黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解

2018年01月29日 17:20

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/29(月) 16:03:18.94 ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。


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黒田長政は参勤する時

2017年12月01日 18:07

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 16:48:10.19 ID:LKc6Pf/B
黒田長政は参勤する時、道を変えて往来し、宿も定めず、どこにでも一宿した。
ただし旅宿とするのは、その付近で第一に道の広い所、第二に所用に便利である所、
第三に火の用心の気遣いが出来る場所と決めていた。

彼は在国の間も放鷹狩猟で士卒の心得を学ばせ、昼の休憩所にも見立てをやらせ、
陣を設営するときの経験を積ませた。

また他方へ使者を遣わす際も、所用が済んだ後には、その国の様子、気がついたことなどを
尋ね、その報告の内容によって当座の褒美を与えた。

(士談)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 18:53:05.72 ID:CUFfCuYE
事前に宿決めないって…

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 21:24:42.78 ID:eU3fI7CI
道を変えてたんだからしゃーない、でもなんで変えたんだろ、安全のため?
スターリンは毎晩寝る部屋を変えたそうだが…父親譲りの慎重さか。

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 21:43:08.19 ID:M0q5U8Q0
カウティリヤ「実利論」でチャンドラグプタ王も毎日寝室を変えていたとかあったような

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 21:55:55.12 ID:HTosqQ68
後宮てやつか

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/01(金) 22:00:39.00 ID:M0q5U8Q0
いやスターリン同様暗殺を防ぐためが主な意図

さてはますます勇士の機

2017年11月23日 13:06

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 09:39:25.77 ID:mJcw9C4d
関ヶ原の時、田中筑後守(吉政)の家臣で田辺甚兵衛という者の子、父は早世して
甚兵衛の名を継いだが、10歳にて陣立てした。彼の家臣たちが敵を突き落とし、甚兵衛を
馬より抱き下ろして頸を取らせた。
幼少の子として比類なき儀であると、その頃世間で大変に賞賛された。

後に、黒田長政田中吉政を訪れた時、四方山の物語の中で、吉政がこの甚兵衛の事を語った。
長政はこれに大いに感じ入り、甚兵衛を呼び出し盃を与えた。この時、「甚兵衛を補佐した
家来どもも呼び出して様子を尋ねよう」という事になり、甚兵衛の家来たちも出頭した。

長政が当時の様子を具体的に尋ねると、彼らはこう証言した
「馬より抱き下ろした時、刀を抜いてかかりましたが、わなわなと震えていました。
それを家来どもに恥ずかしめられ、震えながら立ち寄りて頸を討ったのです。」

これを聞いて長政は再び大いに感じ入った。
「さてはますます勇士の機がある。震えずにかかったなら、十方無き故(頭がからっぽだから)と
言うべきであろう。恥ずかしめられてかかったのは、義をつとめて致すという行為だ。」

そう評したという。

(士談)

田辺甚兵衛の初陣・いい話

こちらに既出の逸話ですが、出典があり詳しかったので



大将の旗、纏、馬印

2017年10月28日 12:02

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/27(金) 23:28:17.57 ID:QPdRFwSZ
大将の旗、纏、馬印などというものは、高く遠くからも見えることに利がある。
これは相印となり、将の下知がよく届くためである。

豊前の城井一揆の時、その谷口に戦術上良い地形があり、その山を取れば利があり、取られれば
不利になるものであったので、黒田長政はこれを見て取ると、宵より物見をかけ、この山を占拠するとし、
そうして山に備えを段々と上げた。

ここまで城井の兵は全く見えなかったので、さては黒田勢に辟易して退去したかと、各々喜び
緊張が緩んだ。

その時、城井の馬印である赤い吹抜が突然現れた。
黒田の兵はこれに驚き、「唯今足元よ敵が出たり!」と混乱し敗軍した。

この時黒田の機は、行列の時のように長く立ち備えていた。これが進みながら敵と遭遇したため、
旗を立て直すことが出来なかったのである。
先の方からは「旗を立て直せ!」と下知があったが、旗奉行はこの命令を聞き入れなかった。
「その時間が有るからと言って、もし立て直すようなことをすれば、むしろより早く
軍が崩れます」
という理由であった。

賤ヶ岳の戦いで、秀吉の金の纏が出て佐久間玄蕃の兵たちが気を失い、小牧にても家康の扇の纏が出たことで
敵軍気を失い、関ヶ原にても家康の纏が突然現れたことで、石田三成は大いに驚き謀を失ったと言うが、
これらも同一の事例であろう。

(士談)



それ故弾が力なく

2017年08月12日 18:18

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/12(土) 18:15:34.81 ID:P5a+mbW7
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)


主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


御留守に任じて

2017年07月02日 21:15

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 22:30:01.06 ID:or08M729
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)



924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 06:40:34.79 ID:EcUAn0qX
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:12:03.53 ID:PA608L7X
心得が鯛

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:43:58.18 ID:OVzA0S6z
納得しかねる、みたいな

谷太郎左衛門、戦での心得

2017年05月26日 12:39

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/25(木) 19:49:49.60 ID:JlazAfFn
黒田長政の配下に、谷太郎左衛門という、度々武功を上げた者があった。
長政は彼を援助し、牢人分として養い置いた。

そんな太郎左衛門が語ったことに、

「近江においての有る合戦で、城に乗り込むという時、鉄砲によって至近距離から肩を撃ち抜かれた。
しかしそれにも構わず、その鉄砲の筒口を掴んで屏の上に乗り上げたが、城中は屏の内に
杭を打って、むしろ、こもなどを引きはり置いていたので、中に未だ兵が居ると思って引き返した。
後で城方の捕虜がいたので城内の様子を尋ねたところ、『そのあたりに人は一人もいなかったが、
ただ手立ちにああ致していた。』と語った。

このように、物事を雑に決めつけては落ち度の有るもので、詳細に考えなければいけないものだ。」

またこの人は

「合戦の時、敵よりも味方に目をつけるべきだ。
例えば一人が先に出て敵と戦い踏みこたえている所に、後より二人三人と向かっているようなら、
それは初めの者が強いのだと知るべきで、その所へ行くべきではない。別の所へ一人で出て、
そこで自分も敵と戦い踏みこたえているべきだ。少しばかり耐えていれば、すぐにそこへ人が
集まるものだ。

また、日頃より主人のお気に入りや家中で出頭している人物にも、戦場で側に寄るべきではない。
一人で手柄を立てる了見が有るべきだ。何故なら手柄が調査される時、側に居た場合は、出頭人の手柄と
されがちだからである。」

とも語った。
もう一つこの人の語ったことに

「全ての侍にとって、弓鉄砲の上手と言われるのは悪しきことだ。
そのような評判を持つと。敵城へ火矢を打ち込んで敵を城から引き出したいというような時、足軽などは
射程まで進もうとしないから、人から名指しされてその役目をやらされることが有る。

しかし、射込むことに失敗すれば不快になるし、射込んでも当然のこととされ人から賞賛もされず、
またそういう場所では敵も堅く警戒しているので、全く意味のない討ち死にをすることも有る。
その上最近は、侍の手柄は鑓によるものより上は無い。故に要らぬことを上手になっても益がないのだ。

(士談)

かなり現実的な武功ノウハウのお話


自身の大水牛の立物にも

2017年02月18日 10:20

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 00:47:16.67 ID:whq5Nrg7
黒田長政が言った。
「立物、指物でも海老はねにして指すだけでは、
働く時や馬に乗り立てる時には抜け落ちる者である。
立物には穴をあけ、受筒にも穴をあけ、皮で結びつけるべきである。」

 したがって自身の大水牛の立物にも、ふすべ革で結びつけていたという。

(甲子夜話)


福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

2017年01月28日 09:19

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/28(土) 00:43:19.86 ID:fICDsbzp
福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

 黒田長政が朝鮮で明兵の銅鑼を分捕った。
銅鑼の音が行軍にはちょうどよく、
従来の鐘はわざわざ一人に持たせていたが銅鑼はその人自らが持つもののため、
持つ人、打つ人の二人を兼ね便利というので、
これから長政の軍はみな二器〔鐘鼓〕を鐘に代えた。
よって今でも福岡侯は軍用の二器にはすべて銅鑼を用いるという。

市川一学の話である。

(甲子夜話)

逆になぜ他では銅鑼が流行らなかったのだろう?



548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 21:54:09.34 ID:0gRhgwwT
>>546
ジャーンジャーンジャーン
三成「げぇっ内府!」

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 22:21:07.78 ID:n0T35VGg
銅鑼と言えば朝鮮戦争で義勇軍という名の共産党軍は、
銅鑼鳴らしながら攻撃してきてアメリカ軍を恐れさせたとかw

三国志かよw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:26:14.26 ID:GDrmIVte
阿片戦争で女性用のおまる使って
砲弾の軌道をそらせようとした清軍よりはマシだな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:42:59.96 ID:1xKiVCOY
>>549
銅鑼に加えて死兵なら恐れるのは当然だな、天皇万歳w突撃を想起させる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 00:06:47.70 ID:E/grpkJH
しかし義勇軍とは、よく名乗ったものだ

日光一文字刀之拵注文

2017年01月13日 11:32

507 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/12(木) 23:27:05.87 ID:n7OaOJHp
 日光一文字刀之拵注文

一、はゝき(鎺)上下 印字   むく(無垢)上はゝき(鎺)柏のすか(透)し
一、せつは(切羽) 印字   こきさ(小刻)ミ
一、しととめ(下留) 印字
一、ふち(縁) 赤銅二めんふち(面縁)
一、さや(鞘) ちい(小)さめ
一、目貫 かうかい(笄)  小刀のつか(柄)・つは(鍔) 此方より遣ス
一、くりかた(栗形)かへ(返)り  つか(柄)頭 角
一、こしり(鐺)  しんちう(真鍮)  くさら(腐)かし
        以上
 右ハへし(圧)切之刀ニ少もちか(違)ひ不申様ニ可被仕候、以上、
   閏八月八日(元和九年)      忠之(黒印)
                      埋忠明寿(重吉)老
(黒田家文書)

黒田忠之が父である長政の死後(元和九年八月四日(1623年8月29日))すぐ、日光一文字の拵えを圧切長谷部と
瓜二つに作って欲しいと埋忠明寿に依頼した話。
(なぜ、そろいの拵えにしようとしたのかは不明)

・日光一文字は忠之誕生時に、如水から忠之に贈られている。
・圧切長谷部は長政の遺言で四男高政へ贈られている。
・日光一文字の拵えは19世紀頃には行方不明となり、圧切長谷部の現在の拵えは江戸末期の物
(安宅切とお揃いで、安宅切の拵えの方が先に出来ている。このため福岡市博物館のTwitterに「へし切長谷部と
ペアルック」と安宅切展示公開時に書かれる)

黒田家の刀の拵えはお揃いにしないといけないのだろうか・・・

国宝圧切長谷部一月五日から二月五日まで福岡市博物館で展示中なので
書いてみた。連日沢山の人がきているそうな。




旗奉行は武功の者を撰ぶ

2016年11月23日 14:05

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 21:06:11.66 ID:90REVHuF
旗奉行は武功の者を撰ぶ


 旗奉行は武辺功者の人を選ぶものだという。
黒田長政の臣、竹森石見(次貞)という旗奉行が豊前紀伊谷という所の合戦で、
黒田の先手が乱れて逃げ帰るのを、石見自身が旗竿を横に持って士卒をせき留め、
『かかれ!、かかれ!』と言ったので、その軍も盛り返してついに勝利したという。
(甲子夜話)



341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:32:50.87 ID:TQklu1C2
>>339
実際は負け戦だったろ

我が先、朝鮮在陣の笑談

2016年10月29日 12:30

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI
我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える



後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

2016年10月14日 21:10

213 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:04:55.82 ID:EfRVp88D
後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは

黒田長政が豊前の国人一揆で城井城を攻めた際、反撃を喰らって撤退した際に
殿軍を後藤又兵衛が務めたはずであった。
後に論功賞の際に後藤又兵衛は殿軍を務めたと主張するが
新参者である城戸乗之助が赤い陣羽織を持ち出して自分こそが殿軍であると主張した
その陣羽織は後藤又兵衛の陣羽織であった。
乗之助曰く「又兵衛殿が殿軍であれば自分が陣羽織を拾うはずがない、
陣羽織を拾った自分こそが殿軍である」と主張した。
その事により殿軍は城戸乗之助になった。
この件が原因で黒田長政後藤又兵衛の間に軋轢が出来て
後藤又兵衛の出奔の一因となった。
その後、城戸乗之助黒田長政と大坂に向かう途中で
備後福山付近で行方不明になった。
その後の彼の行方は不明である。



214 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/14(金) 18:33:38.06 ID:EfRVp88D
大事な事なので二度書きました

伊東祐慶への十一ヶ条の教訓

2016年07月08日 16:36

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/07(木) 20:11:29.93 ID:w0Q7Terw
慶長八年正月、伊東祐慶(当時14歳)は一族の人々を引き連れ上洛した。船中、佐賀関より松浦久兵衛尉、
平川文右衛門尉、借家原甚右衛門尉の3人を筑前国博多へ遣わされ、前年に起こった『稲津の乱』について報告し、
同時に伊東家における家中の制度、すべての予算に関する目録を、黒田如水の一見に備え、万事その指図を受けて
程なく3人は祐慶の後から上洛した。

同年4月の初め、黒田甲斐守長政も江戸より上洛あったため、伊東祐慶は京都において、長政にも
目録等を差し出し、万事の指図を頼んだ。すると長政は、十一ヶ条の教訓を書いた。

一、2日に一度は御定あって御目見得のための登城があるべきです。
一、節々の御上京は無用です。
一、御小姓など幼い者たちを側で重用するのはやめましょう。節々の御付き合い入らぬことです。
一、内々に太郎右衛門が申し聞かせた事は、必ず聞いて下さい。
一、難しくても、宿老の面々とは、細々とでも御参会すべきです。
一、私の所に大勢の人を置くのも入らぬことです。
一、船等の事は、拙者が留守居の者にに申し付け置いていますので、伏見への往復がある時は仰せ付けて下さい。
一、財政についての事は、日記にはっきりと記録し、それを如水が間もなくこちらに上ってくるので、その時
  御相談すべきです。
一、以上の事を徒に思われるのなら、罰が当たると、私は考えていますよ。
一、御家中の者をご成敗の時は、先ず私に御相談下さい。卒爾に仰せ付けてはなりません。
一、二十歳以前に、様々なことを御心のままにしてしまっては、未熟なままに成ってしまいます。
  昼夜お心遣いが肝要です。 以上

 卯月二十日             黒田甲斐守

         伊東修理殿

(日向纂記)

未だ若年の伊東祐慶に宛てた、黒田長政の、甥っ子を心配する伯父さんのような教訓状である。




915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/08(金) 00:40:01.57 ID:JK9/VnlS
長政は良い人だな!

後藤又兵衛は大志ある男である

2016年06月03日 19:48

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 11:10:55.75 ID:bO2ktwaZ
 後藤又兵衛は大志ある男である。
初め黒田長政に仕えていたが、長政が筑前を賜って移封したときに、又兵衛が

「このような辺鄙に住んだら大業は成らない」

とのことで、黒田家を辞めて浪人となった。
その後大阪で浪人を集めると聞いて再び秀頼に仕え、
軍利なくてついに討ち死にし身果てた。大志の弊と言うべきか。

 また朝鮮へ初めて諸軍渡って上陸すると、辺民がことごとく逃散して、みな空き家となっていた。
兵卒がその家に入ってみると、壺瓶の類に、酒が満ち溢れていた。
時に誰かが言い出したのだろうか、
「これは毒酒で人を殺す計である。」との噂が流れた。
諸人は聞いて恐れ、飲む者はいなかった。
又兵衛は

「例え何であろうと渇きを凌ぐに十分だ。
もし毒があれば我が一番に飲んで死のう。」

と引き受け引き受け飲んで、

「言葉にできない美味だ」

と舌打ち居たので、諸卒これを視て、我先にと群飲して、益々鋭気を得たという。
世諺にいう毒の試とはこれから始まったという。
(甲子夜話)



今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何

2015年12月24日 17:19

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/23(水) 22:20:43.15 ID:bLrOq9AT
黒田家の重臣吉田長利は官兵衛と長政を長利の家に招いて饗応するということが、時々あったらしい。
関ヶ原以降の豊前から筑前に移った際貰った知行の早良郡広瀬の別荘にも二人を呼んだりしたらしい。

ある時に長利が主君である長政を広瀬に招いて行った酒宴が数刻に渡って及び、長政は密かにその座を立って帰路についた。
それを聞いた長利は、瓢箪に酒をいれて杯を持って、馬に鞍もつけず乗り長政を追いかけた。

仙道川の辺りで追い付いたので、長利はふざけて

「あなたが昔戦場においても逃げ走るのを見たことがないというのに、今盃酒を捨てて逃げ帰るのはどういうことですか」と言った。

そう言われた長政は面白いと思ったらしく、そのまま河原でまた酒宴をしたらしい。

「或ル時 長政君広瀬ニテ御酒宴数刻二及ビ竊二其ノ座を立ッテ帰路二赴キ玉フ。長利是レヲ聞瓢二酒ヲ入レ杯ヲ持、肌背馬二乗ッテ御後ヲ慕、仙道川ノ辺リニテ追ヒ著キ奉リ、
 長利戯テ君昔シ戦場二於テ逃走玉フヲ見ズ。今マ盃酒ヲ捨テ逃帰リ玉フハ如何。長政君入興シ玉ヒ川原ニテ復御酒宴ヲ催サレシト」



こうして家臣の家に主君を招いて饗応する習慣この話を記述した吉田家五代目治年の頃にも続いており、
「家屋を飾り、饗応の美を尽くすことは古には勝っているが、その誠情の篤いことは古には及ばない。」と子孫に伝えられている。


(吉田家伝録)

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/23(水) 22:22:20.18 ID:bLrOq9AT
ちなみにこの吉田さん

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3573.html
↑この逸話でも長政に突撃晩御飯かましてたりしてる人ですが

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8643.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5055.html
↑黒田家内で武功No.3のかなりの猛者です。



黒田長政の勧め

2015年11月04日 06:06

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/03(火) 21:05:31.92 ID:nVddd3NE
関ヶ原について記した一書に曰く、福島正則が小山会議で最初に「御見方せん!」と申したのは、
黒田長政の勧めに依ったのだという。

その内容は、上方に軍が起こった事、小山の御陣に注進があった。この時黒田や福島の先陣は
宇都宮にあった。まず家康は、黒田長政を召した。長政は家康からの使いの旨を察して、
小山に行かず、福島正則の陣に行って「上方に与するのか、または関東に従うのか?」と
問うた。正則は母と妻が大阪に人質としており、その心、定まっていなかった。
ここで長政は

「秀頼公は未だ幼い。それがどうして、内府殿を滅ぼすべしと命ぜられるでしょうか?
これが石田たちの計略であること、明らかです。
またあなたの子である形部少輔は小山の陣におられる。これを捨てて上方に参るのか?
母を捨てるのも子を捨てるのも、人質を捨てるのは一緒である。

また、今の勢いを見るに、内府殿の勢いは弱い、上方の勢いは強い。

であれば、正しきを捨てて邪に従い、強きに付いて弱きを避けるというのは、武士の本意ではないと
私は思う。あなたはどう考えるか!?」
このように言われ、正則の心は決した。

その後長政は小山に参り、この事を家康に伝えた。すると家康は
「そなたを召したのは余の儀に非ず、その事を計るためであった!何と素早く察したものか!」
そう大変に喜んだ。ここにおいて家康は諸大名を小山に集め、人々の心の程を尋ねた時、
福島正則は真っ先に味方する旨を宣言したという。

(藩翰譜)



黒田長政が筑前を望んだ理由

2015年10月04日 12:02

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 21:41:24.88 ID:VQ5niA2W
関ヶ原の戦いが終わり、徳川家康は東軍諸大名への論功を進める中、
黒田長政に対してはその功を賞し、豊前を改め他国を与えると決めたが、
そこで家康は本多中務大補(忠勝)にこのように言った

「甲斐守(長政)についてだが、彼には中国筋に2ヶ国も与えるべきか、また筑前は
九州都府の地であり、殊に異国からの防御のため大切の所であり、私は甲斐守をそこに
置きたいと思っている。汝に甲斐守の所存を尋ねて来てほしい。」

そこで忠勝は長政の元に行き、その内意を問うと、長政

「豊前を改め大国を御恩賜あるとの事、誠にかたじけない事です。殊に、都に近い
中国にて2ヶ国は、最も望むべきことです。

ですが、おおよそ今後、天下は泰平となるでしょうから、日本において、御恩を謝し奉る
弓矢の沙汰も起こらないでしょう。一方筑前の守護は、古来よりの都府の地、殊に
異国からの防御のため、先鋒の場所でありますから、武門の大望、これ以上のものは有りません。

であれば、筑前は中国にて2ヶ国拝領することに優っており、我が願うところです。」

これを忠勝より聞いた家康は大いに喜び、長政に筑前を与えた。

(黒田家譜)

黒田長政が筑前を望んだ理由、である。



788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 23:07:35.57 ID:22KAeO00
忠勝が使者なのか

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 00:19:40.05 ID:v1ZN6V03
忠勝は外交官として、いろいろなところに出向いてるよ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 15:13:47.59 ID:9UrTgLAK
さすが長政さま(棒

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 23:04:38.34 ID:1C/BfZUU
長政って名前の人は皆根拠のない自信にあふれてる気がする

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 01:00:10.54 ID:6q+ElVn1
浅井と浅野、黒田に山田か
確かに自信家が多そうだ

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 01:12:52.51 ID:C1KVxYYq
葉を見て樹を知ったつもりになる
それも大事なことです

795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/05(月) 01:49:06.68 ID:ANXBzaWf
葉を見れば木の状態はおおよそ分かる

黒田長政、晒されている三成に(黒田家譜ver)

2015年10月03日 17:30

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/02(金) 22:44:11.53 ID:PRxEyR6X
石田治部少輔(三成)、小西摂津守(行長)、安国寺(恵瓊)、この3人は
今度の大乱(関ヶ原の戦い)を起こした張本人であるが、戦場にても死なず、
猶も命を免れんと、ここかしこに隠れ居たのを、皆搦め捕られ、先に大阪に遣わされ、
諸大名途上の途中に晒された。

この時治部少輔が搦め捕られている所を、諸大名は何の会釈もなく通り過ぎた。
だが、黒田長政ただ一人、治部少輔の側に来て

「今度の不慮の儀が出来、貴殿の成り行き斯くの如くにて、無念千万な事でしょう。
ですが武士は古よりかかる例も多くあります。これが恥辱であるとは全く思いません。」

この言葉に、さすがの治部少輔もその情けに感じ入り、

「このように成り果ててしまっては、哀れだと言ってくれる人すらいないというのに、
真に情け深く感じています。」

そう言って涙を落とした。

その後この3人は、町中を引き回し、また京都に送られ、10月朔日、あやしげなる荷車にので、
天下の大敵なれば、先例に従って大路を渡された。京中の貴賎男女、これを見物した。
一番は石田、二番は安国寺、三番は小西であった。
彼らは六条河原にて皆首をはねられ、三上の橋の側に獄門にかけられた。

(黒田家譜)

黒田家譜での、三成が晒されている時の模様である




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 05:32:57.65 ID:hb7d9bWS
長政さまかっこいい(棒

782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/03(土) 05:57:08.16 ID:DdaBQTFa
黒田長政「カッコいいとは、こういう事だ」

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 07:21:43.81 ID:zYdG7KXx
衣は着せなかったのか

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 07:36:34.24 ID:RBN1Zk/h
長政「衣は歯に着せました」

785 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/03(土) 08:37:41.27 ID:L15PhrqJ
この男、ドヤ顔である

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/03(土) 11:31:21.00 ID:dUzku7m+
さすが長政様(棒