fc2ブログ

「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

2023年02月21日 19:09

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/20(月) 20:17:28.56 ID:XEaRtdGo
武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。



スポンサーサイト



小河内蔵允の出世

2022年11月19日 19:12

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/18(金) 20:38:56.88 ID:NfUjnO14
黒田藩草創期について老僧が語るという体裁の「古郷物語」から黒田藩家老の一人・小河内蔵允(小河之直)の出世

聞き手:小河内蔵允という人は国中の仕置きを一人でなさったそうですが、さぞ知慮分別に優れ、武勇もあったのでしょう。
老僧:内蔵允はもともと吉田善兵衛というものが「生計が立たないので草履取りにでも召し使ってください」と黒田長政公に差し出した喜助という者です。
当時、いかにもうつけのようで利発なところがなかったため小姓・傍輩からいじめられていました。
しかし根気が常人より強く、昼夜主人のそばを離れず、居眠りもせず、居ずまいも崩さず、寒いそぶりも暑いそぶりも見せませんでした。
老いても足袋をはかず、蚊が飛んできても手で優しく払うだけだったそうです。
ほかの小姓がいなくても喜助はそばにいるので、自然と長政公は喜助に用を言いつけるようになり、十四、五の頃には出世頭となりました。
そこで長政公は朝鮮にも召し連れ、武功を挙げたならばそれを理由に出世させようと思われたのですが、不運なことに喜助が行くところとは別のところに敵が現れ続けたため、一度も武功を上げることがありませんでした。
とはいえ臆病があったわけではないため、男子なくして当主が死んだ小河家に婿養子として入り、五千石をとることとなりました。
ふつう出世するとおごるものですが、内蔵允については小姓の時の心持ちを変えなかったため、憎むものはいませんでした。
関ヶ原にも参陣したのですが、これまた運悪く武功を挙げられませんでした。
長政公、筑前国拝領の時に八千石に加増し、国中・家中の仕置きを一手に任せました。
元来おごりというものを知らず、暗い内から訴えを聴き、百姓町人であっても門より直に通し、雨の時は裸足で縁側に行き、下々の訴えを聴きました。
上の判断が必要な時には年寄衆と話し合った上で長政公に尋ね、のちのち独断で問題となることもなかったため、年寄衆も「他家には内蔵允ほど慈悲正直が天理に叶っている出世人はいないだろう」とよろこびました。
こうして筑前入国五年目には二千石加増され、一万石取りとなったのです。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1801.html
小河内蔵允、主君黒田長政に・いい話

また、↑のような話もあり、猛々しい長政公でさえ内蔵允の柔和の前では取って回されてしまうと、皆不思議がっておりました。



479 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 09:37:49.54 ID:c1b3DFvx
父は小寺・黒田とも血縁のある英保常久、母は小河信章の姉で、父が亡くなり流浪の後、母は黒田二十四騎・桐山信行と再婚(後妻)する。
母に従い桐山家に世話になった後、叔父の婿養子となる(生前からか末期養子かはちょっと不明)。黒田騒動では藩主忠之を補佐。


小河之直の経歴は実際のところこんな感じらしいのですが、古郷物語が編纂されるまでに黒田家中はどうなってたんでしょうね?

480 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/19(土) 20:38:42.75 ID:rRD8bnz+
筆頭家老格の人物が実は下民の出だったってのは、格式固まって以降だといろいろ言われそうなんだが
実際の血筋が毛並みもいい人なのにこんな書きかたされるというのは、もしかして誰も文句言わないようなお家断絶だったの?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/19(土) 23:12:48.94 ID:47ZLOosC
以前紹介した「小河内蔵之丞噺覚書写」についての本によれば九州大学所蔵の「小河内蔵允殿咄覚書写」の家譜には
「天下へ御敵申したる者の子に候間、成程喃々に仕、いにしへ家頼の子の由育置十歳余り迄丹波所へ居申」
とあるので、小河之直の父の英保常久が播磨攻めの時に秀吉軍に抵抗したことが「古郷物語」の記述に関係しているのでは、としていた。
また吉田重成関連で以前出てきた「吉田家伝録」にも吉田知年の妻は小河内蔵允の娘というので小河内蔵允の出自についても書かれていて
阿保(英保)常久は天正の頃に羽柴秀吉によって追い出され、伊予国で没去した、と同様のことが書かれているので出自については世間に広まってなかったのかもしれない。
古郷物語」の筆者はとりあえず吉田家と姻戚にあるからと吉田姓ということにしたのではないかと。

二、三十人でさせるような仕置きを

2022年08月31日 18:55

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/31(水) 13:47:28.43 ID:9t7KSC9U
小河内蔵丞(小河之直)は栗山大膳らとともに黒田忠之の家老として精勤に励んだ人物であるが、その若い頃の話

内蔵丞がまだ喜助と言っていた十六の時、領内の百姓の馬を牛が突き殺してしまった。
馬主は「牛主に弁償させるべきです」
牛主は「牛主が不在の間に牛がしたことです。畜生のしたことですので牛主の責任ではありません」
と互いに水掛論となり、公事となったが決着しなかったためとうとう黒田長政の耳にまで達した
長政は「どっちももっともであるので、馬が百匁の値であるなら半値の五十匁だけ牛主が弁償してはどうだ?」
と裁定されたので、両者とも不満に思ったものの渋々帰っていった。
これを聞いていた喜助は朋輩衆に対して「このたびの判決は理非をわきまえぬ判決である」と言った。
朋輩衆「歴々の方がなされた判断であるのに何を言うか?」
喜助「牛主や馬主が牛や馬を繋いでいた間に起きた、とあるが繋いだ時間に前後があるはずである。
牛は相手に向かって突くのが習性なので、後で繋いだ飼い主に責任があると言えよう」
これを聞いた朋輩衆は手を打って讃嘆し、これが評判となり長政の耳に達した。
そこで改めて馬主、牛主を召喚すると、先に馬主が繋ぎ、後で牛主が繋いだことが判明した。
こうして牛主は全額百匁を馬主に払うこととなり、馬主は当然喜んだ。
牛主は最初の判決より五十匁多く払うことになったものの、今度は理屈が通っていたため、納得して帰ることとなった。
こうして長政は喜助を「常の人物ではない」と認め、十七の頃から評定衆に入れ、そののち小河伝右衛門の養子として名を内蔵丞と改めさせた。
長政のから忠之の代まで、今であれば二、三十人でさせるような仕置きを内蔵丞一人に任せたが、上からも下からも一言も苦情が出なかった

出典:竹下稔著・福田泰隆校訂「福岡藩初期家老 小河内蔵丞之直「小河内蔵之丞噺覚書写全」を読む」



今、そのような事をするのは無用である

2022年08月03日 18:28

558 名前:sage[] 投稿日:2022/08/03(水) 16:02:14.92 ID:1Htktg65
黒田筑前守長政が、常々人に語られていたことによると。

「私は十四歳の松千代と言っていた頃から、手を下した手柄は度々に及んでいたが、父・如水に
高名があった故に、人はこれを賞美しなかった。

浅野幸長については、天下の上下が勇者と誉める。これはその父である弾正(浅野長政)が、
分別才覚は優れていても、さほど武辺が無い故である。」
と申された

また、小瀬甫庵が太閤記(甫庵太閤記)を作る時、諸家より書付けを遣わして、その家々の武名を
書き入れるべし、とあった。この時黒田家の老臣たちもこれを聞き伝え、

「御祖父以来の御武功、現在、天下に隠れ無しと雖も、後世に至っては埋もれてしまうことも
計り難いものです。幸いにこれらの事を小瀬甫庵に話して、足利義昭公、信長公、秀吉公より
賜った数多の御感状、その他異国本朝にて隠れなき御武功を、書物に著し給われるべきです。」

と申し上げたのだが、長政は更に承認しなかった。

「凡そ将士が武功を立てるのは主君の為であり、私の名を求めるためではない。
殊更太平の世となっては、武を隠すのが本意である、と聞いている。
今、そのような事をするのは無用である。」

そう言って、遂に甫庵に書付けを渡さなかった。それ故に、かの太閤記において黒田家の武功が
多く漏れていたのだという。

新東鑑



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 16:27:19.19 ID:Sg3FcvIH
こんな上司はイヤだな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/03(水) 17:01:10.29 ID:YqfozYQV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2893.html
小瀬甫庵、取材する

こっちでは立花宗茂とセットで出ていた

この香は破れ笠

2022年06月18日 16:11

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/17(金) 19:06:51.60 ID:lpnKPrs/
福岡・博多の地誌「石城志」から組香(香の聞き分け)の名人の話
(享保の頃に書かれた鶴田七右衛門「博多記」出典という)

綱輪町に沈香屋宗有というものがいた。
香をきくこと、世に名人と称されていた。
ある時、黒田長政公が彼を召して香を聞かせなさった。
宗有は「これは肥後殿が貯えなさっている「破れ笠」と号する名香でしょう」と判じた。
長政公は驚き、どうしてその香を知っているのかと問いなさった。
宗有が答えて言うには、
「三十年以前、伏見で女が焼いている香を聞いたところ、名香であったため、出所を尋ねたのです。
すると肥後殿近習の士からもらった破れ笠という香と申しておりました。
この香は破れ笠に相違ありません」
と申したそうだ。



遠州と黒田長政

2022年05月24日 16:47

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/23(月) 21:21:46.50 ID:pFEDWaRQ
槐記享保十二年五月十八日の記事より 遠州と黒田長政

この頃岡崎が話した二、三の話の中に。
「故筑前守(黒田長政)は古遠州の門人でとりわけ茶道に熱心であったが、ある時江戸で筑前守が遠州に、『利休、織部といえども、時にはこれは嫌な物数寄だ、どういう訳でこんなことをされるのだと思うことがありましたが、遠州のなされることは一つとして嫌らしいことはなく、いちいちその訳が合点出来ます。お上手と申し上げるも愚かです』と申し上げた。
遠州、『それは貴殿の茶の湯にまだ至らぬところがあるからそう思われるのです』と答えた。ただ『はい』と答えて筑前守は下がられたが、合点がゆかなかったので、出入りの町人を通してそれとなく真意を問われたけれども、何も答えを得られなかった。
ほどなくお暇下されて遠州は伏見へ帰られることになったが、筑前守が『私もおっつけお暇下されるでしょう。帰る途中伏見によりますからお茶をいただきたいものです』と申し上げると、『いかにも進上いたしましょう』と約束して遠州は京に帰った。
いくばくも無く『明日伏見を通りますので、お茶をいただくことはできますか』と申しよこすと、『何はさておき差し上げましょう』と遠州は約束されたが、その日は東福門院のご用で上京されるところだったので、家来の何某に『明日は筑前守がいらっしゃるから、庭の掃除をはじめ、かくかくしかじかの準備をしておくように』と言いつけて上京された。
夜を徹して帰ってから一度庭を見回って大いに気に入ったが、囲居に入ると大いに不機嫌になって、筑前守に使者を立てて、『明日の茶は囲居で差し上げることが出来なくなりましたので、書院にて差し上げましょう。羽織にてお出で下さい。私もそういたしますから』と言ってよこした。筑前守は意外に思ったが羽織で参ると、遠州も羽織で出迎え、玄関より書院に通し、料理も型のごとく、濃茶も出された。
すべて終わって、筑前守が『本日はどういう訳で囲居ではなかったのでしょうか』と問われると、『そのことです。昨日はご用を仰せつかって上京したために、留守の者に今日の準備を申し付けておいたのですが、囲居の畳替えをはじめとして窓竹まで真新しいものに交換してしまいました。そのために囲居でお茶を進上しなかったのです』
『それはどういうことですか』『いや、そこです。いつぞや私めは利休や織部たちには及ばないと申し上げたことをご合点下さい。貴殿は江戸でほうぼうの結構な囲居での茶会にはご出席し尽されていますから、私のところでは虫喰い竹に古畳でお茶を進ぜようと思っていたのに、案に相違して囲居でお茶を進上できなかった点こそ、利休織部の両名に私が及ばぬところなのです』と申された」と岡崎が語った。(家煕様は)一段ともっともなことだと仰った。



宇都宮( 城井鎮房)釣り天井事件についての伝承の孫引き

2022年03月29日 17:12

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/29(火) 13:54:38.43 ID:FlGFlp8J
鹿塩石人「宇都宮釣天井漫記」の宇都宮釣り天井事件についての伝承の孫引き

鎮房が御客の座にチイーチかる。
お酒やる、御馳走が出チー、大分酔いがまわっちかる。
突然天井が墜ちて来たゲナ。仕掛ちやる綱が切れたんで、押し潰されるかつ思ふたら、ごうな力ン強い男ぢゃったき、そりユ両方の手で受けた。
そうすると隣リン室に居った松田小吉チウ豪傑ーー今ゼン村に居る松田勇吉やんの先祖ジ御座りやする。
その小吉が飛込んぢ入っち、鎮房ン身を護り近づくもんヌ十八人も切りまくった。
黒田の奴む、これにゃ困ってどうすることも出来ンかる、仕様ぐネーかる、床ドンに廻っち、短クエ柄ン槍ぜ、下ン方かるつき上ち、刺したもんぢゃき、とーとー殿様む、力がつきて天井ン下になっち死んぢしもうた。

以上、上城井村寒田出身の中野氏が語った伝承だそうな

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3689.html
黒田長政の愛刀もなかなか
この713の語ってる伝説と同一だと思われる。
鎮房信仰が高まるにつれて、その場に居合わせた小姓の松田小吉(左馬介)についても活躍の伝承が生まれていったらしい

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/29(火) 14:02:15.41 ID:w0D03uOM
宇都宮釣り天井事件じゃなくて
城井(宇都宮)鎮房謀殺事件じゃないか
というお叱りがあるこもしれないけど、そこは一足早いエイプリルフールということで


「朝野雑載」より林田内膳(左門)と女幽霊

2022年03月24日 19:05

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/24(木) 18:15:19.00 ID:Uytfi1gh
「朝野雑載」より林田内膳(左門)と女幽霊

林田内膳は富田清現(勢源)の弟子であり、黒田長政の剣術の師範であった。
(以下今まで出た林田左門関連)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8750.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9402.html
しかし長政公に不足を感じ、福岡を立ち退き、細川家を頼って関東に赴こうとしたのが発覚し、激怒した長政により誅殺されることとなった。
そこで怪力の大男(ともに六尺三寸)後藤金右衛門、林仁左衛門の両人に左門をからめとるよう言い渡した。
両人は左門が自室に入ったところに押し入り、外から錠をおろさせ、左門と格闘したが、後藤・林が先に精魂尽き果ててしまった。
左門は「ここでこの二人を殺したところで、自分は外の者たちに捕まるのだから、無益な殺生をするだけだ」と思い正座し、両人に絡め取らせた。
そのとき左門は「ふだんこのような時のために懐中に大楊枝を忍ばせていたのだが、今日は見つからない。
もしあれば両人の命はなかっただろう」と言った。
その後、服を着替える時、どこからかその大楊枝が落ちたということだ。
こうして左門は宝満山の麓で籠居の身となり、外から槍で突き殺されたという。
死ぬ時の様子は不明だが、おそらく天下に名高い兵術の名人のため、世間の評判をはばかって密々に殺したのだろう。
元和六七年の頃であろう。

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/24(木) 18:18:51.63 ID:Uytfi1gh
さて、左門が誅殺される少し前、長政のお供で江戸から伏見に参着した。
左門は京で用事があったため、伏見にいた親しい友を呼びよせ、饗応し泊まらせた。
丑の刻に障子を開ける者がいたため、友が目覚めて見てみると、十六くらいの美女が左門が寝ている姿をしばらく見つめ、また障子を閉めて帰っていった。
友「左門は一生不犯の誓いを立ててると言っていたのに、歳をとると未練が出てきたとみえる。
邪魔をしては悪いからさっさと帰ろう」
と思い、翌朝、左門にすぐ帰ると告げた。
左門「なぜそう帰るのを急がれるのだ?今夜も泊まったらいいだろう」
友は不審に思いながらも昨夜のことを伝え、今夜はその女と楽しんだらよかろうと言ったところ、
左門は笑って「一生不犯の誓いはまだ守っておる。
あの幽霊は近ごろ深夜になると必ず出るのだ。おそらく我が身がほろぶ前兆であろう。
実は昔、武者修行をしていたおり、ある里にしばらくとどまっていたところ、そこの家の娘で美人で気立の良いものがおった。
わしの男ぶりに執着し、床に入ってきおった。
一生不犯の誓いを立てておるのだ、と言って優しく追い返したのだがわずらわしいため、朝になるとこっそり里を出た。
そうすると昼になって女が追いついてきて、泣きながら袖に縋りついてきた。
そこでわしは言った。
「仕方あるまい、今夜だけそなたのために誓いを破ろう。そなたもそれで満足をしてくれ」
女は道理をわきまえたようで
「仰せの通り、武者修行の先々に参るわけにもいきません。
今宵、どこかで一泊し、わたくしの胸のくもりを晴らしてくだされば、明日必ず里に帰ります」
そして二人で近くの里にむけて歩いたのだが、そっと女を先に行かせて、後ろから抜き打ちに斬り殺したというわけだ。
それ以来その女の顔が常に頭から離れぬ」
この話は、左門が特に親しい友にだけ語っていたという。

筆者(貝原益軒)「左門も、伏見ですでに身の滅びる予兆があったのであれば、身を慎めば命を長らえたであろうに。
それにしてもその女幽霊だが、左門に殺されていながらもなお、左門の運命があやういことを知らせるとは、なんとやさしい心がけではないか」



416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/24(木) 18:51:48.81 ID:79rqJTsI
メンヘラっぽい女性切ったらさすがに後味悪かったのかずっと脳裏にこびりついたと
大楊枝ってのはどのくらいの大きさの楊枝だったんだろか

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/24(木) 22:44:06.44 ID:jriH98ln
木枯し紋次郎のくらいかも

下野九兵衛の最期

2022年02月06日 15:18

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/05(土) 23:07:33.73 ID:kxU3JDkp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1861.html
黒田長政と家臣たちの異見・いい話


黒田長政の「腹立たずの会」のきっかけとなった下野九兵衛の最期を
「福岡藩 吉田家伝録」から

大坂の陣の際、長政君は大阪屋敷に下野九兵衛というものを置き、筑前から大坂へ上る米穀の管理を任せていた。
九兵衛は内々に秀頼卿に通じ、ひそかに蔵を開いて多くの米穀を大坂城に入れていた。
秀頼卿は大いに悦び九兵衛に金子と感謝の書状を渡していた。
大坂城没落ののち、長政君が米穀の勘定を九兵衛に命じたところ、露見は免れないと思い九兵衛は妻子とともに逐電した。
なお孝高君(如水)・長政君ともに秀吉公に忠義を尽くしたことは世に知られていたため、九兵衛の独断ではないだろうと言う人もあったとか。
長政君は深く憂え、吉田重成に九兵衛の捕縛を命じた。
重成は瘧を病み、まだ癒えていなかったが長政君の許可を得て無紋の帆を上げた船を出し、家臣三人とともに福岡を立った。
こうして酒樽や魚籠の商人の扮装で兵庫を探索していると下野九兵衛が長く使っていた下人がいたため村山理兵衛が尾行し、山上の小さな寺に入ったのを確認した。
病が小康に入った重成は大いに喜び、寺に行き様子を伺うと、九兵衛は臥して謡をうたっていた。
重成は直ちに庭の戸を開け入ると九兵衛は確認するや刀を取り
「吾子(ごし)尋ね来たるべしと兼ねて思いもうけたり」と刀を抜いて立ち向かってきた。
重成も刀を抜き、家臣三人も棒や刀で取り囲んだ。
九兵衛は重成に斬りかかってきたが重成も刀で受け、理兵衛は九兵衛の右腕を掴み、後の二人も前後から抑えて縄をかけた。
九兵衛の家人三人も裏から出てきて脇差を抜いて斬りかかってきたが、重成と家臣たちが立ち向かうと逃げていった。
こうして九兵衛、その妻、幼い娘、下女二人をからめとり船に乗せて筑前に帰還した。
長政君は大いに悦び、九兵衛を怡土郡高祖村に籠居させ、門番に堅く守らせ、駿府にことを告げた後、誅伐なさったという。



白餅と黒餅

2021年12月17日 18:29

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 18:26:41.74 ID:7+jAGShj
白餅と黒餅

秀吉は信長に抜擢され足軽を預かるようになると衣服の紋に「白餅」を用いはじめた。
信長がわけを聞くと「城持ち、になりたいためでございます」と答えたが
自分でさえまだ尾張一国なのに、と信長は不機嫌になった。
数日後、秀吉の紋は「黒餅」に変わっていた。
信長は「石(こく)持ち」という謎だな、と上機嫌になり秀吉にすぐ十石加増した。

歴史作家の澤田ふじ子氏によれば、江戸初期の「適斎随筆」に書かれている逸話だそうだが「適斎随筆」の詳細は不明

ついでにネットで検索したら

藤堂高虎が黒餅を旗印にしていたところ
仲の悪い黒田長政に「俺のとことかぶってややこしい!」
と言われたため
藤堂高虎「なら黒餅(石持ち)より白餅(城持ち)の方がいいから白餅に変えてやろう」
と白餅に変えたという、講談「出世の白餅」の餅屋ががっかりするような出典不明の話もあった。



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:37:36.93 ID:UUw8tWgt
白餅はわかるけど黒餅って何なんだ?
餅が黒かったらカビてるだろ

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:07:26.60 ID:yDRGO4iN
単純に、円形の事を同じ丸い形から餅と言い表しただけの話。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:57:51.50 ID:pn8mPHv+
白餅黒餅というのが赤福にあった。当時と同じかは知らん。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 23:09:07.02 ID:CFbom2Iz
白い餅は餅ではないと公孫龍があの世から

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 00:13:14.27 ID:ANtCCoBN
キングダム読者「趙の将軍かな?」

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 04:40:33.74 ID:U7XXEJRe
そもそも丸い紋であるところの餅紋を白抜きしたか黒塗りしたかの違いでしかないからな

残金は後でやるぞ

2021年11月07日 16:13

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/07(日) 00:09:16.84 ID:gNLIs54R
博多細伝実録」という黒田騒動や福岡藩内の怪奇現象など、おもに江戸前期から中期の話が載っている本から
千利休の切腹後くらいに、黒田長政が博多の街を馬で移動していると、
長政の姿を認めているにもかかわらず、両足を通りに突き出して仰向けになっている町人がいた。
長政が馬上から小姓に「あの町人めの足は売り物か聞いてまいれ」
と言ったため、小姓が町人に聞くと
町人「ああ売り物さ、値段だと?そうだな、片足百両、両足で二百両で売ってやるよ」と答えた。
長政は懐中から金三両を出し、
「あいにく今はこれだけしかないから手付金にして、残金は後でやるぞ」
と町人の両足を忽ち切ってしまった。
残金で町人が死んだ後の法事をさせたということだ。



【雑談】家康を潰して黒田が天下を取っていたら

2021年04月04日 17:11

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 22:26:04.16 ID:r5meznFq
来月はこどもの日だなぁとカレンダー見つつ思ったんだが
黒田親子の関ヶ原の左手エピソードが仮に実現したとして、家康を潰して黒田が天下を取っていたら
今ごろ人形店の五月人形コーナーには長政の一ノ谷兜が並び、男の子がいるご家庭では如水の赤合子兜が
飾られるようになっていたんだろうか

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 22:30:06.46 ID:QGTUKS1E
後藤又兵衛「させぬぞ」

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 23:00:32.25 ID:bOLIpJL6
福島正則「返してもらおうか」

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/03(土) 10:57:59.62 ID:7ysYaPU8
母里友信「日本号も頂きますね。」

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/03(土) 11:29:54.08 ID:UYfM+Z2R
この前五月人形見る機会があったけどたまたまあった黒田長政は水牛兜だったな

加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



これは正利が天性勇猛で物に動じることが無かったため

2020年01月17日 15:08

菅正利   
533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:47:44.41 ID:goDK3ZeI
寛永六年、菅正利五十九歳、六月の初めより傷暑を病み、二十九日、家にて没した。博多聖福寺の内、
順心院に葬られた。

正利は天性、勇猛人に超えていた事は今まで記していたため、更に記するには及ばないが、
黒田長政公は豊前、筑前に於いて罪過有ることで誅殺される者がある時は、諸士に命じて見逢いに
斬り殺させた。長政公の側近くに呼ばれ、その事を命じられた時、命を聞き終わって退出する姿を
次の間に在る諸士は、その様子を見て、彼が仕者を命ぜられたのだと察したという。
ところが正利の時のみ、人々はそれを察することが出来なかった。これは正利が天性勇猛で、
物に動じることが無かったためである。

また正利は新免無二助(宮本武蔵の父・新免無二の事か)に剣術を習い、その後疋田豊五郎(景兼)にも
学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていた。
長政公が筑前に入国された後、何国の者であったか、剣術の名人であると言って、長政公に仕えることを
求めて来た者があった。この時長政公は正利に命じ、福岡城の本丸に於いて木刀にて仕合をさせられた所、
三度打って三度共に正利が勝ち、剣術者は恥ずかしく思ったのか、いつともなく逐電したという。

正利は身の丈六尺二寸(約190センチ)有り、力も群を抜いていていた。天性勇猛なだけでなく、仁愛の心深く
忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。

(菅氏世譜)

かなり有名な兵法家に教えを受けていた菅正利さん。



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:54:03.34 ID:YRUINvko
平均身長155も無いのに190の怪力手練が殺意を持って殺到してくる恐怖

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 16:16:52.85 ID:MxJGeR6p
江戸時代に急激に縮んだのさ、知らんけど

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 02:56:27.71 ID:Ssi+Cz09
>>533
さすがSAKONを打ち取っただけありますね

百道松原

2020年01月16日 17:44

菅正利   
530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 02:28:32.15 ID:bRzsaQCE
元和四年正月二十五日、黒田長政公は命を下され、福岡の城下、荒戸西の町外れより早良川の遠干潟までの
間広き砂原があり、無用の地であれば松を植えて松原にすべしとて、その事を計り実行させた。
この事業について菅正利が惣司となり、宮崎織部、手塚久左衛門も正利に加えてその事を成さしめた。

博多、福岡、姪浜の町中に命じて、家一軒に付き高さ四、五尺程の松一本を提出させ、これを植えた。
年を経て徐々に成長し、十年後には広い松原となった。その後いよいよ成長し、後には、古より事ふりたる
生の松原にも勝り、名にし負う箱崎の千代松原に等しき地となった。

(菅氏世譜)

福岡の百道松原造成のお話。なおこの松原は戦後切り開かれ宅地として造成された。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 21:54:17.07 ID:rEEY05pW
松根油にされて特攻に行ったんだな。この松の木も、

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 23:49:01.34 ID:B84WcHgd
>>531
ネタだと思うけれど松根油なんて使われてないぞ~~

ただ士の成しおくべき物は武功である

2020年01月14日 17:16

菅正利   
516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 12:14:17.26 ID:2Ea+Petg
慶長二年、豊臣秀吉公は重ねて兵を遣わし朝鮮を征し給った。菅正利(三十一歳)も又、黒田長政公の供をして
先手を勤めた。

秋の頃、大明の大軍が忠清道の内、禝山に在ることが聞こえたため、これを討たんとして九月七日、長政公は
毛利秀元と共にその勢三万余騎にて馳せ向かわれた。長政公は先手であった。
その後、長政公の勢は大明の大将・解生、楊登山、牛伯英、等と戦い、大勢を追い崩した。しかしこの時、
千総、李益、喬把、劉遇節などと云う者たちが大軍を率い、黒煙を立てて救援に来た。
解生はこれに力を得て取って返し戦った。長政公の諸勢もまた勇み進んで攻め戦うと、大明勢の勢いも一時に屈し、
さっと引き取って息をついでいた。

ここに、大明勢の大将と見える者が、西の山の高い場所に兵が多く集まって在るのを長政公が見られ、
「あれこそ大明の陣である!自余の敵どもを多く討つより大将を討ち取るべし!続けや兵ども!」と下知して
旗本をそこに定め置き、井上九郎右衛門(之房)、栗山四郎右衛門(利安)を残して敵が来た場合の防ぎに
備え、自らは手勢の内で一騎当千と思われた人々を選んで召し、供をさせた。その人々は、黒田三左衛門、
後藤又兵衛、野村市右衛門、菅六之助(正利)、林太郎右衛門、堀久七、野口藤九郎、益田与助、等であった。

長政公は彼らを引き連れ真っ先に進まれたため、菅正利を初めとして後に続く兵たちは、我劣らじと敵陣へ
駆け入り、即時に敵の大勢を切り崩して二里ばかり追討ちした。この時、敵勢の中より一騎踏み留まり、
弓馬の達者と見えて、馬を留めて寄り来る者共を射ると、あだ矢は一つも無かった。彼に向かっていった
者は、或いは射殺され、或いは深手を負ったため、味方に手負い、死人多く出た。このようであったので
我討ち取らんと進む者も無く、長政公はこの様子を見て「正利は近くに居らぬか!?」り尋ねられた。

菅正利は丁度敵を討って、首級を大将に御目にかけんと持って帰っていた所であった。
急いで進み出ると長政公は正利に向けて
「汝、行き向かい、あの敵を討ち取れ。」と命ぜられた。

正利は命に従い速やかに馬に打ち乗り馳せ向かった。かの敵は正利が向かってくるのを見て弓を引き堅め
射った矢は正利の右の耳を射切ったが、深手では無かったため事ともせず、二の矢を継がせないと逸足を
出して駆け付け、乗り違えざまに一太刀切ると、刀能く切れ首脇より乳の下にかけて切り落とし、首を取って
馳帰り、長政公の実検に備えると、「武運強き者には矢もたたぬものなのだな。」と雑談され、その武勇を
殊の外感じられた。

ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、先に受けた矢の射切られた所が、当初は何とも
無かったのだが、次第に毒気が皮膚の内に深く入ったのか、後には右の耳の色赤くなり、常に膿、血が出て止まらず、
これ故に顔色もすべて恐ろしく厳しいものとなった。後には小児が泣く時に、正利の名を言って脅すと泣き止む、
などと言われた。かのもろこしの張遼が、小児が泣くのを止めたという故事もかくやと思い知らされる。

さて、このように菅正利は顔より常に膿汁が出て見苦しいものであったが、黒田如水公、長政公は少しもきたなく
思われず、正利が飲んだ盃を取って呑み、濃茶の跡をも召し上がられ、年若き家臣共に常に正利の武勇を語り
聞かせられ、「きたなくとも、あれにあやかれ。」と宣われた。

正利はこれを有難きことに思い、常に子供に対してこのように語り聞かせた。
「私の勇功によらなければどうしてこのように忝き御意に預かれるだろうか。ただ士の成しおくべき物は
武功である。」

(菅氏世譜)

大谷吉継の逸話みたいな話が、菅正利にもあるのですね。



517 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/14(火) 12:43:44.90 ID:a0wdp0Jx
附子の毒とは武士にあるまじき行為、無粋な奴らよ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 13:37:20.44 ID:oH277gGr
膿と茶の話はもともとは利休だっけ?紹鴎だっけ?の弟子の話が元ネタだっけ

毒矢に関しては国によって戦い方が違うだけだからなんとも
日本も矢じりわざとゆるくとりつけて射られた敵の傷口に残るようにして苦しめてた、みたいな話もあるし

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 14:41:41.91 ID:qiXWHE6+
>>518
利休のやつは三成の三献茶の元ネタじゃ無かったかな?
吉継の茶の話はたしか未だに出典不明のはず。真面目にこれが元ネタじゃ
無いだろうか。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:14:10.14 ID:+ig0gkR5
矢じりをゆるくつけると
二重の極み理論で貫通力がUPするらしい
https://i.imgur.com/gEfaFxQ.jpg
gEfaFxQ.jpg

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:18:34.48 ID:bO8Xz5cn
>>516
>ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、

一休さん「附子茶(゚д゚)ウマー」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:42:24.02 ID:dUCx40Wo
まとめの1963
「武田のゆる鏃」と家康・悪い話

まとめな5892
鏃の詰め方

武田の緩い鏃は非人道的だと家康激怒

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 00:15:15.78 ID:riOsz2RF
>>520
三献茶とごっちゃになってました、ご指摘ありがとうございます

にしてもほんとにこの手のお話は有名武将に話入れ替えられるのが多いですなー
江戸時代辺りに話から武将だけ入れ替えるって手法が多かったんですかね

525 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/15(水) 07:36:38.09 ID:A9SObay3
>>518
>>517は本気で異国の戦法を云々ではなく、ちょっと韻を踏んで頂けたら…

『斃秦』

2020年01月13日 16:31

菅正利   
507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 13:49:21.83 ID:FG5Q7KtQ
文禄三年、朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、和議が既に調ったため無用であるとして、
悉く日本へ帰国したが、黒田長政公は機張の城を守って居られたので未だ帰国されなかった。
しかし大明との和議が調った後であり、敵も皆退散したため合戦も無く、いたずらに異国に逗留し、
つれづれの余りに、時々勇士共を引き連れ山に入り虎狩りをされた。

二月十三日、長政公はまた山に入って虎を狩られた。この時長政公、鉄砲に寄って駆け来る虎を間近く寄って
撃ち殺された。その後、猛き虎が一つ駆けてくるのを、長政公がまた鉄砲を構えられた所に、虎は脇に人が
いるのを見つけると、長政公の方へは行かず、菅正利与力の足軽が並び居る所に駆けてきて、一人の肩を咥え
後ろに投げ、一人をその腕を喰らって倒した。これを見る者で恐怖しないという者は居なかった。

この時菅正利は朱塗りの鎧を着ていたため、人多き中にも著しく見えたのだろう、虎は正利をめがけて懸ってきた。
しかし正利(当時二十八歳)はこれを見ても少しも騒がず、刀を抜いて進み、駆け寄る虎を一刀、斬った。
刀能く切れ、虎は一声吼えて即時に倒れようとした所を、また一刀斬って首を打ち落とした。
この時正利の稀代の勇と、その刀の利が無ければ、虎口の害を免れ得なかったであろう。

この刀は備前吉次の作にて長さ二尺三寸一分あり、現在でも相伝わり菅の家にある。
その後、大徳寺の僧・春屋にこの刀の銘を乞うた所、『斃秦』と名付け、今その刀の中子にその刻がある。
秦は虎狼の国と言われるため、「虎を斃す」という心なのだという。

また後に林道春に銘と名を乞うた所、普の周処が南山の虎を斬ったという故事を取り、その刀を『南山』と名付け、
その事を記し銘を書いて与えた。

誠に世には、自分と変わらない敵に向かってさえ恐れて進み得ず逃げ去る者も多く、いわんや怒れる虎は
その猛き事類なく、古よりの口ずさみにも、恐ろしいことを言うのに先ず虎をこそその第一とする。
これに向かい勇み懸って、あまつさえ短刀にてこれを斬り殺すこと、類なき武勇ではないか。
もろこしと言えどもそのためし少なく、いわんや日本には前代にも既に無く、後世にも有りがたるべし。

(菅氏世譜)

虎も斃したら首を打ち落としていたのか。



508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 14:40:18.90 ID:dXipE+7V
周処は曹休を罠に嵌めて石亭の戦いで破ったので有名な呉の周魴の息子だから普じゃなくて晋
(周処の墓からアルミニウムが見つかった!と大騒ぎされたが
発掘の途中で紛れ込んだだけ、という話もあった)

三国志演義といえば菅正利の中国語wiki
https://zh.m.wikipedia.org/wiki/菅正利
戦争で顔に傷を負ってなく子を黙らせるのに使われたことから
「日本之張遼」扱いされちゃってる
張遼の息子は虎なのに

509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/13(月) 16:21:17.88 ID:PjOK7w71
日本や中国も昔は人攫い(を妖怪に喩えたりして)が来るぞって言って泣く子を泣き止ませたとか聞いたことあるけど、謙信または越後軍が来るぞっつったら同義になったんだろうか?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 17:40:39.44 ID:5XRBh6Zd
2箇所に銘を頼んでるのが合見積みたいだ
南山より斃秦のほうがオリジナリティあるな

「旌をあおむけたら、たちまちに突き殺す!」

2019年11月17日 17:13

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 18:30:25.39 ID:lNqogFGN
関ヶ原の役で黒田長政はその臣・毛屋主水(武久。黒田家の旗奉行)に旌旗を預けられた。

主水は高き丘を越えて少し低い所に旌旗を立てた。長政はこれを見て「高みに引き立てて立て
るべし」と下知された。

これに主水は「麓へ押し下ろして立てた旗を後へ引いて高みに立てては、味方は負け色になり
敵から敗軍と見えます。しかれば敵方の勇みなりましょう」と、ついに旗を立て直さなかった。

長政の合渡の川越えの折、主水は水際に臨んで旗を押し立て敵と間近くなった時、どうしたこ
とか馬印・旌旗を各々はあおむけて旌色が悪く見えたので、主水は「味方敗軍の色あり!」と
急いで馬から飛んで、下槍の石突をもって旌竿をうつむけた。

そして「旌をあおむけたら、たちまちに突き殺す!」と下知して、岩巻という旗差は強力者で
あったので、取り分けて彼を戒め主水も同じくエイエイ声を揚げて押し立てると、旗色は直り
正々であった。

――『志士清談』



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 18:40:00.33 ID:esdnP8HH
関ヶ原で敵城視察した時に「一見、大軍に見えますがそのうちまともに戦う気なのは2割くらいでしょう」
と言って士気を上げて家康に饅頭貰った人だっけ
同じく黒田藩の磯野藻屑は幕末におはぎを38個食べて殿様からお褒めに預かったそうだけど
毛屋主水の子孫だったりして

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 13:40:53.31 ID:dw0VDGnO
旗ひとつとっても大事なんだね

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 14:50:38.11 ID:ENrq08LC
幕末になると将軍様さえ馬印捨てて逃げちゃうのに

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 22:01:23.18 ID:g2+kOh5h
エイエイ!NGMS!NGMS!

     /\
   /  \
  / ∧__∧ \
/ ( ´∀` ) /\
\ (    )/  \
  \   /      \
   \/ ∧∧∧∧__\
        ( ´/)  ) )\
      /  /  ∧∧∩
   ○(    ○  / ´∀)|
    /ヽ ) ヽ )と  ノ
   (/(__//(__/_ノ> >
/ ̄Y ̄Y ̄|/ ̄Y ̄Y ̄\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 22:18:47.94 ID:HdDGucNp
NGMSの旗見つからないかなw

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 11:07:54.59 ID:cC/oPjqy
>>346
黒田長政の奉公構えって後藤だけじゃなかったんだ
ちいせえ

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 15:57:28.32 ID:EgDuduD8
>>354
奉公構えとはちょっと違うのでは

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 17:09:46.12 ID:cC/oPjqy
>>355
どこが違うの?

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 18:28:29.93 ID:EgDuduD8
奉公構は追放刑で他の大名たちにもこいつを雇わないでくださいって根回しすることだと思ってたが
この毛屋さんは黒田家中に留まって働いてるはず
加藤家から高禄で召し抱えられそうになったのを長政が許さなかったってだけのことでしょう
才能がある人だから長政も惜しかったんでしょう(ならもっと優遇すればいいのにとは思うけれど)

只今石田を殺したならば

2019年08月28日 15:51

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:17:08.67 ID:9gs3r0Od
秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。この時、伏見で石田(三成)をこのついでに諸将は
殺すべく評議した。これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。寄り合った
諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。しかしながら、家康公に従い奉るべしとは思わなかった
のだという。

この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。佐渡が申すには、

「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。今は石田を憎んで皆公に組しています。石田
の様子は、この分際でいるような者ではありません。大いに催して打ち出ることでしょう。その時に討ち
果たしなさるべきなのです。これ当理の謀なり」

案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆佐渡の智謀なり。後々年に至り、公が佐渡の申す
ことに御同心無き時に「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか」と度々申し上げられたのは
この事である。

黒田甲斐守(長政。原注:如水軒)が申されるには、「あの折に伏見で治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった」と後々申されたのだという。(原注:右は如水軒が
光政公へ御直談申したのを(光政が)仰せられたと覚え申すものである)

――『烈公間話』




165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 13:01:27.64 ID:bI7TkIMY
石田三成がいなくても、宇喜多秀家の動き次第では…。

166 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/29(木) 16:35:08.65 ID:lniIquuh
その時は金吾が総大将だな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 19:35:06.83 ID:BCVHUVku
それは無いな。宇喜多は内紛でそれどころじゃないし小早川秀秋は家康と争う理由が無い

黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解

2018年01月29日 17:20

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/29(月) 16:03:18.94 ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。