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「朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆

2023年02月16日 19:29

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/16(木) 18:52:52.58 ID:7PzQHc1V
朝野雑載」から伏見城の戦いにおける甲賀衆

名古屋丸には甲賀佐左衛門などが守備に入った。
この甲賀は瀬田の城主・山岡道阿弥(山岡景友、神君伊賀越えの協力したともいわれる山岡景隆・山岡景佐兄弟の弟)の末子であり、
道阿弥は家康公に御見方していたため、与力同心を召し連れて伏見城に上り、名古屋丸を固めていたという。
また松の丸は深雄清十郎、太鼓の丸は佐野綱正、上林竹庵(宇治の茶師)がかためていた。
小早川秀秋鳥居元忠にひそかに書状を送り、家康公に味方したいためともに籠城したいと申したが、鳥居は承知せず
「それほどまでに意志が堅いのであれば関東へ御注進なされよ。籠城は断り申す」
とのことだったので、秀秋の家老平岡頼勝は黒田如水の縁者であったため、平岡の家来をひそかに関東に遣わし、黒田長政に秀秋の内通を申し上げたそうだ。
伏見城の東は宇喜多秀家、増田長盛、石田三成、長束正家(陣代は家所帯刀、武者奉行は伴五兵衛)などかれこれ一万人が攻めた。
周囲から昼夜の境もなく攻めたけれども、城兵堅固で持ちこたえて七、八日過ごした。
長束正家の軍勢の中に鵜飼藤助というものがいた。
彼は松の丸に籠った甲賀の者の一類であったため、松の丸に矢文を射込んで
「面々が籠城しているため、在所に置いてきた妻子をとらえ水口において磔にかけよう、と長束正家殿がおっしゃっている。
近々に妻子らを召しとる手筈である。
もし返り忠をなしてその郭を焼き立てれば妻子の命は助けられるのみならず、汝らに恩賞もあるだろう」
と伝えたところ、甲賀の者どもは大いに驚き、永原十内、山口宗助一族四十余が同意して
「それならば明夜亥子の刻に必ず火の手を上げよう。その時に攻められよ」と返答した。
こうして翌日子の刻に松の丸に火の手が上がったため、城兵は意気消沈し、寄せ手はついに城中へ乱れ入った。
松の丸をかためていた深尾清十郎は戦ったが生け捕られ、のちに大坂で誅されたという。
また名古屋丸の松平近正も小早川秀秋の家人、比奈津角助五左衛門と島田勘右衛門により討ち取られた。
松の丸、名古屋丸の攻め落とされ、三の丸の松平家忠(「家忠日記」の作者)も供とともに三度まで突き出たが討ち死にした。島津義弘の家人である別所下野が首をとったという。
(このあと内藤家長、佐野綱正、鳥居元忠の奮戦と討ち死にの記述)

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/16(木) 19:03:21.00 ID:7PzQHc1V
長束正家配下の伴五兵衛については、同名の甲賀忍者が「甲賀衆肥前切支丹一揆軍役由緒書案」によれば、島原合戦の時に敵陣を偵察している。
(落とし穴におっこちた甲賀忍者の望月与右衛門らを背負って脱出)
上ノ郷城の戦いについては大河に出ていた伴与七郎のほか(家康の感状がある)、鵜飼孫六という甲賀忍者も参戦していたとか。
伴も鵜飼も甲賀二十一家だけど、上ノ郷城攻めでは家康方として、伏見城攻めでは長束正家配下で西軍として戦ったことになる。
ついでに上ノ郷城攻めでは、神君伊賀越えの時に手助けしたとされる多羅尾光俊が甲賀忍者を派遣したと言われる。



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「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別)

2023年01月21日 18:25

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/21(土) 00:18:13.57 ID:pg+Ii9kW
「武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍とは別)

「赤小豆坂七本槍」は信長記に、「賤ヶ岳の七本槍」は太閤記にある。
「真田七本槍」は何とか記には載っていないが、いつでも語って聞かせようとある老人が言ったので
ある時、三井寺の高観音の舞番へ上り、毛氈を敷き、湖を見ながら老人の話を聞いたのでここに書きつける。
初めの真田陣(上田合戦)は天正十三年(1585年)閏八月のことであった。
二日の合戦で、鳥居元忠の色?の小見孫七が槍を合せた。(「信州上田軍記」によれば戦死)
同二十日丸山(丸子)の城下へ岡部内膳正長盛の一手がよく働き、家人の小鹿又五郎が一番槍、そのほか奥山新六所藤内近藤平太内藤久五郎勾山久内、笛吹小助がよく働いた。
権現様より岡部内膳ばかりか家人七人にも御感状がくだされた。
その内、所藤内は槍下の高名とされた。
小鹿又五郎は「一番槍を合わせること、千万一身の覚悟、諸事に抜きん出ている」といった御感状であった。
この小鹿又五郎は駿河衆であり、今川範忠の御二男、小鹿強五郎範季?の後胤という。



572 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/22(日) 09:37:27.78 ID:5cYmx69V
負け戦の七本槍とか・・・・・

三成元忠ノ遺臣ヲ宥ス

2018年07月23日 18:27

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 06:24:23.95 ID:7+1YOzxD
三成元忠ノ遺臣ヲ宥ス

元忠(鳥居元忠)の茶道(茶坊主)に神崎竹谷という者がいた。すでに伏見城は破れて元忠
最期の時、竹谷は敵の大勢の中に駆け入り散々に切って廻ったが、敵兵は折り重なって

ついに竹谷を生け捕り、石田(三成)に注進した。石田は竹谷を召し出して伏見城の始終を
つぶさに問い、元忠の忠信類なきを聞いて、はなはだこれを感じた。石田は竹谷に向かって、

「新太郎忠政は父の戦死の有様がさぞかし気がかりであろう。汝は急ぎ関東に下って合戦の
次第を忠政に語るのだ」と言うと竹谷の命を助け、あまつさえ伝馬に乗せて東国に送った。

忠政は竹谷の物語りを聞いて亡父の忠死の潔きを知り、討死した家士らの妻子もみな最期の
様子を聞くことができたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(鳥居家中興譜)』


忠臣の血痕

2015年11月09日 09:23

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 16:21:15.75 ID:9WP2/rEK
43、忠臣の血痕

 明治の初め、政府に「弁官」という官があった。
この弁官の一人に武州忍藩出身の澤田某という人物いた。
詳しいことはわからないが、生真面目な性格の男だったらしい。

戊辰の役が終わってまだいくらも経たないころ、皇居西之丸にある門の楼上から一棹の長持が見つかった。
場所が場所だけに、徳川家の遺物であることは間違いない。
「いかがいたしましょう」
「中身がわからぬではどうしようもない。開けてみよ」
下役人から処理法を聞かれた澤田は、そう答えた。
そしてそのまま出かけていって現場に立ち合っているところをみると、案外興味もあったのかもしれない。
「鍵がかかっておりますが」
「壊せばいいだろう」
そこで鍵を壊して開けてみると、出てきたのは古畳が2枚と桃のタネが2つであった。
「……?」
意味も無くこんなところに畳をしまっておくというのも珍妙なので、
よくよく見てみると、畳の表面にシミのようなものがある。
「血の跡ではござりますまいか?」
なるほど、そのようである。
そこでよくよく調べてみると、驚いたことにこの畳は
慶長5年8月1日に、伏見城で鳥居彦右衛門元忠が切腹したときのものだとわかった。

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 16:21:41.66 ID:9WP2/rEK
鳥居元忠、といえば、関ヶ原の前段ですでに捨城の伏見城に籠って壮絶な戦死を遂げた、徳川家にとって超一級の忠臣である。
「なんと忠臣の血痕であったか」
澤田は感動したが、当時のこととて幕府の遺物は塵芥と同類で、「そんな汚物は捨ててしまえ」という声が強かった。
そこで古畳は危うく廃棄されるところだったのだが、
澤田が密かに鳥居家の公用人に連絡しておいたので、身体中の毛を逆立てて飛んできた鳥居家の家臣に危うく下げ渡された。

外国の博物館で過去の偉人たちの血痕や弾痕のある衣服などを展示しているという話は聞いたことがあるが、
我国において300年も昔の忠臣の血痕をかくも鄭重に保存しておいたとは、まことにもって驚きとしか言いようが無い。
保存させたのは家康公に違いあるまい。
海内一の強剛者たちの集まりであった三河武士軍団が、
家康公のために死をも厭わなかったのは、公のこういう優しさがあった故であろう。

ところで、もう一方の「桃のタネ」であるが……
伏見の名物は桃であったらしいから、おそらく鳥居元忠が最期に食べたのがこの桃だったのではあるまいか……?


ttp://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/shigure-soushi/shigure-soushi.htm
ここの現代語訳志ぐれ草子より引用




966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 16:43:19.36 ID:WG5J2xR6
血天井といえば、徳島の丈六寺に元親によって謀殺された新開氏の血天井があるな
既出だから書かないが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12.html

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 17:44:37.66 ID:g/S5eUq6
10%は一回失敗したら即抜け安定
それをされる事ぐらいは承知の上だよなぁ?

二人の死に方

2014年12月07日 17:23

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 15:50:33.56 ID:W3X3PcoP
関ヶ原合戦の前哨戦、伏見城の戦いで内藤家長は守将の一人だったが籠城の方針をめぐって
総大将の鳥居元忠と対立した。

元忠はいう
「こたびの合戦は討ち死に必定である。だから大将として城を預かる上は鳥居元忠と名乗って
見事に討ち死にするのが勇ましい武士のあるべき姿だ。」

しかし内藤家長はこれに反論した。
「そうではない。こういう場合は名乗らずに大将の死をかくし、いまだどこかに逃げているのではないかと
敵に疑心を生じさせるのが古来からの兵法である。」

元忠は敵にただで城を渡さない三河武士の覚悟を示そうとしたのに対し、
家長は石田三成の進撃を少しでも遅らせ、徳川家康の西上の時間稼ぎをせよというのである。

二人は死に方をめぐってついに喧嘩になった。

家長が「大将が堂々と快死する地ではない。」というと元忠は怒って
「大将が堂々と死なねば後で必ず窓から逃げたなどといわれるぞ。」
「雑兵の首に混じって捨てられては不覚きわまりない!」と反論する。

結局二人は同じ伏見城の中で対照的な最期を迎えた。

元忠は城の入口の石段にすわり、敵に名乗った後で堂々と切腹した。

一方
「家長もとより弓の達者なれば、手先をめぐらし、さんざんに射て敵を斃すといえども、
大軍おりかさなり松の丸の余煙もはげしゅうして逆風吹きめぐり、本丸西丸一時に亡す。
家長防戦の術つくるがゆえに、猛火のうちに飛び入りて焚死す」(武家事記)

家長の首はいくら探してもついにみつからなかったそうである。




鳥居元忠の甲冑

2013年07月27日 19:57

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 20:54:02.12 ID:p7JI9yPt
関が原も大坂の陣も終わり天下は徳川のもとに統一された。
関ヶ原で西軍に付き、伏見城攻めなどに参加した雑賀孫市はその頃水戸徳川家に使えたが、
或る時、鳥居左京亮忠政の元に使いを送った。

『私は、あなたの御父、元忠君の(伏見城での)御最後に参り合わせました。
その時の元忠君の御物の具を、今日まで家に伝えております。
あなたの父君の御形見であるので、御覧になるのであれば、返還したいと思います。』

これに忠政は大いに喜び
「一見することを許していただけるのなら、大変ありがたい。」
と返答した。

やがて雑賀孫市は、元忠の甲冑を携えて忠政の屋敷を訪問した。
忠政は恭しく玄関に出迎え、書院に孫市を通して、父の甲冑を床の上に据えて、これに向かい拝礼し、
雑賀には山海の珍味を所狭しと並べ、心を尽くして饗した。

翌日、忠政は孫市の持ってきた父の甲冑、大刀を使いに持たせて、孫市のもとに送った。
そして

『あなたのご芳志により亡父の物の具を見ることが出来たのは、返す返すも大きな悦びでした。
そうではありますが、忠政の方には形見と見るべき物の具は少なからずあります。
ですのでこれは、見苦しいかもしれませんが、雑賀殿の戦功の御名誉とともに、
あなたの御家に差し置かれ、ご子孫にお伝え頂ければ、後世への御遺誡にも成ると存じます。』

そう、伝えた。

その後、鳥居家では毎年、綿を厚く入れた小袖を数多、常陸国の雑賀家に贈るのを恒例とした。
水戸徳川家ではその使者の来る時は、道路を修繕し、雑賀の家に魚鳥を多く与えその饗応に使わせた、
という。
(徳川武士銘々伝)

鳥居元忠の遺品の甲冑についての逸話である。





百舌と竹千代と鳥居元忠

2012年09月02日 20:53

308 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/09/01(土) 21:13:27.32 ID:APD26eze
鳥居元忠は13歳の時から3歳年下の竹千代に仕えていたのだが、ある日、百舌を使って鷹狩のまねをしていた
竹千代の遊び相手をしていた元忠は、自分の手に百舌を乗せたところ、

「百舌の置き方が悪い!」

と縁側から突き落とされてしまった。周囲の者は竹千代を諌め、元忠を心配したが、
当の元忠は

「私は以前、父の忠吉から『普通であればこの忠吉の子だからと遠慮する所を思ったまま戒めるとは大将の器量を
 備えておられる。小事は注意するに及ばぬ。ただ忠勤に励め。』と告げられましたので、気にしていません。」

と答えたという。




上林竹庵、籠城す

2012年07月21日 20:51

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 14:55:33.12 ID:ijSPW+5s
石田三成が挙兵し、いわゆる関ヶ原の役が進行する中、伏見城留守居の徳川家康家臣・鳥居元忠は
西軍との戦いを決意し、籠城の準備を進めていた。

と、その頃宇治の茶師に上林竹庵(政重)というものがいた。
この竹庵が籠城の準備をしている伏見城にやってきて言った

「それがしこの数年来、内府様(家康)に御恩を被り奉りました。であれば、この度私もこちらに、籠城いたします!」

これには鳥居元忠も驚き、彼を説得した

「確かに其の方はかねてから当家のお茶の御用を承り、少しの知行を頂いておる。
だがそれは他の者を超えるほどの御恩というわけでは無いではないか。
そうであるのに今回ここで討ち死にすれば、其の方自身は無用なことをしたものだと言われ、また我々は、城中
無勢であるのに困って商売人までかき集めた、などと言われてしまうだろう。そうなってはお互い面目もないではないか。
とにかくそれは止めるのだ。」

そう、言葉を尽くして諦めるよう言ったが、竹庵はまるで納得せず、

「鳥居様の言うことはたしかに道理です。であれば強いてそれに反論しようとも思いません。
だからといって、先に言った一言を無かった事にして再び宇治に帰ってしまっては、それは私という男の恥でございます!
いたしかたない!ここで切腹いたす!!」

そう、顔色を変えて言い放ったので、流石の鳥居元忠も致し方なく、彼が城中にとどまることを許可した。
元忠は竹庵を太鼓丸の守備に当てた。竹庵は喜び、茶袋を集めて自分の指物にしたという。

そして8月1日、西軍の大軍勢に10日以上も持ちこたえた伏見城も、ついに落城の時を迎えた。
竹庵は兜の代わりに赤い鉢巻を着け、太鼓丸に攻め込んだ鍋島勢に一騎、突撃し、
そこで見事に討ち死にをした。
彼の首をとったのは、鈴木善八と言う者であったという。

伏見城で散った、一人の茶師についての逸話である

(関原軍記大成など)




519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 15:15:40.74 ID:k3vcaVJN
竹庵の男っ振りに涙。
それにしても、宇治の人が三河武士のような性格になっている…

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 17:33:34.39 ID:mD428EP+
>>519
竹庵て権現様から三河の代官だか任されてたから。

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 20:25:39.47 ID:W2hkamTP
上林って利休と組んでのしあがったんだっけか

そこで一計を案じたのが鳥居元忠である

2011年09月29日 22:10

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 22:00:36.67 ID:dUleUS2Q
長篠の戦いでのこと。

織田方や武田方も味方内での中は良くなかった(主に幹部)ようだが、徳川方にも雑兵の中で喧嘩する者が現れた。
長年はりあってきた武田勢との正念場である、徳川の幹部たちは当然これを憂慮した。
当然三河武士たちである。喧嘩をあらゆる(暴力的)措置をとって止めようとしたのであろうが、
ダガシカシ、一向にうまくいかなかった。

そこで一計を案じたのが鳥居元忠である。
「兵どもに楊枝を使え、と伝達すればよろしかろう。」
ポカーンな家康。つまり喧嘩を沈めるために「お前ら歯ぁ磨けよ!」と言う訳である。
元忠が言うには、
「もめるときの人間の顔は醜いもの。されば楊枝を携帯させ、身だしなみに気を使うようにさせれば、
 おのずと素行も良くなる。」
とのこと。

なんだか現代の先生の「ボタンは第2ボタンまで閉めろ!」というお説教に近い気がする。
これが実行されたかは不明(というか史実かどうかすら怪しい)だが、
元忠、意外と三河武士の中では相手の心を考えたり読み取ったりするのが得意であったのかもしれない。





834 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/28(水) 22:27:26.94 ID:HvgZyHiS
>>832
商品棚の奥に鏡を設置したら万引きが減った・・・という話を思い出したw

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 22:56:25.47 ID:xvr4lmRN
「てめえ、口が臭えんだよ!」
「何だと!やんのかゴラア!!」

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 22:58:27.90 ID:pC8wEAvU
本多忠勝も、身だしなみを整えろと言っているし
三河武士はそういう気質も多いのかな

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/28(水) 23:13:24.32 ID:GLMLxktH
首を取られた時に備えて化粧して出陣する武士もいるくらいだから
「武士なら見苦しくない格好をしよう。」みたいな認識はあったんじゃないだろうか。」

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 00:26:26.81 ID:XUBRYC9d
まあ雑兵足軽に至るまで徹底させる所がいいのではw

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 01:22:03.24 ID:owLIQX+T
家康自身も意外にも武士の身だしなみ(嗜み)にうるさかったりするんだよな
万が一の場合に備え、頭には香を焚き込んでおけとか言ったり

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 01:58:46.66 ID:zanImqqh
家康の衣類や鎧は、同時代的にもかなりド派手なんだよね。
全身黄金の鎧なんて秀吉でも付けないようなもの作ってるしw
どうも家康は後の質素倹約の時代に、地味な感じにキャラクターを変更された観がある。

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 02:12:27.00 ID:T+cE2pzF
ワシ等普段から質素倹約してんじゃん
だもんで戦装束ぐらい着飾るだらぁ
お前等もやってみりん

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 04:03:19.76 ID:+0TDz4Pk
桶狭間ん時の大高城に金色の鎧着て兵糧搬入したんだっけな。目立つよなあ

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 06:12:14.80 ID:UxUhVSAl
ガンダムシリーズに出てくる百式のモデルが家康公だからな。
嘘だけど

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 07:03:23.68 ID:v2ygL4Kk
家康って、普段節約して合戦では出し惜しみしないのが武士の姿って考えだと思う。
関ヶ原の頃のキラキラした若武者に苦言を呈する逸話と整合性取れないけど。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 08:05:29.16 ID:JxBp5y97
>>843
一瞬納得しかけたw

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 09:22:38.85 ID:zanImqqh
>>844
家康みたいな大将がそうするのと、組頭レベルがキラキラした武装をするのはやっぱ違うんじゃないかね?
前の悪い話スレにあった一条さんの逸話じゃないけど、やっぱ下の人間が派手な武装するのは
集中的に狙われて損だと思ったw

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 09:36:33.15 ID:+m92HzHL
家康に然り、政宗に然り、クロカンに然り、早雲に然り、
こいつらは倹約家であってケチではないからね
節制をして貯蓄に励んでも、いざというときの出し惜しみはしないタイプ

ケチってのは、銭を連れて戦争へいけと嫁さんにマジギレされた前田利家みたいな人のことだからなw

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 10:41:41.80 ID:s2tN12eE
>>844
キラキラ通としては「そのキラキラは違うんだよ」とか言いたくなるんじゃね

849 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/29(木) 12:22:05.43 ID:Rcwy8hs3
なにそれ可愛い

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 12:28:32.26 ID:CYQQUAaN
そのキラキラはキライってか

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 17:37:06.38 ID:XUBRYC9d
あまり関係ないが戦国武将の馬印も金が多いね。

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 18:23:37.06 ID:UxUhVSAl
動乱期の武士の遺訓みると、
最近の若い侍は茶の湯なんぞに金使って・・・
みたいな人多いからな。
戦があるのが常な時代の武士は武具にこそ金使うのがデフォなんだろうね

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 18:29:56.91 ID:7couifVY
直江状が本物として、山城守が三河者の家康に
「上方の武士は茶器などを集めているが、田舎武士は武具に金をかけるのだ」
と言っているのに違和感あったが、家康も派手好みだったのか

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 19:02:36.28 ID:s2tN12eE
>>853
侘び茶が広まってない地域だと茶の湯というと闘茶のイメージが強かったんじゃね?

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 19:43:36.01 ID:9Wn8sJjR
馬印は寧ろキラキラ目立たないいかんのじゃないか?

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 19:52:59.63 ID:6Svqa0cw
家康の馬印に赤丸が書いてある金の扇があったと思うけど、あれは何故傾けてるんですかね?

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 20:21:08.65 ID:+m92HzHL
扇子は91度以上180度未満で開くから、
片側を垂直に立てた棒にくくりつけると、片側は水平にも垂直にもならないから

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 20:30:22.28 ID:cyH9kFXl
>>856
棒に閉じた扇を括って扇を開くと自然とあの傾いた形になる
元々アドリブで作った馬印だし、弦を担いでその傾いた形から変える必要性がなかっただけかと

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/29(木) 22:06:14.75 ID:xCOFNUC4
武者は目立って自分の手柄をアピールしてなんぼ。
目立つと敵の的になるのは当たり前で、敵に狙われるぐらいに自分の馬印を有名にしなくちゃいけない。


881 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/01(土) 02:38:40.67 ID:v/Z1mi6o
>>847
利家は信長のお気に入りを切って追放されてもそれでもどうしても
信長に仕えたくて二年間浪人で貧乏暮らしをしてこたえてるから
でしょう。
他のメンツはそこまでのビンボーを味わっていないからね。

豊臣秀吉、鳥居元忠の嫡男を縁組させる

2011年03月17日 00:00

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 22:49:27.84 ID:rvcmuil8
徳川家康麾下の鳥居元忠といえば、三河衆の中でも特に無骨な侍である。

家康が関東に移る少し前のこと、その鳥居元忠豊臣秀吉に呼ばれた。
元忠に官位を与える、というのだ。

元忠、これを聞いて
「私は無骨な田舎者にて、この身もまた、このように片端であります」

と、諏訪原城攻めで銃弾に貫かれたため、まともに動かなくなった左足をさすった。
そして

「こんな体たらくですので、叙爵などしていただいても殿下のお役には立ちません。
どうぞその件は、御免下されませ。」

と、断った。
だが秀吉は、そんな鳥居元忠を強く気に入ったらしい。少し後で再び元忠を呼び寄せ
こう提案した

「彦右衛門尉(元忠)よ、おぬしの嫡子新太郎を羽柴下総守(滝川雄利)の娘(養女・生駒家長娘)と
縁組させその養子とするのだ。その上でわしが召し使おう」

滝川雄利は羽柴性を頂いた秀吉の直臣大名である。その娘を、陪臣に過ぎぬ元忠の息子に娶せ、
天下人たる秀吉の直参としようと言うのだ。大変な栄誉であり出世であろう。が、これにも元忠

「我が愚息をもって下総守殿の息女と縁組せるということ、これは仰せに従いましょう。
…ですが、その息子を殿下に召し仕えさせるということ、これはお断り申す!

この元忠の家は、先祖以来徳川譜代相伝の家従の者であり、それは子孫へと伝えていくものです。
他家に奉公仕る事の出来るものではありませぬ!」

結婚は認めるが秀吉に仕えさせるのは御免被る、というのだ。
半ば秀吉の顔を潰すも同様である。しかし秀吉

「鳥居が申すところ、道理である」

とあっさりその条件を認め、滝川雄利の娘を鳥居新太郎(忠政)に娶らせた。

やはり秀吉は、元忠のような無骨で主家への忠誠の塊のような男が、心底好きだったのであろう。
そんな事を感じさせる、鳥居元忠豊臣秀吉のお話。





354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 23:34:50.63 ID:pELZY6x7
ここでラスボスさんが切れちゃうと自分の器が小さくみえるからそういうことはしないんだろうね~
まぁ、これが直臣だったら後で・・・

よりにもよって本能寺の変の時に京にいた2人の話

2011年01月07日 00:02

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 20:45:25 ID:PEfG71Ru
よりにもよって本能寺の変の時に京にいた2人の話

本能寺の変から3日経った頃、東福寺霊源院の裏手にある山から1人の男が降りてきて、長老にこう頼んだ。
「我々は本能寺の変で山に隠れた者ですが、三日何も食べておらず餓死寸前です。どうかお慈悲をもって
食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快く食事を差し出すと、その男は自分の分を平らげた後、残りを手ぬぐいに包んで
山に持って帰っていった。

その日の夕刻、今度は先程の1人に加えて4人が降りてきて、同様の説明をし匿って欲しいと恭順の証か5人とも
刀と脇差を手拭いで括い、差し出した。
長老は5人を院の天井に隠して寺の他の連中にも知らせないようにしていた。
その後、彼らが東国に帰ってしばらくすると刈谷城主水野忠重の使者が来て、先頃は長老のお陰で急難を免れ
恩儀は付きませぬと言った。
そうあの5人は水野忠重とその家臣だったのである。
その後、霊源院は水野家の菩提寺となり寺領50石を与えられたそうである。


そしてもう一人、京にいた男がいた。
その名は鳥居元忠、彼は家康と共に上洛していたのだが堺へ行く前に瘧を患い京の旅館に投宿をしていたのである。
本能寺の変を聞いたとき元忠は狂乱した。
自身が危うい事にではない、家康の側にいないことにである。
京では様々な噂が飛び交い家康の安否は全くの不明、ここに至り元忠は決心した。
「此の様な状況下では家康様も逃れられまい。自分は病に倒れ、主君側に居れぬは何とも悔しい。この期に及んでは
死んで冥土のお供をせん」
…何と言うか流石に幼少よりの仲というか言うことがクリソツである。

しかし老臣の高須信次がこう言って押しとどめた。
「家康様は並の大将ではございません。それに切腹するのは家康様の是非が解るまで抑えるべきです。短慮は
いけません」
その説得に元忠も切腹を思いとどまり、潜伏することになったが問題はその場所である。
これも高須が長年祈願をしていた愛宕山の長床坊を提案し、これが容れられた。
しかし、長年のよしみとは言え何があるか解らない。そこで高須のみを馬上とし、元忠含めた彼らは下郎の格好をして
元忠の家臣として長床坊へと向かった。

結果として長床坊の者達は快く迎えてくれたので、元忠も直ぐに身分を明かしてそこで身を潜めていた。
その間、長床坊の者たちが堺などで情報収集をするさなか、家康が三河に生還したという飛脚が届き、元忠も急ぎ
三河へと戻った。
戻った元忠を家康は大いに喜び、また元忠も高須に大いに感謝して彼に何時も佩用している刀を与えたそうである。


どっちもいい話なんだが、やっぱり京にはセーフハウス的なモノが必要なんだなと思ったり。




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 21:44:00 ID:TlENGPMs
もしこの時元忠さんが死んじゃってたら…

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 22:37:16 ID:2aaph1/H
>>140
伏見は作左かな?

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 22:50:54 ID:H2lH6u2r
関ヶ原の前に作左は死んでるじゃないかな?
家康さんらより一世代上のイメージあるけど~

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 23:04:55 ID:7UfslUNG
京都は普通に一見さんお断りだしな普段から付き合いをよくしとかないと
「~どうかお慈悲をもって食事を頂けませんでしょうか」
これを聞いた長老が快くぶぶ漬けを差し出すと~ということになる


144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/05(水) 23:52:19 ID:UwLpa3H8
平岩さんじゃないの


145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 07:18:07 ID:QYeMgOvr
>>144
親吉は駿府人質時代からの
同い年の親友だから、
家康が出さないんじゃ無いかな?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 08:07:55 ID:2fFFgccM
>>145
元忠のことは実は疎ましく思ってたんかい・・・最近出てきた、三成挙兵が寝耳に水で、伏見城が戦場になるなんて家康は思っていなかった説か
最初っから三成は挙兵すると思っていたかで、伏見城に残す意味合いがまったく変わっちゃうだろうしね

前者なら松平康元、後者なら大久保彦左衛門で・・・

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 08:57:31 ID:LloT+Aod
>>146
彦左衛門ってそこで名が出るほどの大身ではないんじゃ。

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 13:15:13 ID:8mb9beZL
もういい年だからこれで楽隠居させるつもりだったとかじゃね?

149 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/06(木) 15:41:13 ID:Eyqnb04f
伏見の切腹者って、何で放置されたの?