それ故弾が力なく

2017年08月12日 18:18

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/12(土) 18:15:34.81 ID:P5a+mbW7
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)


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主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


御留守に任じて

2017年07月02日 21:15

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 22:30:01.06 ID:or08M729
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)



924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 06:40:34.79 ID:EcUAn0qX
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:12:03.53 ID:PA608L7X
心得が鯛

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:43:58.18 ID:OVzA0S6z
納得しかねる、みたいな

谷太郎左衛門、戦での心得

2017年05月26日 12:39

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/25(木) 19:49:49.60 ID:JlazAfFn
黒田長政の配下に、谷太郎左衛門という、度々武功を上げた者があった。
長政は彼を援助し、牢人分として養い置いた。

そんな太郎左衛門が語ったことに、

「近江においての有る合戦で、城に乗り込むという時、鉄砲によって至近距離から肩を撃ち抜かれた。
しかしそれにも構わず、その鉄砲の筒口を掴んで屏の上に乗り上げたが、城中は屏の内に
杭を打って、むしろ、こもなどを引きはり置いていたので、中に未だ兵が居ると思って引き返した。
後で城方の捕虜がいたので城内の様子を尋ねたところ、『そのあたりに人は一人もいなかったが、
ただ手立ちにああ致していた。』と語った。

このように、物事を雑に決めつけては落ち度の有るもので、詳細に考えなければいけないものだ。」

またこの人は

「合戦の時、敵よりも味方に目をつけるべきだ。
例えば一人が先に出て敵と戦い踏みこたえている所に、後より二人三人と向かっているようなら、
それは初めの者が強いのだと知るべきで、その所へ行くべきではない。別の所へ一人で出て、
そこで自分も敵と戦い踏みこたえているべきだ。少しばかり耐えていれば、すぐにそこへ人が
集まるものだ。

また、日頃より主人のお気に入りや家中で出頭している人物にも、戦場で側に寄るべきではない。
一人で手柄を立てる了見が有るべきだ。何故なら手柄が調査される時、側に居た場合は、出頭人の手柄と
されがちだからである。」

とも語った。
もう一つこの人の語ったことに

「全ての侍にとって、弓鉄砲の上手と言われるのは悪しきことだ。
そのような評判を持つと。敵城へ火矢を打ち込んで敵を城から引き出したいというような時、足軽などは
射程まで進もうとしないから、人から名指しされてその役目をやらされることが有る。

しかし、射込むことに失敗すれば不快になるし、射込んでも当然のこととされ人から賞賛もされず、
またそういう場所では敵も堅く警戒しているので、全く意味のない討ち死にをすることも有る。
その上最近は、侍の手柄は鑓によるものより上は無い。故に要らぬことを上手になっても益がないのだ。

(士談)

かなり現実的な武功ノウハウのお話


自身の大水牛の立物にも

2017年02月18日 10:20

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 00:47:16.67 ID:whq5Nrg7
黒田長政が言った。
「立物、指物でも海老はねにして指すだけでは、
働く時や馬に乗り立てる時には抜け落ちる者である。
立物には穴をあけ、受筒にも穴をあけ、皮で結びつけるべきである。」

 したがって自身の大水牛の立物にも、ふすべ革で結びつけていたという。

(甲子夜話)


福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

2017年01月28日 09:19

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/28(土) 00:43:19.86 ID:fICDsbzp
福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

 黒田長政が朝鮮で明兵の銅鑼を分捕った。
銅鑼の音が行軍にはちょうどよく、
従来の鐘はわざわざ一人に持たせていたが銅鑼はその人自らが持つもののため、
持つ人、打つ人の二人を兼ね便利というので、
これから長政の軍はみな二器〔鐘鼓〕を鐘に代えた。
よって今でも福岡侯は軍用の二器にはすべて銅鑼を用いるという。

市川一学の話である。

(甲子夜話)

逆になぜ他では銅鑼が流行らなかったのだろう?



548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 21:54:09.34 ID:0gRhgwwT
>>546
ジャーンジャーンジャーン
三成「げぇっ内府!」

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 22:21:07.78 ID:n0T35VGg
銅鑼と言えば朝鮮戦争で義勇軍という名の共産党軍は、
銅鑼鳴らしながら攻撃してきてアメリカ軍を恐れさせたとかw

三国志かよw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:26:14.26 ID:GDrmIVte
阿片戦争で女性用のおまる使って
砲弾の軌道をそらせようとした清軍よりはマシだな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:42:59.96 ID:1xKiVCOY
>>549
銅鑼に加えて死兵なら恐れるのは当然だな、天皇万歳w突撃を想起させる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 00:06:47.70 ID:E/grpkJH
しかし義勇軍とは、よく名乗ったものだ

日光一文字刀之拵注文

2017年01月13日 11:32

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/12(木) 23:27:05.87 ID:n7OaOJHp
 日光一文字刀之拵注文

一、はゝき(鎺)上下 印字   むく(無垢)上はゝき(鎺)柏のすか(透)し
一、せつは(切羽) 印字   こきさ(小刻)ミ
一、しととめ(下留) 印字
一、ふち(縁) 赤銅二めんふち(面縁)
一、さや(鞘) ちい(小)さめ
一、目貫 かうかい(笄)  小刀のつか(柄)・つは(鍔) 此方より遣ス
一、くりかた(栗形)かへ(返)り  つか(柄)頭 角
一、こしり(鐺)  しんちう(真鍮)  くさら(腐)かし
        以上
 右ハへし(圧)切之刀ニ少もちか(違)ひ不申様ニ可被仕候、以上、
   閏八月八日(元和九年)      忠之(黒印)
                      埋忠明寿(重吉)老
(黒田家文書)

黒田忠之が父である長政の死後(元和九年八月四日(1623年8月29日))すぐ、日光一文字の拵えを圧切長谷部と
瓜二つに作って欲しいと埋忠明寿に依頼した話。
(なぜ、そろいの拵えにしようとしたのかは不明)

・日光一文字は忠之誕生時に、如水から忠之に贈られている。
・圧切長谷部は長政の遺言で四男高政へ贈られている。
・日光一文字の拵えは19世紀頃には行方不明となり、圧切長谷部の現在の拵えは江戸末期の物
(安宅切とお揃いで、安宅切の拵えの方が先に出来ている。このため福岡市博物館のTwitterに「へし切長谷部と
ペアルック」と安宅切展示公開時に書かれる)

黒田家の刀の拵えはお揃いにしないといけないのだろうか・・・

国宝圧切長谷部一月五日から二月五日まで福岡市博物館で展示中なので
書いてみた。連日沢山の人がきているそうな。




旗奉行は武功の者を撰ぶ

2016年11月23日 14:05

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 21:06:11.66 ID:90REVHuF
旗奉行は武功の者を撰ぶ


 旗奉行は武辺功者の人を選ぶものだという。
黒田長政の臣、竹森石見(次貞)という旗奉行が豊前紀伊谷という所の合戦で、
黒田の先手が乱れて逃げ帰るのを、石見自身が旗竿を横に持って士卒をせき留め、
『かかれ!、かかれ!』と言ったので、その軍も盛り返してついに勝利したという。
(甲子夜話)



341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:32:50.87 ID:TQklu1C2
>>339
実際は負け戦だったろ

我が先、朝鮮在陣の笑談

2016年10月29日 12:30

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI
我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える



後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

2016年10月14日 21:10

213 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:04:55.82 ID:EfRVp88D
後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

黒田長政が豊前の国人一揆で城井城を攻めた際、反撃を喰らって撤退した際に
殿軍を後藤又兵衛が務めたはずであった。
後に論功賞の際に後藤又兵衛は殿軍を務めたと主張するが
新参者である城戸乗之助が赤い陣羽織を持ち出して自分こそが殿軍であると主張した
その陣羽織は後藤又兵衛の陣羽織であった。
乗之助曰く「又兵衛殿が殿軍であれば自分が陣羽織を拾うはずがない、
陣羽織を拾った自分こそが殿軍である」と主張した。
その事により殿軍は城戸乗之助になった。
この件が原因で黒田長政後藤又兵衛の間に軋轢が出来て
後藤又兵衛の出奔の一因となった。
その後、城戸乗之助黒田長政と大坂に向かう途中で
備後福山付近で行方不明になった。
その後の彼の行方は不明である。



214 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:33:38.06 ID:EfRVp88D
大事な事なので二度書きました

伊東祐慶への十一ヶ条の教訓

2016年07月08日 16:36

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 20:11:29.93 ID:w0Q7Terw
慶長八年正月、伊東祐慶(当時14歳)は一族の人々を引き連れ上洛した。船中、佐賀関より松浦久兵衛尉、
平川文右衛門尉、借家原甚右衛門尉の3人を筑前国博多へ遣わされ、前年に起こった『稲津の乱』について報告し、
同時に伊東家における家中の制度、すべての予算に関する目録を、黒田如水の一見に備え、万事その指図を受けて
程なく3人は祐慶の後から上洛した。

同年4月の初め、黒田甲斐守長政も江戸より上洛あったため、伊東祐慶は京都において、長政にも
目録等を差し出し、万事の指図を頼んだ。すると長政は、十一ヶ条の教訓を書いた。

一、2日に一度は御定あって御目見得のための登城があるべきです。
一、節々の御上京は無用です。
一、御小姓など幼い者たちを側で重用するのはやめましょう。節々の御付き合い入らぬことです。
一、内々に太郎右衛門が申し聞かせた事は、必ず聞いて下さい。
一、難しくても、宿老の面々とは、細々とでも御参会すべきです。
一、私の所に大勢の人を置くのも入らぬことです。
一、船等の事は、拙者が留守居の者にに申し付け置いていますので、伏見への往復がある時は仰せ付けて下さい。
一、財政についての事は、日記にはっきりと記録し、それを如水が間もなくこちらに上ってくるので、その時
  御相談すべきです。
一、以上の事を徒に思われるのなら、罰が当たると、私は考えていますよ。
一、御家中の者をご成敗の時は、先ず私に御相談下さい。卒爾に仰せ付けてはなりません。
一、二十歳以前に、様々なことを御心のままにしてしまっては、未熟なままに成ってしまいます。
  昼夜お心遣いが肝要です。 以上

 卯月二十日             黒田甲斐守

         伊東修理殿

(日向纂記)

未だ若年の伊東祐慶に宛てた、黒田長政の、甥っ子を心配する伯父さんのような教訓状である。




915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 00:40:01.57 ID:JK9/VnlS
長政は良い人だな!

後藤又兵衛は大志ある男である

2016年06月03日 19:48

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 11:10:55.75 ID:bO2ktwaZ
 後藤又兵衛は大志ある男である。
初め黒田長政に仕えていたが、長政が筑前を賜って移封したときに、又兵衛が

「このような辺鄙に住んだら大業は成らない」

とのことで、黒田家を辞めて浪人となった。
その後大阪で浪人を集めると聞いて再び秀頼に仕え、
軍利なくてついに討ち死にし身果てた。大志の弊と言うべきか。

 また朝鮮へ初めて諸軍渡って上陸すると、辺民がことごとく逃散して、みな空き家となっていた。
兵卒がその家に入ってみると、壺瓶の類に、酒が満ち溢れていた。
時に誰かが言い出したのだろうか、
「これは毒酒で人を殺す計である。」との噂が流れた。
諸人は聞いて恐れ、飲む者はいなかった。
又兵衛は

「例え何であろうと渇きを凌ぐに十分だ。
もし毒があれば我が一番に飲んで死のう。」

と引き受け引き受け飲んで、

「言葉にできない美味だ」

と舌打ち居たので、諸卒これを視て、我先にと群飲して、益々鋭気を得たという。
世諺にいう毒の試とはこれから始まったという。
(甲子夜話)



今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何

2015年12月24日 17:19

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/23(水) 22:20:43.15 ID:bLrOq9AT
黒田家の重臣吉田長利は官兵衛と長政を長利の家に招いて饗応するということが、時々あったらしい。
関ヶ原以降の豊前から筑前に移った際貰った知行の早良郡広瀬の別荘にも二人を呼んだりしたらしい。

ある時に長利が主君である長政を広瀬に招いて行った酒宴が数刻に渡って及び、長政は密かにその座を立って帰路についた。
それを聞いた長利は、瓢箪に酒をいれて杯を持って、馬に鞍もつけず乗り長政を追いかけた。

仙道川の辺りで追い付いたので、長利はふざけて

「あなたが昔戦場においても逃げ走るのを見たことがないというのに、今盃酒を捨てて逃げ帰るのはどういうことですか」と言った。

そう言われた長政は面白いと思ったらしく、そのまま河原でまた酒宴をしたらしい。

「或ル時 長政君広瀬ニテ御酒宴数刻二及ビ竊二其ノ座を立ッテ帰路二赴キ玉フ。長利是レヲ聞瓢二酒ヲ入レ杯ヲ持、肌背馬二乗ッテ御後ヲ慕、仙道川ノ辺リニテ追ヒ著キ奉リ、
 長利戯テ君昔シ戦場二於テ逃走玉フヲ見ズ。今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何。長政君入興シ玉ヒ川原ニテ復御酒宴ヲ催サレシト」



こうして家臣の家に主君を招いて饗応する習慣この話を記述した吉田家五代目治年の頃にも続いており、
「家屋を飾り、饗応の美を尽くすことは古には勝っているが、その誠情の篤いことは古には及ばない。」と子孫に伝えられている。


(吉田家伝録)

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/23(水) 22:22:20.18 ID:bLrOq9AT
ちなみにこの吉田さん

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3573.html
↑この逸話でも長政に突撃晩御飯かましてたりしてる人ですが

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8643.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5055.html
↑黒田家内で武功No.3のかなりの猛者です。



黒田長政の勧め

2015年11月04日 06:06

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 21:05:31.92 ID:nVddd3NE
関ヶ原について記した一書に曰く、福島正則が小山会議で最初に「御見方せん!」と申したのは、
黒田長政の勧めに依ったのだという。

その内容は、上方に軍が起こった事、小山の御陣に注進があった。この時黒田や福島の先陣は
宇都宮にあった。まず家康は、黒田長政を召した。長政は家康からの使いの旨を察して、
小山に行かず、福島正則の陣に行って「上方に与するのか、または関東に従うのか?」と
問うた。正則は母と妻が大阪に人質としており、その心、定まっていなかった。
ここで長政は

「秀頼公は未だ幼い。それがどうして、内府殿を滅ぼすべしと命ぜられるでしょうか?
これが石田たちの計略であること、明らかです。
またあなたの子である形部少輔は小山の陣におられる。これを捨てて上方に参るのか?
母を捨てるのも子を捨てるのも、人質を捨てるのは一緒である。

また、今の勢いを見るに、内府殿の勢いは弱い、上方の勢いは強い。

であれば、正しきを捨てて邪に従い、強きに付いて弱きを避けるというのは、武士の本意ではないと
私は思う。あなたはどう考えるか!?」
このように言われ、正則の心は決した。

その後長政は小山に参り、この事を家康に伝えた。すると家康は
「そなたを召したのは余の儀に非ず、その事を計るためであった!何と素早く察したものか!」
そう大変に喜んだ。ここにおいて家康は諸大名を小山に集め、人々の心の程を尋ねた時、
福島正則は真っ先に味方する旨を宣言したという。

(藩翰譜)



黒田長政が筑前を望んだ理由

2015年10月04日 12:02

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 21:41:24.88 ID:VQ5niA2W
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康は東軍諸大名への論功を進める中、
黒田長政に対してはその功を賞し、豊前を改め他国を与えると決めたが、
そこで家康は本多中務大補(忠勝)にこのように言った

「甲斐守(長政)についてだが、彼には中国筋に2ヶ国も与えるべきか、また筑前は
九州都府の地であり、殊に異国からの防御のため大切の所であり、私は甲斐守をそこに
置きたいと思っている。汝に甲斐守の所存を尋ねて来てほしい。」

そこで忠勝は長政の元に行き、その内意を問うと、長政

「豊前を改め大国を御恩賜あるとの事、誠にかたじけない事です。殊に、都に近い
中国にて2ヶ国は、最も望むべきことです。

ですが、おおよそ今後、天下は泰平となるでしょうから、日本において、御恩を謝し奉る
弓矢の沙汰も起こらないでしょう。一方筑前の守護は、古来よりの都府の地、殊に
異国からの防御のため、先鋒の場所でありますから、武門の大望、これ以上のものは有りません。

であれば、筑前は中国にて2ヶ国拝領することに優っており、我が願うところです。」

これを忠勝より聞いた家康は大いに喜び、長政に筑前を与えた。

(黒田家譜)

黒田長政が筑前を望んだ理由、である。



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 23:07:35.57 ID:22KAeO00
忠勝が使者なのか

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 00:19:40.05 ID:v1ZN6V03
忠勝は外交官として、いろいろなところに出向いてるよ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 15:13:47.59 ID:9UrTgLAK
さすが長政さま(棒

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 23:04:38.34 ID:1C/BfZUU
長政って名前の人は皆根拠のない自信にあふれてる気がする

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 01:00:10.54 ID:6q+ElVn1
浅井と浅野、黒田に山田か
確かに自信家が多そうだ

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 01:12:52.51 ID:C1KVxYYq
葉を見て樹を知ったつもりになる
それも大事なことです

795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/05(月) 01:49:06.68 ID:ANXBzaWf
葉を見れば木の状態はおおよそ分かる

黒田長政、晒されている三成に(黒田家譜ver)

2015年10月03日 17:30

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/02(金) 22:44:11.53 ID:PRxEyR6X
石田治部少輔(三成)、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)、この3人は
今度の大乱(関ヶ原の戦い)を起こした張本人であるが、戦場にても死なず、
猶も命を免れんと、ここかしこに隠れ居たのを、皆搦め捕られ、先に大阪に遣わされ、
諸大名途上の途中に晒された。

この時治部少輔が搦め捕られている所を、諸大名は何の会釈もなく通り過ぎた。
だが、黒田長政ただ一人、治部少輔の側に来て

「今度の不慮の儀が出来、貴殿の成り行き斯くの如くにて、無念千万な事でしょう。
ですが武士は古よりかかる例も多くあります。これが恥辱であるとは全く思いません。」

この言葉に、さすがの治部少輔もその情けに感じ入り、

「このように成り果ててしまっては、哀れだと言ってくれる人すらいないというのに、
真に情け深く感じています。」

そう言って涙を落とした。

その後この3人は、町中を引き回し、また京都に送られ、10月朔日、あやしげなる荷車にので、
天下の大敵なれば、先例に従って大路を渡された。京中の貴賎男女、これを見物した。
一番は石田、二番は安国寺、三番は小西であった。
彼らは六条河原にて皆首をはねられ、三上の橋の側に獄門にかけられた。

(黒田家譜)

黒田家譜での、三成が晒されている時の模様である




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 05:32:57.65 ID:hb7d9bWS
長政さまかっこいい(棒

782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/03(土) 05:57:08.16 ID:DdaBQTFa
黒田長政「カッコいいとは、こういう事だ」

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 07:21:43.81 ID:zYdG7KXx
衣は着せなかったのか

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 07:36:34.24 ID:RBN1Zk/h
長政「衣は歯に着せました」

785 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/03(土) 08:37:41.27 ID:L15PhrqJ
この男、ドヤ顔である

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 11:31:21.00 ID:dUzku7m+
さすが長政様(棒

これは黒田長政一人の謀を以って

2015年09月26日 17:29

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 21:22:32.02 ID:96dtYwcU
おおよそ関ヶ原の軍は、天下分け目の大合戦にて、徳川家の存亡、天下の安危、ただこの一挙にあった。

東方は良将兵を掌り、属する所の猛将多しといえども少勢であった。
西方は総大将無くして、治部少輔が兵権を司るといえども大勢にて、その上太閤の薨去近ければ、秀頼のために
忠を成さんと思う者も多く、殊に、もろこしまで武名を顕した島津、小西、その他猛将また多し。
その上筑前中納言(小早川秀秋)は大軍にて、その家臣たちは皆、小早川隆景が平生教練した屈強の
兵達であった。

この小早川秀秋がいまだ裏切り無いうちに、戦いは既に半ばに及ばんとした時、
敵の旗色良く、勇み進んでいた。この時、もし秀秋が裏切らず松尾山より素早く下りて、敵とともに
味方を防げば、おそらくは勝負がどうなったかわからない。また、もし敵がこの一戦に負けたとしても、
秀秋の裏切りがなければあれほどの惨敗はせず、敵の諸大将暫く弾き退いて、宇治、瀬田の橋を引いて
防ぎ戦えば、敵は大軍であったから、寿永、承久で東兵が利を得たようにはならず、勝敗もまた
心もとない。

また、南宮山の敵、吉川らが内応無く、素早く攻撃にでて、関ヶ原で横合いにかかってくれば、
両方の敵を防ぐことは難しかったであろう。

であれば、筑前中納言、並びに毛利家の返り忠は、内府公天下万世を保たれた枢機であり、
これは黒田長政一人の謀を以って、敵の大群を味方に引き入れ、返り忠をさせて、斯くの如く
莫大の忠功を立てられたのだ。

また、長政が竹中丹波守と言い合わせ、間道を経て敵陣の横合いに出、奇兵を以って
島左近の堅陣を破り直に石田の本陣に攻め入られた故に、一戦に東兵勝利を得た。
これらは真に希代の勤労と言うべきである。

司馬相如が『世必有非常之人而後有非常之功』(世には必ず非常の人があり、後に非常の功有り)と
言ったのは、まさに黒田長政のような人を語ったのだ!

(黒田家譜)

「徳川の天下は全部黒田長政のおかげだったんだよ!」という黒田家譜の熱い主張である。



743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 00:16:51.90 ID:QGYiI3d0
長政もあの世で苦笑い

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 00:39:15.74 ID:KAo1MPtx
毛利吉川小早川のサボり&寝返りでテル涙目

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 09:44:28.11 ID:NvEji9+i
黒田家譜はブレないな

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 10:05:10.60 ID:T9zYNIIf
九州でお怒りになられてる方がおります

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 20:35:32.56 ID:eZHYdQhF
さっすが長政さんだぜ
孝高超えたな

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/26(土) 21:02:24.34 ID:pGj6ICXj
あたぼーよ52万石(笑)だぜ
だてに逃散させてねーぞ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/27(日) 09:25:39.55 ID:yZR+BSu7
他の関ヶ原参戦諸侯の検地打出しで石高2~3割増程度だったのに
黒田は7割増だもん、そりゃ色々と問題も出ますわな

黒田と細川が不仲に成ったわけ

2015年09月19日 12:28

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 21:03:25.49 ID:Vnj4IQdC
稲葉丹後守が諸侯を饗応したことがあった時、細川越中守、黒田筑前守を上座と定めてた。
その当日に至って、取持ちの一人が気づいて言った

「細川黒田は代々音信不通の間柄である。今日の対座、如何すべきか…」

そう評議している所に「両家が到着された」との知らせがあり、ともかく上座へと案内したが、
それから膳部など出たものの、互いに挨拶もなく不興のままであった。

両家がこのような関係になった理由は、島原の一乱にあったという。
この時、細川黒田の両家とも江戸城において出陣の命を蒙ったが、細川家より黒田家に相談があった

「これより直に出立すべきだろうか、それとも一旦帰宅して、それぞれの用意をして今日中に
出立すべきだろうか?」

「我々はひとまず帰宅して夫々の準備をし、出立しようと考えている。」

そう云うので、細川は屋敷に帰った。ところが黒田はそこから直に品川へと出るので、
家来たちに直ぐに品川に駆けつけるようにと命じ、品川に出ると餅の類、その他携帯に便利な食料を
みな買い取って出立した。

その後にやって来た細川家は、既に黒田家が出立していることを知ると、急いで後を追ったものの、
終始追い付くことは出来ず、その上黒田の大人数が、行く先々で食物を皆買い切ったため細川家は
大いに差し支えたという。そして島原に着いても半日出陣が遅れた。

これより両家は不快の仲になったという。しかし近年、和解したそうである。

(明良洪範)

細川家と黒田家の仲が悪いことについて、江戸時代にはこういう説も在ったらしい、というお話。




336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 22:33:14.89 ID:AN7xn6ev
食い物恨みかよ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:11:07.16 ID:X61MWy+V
細川家のあとに出立した家は大丈夫だったのだろうか、とマジレスしてみる。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:14:25.97 ID:dvVVq3zU
一緒に走ろうねって言って裏切るのと同じやな あるある

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:26:57.69 ID:xuujyMtY
こういう補給のことを全く考えずに出陣を下命すればそれで終わりっていう幕府が無能なんだよな。
現代の感覚で言えば

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:55:50.68 ID:AN7xn6ev
あほなの?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:06:03.87 ID:+P7FxBVx
お前がね

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:41:04.79 ID:vrpbk1yq
細川くん「テスト勉強した?」
黒田くん「いや全然してない(ほんとはめちゃくちゃしてる)」
テスト前の高校生かよ

母里太兵衛、桐山丹波と和解す

2015年09月13日 07:03

700 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 17:41:41.15 ID:5oU9bIc/
黒田家の中老である桐山丹波という者と、母里但馬(太兵衛が高麗陣以来一言も口を
きかなかった。それは高麗陣において、母里の守る出城が明軍に襲撃された時、偵察に出た
桐山が、長政に、母里が敗北したようなので追い打ちをされないよう引取の軍勢を遣わすようにと
進言したことによる。実際には母里は明軍を打ち破り、多数の首をとって帰ってきた。
そこで桐山の進言の内容を聞き、激怒した。しかし友人たちが色々となだめその場では喧嘩にならなかった
ものの、その後桐山の方は何度も詫び言をしたものの、以後口を利こうとしなかったのである。

そして三十数年が経った

桐山丹波は黒田家において五千石を取り、中老分に定め置かれることに成った。
しかし重臣である母里但馬と関係の悪いままでは、政務の談合も整い難いと考えられ、
ある時、何かの祝日に、家中の主だった者達が登城した中、長政は栗山備後(利安に言った

「但馬は丹波を悪み、久しく無言のよし、これは私のためにも悪しきことである。
以後仲直りするよう、備後より意見してほしい。」

備後「仰る通りです。但馬のやっていることは近頃になく見苦しい。その第一は、宜しからぬ儀であります。
私も御意に任せて和睦するよう言っても、合点せず、なお強情なことを申し承知しません。」

長政も「私も意趣の経緯はよく知っている。一端は腹をたてるのはしょうがない。だがこのように
いつまでも思いつめるような事ではないだろう。いま、私に対して和睦を約束してくれれば喜ばしい
限りである、是非ともそうせよ。」

このように何度も言ったが、母里は
「私は一命を捧げたのは本意ですから、これについては露や塵ほどにも思っていません。
しかしこの事については、たとえ上意を背きましても同意できません!」そう言い切った。

この態度に、長政も面倒なことに成ったと後悔顔で栗山に「備後よ、どうするべきか」と尋ねると、
「仰られたように、一体どんな理由があっても、主君のお為であれば異議有るまじき事です。
そのうえ深々しい意趣が有るわけではなく、第一もはや数十年も経って、人々もその仔細を知らぬ有り様。

殿直々の意見に違背するとは沙汰の限りである!但馬、御請申し上げよ!」
これに居並ぶ者達も次々に同じように言ったが、母里は

「嫌だ!」と拒絶。

互いに顔を真赤にして背を伸ばして睨みつけ「沙汰の限り、分別至極、是非に及ばず!」と散々に喚いたが、
母里が合点することはなかった。

ここで栗山備後、あまりに腹を据えかね、左の手で母里の頭をぶん殴った。
当たりはせず、殴る真似をしただけだ、との説もある。

701 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 17:43:36.70 ID:5oU9bIc/
突然の事態に長政初め一同興を覚まし、「これは苦々しい事態だ。誰に対してもあんな事をすべきではないが、
但馬は特別な荒者である。備後に飛びかかって突き殺そうとするだろう。但馬は大力、備後は常の力であり、
取り付いたら離すことはしまい。しかしながら備後も優れて早く軽い人物であるから、引き外し
突き殺されないようにするだろう。

とにかく、少しでも不穏な雰囲気に成ったら飛び入って二人を押し隔てるのだ!」

そう、一同が臨戦態勢に入った時、母里は頭を下げ、暫くそのままにしていた。
「あの母里が思案をしているのか!?」
人々はそう驚いたが、一方栗山備後の方は、してはならないことをした、という気色もなく、母里の上に
乗りかからんばかりの姿勢で

「さてもさても、この一我意者め、沙汰の限りである!そこいらの若輩・渡奉公人のような覚悟だ。
家の年寄に備えられた者なら、諸事にそれ相応の見識があるものだぞ!一身を捨て、主君の御為を思わないのは
人外である!御為に一名惜しまずと常に言っているが、今の言いようでは、それも偽りになるぞ。

誰であっても言いたいことは多い。しかし浮世の習いで、堪忍しているのだ。よく分別してみよ。」
その様子は親が幼子を教訓しているのと少しも違わぬ情景であった。

暫くして、母里は涙を流し、それはポロポロと畳に落ちた。一同「もう死期だから、あの鬼をも欺く但馬も
涙をながすのか!」と思ったが、母里は頭をもたげ、鼻をかむ体にて涙を拭うと、大息をついて長政の
御前近くに進み

「丹波との和解のこと、これまでも度々意見され、今も直々に仰せられました。それを違背するのは
心苦しいことではありましたが、一生不通と定めていましたから、絶対に承知しないと決意していました。

しかし只今の備後の所業は、珍しいことでした。私が若年の頃、如水様により、備後を兄として、私が弟として
互いに助け合うよう誓約をしたことがありました。

しかし、互いに成人してからは、私の方はそのことに、まるで構わずにいました。
そもそも備後は心底の見分けがたい人物ですし、どうせ互いに若き頃のことだ、今になって
その時のことを覚えているかどうか、などと心許なく思っていました。

しかし、備後は久しく約束を変ぜず、なにより如水様の御眼力を違えず、一身を投げ打つ所存、
返す返すも忘れ置き難いものです。それこそ私は、無分別至極でありました。

童の頃は突っ掛かって行けば、度々打ち倒され突き倒され、如何程か折檻を受け成長しました。
その心を変ぜず、今でもこのようにしてくれる友人は、世には稀です。
…丹波、ここに出て来られよ!」

そう母里が桐山に呼びかけると、長政は言うに及ばず、一同の喜ぶこと限りなかった。
先ず長政が盃を出し、それを飲んで「この度は」と母里に差し出した。母里は三杯呑み、誰へとも言わず
桐山に差し出し、「こちらに寄られよ」と、いかにも丁寧に差し出した。
そして「今ひとつ」と、挿していた脇差を抜くと、桐山に遣わした。
「これは、作は良くないが、技については貴殿もよく知っているように優れたものである。そのため
腰から離さなかったのだが、和睦の印に受け取って欲しい。」
そうしてこの脇差を桐山に差させた。

桐山が盃を母里に戻すと、長政より「丹波も、但馬に脇差を差し出したいが、身分柄に合わぬように思い
遠慮しているようにみえる。但馬、彼の脇差を受け取るように。」と母里に取らせた。

それからは一同入り乱れての大酒となり、泰平と成った。
(古郷物語



702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 19:02:51.78 ID:kDVuYKMt
最後にワラタ
昨年の大河で使って欲しかった場面だな。

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 20:55:52.89 ID:VU/r9aIv
如水から母里を押し付けられた時に栗山はすごい嫌がってたから毎日心労も酷かったろうなあ

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/12(土) 22:52:48.22 ID:9hRTr/CK
栗山も面倒だと思いながらも母里との義兄弟の誓紙を如水が冥土の土産に持っていこうなんて言われたもんだから栗山も中々捨て置けなかったんだろうな

ぎりぎりにやいとか仕りたり

2015年09月10日 11:01

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/10(木) 00:11:35.19 ID:O8BKYGTp
ある年、黒田家において嘉例であると、備後(栗山利安)の邸宅において謡初めがあった。
喜多七太夫なども出演し、小袖をつぼ折り、能も三番、囃子は番数あった。
筑前守(黒田長政)も仕手方を謡い、いかにも機嫌よく酒を飲み、四ツ半頃(夜10時頃)座を立とうとした

「夜長ですし、今少し咄などいたしませんか?」
そう備後が申したが、

「私がいては、若き者達が遠慮して酒を呑みかねているようだ。私が帰った後、心やすく
酒を呑むように。」

そういって座を立ち、敷居を越した時、但馬(母里友信)が大声で喚いた

「今少し居てもらって、若き者たちを呼び出し酒を飲ませたかったなあ!
そうすれば座は必ず気ままに成っただろうから、ぎりぎりに『やい!』とか言いたかったのに!」
(今少し居て、若き者共呼出し、酒呑ませたき事なり。
兎角気随が必定なり。ぎりぎりにやいとか仕りたり)

その場の人々、これはどういう事かと興を醒ました。
筑前守より先に歩んでいた者も聞いたのだから、聞こえなかったということは無かったのに、
聞こえぬ体で筑前守は帰られた。

(古郷物語)

長政…



295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/10(木) 01:53:33.02 ID:lnCrpg8t
母里の言いたいことがよく分からん…

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/10(木) 07:18:04.64 ID:179SWURy
若い連中の前で酔った振りをして絡みたかったということ?

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/10(木) 07:57:44.54 ID:Vo/sQsqt
若い奴を呼んで殿と飲ませたかったのかな。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/10(木) 21:15:08.85 ID:ynYEo2si
上下関係が雑な戦国ではよくあること