毛利元就 石見高橋氏を討つ

2014年08月11日 19:08

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:06:04.82 ID:hXMVAG1+
毛利元就 石見高橋氏を討つ

1523年、毛利幸松丸が急死。叔父の元就が毛利家の家督を継ぐ事となる。
1524年、尼子経久、亀井秀綱の後押しで元就の異母弟・元綱が謀反を企図する物の、
それを察した元就は元綱と謀反に与した渡辺氏、坂氏らを粛清。これにより毛利家は
完全に元就によって統制されることとなる。
この時、尼子・亀井と共に元綱の謀反に一枚噛んでいた人物がもう一人いた。
安芸北部・石見に勢力を張る高橋氏の当主、興光である。
亡くなった毛利幸松丸の外戚(幸松丸の母が高橋氏出身で興光の叔母)である。
1521年に祖父の高橋久光が戦死するまでは、毛利家は当主幸松丸を元就と外戚の
高橋久光が後見しており、力関係では高橋氏の影響力の方が遥かに強く、毛利家は
実質高橋氏の思うがままであった。しかし久光が戦死した後はその影響力は
一気に削がれ、幸松丸が死して元就が家督を継ぐと、元就は遂には高橋氏と敵対する事になる。

元綱の謀反を収めた元就は主家を尼子から大内へ鞍替え。逆に高橋興光は大内から尼子へ接近を図る。
元就は弟の謀反の恨み、長年に渡り亡き久光に毛利を好き勝手された恨みもあってか、主家・大内氏に
許可を得ることなく、高橋氏への攻撃を開始した。

1528年、元就は高橋一族である高橋重光の居城松尾城を攻撃して高橋氏に大打撃を与える。
2年後の享禄三年には高橋領の安芸山県郡北部と松尾城に侵攻。大内氏の弘中隆兼
や備後の和智豊郷の助勢を受けて松尾城を陥落させ、重光を討ち取った。

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:12:06.84 ID:hXMVAG1+
残るは高橋家当主の興光の幡屋城、一族衆の藤掛城と鷲影城であったが、興光は祖父久光の仇である備後三吉氏の入君城
を攻めている最中で、正月を居城で迎えようと僅かな兵と城へ帰る途上であった。

そこで元就は一計を案じ、高橋一族で鷲影城主の高橋弾正左衛門盛光を調略する。
この高橋盛光は興光と兄弟同様に育てられた仲だったというが、盛光はその興光
を裏切り石見の軍原で興光を急襲。興光は奮戦するも力尽き、軍原にある岩の上で腹を切った。

高橋盛光はその首を持って犬伏山に出陣していた元就(または元就配下の武将)の陣へ向かう。
そこで所領安堵の書状を頂戴するよう申し出た盛光であったが、返ってきた言葉は以下の様な物であったという。

「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。かかる犬武士は生かしてはおけぬ。直ちに誅せよ」

その場で盛光は首を討たれ、そのまま犬伏山で葬られることとなった。
そして石見高橋氏は滅亡し、その領地は毛利に奪われることとなったのであった。
若き日の元就の大変後味の悪いお話。

なお、高橋興光が切腹した軍原は現在キャンプ場となっており、腹切り岩はキャンプ場の中に
史跡として残っています。また、盛光の墓は犬伏山に粗末な石ころの様な物がそれであると伝わっております。

(参考文献 『芸侯三家誌』『陰徳太平記』『吉田物語』『高田郡誌』『邑智町誌』)




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 09:55:53.13 ID:eCAtQ001
嫌なキャンプ場だな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 10:17:10.68 ID:lYq9yyDk
その感想に笑ってしまった

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 13:32:59.55 ID:dbBXu24S
それであのキャンプ場、現代の犬武士DQNのたまり場になってんのか。墓参りだったんだな。

905 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/08/11(月) 17:28:31.32 ID:qs4BO72Y
犬武士呼ばわりされた奴はキャンプ場では死んでないし埋められてもないんだけどな

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