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これは正利が天性勇猛で物に動じることが無かったため

2020年01月17日 15:08

菅正利   
533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:47:44.41 ID:goDK3ZeI
寛永六年、菅正利五十九歳、六月の初めより傷暑を病み、二十九日、家にて没した。博多聖福寺の内、
順心院に葬られた。

正利は天性、勇猛人に超えていた事は今まで記していたため、更に記するには及ばないが、
黒田長政公は豊前、筑前に於いて罪過有ることで誅殺される者がある時は、諸士に命じて見逢いに
斬り殺させた。長政公の側近くに呼ばれ、その事を命じられた時、命を聞き終わって退出する姿を
次の間に在る諸士は、その様子を見て、彼が仕者を命ぜられたのだと察したという。
ところが正利の時のみ、人々はそれを察することが出来なかった。これは正利が天性勇猛で、
物に動じることが無かったためである。

また正利は新免無二助(宮本武蔵の父・新免無二の事か)に剣術を習い、その後疋田豊五郎(景兼)にも
学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていた。
長政公が筑前に入国された後、何国の者であったか、剣術の名人であると言って、長政公に仕えることを
求めて来た者があった。この時長政公は正利に命じ、福岡城の本丸に於いて木刀にて仕合をさせられた所、
三度打って三度共に正利が勝ち、剣術者は恥ずかしく思ったのか、いつともなく逐電したという。

正利は身の丈六尺二寸(約190センチ)有り、力も群を抜いていていた。天性勇猛なだけでなく、仁愛の心深く
忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。

(菅氏世譜)

かなり有名な兵法家に教えを受けていた菅正利さん。



534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 11:54:03.34 ID:YRUINvko
平均身長155も無いのに190の怪力手練が殺意を持って殺到してくる恐怖

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 16:16:52.85 ID:MxJGeR6p
江戸時代に急激に縮んだのさ、知らんけど

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/19(日) 02:56:27.71 ID:Ssi+Cz09
>>533
さすがSAKONを打ち取っただけありますね
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百道松原

2020年01月16日 17:44

菅正利   
530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 02:28:32.15 ID:bRzsaQCE
元和四年正月二十五日、黒田長政公は命を下され、福岡の城下、荒戸西の町外れより早良川の遠干潟までの
間広き砂原があり、無用の地であれば松を植えて松原にすべしとて、その事を計り実行させた。
この事業について菅正利が惣司となり、宮崎織部、手塚久左衛門も正利に加えてその事を成さしめた。

博多、福岡、姪浜の町中に命じて、家一軒に付き高さ四、五尺程の松一本を提出させ、これを植えた。
年を経て徐々に成長し、十年後には広い松原となった。その後いよいよ成長し、後には、古より事ふりたる
生の松原にも勝り、名にし負う箱崎の千代松原に等しき地となった。

(菅氏世譜)

福岡の百道松原造成のお話。なおこの松原は戦後切り開かれ宅地として造成された。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/16(木) 21:54:17.07 ID:rEEY05pW
松根油にされて特攻に行ったんだな。この松の木も、

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/17(金) 23:49:01.34 ID:B84WcHgd
>>531
ネタだと思うけれど松根油なんて使われてないぞ~~

ただ士の成しおくべき物は武功である

2020年01月14日 17:16

菅正利   
516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 12:14:17.26 ID:2Ea+Petg
慶長二年、豊臣秀吉公は重ねて兵を遣わし朝鮮を征し給った。菅正利(三十一歳)も又、黒田長政公の供をして
先手を勤めた。

秋の頃、大明の大軍が忠清道の内、禝山に在ることが聞こえたため、これを討たんとして九月七日、長政公は
毛利秀元と共にその勢三万余騎にて馳せ向かわれた。長政公は先手であった。
その後、長政公の勢は大明の大将・解生、楊登山、牛伯英、等と戦い、大勢を追い崩した。しかしこの時、
千総、李益、喬把、劉遇節などと云う者たちが大軍を率い、黒煙を立てて救援に来た。
解生はこれに力を得て取って返し戦った。長政公の諸勢もまた勇み進んで攻め戦うと、大明勢の勢いも一時に屈し、
さっと引き取って息をついでいた。

ここに、大明勢の大将と見える者が、西の山の高い場所に兵が多く集まって在るのを長政公が見られ、
「あれこそ大明の陣である!自余の敵どもを多く討つより大将を討ち取るべし!続けや兵ども!」と下知して
旗本をそこに定め置き、井上九郎右衛門(之房)、栗山四郎右衛門(利安)を残して敵が来た場合の防ぎに
備え、自らは手勢の内で一騎当千と思われた人々を選んで召し、供をさせた。その人々は、黒田三左衛門、
後藤又兵衛、野村市右衛門、菅六之助(正利)、林太郎右衛門、堀久七、野口藤九郎、益田与助、等であった。

長政公は彼らを引き連れ真っ先に進まれたため、菅正利を初めとして後に続く兵たちは、我劣らじと敵陣へ
駆け入り、即時に敵の大勢を切り崩して二里ばかり追討ちした。この時、敵勢の中より一騎踏み留まり、
弓馬の達者と見えて、馬を留めて寄り来る者共を射ると、あだ矢は一つも無かった。彼に向かっていった
者は、或いは射殺され、或いは深手を負ったため、味方に手負い、死人多く出た。このようであったので
我討ち取らんと進む者も無く、長政公はこの様子を見て「正利は近くに居らぬか!?」り尋ねられた。

菅正利は丁度敵を討って、首級を大将に御目にかけんと持って帰っていた所であった。
急いで進み出ると長政公は正利に向けて
「汝、行き向かい、あの敵を討ち取れ。」と命ぜられた。

正利は命に従い速やかに馬に打ち乗り馳せ向かった。かの敵は正利が向かってくるのを見て弓を引き堅め
射った矢は正利の右の耳を射切ったが、深手では無かったため事ともせず、二の矢を継がせないと逸足を
出して駆け付け、乗り違えざまに一太刀切ると、刀能く切れ首脇より乳の下にかけて切り落とし、首を取って
馳帰り、長政公の実検に備えると、「武運強き者には矢もたたぬものなのだな。」と雑談され、その武勇を
殊の外感じられた。

ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、先に受けた矢の射切られた所が、当初は何とも
無かったのだが、次第に毒気が皮膚の内に深く入ったのか、後には右の耳の色赤くなり、常に膿、血が出て止まらず、
これ故に顔色もすべて恐ろしく厳しいものとなった。後には小児が泣く時に、正利の名を言って脅すと泣き止む、
などと言われた。かのもろこしの張遼が、小児が泣くのを止めたという故事もかくやと思い知らされる。

さて、このように菅正利は顔より常に膿汁が出て見苦しいものであったが、黒田如水公、長政公は少しもきたなく
思われず、正利が飲んだ盃を取って呑み、濃茶の跡をも召し上がられ、年若き家臣共に常に正利の武勇を語り
聞かせられ、「きたなくとも、あれにあやかれ。」と宣われた。

正利はこれを有難きことに思い、常に子供に対してこのように語り聞かせた。
「私の勇功によらなければどうしてこのように忝き御意に預かれるだろうか。ただ士の成しおくべき物は
武功である。」

(菅氏世譜)

大谷吉継の逸話みたいな話が、菅正利にもあるのですね。



517 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/14(火) 12:43:44.90 ID:a0wdp0Jx
附子の毒とは武士にあるまじき行為、無粋な奴らよ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 13:37:20.44 ID:oH277gGr
膿と茶の話はもともとは利休だっけ?紹鴎だっけ?の弟子の話が元ネタだっけ

毒矢に関しては国によって戦い方が違うだけだからなんとも
日本も矢じりわざとゆるくとりつけて射られた敵の傷口に残るようにして苦しめてた、みたいな話もあるし

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 14:41:41.91 ID:qiXWHE6+
>>518
利休のやつは三成の三献茶の元ネタじゃ無かったかな?
吉継の茶の話はたしか未だに出典不明のはず。真面目にこれが元ネタじゃ
無いだろうか。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:14:10.14 ID:+ig0gkR5
矢じりをゆるくつけると
二重の極み理論で貫通力がUPするらしい
https://i.imgur.com/gEfaFxQ.jpg
gEfaFxQ.jpg

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:18:34.48 ID:bO8Xz5cn
>>516
>ところが、唐人の射る矢には、附子という毒をつけて射る故に、

一休さん「附子茶(゚д゚)ウマー」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/14(火) 22:42:24.02 ID:dUCx40Wo
まとめの1963
「武田のゆる鏃」と家康・悪い話

まとめな5892
鏃の詰め方

武田の緩い鏃は非人道的だと家康激怒

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 00:15:15.78 ID:riOsz2RF
>>520
三献茶とごっちゃになってました、ご指摘ありがとうございます

にしてもほんとにこの手のお話は有名武将に話入れ替えられるのが多いですなー
江戸時代辺りに話から武将だけ入れ替えるって手法が多かったんですかね

525 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/15(水) 07:36:38.09 ID:A9SObay3
>>518
>>517は本気で異国の戦法を云々ではなく、ちょっと韻を踏んで頂けたら…

『斃秦』

2020年01月13日 16:31

菅正利   
507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 13:49:21.83 ID:FG5Q7KtQ
文禄三年、朝鮮在陣の日本勢の内、諸城警衛の兵の外は、和議が既に調ったため無用であるとして、
悉く日本へ帰国したが、黒田長政公は機張の城を守って居られたので未だ帰国されなかった。
しかし大明との和議が調った後であり、敵も皆退散したため合戦も無く、いたずらに異国に逗留し、
つれづれの余りに、時々勇士共を引き連れ山に入り虎狩りをされた。

二月十三日、長政公はまた山に入って虎を狩られた。この時長政公、鉄砲に寄って駆け来る虎を間近く寄って
撃ち殺された。その後、猛き虎が一つ駆けてくるのを、長政公がまた鉄砲を構えられた所に、虎は脇に人が
いるのを見つけると、長政公の方へは行かず、菅正利与力の足軽が並び居る所に駆けてきて、一人の肩を咥え
後ろに投げ、一人をその腕を喰らって倒した。これを見る者で恐怖しないという者は居なかった。

この時菅正利は朱塗りの鎧を着ていたため、人多き中にも著しく見えたのだろう、虎は正利をめがけて懸ってきた。
しかし正利(当時二十八歳)はこれを見ても少しも騒がず、刀を抜いて進み、駆け寄る虎を一刀、斬った。
刀能く切れ、虎は一声吼えて即時に倒れようとした所を、また一刀斬って首を打ち落とした。
この時正利の稀代の勇と、その刀の利が無ければ、虎口の害を免れ得なかったであろう。

この刀は備前吉次の作にて長さ二尺三寸一分あり、現在でも相伝わり菅の家にある。
その後、大徳寺の僧・春屋にこの刀の銘を乞うた所、『斃秦』と名付け、今その刀の中子にその刻がある。
秦は虎狼の国と言われるため、「虎を斃す」という心なのだという。

また後に林道春に銘と名を乞うた所、普の周処が南山の虎を斬ったという故事を取り、その刀を『南山』と名付け、
その事を記し銘を書いて与えた。

誠に世には、自分と変わらない敵に向かってさえ恐れて進み得ず逃げ去る者も多く、いわんや怒れる虎は
その猛き事類なく、古よりの口ずさみにも、恐ろしいことを言うのに先ず虎をこそその第一とする。
これに向かい勇み懸って、あまつさえ短刀にてこれを斬り殺すこと、類なき武勇ではないか。
もろこしと言えどもそのためし少なく、いわんや日本には前代にも既に無く、後世にも有りがたるべし。

(菅氏世譜)

虎も斃したら首を打ち落としていたのか。



508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 14:40:18.90 ID:dXipE+7V
周処は曹休を罠に嵌めて石亭の戦いで破ったので有名な呉の周魴の息子だから普じゃなくて晋
(周処の墓からアルミニウムが見つかった!と大騒ぎされたが
発掘の途中で紛れ込んだだけ、という話もあった)

三国志演義といえば菅正利の中国語wiki
https://zh.m.wikipedia.org/wiki/菅正利
戦争で顔に傷を負ってなく子を黙らせるのに使われたことから
「日本之張遼」扱いされちゃってる
張遼の息子は虎なのに

509 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/13(月) 16:21:17.88 ID:PjOK7w71
日本や中国も昔は人攫い(を妖怪に喩えたりして)が来るぞって言って泣く子を泣き止ませたとか聞いたことあるけど、謙信または越後軍が来るぞっつったら同義になったんだろうか?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/13(月) 17:40:39.44 ID:5XRBh6Zd
2箇所に銘を頼んでるのが合見積みたいだ
南山より斃秦のほうがオリジナリティあるな

「旌をあおむけたら、たちまちに突き殺す!」

2019年11月17日 17:13

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 18:30:25.39 ID:lNqogFGN
関ヶ原の役で黒田長政はその臣・毛屋主水(武久。黒田家の旗奉行)に旌旗を預けられた。

主水は高き丘を越えて少し低い所に旌旗を立てた。長政はこれを見て「高みに引き立てて立て
るべし」と下知された。

これに主水は「麓へ押し下ろして立てた旗を後へ引いて高みに立てては、味方は負け色になり
敵から敗軍と見えます。しかれば敵方の勇みなりましょう」と、ついに旗を立て直さなかった。

長政の合渡の川越えの折、主水は水際に臨んで旗を押し立て敵と間近くなった時、どうしたこ
とか馬印・旌旗を各々はあおむけて旌色が悪く見えたので、主水は「味方敗軍の色あり!」と
急いで馬から飛んで、下槍の石突をもって旌竿をうつむけた。

そして「旌をあおむけたら、たちまちに突き殺す!」と下知して、岩巻という旗差は強力者で
あったので、取り分けて彼を戒め主水も同じくエイエイ声を揚げて押し立てると、旗色は直り
正々であった。

――『志士清談』



347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/16(土) 18:40:00.33 ID:esdnP8HH
関ヶ原で敵城視察した時に「一見、大軍に見えますがそのうちまともに戦う気なのは2割くらいでしょう」
と言って士気を上げて家康に饅頭貰った人だっけ
同じく黒田藩の磯野藻屑は幕末におはぎを38個食べて殿様からお褒めに預かったそうだけど
毛屋主水の子孫だったりして

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 13:40:53.31 ID:dw0VDGnO
旗ひとつとっても大事なんだね

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 14:50:38.11 ID:ENrq08LC
幕末になると将軍様さえ馬印捨てて逃げちゃうのに

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 22:01:23.18 ID:g2+kOh5h
エイエイ!NGMS!NGMS!

     /\
   /  \
  / ∧__∧ \
/ ( ´∀` ) /\
\ (    )/  \
  \   /      \
   \/ ∧∧∧∧__\
        ( ´/)  ) )\
      /  /  ∧∧∩
   ○(    ○  / ´∀)|
    /ヽ ) ヽ )と  ノ
   (/(__//(__/_ノ> >
/ ̄Y ̄Y ̄|/ ̄Y ̄Y ̄\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/17(日) 22:18:47.94 ID:HdDGucNp
NGMSの旗見つからないかなw

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 11:07:54.59 ID:cC/oPjqy
>>346
黒田長政の奉公構えって後藤だけじゃなかったんだ
ちいせえ

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 15:57:28.32 ID:EgDuduD8
>>354
奉公構えとはちょっと違うのでは

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 17:09:46.12 ID:cC/oPjqy
>>355
どこが違うの?

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 18:28:29.93 ID:EgDuduD8
奉公構は追放刑で他の大名たちにもこいつを雇わないでくださいって根回しすることだと思ってたが
この毛屋さんは黒田家中に留まって働いてるはず
加藤家から高禄で召し抱えられそうになったのを長政が許さなかったってだけのことでしょう
才能がある人だから長政も惜しかったんでしょう(ならもっと優遇すればいいのにとは思うけれど)

只今石田を殺したならば

2019年08月28日 15:51

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:17:08.67 ID:9gs3r0Od
秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。この時、伏見で石田(三成)をこのついでに諸将は
殺すべく評議した。これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。寄り合った
諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。しかしながら、家康公に従い奉るべしとは思わなかった
のだという。

この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。佐渡が申すには、

「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。今は石田を憎んで皆公に組しています。石田
の様子は、この分際でいるような者ではありません。大いに催して打ち出ることでしょう。その時に討ち
果たしなさるべきなのです。これ当理の謀なり」

案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆佐渡の智謀なり。後々年に至り、公が佐渡の申す
ことに御同心無き時に「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか」と度々申し上げられたのは
この事である。

黒田甲斐守(長政。原注:如水軒)が申されるには、「あの折に伏見で治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった」と後々申されたのだという。(原注:右は如水軒が
光政公へ御直談申したのを(光政が)仰せられたと覚え申すものである)

――『烈公間話』




165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 13:01:27.64 ID:bI7TkIMY
石田三成がいなくても、宇喜多秀家の動き次第では…。

166 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/29(木) 16:35:08.65 ID:lniIquuh
その時は金吾が総大将だな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 19:35:06.83 ID:BCVHUVku
それは無いな。宇喜多は内紛でそれどころじゃないし小早川秀秋は家康と争う理由が無い

黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解

2018年01月29日 17:20

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/29(月) 16:03:18.94 ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。


黒田長政は参勤する時

2017年12月01日 18:07

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 16:48:10.19 ID:LKc6Pf/B
黒田長政は参勤する時、道を変えて往来し、宿も定めず、どこにでも一宿した。
ただし旅宿とするのは、その付近で第一に道の広い所、第二に所用に便利である所、
第三に火の用心の気遣いが出来る場所と決めていた。

彼は在国の間も放鷹狩猟で士卒の心得を学ばせ、昼の休憩所にも見立てをやらせ、
陣を設営するときの経験を積ませた。

また他方へ使者を遣わす際も、所用が済んだ後には、その国の様子、気がついたことなどを
尋ね、その報告の内容によって当座の褒美を与えた。

(士談)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 18:53:05.72 ID:CUFfCuYE
事前に宿決めないって…

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 21:24:42.78 ID:eU3fI7CI
道を変えてたんだからしゃーない、でもなんで変えたんだろ、安全のため?
スターリンは毎晩寝る部屋を変えたそうだが…父親譲りの慎重さか。

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 21:43:08.19 ID:M0q5U8Q0
カウティリヤ「実利論」でチャンドラグプタ王も毎日寝室を変えていたとかあったような

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 21:55:55.12 ID:HTosqQ68
後宮てやつか

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 22:00:39.00 ID:M0q5U8Q0
いやスターリン同様暗殺を防ぐためが主な意図

さてはますます勇士の機

2017年11月23日 13:06

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 09:39:25.77 ID:mJcw9C4d
関ヶ原の時、田中筑後守(吉政)の家臣で田辺甚兵衛という者の子、父は早世して
甚兵衛の名を継いだが、10歳にて陣立てした。彼の家臣たちが敵を突き落とし、甚兵衛を
馬より抱き下ろして頸を取らせた。
幼少の子として比類なき儀であると、その頃世間で大変に賞賛された。

後に、黒田長政田中吉政を訪れた時、四方山の物語の中で、吉政がこの甚兵衛の事を語った。
長政はこれに大いに感じ入り、甚兵衛を呼び出し盃を与えた。この時、「甚兵衛を補佐した
家来どもも呼び出して様子を尋ねよう」という事になり、甚兵衛の家来たちも出頭した。

長政が当時の様子を具体的に尋ねると、彼らはこう証言した
「馬より抱き下ろした時、刀を抜いてかかりましたが、わなわなと震えていました。
それを家来どもに恥ずかしめられ、震えながら立ち寄りて頸を討ったのです。」

これを聞いて長政は再び大いに感じ入った。
「さてはますます勇士の機がある。震えずにかかったなら、十方無き故(頭がからっぽだから)と
言うべきであろう。恥ずかしめられてかかったのは、義をつとめて致すという行為だ。」

そう評したという。

(士談)

田辺甚兵衛の初陣・いい話

こちらに既出の逸話ですが、出典があり詳しかったので



大将の旗、纏、馬印

2017年10月28日 12:02

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 23:28:17.57 ID:QPdRFwSZ
大将の旗、纏、馬印などというものは、高く遠くからも見えることに利がある。
これは相印となり、将の下知がよく届くためである。

豊前の城井一揆の時、その谷口に戦術上良い地形があり、その山を取れば利があり、取られれば
不利になるものであったので、黒田長政はこれを見て取ると、宵より物見をかけ、この山を占拠するとし、
そうして山に備えを段々と上げた。

ここまで城井の兵は全く見えなかったので、さては黒田勢に辟易して退去したかと、各々喜び
緊張が緩んだ。

その時、城井の馬印である赤い吹抜が突然現れた。
黒田の兵はこれに驚き、「唯今足元よ敵が出たり!」と混乱し敗軍した。

この時黒田の機は、行列の時のように長く立ち備えていた。これが進みながら敵と遭遇したため、
旗を立て直すことが出来なかったのである。
先の方からは「旗を立て直せ!」と下知があったが、旗奉行はこの命令を聞き入れなかった。
「その時間が有るからと言って、もし立て直すようなことをすれば、むしろより早く
軍が崩れます」
という理由であった。

賤ヶ岳の戦いで、秀吉の金の纏が出て佐久間玄蕃の兵たちが気を失い、小牧にても家康の扇の纏が出たことで
敵軍気を失い、関ヶ原にても家康の纏が突然現れたことで、石田三成は大いに驚き謀を失ったと言うが、
これらも同一の事例であろう。

(士談)



それ故弾が力なく

2017年08月12日 18:18

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/12(土) 18:15:34.81 ID:P5a+mbW7
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)


主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


御留守に任じて

2017年07月02日 21:15

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 22:30:01.06 ID:or08M729
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)



924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 06:40:34.79 ID:EcUAn0qX
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:12:03.53 ID:PA608L7X
心得が鯛

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:43:58.18 ID:OVzA0S6z
納得しかねる、みたいな

谷太郎左衛門、戦での心得

2017年05月26日 12:39

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/25(木) 19:49:49.60 ID:JlazAfFn
黒田長政の配下に、谷太郎左衛門という、度々武功を上げた者があった。
長政は彼を援助し、牢人分として養い置いた。

そんな太郎左衛門が語ったことに、

「近江においての有る合戦で、城に乗り込むという時、鉄砲によって至近距離から肩を撃ち抜かれた。
しかしそれにも構わず、その鉄砲の筒口を掴んで屏の上に乗り上げたが、城中は屏の内に
杭を打って、むしろ、こもなどを引きはり置いていたので、中に未だ兵が居ると思って引き返した。
後で城方の捕虜がいたので城内の様子を尋ねたところ、『そのあたりに人は一人もいなかったが、
ただ手立ちにああ致していた。』と語った。

このように、物事を雑に決めつけては落ち度の有るもので、詳細に考えなければいけないものだ。」

またこの人は

「合戦の時、敵よりも味方に目をつけるべきだ。
例えば一人が先に出て敵と戦い踏みこたえている所に、後より二人三人と向かっているようなら、
それは初めの者が強いのだと知るべきで、その所へ行くべきではない。別の所へ一人で出て、
そこで自分も敵と戦い踏みこたえているべきだ。少しばかり耐えていれば、すぐにそこへ人が
集まるものだ。

また、日頃より主人のお気に入りや家中で出頭している人物にも、戦場で側に寄るべきではない。
一人で手柄を立てる了見が有るべきだ。何故なら手柄が調査される時、側に居た場合は、出頭人の手柄と
されがちだからである。」

とも語った。
もう一つこの人の語ったことに

「全ての侍にとって、弓鉄砲の上手と言われるのは悪しきことだ。
そのような評判を持つと。敵城へ火矢を打ち込んで敵を城から引き出したいというような時、足軽などは
射程まで進もうとしないから、人から名指しされてその役目をやらされることが有る。

しかし、射込むことに失敗すれば不快になるし、射込んでも当然のこととされ人から賞賛もされず、
またそういう場所では敵も堅く警戒しているので、全く意味のない討ち死にをすることも有る。
その上最近は、侍の手柄は鑓によるものより上は無い。故に要らぬことを上手になっても益がないのだ。

(士談)

かなり現実的な武功ノウハウのお話


自身の大水牛の立物にも

2017年02月18日 10:20

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 00:47:16.67 ID:whq5Nrg7
黒田長政が言った。
「立物、指物でも海老はねにして指すだけでは、
働く時や馬に乗り立てる時には抜け落ちる者である。
立物には穴をあけ、受筒にも穴をあけ、皮で結びつけるべきである。」

 したがって自身の大水牛の立物にも、ふすべ革で結びつけていたという。

(甲子夜話)


福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

2017年01月28日 09:19

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/28(土) 00:43:19.86 ID:fICDsbzp
福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

 黒田長政が朝鮮で明兵の銅鑼を分捕った。
銅鑼の音が行軍にはちょうどよく、
従来の鐘はわざわざ一人に持たせていたが銅鑼はその人自らが持つもののため、
持つ人、打つ人の二人を兼ね便利というので、
これから長政の軍はみな二器〔鐘鼓〕を鐘に代えた。
よって今でも福岡侯は軍用の二器にはすべて銅鑼を用いるという。

市川一学の話である。

(甲子夜話)

逆になぜ他では銅鑼が流行らなかったのだろう?



548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 21:54:09.34 ID:0gRhgwwT
>>546
ジャーンジャーンジャーン
三成「げぇっ内府!」

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 22:21:07.78 ID:n0T35VGg
銅鑼と言えば朝鮮戦争で義勇軍という名の共産党軍は、
銅鑼鳴らしながら攻撃してきてアメリカ軍を恐れさせたとかw

三国志かよw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:26:14.26 ID:GDrmIVte
阿片戦争で女性用のおまる使って
砲弾の軌道をそらせようとした清軍よりはマシだな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:42:59.96 ID:1xKiVCOY
>>549
銅鑼に加えて死兵なら恐れるのは当然だな、天皇万歳w突撃を想起させる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 00:06:47.70 ID:E/grpkJH
しかし義勇軍とは、よく名乗ったものだ

日光一文字刀之拵注文

2017年01月13日 11:32

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/12(木) 23:27:05.87 ID:n7OaOJHp
 日光一文字刀之拵注文

一、はゝき(鎺)上下 印字   むく(無垢)上はゝき(鎺)柏のすか(透)し
一、せつは(切羽) 印字   こきさ(小刻)ミ
一、しととめ(下留) 印字
一、ふち(縁) 赤銅二めんふち(面縁)
一、さや(鞘) ちい(小)さめ
一、目貫 かうかい(笄)  小刀のつか(柄)・つは(鍔) 此方より遣ス
一、くりかた(栗形)かへ(返)り  つか(柄)頭 角
一、こしり(鐺)  しんちう(真鍮)  くさら(腐)かし
        以上
 右ハへし(圧)切之刀ニ少もちか(違)ひ不申様ニ可被仕候、以上、
   閏八月八日(元和九年)      忠之(黒印)
                      埋忠明寿(重吉)老
(黒田家文書)

黒田忠之が父である長政の死後(元和九年八月四日(1623年8月29日))すぐ、日光一文字の拵えを圧切長谷部と
瓜二つに作って欲しいと埋忠明寿に依頼した話。
(なぜ、そろいの拵えにしようとしたのかは不明)

・日光一文字は忠之誕生時に、如水から忠之に贈られている。
・圧切長谷部は長政の遺言で四男高政へ贈られている。
・日光一文字の拵えは19世紀頃には行方不明となり、圧切長谷部の現在の拵えは江戸末期の物
(安宅切とお揃いで、安宅切の拵えの方が先に出来ている。このため福岡市博物館のTwitterに「へし切長谷部と
ペアルック」と安宅切展示公開時に書かれる)

黒田家の刀の拵えはお揃いにしないといけないのだろうか・・・

国宝圧切長谷部一月五日から二月五日まで福岡市博物館で展示中なので
書いてみた。連日沢山の人がきているそうな。




旗奉行は武功の者を撰ぶ

2016年11月23日 14:05

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 21:06:11.66 ID:90REVHuF
旗奉行は武功の者を撰ぶ


 旗奉行は武辺功者の人を選ぶものだという。
黒田長政の臣、竹森石見(次貞)という旗奉行が豊前紀伊谷という所の合戦で、
黒田の先手が乱れて逃げ帰るのを、石見自身が旗竿を横に持って士卒をせき留め、
『かかれ!、かかれ!』と言ったので、その軍も盛り返してついに勝利したという。
(甲子夜話)



341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:32:50.87 ID:TQklu1C2
>>339
実際は負け戦だったろ

我が先、朝鮮在陣の笑談

2016年10月29日 12:30

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI
我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える



後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

2016年10月14日 21:10

213 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:04:55.82 ID:EfRVp88D
後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

黒田長政が豊前の国人一揆で城井城を攻めた際、反撃を喰らって撤退した際に
殿軍を後藤又兵衛が務めたはずであった。
後に論功賞の際に後藤又兵衛は殿軍を務めたと主張するが
新参者である城戸乗之助が赤い陣羽織を持ち出して自分こそが殿軍であると主張した
その陣羽織は後藤又兵衛の陣羽織であった。
乗之助曰く「又兵衛殿が殿軍であれば自分が陣羽織を拾うはずがない、
陣羽織を拾った自分こそが殿軍である」と主張した。
その事により殿軍は城戸乗之助になった。
この件が原因で黒田長政後藤又兵衛の間に軋轢が出来て
後藤又兵衛の出奔の一因となった。
その後、城戸乗之助黒田長政と大坂に向かう途中で
備後福山付近で行方不明になった。
その後の彼の行方は不明である。



214 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:33:38.06 ID:EfRVp88D
大事な事なので二度書きました