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鳥居強右衛門勝商顕彰碑

2018年09月20日 21:06

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 23:19:13.94 ID:tcVhHGqo
鳥居強右衛門勝商顕彰碑

天正三年(一五七五年)五月武田軍一万五千人の兵に囲まれ、
落城間近の長篠城を救うため、鳥居強右衛門は、
単身で敵の囲いを突破して豊川を下り
岡崎の徳川家康の所へ援軍を乞うため走りました。

そして、帰城寸前に武田軍に捕らえられ、
「はりつけ」となり、三十六歳の若い生涯を閉じました。

この石碑は、地元市田町に生まれた強右衛門の軍功を讃え、
有志によって大正三年建立されたもので、
毎年春には、「鳥居祭」が行われています。

なお、松永寺には強右衛門の「はりつけの木像」が
まつられています。

(赤塚山公園)


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鳥居庄右衛門、安国寺恵瓊を捕える

2016年09月06日 18:13

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 21:48:36.26 ID:kgFzjYKh
奥平信昌の家人であった鳥居強右衛門といえば、無双の勇士であり、長篠籠城の時、援兵を請おうと
必死を極めて城を出て、敵の捕虜となったが遂に使命を遂げて磔にされた事、世の知る所である。
この強右衛門の子に庄右衛門という者があり、武勇有り、才知もまた人に優れていた。

関ヶ原の戦の後、安国寺恵瓊は逃げ去って行方知れずとなり、徳川家康は奥平信昌、および
松平下総守(忠明。奥平信昌四男)に命じて京都を守護させ、安国寺の行方を捜索させた。
下総守の家人たちは、「かの法師が戦況を辛くも逃れた事ゆえ、どんな賤しき者に身をやつして
隠れているかわからない。」と、雑人たちの集まる場所を探し回った。

一方、奥平信昌より恵瓊探索を任された鳥居庄右衛門は、何を思ったのか、陣屋で寝っ転がり、
酒を飲んで過ごしていた。彼に従う兵たちは訝り

「いかに鳥居殿、下総守の衆は夜を日についで恵瓊を探し求めているのに、どうして空しく
日を送っておられるのか?」

庄右衛門、しかし
「なあに、お前たちに解るものか。ただ私に任せておけばいい。」
そう言ってただ酒を飲んでいるばかりであった。

ところがある日、突然起き出したかと思うと
「安国寺を今日こそ捕える!何れも早く用意して従え!」

そう言い捨てると馬に打ち乗り駈け出した。兵たちは
「こは如何に!?鳥居殿は物が憑いて狂ったか!?」
そう混乱したが、しかし打ち捨てておくわけにも行かず、それぞれに得物をひっさげ庄右衛門を
追い駆けた。

二条富小路の大通りに至った時、乗り物厳しげに引かせて、若党2,3人を、これも長い太刀を携えて
従えている者があった。鳥居は馬より飛び降りると

「その乗り物に有るは、安国寺であろう!逃さぬぞ!」

そう声をかけると、かの若党たちはものも言わず一斉に抜き懸ってきた。
鳥居の兵たちも大いに驚き、抜き合って戦った。
この時、鳥居はどうしたわけか、石に躓いて転んだ。安国寺の若党は「得たり!」と拝み打ちに
打ちかけた。あわや鳥居討たれんとしたその時、後ろから馳せつけた鳥居の兵がこの男を
後ろから斬り伏せた。

鳥居は起き上がると乗り物に近寄った。しかしそこではかの若党の一人が、安国寺が捕えられぬよう
ここで首を討とうと太刀を振り上げていた。

ここに、松平下総守の家人・山田半兵衛という者が馳せつけて若党を斬り倒し、安国寺も捕らえた。
「しかし安国寺を見つけ出したのは鳥居の働きである。」人々はそう言い合った。

後に鳥居の兵たちは聞いた
「どうしてあの乗り物が安国寺だと知ったのですか?」

「お前たちは知らないのか。安国寺は法師であるが、心剛なる奴である。死んだとしても、
賤しき者と言われるのは口惜しいのだ。彼は去る人の元に匿われていたが、我らの捜索の様子を聞いて、
『とても免れ難し、同じ討たれるなら昔の姿を失わぬ!』
そう思ってあのような出で立ちをしたのだ。

私はこの事を密かに探り出し、その出るのを待ってあのように討ったのだ。」

「しかし、下総守の家人もあそこにやってきたのはどういう事でしょう?」

この問に鳥居は、何も言わずただ笑っていた。
人々はこのように想像した。「家康公より二家に命ぜられて探索したのに、奥平一家の功にしてしまっては、
下総守の面目が無くなってしまうと考えたためではないか、と。
(話園)



151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 23:16:59.44 ID:vV2TbTzk
鳥居強右衛門さんは息子もかっこいいわ。向こうの鳥居さんとはえらい違いだ。

徳川家康、鳥居強右衛門の磔に

2011年01月05日 00:01

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/04(火) 00:19:03 ID:4i0NMg49
天正三年長篠の役、鳥居強右衛門武田勝頼によって磔にされ殺された。
怒りを抑えることを自らに課していた家康公だが、この時ばかりは怒り顕にして、

武田勝頼に大将の器量なし。
勝頼は勇士を使う法をまるで知らない男だ。
鳥居のような豪の者には、敵であっても命を助け、その武勇に応えるべきである。
これは味方に忠義を教えることにもなる。
それを、主君のために命を賭けた忠義の士を磔にかけるなど、とんでもないことだ。
見ていろ。勝頼の運が尽きるときは、譜代の武士も代変わりして敵となることだろう。」

と言ったという。