきに耐えられるならいいけど

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 13:39:20.40 ID:qkqExfqv
>>574
なぜか完成したのは全部、量産型立花闇千代で温厚な宗茂がまさかのブチ切れ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/28(月) 13:55:54.50 ID:wyP/LwPV
でなぜか女癖がそーりんと同じだったりw

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/29(火) 22:28:37.11 ID:TOr99TMh
>>588
周りに敵抱えまくってる時の武将って一体いつ寝てるんだろう・・・
仕事は戦闘だけじゃないはずなのに
[ 続きを読む ]

筑紫広門娘、高橋統増に嫁ぐ

2012年05月25日 21:00

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 21:46:22.21 ID:bfmd+RLY
立花道雪の死後、長年対立関係のあった高橋紹運秋月種実との間に和平を望む機運が高まり、
種実の娘と紹運の二男(統増)を婚姻させようとの動きが出てきていた。
そしてその動きは秋月種実の盟友筑紫広門を驚愕させる。
筑紫広門は道雪の死後のどさくさにまぎれ、高橋家の宝満城を攻略していたのだった。
もし秋月と高橋・立花が結び筑紫に攻めてくれば当家の命運は尽きる・・・

居城勝尾城に重臣を集め方策を練ったが、これと言った意見が出てこない。
そんな中、一族の筑紫六左衛門より
「当家が高橋家と婚姻をむすぶしかありません。姫を私にお預けください。
姫とともに岩屋城に参り紹運公に姫と統増どのの縁組を直訴してまいります。
紹運公は情け深きお方とのこと、こちらが真心を持って誠心誠意懇願すればあるいは・・・
もし紹運公に承認いただけない時にはその場で姫を刺し、私も腹を切ります。」
広門もこの六左衛門の気迫を見て賛成するのだった。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 21:47:07.69 ID:bfmd+RLY

岩屋城の高橋紹運、敵対している筑紫広門の娘が訪ねてきたとの知らせに訝りながらも目通りする。
「筑紫上野介の娘かねでございます。不躾ながらお願いの儀があり参上いたしました。
女子の口からお恥ずかしいことですが・・・・・」
と言って目を伏せてうつむいてします。その後を六左衛門が続けた。
統増とかね姫の婚姻による和平の提案、突然の押しかけ女房の提案に困惑する紹運。
六左衛門は
「ご当惑はごもっともと思います。しかし我が筑紫も滅亡の危機にあるのです。
もしこの件どうしてもお許しいただけないようならば、庭先をお借りし切腹を致します。」

六左衛門の熱意に押されたか紹運も婚姻を承諾、15歳の統増もとに17歳のかね姫が輿入れしたのである。
その後の2人は九州征伐時に島津軍に夫婦そろって拉致られ薩摩祁答院での軟禁生活を夫婦で乗りきることになる。

で、なぜ悪い話かと言えばその後広門が島津軍に宝満城の秘密を洩らしたため離縁することになったから。




479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 21:55:35.31 ID:KJ+phi8a
うちにも17歳の美人女子高生が結婚してくれなきゃ死ぬって押しかけてこんだろうか

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 21:57:48.44 ID:WpP6JSoO
>>478
戦国時代らしいオチだな

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 22:02:08.38 ID:4+4hjbf4
美人とは限らんで

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 22:03:39.48 ID:Tcsniuyu
秋月の娘は楢柴と一緒にラスボスに差し出された人か

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/24(木) 22:58:41.16 ID:J9GtnOfy
古田殿、出番ですぞ

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 00:20:26.07 ID:SLb8P8dH
>>478
離縁したって話だけど、してないとか復縁したとも言われてるんだよな。
1604年生まれの統増の長男の種次は加袮姫の子らしくって、
朝鮮とかでも高橋家と筑紫家は一緒に行動してて縁戚関係が続いてた様だから。
母親が姉妹で従姉弟同士らしいから、離縁されそうになったけど結局許されたって
とこじゃないかな。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 06:58:10.47 ID:/00Z07jC
筑紫は関ヶ原で親戚の高橋・立花家と行動を共にして改易なんだよな

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 07:42:22.66 ID:srftelVj
>>481
筑紫広門の自慢の娘で美人だったらしい
ちなみに次女は黒田長政の側室になってて姉妹揃っての美人らしい

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 19:35:35.46 ID:pjV0/fy7
>>485子孫は旗本

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 19:36:47.32 ID:bNEa8zYz
改易されたがお情けっぽく旗本で再興、という大名って結構いるような。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 19:38:06.62 ID:ytjZzz6i
筑紫みたいに変わり身が早すぎてもかえって立場が悪くなるし
高橋みたいに頑なでも城を枕に討ち死ぬ羽目になるし
立ち回りって大事

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 19:55:00.19 ID:HS5j1PSZ
忠臣蔵みたいに変に意固地になって敵討ちだなんだやられるより、
捨扶持あげて体制内に組み込んで置く方が安心できるってのはないかね?

忠臣蔵が例として正しいか知らないけど

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 20:10:26.18 ID:srftelVj
立花宗茂、高橋統増兄弟も旗本からの復活組だもんなあ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 20:30:16.74 ID:BLZx4OMx
真田パパンは敵にいたほうがマシじゃないのか?

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 20:36:03.69 ID:HS5j1PSZ
真田パパンは、敵にも味方にもいて欲しくないかなぁ~

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 20:37:12.60 ID:zBDwHfCp
家康「信之とかの願い聞いて助けたら、一緒に助けた次男が仇で返しにきた。訴訟」

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 21:05:08.94 ID:HS5j1PSZ
高野山じゃなく、成田山あたりにしとけばなぁ~

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/25(金) 21:28:32.05 ID:X1t+JEUH
3000石くらいの旗本にしておけばよかったのに

戸次道雪と白い鷹

2012年03月15日 21:50

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/15(木) 14:21:34.87 ID:cN5Nyd1E
戸次道雪が亡くなるしばらく前の出来事である。

ある日高橋紹運が戦評定のため戸次道雪の陣営に趣き、評議が終わって酒宴となったころ、どこからとも無く
真っ白なる鷹が飛んできて、庭前の松の梢に止まった。

近習の若侍たちはこれを見て「何としてもあれを捕えよう!」と立ち騒いだが、どうにも方法が見つからず
手を出しかねていた。これを見ていた道雪は

「誰か、鷹の事に心得のあるものはいないのか?」

と尋ねると、早良善内という老人が立ち上がり、厨房の方に走っていくと鳥の肉を一片ばかり取って帰ってきた。
そして庭上に降り立ち、肉を振って静かに鷹を呼ぶ。

と、鷹は肉をめがけて飛び降りてきた。善内、これを巧みに捕らえ拳に据えて、そのまま道雪の御前に出て、

「これは天晴、逸品の鷹でございます!そのうえ白鷹といえば、別して賞翫される特別なもの。
これがただいま、庭の松に止まったというのは、目出度き瑞祥に違いありません!」

そう、大声を響かせた。

道雪はこれを大いに喜び、善内に褒美を与え、そのままその鷹の管理を任せた。


ところが、である。この鷹はそれから2,3日過ぎて、何の病気も怪我もなかったというのに死んでしまった。
後になって人々は、『あれは道雪の卒去の前兆であったのだ』と、噂し合ったそうである。

(伝習館文庫柳河藩政資料)





325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/15(木) 16:49:06.51 ID:I0JRFr+S
神獣捕まえたからバチ当たって死んだんじゃ....

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/15(木) 20:56:41.59 ID:FoO5VTzK
>>324
いわゆるアルビノは虚弱だもんな

高橋紹運・最後の恩賞

2011年09月23日 22:05

732 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/23(金) 01:18:07.20 ID:KAnJlAJ+
4万の島津勢に対し、高橋紹運が700人余りの兵と共に岩屋城に立てこもった時の事である。
家臣の杉山山城を「山城殿」と言って呼び寄せ、

「この城は後20日と持たないだろう。そこで頼みがある。」と告げた。

主君からいきなり「殿」と呼ばれ、その理由が判らず山城が戸惑っていると

「その方の家は先祖をたどれば我が高橋家より上の家柄。今は立場が変わって主従となったが、
 前々から同輩であった様な親しみを覚えていた。最後の役目に当たり、成功したら領地を与える
 と言った所で絵空事でしかないので、『殿』をつけて呼ばせてもらってその方を軽んじていないという
 私の心を表し、せめてもの褒美としたいのだ。」

と語り、

「そして頼みとは、死に臨んで心残りとならぬよう、敵中にいる次男の直次を宝満城に送り届けるか、
 さもなくば殺してくださらぬか。」

と頼んだのである。紹運のこの心遣いに打たれた山城は、敵中を突破して無事に直次を宝満城へ連れて行ったという。

以上「名将言行録」より、高橋紹運の家臣への最後の恩賞を与えた話である。





734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/23(金) 02:36:21.59 ID:IxfCaneP
>>732
やべえ・・・直次殺されてたかも知れんのか親父の命令で

すごい人、柴田小左右衛門

2011年03月06日 00:01

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/05(土) 18:29:35.70 ID:4ZMJgjIY
いい話というかすごい人がいたという話

高橋紹運配下で、岩屋城の前線砦である龍ヶ城に柴田小左右衛門という強弓で有名な武将がいた。
どれくらいの強弓だったかというと、天正14年9月に筑紫広門勢が攻めてきた時の言い伝えが残る。
敵情視察の命を受けた小左右衛門と他兵士6名が筑紫広門勢の方面に進んでいたら
ぱったり筑紫隊にでくわした。相手が小勢と見て筑紫隊が一斉に攻めかかったところ小左右衛門は
畦の上に登り狙いを定めて矢を放ち、その矢は一町余り(約109m)先を突進してきていた
筑紫方の将の鎧の胴版を射抜いたばかりか、さらに後ろにいた兵士4~5人を一斉に射抜いたという。
どこの『花の慶次』の登場人物だろうかと言わんばかり。

どんだけ~と思われるかもしれないが、ただの伝説では終わらない話がまた別に残っている。
小左右衛門は日々弓の鍛錬を行っていたのだが、それがなんと、2km以上先にある
たたみ二畳分の大きな石に向けて弓を引きまくっていたのだそうだ。この石は「的石」と呼ばれ
現在も筑紫野市阿志岐の田んぼの中に残っている。そりゃ一町程度の距離なら簡単に当てられる精度も
4~5人は貫通させる強さもあったのかもしれないと思わせてしまう。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E7%AD%91%E7%B4%AB%E9%87%8E%E5%B8%82%E3%80%80%E5%A4%A7%E7%9F%B3&lr=&ie=UTF8&hq=&hnear=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%AD%91%E7%B4%AB%E9%87%8E%E5%B8%82%E5%A4%A7%E7%9F%B3&gl=jp&ll=33.509697,130.563154&spn=0.031632,0.054331&z=14&brcurrent=3,0x35419c91312ca24d:0x60946b760ad31433,0
龍ヶ城近くの大行事原というところ(リンク先地図のA地点あたり)から矢を射ていたそうだから
阿志岐(地図左下に阿志岐小が見える)まで2km・・・どころか3km近くあるかもしれない。
ちなみに龍ヶ城はA地点の右、笹尾山の左側、農業試験場の後方の山にあった。




72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/05(土) 19:35:01.97 ID:WKcvJfcW
右半身だけが極度に肥大していたに違いないw

「神木の大銀杏」

2010年09月18日 00:07

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 02:53:38 ID:fB/WSKWQ
「神木の大銀杏」
天正14年(1586年)かの有名な筑前岩屋城の戦いが終わった頃、とある百姓のお婆ちゃんの話。
城攻めの際に島津軍の本陣が置かれた二日市に、地元の氏神として奉られる二日市八幡宮というお宮があった。
高橋紹運を討ち滅ぼした島津勢は紹運の苛烈な反撃に遭ってイラついていたのか分からないが
何を思ったか帰りにこの八幡宮の神木とされる大銀杏樹を伐ろうとした。
近くの百姓惣左衛門の後家の老婆がこの乱暴沙汰を耳にしてかけつけて一喝、
「この木は八幡宮の神木じゃ!そんなことをしとったら罰当たるぞ!」と言ってそのまま木に抱きつき
「この木を伐りなさるならばまずこの婆を斬ってからにせえ!」と身をもって阻んだ。
島津の雑兵たちはこの80歳ほどのババァの剣幕にビビったのか、斧を捨ててそのまま立ち去ったという。
このとき樹は半分ほど伐りこまれており、二日市八幡宮境内の大銀杏には今もその伐り跡が残っているそうだ。




89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 06:51:10 ID:6YbJSr5s
>>88
ババァってあーたw
迷信深そうな島津軍が、撤退時という一番余裕ないときにわざわざ神木を切るって、すごく妙な逸話だ。

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 07:06:52 ID:MeYSykOr
木を切って資材にするつもりだったんじゃないか?
婆はともかく御神木なら切っちゃまずいから撤収したと


91 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/17(金) 07:27:30 ID:2qiVuKdY
壇ノ浦の海底捜索したら、国宝とか色んなの出そうだよね。

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 07:49:33 ID:saCS6cRf
>>89
まだ撤退はしない
これから立花城攻め

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 12:48:48 ID:TzkdDgUs
>>88
斧だけに/( ̄0 ̄)\オーノー!!という事だな。

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 13:09:43 ID:l7ZDnRoj
【審議中】
    ∧,,∧  ∧,,∧
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'

95 名前:稲川風に[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 13:27:05 ID:vMIgfu9H
立花勢から小野和泉がヒッタヒッタヒッタとやってきて、>>93さんの首めがけて槍を一閃、
ギャーーーーッ、刺された瞬間スーーーッと意識が・・・
目を覚ますと二日市八幡宮の境内でポツーーンと立ってたって言うんですよ
そんな、不思議なお話、聞かせて頂きましたよ、えぇ・・・

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 13:48:06 ID:TlVQ/hrM
>>95
小野だけに・・・(略

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 16:10:41 ID:cN55iyrU
そういうのは各々が判断することだな

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 18:28:59 ID:4HlKzK8v
アホかおのれらは!!

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 19:05:27 ID:h5wMPLWL
アホだと! おのれぇぇ!

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 19:11:42 ID:6YbJSr5s
またアホバカの話かw

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/17(金) 21:22:47 ID:S3oi7DG3
このボケナスが

立花宗茂と島津軍・いい話

2008年10月15日 14:27

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/12/24(月) 13:17:39 ID:+XnDSDjr
立花宗茂の実父高橋招運は息子宗茂が守る堅固な立花山城に撤退するよう
に勧められるも小さな岩屋城で700かそこらで島津の大軍相手に奮戦し
時間を稼いで全員玉砕。息子宗茂も島津軍を長期戦に巻き込み、豊臣軍の
九州上陸で撤退する島津軍への猛攻に繋げた話は泣ける。父招運の自己
犠牲が息子宗茂の運を招いた。
宗茂は関が原には西軍で参戦し(後方の為に無傷)撤退の際にボロボロの
島津軍と一緒になり「この機会に父上招運様の仇を討ちましょう。」と進言
する家臣の意見を退け、島津軍を警護して無事に九州まで送り届ける。その
後、東軍側から攻められた宗茂を救援する為に島津が援軍を送った話も良い
話では。




372 名前:人間七七四年@全板トナメ開催中[] 投稿日:2008/06/07(土) 23:24:27 ID:gc3XR7nF
>>93絡みで岩屋城ネタ
岩屋城が落城して間もなく、敗戦を知ないまま立花山城から立花宗茂の使いの兵が高橋紹運宛の書状をもって岩屋城へきた。
が、時既に遅く全員玉砕の岩屋城。使いの兵は島津軍に捕らわれ、そのまま従うよう命じられる。
立花宗茂の使いの兵はそれを断りこう言った
「一つだけお願いがあります。その書状を読むのは私の首をとってからにしてください」
その答えに島津の将は心を打たれ、書状を読まずにその兵の縄をほどき、立花山城に無傷で送り返した。




373 名前:人間七七四年@全板トナメ開催中[] 投稿日:2008/06/08(日) 10:06:54 ID:s/ItF2dT
>>372絡みで立花宗茂ネタ
関が原の戦いで西軍に味方したため、戦後領地を没収され浪人となった
宗茂。彼を見捨てず、虚無僧や物乞いまでして宗茂を支え続けた家臣達。
その主従愛に感動した徳川秀忠は、彼を筑後柳川十一万石の大名として
取り立てた。
かつての領地に返り咲いた宗茂と家臣達は、さっそくかつての家臣を呼び
寄せ、新たな家臣を雇った。たちまち宗茂の屋敷は家臣達であふれかえった。
そこで宗茂が浪人時代から支えてきた家臣達が進言した。
「家臣も増え、今の屋敷では手狭でございます。そこで屋敷をもっと大きく
建て替えて、部屋も廊下も広くいたしましょう。」

374 名前:人間七七四年@全板トナメ開催中[] 投稿日:2008/06/08(日) 10:25:39 ID:s/ItF2dT
>>373続き
だが宗茂は首を振って言った。
「いや、屋敷は狭いままで良い。」
家臣達は「何故?」と首をかしげた。
宗茂は目に涙を浮かべて言った。
「なぜなら俺が浪人となっても、お前達は俺を見捨てず、
物乞いをしてまで俺を支えてくれた。俺にとってかけがえ
の無い、愛しい家臣だ。もし屋敷を広くすれば、お前達と
こうして顔を合わせる事も減り、疎遠になるだろう。
それは嫌だ!それなら屋敷が狭いほうが、俺は嬉しいのだ。」
家臣達は涙で言葉も出なかった。




694 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/18(月) 13:37:18 ID:T+VQEqRd
>>374
泣いた。・゚・(ノД‘)・゚・。