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日光一文字刀之拵注文

2017年01月13日 11:32

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/12(木) 23:27:05.87 ID:n7OaOJHp
 日光一文字刀之拵注文

一、はゝき(鎺)上下 印字   むく(無垢)上はゝき(鎺)柏のすか(透)し
一、せつは(切羽) 印字   こきさ(小刻)ミ
一、しととめ(下留) 印字
一、ふち(縁) 赤銅二めんふち(面縁)
一、さや(鞘) ちい(小)さめ
一、目貫 かうかい(笄)  小刀のつか(柄)・つは(鍔) 此方より遣ス
一、くりかた(栗形)かへ(返)り  つか(柄)頭 角
一、こしり(鐺)  しんちう(真鍮)  くさら(腐)かし
        以上
 右ハへし(圧)切之刀ニ少もちか(違)ひ不申様ニ可被仕候、以上、
   閏八月八日(元和九年)      忠之(黒印)
                      埋忠明寿(重吉)老
(黒田家文書)

黒田忠之が父である長政の死後(元和九年八月四日(1623年8月29日))すぐ、日光一文字の拵えを圧切長谷部と
瓜二つに作って欲しいと埋忠明寿に依頼した話。
(なぜ、そろいの拵えにしようとしたのかは不明)

・日光一文字は忠之誕生時に、如水から忠之に贈られている。
・圧切長谷部は長政の遺言で四男高政へ贈られている。
・日光一文字の拵えは19世紀頃には行方不明となり、圧切長谷部の現在の拵えは江戸末期の物
(安宅切とお揃いで、安宅切の拵えの方が先に出来ている。このため福岡市博物館のTwitterに「へし切長谷部と
ペアルック」と安宅切展示公開時に書かれる)

黒田家の刀の拵えはお揃いにしないといけないのだろうか・・・

国宝圧切長谷部一月五日から二月五日まで福岡市博物館で展示中なので
書いてみた。連日沢山の人がきているそうな。




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我が先、朝鮮在陣の笑談

2016年10月29日 12:30

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI
我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える



黒田と細川が不仲に成ったわけ

2015年09月19日 12:28

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 21:03:25.49 ID:Vnj4IQdC
稲葉丹後守が諸侯を饗応したことがあった時、細川越中守、黒田筑前守を上座と定めてた。
その当日に至って、取持ちの一人が気づいて言った

「細川黒田は代々音信不通の間柄である。今日の対座、如何すべきか…」

そう評議している所に「両家が到着された」との知らせがあり、ともかく上座へと案内したが、
それから膳部など出たものの、互いに挨拶もなく不興のままであった。

両家がこのような関係になった理由は、島原の一乱にあったという。
この時、細川黒田の両家とも江戸城において出陣の命を蒙ったが、細川家より黒田家に相談があった

「これより直に出立すべきだろうか、それとも一旦帰宅して、それぞれの用意をして今日中に
出立すべきだろうか?」

「我々はひとまず帰宅して夫々の準備をし、出立しようと考えている。」

そう云うので、細川は屋敷に帰った。ところが黒田はそこから直に品川へと出るので、
家来たちに直ぐに品川に駆けつけるようにと命じ、品川に出ると餅の類、その他携帯に便利な食料を
みな買い取って出立した。

その後にやって来た細川家は、既に黒田家が出立していることを知ると、急いで後を追ったものの、
終始追い付くことは出来ず、その上黒田の大人数が、行く先々で食物を皆買い切ったため細川家は
大いに差し支えたという。そして島原に着いても半日出陣が遅れた。

これより両家は不快の仲になったという。しかし近年、和解したそうである。

(明良洪範)

細川家と黒田家の仲が悪いことについて、江戸時代にはこういう説も在ったらしい、というお話。




336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 22:33:14.89 ID:AN7xn6ev
食い物恨みかよ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:11:07.16 ID:X61MWy+V
細川家のあとに出立した家は大丈夫だったのだろうか、とマジレスしてみる。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:14:25.97 ID:dvVVq3zU
一緒に走ろうねって言って裏切るのと同じやな あるある

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:26:57.69 ID:xuujyMtY
こういう補給のことを全く考えずに出陣を下命すればそれで終わりっていう幕府が無能なんだよな。
現代の感覚で言えば

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:55:50.68 ID:AN7xn6ev
あほなの?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:06:03.87 ID:+P7FxBVx
お前がね

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:41:04.79 ID:vrpbk1yq
細川くん「テスト勉強した?」
黒田くん「いや全然してない(ほんとはめちゃくちゃしてる)」
テスト前の高校生かよ

左文は、剣術は名人だが

2014年09月10日 18:58

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 01:49:57.32 ID:OGA+UiPN
黒田忠之の家士に林田左文(左門)という者がいて、戸田流の剣術の名人だった。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html

彼は足軽20人を預かっていた。ある時、その足軽のうちの6人が一味して人を
殺し、出奔した。この時、左文は馬に乗って馬場にいたのだが、この事を告げて
来たので、左文はこれを聞くとそのまま馬を飛ばして追い、

たちまち足軽たちに近付いた。足軽たち一同は立ち止まって左文に向かい、
「我々は他国へ参っても、追い付かれたと申すつもりはありませんので、御身様に
おかれても追い付かなかったということにして、ここからお戻りください。さもなくば、
敵対いたします」と、言った。

左文は静かに馬から下りて「私がここまで来たのは、お前たちを捕らえて帰り、
必ず処罰しようと思ってのことではない。是非を糺すためである。いざ来たれ」
と言った。6人の足軽は無言でいたが、やがて1人が刀を抜いて切り掛かった。

左文は抜く手も見せず、その者を即時に切り倒した。そして「皆々騒ぐな。
この者は敵対したので、止む無く切り捨てたのだ。敵対せぬ者をどうして切る
ことだろうか。早く来たれ」と、言った。

すると、また2人が切りかかる。左文は「はてさて、愚かな奴だな」と言いつつ、
2人とも切り倒した。残りの3人は一同に抜き連なって掛かったが、左文は1人を
切り捨て、2人に怪我を負わせた。これは6人一同に掛かってくれば面倒であろう
と思い、静かに言葉をかけて、6人の者の覚悟を決めた気を緩めさせたのである。

さて、左文は手負いの2人をその帯で縛り、乗って来た馬に乗せ、自らその馬を
引いて帰った。これにより「天晴れの者である」と言って、筑前の士の多くはこの
左文の門人になった。

ところで、馬爪源右衛門という鉄砲の名人の士がいた。鉄砲の他にも総じて武芸を
好んだ者だったが、彼は左文の門人にはならず、諸人がその理由を問うても、ただ
笑って答えなかった。その後、左文は罪あって刑せられた。

その時、源右衛門は親や数人に「左文は、剣術は名人だが、その性質は大奸邪だ。
ゆくゆくは何事を仕出すかも計り難いと思って門人にはならなかったのだ。師弟に
なった時に、もしも『奸曲に組せよ』と言われて組しなければ師に背くし、組すれば
主君に背くことになる。これが“愚者も千慮の一得”である」と、笑って語った
ということである。

――『明良洪範』



192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 19:46:54.76 ID:dPTJdtfR
>>185
そういう落ちか
なんだこいつ意味が分からない…と思いながら読んでたが

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 20:00:31.37 ID:speW8beY
>>185
山田風太郎がこれを元に「妖剣林田左文」
って小説を書いてたな
栗山利安がしょうもない死に方してた覚えがある

これより両家は不快の仲となったのである

2014年09月03日 18:52

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 00:37:37.74 ID:BVaVGKK7
稲葉丹後守(正往か)が諸侯を饗応することがあった時、細川越中守(綱利か)
と黒田筑前守(綱政か)を上座と定めなさった。

既にその日になって取持衆の一人は気付いて、「細川と黒田は代々音信不通だ。
今日の対座はどうしたものだろうか」と申し、評議する間に、両家ともに入って
来たと申すので、上座へと案内した。

それから食膳などが出たけれども、互いに挨拶も無く不興だったそうである。

その理由は島原一乱の時にある。細川と黒田は両家とも出陣の命を受けた。

細川(忠利)が「これから直ちに出発いたすべきか、帰宿して出発いたすべきか」
と言って相談になり、これに黒田(忠之)は「ひとまず帰宅いたして、それぞれの
用意をし、今日中に出立しよう」と言うので、その約束により細川は屋敷へ帰った。

すると黒田は「これより直ちに品川へ出るので、家来はすぐに品川まで駆け付けよ」
と申し、直ちに品川へ出て、餅の類やその他便利な良い食物を皆買い取り出発した。

その後で細川がやって来て聞いたところ、「黒田は先刻出立した」と申したので、
それから細川は急いだけれども、始終黒田の後になった。かつ黒田の大人数が
先々で食物を皆買い切るため、細川は大いに差し支えがあったということである。

島原へ着いても半日出陣が遅れ、これより両家は不快の仲となったのである。
しかし、近年和親になったとのことだ。

――『明良洪範』



118 名前:117[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 01:55:56.69 ID:BVaVGKK7
>>117
本筋に関係ないけど「便利な良い食物」じゃなくて「便通に良い食物」
と解釈したほうが正しかったかもしれない。(餅類其外便利能食物)

黒田長政の教育方針

2014年06月07日 18:55

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/06(金) 20:58:52.46 ID:WQc45Zw+
黒田忠之が幼少の時、父・長政は介保として林五介を付け置いた。

長政より五介のに与えた書状には

一,飯の食いざま以下、しつけ方については権之丞(岡本秀広か)に習わせるように。
一,手習いに油断の無いように。文面が届いたら私自身が見届ける。
一,読み物のこと、論語についてはもう済んだそうだから、そういう事なら
  大学でも三略でも読ませるように、吉祥院に申し遣わしておいた。
  法印が患っている場合は等寂がしかるべく行うであろう。五郎大夫玄春でも構わない。
  そのあたりは法印と相談するように。
一,しかし法印に祈念祈祷の事を学んでは、必ず悪しきことと成るだろう。
  成人した後仏法を聞き、禅を悟り生死を分別することは武士にとって肝要なことである。
  だが、身の過ちから逃れようと、自身で数珠を振り神仏に宿願し、
  巫女や山伏の様になってしまっては、散々のことである。
一,論語は、私の赤表紙の本を読んだのであるから、本の破損などについて言わなくて良い。
  孟子も写本しておいた。大学・中庸は今度林道春より、写し終わり次第こちらに贈ってくれる。
  七書は前から我家にある赤表紙でいいだろう。
一,盤上の遊びは固く禁ずる、その他は如何様にも、お前次第で遊ばせ、心が縮こまるような事が
  無いようにせよ。

しかし黒田忠之が幼少の頃より、長政は様々に心を用いた教訓などは、
全て役に立たなかった。事多ければ、漏れてしまうのである。
(此外忠之の幼少より、さまざま心を用ひ給ふ教訓ども
あげて計ふべからず。事多ければもらしつ。)
(黒田家譜)

黒田家譜より、長政の教育は役に立たなかったよ、というお話し。






465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/07(土) 09:54:18.22 ID:c49uaYUC
461は最後の解釈が間違ってる気がする。
「長政が忠之に与えた教訓はいろいろあるけど、一々取り上げない。省略する」
という意味だろう。

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/07(土) 13:04:43.71 ID:eoM9LEc5
そうだね、
あげてかぞうべからず、だし
いちいち数えてられない、てことか

467 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/07(土) 19:31:58.81 ID:MvLAcy23
忠之に良い逸話って無いの?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 12:00:20.24 ID:FEO+qID0
>>467
そういや見たことがないな…
黒田騒動のインパクトが強すぎるのかな

黒田長政、関ヶ原の古戦場にて

2014年04月25日 18:46

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 19:06:42.28 ID:4Mkt4lor
元和9年7月、大御所徳川秀忠公、将軍家光公の上洛があり、黒田長政・忠之親子は、
御先に上洛したいという旨を申し上げ、土井利勝を上使として、御暇を賜った。
黒田親子はすぐに御礼として江戸城に登城すると、親子ともども、御太刀を下された。
この時、木曽路を通って上洛したいということを、土井利勝を通じて言上したところ、
『心のままにせよ』と赦されたため、親子共に、東山道を上ることとなった。
またこの時、松浦肥前守久信もこれに同道した。

長政は、美濃国合渡川の傍で忠之、松浦久信を待ち受け、ここに暫く留まり、二人に、
先年の岐阜城攻めの折、大垣の城の敵方が後攻めをしようとして大勢が川向うに備えていたのを、
長政がここを渡り、合戦して追い崩し、勝利を得たこと。田中、藤堂など諸将が渡川した場所、
戦いの形勢など、たった今、目の当たりに見るように詳しく語った。
これには付き従った者達まで、志あるものは耳を傾けて聞いたそうである。

このあたりの領主であった竹中丹後守重門は、その子である権之佐を迎えとして合渡川まで参らせた。
その夜は竹中氏の居館のある岩出という場所に宿泊した。
ここでは竹中重門自身が接待をした。

翌日、岩手を出て関ヶ原に至った。ここでは、また先年、家康公の先手として陣し、西軍の大敵と
大いに戦い、天下泰平の礎を作り上げた場所であったので、「若年の人に教学の為に」と、
忠之にその時の戦の有り様、地形、方角を、指さしながら詳細に語り聞かせた。
これに、付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

長政はここで時刻を過ごし、いにしえの戦場に感じ入り、昔を恋しく思って落涙された。
心ある人中には、これを見て共に涙を落とす者もあった。

後で思い返してみれば、この時黒田長政は既に年老いて、しかも病を患っていたので、
もう一度ここを通りたいと思い、今回は忠之を伴って、こうしてここを見せ、語り置かれたのであろう。

(黒田家譜)

黒田長政、息子に関ヶ原の古戦場にて自分の戦いを語り聞かせる、という逸話である。




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 20:34:53.12 ID:ZKXY3hr0
熱く語る長政と興味無さそうに適当に相槌打つ忠之の姿が目に浮かぶようだ。

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 23:31:27.99 ID:zogf4qTm
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5662.html
この話か

842 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/25(金) 08:52:47.72 ID:PicnZp9z
幼馴染との邂逅ってやつですかね~

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/25(金) 20:26:11.04 ID:KnPSQksW
> 付き従う士卒たちも、ただただ心耳を澄ますばかりであった。

もう当時を知らない若者ばかりになってたんだろうと思うと何とも寂しい話だ

「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」

2012年10月24日 20:02

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 01:05:22.33 ID:Ei+gdC1V

黒田忠之とその老臣・栗山利章の間に訴訟があった時、
栗山の言うことに理があるとして黒田家の取り潰しが決まった。

その時、徳川秀忠は「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」と言ったので、
老中は帯刀を呼んで彼の考えを聞いてみた。

「理非によって裁決するというのは尋常な時の話です。
君臣父子の間について、どうして理非を論じるべきでしょうか。

栗山の処罰は免れない。
今回、家臣の申すことに理があるからとその君主を罰するのなら、

もしそれがしと紀伊殿の間に訴訟が起きた場合に、
それがしに理があったならば紀伊殿を処罰するのでしょうか」

この帯刀の意見を受けて、いかにもその通りだということで
栗山は処罰され、黒田家は取り潰しを免れた。

――『名将言行録』




47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/24(水) 14:32:04.50 ID:f+3YfCG7
いい話なのかね?

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/24(水) 16:19:18.58 ID:bCZlZRIR
幕府は改易のチャンスなのに、何で改易しなかったんだろうな。
安藤帯刀の言う君臣の関係の前例なんて、どうとでも繕えるだろうに。

黒田忠之・出生の秘密?

2011年07月31日 23:01

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 01:12:23.06 ID:OFnW17nu
黒田忠之と言えば、黒田如水の孫であり、黒田長政の嫡男である。
長政死後に筑前太守となったものの、家臣団と衝突を起こし、
筆頭家老の栗山大膳に嘘の謀反を訴えられるという黒田騒動の主役の一人である。

忠之は長政が筑前に入封して後、継室である栄姫との間に生まれた子である。
のだが、この忠之の出生について"一部で"こんな異説が伝わっているらしい。
忠之誕生の時、長政は三十五歳、娘が一人いるものの、男子に恵まれず、
加えて彼のたった一人の弟は数年前に事故死しており、
とにかく黒田家には世継ぎが待望されていた。
そこで栄姫の懐妊が発覚するのだが、今度こそお世継ぎの誕生かと盛り上がる黒田家、
「次も女子ならば捨ててしまえ」とまで言い出す始末。
ところが、栄姫の産んだ子は女の子だった。
家中ではお世継ぎの誕生が切望されている。
困った栄姫、側近たちに同じ日の生まれた男の赤ん坊を探させます。
すると、ちょうど同じ日に箱崎の貧しい庶民の家に男子が産まれたことが発覚。
栄姫は自分の産んだ娘とこの男の赤ん坊を取り替えさせます。
そして、黒田家の嫡男・万徳丸として養育されたのが、黒田忠之である。

といったような異説が肥前は佐賀藩の鍋島家中にて囁かれていたそうです。
黒田家と鍋島家は長政の時代まではとても良好な関係を築いていたのですが、
忠之と勝茂が絶縁して以来、国境問題もあり関係は最悪。
つまり、如水長政を貶めないように黒田家を叩く理由付けをしたのではないかと思われます。




247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 11:54:12.12 ID:6/pO09H2
>>245
NGMSと忠之の肖像画比べればすぐ親子だってわかるのになw

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 12:03:34.86 ID:27QM8Dgn
>>247
あの肖像のそっくりさ加減は、逆に親子じゃないって言われた方が驚愕するわなw

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 12:12:43.90 ID:caHuuPC+
>>247-248
あの肖像画は忠之死後50年くらい経ってから描かれたもので、おそらく長政像をベースにしてるから似てて当然
忠之生前に描かれた寿像が存在するがぶっちゃけあんま長政とは似てない
丸顔で目は切れ長でなよっとした女性的な感じ

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 13:20:14.49 ID:yBQ/CJuL
黒田忠之は生まれが平和な時代でよかったよな
織田信長の時代なら黒田家滅亡してたかもしれん

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 15:27:34.95 ID:3yD4qKaz
>>250
無意味な仮定

島原の乱と黒田長政の息子たち

2011年07月11日 23:20

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 00:29:41.64 ID:exXdob9v
ハイハイ、安心と信頼の黒田家クオリティ次世代編だよ。

寛永十四年、大坂の陣から二十二年の後に起こったおそらく最後の戦が島原の乱である。
この大規模な一揆を鎮めるために九州の諸侯に出陣命令が出ました。
もちろん黒田一門も参加することとなりましたが、知っての通り件の突撃大名はすでに故人。
黒田長政には正室との間に三人の息子がいましたが(もう一人側室腹がいますが既に他界)、
長男忠之に本藩を継がせ、三男長興に5万石、四男高政に4万石を継がせていました。
彼らは皆関ヶ原の後に生まれた子であり、もちろん父の戦場での猪ぶりなど知る由もありません。

さて、長男にして本藩を継いだ黒田忠之36歳。
彼は一応大坂の陣に出陣しておりますが、病身のため特に戦功もなく、これが初陣のようなものです。
寛永十五年二月二十一日、黒田・鍋島・有馬などの陣営に一揆軍による夜襲がありました。
忠之のいた本陣は現場からは離れていましたが、彼は陣営を率いて一揆軍を追撃。
しかし、一揆軍は城際まで城内に引き上げるところでした。
忠之は城内に突撃する気満々で重臣郡正大夫に意見を仰ぎます。すると、正大夫
「それもよろしいかもしれませんが、せっかくなので戦歴豊富な黒田美作に相談するのがよろしいかと」
と提案します。さっそく忠之は美作に意見を求めたところ、
「城内にはどんな罠がしかけてあるのかわかりません。
それに、まだ夜も空けそうになくとても危険だと思われます。
城内まで追撃するのはおやめください。」
しかし、追撃する気満々の忠之である。
美作正大夫の二人が止めるのも聞かず馬に鞭を叩きます。
この時、高尾彌五左衛門という男が忠之の馬の口にすがりつきました。
「ええい!離せ離せ!」
いきり立つ忠之は彌五左衛門を怒鳴りつけながら鞭で叩きます。
「絶対に離すでないぞ!」
美作に強く言われた彌五左衛門は必死に馬を抑えつけ、忠之の突撃を阻止したのでした。
後日、冷静になった忠之からとても感謝されたそうです。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 00:57:10.05 ID:exXdob9v
そんなわけで家臣に止められて突撃を控えた長男ですが、
実は父親そっくりの猪武者ぶりを発揮したのが末息子の黒田高政27歳。
彼は父の形見としてあの一ノ谷兜を貰いうけていました。

件の夜襲の時、高政の陣所も少し現場から離れていましたが、彼が駆け付けた時はまだ退却し始めたところで、
小川のほとりから駆け付けた高政隊に向かって鉄砲を放ちました。
これに高政、体に流れる黒田の血が目覚めたのか、士卒に先立って突撃。
自ら檄を飛ばして一揆衆と戦います。
すると、一揆衆が鍋島隊の攻め口に火をかけ、あたりは一気に明るくなります。
"市正(高政)着られたる一谷の冑かゝやきわたつて見えける間"、
その一ノ谷兜をめがけて一揆衆は鉄砲を放ちます。このため高政の兜には銃痕が三つあったそうです。
周りの家臣たちは高政を守ろらねばと彼の前に立って一揆衆を攻撃、
これには一揆衆も退却を余儀なくされます。
しかし、いったん火のついた黒田の血は止められるはずもなく、高政は川を渡って追撃しようとします。
さすがにこれはまずいと思った吉田右馬大夫は高政を強くいさめます。
しかし、すっかり興奮した高政はそれくらいでは止まらず、右馬大夫は高政にすがりつきます。
右馬大夫、先ほど一揆衆に石を投げつけられて歯を折られ大流血中。
"此時口より流るゝ血、市正着られたる白羅紗の羽織に染て紅になりけれは、殊にはなやかにみえたまふ。"
そういうこともあって右馬大夫はなんとか高政を止める事が出来ました。
夜が明けて、この様子を見ていた幕府の上使は高政の勇戦を褒め称えたそうな。




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 09:52:06.74 ID:7TC8RFJG
如水も跛じゃなかったら突撃馬鹿になっていたんだろうな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 10:50:50.98 ID:jCIikCdH
外交・調略の部分で突撃馬鹿と言われても仕方ない面はあるな

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 12:36:25.40 ID:6OrlSrdq
つまり性格が突撃馬鹿なんだな

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 12:45:04.60 ID:fx6EecAZ
それで兜飾りが牛の角ってのが面白いね


962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 21:05:18.20 ID:Wasc1/SF
「兜飾り」って五月人形かよ。

井伊直孝、理あるところを以て、公論を申し上げる

2011年06月17日 00:14

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/15(水) 23:52:50.72 ID:lp2z3JYz
嘉永九年(1632)六月、福岡藩主黒田筑前守忠之の家老、栗山大膳が主人の不行跡を幕府へ訴えでた。
いわゆる黒田騒動に対し、幕府では黒田家の取り潰しを決行しようとした。
だが、その席で井伊直孝が反論を唱えた。

「大膳の訴状を読みましたが、特に領地を没収せねばならんような罪科はないですよ?
大船建造のことも忠之公本人でなく先代の長政公の時のことでしょう、今更咎めるのは無茶でしょう。」

更に直孝は指摘する。

「大体忠之公の謀反自体がデマでしょうこれは。
大膳がしばしば諫言したから、城中に呼び出されて毒殺されかけたと書いてますけど…
そもそも家臣に罰が与えられないからって、毒殺しようとする奴が幕府に謀反なんて無理でしょうw」

と主張した。その直孝の主張に対し、将軍・徳川家光は冷やかした。

「おい直孝、お前忠之を贔屓すんのかね?」と。直孝の返答は以下のとおりである。

「贔屓なんてしませんよ。忠之公は蜂須賀蓬庵(家政)と不和です。
私は蓬庵の娘婿ですが、辿れば私にとっても恨みはありますよ。
私は、理あるところを以て、公論を申し上げただけに過ぎません。」と。

黒田家の取り潰しは、この閣議によって沙汰止みとなったとされる。

(名将言行録巻之六十一より)





徳川家光「おい、政宗」

2011年06月14日 00:00

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 00:57:43.75 ID:r8y9cB/g
ある年、将軍徳川家光が、諸大名を伴って上野僧上寺を訪れた時のこと、
家光は連れてきた大名たちの中から、伊達忠宗黒田忠之に声をかけました。

「おい、政宗、筑前!」

「え!?」


あの爺さんはとっくに亡くなっていたころと思われますが、
家光はあいかわらず彼が大好きだったようですね。




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:15:40.84 ID:1OHMqe4j
並みいる諸大名の中から選ばれるとは黒田忠之の数少ないいい話ではないだろうか。
あ、でもこれって儀式の一部の話なのか?

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:21:46.31 ID:x9h1Tv12
>626
これ悪い話?
声をかける事が異例ってことかな?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:27:50.56 ID:WaTq/yGS
政宗って呼ぶのはいくら将軍でも失礼すぎるだろ
原文では何と呼んだの?

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:34:50.27 ID:r8y9cB/g
>>629
それが確かに「政宗」と書いてあるのです。
誤字かと思ったら、
「忠宗ハ政宗の子なり。然共政宗と父の名を仰られける。」
とありますね。
出典は「黒田続家譜巻之六」

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:35:47.86 ID:WaTq/yGS
>>630
へええー

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:36:39.99 ID:zmsWybXy
>>629
家光は政宗の主君だから、「政宗」と呼んでOK

これはどうか知らないが、この当時や近い時代の資料でも政宗のことは「政宗」と書かれているものが
やたら多いのね。「伊達侍従」とか「越前守」とか「陸奥守」とか書かれているものは非常に少ない。
どうも政宗は自分の諱を世間に積極的にアピールしていたのではないか、という気がちょっとするw

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:48:24.43 ID:AI3K9aJq
忠之が「筑前」と呼ばれてるけど、彼が筑前守に任官したのは黒田騒動の十数年も後のことで、要するにこれも
NGMSと間違えてる。
忠宗共々国主ほどの立場にある者を、父親とはいえ死者と間違えてるんだから実は割と失礼or家光がかなり
ボーッとしてる話。

しかし忠之がNGMSに良く似たブサ○ク(失礼)だったのは肖像画で知ってるが、忠宗も政宗と似た顔だったんだろか。
それって、本人的にどうだったんだろ。

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:53:59.38 ID:WaTq/yGS
>>632
実名で呼ぶのは普通はヤバい行為だよ。
時代は遡るが、源頼家が家臣を実名で呼んだことで、家臣の恨みを買い、
政子に、家臣といえども非礼な真似をするなとお灸を据えられている。

政宗が特殊な人なのか、家光と政宗の間だから許されたことなのか・・・

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 01:59:14.96 ID:ZCUxnsrt
君臣の間柄の好悪もさることながら
頼家と家光の権力の強弱も考慮に入れるべきじゃないかな

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 02:36:50.03 ID:x9h1Tv12
そういえば江戸初期の地図で、諸大名屋敷は姓+官名で書かれてるのに
なぜか政宗屋敷だけ、デカデカと「政宗」って名前だけで書かれてたの思い出した
江戸じゃ政宗は名前呼び捨てがデフォなのか?

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 02:47:13.31 ID:GrL5vnGh
>>636
想像してなんかワロタ

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 12:45:20.84 ID:uEKezqLl
ファーストネームで呼んでくれって事かな「政宗」
さすがDQNヤンキーだな。

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 15:40:26.15 ID:VUzWWRHm
>>633
これ時期がわからないけど、NGMSは家光が将軍になる直前に亡くなっていて、
家光とNGMSよりも家光と忠之の方が付き合い長いというか親しいはずだから、
筑前=忠之で合ってると思われ

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 19:57:44.42 ID:qZS7vHjR
忠之の名前も官位も忘れちゃって、「こいつ誰だっけ?ああ、たしか筑前の領主だったから、筑前で通じるだろ」
とかだったら、ひどい

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/13(月) 20:01:10.15 ID:lAB23/ht
300位藩があったらしいし覚えるのは大変だろう

647 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2011/06/14(火) 00:43:08.25 ID:utlehkYR
>>645>>646
多分そんなところだろう。
年賀の将軍拝謁の時なんか、将軍に個別に挨拶出来るのは
大藩で10万石以下なんか十把一絡げで挨拶することになっていたから。
ましてやいつも顔会わすのは幕閣ぐらいだろうし。

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/14(火) 03:49:12.39 ID:u1dt2uw3
いつの間にNGMSなんて略されるようになったんだ。もう公式ですか?

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/14(火) 08:30:25.64 ID:1w1hjYjb
>>652
公式ですが
ttp://d.hatena.ne.jp/rerasiu/20090516%23p1

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/14(火) 18:25:23.36 ID:jW5Xs5uC
>>636
どっかで見た大阪の陣の布陣図でも「政宗」になってた気がする
他の武将みんな名字+役職なのに、やっぱり伊達だけデカデカと「政宗」二文字

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/14(火) 21:36:37.22 ID:ZinSvD2D
政宗はやっぱり単に政宗って呼び方がしっくりくるな
まーくん呼びは親しみ込めてるんだろうけど、アイドルみたいでなんか違和感を感じる

黒田騒動

2011年05月10日 00:00

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 00:12:02.01 ID:Jvx52BXW
戦国はもう終わってるけど、栗山大膳さんの項目がまとめにもあるので
黒田家の御家騒動の話を投下。三大御家騒動の一つに数えられるこの黒田騒動、
栗山大膳事件と呼ばれるくらい大膳さんが中心人物である。


先代藩主である長政はその臨終の際に息子忠之と、大膳を読んで遺命を伝えると
「我が遺言の証拠は大膳である」告げていた。

そんな訳だから大膳も何かと諫言を呈することとなる。ただし、大膳にとっては
忠言のつもりであったが、忠之の方ではそうは思わなかった。自分が何かするたびに
文句を言ってくる大膳をだんだんと鬱陶しく思ってきたのである。

御家騒動と言えば先代からの老臣と、新たに取り立てられた側近との対立と言うのが
典型的な例であるが、この黒田騒動も例に漏れなかった。忠之の児小姓から出世して、
八〇〇〇石まで禄することになった倉八十太夫という男である。

こうして倉八を得た忠之はだんだんと側近政治を始め暴走していくこととなる。
幕府の思惑を配慮して初版が軍縮をしていく中、幕府禁制の大型船を建造、
倉八に命じて足軽二〇〇人を新たに召し抱えたりした。

更に大膳の父利安が寛永九年(1631)に没すると、領地を召し上げ、大膳処断のために
幕府の有力者に了解を取り付けようと奔走、おまけに大膳の娘は坊主か町人の嫁にするとか
言い出す始末である。

流石にここまでやられれば誰でもキレる。大膳もキレた。それどころか先代様に頼まれた
黒田藩すら危うい。こうして大膳も逆襲に転ずるのである。

寛永九年一月に徳川二代将軍秀忠が没すると、忠之は葬儀後に帰国。かねてより大膳を処断する
つもりであった忠之は、倉八一派を排斥しようとしていた大膳に切腹を命じる。
これには剃髪し、人質を差し出したことでなんとか逃れた。

同年六月十五日、忠之の手の者が博多の町で一人の男を捕えた。その男、とんでもない書状を
持っていた。何と黒田忠之に幕府に対して謀反の企てがあるという訴えをしたためた書状である。
実はこの男、大膳の手の者。先日の件でもはや一刻の猶予もないと思った大膳は幕府への訴え
という強硬策に出たのである。

この男は捕まったが、密書は二通あり、もう一通は豊後幕府惣目付け竹中采女正(竹中半兵衛の甥)の
もとへ届いてしまった。驚いたのは竹中である。黒田家と言えば関ヶ原の折に家康自ら手を取ってもらい
親父に怒られた大功の家であるし、関ヶ原ではともに轡を並べた仲でもある。

とはいえことは公のことである。早急に福岡へ向かうと、大膳の身柄を確保。訴状は江戸に差し出した。
かくして忠之に出頭命令が下る。先日も加藤家が改易されたばかり。流石の忠之も震え上がった。

ことの次第に幕府も土井利勝、井伊直孝、酒井忠勝らフルメンバーの体制で取り調べを開始した。
評定は長引き、とうとう将軍家光自ら忠之を城中に呼び寄せ謀反の有無を問いただした。その結果、
謀反の疑いをはらすことができた。

謀反の企てが虚言であるならば、何故大膳は虚言を訴え出たのか?改めて大膳を呼び出し問いただせば、
大膳は主君に逆心ありと訴えたのは虚言であるが、黒田家を滅亡の淵から救うには御公儀の力を借りるしかなかったと
陳述し幕閣らの涙を誘った。

寛永十年三月十五日、将軍家光の裁定が下った。黒田の領地は没収。しかし、父長政の功績に対し改めて
旧領を与える。大膳は盛岡藩へお預け。しかし四里四方お構いなしというどちらにも寛大な処置であった。
また件の倉八十太夫は黒田家追放となったのだった。





509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 00:48:34.46 ID:KESICShn
>>503
黒田は播磨に移った重隆以来、知恵者の家系のイメージがあるが(『黒田三十六計』の影響)、
あっというまに錆びついてしまうんだな

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 00:50:41.48 ID:4DirppR1
三大お家騒動って黒田と伊達と最上でいいの?

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 00:56:16.95 ID:Ca13vKuG
>>510
鍋島「あぁ?化猫ディスってんのかゴラァ」

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 01:04:57.23 ID:O/aU8XRM
お家騒動っていえば二回崩れとか あれ犯人は誰?宗麟?w

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 01:23:09.45 ID:Gf7qNv8e
>>510
黒田、伊達、加賀(前田)

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 01:26:02.51 ID:4DirppR1
>>514
それだ! トン

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 03:28:06.20 ID:A/HdV7ly
仙谷さんも騒動起こしてるよな

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 06:16:58.57 ID:9eQ2ydlR
三大○○と言えば2TOPプラスおまけという構成だろ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 06:34:48.23 ID:CjRdsrjg
>>509
官兵衛のより前の代の黒田家の人達も有能だったっぽいし(そうでないと新参が家老にならないだろう)
長政まではタイプは少し違えども、出来る人が続くのに

なんで忠之はこんな馬鹿殿なんだろ

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 07:41:36.99 ID:4xjAs39q
>>518
胤が違ったりしてなw昔の女は股が緩かったそうだし十分あり得る

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 08:23:27.63 ID:CLs02VTB
お前さんの嫁御は大丈夫か?

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 09:07:22.09 ID:JASQ5F8b
ボンクラがTOPでもなんとかなるのが平穏な世じゃないんかなぁ…
まぁ、ボンクラすぎると御上に潰されちゃうけどね^^

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 10:11:26.27 ID:Uakr1sLz
バカ殿と馬鹿にされてるうちが華であるか。

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 10:24:23.13 ID:9De9SWD2
>>521
いやいやボンクラ過ぎた故にお家存続できちゃった信雄さんてのもいるw

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 11:07:36.02 ID:65vJupKh
何だかんだ言って、したたかさと世渡り上手な所はあるような気がする>ノブオ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 11:33:22.04 ID:LMJBc8cA
関ヶ原や大坂の陣での動きを見てると、世渡り上手って気はしないけどなw

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 11:44:11.34 ID:i+KmlX03
自分が偉才であると信じているぼんくらさんよりは余程いい

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 12:44:20.74 ID:TNYTXYwF
それまんまのぶかっちゃんじゃねーの?w

528 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/09(月) 12:56:51.98 ID:KuIyAprL
>>525
関ヶ原では西軍について領地を没収されてるけど、それは表面上のことらしいね
晩年は以前の三倍近くの所領を貰って天寿を全うしてるし

三成側についたのは西軍の内情を家康に知らせるのが目的だったようだし
関ヶ原以降も豊臣家に仕えてたのは案外それが目的かも。
信雄は秀吉の国替え命令を拒否して殺されそうになったときに
家康に助命のとりなしをしてもらった恩があるから、ありえそうな話だと思う

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/09(月) 14:17:38.93 ID:DmxTEp0I
親父の家来の下につくよりは親父の同盟相手の下につく方が割り切れるだろうしね。

黒田長政の用意のいい話

2011年04月25日 00:01

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 17:01:02.34 ID:0YQ00Ylt
1637年、九州にて大規模な一揆が勃発します。そう、世に言う島原の乱であります。
苛政に苦しむ領民や有馬・小西・佐々・加藤といった改易された大名の浪人などを中心に組織化された一揆軍を
島原藩松倉家では押さえることができず、
幕府は板倉重昌を派遣しますが、1638年1月まさかの討ち死に。
幕府は知恵伊豆こと松平信綱が派遣されるという事態に追い込まれます。
そう言った事態を受けて、九州を領国とする諸将にも派兵命令が下ります。

北九州の雄藩として福岡を納める黒田家にもその命は下ります。
しかし、細川家や鍋島家、立花家などとは違い、戦歴豊富な先代が他界して久しい黒田家、現当主である忠之は
1602年生まれの36歳。
戦歴のある老臣を中心に出陣用意に奔走する黒田家ですが、どうやら黒田軍1万8000の盾の板が足りない。

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 17:05:09.20 ID:0YQ00Ylt
さて、どうするかと頭を抱えているところに、先代長政の信頼厚い能吏・小河内蔵允之直があることを思い出します。
「そう言えば、亡き先代がいざという時のために用意があると仰っていました。竹森清左衛門が詳しいことを
知っているはずだとも」
そう言うわけで、竹森を呼び詳しく尋ねたところ
「福岡より四里離れた山奥の寺に寺領三十石を与えて密かに蓄えさせております」
とのことなので、急いでその板を取りに人を遣わせました。
ちょうどその山の下に流れていた川が福岡城下に連なっていたので、盾板を川へ投げ込めば夜のうちに
残らず福岡城下に流れ着き、
黒田軍は無事盾板を持って島原へ着陣することができました。
関ヶ原から38年、大坂の陣から23年、そして、黒田長政が京都で逝去して15年も後のことでした。

以上「名将言行録」より、黒田長政の用意のいい話、でした。




150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 19:23:52.39 ID:OrbDoNVM
乙。

ただ、知恵伊豆派遣決定は板倉戦死の前なので誤解なきよう。

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 21:47:13.00 ID:0YQ00Ylt
>>150
ご指摘ありがとうございます
板倉戦死は1638年の正月で、その直後に着陣してますね、知恵伊豆

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 22:18:42.96 ID:dmuY4yXG
知恵伊豆派遣が決まって、焦った板倉が無理攻めして討ち死にみたいな話しがあったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 06:35:53.42 ID:iJRZ6mJx
>>152
板倉は最初から知恵伊豆到着までのつなぎだったけど、ちょうどいいタイミングで
討ち死にしちゃったから、功を焦って死んだことになったという逸話になっちゃった
という話もある

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 16:10:38.80 ID:GyuXnMJg
>>149
>盾板を川へ投げ込めば夜のうちに残らず福岡城下に流れ着き、

名将言行録はこういう都合のいい作り話を入れてくる創作だから嫌い

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/25(月) 17:15:14.55 ID:cMHDlFbE
歴史上の有名人の名を借りた童話集みたいなもんです

164 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/25(月) 20:57:57.01 ID:AaCKUuQr
いつも思うが「ちえいず」って言いにくいな。ほんとに言ってたのか。
実のところはチェイズとかチェーヅとか言ってたんじゃないのか。

福岡城の話

2011年04月25日 00:01

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 10:51:05.93 ID:EP2Dgz5h
時代が戦国から外れてるかもしれないけど…黒田長政の息子の話
オカ板「日本史における不思議な出来事、奇談。」から転載


668 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:23:13 ID:LBTA/qBP0
福岡城の話

黒田長政の子の忠之のころ、家臣に明石四郎左衛門というものがいて
忠之に気に入られていた。妻はお綱という名だったが
嫉妬心が強く主人の帰りが遅いとやきもちを妬き、荒れ狂うことが多かった。

そんな折、忠之が参勤交代のときに大坂で見初めた芸妓を
福岡につれて帰ったものの家老に諌められ、結局明石に下げ渡した。
明石も殿様の命とあっては断るには行かなかったので第二夫人とした。
そして明石は芸妓の美しさにのめり込んでいった。
そして、第二夫人が本宅にあがり、本妻のお綱が子供二人と下人とともに
下屋敷に移された。そして、本宅は毎日酒宴を挙げているにもかかわらず
仕送りも滞っていki
屋敷も荒れて下人もいなくなっていった。

ある年の端午の節句の日にせめて雛祭りはと残っていた下人を使わしたが
明石は「すでに絶縁」と取り合わず、下人は奥方を合わせる顔が無く、
また哀れに思い、そして主人に絶望し、首を吊った。



670 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:24:12 ID:LBTA/qBP0
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を殺して、
腰に子供の首を入れた風呂敷を巻き、夜の街を本宅に向かった。

しかし、明石は留守で城にいて第二夫人しかいなかったので
第二夫人に斬りかかったが、果たせず留守を預かっていた浪人の浅野というものに
斬られ、眉間と腕を斬られた。
それでも明石のいる城に向かって進んだが城の東御門のところで
門が閉まっていたため土塀に飛びついたところで絶命した。

明石はその一年後熱病で死に、浅野はある時、盗人の疑いをかけられて処刑された
その絶命した東御門はお綱門と呼ばれ、現在は無いが触ると熱病にうなされるうわさが絶えなかった
そしてお綱と子供を供養する祠が建てられた。

福岡城は廃藩置県後多くが取り壊されたが、お綱門は祟るのを恐れ供養した場所に移した。
しかし空襲によって焼失してしまった。

現在その地点には家庭裁判所が建つが昭和のある時
その裁判所で離婚の調停をしていた夫婦がいたが
急に夫が妻を殺害する事件がおきた。因縁めいた事件としかいいようがない




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 11:20:02.22 ID:bmJQVJP7
浅野さんとんだとばっちり

黒田さん三代と囲碁のお話

2010年10月03日 00:00

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 17:42:01 ID:cOpdHp0t
黒田さんちと囲碁のお話

黒田と囲碁といえば、文禄の役でのあの事件が…
と思ったら、まだ投稿されていなかったのでその話から。

文禄二年、黒田孝高は浅野長政と共に太閤秀吉の命を受け、渡海します。
戦線が不利になってきたので、その相談役としてやって来たのですが、
孝高さんてば知ってのとおり石田くんが大嫌い。
対面の約束をしていたのですが、孝高さんは浅野さんと囲碁に夢中になってしまうあまり、石田くんたちをまるっと無視。
石田くんはもちろん激怒して、太閤様にこれを報告します。
自棄になったのか孝高さん思わず無断帰国。もちろん太閤様大激怒。
焦った孝高さん念のため息子に遺書まで書いて切腹覚悟で剃髪して以後「如水」と名乗ります。
結局、息子長政の軍功やら周囲のとりなしで沙汰やみになったようですが。

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 17:42:46 ID:cOpdHp0t
時は流れて、長政に息子が生まれ、孝高もこの世を去った後のことです。
長政の嫡男は、幼名万徳、後の右衛門佐忠之その人であります。
さて、この右衛門佐が幼少のころ、長政は父親として教育熱心というか口うるさい人だったようで、
守役に事細かに申しつけをしています。

その中に次のようにあります。

一盤上之あそひ堅無用候。其外ハいか様もぬし次第あそバせ、心のちゝけぬ様可仕候。

つまり、長政は幼い息子に「盤上の遊び」つまり、囲碁や将棋といったものは絶対にさせてはならないと守役に申しつけているのです。
これが何を意味するのか詳しいところは想像するしかありませんが、如水の囲碁での失敗譚を思い浮かべずにいられないのは私だけではないはず……。

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 17:43:34 ID:cOpdHp0t
ところが、この忠之、その人柄は詳しく語りませんが、父親の遺訓を守らないことに定評のある人物です。
そう、彼はいつしか立派な囲碁狂いとなってしまったのです。
そんな忠之の囲碁相手に日蓮宗の日延上人という人がいました。
この人は加藤清正が朝鮮から連れ帰った王子の一人で、故あって忠之の帰依を得て長光山香正寺を開山します。
日延上人はこの香正寺から福岡城まで殿さまの囲碁相手をするために足げく通っていたのですが、
ある時大雨のために増水した川を渡ることができずに登城できなかったのです。
これを残念に思った忠之は福岡城と香正寺の間に流れる小川に橋をかけてあげました。
その橋は「上人橋」と呼ばれ戦前まで残っていたそうです。

なんか最後はいい話っぽく終わってしまいましたが、黒田家三代と囲碁のお話でした。




414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 18:38:01 ID:dMW5vQU9
大雨で増水してる時にまで呼ぼうとしてると考えると悪い話だな

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 23:08:44 ID:W5jHfc3P
そんなに小川は堀の役目としてなかったのかな。
それなら初めっから橋がかかってそうなのだがw

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/02(土) 23:27:44 ID:DE/0cUzv
忠之はこんな話ばっかだなw