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竜造寺隆信は念入りに世の転変を了簡した

2020年07月21日 18:10

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/21(火) 00:19:32.56 ID:kYKXU6n9
元亀二年毛利元就、芸州に卒去す。
嫡孫輝元家を継ぎ、二男、小早川隆景が家のことを執り行った。
竜造寺隆信は念入りに世の転変を了簡した。
「その昔、大内氏全盛の時は、かの家に通じて家業を落とさなかった。大内は既に滅んで、毛利氏中国を呑む。
 我は初めより元就に志を運んだ。元就既に卒去し輝元その跡を継ぎ、今、義昭将軍は、輝元のもとにおわします。どうして弔い申さないでおられよう。」
かくして鍋島信生を使節とし、隆景に付いて義昭卿に通じられた。
将軍ことに御悦喜なさり、九州平均の命を隆信にくだされた。
隆景と信生は関係良好であったので、将来のことなど談ぜられ、信生は帰国された。
隆信は将軍の命を受けた後は、いよいよ弓矢の工夫を怠られることなく、九州平治の計略の外他事なかった。

肥陽軍記



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龍造寺隆信「佐賀に来い」

2019年06月10日 14:25

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 22:00:08.11 ID:hwQ6Bi9R
当地方のキリシタン一同を驚愕させ、少なからぬ恐怖を懐かせた事は、龍造寺(隆信)が大村の領主
ドン・ベルチラメウ(大村純忠)に、その嗣子と共に佐賀(Sanga)城に来るよう頻りに求めたことである。

ドン・ベルトラメウおよびその一族は非常に困惑し、一方には、龍造寺の意図は、平和を口実として
ドン・ベルトラメウとその子、並びに領内の主要な人物を悉く集めて、日本の他の領主が成すように、
これを殺すことにあると言う者があり、また一方には、もし招かれても行かず、彼を信用しないということを
明らかにすれば、龍造寺は大いに怒って敵意を明示するであろうと言う者があった。
龍造寺が非常に有力であるのに対し、大村の武力はこれに対抗するのに充分ではない。
このため、二つの手段のどちらを取るかは容易に決定しなかった。

パードレ達はドン・ベルトラメウとその一族が自ら敵の手に投降するのは不可であると考えた。
この下の地方(九州)の長老であったパードレ・ガスパル・クエリヨは危険に陥ることを慮って龍造寺の元に
行くことを喜ばず、龍造寺を満足させる手段を講じてこれを断るべきであると主張した。しかし龍造寺は、
ドン・ベルトラメウとその一族が彼の招きに応じなければ満足する様子がなく、ドン・ベルトラメウは敵の
勢力と悪意に大いなる恐怖を抱き、一族とよく協議した上で、己を彼の手に委ね、それによって彼の意を
和らげることに一縷の望みをかけて、その嗣子および領内の主だった大身達と共に、五百人の武士を従えて
龍造寺の居城、佐賀に向った。

事の成功を予知することも、またこれを避けることも叶わず、もしドン・ベルトラメウとそれに同行した
武士たちが悉く殺されれば、全領土は敵の所有に帰し、ドン・ベルトラメウも一族も帰って来る望みは
無いのでなないかと、我等(宣教師)の恐怖が非常であったことは、尊師も諒解されるであろう。
さらに有馬の領地も同一の危険に瀕し。当地方のキリシタン教会は全滅に至る懸念が有って、この心配と
恐怖の間に二十日間を過ごした。

しかしながら主はこの苦痛より我々を救出し給い、ドン・ベルトラメウは龍造寺より歓待され、様々に
名誉を与えられ、相互の間に平和協定を成し、これを確保するため、龍造寺は一女をドン・ベルトラメウの
嗣子に嫁がせる約束をした。少しも期待されず、事後ですら信じられぬ程であったこの好結果は、諸人に
大いなる喜びを与えた。

これがデウスの特別なる御恵であった事を示すのは、間もなく起こったカマチドノ(Camachidono:柳川城主・
蒲池鎮漣)と称する、ドン・ベルチラメウに劣らぬ勢力を有する筑後国の異教の領主が、ドン・ベルチラメウと
同時に龍造寺に招かれた事であった。或いは両人とも殺すつもりだったのかも知れない。
蒲池殿は起こるべきことを懸念し、ドン・ベルチラメウの様子を見ることにして待っていたが、龍造寺は
ドン・ベルチラメウに好意を示し、蒲池殿はこれに安心してその招きに応ずることとし、一族及び武士たちと
共に佐賀に到着し、龍造寺からドン・ベルチラメウと同様の歓待を受けた。このため彼らが注意を怠り、
思いもよらなかった時、龍造寺は4,5千人を以て蒲池殿の居場所を囲み、彼とその一族を悉く殺した。
蒲池殿たちは勇敢に戦ったが、多勢に抗することは出来なかった。

その後龍造寺は兵を出して彼の領地を攻めたが、住民たちは何の用意もなかったため少しも抵抗出来ず、
彼は容易にその地を占領して非常な残虐を行った。貴婦人たちは夫が既に殺されていたので、龍造寺に
捕らえられて、最も恐れた侮辱を受けるよりも寧ろ死を選ぶとして自殺した。

蒲池殿がかくの如き不幸に遭遇したので、我等はデウスが特別の御恵を以て、同様なる運命から
ドン・ベルチラメウを救出し給った事を感謝した。
しかしこの敵(龍造寺)は生命有る限り、有馬及び大村の領主並びにキリシタン教会に対し害を加える
懸念があり、我等は常に恐怖を抱いているのである。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

龍造寺隆信が「佐賀に来い」と要求したことへの波紋



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 23:29:16.21 ID:ZfkTXeho
龍造寺がキリスト教のバックを考慮したんなら、手前味噌ながら方向性は正しいな

豊後の王の勝利

2019年04月21日 16:22

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 09:14:51.28 ID:WjCbBoTL
この頃豊後の王が戦争に勝利を得たという報告が我らに達した。大内輝弘王が毛利占領下の山口に渡り、
(永禄十二年九月、大内輝弘の乱)、その地に軍備がないのを発見し、その大部分の占領を始めた。
この報が暴君(毛利元就)の軍隊に達すと、毛利軍は一晩の間に、大友方に悟られること無く九州の戦線より
撤退した。豊後の王(大友宗麟)の部将たちはこれを知り、大兵を集めたため、1ヶ月の間に城十ヶ所を
陥落させ、これによって戦争の目的であった二ヶ国(豊前、筑前)の主となった。

領内が安全と成った後、戦争中最も強かった肥前国の領主(龍造寺隆信)らから受けた危害に対して報復を
せんと決し、軍隊を同地方に差し向けた。ドン・ベルトラメウ(大村純忠)は、豊後の王が自分の領地と
接した龍造寺を滅ぼそうと来て、これを滅ぼした後自分にその刃を向けるのではないかと恐れ、しかし
大友に抵抗する力は有していなかったため、パードレ・コスモ・デ・トルレスに依頼して豊後の王と親交を
結ばんと決し、「王(宗麟)がもしこれを許諾するのならば、自分も大友の肥前攻めに兵を出して協力する」
と申し出た。

豊後の王は今日まで我々(宣教師)に対し何事も拒絶したことはなく、パードレ・コスモ・デ・トルレスが
今回請うた事も悉く許容したため、ドン・ベルトラメウは大いに満足し、その兄弟である有馬の王(有馬義貞
も又、豊後の王と親交を結び、パードレ・コスモに大いに感謝した。
ただしこのようになったのは、彼らが暴君(毛利)のために利益を計った事があったためである。

(1570年10月12日(元亀元年九月十三日)付、イルマン・ミゲル・バズ書簡)



有馬と龍造寺合戦の次第

2018年03月12日 17:08

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/12(月) 14:22:15.76 ID:2vy575Ch
有馬家と龍造寺家が合戦をするようになった次第は、有馬義貞と龍造寺隆信両家の境である、
牛津川と申す所に、龍造寺隆信領分より有馬義貞の領分へ踊りを掛け参り、その人数の内
一両人ほどが、水がほしいと百姓の家に押し入り、水を汲んでいた所、その家の亭主に

「何者なれば案内も申さず、濡れ草鞋にて座敷に踏み上がり狼藉な事をするのか!?」

そう散々に悪口を申したことで喧嘩となり、村中の者達が掛け合い踊りに参った者たちを
数多討ち果たした。

その事が龍造寺に聞こえ、隆信は有馬領分へ攻め入った。有馬義貞領分のうち、杵島郡須古の城代は
平井小左衛門という者であったが、ここには隆信より小川一祐という者を大将として、
永禄11年2月6日に城攻めに取り掛かった所、城中より人数を出し、龍造寺勢を須古の百町無田へ
追い込め、大将小川一祐を始め雑兵たち尽く討ち取った、
そこで須古の城より落書を立てた。当時龍造寺隆信の城下は中坂と言っていたため

 中坂は 花のみやことききつるに 少しの風に一祐もなし

永禄12年2月7日、龍造寺隆信は大軍で須古城へ取り掛かり、須古は落城した。
またこの時、先の須古の落書への返歌を立てた

 いたはしや そうこひたひにかね付けて へたはら響く須古のかたがた

(有馬晴信記)


溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


龍造寺隆信「塚崎の湯」

2017年04月16日 17:57

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 19:13:30.20 ID:GzosjAB6
なんか可愛いなと思ったので
我らが五州二島の太守、隆信公が弟長信に宛てた二通の書状をご紹介

─御書面被見せしめ、其心を得候、随って塚崎の湯の儀申し入れ候、一日成り共、早々しく参り候様御用意寛容たるべく候、恐々謹言

─先日塚崎湯の儀申し入れ候処、整え給い候、祝着候、何様是を持って快気たるべく候

前者は天正三─五年頃隆信が長信に武雄温泉の入湯の世話を督促した物で、後者は同じ頃と推定される書状の中に記された一節

隆信さんの湯船に浸かってちょっと気持ちのいい話



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 11:54:51.92 ID:u9FIza9O
慶次「なんと風呂に入りたいとな?」

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 12:01:30.70 ID:i78KihVc
家定「同姓の誼で是非それがしに馳走くだされ」

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 14:05:55.15 ID:F47w/3EZ
>>817
山全体を要塞化したら2万人位守備兵が必要だな
長篠城とか上田城みたいに小さくても守る場所が限定
出来て少人数で大軍を撃退出来る城こそ名城といえる

隅州高城、日州耳川での大友家敗北により

2017年02月01日 09:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 18:51:07.68 ID:n10zVkN4
この年(天正6年(1578))、隅州高城、日州耳川での大友家敗北により、国々の城主、郡主は
大友家から背いた。

肥前の龍造寺隆信は、肥筑を討ち平らげ、大友・島津もろとも滅ぼそうと謀った。
同国の小田重光を謀って閨の中に殺し、筑後の蒲池鎮漣舞楽に事寄せ、肥州与賀宮にて殺した。
両人とも、隆信の婿であった。

また龍造寺は松浦、波多、大村、有田などを攻めた。或いは降参し、或いは籠城して大友に加勢を
乞う者もあった。

筑前では秋月種実が、肥後五箇山の城主・筑紫広門と同心し反逆を企て、城井、千手、長野、上原、
原田、麻生、杉、宗像などに手を付け、筑前、豊前を治めようとした。

肥前・肥後では、宇土城、川尻、合志、詫摩、赤星、和仁、相良、有動、小代、隈部、本山、天草山、
山田、津守といった者達が大友の下知に従わず、島津に内通し、あるいは龍造寺に同心した。

筑後では田尻、蒲池、三池、江上、豊持、豊穣、黒木、斎藤、草野、大鳥井らが皆龍造寺隆信
打ち負けて、隆信の幕下となった。
生葉郡井上城の問註所一族と、高良山良寛法印ばかりが、終始大友の味方として忠を成した。

(大友公御家覺書)

耳川合戦以降の、九州の有様について。



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 20:03:55.01 ID:OjIdd8mX
隆信の西肥前勢攻めと鎮光忙殺は耳川前だなあ

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 23:50:32.13 ID:S12jdg3l
耳川後にしないと格好がつかないもんな

同じ子にて候えども

2016年10月11日 16:51

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 13:56:46.31 ID:cTGsgr3g
ある時龍造寺隆信の母・慶ギン尼は隆信と衝突して隆信弟の長信の元へ飛び出したことがあった。
その時、隆信から長信に宛てた書状

「ここもとは見限られて候て罷りあられ候間。家中の儀はそのもとにて随分ふるまい申さるべく候。
同じ子にて候えども、そなたは孝行者に候間、申すことにて候。我らどもは子のうちとは申されず候。おかしく候…」

母親に「長信は孝行者だが隆信は子のうちとは言われない」とまで言われてしまったクマー
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』の「配慮と決断、カエサルに似たり」より)





太閤さま曰く「龍蔵寺隆信という者は」

2016年02月10日 18:52

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 02:49:37.48 ID:CZ/ylyxq
太閤さま曰く

「龍蔵寺隆信という者は名将に違いないだろう。
その理由は、鍋島飛騨守(直茂)に政治を任せているからだ。
これは人を見る力があることに他ならない。
今、飛騨守に会ってみてそれがよくわかった。」

と申された。 【葉隠】



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 10:32:56.23 ID:puLG6I4a
その時はとっくに戦死してるのに名将とは

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 10:49:45.71 ID:1yztIISX
いやだから会った事ないけどこんな男を重用していたならきっと名将だったのだろうという話だろ

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 11:47:43.77 ID:ynrpUDpY
愚者は諫言する家臣を左遷したり誅したりするものですからね

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 13:35:51.50 ID:3eHFHd6C
直茂を諫言で疎んで柳川に飛ばしたって話しも
筑後方面の司令官的な立場を考えると遠ざけたことと違うと思うのよね

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 14:28:39.15 ID:gqS1qBa7
普通左遷なら僻地だもんな
重要拠点なんかに配置しない

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 14:32:49.09 ID:wqpyLFKA
分かってねぇw
平和っていいなぁ

正月の一日二日の事なれば

2016年01月02日 17:32

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 00:04:55.88 ID:yriiHi8D
正月と言えば隆信が鏡神社の大宮司である草野氏を討伐した時に読んだ狂歌がこれ
「正月の一日二日の事なれば草野を焼きて鏡餅かな」
そんな熊さんのちょっと言語センスのいい話



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 11:39:26.48 ID:szi0CsCr
正月早々に戦とかって足軽テンション駄々下がりだろな

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 12:51:14.70 ID:zm4IvZ6I
道雪「だからといって戦線離脱する子は処断だよ」

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 21:26:21.89 ID:xEHA5cdj
貴久「正月早々死にそうになりましたが何か?」

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:14:15.56 ID:po6e0zLa
>>137
隆信は何回か新年あけまして死ね作戦をやってる

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:20:51.12 ID:mQ13eeTc
毛利家臣「幕府を倒す準備が整いました」
毛利「今はまだその時ではない」

そうせい侯が「そうせい」と言うまで繰り返したんだっけ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:35:53.03 ID:oM9JF4Bv
そうせい言うまで幾星霜

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 22:13:39.30 ID:N5kWQ7Ba
こんなのあった

佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 22:22:36.57 ID:mQ13eeTc
>>126

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/04(月) 23:43:38.85 ID:E0f3ljj0
>>140
明けましておめで討か

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 08:04:02.71 ID:Gt/NnWm1
コブラみたいなやつね
ありがと

少弐兄弟の再興のやり方

2014年11月20日 17:51

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:31:03.02 ID:kV3ZtmYj
少弐兄弟の再興のやり方

1559年、少弐冬尚が勢福寺城で斃れた。
同じく冬尚の長弟・千葉胤頼も自害して果てた。

この時冬尚には3人の弟がいた。
相神浦松浦家の養子となっていた松浦鎮(生年不詳だが資元の三男とも)
次弟も三弟ともされる少弐政興(資元の三男とも四男とも)
末弟の少弐元盛(資元の四男とも五男とも)

鎮は養父・親に廃嫡され幽閉されてしまった。
そのあとの鎮は知らない。
残るは政興と元盛の2人である。

政興は『武』で、元盛は『政』で少弐家再興を企んだ。
政興は肥前中野城主・馬場鑑周(頼周の孫)に匿われた。
元盛は今泉朝覚を使者とし、元盛を当主として再興を訴えた。

まず元盛のほうは再興は叶わなかったが、朝廷の綸旨により龍造寺隆信は元盛の命を保障することとなり、元盛はのちに高野山にのぼった。
子供たち4人は隆信に味方することとなる。

一方政興は大友宗麟の同盟を結び、1563年に有馬晴純などの有馬家一門を中心とした西肥前諸勢力と共に隆信に対して挙兵した。
しかし頼みの一角であった有馬家らは早々に敗れてしまい、擁立した馬場鑑周も1565年に肥前中野城にて隆信に降伏してしまった。

進退窮した政興に見えたが、大友宗麟からの後援はいまだあり(毛利家の動向に影響はしているが)、綾部城(少弐山城のことか)にて健在であった。
またこの時は隆信も思うように勢力を拡大できていなかった。

1568年、隆信の娘婿になっていた旧臣・小田鎮光(政光の子)が政興を許してほしいと願い出るが、隆信はこれを許可せずまもなく鎮光は龍造寺家から離反した。
1570年、今山の戦いで大友軍を奇襲で破り勢いづいた隆信は少弐政興討伐をするが、政興は
1572年、筑紫氏や横岳氏の擁立で再びの抗戦するも、綾部城は落城した。(別の城ともいう)
(1571年にも綾部城落城とあるが、こちらは宮山城のことであるという。<少弐氏滅亡という。>)

約10年にもわたり隆信に抗戦した政興であったが、隆信は政興を助命し出家したという。
のちに政興は九州を去ったという。

これにより少弐氏の再興は失敗と終わり、肥前は龍造寺隆信の時代となった。

隆信が冬尚の弟たちを助命した話


(北肥戦誌や福岡県みやま市の史料などを参考)




龍造寺と大イチョウ

2014年05月23日 19:05

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 22:46:29.40 ID:/3s+Jnr/
龍造寺と大イチョウ

筑後国三潴郡に、巨大なイチョウの木があった。
この木に朝日がさすと、その陰は筑後川対岸の肥前国寺井(佐賀県諸富町寺井津、北西に3kmは離れている)にまで届く高さで、切り倒すのに七日かかったほどの太さだったという。

村の名はこの大イチョウにちなんで「一木(ヒトツキ)村」と呼ばれた。

『南筑明覧』


この一木村、龍造寺家兼が、そしてその曾孫隆信が雌伏し、見事佐嘉に復帰を果たした。
龍造寺の家運興起の地だと言えるだろう。

ちなみに七日かけて伐ったのは、天正年間筑後に進出した龍造寺隆信の兵である。

隆信の末路はこの大イチョウのタタリか…




龍造寺隆信「織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也」

2013年10月03日 19:29

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/02(水) 21:54:14.93 ID:d4Ijro18
うっかり戦国漫画かいこのブログからおもしろかったので引用

>藤龍家譜に引ける旧記に、
>「隆信公仰被候は、織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也、
> 信長九州へ發向候半は、小倉に於いて面談いたし、盃事の時、我等大ワザト(蓋大盃の名)にて三盃飲差て猶豫致は、
> 四尺八寸の大刀にて、一刀に討ち果たすべしと仰被候由」トアリ
http://awabaya.jugem.jp/?eid=2239

隆信「信長は俺が殺そうって思ってたのによー、明智に討たれるとか残念でならんわ」
隆信公マジ肥前の熊、な話





我は寺僧・空圓。実は

2013年06月29日 20:00

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 14:13:43.66 ID:wXEh7esj
天正5(1577)年、龍造寺隆信神代貴茂の手引きで島原に上陸し侵攻した。
有馬晴信も兵を出してこれを迎撃したが、龍造寺勢に破られた。
隆信は余勢を駆って千々石氏を攻めたが、これに有馬の援軍も加わり先手はおろか旗本まで崩されることとなった。
これはその時の話である。


隆信の陣には空圓という僧が陣中を見舞っていた。
この空圓は近年肥前に寄って与賀の蜜蔵寺に宿を取っていた際に、村中城へ招かれて法談をしたところ、
隆信夫妻が深く帰依して、蜜蔵寺を修造して光照寺と改め、住職に置かれたものであった。

さて、空圓は、龍造寺の軍が崩壊する様を目撃すると、長袖を結んで肩にかけ長刀を取ると、
「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と叫んで敵に斬りかかり、
四方八方へと敵を討ち払い、奮戦して遂には果てた。
この空圓は、これまで生国も俗姓も話すことはなかったが、ここに至って初めて名乗りを上げたのであった。




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 14:56:08.81 ID:MqAbeISa
誰だよ・・・つか松永久秀の弟が何で今更

私は義士と通じて家を立てる

2013年06月05日 19:58

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 06:04:18.24 ID:CPdK6HUg
弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。

一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。

このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った

「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。

一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。

私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)

龍造寺隆信毛利元就の義に感じ通ずる、というお話




399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 07:38:42.03 ID:1sXLC15E
義はともかくとして、大寧寺の変の余波で城を追われて3年間の雌伏を余儀なくされたわけだし
その原因になった陶とそれに与した大友は認めるわけにはいかんよね

龍造寺隆信の相続

2013年06月03日 19:51

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 00:06:53.76 ID:OGuKHfpT
天文17年(1548)3月22日、龍造寺豊前守胤栄が卒去された。
この方は大内氏の推挙により肥前国の守護代を務められ、五千町を加封し人尽く従った。
胤栄公の夫人は龍造寺家門の娘であったが、胤栄公との間には姫が一人あるだけで、
家を継がれる男子は居られなかった。

このため重臣である小川筑後守や龍造寺播磨守などが相談し、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継がれた
龍造寺胤信公に、龍造寺の嫡流を継がせるべしと迎え取り、先君胤栄公の未亡人と結婚させ、
龍造寺の御家督と仰ぎ奉った。

同18年、大内義隆より隆の偏諱を頂いて、龍造寺山城守隆信と名乗られた。
小川筑後守、納富左馬介、福地主計充といった人々が家老として支えた。

御一家は皆、隆信公に拝謁の礼を取ったが、公は普段から不敵な心を持った方で、
威儀を専らにせず事毎に軽々しく振舞ったため、一門の龍造寺鑑兼の周辺などでは
内々にこの新当主を侮る輩も多かった。

また隆信の夫人も、既に御歳も盛りを過ぎ、先公とのお別れで悲しみに沈む中、
公を弔いのため一心不乱の心であった所を、自身を隆信公の御台とされるべき、などと
聞こえてきて、なんと浅ましいことかと思い沈んだのであるが、老臣達によってこの旨が
決せられ、御家相続のためであるため、気分の気持ちを押し殺して隆信公の室と
なられたのである。

だが、夫人は先君のことを忘れられず、明け暮れに思い泣かれ、
隆信公とは親しむ様子もなかった。

このため夫人の周辺の人々にも、隆信公を侮る人々が集まり、これに家老の面々は、
これは御家敗亡の兆候であると嘆いたがどうしようもなく、
龍造寺播磨守などは妻女を通じて夫人に色々とご意見したものの、全く聞き入れようとはされなかった。

後に聞こえたことによると、龍造寺の老臣であった土橋伊賀守栄益などは、最初から
隆信公を侮り、龍造寺鑑兼を家督に立てたいと思い、夫人に対し様々に讒言していたそうである。
(肥陽軍記)

隆信が龍造寺家を継いだ時期の、その家中の不穏さを伝える逸話である。




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 09:18:35.50 ID:FcPZ+TnG
この後大寧寺の変で不満分子によって早速追放されたのは
復帰後に隆信派で固めることもできて
逆に僥倖だったのかもしれないかな?

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/03(月) 11:01:26.18 ID:0qGhBGw1
後家になって自ら鍋島清房に嫁いだ慶誾尼とは対照的だな

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 06:47:26.20 ID:psKLVZ+m
我が子の為、との思いの有無が大きいんじゃね?
あと当の慶誾尼とソリが合わなかったとか


広橋一遊軒は台所の下男であった

2013年05月23日 19:50

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 14:41:32.16 ID:6FYwgCS7
広橋一遊軒は台所の下男であった。
ある時、相撲で揉めて相手を七、八人斬り殺した。
一遊軒は自害することが決まったが、
龍造寺隆信さまがそれをお聞きになり、
「今は乱世であるから、剛の者は大切だろう。
この者は剛の者にちがいない」
とお許しになった。
そして、姉川での合戦へ一遊軒を連れていったところ、
真っ先に進み、比類なき働きをみせた。
高木での合戦では、あまりに敵方へ深入りするので、
隆信さまは心配なさり、お馬のそばにいるよう命じたが、
先手が進まなくなると、一人駆け出し突撃していくので、
しまいには一遊軒の鎧をつかみ離れないようにした。
このとき一遊軒は、頭部を数ヵ所斬られ、割れていたが、
傷口に青葉を押し込んで、上から鉢巻で締めていた。
当時、一遊軒黒薬という膏薬があった。
まだ当国に外科医などのいないころである。
腫物のできた者はその薬をつけていた。
その黒薬とは、へそのゴマ、塩、米、を練り合わせたものだ。
腫物を切り裂いてそれを押し込むから、
たいていの者は気絶したとのことである。
直茂さまの腕に腫物が出来たとき一遊軒が、
「お見せください」
と言ってきたのでお見せになると、
一遊軒は突然、針を取りだし不意に切り裂いた。
直茂さまが思わず、
「何をする!」
と叫んだところ、
「これくらいで痛いのですか」
と言ったので、直茂さまは針を取り上げ、
一遊軒の頬を切り裂いた。
二人は気が合わず、顔を合わせば喧嘩をしていたという。
天正二年須古の平井攻めのとき、一遊軒は討死した 【葉隠】




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 15:08:01.95 ID:hNNWNmJw
とくに落ちがあるわけじゃない所がまたいいな

682 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/23(木) 15:22:00.04 ID:EGxVCoOf
へそのゴマ、塩、米を練り合わせたものって・・・

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 15:46:56.09 ID:UL3DuNNu
垢を丸めた先祖伝来の薬だってあるんだ、問題ないって勝成さんが…

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 16:19:16.92 ID:rYD0kCrI
小十郎「まーくんの目玉取ってやったぜ!痛み止め?そんな軟弱に育てた覚えはないぜ!ワイルドだろ♪」

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:22:53.95 ID:YqZIn6op
クロカン「目薬いらんかね?」

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:32:24.22 ID:rYD0kCrI
ダンジョー「お茶でも飲んで逝きなさい」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:40:13.55 ID:1BFd76bf
>>680
姉川じゃなく耳川じゃね?

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:07:10.00 ID:06GvmBN2
龍造寺が耳川で戦うことはないよ
肥前にも姉川という地名があるんよ

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:10:04.64 ID:cRSA1gOa
>>687
なぜ?
耳川より姉川のほうが自然だが…

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:27:56.12 ID:06GvmBN2
同じ地名と言えば佐嘉の北、現在の脊振山地一帯である山内の入り口にある城は春日山城といって、謙信の居城と同名だな。

龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話

2013年04月23日 19:52

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 13:39:00.96 ID:VpP9+GPo
先日『戦国大名の四天王列伝』という文庫本を買った。

ちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。

・・・スレ違いでゴメン。




99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 15:50:02.41 ID:5QSpVB8x
それじゃあここで意外と今まで出てはいなかった、
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか

成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる

百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた

江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた

円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した

木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない




100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 18:08:31.89 ID:2UmPyGJY
百武さんの子孫には百武兼行がいて、分家の子孫と言われてるのが旧軍の百武三郎(海軍大将)、源吾(海軍大将)、晴吉(陸軍中将)なんだよな

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 19:49:32.10 ID:Zc0/cTF9
四天王、みんな死に様がかっこ良いな

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:13:20.07 ID:g26aoxZV
てっきり沖田畷で死んだのが後世四天王扱いにされたかと思ったら
みんな相応の武士だったんだな

女城主・圓久尼

2012年06月11日 20:59

圓久尼   
773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 08:08:43.16 ID:Yct92oJd
天正12年(1584)3月、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が滅びると、大友軍は龍造寺領に対する攻勢を開始。
9月、大友方の戸次・高橋勢は筑後の西牟田、酒見、榎津等に放火、
続いて沖田畷で戦死した龍造寺家重臣・百武志摩守が守っていた蒲船津城に攻め寄せた。

この時、蒲船津城に籠っているのは百武志摩守の未亡人、圓久尼であった。
この圓久という女性は、女ながら比類の無い剛の者で、背は高く髪は長く、大力であり荒馬も乗りこなした。

過ぎる3月、夫志摩守が島原において戦死したことを知ると、鍋島信生(直茂)の命によって
女であっても志摩守の在世時と変わらずこの城を守っていた。女城主となっていたのである。

元より男子ではなかったので、累代の家人等を引き連れこの城に居たのだが、大友勢が襲来したと聞くと
大長刀を横たえ城の戸口にまで出て、味方の手のもの達を励まし頑強な防戦をした。

そうしているうちに龍造寺方である中野式部が榎木津要害より援軍に駆けつけ、圓久を助け共に戦った。
こういう状況になり、戸次・高橋の軍勢は蒲船津城攻略を諦め撤退。坂東寺へと撤退した。

女城主・圓久尼奮戦す。という逸話である。しかし九州は女性が、武勇的な意味でも強いですねw

(北肥戦誌)




774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 12:23:20.02 ID:+nEuIEFn
龍造寺のゴッドマザーといい、立花や吉岡の奥様といい、九州は女傑がゴロゴロ居るな

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 12:52:41.24 ID:XwpMvjmu
立花道雪の甥っ子の奥さんもだな

776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/11(月) 13:51:46.56 ID:phYUZWBW
会社の先輩(女性)が佐賀出身だけど肝っ玉だよぉ
美人だけど30代半ば独身

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/11(月) 14:58:22.07 ID:H8cTAdZF
K○MATSU「東国のか弱いわらわには信じられないわ。北条、徳川、上杉といった大大名を手玉にとった腹黒義父とKYな弟が来たらどうしましょう。もし戦で2人の息子が亡くなったら、生きていけない。
もうすぐ前田様の行列が来るから粗相しないようにしなきゃ。早く影の濃いだんな様帰って来て!」

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 15:54:07.83 ID:/HQ0Zeou
甲斐姫(´・ω・`)

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 16:12:09.99 ID:VTAkt8ao
井伊直虎「戦国時代にそんなすごい女性がいたなんて」

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 16:55:11.33 ID:72rQYYOL
妙心尼「女性はもっと慎ましくないといけませんね」

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 18:20:19.62 ID:y1SAnD1D
義姫「戦場に行くなんてもってのほかです」

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 18:44:46.99 ID:op4lxjPG
鶴姫「女性は家を治めて殿方を立ててあげませんとね」

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 22:38:18.82 ID:rbuUpA5a
鶴姫は仕方ないだろw

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 22:42:37.81 ID:zNPg5ROD
>>777
本多忠勝「わしの若いころの女は天正、慶長の当今の武者どもより、よほど勇ましかったものだ」

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 22:50:30.04 ID:DKdyBPbx
>>777
伏字になってないんですよねえ・・・

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 06:24:06.31 ID:BvSY04jx
KOMA丁SU様

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 11:22:57.52 ID:ipP7HGLO
火の鳥異形編みたいに男として育てられた姫とか本当にいたんだろうな

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 11:36:28.28 ID:KG/gadC7
まあ今でも小さい子供にそういうことする頭おかしい親はいるからな
そこに跡取り問題とかが絡むと本気でやった奴もいそうだわな

血縁なんてどうでもいいからその辺から養子もらってくればいいじゃない
って常識からするとやる奴はよほどの変わりもんか特別な事情だろうけど

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 18:15:14.56 ID:d6o2gDSz
>>788
別に女として育てられたわけでもないのに、姫和子と悪口言われた男の子なら心あたりがw