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義光が上杉家から恨まれる様になった理由

2015年03月03日 18:39

496 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/02(月) 23:47:57.54 ID:SOa/h9Hp
義光が上杉家から恨まれる様になった理由

太閤豊臣秀吉の死後、石佐(石田三成)は天下に反逆を企て様として会津黄門(上杉景勝)と謀を共にした
上杉景勝は会津に下り、ひそかに伊達や佐竹、相馬といった隣国の諸将を味方に引き入れ様と画策をした
景勝は山形へも使者を遣わし
「この度徳川家康の天下勝手に憤りを感じ、豊臣秀頼公を扶け此を排する試みである。山形(最上義光)殿も同心するなら是非とも徳川攻めの先手をお頼みしたい
会津の隣国の誼で格別昵懇にいたしたい」という趣の書状を寄越された

最上義光は嫡子義康と弟の楯岡光直、その他本城豊前(楯岡満茂)と志村九郎(志村光安)、鮭延秀綱を召し集め評定を開いた

義光(´・ω・`)「景勝の考えは多分大坂の秀頼卿がまだまだ幼いので、家康公を亡ぼし、天下の政道を代わりに執るつもりなのだろうか
秀頼卿の名を捧げはすれ、実の伴わないものと思われる
みなも知っての通り私(義光)は家康公に長年厚い郷恩を頂いてきた
これは山よりも高く、海よりも深いものである
徳川様のためには一命も惜しくはないが、それを天下に不義なす上杉に一味する等、馬鹿げた事とは思わないか?」
と仰せられた

そこに鮭延秀綱が「潔い事ではありますが、ちょっと考えてみてください
上杉は武門の名家、それに東国でも比類なき大々名です
単独で家康公に敵対する腹積もりはなく、おそらくは同調する勢力がそれなりに存在する事でしょう
そこへ戦略もなく、小兵の味方だけでは上杉を敵に回し千に一つの勝機も難しかろうと存じます
時間稼ぎをし、その間に景勝の動向を家康公に注進なされてはいかがでしょう?
上杉勢がいざ最上を敵と見做し攻めて来ても、領内で戦えば地の利は味方にあり、勝機は得る可能性も増えるはずです」と進言した

(つづく)

497 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/02(月) 23:51:02.17 ID:SOa/h9Hp
(つづき)

義光は少し思案し
(´・ω・`)「秀綱の言う事ももっともだ。会津へは今少し時間を貰える様使者を出し、徳川様には上杉軍が味方を募っている旨を報告しよう」と答えた

そこへ上杉家から「味方として軍費の足しに用いてほしい」と多額の金銀が送り届けられた

義光は「…時間を引き延ばしてごまかしていたら、戦費を贈られて既成事実を先に作られてしまったか
これではとうてい味方をしないと言っても裏があるのではないかと疑われてしまう
とうてい上杉に助力等できないのだから、この金銀を会津に返し、きっぱりと最上家の旗色を示すべきである」と言ったが

本城豊前(楯岡満茂)は「今後の事はさて置き、上杉が最上に猜疑心を持たない様時間稼ぎにもなりますから、
貰える物は貰っておいた方が宜しいのではないでしょうか?」と義光を説得した

(´・ω・`)「…些(いささ)か後ろめたさはあるが、これも窮余の一策…
軍費に一部を宛てがい、残りは皆で配分せよ」
と上杉家からの金銀は番頭物頭は言うに及ばず、馬廻りの武士以下にまで残らず分け与えられた

家康公の御恩は上杉家からの金銀等には比べものにならないものである
義光公のお心の奥底では駒姫の件で豊家をお恨みなされているともお聞きした事がある

叶う事はなかったが駒姫の助名嘆願にも家康公が最上家を格別に懇得なされている事は義光公も常々忝なく思っている事である

家康公の御恩を思わば上杉家を謀(たばか)る事もやむを得ない事である、と
最上領の人達は旗色を定め、上杉とのいくさを決断する気持ちとなった

「山形軍談」「最上記」ほか




499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 00:18:38.26 ID:W2InvcPu
> みなも知っての通り私(義光)は家康公に長年厚い郷恩を頂いてきた

そんなに恩受けたっけ?

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 01:10:00.23 ID:gPerzVmy
>>499
志村光安が織田信長に謁見する際に徳川家康が取次役になった
・小田原参陣直前に最上義守の病と葬儀で遅参の調停を徳川家康が取り成した
・上杉に奪われた庄内領裁判で徳川家康は最上義光を擁護した
・秀次事件の際蟄居されていた最上義光を弁護した

など

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一致団結してこの義光に命を預けてくれるのなら

2015年03月02日 18:25

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 16:49:49.41 ID:SOa/h9Hp
上杉相手に取り残される形になった最上義光

延沢光昌鮭延秀綱里見義近らの最上の重臣たちは山形に参集した諸将たちが続々と自国に引き上げて行くのを見て最上義光に詰め寄り
「加勢の諸将たちが起請文の連判に違約し逃げて行くとは、誓約に背くだけでなく、かつまた家康公に対しての不義、裏切りにございます!
味方の士気も下がります由、追いかけてなんとしても引き留めるべきです!」と訴え、すぐに追手や使者を出そうとした

しかし最上義光は頭を横に振り深く是を制止なされた
(´・ω・`)「確かにみなの言う事はもっともであるが、今追いかけて無理に引き留めようとすれば同士討ちになりいくさになるだろう。
それでは敵(上杉軍)に隙を与える事になる
また余り強く引き留め様とすれば敵方(上杉軍)に味方し、最上とは刃を交わす者も現れよう
そうなったら家康公に大きな不忠ではないか?
仮に自分の領内で問題が起これば自領が不安になるのは人間みな同じである
自分(義光)は最初から家康公のために一命を差し上げ様としていたので覚悟は出来ている
諸将の加勢が無くなったのは残念であるが仕方のない事だ
しかし味方の各々が別心なく今まで通り一致団結してこの義光に命を預けてくれるのなら、一心の覚悟をもって上杉相手に奮戦し、
敵がいかに強大であってもそうそう敗れはいないだろう」
と道理をもって答えられた

これを聞いて延沢、鮭延、里見らは「血気に任せてつまらぬ事を申し上げてしまいました」と赤面してしまった

「山形軍談」

いくさ場で無ければ結構冷静な面のある鮭様の話




「実際はさぁ」

2015年01月08日 18:45

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/08(木) 03:20:24.92 ID:FE/AjC1a
「実際はさぁ」

世間巷では上泉主水(上泉泰綱)が長谷堂合戦の折りに朴の木屋敷で討ち取られた話で、首級を挙げたのは
坂野弥兵衛か金原七蔵かってそんな内容で盛り上がる事が多いよね
でも、実際はさぁ、味方が前線で倒した敵で、首級実験でも名前のわからない身なりの良い
大剛の士分のものがあったんだけど、誰の首かわからないからそのまま放置されてた凄い形相のものが
その日の遅くに直江方から「そちら(最上軍)に討たれたものの内に上泉主水の首級があるから、
出来ればそれを返してくれ」と使者が来たから主の名前が判明したんだよね
事実ってそんな事が多いよね

「鮭延越前旧臣岡野九左衛門覚書」

使者が来なければ上泉泰綱を討ち取った事に当分気付かなかったであろう
最上軍の昔話




続・最上家の掟写

2015年01月06日 18:52

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 22:16:14.58 ID:A+nBxSmi
続・最上家の掟写
(ちょっと厳しい内容を含む追加版)

一、分国の諸士并陪臣諸奉公人、忠孝の道専一に相守る可し
付足軽中間小者迄諸役人の下知と為す可し。地下百姓には地頭代官申し渡す可き事
一、旅行の列、陣屋の次第くみ頭の下知に背く可からざる事
一、戦場に限らず常に他の力を以て勝利を得しを己一人の功と為し剰へ其人を切害せしめば、父子兄弟に到るまで死罪に行ひ長く子孫を断つ可し。昔佐々木高綱藤戸の案内者を害すの類、当家に於ては之を用ひざる事
一、合戦の時、先陣敗軍に及べば後陣則之に代わって横合の鑓を働く可し。能く其の場を窺ひ、卒爾に為す可からざる事
一、鑓下太刀下合討の高名は賞禄をあてがふ事旧例に准ずるの事(討ち死にしても遺族に恩給を与えます)
一、陣屋夜廻の輩の装束、預め相定に異る者有らば其由を問ふ可し。答分明ならずば則ち討留む可き事
一、専ら火を慎む可し。若不意に出来せば其くみの外他の勢を雑へず之を滅すべき事
一、逆心の士あらば其の体を見得て速に披露を遂ぐべし。たとへ之を見損ずると雖も疎忽に為す可らざる事
一、披露なくして私城普請仕る可からず。然し敵に急に取掛られ要害を構へ柵鹿垣土居等を普請等するは禁制に及ばざる事
一、城持并旗本諸士披露なく私に婚姻を結ぶ可からず
付兼て直参礼の陪臣は又右に同ずるの事

同家出陣の時掟
一、喧嘩口論堅く禁制の事。若し違背の者これあらば理非に及ばず双方死罪たる可し(いくさの時の喧嘩の罰則は更に厳しくするよ。喧嘩したら死刑ね)
付目付の者贔屓せしめ披露を遂げず余所に従り露顕せしめば贔屓の目付共に死罪たる可き事
一、他の備に相交る輩これ有るに於ては押へ置き諸具を取る可し。其主人異議に及ばば曲事たるべき事(決められたグループ内で参陣しなさい)
一、人数押の時脇道すべからず。下知に背く者これあらば討ち捨てに仕る可き事(集団戦では命令に従いなさい)
一、たとへ敵地たると道ふともむやみに放火す可からざる事(いくさで敵地でも、火付けは命令がなきゃダメ)
一、先手の外むやみに物見を出すべからず。若し物見を出す可き品これ有るに於ては先手に其の子細を断り出す可く候事(集団戦では物見に託けて抜け掛けをする人が出るかも知れないから、報告連絡相談をきちんと)
一、抜駆禁制の事。たとへ高名これ有りと道ふとも軍法に背くの条曲事たるべき事
一、諸役人の下知に相背く可からず。参陣の末何様の使を以て言送る事有りと道ふとも異議に及ばず其用を達す可し
付書札半紙等を以て書札に背き無礼有りと道ふともいささかも心にかく可からず。諸役人等万事急用にして隙なく不慮の無礼これ有る可きか。是等を遺恨に思ふ族これ有るに於ては逆心同然たる可き事
一、宿論禁制す。宿割役人の下知に背く可からざる事
一、小荷駄押の事諸勢の備に込入る可からざる事
一、下知なくして陣払すべからざる事

「鮭延越前守書伝」

他にも書き残されていない事がありそうだけど、篭城命令を無視して菅沢の直江勢に討ち掛かった鮭延秀綱最上義光から結果オーライで褒められた所を見ると
最上家の軍法も結構いいかげんだったのかも知れない
(´・ω・`)



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/06(火) 10:10:15.02 ID:BjUcJGAK
>>170
そりゃある程度いい加減にしとかないと、刻一刻と変化する戦況に対応できませんがな

最上家の掟

2015年01月05日 18:46

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 14:49:20.55 ID:A+nBxSmi
最上家の掟写

鮭延秀綱の書き伝えの中に長々と最上家の掟があったので、一部を掲載

一、分国の士、城持の者は云ふに及ばず、旗本陪臣等も文武両道専一に嗜むべき事(武士のモットーは文武両道)
一、朋友を欺き高名の輩は当家に於いては之を挙げ用いず。古、佐々木高綱宇治川にて梶原を謀り先陣す。以徃之に相違の軍慮他家に繁多なりと雖も、自家に於ては堅く之を禁ずるの事(味方を騙しちゃいけないよ)
一、他家に於て軍功無き輩と雖も、当家に来て忠戦を励さば、則ち賞禄を厚くす可き事(他家での過去は特に問いません)
一、敵城已に落て落人有り。女童或は病者の類、むやみに殺害す可からざる事
一、下知を得ずして敵方の民屋を焼働を為す可からざる事(焼き打ちが必要な時には命令します)
一、敵方領内に於て或は田を刈り或は植田を覆す可からざる事
一、喧嘩は堅く禁制なり。若し相背くに於ては理非を言はず双方成敗の事(喧嘩ダメ!絶対!)
一、好色博打堅く禁制の事(腐事の行き過ぎを禁止します)
一、実子無き者は養子を求めよ。姓の貴賎を選ぶ可からず。武功者の二男三男は十五歳以上を以て家督を継ぐべき事
一、衣装之料は知行の内証を肖はず。富貴と雖も分限過たる衣服を好む可からざる事
一、武道具の事、不肖たりと雖も、内証富める者は分限に過ぎ之を嗜ふ可し(武具だけは立派な者を選びなさい)
付医師は武具馬具貯ふるに及ばず。療治を肝要と為す可し。出陣の時節、武具馬具とも之を貸賜すべし。但医道不足無きの上を調へ之を嗜む者は之を禁ぜざる事
一、出陣に限らず分国他国に行く事有りと雖も武道具の外粧之道具持つ可からざる事(領内外でも普段から質素に努めましょう)
一、陪臣已下の者は牛皮を以て歩具足を作り之を用ふ可し。家中一年二三度は之を改む可し。武具心かけなき者これ有るに於ては、其家中より追放すべし。直士は謂に及ばざる事(武具の手入れは普段からしなさいよ)

出陣の掟
一、人数押の事太鼓次第なり。若し初心の者有るに於ては其与(組)頭指図致す可し。これを聞き知らざる初陣の若者等おち度之有らば頭の者不届きたるべき事
一、敵地に於て乱妨狼藉堅く禁制なり。男女を取る可からざる事(人さらい禁止)
一、何方に限らず田畑を費す可からず。同所に陣取る可からず
一、宿陣の時乱酒禁制たり。若酔狂の者これ有るに於ては討ち捨て仕る可き事
一、敵方の使者来る時は其品を聞届け披露を遂ぐ可し。ゆめゆめ敵方の使者を討つ可からず。
付敵方の使者に向ひ用事の外一切雑談す可からざる事
一、一夜野陣をなすといふとも、一々陣柵を振る可き事(野陣でも用心して柵を作りなさい)
一、陣くみの外勝手次第に陣取る可からざる事

条々違背せしむるに於ては其軽重に依り曲事たるべき者なり(違反者には相応の罰を与えます)

※一部を省略してますが、40くらいの箇条書になっています。
教科書や史料集ではなかなかお目に掛かれない、最上家の掟の内容。

「鮭延越前守書伝」



507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 01:02:12.73 ID:lmoyvWHs
>>497
内証を肖はず
なんと読むのですか?

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/07(水) 13:45:13.16 ID:2IxhPwOg
>>507
ないしょう(ないせい)をうしなはず

現代簡易訳→財政を失わず

鮭延秀綱、近習の者に昔話をする

2015年01月05日 18:45

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/05(月) 13:12:12.24 ID:A+nBxSmi
鮭延秀綱、近習の者に昔話をする

古河の鮭延翁が若い頃の話を近習の者にした事があった。これはその聞き伝えである。

鮭延翁曰く
「文禄の頃某(それがし)は殿(最上義光)について京都におったが、秀次事件で国屋敷が閉門を命じられていた事があった。
その頃施薬院玄以、寺西筑後、岩井丹波辺りであろうか、秀次事件始末の目付の者が太閤殿下に
『政宗・義光の両家の延沢、鮭延、遠藤文七、原田左馬、片小らの傍若無人な者ともが一揆(騒乱)を企て、
武器弾薬や兵を整え京都と大坂を焼き払い、太閤を攻め殺そうと評定が一致しているそうだ。
これに東国の大名小名が既に同意し、今にも大乱になるのではないかと
京都・大坂の町人どもが私財を鞍馬・高尾・八瀬・大原に運び入れ、逃げ支度をしている最中だと言うそうです。』と言上したそうだ。
これはまったくのデマだったんだよね。
伊達と最上の人々が無謀を企てるくらいなら、世の中に漏らす事なんてしないよね。
察するに、筋なき下々の者の噂話に尾鰭端鰭がついて、京童や町人らの間でさも本当の話の様に広がったんじゃないだろうか。
同じ頃に伏見の普請奉行の布施小兵衛と杉山主水、竹中左衛門ら三人が江戸中納言秀忠卿に言上して
太閤殿下の耳にもこの話が伝わったそうだ。
最上義光伊達政宗が協同して太閤を討ち取り、西三十三国を最上領、東三十三国を伊達領とし、
二人は西と東の将軍になろうと内談はすでに決している。伊達と最上を放置すると由々しき問題です』なんて馬鹿馬鹿しい話だと思わないか?」

「出羽の昔話」

さらりと伊達・最上の主力武将の中に自分の名を登場させる鮭延タソの京最上屋敷閉門時の昔話。




159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/05(月) 13:19:53.39 ID:VCqYemYR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3473.html
この時の話か

寺沢代官に纏わる悪い話

2014年11月09日 17:04

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 02:16:02.79 ID:bxqb0l/Z
寺沢代官に纏わる悪い話

大谷吉継の上意によって山北小野寺領の南方は最上義光の差配する所となり、雄勝には楯岡満茂鮭延秀綱
軍奉行として入った
雄勝は元来の最上領からは有屋峠を境に異邦であったために、鮭延秀綱は郎党から大友右京といった者を
代官として雄勝の寺沢に置いた
しかしこの右京といった者は現地の百姓の疲弊を考えず、定められた年貢以上の取り立てを行い、
主君の秀綱の命令をわきまえずに勝手を強行し、少しでも従わない者がいれば私刑をも気のままに行った

寺沢近隣の民らは「こんな代官に居続けられてはたまったものではない」と考えたが
ある夜誰の仕業かわからないものの、大友が屋敷で殺される事件が起こった

大友の下人たちが鮭延秀綱の下に逃れて
「寺沢の土民らによって代官の大友右京が殺されました。私たちでは小勢のために仇討ちも出来ず、
長居もすれば全滅する可能性もあったのでこの事を注進するために在地から退散せざるを得ませんでした」と
報告した

秀綱はこの事を聞くと大層怒り
「主である右京を討たれて小勢だから逃げ帰っただと?武士なら仇を取るために切り死にして
名誉を守るものだろう?自分たちだけ助かろうとここにいる奴輩は武士の恥だ!」と寺沢から逃げて来た
下人20人ばかりの耳や鼻を削ぎ、追放してしまった

秀綱は「しかし右京を討った土民どもも放置する訳にはいかぬ」と金山城主の川田三右衛門に与力と足軽を付け、
在所の郷士や農民を徴用し、3000人ほどの兵力で雪の山北に遣わせた

山北では秀吉の検地以来一揆が頻雑していたが
山北に川田の兵らが向かっているとの知らせを聞くと
寺沢の土民らは「いくさの準備だ」と村の近くの横堀といった地に大雪を利用した雪壁を築き、都
合1000余人で高さ二丈・厚さ二尺、周囲七・八町の廓を設け、堀を割り
弓や鉄砲までを揃えて立て篭もった

(つづく)

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 03:05:15.29 ID:bxqb0l/Z
(つづき)

川田の鎮圧部隊と寺沢の土民とのいくさ場の山北横堀の地に裸武太之助といった男がいた

元は鮭延秀綱に仕える武勇で名の知られた豪傑であったが、度重なるいくさに嫌気がさし、
知行を捨て牢人になっていたが、寺沢の民らに助力を請われて横堀の雪壁内に百姓らと篭っていた

川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き、
素肌姿で帯に小旗を差し、大太刀を数本身に付け薙刀を杖の様について雪壁の前に現れた

武太之助「裸武者でござる!このたびは土民に助力し敵として相まみえる。川田殿、いざかかって来られよ!
我が首取って鮭延の殿に見せるがいい!」

最上兵は「武太之助は何を考えているのだ?大軍を相手に勝てるとでも思っているのか?
討ち取って手柄にしてくれよう」と50~60人が討ちかかった

武太之助「騎馬でさえ我を討てないのに、徒士のおまえらが束になってもワシに敵うものか?
武太之助の手並みを早くも忘れたのか」と打ち笑い、川田の兵らに切り込んだ

土民「武太之助殿を討たせるな!」

雪壁内から野武士や土民らが川田の兵目掛けて打って出たが
川田三右衛門はいくさに長けていたので伏兵を敵の後方に送り
雪壁を占拠すると前後から土民らを包囲殲滅にかかった

土民らは方々で討ち取られ
武太之助の周りにいた者も残らず討たれた

武太之助は鉄砲で身体の三ヶ所を打たれ、雪の中に倒れ、首を取ろうと近づいた敵兵を二・三人倒した所を
槍で次々と突かれ、ついに首級を取られて絶命した

川田三右衛門は生き残った土民らを集め「代官大友右京をどうやってあやめたのだ?」と尋ねたが
土民らは「我々は大友右京を討ってはおりません
我々も大友右京を危めようと策を練ってはおりましたが
代官右京は下人にも厳しく、家内でもたいそうな恨みを買っておりました
あの日屋敷の下人たちが主の右京を弑し、そのまま遁走したのでございます」と理路整然と答えた

川田はこの次第を聞き「大友が恨まれるのも当然か」と土民らをそのまま解放し
「もとの如くにあるべき」と立て札を建て最上領へと帰った

翌日にはいくさ場で討たれた者の遺骸が片付けられた

武太之助の妻と11才になる息子は早朝から横堀を訪れ七尺ばかりの首のない武太之助の遺骸に縋り付いて
号泣していた

高橋兵助といった者がこれを憐れみ、武太之助の遺骸を荼毘に伏し、遺族に骨を返した

鮭延秀綱川田三右衛門から大友右京の悪事と下人らの詐事の次第を聞くと、寺沢の民らを不憫に思い、
年貢や雑役を免除したと伝わる

『奥羽永慶軍記』



727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 02:24:56.05 ID:OXjmW04f
土民のくせに鳥銃まであるんかよ
修羅の国だな

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:22:12.70 ID:55E0dqL9
>>728
>川田からの攻撃に武太之助は例のごとく身体に合う鎧がなかったので着物一つを腰に巻き
とあるけど、初見にはなんで例のごとくなのかわからんちん

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:43:06.41 ID:bxqb0l/Z
>>732
既出の「鮭様のおやじギャグ」の逸話

奥羽永慶軍記を元に南方熊楠が書いたものから

近世豚の字を専(もっぱ)らブタと訓(よ)む。
この語何時(いつ)始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の辺裔(へんえい)三十九巻、日本部彙考七に、
明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を羊其(ようき)、猪を豕々(しし)として居る。
その頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本人が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。
古くは野牛と書き居る。
綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。
『大和本草(やまとほんぞう)』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居る。
やや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった
証拠はないかと血眼(ちまなこ)になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。
それは『奥羽永慶軍記』二に最上義光、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七人を選出す。
「一番に裸(はだか)武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、
上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に腰指(こしざし)して歩(かち)にて
出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、
本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、
余り肥え脹(ふく)れし故豕(ぶた)という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、
武太之助と戯れける」。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 10:27:28.04 ID:KXu8kAK4
そんなんだから忌避されがちなんだと思うよ・・・

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 12:47:01.65 ID:mNil0/Ht
ちょっと龍造寺さんちの百武さん思い出した
変な名前をいい字に変えてあげた義光さん優しい

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 13:03:11.41 ID:0xQXnkUC
機会があるたびにど直球なネーミングセンスを存分に発揮してる権現様は・・・・
誰か突っ込まなかったんだろうか

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/10(月) 09:12:54.61 ID:lf31lOQA
>>736
実際がとこ、そのネーミングがあの鬼記憶力とつながってんじゃないの。

名前を検索キーにしてるっていうか。

差首鍋(さすなべ)城

2014年11月07日 18:45

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 01:50:41.02 ID:trL7jKmu
差首鍋(さすなべ)城

天正9(1581)年、天童八楯を降し勢いに乗る最上義光に対し「山形に仕える道理は無いわ」と臣従を拒否していた
若き勇将鮭延秀綱の治めていた兼山領へ義光は出陣
氏家守棟の懐柔で幾つかの鮭延方の城館は戦わずして最上軍の傘下となったが、野沢の沓沢玄蕃といった者が
鮭延方で気を吐き、進撃する最上軍を相手に篭城戦を続けていた
玄蕃の篭る城は三方を川に囲まれた断崖絶壁の台地上にあり、城中には清水もあったがいくさの最中に水は枯れ、
兵たちは夜間に最上軍の隙を見ては城塀から
ふもとを流れる川にヒモを付けた鍋を吊り降ろして水をくみ、呑み水を確保し継戦した
結局城は焼打ちに遭って落城したが
この故事にちなんで当地は「差首鍋」と呼ばれるようになったという



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 01:57:05.99 ID:trL7jKmu
(´・ω・`)「塀の上から首を突き出して、一生懸命にヒモの付いた鍋ではるか下方を流れる川から水を汲み上げる姿って、敵ながらシュールだと思うんよ」

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/07(金) 08:24:42.72 ID:osbj2YI1
よい火縄の的になりそうだね

長谷堂攻め本格化す

2014年09月16日 18:52

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 14:57:44.73 ID:86qLHPKL
長谷堂攻め本格化す

(慶長5年9月14日に富山口を抜け長谷堂北方の山形盆地に進軍した直江兼続だったが
15日の楯岡光直と清水義親の夜襲を受けて、菅沢丘陵へと後退して陣を構えた)

其比(此)、長谷堂には志村伊豆守(志村光安)在城しける間
加勢として(鮭延秀綱の援軍)旗本百騎に小筒の足軽二百餘人籠りける

然るに九月十六日直江山城守(直江兼続)長谷城へ押寄、城十一町を隔て、菅澤山に陣をとれば
春日左衛門(春日元忠)は山の尾崎に備を立、既に春日は仰を窺、明日未明より可責と也
然は城中の若者一々次第に打而出んとはやりける所に、伊豆守(光安)同加勢(秀綱)と申合壱人も柵より外へ、□(※耳の右側に卯の字)爾に出さず
悉静りかへつて居たりけるが、其夜伊豆守家来に大風右衛門佐、横尾勘解由を大将として兼而夜討に馴たる若者二百人撰び出し互いに相ことばを定め二手に分け
十六日の曉春日左衛門尉が備へたる陣中へ忍入す
こへも立ず 、追伏々切ける間、思ひよらざる事なれば陣中上を下へと返しけり何れをかたき共味方共わけざれば同士討する事数多なり
去るに左衛門も馬に乗るべき隙さへなく漸く太刀斗追取て山城守陣中さして逃行ける
然る所に夜打の勢共は左衛門が陣を思ひの儘に打破り討捕し首共を百十五持来り
伊豆守実検に入ければ喜悦其限なく、夜討の大将は不及申其外のもの共に迄ほうびをえさせけり
其夜味方にも八人打死しけるとなり

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:22:57.92 ID:86qLHPKL
さて又かたきの方にはいよいよ無念を起し押付長谷堂へ取詰るのよし義光公被聞召鮭延越前守を召されのたまひけるは

(義光)「長谷堂の城へは最前より加勢を丈夫に遣し置といへ共いまだ心もとなき間
其方は急長谷堂へ行伊豆守合力後事の評定を致べし
かまへてかまへて日来申付ごとく城中の勢兵を壱人も柵より外不可出」

と有ければ

(秀綱)「畏て候」

とて手勢引くし長谷堂へ行、伊豆守に対面して御意の趣委申渡ける
然るに春日左衛門、十六日の敗軍口惜存、同十八日に先陣にて惣堀へ攻寄るといへども、城中には少もさはがず
四方の矢ぐらより鉄砲を一同あられのごとく打ければ時の間に多の死人出たりけり
寄手是を見て責めあぐんでや有けん、先手負共を助よとて本陣へ引返しける
然ば城の内にてはいよいよ悦就中はやりをの若もの共勝に来ていざや打て出追討なさんとていさみにいさんで打出んとせし所に伊豆守抑へ申けるは

(光安)「何とてかたかたは不入若げを働候哉
此城堅固にして数日送りなば必ず義光公後詰可有之間
其時内外よりもみ合戦候はば立所に勝利を得べし
然るに今卒爾に打て出付入などにせられてはあしかるべし
さて付入と申は昔よりも上杉家のえものとこそ聞及也
殊更義光公鮭延に被仰含候通城中の勢兵返々壱人成共柵より外へ不出可と
委細被仰越候所に卒爾成働共返々無用」

と申けれども若手の者聞も不入

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 15:56:55.00 ID:86qLHPKL
(長谷堂城兵の若者達)「(9月17日に南の上山城の里見勢が上杉軍の本村親盛や椎名弥七、松下杢助・平岩石見、岩井備中を討ち取り、数百の首級を挙げた戦果を伝え聞き)
上山、長谷堂とて同様に寄来るに上山にてはかたきを追払、分捕高名せし處に、此城なればとてなんぞ一戦もせざらんやは無念の次第なり」

と口々に申ける所節かたきの方には足軽共をあまた放し散らし作物を苅はこばしむるを越前守

(秀綱)「あれあれ御覧候へ苅田をなすとみへたり
さいわい若手者あまりにいくさ所望の上は我伴ひ出し一いくさすべき間引入候はん時あやうからぬ様に取計候へ」

とて既に打而出んとしけるを伊豆守申けるは

(光安)「かまへて足早に引き給ふべし何程かたき追たるとも返し合給ふ事合やめられて可然候
其後の事はともかくも我々に被任置候へ」

と申ければ越前守につこと打わらひ

(秀綱)「引入ての後は貴殿に預置候。唯今の合戦は随分とはげみ可申の間剛腕の程御見物候へ」

とて旗本組百騎許伴ひ大手の間を押ひらき、いさみにいさんで打て出
苅田をいたす足軽共を追立山際に備たる直江山城守が本陣へ切て入れば寄手も願ふ所の幸と入みだれ追つ返しつ一時程戦ひけるに
とかく味方の軍のつよきにや敵の物頭数多討取ける間、終にさぐり立られ後陣の勢へ逃入ける
味方の兵勝に乗て猶もつづひて入らんとしたりしを
越前守押留、日既に夕陽にかたぶけりとて軍兵る間
寄手是に利を得て更ば付入に乗とれとて手しげく追欠けれども
内々伊豆守と申合たる事なれば少もかまはず足早に引而入にけり
又寄手方よりも透間もなく追て乗入らんとしける所に
伊豆守兼てかく可有とおもひ足軽三百余人引具し大手の口より壱町程斗出し道を中にはさみ
弓手めてに備を立流かけたる事なれば
五間七間引離て三百丁の鉄砲を一度に放かけければ
先にすすむ兵共将□たをしをする如くやにわに三拾騎斗ばらばらと打たをす
後陣共に辟易して進み兼たる内に伊豆守足軽共を下知して手がろく引て入ける間
寄手も力およばずして本陣へ引返しけるなり

『義光物語』

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/16(火) 16:11:10.28 ID:86qLHPKL
寡兵で上杉軍を翻弄した鮭延秀綱と、それをサポートした志村光安の記述




直江隊を足止めするか

2014年09月04日 18:53

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 19:47:54.23 ID:9YxrKypW
志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」

慶長5(1600)年9月13日、畑谷城を落とした直江兼続は山形盆地へ向け進軍。14日に富神山を抜け、
菅沢の丘に現れると早速長谷堂城を攻めた

長谷堂には最上方の守将志村光安と増援の鮭延秀綱が兵1200~1300ほどで詰めていた

鮭延秀綱「お出で早々に攻めて来るとは上杉ん奴腹め、あがすけが(お調子者が。調子に乗りやがって)!」

志村光安「人馬で菅沢が埋まり、山の裾野まで陣が張り出してますな。どんだけの軍兵を連れて来てんだが」

秀綱「いっそ夜襲を掛けてやりますか?まさか初っ端から大軍の上杉に寡兵の吾等が攻めるとは思いますまいに」

光安「秀綱殿、殿(最上義光)の命令では『安易に討って出る事を自重し、なにがあっても城を守れ』が
命令だったのでは?」

秀綱「200くらいの兵をお貸し頂ければ私がやって来ます。夜襲の成否に関わらず、上杉の目をしばらくは
長谷堂に引き付ける事は出来るでしょう」

光安「これは尤もな策でありますな。では一撃だけを食らわし、深追いはなされないと約束くだされ。
それとくれぐれも慎重に」

その夜鮭延隊は闇に紛れて奇襲を掛け、上杉兵百以上の首級を挙げて凱旋した

秀綱「ご覧の通り、まずは重畳」

光安「これで怒り狂った上杉兵は長谷堂を意地でも落としたくなるでしょう」

翌日上杉方の春日元忠の隊が再び長谷堂城を攻めた

光安「寄せて寄せて、畠の畔(あぜ)を越えて来たら射かけよ。さすれば外れ矢玉少なく、敵を数多く
討ち取れようぞ」

城に近付いた春日隊を数百の鉄砲と弓が釣瓶撃ちに襲い、上杉軍にはまた多くの被害が出た

直江兼続「篭城されたままでは厄介だ。野戦に持ち込み殲滅しよう」

上杉兵は弓や鉄砲の射程外で苅田狼藉をはじめた

長谷堂城兵「ぐぬぬ…わしらの田が…稲が…」

血気盛んな若い兵らが光安に出陣を願ったが、光安は兵らを宥(なだ)めて言った

志村光安「吾等の役目は如何に直江隊を足止めするかである」

光安は筆を取ると矢文を拵え、弓の得意な者に上杉兵へ向けて射掛けさせた

兼続「これがその矢文か」

上杉兵「は」

兼続が矢文のこよりを解くと、紙にはただ二文字「笑止」とだけ書かれていた




679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:13:55.23 ID:45eDskxa
その前に謝罪と賠償を要求する

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:30:02.97 ID:chQfmHAE
続きがあるのかと思ったけどそうではないのか

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 20:35:36.35 ID:+5Z98Y21
千万とかいて下の句とした。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 02:35:59.79 ID:MqisPoNo
直江の評価ってなんで高いんだろうな
全くの不思議。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 03:38:29.06 ID:CNyl6IWU
そのあたりの時代の奴らは評価がしづらい

鮭延落城後の鮭延秀綱

2014年08月22日 13:48

989 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 04:17:34.80 ID:k/wP8bZN
鮭延落城後の鮭延秀綱

羽陽大梵寺(大宝寺)の城主・藤原駿河(武藤光安)は庄内大山の武藤義氏(大宝寺義氏)の一族の中にあって武威を誇っていた

しかし光安は乱暴なところがあり、大山の義氏には従わず、大宝寺城下で勝手に政事を敷いていた

一方の大宝寺義氏も領民に圧制を強いて「悪屋形」と呼ばれる程評判は良くはなかった

義氏は光安を排除しようとしたが、攻め切るには兵力が足りず、また、大山と大宝寺は近い場所にあったために、義氏派と光安派はあちこちで衝突を繰り返していた

そんなところに兼山の戦いで兵糧攻めにより落ち延びて来た鮭延秀綱らが現れた

鮭延秀綱「庄内では大山の大宝寺義氏の権威が霞むくらいに武藤光安といった者に勢いがあるという」

秀綱は武藤光安を訪ねた

光安「鮭延殿の武功は聞こえ及ぶところ。ゆっくりしていくが良い」

秀綱は光安に仕える事となったが、光安が些細な事で癇癪を起こし、近習や郎党を斬り殺すのを目の当たりにすると

秀綱「噂に聞いていた以上に乱暴な主君だ…
仕える家を間違えたな。
今は後悔しかしていない。
越後に流れて上杉家に仕えるか…
しかしもう少し庄内に留まって土地の倣いを覚えるか」

と志ならず(仕方なしに)滞在を延ばす事となった

「奥羽永慶軍記」

武藤光安は実在が不確かとされ
また鮭延秀綱は本来最上義光による鮭延城攻めの後に大宝寺義氏を頼った事から
色々と歴史事象との矛盾を含む悪いお話





土井利勝と鮭延秀綱のヒゲにまつわる話

2014年04月26日 18:48

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 11:53:40.54 ID:iOXbuZnl
土井利勝鮭延秀綱のヒゲにまつわる話

江戸初期の大名や武士の間では頬や顎にヒゲを生やすのは勿論の事、もみあげを伸ばすのも武士としての
武辺者の趣を示す嗜みのひとつでもあった

しかしある時土井利勝が綺麗さっぱりとヒゲを剃った出で立ちで登城した

諸大名は利勝の行為を不思議に思ったが、土井家中の剛の者、鮭延越前(秀綱)らの話からその理由が判明した

鮭延「殿(土井利勝)は歳を経てヒゲを蓄えるにつけ、なにかと神君(徳川家康)に似て来たと
噂をされるのを痛く気になされておる。
あらぬ噂(土井利勝は実は家康の隠し子だから容貌が似てくるのではないかといった噂)が過分になされぬ様に
ヒゲを落とされたのよ」

ヒゲ面の諸大名の中にあってヒゲを落とした事から
わけを知らぬ者にまで理由を詮索される意味ではちょっと悪い話





101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 15:40:18.27 ID:Zhc8gxkT
水野勝成「大御所と利勝とそれがしは従兄弟、水野の血が強いだけでござろう」

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 16:45:51.67 ID:iOXbuZnl
>>101
古河の歴史
http://culture.city.ibaraki-koga.lg.jp/rekihaku/tenjiannai/josetu/tosikatutokeihu.htm
土井利勝の出生については当時から徳川家康の子供とのうわさが広まっていたが、利勝自身はそのうわさをできるだけ避けていた。公には土居利昌と葉佐田氏の娘との子供となっている。また一方では家康の従弟の水野信元説も当時から唱えられていた。
江戸時代中期には藩内で藩主の家譜調査がおこなわれ、家康の子と明記されている。
近年、地元研究者の説でも実父は家康、養父が土居利昌(三河国碧海郡土居村早乙女小左衛門利昌 家康の家臣 知行500石)が有力視されている。

保科正之「…だそうです」

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 17:09:59.30 ID:6C8dYTeN
天一坊「ではわしが将軍御落胤である可能性も」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/26(土) 17:24:17.45 ID:/NUGOV8U
秀吉「ないない」

105 名前:人間七七四年[hage] 投稿日:2014/04/26(土) 23:13:07.92 ID:rE086cAs
秀頼「ですよね~w」

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:10:29.27 ID:djLyE9Or
毛利秀頼は守護大名の斯波義統の御落胤だと思ってたら
異説があったんだ

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:18:12.03 ID:A/y6LEAC
大野治長「そっちの秀頼かい!」

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/27(日) 00:20:06.52 ID:A/y6LEAC
土井家臣団は鮭延秀綱以下みんなもみあげとおひげもふもふなのに…

ある日、見知らぬ客人が尋ねてきた

2012年11月01日 19:52

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 20:12:03.40 ID:Hy/vmaIW
最上家改易後、古河酒井家預かりの身となった鮭延秀綱
そこへある日、見知らぬ客人が尋ねてきた。
「越前どの、私は内豆民部の子です」
「さてどなたでしょう?」
「私は父があなたさまに割られた兜を保管しておりますよ」
「おお、それではあのときの…」
内豆民部とは、慶長六年の庄内攻めのときに秀綱が戦い、確かに兜を割った相手
であった。
民部はほどなく病死したが、そのときの話を息子に語り継いでいたのであろう。

これは庄内酒井家中では、わりと有名な話ではないだろうか。
以前江戸で、酒井家の高力但馬守が知っていると語っていたのを私は聞いたぞ、
と秀綱は付け加えた。

ちなみにこうした逸話が記録された『鮭延越前守聞書』は、秀綱本人の希望によって
娘婿の家臣・岡野九郎左衛門がかきとめ秀綱の十三回忌にまとめたものであり、
鮭延寺から古河早川家に伝わったものである。

なおこの記録は秀綱三十九歳までしか残されておらず、改易については一切記載
がない。




171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/31(水) 21:09:59.95 ID:9VCDBAR3
最近、鮭延さんフィーバー状態だなこのスレw

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/01(木) 00:26:10.06 ID:HK1rZBM2
>>171
鮭延ならぬ鮭述べ状態だな

さりげなく自慢を忘れない鮭延であった

2012年10月29日 19:57

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 21:22:53.80 ID:hbstFqpK
上杉と最上が庄内支配をめぐり争っていたころ、鮭延秀綱は三十歳ほどであった。
このとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。

のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)




「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」

2012年10月29日 19:56

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 21:21:46.85 ID:hbstFqpK
鮭延秀綱の回想は誇張がなく、戦国武士の実際がわかるようでなかなか興味深い。
軍記しか材料がなく、わかりにくかった最上家の状況も、彼の証言によってあきらかになる部分もありそうだ。

22の歳に主君大宝寺義氏を失った鮭延秀綱だが、その後最上義光配下に入るのはご存じの方も多いであろう。
しかし、その課程には軍記と実際でかなり差があることがわかる。

「最上の鮭延攻めおよび秀綱拒否の動機」
軍記:
義光の優れた武勇と威光によって出羽はほぼ最上家支配下に入ったが、
気位の高い若武者・鮭延秀綱(16)は抵抗した。出羽統一のため、義光は鮭延へ出兵することとした。

秀綱の回想:
大宝寺家に仕えていた鮭延城主秀綱(24)は、二年前主家の滅亡にあうも、大宝寺にかわって
庄内を支配するようになった東禅寺筑前のはからいにより、城を確保できていた。
東禅寺は最上義光に接近し、義光もこれに応じて庄内攻めをしたいと考えた。
しかし最上と庄内のあいだには鮭延がある。
(庄内の)鮭を獲るためには鮭延をまず攻めよということで、義光は庄内攻めの先頭に立つよう依頼。
しかし秀綱は、「庄内あっての鮭延、なのに味方できるか」と拒否。
これを受け、延沢満延によって鮭延攻めが開始されるのであった。

「秀綱の夜襲」
軍記:
鮭延城を包囲した最上勢は、夜間水くみに出る鮭延勢を待ち伏せて攻撃していた。
そこで秀綱は一計を案じ、取水部隊に中に強者をひそませ逆襲、最上の武田兵庫を討ち取ったのである。
義光は秀綱の知勇に感じ入り、これに懲りて持久戦に切り替えた。

秀綱の回想:
秀綱はわずか三百で粘るが、最上側は氏家守棟も投入。
事態の打開のため、守備側は夜襲を思いついた。
秀綱は「よし、俺が偵察してくる」と自らこのとき城外に行くが、帰り道に敵だと勘違いした味方に襲われ、
あやうく同士討ちするところであった。
こんなに苦労したのに、戻ってみると「夜襲はやめましょう」とあっさり却下されてしまうのであった。
(つまり、実際は夜襲そのものがなかったと思われる)

「決着」
軍記:
いよいよ落城間近となったとき、秀綱たち一行は夜陰に乗じて城外に脱出した。
城を落としたあと、物資の尽きた様子を見た最上勢は「これなら力攻めしたら楽勝だったな」と感想をもらす。
しかし義光は「秀綱は見所があるから、敢えて見逃した。いずれ私のもとに来よう…」と言うので周囲はその度量と先見の明に感心した。
この言葉通り、秀綱は落城間際に庄内の大宝寺をたよって落ち延びたが、大宝寺滅亡後最上家に仕えるようになった。

秀綱の回想:
降着した事態は義光の根回しによって新たな局面を迎える。
秀綱が庄内の援軍を頼りに粘っていると考えた義光は、庄内の小野寺家から説得してもらうことにした。
秀綱本人は頑なであったが、小野寺家の説得を受けた家老が秀綱に意見し、ついに降伏して最上家に仕えることとなった。

こうして比較すると時系列が逆転していたり、夜襲をかっこよく描いていたり、義光の度量を強調している。
また、秀綱は武将の意地よりも庄内からの援軍を頼りに抵抗しているとわかり、
理想論だけではない戦国武士の現実的思考がわかるといえよう。
(『鮭延越前守聞書』)





その翌年、事件は起こった

2012年10月27日 18:08

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 09:38:59.22 ID:C9fQWpwr
鮭延秀綱は、鮭延城主定綱の子として生まれた。
しかし二歳の時、父と兄・氏綱の争いに乗じた大宝寺義増が鮭延城をのっとってしまう。
父と兄に置き去りにされた秀綱は、そのまま庄内へと連行され、十四歳で大宝寺家に
小姓として出仕することになった。
父と兄は鮭延に戻ることなく没したが、二十一歳になった秀綱は器量を認められ、大宝寺配下の
鮭延城主となった。

その翌年、事件は起こった。
かねてより評判の悪かった大宝寺義氏に対し、家老の前森蔵人が謀反を起こす。
前森に反対する者はなく、「もっと早くそうすればよかった」と皆口々に言う始末であった。
このとき秀綱はちょうど正月の挨拶ついでに、義氏のもとにいたのである。
秀綱は義氏の自刃に殉じるべく覚悟をかため、暗く放火された場内を探し回るが、
主君はいっこうに見当たらない。視界が悪いので名乗りつつ進んでいった秀綱は、
名乗ったとたん思いがけぬ目にあった。
「我こそは鮭延源四郎!(秀綱のこと)」
「何!」
敵はなんと、槍を捨てるとしっかりと秀綱を抱きしめてきたのだ!
「おまえは誰なんだ、はなせ!」
「放すもんかよ、おれは中村内記だ」
「あっ、中村のおじちゃん…」
この男中村内記は、まだ幼く実父と引き離された秀綱を、我が子のようにかわいがっていてくれたのであった。
内記は弟・孫八郎とともに秀綱を心配して二日間探し回ったがおらず、
あきらめかけていたところでやっとこうして見つかって喜んでいるのである。
「源四郎よう、あんな運の尽きた屋方に供をしてどうするんだよ。助かろうず」
「あんたたちが助けたくたって、前森はそうは思わないだろ! 後悔するだけなんだからはーなーせー!!」
秀綱は抵抗したが、怪我をして疲れ切ってもいたので兄弟に抱きかかえられて、町屋まで連れて行かれた。
内記が前森にかけあって、助命嘆願をしているにも関わらず秀綱は殺気だっていた。
「よう、源四郎。おまえよく助かったなあ」
「討手か!」
と、昔の仲間が様子を見に来てもこんな調子なので、まわりに誰も近づけないでいた。
孫八郎が、前森からもらった白米と薪を持ってきたところで、
「切腹を命じる奴にこんな日用品届けないよな」とやっと安心し、それから安眠したとのことだ。

命が助かった秀綱は、この数年後最上義光配下となり、八十五の長寿を得るのだがそれはまた別の話。
また軍記や通説では、前森蔵人の謀反は最上義光の謀略ということになっているが、
実際は関与していない模様(ただし義光はこのあと、蔵人を支援することとなる)。
(『鮭延越前守聞書』)





と、当時を振り返る秀綱であった。

2012年10月27日 18:06

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 23:06:27.36 ID:ulPhwur8
慶長五年、ご存じ長谷堂合戦の折。軍記ものでは颯爽と活躍している鮭延父子であるが、
その実態が当事者によって語られていた。
当時父の秀綱は38歳、子の左右衛門は15歳である。

子「父上、私も参戦したいです!」
父「ただでさえ味方が少なくて大変なのに、おまえごときに割けん。あきらめなさい」
子「ならば私ひとりで出るまでです」
父「あー、わかった。仕方ない、50人くらいつけてやる、がんばるんだぞ」
子「はい、父上!」

こうして出陣した左右衛門だが敵に深入りしてしまい、供回りの過半数が討たれ、
指物までとられそうになる始末であった。
父は子の窮地に気付き、半町ほど敵陣に入りこみ子を探すが見つからない。

父「むう、遅かったか。あとに残っているのかもしれんが…」
子「あっ、父上!」
父「これはいかん! 左右衛門、ついて来なさい」

父が探し回り子をやっとみつけ合流したが、父もまた大苦戦してしまう始末。
ついに父は子の目の前でありながら、余裕が全くなく半町あまりも先に退いてしまった。
「俺、息子の前なのに先に逃げちゃってかっこわるかったよね…」
と当時を振り返る秀綱であった。

それにしても正直に語り残さねば、颯爽とした活躍だけが記録に残っただろうに。
(『鮭延越前守聞書』)





47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/27(土) 00:20:22.17 ID:aEIVsLLX

>>45
余裕が無い状況って分かってるのに参戦したがる15歳って凄いな。さすが武家の子

いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。

2012年10月26日 20:01

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 22:57:41.28 ID:NtEXG0w+
長谷堂合戦終結後、城を守り抜いた鮭延秀綱は庄内方面へそのまま転戦し、
横手まで進み小野寺義道の降伏交渉を行うことになった。
そのとき主君義光に手紙を送ったのだが、それに対する義光自筆の返事を彼ははっきりと覚えていた。

「おまえたちの活躍で多くの城を勝ち取ることができ、私は大変喜んでいる。
横手へ送る書状の文面案を志村、里見を呼びにも見せたが、皆は読めなかったぞ。
だが私は、水でも流すようにすらすら読めたのだ。
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。直すところなんかまったくない。
秀綱こそ文武両道だと皆にも話しておいたからな。
これからもミスのないよう、しっかりやるんだぞ」

別にこんなものいちいち言わなくてもいいかもしれんけどと…前置きしつつ、
回想ではしっかり残す秀綱。義光に褒められたのがよほどうれしかったらしい。
ちなみに字が義光にしか読めない=達筆だね、ということらしい。
鮭延秀綱、主君に褒められたちょっといい話である。
(『鮭延越前守聞書』)





72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:01:01.52 ID:h13LrtpK
あああのよくある流れたような文字はやっぱ同時代人でも読めない場合あるのね
安心したw

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:17:51.48 ID:dpM0W+KM
得意気そうな雰囲気が伝わってきてかわいいなw

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 23:28:19.15 ID:PQEWfqae
鮭延(ドヤァ

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 07:11:39.31 ID:jNLYG0qQ
トルネコとエンドールの王様か

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 08:17:38.74 ID:wJxlblL8
下手に崩されると読めないよなぁ。
書状類も後世に写し間違いが多発してるし。

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 10:41:53.61 ID:a+9jzAvD
本人と鮭様しか読めない...。暗号だな。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 13:02:44.69 ID:X/xvHu/a
鮭様も読めなかったけど、読めたフリして鮭に丸投げすることで面目を保った悪い話

鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話

2012年10月26日 20:01

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 22:54:00.08 ID:NtEXG0w+
慶長六年、東軍の勝利に乗じた鮭延秀綱は四月一日、夜のうちに酒田攻めに出立することとなった。
ところが具足箱にしまっておいた采配がなくなっている!
「なんか嫌な予感…あああ、ちゃんと勝てますように」
秀綱はそう思いつつ、そのへんにあった竹を切って代用した。
気を取り直して進む秀綱だが、四・五百人ほどの敵勢に待ち伏せをされてしまった。
しかもこのとき! なんと兜の緒が切れたではないか。
「今朝は采配なくすし、今度は兜かよ! 今日はもう討ち死にだろコレ」
すっかりヤケになった秀綱は兜を投げ捨てて進もうとした。
すると板垣牛之助という者が「おいおい、この大軍に兜なしで挑むとかありえないだろ」と止めに入る。
「ちょっと待って、今直するから」と牛之助はたくさんのこよりをより合わせ、即席の緒を作り、
兜をかぶせてくれた。
秀綱は気を取り直し出陣、見事に活躍したのであった。

鮭延秀綱、ちょっと縁起の悪い話。
(『鮭延越前守聞書』)





29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 01:00:13.74 ID:Xc640gXl
待ち伏せされたにしてはずいぶん余裕あるような

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 03:54:37.96 ID:8dhAPQZi
後ろで采配してたんだろうな
いい話だ

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/26(金) 08:13:51.18 ID:wJxlblL8
こよりって戦場に持ち込むもんなんだろうか

指物ひとつに命をはる

2012年10月25日 20:02

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 20:10:57.23 ID:6d47UOjt
紀州殿を手に余している状態だったんだろ

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 20:45:34.54 ID:e/aE5nvO
慶長五年九月二十四日出羽国長谷堂城でのこと。この日最上勢と直江兼続率いる上杉勢の戦いは一段と激しかった。
夜遅く、最上側が追撃にあった際、さしてあった総大将義光の指物が抜けないのを鮭延秀綱が気づき回収しようとした。
しかしなかなか固く抜けずに困っていると、義光が女三という法師武者をよこし、回収せよと命令してくる。
秀綱は女三に「この小旗は任せろ。鉄砲の応援を50か100頼む。射撃の合間に引き抜こう」と伝えたが、
応援はまったく来そうになかった。すると今度は義光その人が単騎で駆けつけ、直に回収を指示してきた。
秀綱は「今女三にも申した通り、ともかく鉄砲30騎ばかりでも援軍をください」と返答。
義光が承知して帰るとやっと鉄砲30騎ほどが駆けつけた。
さらに政宗からの援軍らしき二騎が来たので救援を依頼したが、聞こえなかったのかスルー。
ここへ最上衆の安食七兵衛が駆けつけてきたので、両者被弾しつつも鉄砲を撃たせ、なんとか指物回収に成功したのであった。
七兵衛はのちに「長谷堂の手負いは典膳(秀綱のこと)に撃たれたようなものだ」と笑って秀綱に語っていたという。

指物ひとつに命をはる、戦国武士らしいお話。





51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 21:39:39.01 ID:Q0oPhVM0
敵の旗は勝利の象徴だな
西洋でもそう

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 23:00:14.84 ID:Y+DKVdgM
奪われたら

多聞兵衛「この旗は昨日、貴殿からお預かりしたものであるが、紋が違うゆえ役に立ち申さぬ。
お返しするゆえ、城門まで引き取りに来てくださらぬか?」(城内爆笑)

みたいな事になりかねないしねえ。

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 23:21:36.69 ID:N595Hho+
指物は長期保存可能なのも良いね
あれ、そういえば最上義光歴史観に直江方の旗が何故か有ったようなw

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 23:26:38.98 ID:DqXG8z9C
まーくん「なんと間抜けがいるもんだな♪」

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 23:27:55.67 ID:1tMo3jg4
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4513.html
直江「伊達家の旗ならどっさりありますが」

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3646.html
政宗「最上弱い、最上弱い」

関が原の三家はじゃんけんみたいだ

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 23:33:31.44 ID:AFUXoQ1B
乃木将軍が居た堪れない様子で見ておられます

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/25(木) 00:23:10.99 ID:PQEWfqae
北条綱成と武田信玄が八幡菩薩の旗を羨ましそうに見ています