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髪結職分は「一銭職」と唱えるべし

2020年12月15日 18:50

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/15(火) 12:49:16.88 ID:Q4CyFfTC
北小路藤七郎は正長年中より元亀の頃、美濃国金華山岐阜に流浪した。
遠州三方ヶ原において、東照宮(徳川家康)が甲駿の武田大膳大夫晴信と御一戦あそばした頃は、
元亀三年十月十二日(実際には十二月二十二日)の事であったが、東照宮が東海道見附宿の袋井腋、さつ原へ
御帰城の際、大風雨にて天竜川は満水に及び、舟で渡ることも叶い難く、御難儀の所、丁度北小路藤七郎
行きかかり、川を見て浅瀬の瀬踏みをし、御案内したことで、恙無く川を越えられた。
御喜悦浅からず、これによって浜松城にお入りに成った。この時、殿を勤められたのは本多平八郎忠勝殿であった。

御引き揚げが済み、北小路藤七郎は三州原村までお供をし、そこで東照宮の御髪を揚げた事に対し、
御褒美として金銭が一銭、笄一対が榊原小平太康政殿を以て頂戴仕った。これによって、以後髪結職分は
「一銭職」と唱えるべし、という旨の台命を蒙った。そしてすぐにお暇を下され置き、それ以来、
一銭職の者たちは、諸国の関所、川々に至るまで、相違なく通過出来るようになった。

また慶長八年に江戸に御入国された時に、北小路藤七郎をお召に成り、「先年の御褒美」として、
青銅千疋を、伊那熊蔵殿を以て拝領した。

髮結職由緖之事

権現様、三方ヶ原では髪結にまでピンチを救われていたとは。
実際に髪結は江戸時代「一銭職」とも呼ばれていたようで。




763 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/16(水) 16:56:20.08 ID:JZwQXhxJ
一銭職にはこういう言われもあるわけで・・・

世界大百科事典
「髪結」
髪結にはまた一銭職(いつせんしよく)という異称があった。これは享保年間(1716‐36)に
髪結仲間が公儀に差し出した《壱銭職由緒之事》によると,三方原(みかたがはら)の戦のさい
髪結職の北小路藤七郎なる者が徳川家康の危急を救って賞されたことに由来するとしている。
しかし実際は,髪結発祥期に路傍に床を置き,通行人の求めにより月代をそり,髪を結ったときの
賃銭が1文で,一文ぞりと呼ばれたことに起因し,それから一銭ぞり,一銭職となったものと考えられる。

wikipedia
藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき、1335年(建武2年)4月17日[1]または7月17日[2]または10月17日[3]没)は、
日本における理美容業の祖といわれる。昭和のはじめ頃まで全国の理美容業者は采女亮の命日である17日を毎月の休みとした[2]。
功績により従五位[1]。

采女亮の子孫は代々髪結を業としていた。徳川家康が武田信玄の勢に押され敗退の際、17代目北小路藤七郎が天竜川を渡る
手助けをしたことから褒美と銀銭一銭を賜り一銭職と呼ばれるようになった(なお理美容業の定休日が17日だったのは
家康の命日が4月17日であるためという説もある[2])。その後「御用髪結」を務め、21代幸次郎の時に江戸髪結株仲間(組合)を
申請した[6]。史料は亀山天皇時代の出来事から書き始められ、吉宗や大岡越前も登場する[書 3]。



なお北小路家本家は維新後華族となったとのこと。
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