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二、三十人でさせるような仕置きを

2022年08月31日 18:55

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/31(水) 13:47:28.43 ID:9t7KSC9U
小河内蔵丞(小河之直)は栗山大膳らとともに黒田忠之の家老として精勤に励んだ人物であるが、その若い頃の話

内蔵丞がまだ喜助と言っていた十六の時、領内の百姓の馬を牛が突き殺してしまった。
馬主は「牛主に弁償させるべきです」
牛主は「牛主が不在の間に牛がしたことです。畜生のしたことですので牛主の責任ではありません」
と互いに水掛論となり、公事となったが決着しなかったためとうとう黒田長政の耳にまで達した
長政は「どっちももっともであるので、馬が百匁の値であるなら半値の五十匁だけ牛主が弁償してはどうだ?」
と裁定されたので、両者とも不満に思ったものの渋々帰っていった。
これを聞いていた喜助は朋輩衆に対して「このたびの判決は理非をわきまえぬ判決である」と言った。
朋輩衆「歴々の方がなされた判断であるのに何を言うか?」
喜助「牛主や馬主が牛や馬を繋いでいた間に起きた、とあるが繋いだ時間に前後があるはずである。
牛は相手に向かって突くのが習性なので、後で繋いだ飼い主に責任があると言えよう」
これを聞いた朋輩衆は手を打って讃嘆し、これが評判となり長政の耳に達した。
そこで改めて馬主、牛主を召喚すると、先に馬主が繋ぎ、後で牛主が繋いだことが判明した。
こうして牛主は全額百匁を馬主に払うこととなり、馬主は当然喜んだ。
牛主は最初の判決より五十匁多く払うことになったものの、今度は理屈が通っていたため、納得して帰ることとなった。
こうして長政は喜助を「常の人物ではない」と認め、十七の頃から評定衆に入れ、そののち小河伝右衛門の養子として名を内蔵丞と改めさせた。
長政のから忠之の代まで、今であれば二、三十人でさせるような仕置きを内蔵丞一人に任せたが、上からも下からも一言も苦情が出なかった

出典:竹下稔著・福田泰隆校訂「福岡藩初期家老 小河内蔵丞之直「小河内蔵之丞噺覚書写全」を読む」



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黒田騒動と破れた釜

2022年06月17日 20:29

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/16(木) 23:15:06.01 ID:AyjVTV65
黒田騒動の講釈の種本となった「博多細伝実録」(宝暦から明和初めに成立とされる、福岡藩内のできごとを著した書)を読んだら
これまで何度か出ていた浅野彦五郎にもちょっと触れていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13348.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13381.html

黒田騒動で栗山大膳が幕府に黒田忠之の謀反を訴えた時、
博多細伝実録」では忠之の不行跡・二十八ヶ条を訴え出たことになっていて
その中でも特に重い三ヶ条として
一、壱万石余の大船を造りし事
一、真言の沙門、不行跡を憎みて脊を割り鉛を鋳込し事
一、浅野彦五郎といへる者、継母を犯せるにより、油釜の死罪にする事
が挙げられている。浅野彦五郎の罪状は上記の投稿とは違うが。

また「石城志」という明和二年(1765年)成立の博多の地理誌によれば
「寛文(1661-1673)の末まで、松原閻魔堂西の川端に大なる破釜あり。
忠之公の時、家臣浅野彦五郎(食録千石)罪ありて釜烹の刑に処せられる。
この時、釜を新たに鋳させるべしとて、市中の冶工に命ありしに、おのおのこれを辞しける故、くじ取りになりし処に、芦屋釜師くじにあたりとて釜を鋳けり。
これによりその家絶えたりという」

約百年後の記録とはいえ、破れた釜が残っていた伝承があったようだ。
なお博多の鋳物師の一つに磯野家というのがあり、島原の乱でも黒田忠之に大砲や弾を鋳造させられているので「石城記」の話が事実なら、磯野家もくじに参加したと考えられる。
くじが当たって磯野家が釜を鋳ってたなら浅野彦五郎の恨みは磯野家に行ったかもしれない。
そうなると磯野家がとだえるため、磯野七平氏が1893年に二代目福岡市長となることもなく、その50年ほど後に福岡に住んでいた長谷川町子氏が磯野波平を着想することもなかったかも



514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/17(金) 18:48:21.73 ID:0O2JnBVv
磯野藻屑源素太皆も居なかったわけだな

「博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

2022年02月22日 19:03

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:20:22.88 ID:0oyJsDMd
博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

栗山大膳は日本に類いなき勇気の持ち主で、黒田長政にも見込まれていたが、忠之の代になると「天下泰平の昨今、ただの老人にすぎない」と疎んじられた。
寛永年間の六月に、知行所である嘉麻郡の間津村に出向いたところ、そこには大きな淵があり、日照りの時も水が枯れず、底が知れなかった。
ここに淵の主と言われる大きな魚亀(スッポン)がいて、近年は人をたびたび取って食らっていた。
そのため大膳は淵に赴いて、九尺ばかりあるスッポンを見るや、これこそが人を悩ませている亀だとして、鉄砲を取り出し、二つ玉で首の付け根を射抜いた。
スッポンはたちまち淵の中に沈み、淵は赤く染まった。
そのまま静かになったので、大膳は水練の達者な者を淵に入らせ、亀の首に縄をつけて引っ張ってこさせた。
淵から上げられたスッポンを見ると、身の丈九尺、幅五尺であり、民は大いに喜んだ。
栗山大膳は十六歳の時に武術を残す所なくおさめ、鉄砲を明智日向守光秀から伝来され、六十歳になってもこのような腕前だったと人々は語った。
これについては「武将感状記」にも記されている。
(「武将感状記」巻10「栗山大膳鳥銃の妙を得る事」では栗山大膳は榊の弟子としていて、鉄砲は百発百中の腕前だったとしている
また、栗山大膳は黒田騒動時でも40くらいのはず)

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:27:08.77 ID:0oyJsDMd
ついでに、
雑誌「西日本文化」に連載されていた石瀧豊美の「黒田騒動と『箱崎釜破故』」の第七回と第八回には
「お綱さんツアー・黒田騒動史跡めぐり」として

1.お綱の墓:福岡市東区馬出
2.黒田忠之の墓:福岡市博多区御供所町、東長寺
3.福岡藩刑場跡碑:福岡市中央区天神、福岡県庁跡、空誉上人の霊に悩まされた二十四代福岡県知事が建立
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13372.html
4.水鏡天満宮:空誉上人が住職をしていた智福寺跡
5.お綱門:扇坂御門?お綱が息絶えた場所
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13356.html
6.福岡家庭裁判所:お綱さんが斬り込んだ夫の屋敷跡、長宮院跡
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13366.html
7.鵜来島:箱崎釜破故で栗山大膳が密談した場所
8.空誉堂:福岡市中央区大手門の浄念寺境内
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13339.html
9.左右良(まてら)城:栗山利安が任され、子供の大膳の屋敷が麓にあった
10.龍光山円清寺:栗山利安が主君長政の冥福を祈るために建立した寺

と並んで
11.大膳楠:杷木町にあり、「箱崎釜破故」では栗山大膳が池の精の化身である大亀を射殺した事で運命が暗転するという因果応報譚となっており、
その池がかつてあったところに立っている楠を栗山大膳にちなんで「大膳楠」と呼んでいるという。
が紹介されていた。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:50:11.14 ID:0oyJsDMd
タイトルだけ見て関係がない話だと思ってしまった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4536.html
「大膳崩れ」


過去に出てきたこの話だと、亀を撃った後に大雨が降って土砂崩れが起きているが
博多細伝実録」だと、直後に雨は降ったもののすぐやみ、
淵は年々浅くなって田畑となり民の利益となった、
と書かれているため悪い話にはなっていない



星野宗右衛門について

2022年02月08日 16:31

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 18:24:39.04 ID:v+FyJ//b
星野宗右衛門について

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5590.html
栗山大膳と『旅枕』


10年以上前に出たこの逸話で栗山大膳の親友として紹介されている星野宗右衛門
黒田騒動箱崎文庫」や歌舞伎では栗山大膳側の勇士ということで大活躍をしているが、活躍の一つに
親友の有川駿河という軍学者が、倉橋重太夫の陰謀で三百両の借金をさせられ、幕府に禁じられている大船の図面を描いてしまった。
星野宗右衛門が河内屋にかけあって三百両を工面したことで、少なくとも有川は武士の対面を保つことができた。
しかし有川は図面を描き黒田家を危機に陥れたことを詫びて切腹、といった話がある。
黒田騒動箱崎文庫」では上記の逸話の通り、栗山大膳がかつて利休が所持していた「旅枕」を用いて星野宗右衛門の三百両を帳消しにした、としている。
なお「旅枕」を所有している和泉の久保惣記念美術館の旅枕に関する記事には栗山大膳についての記載はないので、この逸話の真偽は不明。
ただ、星野宗右衛門のほかの活躍を見ると、
「星野の大食鍋島家を驚かす事」では星野宗右衛門が鍋島家に舐められないように、
鍋島家が用意した鯛の浜焼きを城下の魚屋全てからかき集めた分だけ食い尽くし
七合入りの盃で酒を七杯呑み、飯を15碗食い、鍋島家の者どもは大いに驚き、忠之から拝領物を賜り、「鯛喰いの宗右衛門」というあだ名がついた
ことになっている。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 18:30:08.99 ID:v+FyJ//b
実はこの話、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13373.html
毛谷主水について


で書いたように「博多細伝実録」に出てくる、元禄の頃に鍋島家で大食を披露した星野助右衛門の話そのままである。
どうやら黒田騒動に栗山大膳側の善玉の豪傑を登場させようと思った「箱崎文庫」系統の作者が
博多細伝実録」の大食漢・星野助右衛門の話が印象的という事で時代を移して栗山大膳の同志にさせたらしい。
というわけで、
関ヶ原で西軍の物見をしてたくさんの饅頭を食べた毛屋主水武久と
元禄に鍋島家に使いに行った時に魚の焼物をたらふく食った星野助右衛門
百年ほど時代の違う二人の大食いが、間の寛永年間に
方や女に籠絡され主家を滅亡させようとした悪玉・毛谷主水
方や主家を守ろうと剣と知恵を振るう善玉・星野宗右衛門
として共演することになったという奇妙な話。

ついでに1936年に公開された映画「栗山大膳」には毛谷と星野の両方とも出てくるが、
毛谷主水の方は、城井一族の復讐を狙うお秀の方に籠絡され、栗山大膳の命を狙う一番の敵役となっている。
(紅陽法師も城井の若様として少し語られている)
星野宗右衛門の方はというと、図面を描いた有川を叱責する以外はたいして出番がない。


毛谷主水について

2022年02月01日 16:21

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/01(火) 15:53:57.91 ID:4m5caflV
空誉上人が乗り移ったとされる毛谷主水について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8719.html
毛屋の本氏


で関ヶ原で西軍の物見をして東軍の士気を高めたため家康から饅頭をもらい、全て平らげた毛屋主水武久がモデルと思われる。
色気より食い気の方がふさわしい毛屋主水がなぜ美女のお相手役にされたかについては

貝原益軒「黒田家臣伝 毛屋武蔵」に関ヶ原や加増や武蔵改名の後の話として
ここに豊前国城井中務(鎮房)が家人に、鬼木掃部という者は、大剛強力の者なりしが、長政に背いてほろぼされけり。
そのむすめ、弟妹両人をつれて落人となりていたりしを、長政の命にて、武蔵これを娶る。その生まれる所の子を太右衛門という。
武蔵が妻の弟は、鬼木惣左衛門という、黒田美作に武蔵が所託にて仕えしむ。いまにその子孫あり。
武蔵、寛永五年七十五歳にして筑前にて病死す。

とあり、黒田騒動が後世脚色された際に、黒田に恨みを持つ城井氏(寛永箱崎文庫)や鬼木氏(歌舞伎や映画)や大友氏(白縫譚の蜘蛛の妖術使いの若菜姫)などとの因縁が加えられた時に
鬼木氏を妻に持っていたために毛屋主水の名前が使われたのではないかと。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/01(火) 16:03:14.53 ID:4m5caflV
大食漢繋がりで「博多細伝実録」には元禄の頃、鍋島藩への祝賀の使いの際に「他に芸はありませんが大食で鳴らしております!」
と言い放ち、焼き物を20人分平らげ、酒を大盃で五杯飲み、鍋島から賞賛され大いに面目を施したとして、藩主から褒美をもらった星野助右衛門という人物の話がある
幕末に黒田藩士の磯野藻屑源素太皆が、おはぎを38個食べて殿様から褒められたというネタに通じるものが

ついでに「博多細伝実録」には黒田藩家老の黒田美作に仕えた鬼木氏のその後の話として、
元禄の頃、黒田美作(三奈木黒田家三代目の一貫)が佞人を重用し民が苦しんでいた。
重臣の鬼城新左衛門は諫言するも聞き入れてもらえなかったため、家族一員(老母、妻、二人の子供)白装束仕立てで首を斬り、自らも諫言の遺書を残し切腹。
鬼城家は家名断絶となったが、新左衛門の死から二ヶ月もしない間に佞人どもが狂ってたわごとを発するようになった。
こうしてそれまでの悪事が露見したため、みな悉く切腹。
鬼城新左衛門は鬼城大明神として崇められた、という話が記されている。

黒田長政に滅ぼされた鬼木掃部の子孫が黒田藩家老のために諫死し家名断絶という歴史の奇妙さ



怪談 福博の夜ばなし④ 空誉上人

2022年01月31日 17:14

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 17:09:50.18 ID:vLS0rSyE
西日本新聞 昭和48年8月16日号より
「怪談 福博の夜ばなし④ 空誉上人

寛永年間、黒田忠之が安養寺に馬を停めて休憩し、でっかち頭、そのうえ異様に飛び出した目で秋景色を愛でていると美しい寺小姓が茶菓子を運んできた。
一目惚れした忠之が住職の空誉上人(二十代で非常な美男)に寺小姓(秀之丞)を差し出すように命じたが上人は「修行中なので」と断った。
忠之はあきらめきれず間者を放ち寺の様子を探ると、なんと秀之丞は女であった。
「おのれ女犯の売僧めが!」と怒った忠之は上人を大釜に入れ、背中を立ち割り鉛を流し、絶命させた。
秀之丞はお秀(光之の母?)という名で忠之の側室となったが、上人の怨霊が乗り移った黒田藩士・毛谷主水がお秀の方と密通。これが黒田騒動の発端となる。
釜責めが行われた場所は現県庁舎裏の知事公舎の庭にあたり、ながらく釜の形だけ草が生えなかった。

昭和初年の大塚惟精・第24代福岡県知事は胆力のある柔道家であったが夜ごとうなされて眠れず、知事の書生ももののけに取り憑かれたようになった。
そこで釜の形に草の生えない場所に小さな銅ぶきの祠を建てて怨霊を慰め、いまも毎年八月上旬には法要が営まれている。
濡衣山(濡衣を着せるの故事から)松源寺の佐々木滋寛師は「空誉上人の幽霊ばなしを黒田騒動に結びつけたのは、鍋島藩の化けネコ騒動と同じで、藩の内乱を幕府の目からそらせるために利用したんでしょう」と推測している。
一説には空誉上人は後藤又兵衛基次が送ったスパイとか。
お秀の方は黒田如水から滅ぼされた中津の豪族の娘とも伝えられている。
空誉上人は空誉さまとも呼ばれ浄念寺(中央区大手門二丁目)に墓がある。



お綱さんばなしの長宮院について

2022年01月28日 17:46

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 12:12:33.82 ID:A3SptgL0
お綱さんばなしの長宮院について

「箱崎釜破故」の末尾によれば、麻井家を継いだ浅野彦五郎が釜炒りの刑に処せられたのち、狐狸の棲家となり荒れ果てた。
その後、肥後より清戒という僧侶が貰い受けて長宮院を建立したことになっている。

貝原益軒「筑前国続風土記」の「福岡 長宮院」には
「むかしは士人の宅也しが、凶宅なりとて、是に居る人なくして、廃宅となれり。
寛永年中、肥後国より来れる清識と云ふ真言僧、此宅に寺を立んよしを願ひしかば、国主忠之公是をあたへたまふ。」
とあり、

柳猛直「福岡歴史探訪 中央区編」によればこの貝原益軒のいう「凶宅」とは
黒田長政の時代に伊藤団右衛門というものがいてこの家に居住していたが女幽霊に悩まされていた。
そこで小河内蔵允(長政臨終の際、栗山大膳とともに忠之の後見を任された)が勇士を募って団右衛門を警護していたが
丑三つ時に女の生首が現れ、団右衛門の上を通ると団右衛門は死んでしまった。
ということで凶宅とされ、あとからお綱さんばなしが生まれたことになっている。
(この伊藤団右衛門の話の出典は記載なし)

お綱さんの事件が黒田騒動直前の寛永七年で、寛永が二十一年まで続いたから、寛永年間に麻井家が荒れ果てることはあり得るけど
伊藤団右衛門の話によって凶宅扱いされたのであれば、忠之はむしろ霊を鎮めてあげようとしたのに幽霊話の元凶扱いされているような。



お綱門

2022年01月20日 19:09

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 08:47:08.92 ID:6ofPMtyB
西日本新聞社編「福岡県の昔ばなし」の「お綱門」のあらすじ

大名には江戸の正妻とは別に国元に第二夫人を置くことが認められていたため、忠之が参勤交代の帰路、大坂の花街で見初めた芸者に采女という肩書きをつけて博多に連れ帰る
家老の栗山大膳が「身分の低い者を側室にするなどもってのほかです」と諌めたため仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ
お綱には暮らしのための金銭も届かないようになり、明日は雛祭りだというのに幼い娘の支度もできないと下働きの善作を本宅に使いを出しお金の無心をさせる
浅野は「すでに絶縁!」とけんもほろろ、奥方を哀れに思った善作は遺書をしたため千代の松原で首をくくる
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を手にかけ子供たちの首を包み腰にさげ、薙刀を持って、下屋敷から大名町の本宅に
浅野は登城しており、留守を預かっていた浪人明石彦五郎が怪しみお綱に切りつける
重傷をおったお綱は薙刀を杖代わりにして城内にはいるが扇坂門の扉に手をかけたため死亡、寛永七年三月三日のことであった

近年、老朽化した「お綱門」を取り壊すことになり丁重な供養をした後、長宮院という寺でお綱親子の霊を祀る
長宮院は空襲で焼け、今は福岡家庭裁判所となっているが位牌は疎開させてあったため無事で
東湊町の真光院で「お綱大明神」として家庭円満、良縁祈願、水子供養で訪れる人が多かった
真光院は今は福岡県糸島郡二丈町に移転、今なお香煙は絶えない

「お綱門」の後日談
後世になりさまざまな怪談話を生み出した
太平洋戦争当時、福岡城址は福岡第24連隊の兵営となったが「お綱門」で立番をする兵士は心身の異常を訴えたという
また鬼のような上官のワラ布団の下にこの門の近くの小石をこっそり隠し入れると、上官は悪夢にうなされたり病気になったという



282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 11:56:16.35 ID:vAkwOalY
福岡んおごじょはすごかね

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/27(木) 10:43:06.26 ID:noXl88DO
>>281
>仕方なく采女を浅野四郎左衛門にあずける
>浅野は采女に夢中になり、妻お綱と二人の子供を馬出の下屋敷に移し、自分は大名町の本宅で采女と楽しむ

殿様の女なんじゃないの?どういうこと

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 11:33:29.56 ID:UuGmdRex
>>290
同じ西日本新聞の昭和48年8月13日号から19日号で
「怪談 福博の夜ばなし」という連載があって
第一回が「お綱さんばなし "たたりますわョ" ナギナタ持った凄幽霊」でほぼ同じ話が掲載されているが
「采女はお側役の浅野四郎左衛門に下げ渡された。」となってる
なおお綱はひどい醜婦(箱崎釜破故でも)とされている。
ついでに後日談もあり、お綱が城に入ろうと飛びついた
「土塀のカワラは、何度ふきかえてもズリ落ちた。
お綱さんがナギナタでササを切り切り走った薬院(中央区)は、道の片方のササが生えてこないとか、タケが高く伸びないといわれる。」
このあとお綱さんを祀っていた長宮院が戦後に家庭裁判所となったことが書かれているが
「その工事中、お綱大明神のあった真上の梁から大工が落ちて死んだ。
いまも、その位置は何べん修理しても雨漏りがするそうだ。」
また、原田種夫氏(「黒田騒動」についての本を出している)に取材したところ、お綱母子の墓の近くにお綱ヶ池があったが魚を取ると祟られると恐れられた、と言われたそうだ。

294 名前:290[sage] 投稿日:2022/01/28(金) 23:30:01.37 ID:ollerr9a
>>292
サンクス、そういうことか
とはいえ、殿様から下げ渡されたのなら采女を粗略に出来ないしなぁ
だからといってお綱に納得しろというのも酷だし
誰も得しなかった悲話だな

「箱崎釜破故」より麻井(浅井)四郎左衛門の妻お綱のこと

2022年01月14日 17:27

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:08:56.97 ID:oR2DBSob
箱崎釜破故」より麻井(浅井)四郎左衛門の妻お綱のこと
(数種類のバージョンがあるようだが広島大学図書館が往来物(寺子屋の教科書)として公開しているものを元にした)

黒田忠之には北の方(采女)という愛妾がいたが、新しく江戸から十六の愛妾を二の丸に住まわせたため、
采女の方は自身が取り立てた麻井四郎左衛門という侍に妻として下げ渡すことにした。
四郎左衛門にはお綱という妻と二人の幼少の男子がいたため断ろうとしたものの主命ということで断りきれず、お綱は離縁となった。
四郎左衛門も離縁後しばらくはお綱の元に忍んで行ったものの、お綱の嘆き繰言をするのをうるさく思うようになった。
また先妻に通っているのを後妻の采女が禁止したため、せめて二人の男児だけは引き取ろうとしたが、
「血のつながっていない子を後継にはさせません。実母に養育させればいいでしょう」という采女の意見に押され、それ以降お綱のもとに通うことはなくなった。
四郎左衛門が通わなくなり二年が経ち、援助もないため、お綱は生活も事欠くようになった。
寛永七年霜月二十七日の夜、絶望したお綱は南無阿弥陀仏と称名を唱え、短刀を二人の息子(四歳と六歳)の胸に刺した。
息絶えた二人にお綱は
「恨むなら父上と父上を寝取った女を恨みなさい。母も敵を討ったらお前たちのところに行くからね」
と言って、装束を改め、鉢巻を締め、長刀を持って四郎左衛門の屋敷に向かった。
お綱を見た門番は仰天し「夜中に何者なり?」と声を上げたが一刀のもとに切り伏せられた。
お綱が寝屋と思われる方へ進んでいくと、浪人浅野彦五郎というものが刀を持って参じ、しばらくお綱と切り結んだ。
そのうち彦五郎の刀がお綱の左肩に打ち込まれ、お綱は「口惜しや残念やただ一歩のところで」と怒りの声を上げて斃れた。
お綱の死に顔は眼を見開き歯を食いしばり、というものすごい形相であった。

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:10:45.59 ID:oR2DBSob
翌日、四郎左衛門が采女に「まあ、あいつも生き恥を晒すよりは死んだ方が幸せだったな」と語っていたところ、屏風の影からさわさわという音がした。
屏風を開けるとお綱が生前の姿のまま立っており、采女は「あっ」と一声叫ぶや、舌を三寸ほど噛み切って死んでしまった。
四郎左衛門は忠之に対して采女の死因について病死であると届け出たものの、ことのなりゆきが忠之の耳に達し、
忠之は怒り、お綱の死骸を暴いて竹の串で貫き、路上に晒した。
往来を通る者で「嫉妬ゆえこのように晒されることになった」と嘲った者どもが数十人あったが、どの者も言った途端に狂ってしまった。
忠之はますます怒り「にくき女め」と穢多に命じて死骸を微塵に打ち砕き、川に流すよう命じた。
この役を行った穢多十二人は、たたまち様々な恨み言を述べて狂死したため、この十二人を一箇所に葬った。今日ではこの塚を穢多塚と言っている。
お綱の死骸を打ち砕くのを見分した役人も即時に発狂して、帰るや門の礎に頭を打ち砕いて死んでしまった。
その後、四郎左衛門は怨霊に悩ませられ痩せ衰えてしまい、これを聞いた忠之は不憫に思い四郎左衛門の元を訪れた。
四郎左衛門のあまりの変わりように忠之は驚き、詳しく尋ねると
「毎夜子の刻に前妻が苦しげな様を見せつけてきて熱が出てきます」と答えたため
忠之が「よし、われが邪気を退けてやろう」
とうけあったところ、四郎左衛門は涙を流し喜んだ。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:12:21.01 ID:oR2DBSob
こうして忠之は浅野彦五郎を含めた勇士二十四人を選び、
日光一文字の刀(北条早雲が日光二荒山から貰い受け、北条氏降伏の際に如水に贈られた)、岡本正宗の短刀(忠之の元服祝いに家康から下賜された)、
碇切(長政が朝鮮で碇ごと間者を斬った)、返切(へし切り長谷部)、安宅(如水の四国攻めの際に敵将安宅貴康を斬った)、権藤の長刀(如水が朝鮮で虎に襲われた時に権藤という武士がこの薙刀で虎を仕留めた、もしくは高橋元種の部下・権藤平左衛門が18人を斬った)
といった黒田家の名刀を持たせ、正宗の刀は四郎左衛門の枕元に置くように手配させた。
勇士たちは霊魂よ来るなら来い、と豪語していたが、夜になり、二十四、五才ほどの女がほほと笑って病人の枕元に近づいても、おのおの身の毛がよだち、腕がすくみ、身動きが取れなくなった。
四郎左衛門がしばらく熱で焼けるほど苦しんだ後に女は出ていったが、勇士たちはまたも身動きが取れなかった。
われながら情けなく思った勇士たちは翌夜、名誉挽回を期し、彦五郎は自ら正宗の短刀を抱いて四郎左衛門と寝床に臥した。
丑満の頃、生首が出現し四郎左衛門の上を通ったところ、四郎左衛門は一声うめくや、むなしく息絶えてしまった。

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/14(金) 17:19:46.55 ID:oR2DBSob
忠之は麻井四郎左衛門夫婦の追善供養をしたものの、麻井の跡目を継ぐものがなかった。
そこでお綱を殺した褒美ということで浪人浅野彦五郎に麻井の跡目二千石を相続させた。
しかし彦五郎は「悪口を言った者、死骸晒しの時に立ち会った役人までも狂死しているのだから自分も祟られるかもしれない」
と檀那の寺で相談し、六ヶ寺でお綱の仏事を行うこととした。
このことは隠密であったがなぜか忠之の耳に達し「言語道断、われの敵の女が肩を持つか」と忠之は怒った。
そのとき佞人があり、彦五郎が正宗を抱き臥した後返していない、と忠之に告げた。
忠之からの詰問に驚いた彦五郎が家中をくまなくさがしたところ、麻井家の箪笥のなかに置いたまま失念していたことが判明し
失念していたと忠之に申し上げたものの、盗人ということで平人に落とされ、五歳の男児ともども釜煎の刑に処せられた。
また六ヶ寺の住持は皆衣を剥ぎ取られ俗名に戻され流罪にされた。
一説にはお綱の幽霊が正宗を箪笥に忍ばせ、彦五郎に殺された恨みを果たしたのではないかと言われている。
(このあと黒田騒動の話になる)

なお「箱崎釜破故」の他のバージョンでは彦五郎に請われてお綱の供養を行ったのは空誉上人であり、
そのために忠之により背を割り鉛を流し込まれるという刑罰を受け、浄念寺の和尚がこっそり放置されていた死体を持ち出し自分の寺に葬ったことになっているようだ。
荒唐無稽な話でお綱自体も創作だと思われるのだが、
福岡城の扇坂門はかつて「お綱門」と呼ばれていて、その門に男が手を触れると熱病にうなされたという伝説があったとか。
福岡市中央区の「お綱さんばなし」というページによれば、大筋は同じだが四郎左衛門は登城していたため屋敷にはおらず、
浪人「明石」彦五郎に斬りつけられたあと、四郎左衛門のいる城に行こうとしたが扇坂門に手をついたところで息絶えたため「お綱門」と呼ばれたことになっている。



「寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと

2022年01月13日 16:40

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/12(水) 19:27:57.50 ID:4OnqiQbH
高要もしくは空誉上人の異説
寛永箱崎文庫」より紅陽法印のこと

安養寺別当の紅陽法印は実は岐井谷安芸守友房(城井朝房?)の次男であり大友宗麟にとっては孫であったが、
岐井谷滅亡の後京都智積院紅道大僧正の弟子として真言密教を修行して天満宮の別当となる。
山中での修行後に下山した際、赤子の泣き声が聞こえたため行ってみると、猟師が出てきて
「私の子供なのですが、母親が死に、乳がなくて困っております」
と答えたため不憫に思い、猟師の話をくわしく聞いてみると、かつては大友に仕えた定村種時の息子、定村種春であり、
祖父大友宗麟からの感状も持っていることがわかったため、祖父の引き合わせだと感動し引き取ることにした。
子供は女児であったため、表向きは男子ということで寺小姓としておいておいた。
十数年たち成長した後には要人(かなめ)と名付けたが美しく育ったため、いつしか男女の仲となってしまった。
あるとき黒田忠之が安養寺に来た際に、要人が茶を立てたところ忠之は気に入り、たびたび紅陽を城に召すようになった。
そのころ忠之は奇術を用いる大盤和尚という者を気に入り、折々召し出していたが
忠之の面前で紅陽と大盤が問答をしたところ、大盤は言い負かせれたうえ、切支丹であることが露見した。
栗山大膳が大盤を拷問したところ切支丹であることを白状し、獄門にかけられた。
これ以降、忠之は紅陽と大膳を恨むようになっていたが、天神の祭礼日には家中の者があちこち訪ねる習わしになっていたため
寵愛していた倉橋重太夫(倉八十太夫)に安養寺へ行かせ、定村要人の様子を見てくるように命じた。
倉橋は安養寺に行ったものの要人は出てこなかったため怪しく思い、寺の奥まで押し入り、
逃げようとする要人の胸ぐらを掴んだところ、柔らかいものがふれ、要人が女であることが露見した。
帰城した倉橋からこれを聞いた忠之は奉行に要人を捕らえるように命じたが、紅陽によって要人は父親のところに送り出されていた。
奉行は紅陽を尋問したが「要人は出奔しました、所在は知れません」というばかりであり
二の丸の裏庭をお白洲の代わりにして、煮えたぎった油をかけるなどの拷問をしたが紅陽は口を割らなかった。
そこでとうとう破戒僧ということで、四本の杭に手足を縛り、背中を反らせ刀で引き裂き、そこに塩湯を流し込み、
皮肉をひきつらせて溝を作らせ、融けた鉛をその溝に注ぎ込んだ。
奉行が「これでも白状しないのか」というと
紅陽は両眼をかっと見開き、「おのれ、忠之が無道、要人が色香に迷い、これを奪い取らんと拷問にことよせて我を殺さんとし
また我を匹夫とはもっとも慮外至極なり。そもそもわれは岐井谷安芸守が二男なり。
我は父祖重々の怨敵たる黒田家なれども昔仇を忘れ恨みもせざりしに、
さる頃、汝が帰依なせし大盤が邪法をばくじきしことを遺恨に含み、今要人のことによせ、いまだ天下に行われざる非道の責(せめ)をなしたるべし。
たとい女犯のつみあろうとも死刑にあたらんや。この恨み思いしらさでおくべきか」
と四本の杭を引き抜き悪鬼の形相で死んだ。

このあと黒田騒動の話になっていく



「博多細伝実録」より僧高要の祟り

2022年01月06日 19:21

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/06(木) 18:19:38.97 ID:7ZpPPo9o
博多細伝実録」より僧高要の祟り

忠之の短慮についてであるが、天台宗の僧・高要という者が太宰府の近くの寺の別当をしていた。
この出家は破戒僧であり、十六才の寺衆の美婦を小児姓といつわって仕えさせていた。
ついに目付けにばれ、本来ならば遠島を申しつけられるところを、
忠之により、法外不仁であるということで生きながら骨を割られ殺された。
忠之は城より二里半ばかりの崇福寺に、毎月祖父如水の忌日に寺参りをしていたが
暁方に馬で向かったところ、高要法師が忽然として煙の人形のごとく馬の前に現れ白眼をむいた。
忠之が「坊主めが、推参なり」と言うや煙の如く消失した。
高要の死から一年もしないうちに、高要の破戒を見出した目付けはもちろん、その時とらえた場に居合わせた者十三人が一人も残らず死んでしまった。
そこで福岡の大工町に一社が建立されたが、色道の罪で殺されたため、誰ともなく縁切りの願いを叶えてくれる、ということになった。



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/10(月) 01:02:57.34 ID:ll8UQZEV
>>264
の僧高要の話についてまとめサイトのコメント欄で質問があったので調べたら異説があった。
博多細伝実録」には「霊を福岡大工町浄念寺の間に社を建立の者為て高要権現と称し」
と書かれていたが、福岡市中央区大手門2丁目(かつての大工町)に存在する浄念寺について福岡市中央区のHPで見たところ、
境内には空誉上人を祀る空誉堂があり、後藤又兵衛の身代わりになって黒田忠之に処刑された、としていた(長政ではなく)
また、中央区の「今泉天神通りの3か寺」のページだと、
安養院の寺小姓を気に入った忠之が差し出させようとしたところ
住職の空誉上人が断ったため釜茹でにしたとしていた。
実際「博多細伝実録」だと「骨を刻、体?を鋳(に)こみ」と書かれているようなので名前も近いし高要=空誉と思われる。

日光一文字刀之拵注文

2017年01月13日 11:32

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/12(木) 23:27:05.87 ID:n7OaOJHp
 日光一文字刀之拵注文

一、はゝき(鎺)上下 印字   むく(無垢)上はゝき(鎺)柏のすか(透)し
一、せつは(切羽) 印字   こきさ(小刻)ミ
一、しととめ(下留) 印字
一、ふち(縁) 赤銅二めんふち(面縁)
一、さや(鞘) ちい(小)さめ
一、目貫 かうかい(笄)  小刀のつか(柄)・つは(鍔) 此方より遣ス
一、くりかた(栗形)かへ(返)り  つか(柄)頭 角
一、こしり(鐺)  しんちう(真鍮)  くさら(腐)かし
        以上
 右ハへし(圧)切之刀ニ少もちか(違)ひ不申様ニ可被仕候、以上、
   閏八月八日(元和九年)      忠之(黒印)
                      埋忠明寿(重吉)老
(黒田家文書)

黒田忠之が父である長政の死後(元和九年八月四日(1623年8月29日))すぐ、日光一文字の拵えを圧切長谷部と
瓜二つに作って欲しいと埋忠明寿に依頼した話。
(なぜ、そろいの拵えにしようとしたのかは不明)

・日光一文字は忠之誕生時に、如水から忠之に贈られている。
・圧切長谷部は長政の遺言で四男高政へ贈られている。
・日光一文字の拵えは19世紀頃には行方不明となり、圧切長谷部の現在の拵えは江戸末期の物
(安宅切とお揃いで、安宅切の拵えの方が先に出来ている。このため福岡市博物館のTwitterに「へし切長谷部と
ペアルック」と安宅切展示公開時に書かれる)

黒田家の刀の拵えはお揃いにしないといけないのだろうか・・・

国宝圧切長谷部一月五日から二月五日まで福岡市博物館で展示中なので
書いてみた。連日沢山の人がきているそうな。




我が先、朝鮮在陣の笑談

2016年10月29日 12:30

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI
我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える



黒田と細川が不仲に成ったわけ

2015年09月19日 12:28

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 21:03:25.49 ID:Vnj4IQdC
稲葉丹後守が諸侯を饗応したことがあった時、細川越中守、黒田筑前守を上座と定めてた。
その当日に至って、取持ちの一人が気づいて言った

「細川黒田は代々音信不通の間柄である。今日の対座、如何すべきか…」

そう評議している所に「両家が到着された」との知らせがあり、ともかく上座へと案内したが、
それから膳部など出たものの、互いに挨拶もなく不興のままであった。

両家がこのような関係になった理由は、島原の一乱にあったという。
この時、細川黒田の両家とも江戸城において出陣の命を蒙ったが、細川家より黒田家に相談があった

「これより直に出立すべきだろうか、それとも一旦帰宅して、それぞれの用意をして今日中に
出立すべきだろうか?」

「我々はひとまず帰宅して夫々の準備をし、出立しようと考えている。」

そう云うので、細川は屋敷に帰った。ところが黒田はそこから直に品川へと出るので、
家来たちに直ぐに品川に駆けつけるようにと命じ、品川に出ると餅の類、その他携帯に便利な食料を
みな買い取って出立した。

その後にやって来た細川家は、既に黒田家が出立していることを知ると、急いで後を追ったものの、
終始追い付くことは出来ず、その上黒田の大人数が、行く先々で食物を皆買い切ったため細川家は
大いに差し支えたという。そして島原に着いても半日出陣が遅れた。

これより両家は不快の仲になったという。しかし近年、和解したそうである。

(明良洪範)

細川家と黒田家の仲が悪いことについて、江戸時代にはこういう説も在ったらしい、というお話。




336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 22:33:14.89 ID:AN7xn6ev
食い物恨みかよ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:11:07.16 ID:X61MWy+V
細川家のあとに出立した家は大丈夫だったのだろうか、とマジレスしてみる。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:14:25.97 ID:dvVVq3zU
一緒に走ろうねって言って裏切るのと同じやな あるある

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:26:57.69 ID:xuujyMtY
こういう補給のことを全く考えずに出陣を下命すればそれで終わりっていう幕府が無能なんだよな。
現代の感覚で言えば

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:55:50.68 ID:AN7xn6ev
あほなの?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:06:03.87 ID:+P7FxBVx
お前がね

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:41:04.79 ID:vrpbk1yq
細川くん「テスト勉強した?」
黒田くん「いや全然してない(ほんとはめちゃくちゃしてる)」
テスト前の高校生かよ

左文は、剣術は名人だが

2014年09月10日 18:58

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 01:49:57.32 ID:OGA+UiPN
黒田忠之の家士に林田左文(左門)という者がいて、戸田流の剣術の名人だった。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html

彼は足軽20人を預かっていた。ある時、その足軽のうちの6人が一味して人を
殺し、出奔した。この時、左文は馬に乗って馬場にいたのだが、この事を告げて
来たので、左文はこれを聞くとそのまま馬を飛ばして追い、

たちまち足軽たちに近付いた。足軽たち一同は立ち止まって左文に向かい、
「我々は他国へ参っても、追い付かれたと申すつもりはありませんので、御身様に
おかれても追い付かなかったということにして、ここからお戻りください。さもなくば、
敵対いたします」と、言った。

左文は静かに馬から下りて「私がここまで来たのは、お前たちを捕らえて帰り、
必ず処罰しようと思ってのことではない。是非を糺すためである。いざ来たれ」
と言った。6人の足軽は無言でいたが、やがて1人が刀を抜いて切り掛かった。

左文は抜く手も見せず、その者を即時に切り倒した。そして「皆々騒ぐな。
この者は敵対したので、止む無く切り捨てたのだ。敵対せぬ者をどうして切る
ことだろうか。早く来たれ」と、言った。

すると、また2人が切りかかる。左文は「はてさて、愚かな奴だな」と言いつつ、
2人とも切り倒した。残りの3人は一同に抜き連なって掛かったが、左文は1人を
切り捨て、2人に怪我を負わせた。これは6人一同に掛かってくれば面倒であろう
と思い、静かに言葉をかけて、6人の者の覚悟を決めた気を緩めさせたのである。

さて、左文は手負いの2人をその帯で縛り、乗って来た馬に乗せ、自らその馬を
引いて帰った。これにより「天晴れの者である」と言って、筑前の士の多くはこの
左文の門人になった。

ところで、馬爪源右衛門という鉄砲の名人の士がいた。鉄砲の他にも総じて武芸を
好んだ者だったが、彼は左文の門人にはならず、諸人がその理由を問うても、ただ
笑って答えなかった。その後、左文は罪あって刑せられた。

その時、源右衛門は親や数人に「左文は、剣術は名人だが、その性質は大奸邪だ。
ゆくゆくは何事を仕出すかも計り難いと思って門人にはならなかったのだ。師弟に
なった時に、もしも『奸曲に組せよ』と言われて組しなければ師に背くし、組すれば
主君に背くことになる。これが“愚者も千慮の一得”である」と、笑って語った
ということである。

――『明良洪範』



192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 19:46:54.76 ID:dPTJdtfR
>>185
そういう落ちか
なんだこいつ意味が分からない…と思いながら読んでたが

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 20:00:31.37 ID:speW8beY
>>185
山田風太郎がこれを元に「妖剣林田左文」
って小説を書いてたな
栗山利安がしょうもない死に方してた覚えがある

これより両家は不快の仲となったのである

2014年09月03日 18:52

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 00:37:37.74 ID:BVaVGKK7
稲葉丹後守(正往か)が諸侯を饗応することがあった時、細川越中守(綱利か)
と黒田筑前守(綱政か)を上座と定めなさった。

既にその日になって取持衆の一人は気付いて、「細川と黒田は代々音信不通だ。
今日の対座はどうしたものだろうか」と申し、評議する間に、両家ともに入って
来たと申すので、上座へと案内した。

それから食膳などが出たけれども、互いに挨拶も無く不興だったそうである。

その理由は島原一乱の時にある。細川と黒田は両家とも出陣の命を受けた。

細川(忠利)が「これから直ちに出発いたすべきか、帰宿して出発いたすべきか」
と言って相談になり、これに黒田(忠之)は「ひとまず帰宅いたして、それぞれの
用意をし、今日中に出立しよう」と言うので、その約束により細川は屋敷へ帰った。

すると黒田は「これより直ちに品川へ出るので、家来はすぐに品川まで駆け付けよ」
と申し、直ちに品川へ出て、餅の類やその他便利な良い食物を皆買い取り出発した。

その後で細川がやって来て聞いたところ、「黒田は先刻出立した」と申したので、
それから細川は急いだけれども、始終黒田の後になった。かつ黒田の大人数が
先々で食物を皆買い切るため、細川は大いに差し支えがあったということである。

島原へ着いても半日出陣が遅れ、これより両家は不快の仲となったのである。
しかし、近年和親になったとのことだ。

――『明良洪範』



118 名前:117[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 01:55:56.69 ID:BVaVGKK7
>>117
本筋に関係ないけど「便利な良い食物」じゃなくて「便通に良い食物」
と解釈したほうが正しかったかもしれない。(餅類其外便利能食物)

黒田長政の教育方針

2014年06月07日 18:55

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/06(金) 20:58:52.46 ID:WQc45Zw+
黒田忠之が幼少の時、父・長政は介保として林五介を付け置いた。

長政より五介のに与えた書状には

一,飯の食いざま以下、しつけ方については権之丞(岡本秀広か)に習わせるように。
一,手習いに油断の無いように。文面が届いたら私自身が見届ける。
一,読み物のこと、論語についてはもう済んだそうだから、そういう事なら
  大学でも三略でも読ませるように、吉祥院に申し遣わしておいた。
  法印が患っている場合は等寂がしかるべく行うであろう。五郎大夫玄春でも構わない。
  そのあたりは法印と相談するように。
一,しかし法印に祈念祈祷の事を学んでは、必ず悪しきことと成るだろう。
  成人した後仏法を聞き、禅を悟り生死を分別することは武士にとって肝要なことである。
  だが、身の過ちから逃れようと、自身で数珠を振り神仏に宿願し、
  巫女や山伏の様になってしまっては、散々のことである。
一,論語は、私の赤表紙の本を読んだのであるから、本の破損などについて言わなくて良い。
  孟子も写本しておいた。大学・中庸は今度林道春より、写し終わり次第こちらに贈ってくれる。
  七書は前から我家にある赤表紙でいいだろう。
一,盤上の遊びは固く禁ずる、その他は如何様にも、お前次第で遊ばせ、心が縮こまるような事が
  無いようにせよ。

しかし黒田忠之が幼少の頃より、長政は様々に心を用いた教訓などは、
全て役に立たなかった。事多ければ、漏れてしまうのである。
(此外忠之の幼少より、さまざま心を用ひ給ふ教訓ども
あげて計ふべからず。事多ければもらしつ。)
(黒田家譜)

黒田家譜より、長政の教育は役に立たなかったよ、というお話し。






465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/07(土) 09:54:18.22 ID:c49uaYUC
461は最後の解釈が間違ってる気がする。
「長政が忠之に与えた教訓はいろいろあるけど、一々取り上げない。省略する」
という意味だろう。

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/07(土) 13:04:43.71 ID:eoM9LEc5
そうだね、
あげてかぞうべからず、だし
いちいち数えてられない、てことか

467 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/07(土) 19:31:58.81 ID:MvLAcy23
忠之に良い逸話って無いの?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 12:00:20.24 ID:FEO+qID0
>>467
そういや見たことがないな…
黒田騒動のインパクトが強すぎるのかな

黒田長政、関ヶ原の古戦場にて

2014年04月25日 18:46

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 19:06:42.28 ID:4Mkt4lor
元和9年7月、大御所徳川秀忠公、将軍家光公の上洛があり、黒田長政・忠之親子は、
御先に上洛したいという旨を申し上げ、土井利勝を上使として、御暇を賜った。
黒田親子はすぐに御礼として江戸城に登城すると、親子ともども、御太刀を下された。
この時、木曽路を通って上洛したいということを、土井利勝を通じて言上したところ、
『心のままにせよ』と赦されたため、親子共に、東山道を上ることとなった。
またこの時、松浦肥前守久信もこれに同道した。

長政は、美濃国合渡川の傍で忠之、松浦久信を待ち受け、ここに暫く留まり、二人に、
先年の岐阜城攻めの折、大垣の城の敵方が後攻めをしようとして大勢が川向うに備えていたのを、
長政がここを渡り、合戦して追い崩し、勝利を得たこと。田中、藤堂など諸将が渡川した場所、
戦いの形勢など、たった今、目の当たりに見るように詳しく語った。
これには付き従った者達まで、志あるものは耳を傾けて聞いたそうである。

このあたりの領主であった竹中丹後守重門は、その子である権之佐を迎えとして合渡川まで参らせた。
その夜は竹中氏の居館のある岩出という場所に宿泊した。
ここでは竹中重門自身が接待をした。

翌日、岩手を出て関ヶ原に至った。ここでは、また先年、家康公の先手として陣し、西軍の大敵と
大いに戦い、天下泰平の礎を作り上げた場所であったので、「若年の人に教学の為に」と、
忠之にその時の戦の有り様、地形、方角を、指さしながら詳細に語り聞かせた。
これに、付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

長政はここで時刻を過ごし、いにしえの戦場に感じ入り、昔を恋しく思って落涙された。
心ある人中には、これを見て共に涙を落とす者もあった。

後で思い返してみれば、この時黒田長政は既に年老いて、しかも病を患っていたので、
もう一度ここを通りたいと思い、今回は忠之を伴って、こうしてここを見せ、語り置かれたのであろう。

(黒田家譜)

黒田長政、息子に関ヶ原の古戦場にて自分の戦いを語り聞かせる、という逸話である。




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:34:53.12 ID:ZKXY3hr0
熱く語る長政と興味無さそうに適当に相槌打つ忠之の姿が目に浮かぶようだ。

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 23:31:27.99 ID:zogf4qTm
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5662.html
この話か

842 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/25(金) 08:52:47.72 ID:PicnZp9z
幼馴染との邂逅ってやつですかね~

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 20:26:11.04 ID:KnPSQksW
> 付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

もう当時を知らない若者ばかりになってたんだろうと思うと何とも寂しい話だ

「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」

2012年10月24日 20:02

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 01:05:22.33 ID:Ei+gdC1V

黒田忠之とその老臣・栗山利章の間に訴訟があった時、
栗山の言うことに理があるとして黒田家の取り潰しが決まった。

その時、徳川秀忠は「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」と言ったので、
老中は帯刀を呼んで彼の考えを聞いてみた。

「理非によって裁決するというのは尋常な時の話です。
君臣父子の間について、どうして理非を論じるべきでしょうか。

栗山の処罰は免れない。
今回、家臣の申すことに理があるからとその君主を罰するのなら、

もしそれがしと紀伊殿の間に訴訟が起きた場合に、
それがしに理があったならば紀伊殿を処罰するのでしょうか」

この帯刀の意見を受けて、いかにもその通りだということで
栗山は処罰され、黒田家は取り潰しを免れた。

――『名将言行録』




47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 14:32:04.50 ID:f+3YfCG7
いい話なのかね?

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/24(水) 16:19:18.58 ID:bCZlZRIR
幕府は改易のチャンスなのに、何で改易しなかったんだろうな。
安藤帯刀の言う君臣の関係の前例なんて、どうとでも繕えるだろうに。

黒田忠之・出生の秘密?

2011年07月31日 23:01

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 01:12:23.06 ID:OFnW17nu
黒田忠之と言えば、黒田如水の孫であり、黒田長政の嫡男である。
長政死後に筑前太守となったものの、家臣団と衝突を起こし、
筆頭家老の栗山大膳に嘘の謀反を訴えられるという黒田騒動の主役の一人である。

忠之は長政が筑前に入封して後、継室である栄姫との間に生まれた子である。
のだが、この忠之の出生について"一部で"こんな異説が伝わっているらしい。
忠之誕生の時、長政は三十五歳、娘が一人いるものの、男子に恵まれず、
加えて彼のたった一人の弟は数年前に事故死しており、
とにかく黒田家には世継ぎが待望されていた。
そこで栄姫の懐妊が発覚するのだが、今度こそお世継ぎの誕生かと盛り上がる黒田家、
「次も女子ならば捨ててしまえ」とまで言い出す始末。
ところが、栄姫の産んだ子は女の子だった。
家中ではお世継ぎの誕生が切望されている。
困った栄姫、側近たちに同じ日の生まれた男の赤ん坊を探させます。
すると、ちょうど同じ日に箱崎の貧しい庶民の家に男子が産まれたことが発覚。
栄姫は自分の産んだ娘とこの男の赤ん坊を取り替えさせます。
そして、黒田家の嫡男・万徳丸として養育されたのが、黒田忠之である。

といったような異説が肥前は佐賀藩の鍋島家中にて囁かれていたそうです。
黒田家と鍋島家は長政の時代まではとても良好な関係を築いていたのですが、
忠之と勝茂が絶縁して以来、国境問題もあり関係は最悪。
つまり、如水長政を貶めないように黒田家を叩く理由付けをしたのではないかと思われます。




247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 11:54:12.12 ID:6/pO09H2
>>245
NGMSと忠之の肖像画比べればすぐ親子だってわかるのになw

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 12:03:34.86 ID:27QM8Dgn
>>247
あの肖像のそっくりさ加減は、逆に親子じゃないって言われた方が驚愕するわなw

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 12:12:43.90 ID:caHuuPC+
>>247-248
あの肖像画は忠之死後50年くらい経ってから描かれたもので、おそらく長政像をベースにしてるから似てて当然
忠之生前に描かれた寿像が存在するがぶっちゃけあんま長政とは似てない
丸顔で目は切れ長でなよっとした女性的な感じ

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 13:20:14.49 ID:yBQ/CJuL
黒田忠之は生まれが平和な時代でよかったよな
織田信長の時代なら黒田家滅亡してたかもしれん

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 15:27:34.95 ID:3yD4qKaz
>>250
無意味な仮定