溝ノ口岩穴祭の奴踊り

2017年05月25日 13:51

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 07:20:42.25 ID:+O/9+IlI
鹿児島県曽於市財部町にある溝ノ口洞穴は、宮崎県都城市と接する台地の末端部にあり、入り口が広さ13.8m、
高さ8.6mで全長が224mの大規模な洞穴です。内部の一番広い部分は幅が約40mで,天井部はアーチ型になっています。
洞穴は、約25,000年前に姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した
溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運びに姶良カルデラから噴出した大隅降下軽石層と、
シラス(入戸火砕流堆積物)の溶結した溶結凝灰岩の中に形成されており、雨水がシラスや軽石を外に運び去って
徐々に空洞が拡大されてできたものです。
また、洞穴内には縄文時代の人の生活跡もあり、当時の生活を知る上でも重要です。
(昭和30年に、鹿児島県の天然記念物に指定される)
伝承では犬を洞穴に入れたところ高千穂峰に出てきた(距離にして7~8キロほど)話もあります。

毎年4月8日(釈迦誕生の日)に近い日曜日には洞穴で溝ノ口岩穴祭りが行われます。
(場所を示す時には“洞穴”、祭りを示す時には“岩穴”となります)
このお祭りでは、奴踊りや棒踊り、刀踊り(棒踊りと刀踊りは隔年奉納で2017年は刀踊り)が洞穴と洞穴の入口に
祀られている岩穴観音へ奉納される。

これらの踊りの中でも奴踊りの歴史は古く、三つの説があり、
島津義久が島原の龍造寺隆信を攻めた時の戦勝祝いに踊られたもの」
(大隅建国千三百年記念祭ではこの説が紹介される)
豊臣秀吉が島津征伐の時に、新納武蔵守が城を守り通した祝いのために踊られたもの」
島津義弘が朝鮮征伐した戦勝の祝いとして始められたもの」などと伝えられています。

このようにして、戦勝を祝うとともに、士気を鼓舞するために始められた奴踊りは、鼻筋を真っ白に塗り、
頭に白鉢巻、服装は紫の着物に赤い帯、刀を黄色と水色の長布で背負い両手に扇を持ちます。
楽器は、太鼓と三味線・拍子木で、歌詞は釈迦誕生日と関連しています。
現在は郷土教育の一環として財部の中谷小学校の全児童と卒業したばかりの中学一年生によって継承されている。
(2017年は11名の参加)

祭りの進行は、
岩穴観音の前で奴踊り
岩穴観音の前で刀踊り
洞穴の中で刀踊り
地域の連絡事項(小学校の新任の先生の挨拶、先任の先生からの手紙の紹介、転入してきた人たちの紹介など)
昼休み
洞穴の上の山にある馬頭観音が祀ってあるところまで(車で)移動
馬頭観音の前で奴踊り
馬頭観音の前で刀踊りです

この祭りは、プログラム表も立て看板も大々的な宣伝もなく地元の人たちが永いこと守ってきたお祭りでした。
(参考 財部町郷土史、曽於市観光協会の方の話など)

※刀踊りは日本武尊が川上梟帥を討った逸話からきており、鉢巻に襷がけ袴に着物は女物を着用(花柄)
 四人で一組となり三組で踊る。棒踊りの由来は不明。

溝ノ口洞穴の写真など
http://kagoshimayokamon.com/2016/05/27/izonokuchi/

観光協会の方や洞穴の看板の注意
・携帯は圏外です。危ないので一人では来ないでください、二人でもキツイので三人以上で来てください。
・照明はありません、自前で懐中電灯をお持ちください。
・流水がありますが、柵などはありません。数年前に落ちてしまって近くにお店どころか民家も無いので
 遠くまで移動した上に洋服一式お買い上げになった方がいるそうなのでご注意を。
・落書きは洞穴の強度の関係で消すことは出来ません。絶対にしないでください。
(2015年にももいろクローバーZのライブ映像として使われてから、来る人が増えたら不届き者も
増えてしまったようで落書きも増えてしまったと)

959 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/25(木) 21:10:17.15 ID:+O/9+IlI
・洞穴の中は蝙蝠やゲジゲジがいます。蝙蝠は人の気配がすると姿を
 見せませんが、ゲジゲジは結構いますので虫が苦手な方はご注意ください。

刀踊りは、地元の青年団の方たちが踊っていますが、昨今は人口が少なくなり
結構年配の方も参加されています。奴踊りの生徒さんたちも今年は新入生や
転入生がいましたが、昨年はどちらもいなかったそうで祭りを維持していくのは
大変なようです。
三味線の方も高齢の人が多く今年は都合がつかずあらかじめ録音したものを使用
する状況でしたので、祭りの関係者の方が見物人に向かって「三味線弾ける方募集
いたします」といってました。



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新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


龍造寺隆信「塚崎の湯」

2017年04月16日 17:57

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 19:13:30.20 ID:GzosjAB6
なんか可愛いなと思ったので
我らが五州二島の太守、隆信公が弟長信に宛てた二通の書状をご紹介

─御書面被見せしめ、其心を得候、随って塚崎の湯の儀申し入れ候、一日成り共、早々しく参り候様御用意寛容たるべく候、恐々謹言

─先日塚崎湯の儀申し入れ候処、整え給い候、祝着候、何様是を持って快気たるべく候

前者は天正三─五年頃隆信が長信に武雄温泉の入湯の世話を督促した物で、後者は同じ頃と推定される書状の中に記された一節

隆信さんの湯船に浸かってちょっと気持ちのいい話



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 11:54:51.92 ID:u9FIza9O
慶次「なんと風呂に入りたいとな?」

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 12:01:30.70 ID:i78KihVc
家定「同姓の誼で是非それがしに馳走くだされ」

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 14:05:55.15 ID:F47w/3EZ
>>817
山全体を要塞化したら2万人位守備兵が必要だな
長篠城とか上田城みたいに小さくても守る場所が限定
出来て少人数で大軍を撃退出来る城こそ名城といえる

隅州高城、日州耳川での大友家敗北により

2017年02月01日 09:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 18:51:07.68 ID:n10zVkN4
この年(天正6年(1578))、隅州高城、日州耳川での大友家敗北により、国々の城主、郡主は
大友家から背いた。

肥前の龍造寺隆信は、肥筑を討ち平らげ、大友・島津もろとも滅ぼそうと謀った。
同国の小田重光を謀って閨の中に殺し、筑後の蒲池鎮漣舞楽に事寄せ、肥州与賀宮にて殺した。
両人とも、隆信の婿であった。

また龍造寺は松浦、波多、大村、有田などを攻めた。或いは降参し、或いは籠城して大友に加勢を
乞う者もあった。

筑前では秋月種実が、肥後五箇山の城主・筑紫広門と同心し反逆を企て、城井、千手、長野、上原、
原田、麻生、杉、宗像などに手を付け、筑前、豊前を治めようとした。

肥前・肥後では、宇土城、川尻、合志、詫摩、赤星、和仁、相良、有動、小代、隈部、本山、天草山、
山田、津守といった者達が大友の下知に従わず、島津に内通し、あるいは龍造寺に同心した。

筑後では田尻、蒲池、三池、江上、豊持、豊穣、黒木、斎藤、草野、大鳥井らが皆龍造寺隆信
打ち負けて、隆信の幕下となった。
生葉郡井上城の問註所一族と、高良山良寛法印ばかりが、終始大友の味方として忠を成した。

(大友公御家覺書)

耳川合戦以降の、九州の有様について。



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 20:03:55.01 ID:OjIdd8mX
隆信の西肥前勢攻めと鎮光忙殺は耳川前だなあ

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 23:50:32.13 ID:S12jdg3l
耳川後にしないと格好がつかないもんな

同じ子にて候えども

2016年10月11日 16:51

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 13:56:46.31 ID:cTGsgr3g
ある時龍造寺隆信の母・慶ギン尼は隆信と衝突して隆信弟の長信の元へ飛び出したことがあった。
その時、隆信から長信に宛てた書状

「ここもとは見限られて候て罷りあられ候間。家中の儀はそのもとにて随分ふるまい申さるべく候。
同じ子にて候えども、そなたは孝行者に候間、申すことにて候。我らどもは子のうちとは申されず候。おかしく候…」

母親に「長信は孝行者だが隆信は子のうちとは言われない」とまで言われてしまったクマー
(歴史群像シリーズ『戦国九州軍記』の「配慮と決断、カエサルに似たり」より)





太閤さま曰く「龍蔵寺隆信という者は」

2016年02月10日 18:52

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 02:49:37.48 ID:CZ/ylyxq
太閤さま曰く

「龍蔵寺隆信という者は名将に違いないだろう。
その理由は、鍋島飛騨守(直茂)に政治を任せているからだ。
これは人を見る力があることに他ならない。
今、飛騨守に会ってみてそれがよくわかった。」

と申された。 【葉隠】



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 10:32:56.23 ID:puLG6I4a
その時はとっくに戦死してるのに名将とは

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 10:49:45.71 ID:1yztIISX
いやだから会った事ないけどこんな男を重用していたならきっと名将だったのだろうという話だろ

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 11:47:43.77 ID:ynrpUDpY
愚者は諫言する家臣を左遷したり誅したりするものですからね

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 13:35:51.50 ID:3eHFHd6C
直茂を諫言で疎んで柳川に飛ばしたって話しも
筑後方面の司令官的な立場を考えると遠ざけたことと違うと思うのよね

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 14:28:39.15 ID:gqS1qBa7
普通左遷なら僻地だもんな
重要拠点なんかに配置しない

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 14:32:49.09 ID:wqpyLFKA
分かってねぇw
平和っていいなぁ

正月の一日二日の事なれば

2016年01月02日 17:32

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 00:04:55.88 ID:yriiHi8D
正月と言えば隆信が鏡神社の大宮司である草野氏を討伐した時に読んだ狂歌がこれ
「正月の一日二日の事なれば草野を焼きて鏡餅かな」
そんな熊さんのちょっと言語センスのいい話



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 11:39:26.48 ID:szi0CsCr
正月早々に戦とかって足軽テンション駄々下がりだろな

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 12:51:14.70 ID:zm4IvZ6I
道雪「だからといって戦線離脱する子は処断だよ」

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 21:26:21.89 ID:xEHA5cdj
貴久「正月早々死にそうになりましたが何か?」

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:14:15.56 ID:po6e0zLa
>>137
隆信は何回か新年あけまして死ね作戦をやってる

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:20:51.12 ID:mQ13eeTc
毛利家臣「幕府を倒す準備が整いました」
毛利「今はまだその時ではない」

そうせい侯が「そうせい」と言うまで繰り返したんだっけ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:35:53.03 ID:oM9JF4Bv
そうせい言うまで幾星霜

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 22:13:39.30 ID:N5kWQ7Ba
こんなのあった

佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 22:22:36.57 ID:mQ13eeTc
>>126

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/04(月) 23:43:38.85 ID:E0f3ljj0
>>140
明けましておめで討か

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 08:04:02.71 ID:Gt/NnWm1
コブラみたいなやつね
ありがと

少弐兄弟の再興のやり方

2014年11月20日 17:51

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:31:03.02 ID:kV3ZtmYj
少弐兄弟の再興のやり方

1559年、少弐冬尚が勢福寺城で斃れた。
同じく冬尚の長弟・千葉胤頼も自害して果てた。

この時冬尚には3人の弟がいた。
相神浦松浦家の養子となっていた松浦鎮(生年不詳だが資元の三男とも)
次弟も三弟ともされる少弐政興(資元の三男とも四男とも)
末弟の少弐元盛(資元の四男とも五男とも)

鎮は養父・親に廃嫡され幽閉されてしまった。
そのあとの鎮は知らない。
残るは政興と元盛の2人である。

政興は『武』で、元盛は『政』で少弐家再興を企んだ。
政興は肥前中野城主・馬場鑑周(頼周の孫)に匿われた。
元盛は今泉朝覚を使者とし、元盛を当主として再興を訴えた。

まず元盛のほうは再興は叶わなかったが、朝廷の綸旨により龍造寺隆信は元盛の命を保障することとなり、元盛はのちに高野山にのぼった。
子供たち4人は隆信に味方することとなる。

一方政興は大友宗麟の同盟を結び、1563年に有馬晴純などの有馬家一門を中心とした西肥前諸勢力と共に隆信に対して挙兵した。
しかし頼みの一角であった有馬家らは早々に敗れてしまい、擁立した馬場鑑周も1565年に肥前中野城にて隆信に降伏してしまった。

進退窮した政興に見えたが、大友宗麟からの後援はいまだあり(毛利家の動向に影響はしているが)、綾部城(少弐山城のことか)にて健在であった。
またこの時は隆信も思うように勢力を拡大できていなかった。

1568年、隆信の娘婿になっていた旧臣・小田鎮光(政光の子)が政興を許してほしいと願い出るが、隆信はこれを許可せずまもなく鎮光は龍造寺家から離反した。
1570年、今山の戦いで大友軍を奇襲で破り勢いづいた隆信は少弐政興討伐をするが、政興は
1572年、筑紫氏や横岳氏の擁立で再びの抗戦するも、綾部城は落城した。(別の城ともいう)
(1571年にも綾部城落城とあるが、こちらは宮山城のことであるという。<少弐氏滅亡という。>)

約10年にもわたり隆信に抗戦した政興であったが、隆信は政興を助命し出家したという。
のちに政興は九州を去ったという。

これにより少弐氏の再興は失敗と終わり、肥前は龍造寺隆信の時代となった。

隆信が冬尚の弟たちを助命した話


(北肥戦誌や福岡県みやま市の史料などを参考)




龍造寺と大イチョウ

2014年05月23日 19:05

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 22:46:29.40 ID:/3s+Jnr/
龍造寺と大イチョウ

筑後国三潴郡に、巨大なイチョウの木があった。
この木に朝日がさすと、その陰は筑後川対岸の肥前国寺井(佐賀県諸富町寺井津、北西に3kmは離れている)にまで届く高さで、切り倒すのに七日かかったほどの太さだったという。

村の名はこの大イチョウにちなんで「一木(ヒトツキ)村」と呼ばれた。

『南筑明覧』


この一木村、龍造寺家兼が、そしてその曾孫隆信が雌伏し、見事佐嘉に復帰を果たした。
龍造寺の家運興起の地だと言えるだろう。

ちなみに七日かけて伐ったのは、天正年間筑後に進出した龍造寺隆信の兵である。

隆信の末路はこの大イチョウのタタリか…




龍造寺隆信「織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也」

2013年10月03日 19:29

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/02(水) 21:54:14.93 ID:d4Ijro18
うっかり戦国漫画かいこのブログからおもしろかったので引用

>藤龍家譜に引ける旧記に、
>「隆信公仰被候は、織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也、
> 信長九州へ發向候半は、小倉に於いて面談いたし、盃事の時、我等大ワザト(蓋大盃の名)にて三盃飲差て猶豫致は、
> 四尺八寸の大刀にて、一刀に討ち果たすべしと仰被候由」トアリ
http://awabaya.jugem.jp/?eid=2239

隆信「信長は俺が殺そうって思ってたのによー、明智に討たれるとか残念でならんわ」
隆信公マジ肥前の熊、な話





我は寺僧・空圓。実は

2013年06月29日 20:00

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 14:13:43.66 ID:wXEh7esj
天正5(1577)年、龍造寺隆信神代貴茂の手引きで島原に上陸し侵攻した。
有馬晴信も兵を出してこれを迎撃したが、龍造寺勢に破られた。
隆信は余勢を駆って千々石氏を攻めたが、これに有馬の援軍も加わり先手はおろか旗本まで崩されることとなった。
これはその時の話である。


隆信の陣には空圓という僧が陣中を見舞っていた。
この空圓は近年肥前に寄って与賀の蜜蔵寺に宿を取っていた際に、村中城へ招かれて法談をしたところ、
隆信夫妻が深く帰依して、蜜蔵寺を修造して光照寺と改め、住職に置かれたものであった。

さて、空圓は、龍造寺の軍が崩壊する様を目撃すると、長袖を結んで肩にかけ長刀を取ると、
「我は龍造寺興賀・光照寺が寺僧・空圓。実は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ!」と叫んで敵に斬りかかり、
四方八方へと敵を討ち払い、奮戦して遂には果てた。
この空圓は、これまで生国も俗姓も話すことはなかったが、ここに至って初めて名乗りを上げたのであった。




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/29(土) 14:56:08.81 ID:MqAbeISa
誰だよ・・・つか松永久秀の弟が何で今更

私は義士と通じて家を立てる

2013年06月05日 19:58

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 06:04:18.24 ID:CPdK6HUg
弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。

一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。

このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った

「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。

一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。

私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)

龍造寺隆信毛利元就の義に感じ通ずる、というお話




399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 07:38:42.03 ID:1sXLC15E
義はともかくとして、大寧寺の変の余波で城を追われて3年間の雌伏を余儀なくされたわけだし
その原因になった陶とそれに与した大友は認めるわけにはいかんよね

龍造寺隆信の相続

2013年06月03日 19:51

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 00:06:53.76 ID:OGuKHfpT
天文17年(1548)3月22日、龍造寺豊前守胤栄が卒去された。
この方は大内氏の推挙により肥前国の守護代を務められ、五千町を加封し人尽く従った。
胤栄公の夫人は龍造寺家門の娘であったが、胤栄公との間には姫が一人あるだけで、
家を継がれる男子は居られなかった。

このため重臣である小川筑後守や龍造寺播磨守などが相談し、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継がれた
龍造寺胤信公に、龍造寺の嫡流を継がせるべしと迎え取り、先君胤栄公の未亡人と結婚させ、
龍造寺の御家督と仰ぎ奉った。

同18年、大内義隆より隆の偏諱を頂いて、龍造寺山城守隆信と名乗られた。
小川筑後守、納富左馬介、福地主計充といった人々が家老として支えた。

御一家は皆、隆信公に拝謁の礼を取ったが、公は普段から不敵な心を持った方で、
威儀を専らにせず事毎に軽々しく振舞ったため、一門の龍造寺鑑兼の周辺などでは
内々にこの新当主を侮る輩も多かった。

また隆信の夫人も、既に御歳も盛りを過ぎ、先公とのお別れで悲しみに沈む中、
公を弔いのため一心不乱の心であった所を、自身を隆信公の御台とされるべき、などと
聞こえてきて、なんと浅ましいことかと思い沈んだのであるが、老臣達によってこの旨が
決せられ、御家相続のためであるため、気分の気持ちを押し殺して隆信公の室と
なられたのである。

だが、夫人は先君のことを忘れられず、明け暮れに思い泣かれ、
隆信公とは親しむ様子もなかった。

このため夫人の周辺の人々にも、隆信公を侮る人々が集まり、これに家老の面々は、
これは御家敗亡の兆候であると嘆いたがどうしようもなく、
龍造寺播磨守などは妻女を通じて夫人に色々とご意見したものの、全く聞き入れようとはされなかった。

後に聞こえたことによると、龍造寺の老臣であった土橋伊賀守栄益などは、最初から
隆信公を侮り、龍造寺鑑兼を家督に立てたいと思い、夫人に対し様々に讒言していたそうである。
(肥陽軍記)

隆信が龍造寺家を継いだ時期の、その家中の不穏さを伝える逸話である。




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 09:18:35.50 ID:FcPZ+TnG
この後大寧寺の変で不満分子によって早速追放されたのは
復帰後に隆信派で固めることもできて
逆に僥倖だったのかもしれないかな?

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/03(月) 11:01:26.18 ID:0qGhBGw1
後家になって自ら鍋島清房に嫁いだ慶誾尼とは対照的だな

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 06:47:26.20 ID:psKLVZ+m
我が子の為、との思いの有無が大きいんじゃね?
あと当の慶誾尼とソリが合わなかったとか


広橋一遊軒は台所の下男であった

2013年05月23日 19:50

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 14:41:32.16 ID:6FYwgCS7
広橋一遊軒は台所の下男であった。
ある時、相撲で揉めて相手を七、八人斬り殺した。
一遊軒は自害することが決まったが、
龍造寺隆信さまがそれをお聞きになり、
「今は乱世であるから、剛の者は大切だろう。
この者は剛の者にちがいない」
とお許しになった。
そして、姉川での合戦へ一遊軒を連れていったところ、
真っ先に進み、比類なき働きをみせた。
高木での合戦では、あまりに敵方へ深入りするので、
隆信さまは心配なさり、お馬のそばにいるよう命じたが、
先手が進まなくなると、一人駆け出し突撃していくので、
しまいには一遊軒の鎧をつかみ離れないようにした。
このとき一遊軒は、頭部を数ヵ所斬られ、割れていたが、
傷口に青葉を押し込んで、上から鉢巻で締めていた。
当時、一遊軒黒薬という膏薬があった。
まだ当国に外科医などのいないころである。
腫物のできた者はその薬をつけていた。
その黒薬とは、へそのゴマ、塩、米、を練り合わせたものだ。
腫物を切り裂いてそれを押し込むから、
たいていの者は気絶したとのことである。
直茂さまの腕に腫物が出来たとき一遊軒が、
「お見せください」
と言ってきたのでお見せになると、
一遊軒は突然、針を取りだし不意に切り裂いた。
直茂さまが思わず、
「何をする!」
と叫んだところ、
「これくらいで痛いのですか」
と言ったので、直茂さまは針を取り上げ、
一遊軒の頬を切り裂いた。
二人は気が合わず、顔を合わせば喧嘩をしていたという。
天正二年須古の平井攻めのとき、一遊軒は討死した 【葉隠】




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 15:08:01.95 ID:hNNWNmJw
とくに落ちがあるわけじゃない所がまたいいな

682 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/23(木) 15:22:00.04 ID:EGxVCoOf
へそのゴマ、塩、米を練り合わせたものって・・・

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 15:46:56.09 ID:UL3DuNNu
垢を丸めた先祖伝来の薬だってあるんだ、問題ないって勝成さんが…

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 16:19:16.92 ID:rYD0kCrI
小十郎「まーくんの目玉取ってやったぜ!痛み止め?そんな軟弱に育てた覚えはないぜ!ワイルドだろ♪」

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:22:53.95 ID:YqZIn6op
クロカン「目薬いらんかね?」

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:32:24.22 ID:rYD0kCrI
ダンジョー「お茶でも飲んで逝きなさい」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 17:40:13.55 ID:1BFd76bf
>>680
姉川じゃなく耳川じゃね?

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:07:10.00 ID:06GvmBN2
龍造寺が耳川で戦うことはないよ
肥前にも姉川という地名があるんよ

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:10:04.64 ID:cRSA1gOa
>>687
なぜ?
耳川より姉川のほうが自然だが…

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/23(木) 18:27:56.12 ID:06GvmBN2
同じ地名と言えば佐嘉の北、現在の脊振山地一帯である山内の入り口にある城は春日山城といって、謙信の居城と同名だな。

龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話

2013年04月23日 19:52

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 13:39:00.96 ID:VpP9+GPo
先日『戦国大名の四天王列伝』という文庫本を買った。

ちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。

・・・スレ違いでゴメン。




99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 15:50:02.41 ID:5QSpVB8x
それじゃあここで意外と今まで出てはいなかった、
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか

成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる

百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた

江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた

円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した

木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない




100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 18:08:31.89 ID:2UmPyGJY
百武さんの子孫には百武兼行がいて、分家の子孫と言われてるのが旧軍の百武三郎(海軍大将)、源吾(海軍大将)、晴吉(陸軍中将)なんだよな

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 19:49:32.10 ID:Zc0/cTF9
四天王、みんな死に様がかっこ良いな

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:13:20.07 ID:g26aoxZV
てっきり沖田畷で死んだのが後世四天王扱いにされたかと思ったら
みんな相応の武士だったんだな

女城主・圓久尼

2012年06月11日 20:59

圓久尼   
773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 08:08:43.16 ID:Yct92oJd
天正12年(1584)3月、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が滅びると、大友軍は龍造寺領に対する攻勢を開始。
9月、大友方の戸次・高橋勢は筑後の西牟田、酒見、榎津等に放火、
続いて沖田畷で戦死した龍造寺家重臣・百武志摩守が守っていた蒲船津城に攻め寄せた。

この時、蒲船津城に籠っているのは百武志摩守の未亡人、圓久尼であった。
この圓久という女性は、女ながら比類の無い剛の者で、背は高く髪は長く、大力であり荒馬も乗りこなした。

過ぎる3月、夫志摩守が島原において戦死したことを知ると、鍋島信生(直茂)の命によって
女であっても志摩守の在世時と変わらずこの城を守っていた。女城主となっていたのである。

元より男子ではなかったので、累代の家人等を引き連れこの城に居たのだが、大友勢が襲来したと聞くと
大長刀を横たえ城の戸口にまで出て、味方の手のもの達を励まし頑強な防戦をした。

そうしているうちに龍造寺方である中野式部が榎木津要害より援軍に駆けつけ、圓久を助け共に戦った。
こういう状況になり、戸次・高橋の軍勢は蒲船津城攻略を諦め撤退。坂東寺へと撤退した。

女城主・圓久尼奮戦す。という逸話である。しかし九州は女性が、武勇的な意味でも強いですねw

(北肥戦誌)




774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 12:23:20.02 ID:+nEuIEFn
龍造寺のゴッドマザーといい、立花や吉岡の奥様といい、九州は女傑がゴロゴロ居るな

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 12:52:41.24 ID:XwpMvjmu
立花道雪の甥っ子の奥さんもだな

776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/11(月) 13:51:46.56 ID:phYUZWBW
会社の先輩(女性)が佐賀出身だけど肝っ玉だよぉ
美人だけど30代半ば独身

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/11(月) 14:58:22.07 ID:H8cTAdZF
K○MATSU「東国のか弱いわらわには信じられないわ。北条、徳川、上杉といった大大名を手玉にとった腹黒義父とKYな弟が来たらどうしましょう。もし戦で2人の息子が亡くなったら、生きていけない。
もうすぐ前田様の行列が来るから粗相しないようにしなきゃ。早く影の濃いだんな様帰って来て!」

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 15:54:07.83 ID:/HQ0Zeou
甲斐姫(´・ω・`)

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 16:12:09.99 ID:VTAkt8ao
井伊直虎「戦国時代にそんなすごい女性がいたなんて」

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 16:55:11.33 ID:72rQYYOL
妙心尼「女性はもっと慎ましくないといけませんね」

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 18:20:19.62 ID:y1SAnD1D
義姫「戦場に行くなんてもってのほかです」

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 18:44:46.99 ID:op4lxjPG
鶴姫「女性は家を治めて殿方を立ててあげませんとね」

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 22:38:18.82 ID:rbuUpA5a
鶴姫は仕方ないだろw

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 22:42:37.81 ID:zNPg5ROD
>>777
本多忠勝「わしの若いころの女は天正、慶長の当今の武者どもより、よほど勇ましかったものだ」

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/11(月) 22:50:30.04 ID:DKdyBPbx
>>777
伏字になってないんですよねえ・・・

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 06:24:06.31 ID:BvSY04jx
KOMA丁SU様

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 11:22:57.52 ID:ipP7HGLO
火の鳥異形編みたいに男として育てられた姫とか本当にいたんだろうな

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 11:36:28.28 ID:KG/gadC7
まあ今でも小さい子供にそういうことする頭おかしい親はいるからな
そこに跡取り問題とかが絡むと本気でやった奴もいそうだわな

血縁なんてどうでもいいからその辺から養子もらってくればいいじゃない
って常識からするとやる奴はよほどの変わりもんか特別な事情だろうけど

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/12(火) 18:15:14.56 ID:d6o2gDSz
>>788
別に女として育てられたわけでもないのに、姫和子と悪口言われた男の子なら心あたりがw

太閤様も認める九州の強者竜造寺

2012年04月24日 21:29

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:39:31.49 ID:j7ofBqol
太閤様も認める九州の強者竜造寺

山本常朝
『太閤様が薩摩を攻めておられたとき、
軍奉行の人たちから、先陣の竜造寺、鍋島の佐賀勢が軍法に背いた進軍をしているので、
けしからないことでありますから、どうか軍列を正すように、と太閤様に申し上げた。すると、

秀吉公
「戦をするのに決まった型や軍法というものはない。敵に勝つことを軍法とするのだ。
竜造寺は九州でも有名な強者たちである。
きっと、あのままで自信があるのだろう。
なまじ下手なことを言うと恥をかくぞ」

とお叱りになったとのことだ』


関連
鍋島の行列がみっともないのは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4623.html


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:41:23.35 ID:lDpP4tws
鍋島の者どもはくそ弱いので壊走するだろう
そこで加藤主計がかかっていき(ry

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:50:48.12 ID:h79d/JCj
竜造寺さんの反応早すぎてワロウタw

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:59:52.42 ID:WeBW0wgi
まぁ九州征伐終結後に鍋島は軍隊の体をなして無いと
秀吉から、軍事顧問を派遣され軍制改革を強いられちゃうんですけどね
その後の史実にまでつなげちゃうと悪い話になっちゃうなw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:08:50.15 ID:4GNPk3x1
軍制改革なんてものがあったのは初耳

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:17:11.53 ID:l29HL47o
鍋島さんちには、軍制というか、
軍団長の規定がない(常に殿が同伴する、分隊を編成できない・しない)、
殿からの命令伝達の方法がいいかげん、伝令が大物の前を乗馬のまま横切ったら斬られるw
背命の処罰の規定が敵前逃亡以外まっったくない
などなど、なかなかワイルドだったみたいだよ。

地方豪族のまま(運よく)大きくなった、という事なんだろうな。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:22:33.41 ID:uRlci31j
多少なり組織立ってた部分があっても沖田畷できれいさっぱり崩壊しちゃってただろうしな

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:41:26.47 ID:aGLi9qSg
織豊ですらやっと昭和後期になってから現代人が理屈こねくり回して
軍団制だ職業軍人だというようになったんだから

研究する人がいない地方大名の軍制なんて殆ど分かってないだろうに

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:45:08.82 ID:ozBaKjyZ
最高機密である軍事制度を含んだ軍事全般って、当時は口伝が主じゃないの?
軍学とかを江戸期にでっち上げる連中がたくさん出たが、これが空論ばっかで役立たずだったのは周知。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:47:16.72 ID:c+WrngzQ
九州の周りの大名の軍制はどうだったんだ?というのが気にかかってくる

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:48:34.80 ID:h79d/JCj
そんなに無理矢理繋げたつもりはないが・・・
おねへの手紙や乞食への情けは信長の気遣いの話でしょ。
天下一称号は経済政策や技術者の能力向上の話だから

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 14:32:18.97 ID:tTZ3T335
領主とその支配民の寄せ集めにすぎない軍で、きちんとした編成とか戦術とか無理だと思うが……。

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:16:05.36 ID:4GNPk3x1
封建君主制はどんなに大きくなっても「領主とその支配民の寄せ集め」にすぎないわけだけど

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:26:16.47 ID:76wVVDVV
アメリカ陸軍は州兵の寄せ集め

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:28:04.77 ID:tmxNn1P1
州兵と陸軍は別系統じゃなかったっけ?

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:33:15.73 ID:tTZ3T335
>>791
だから江戸時代で制度が停滞して、いきなり近代化した日本はともかく。
欧州だと国王が常備軍そろえるように変化していったんじゃ?

>>792
州兵も国防総省の管轄下にあるアメリカ国家の軍組織。装備、訓練も統一されている。
歴史的経緯から、平時の指揮権が州知事にあるぐらいじゃ?

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 16:42:39.44 ID:4GNPk3x1
>きちんとした編成とか戦術
という物を用いず個人技や現場の判断といった物を突き詰めていくのが大名軍のような封建制
厳格に制度化規格化を進めていくのが律令軍や国民国家軍のような集権制という違いがあるのみで
優劣はそれこそ技術革新や陳腐化、人口の増減といった時代の流れで変わっていく

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 16:55:34.24 ID:zgDSmMTs
農民までキリングマシーンが存在した時代適当に戦ってる軍が弱いとは限らんからなぁ・・・

まぁ弱将の元の軍が弱いのはいつの時代も変わらないというのを体現した方がおいででもあったわけだが

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:10:01.74 ID:/lvlPHF+
日新斎のせんn……教育のお陰で、薩摩兵児は死を恐れないからそんなの無用です。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:14:07.07 ID:tmxNn1P1
薩摩と土佐は比喩抜きで修羅の国

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:28:30.75 ID:BY1Y6njQ
>>787
城の石落としを本当に石を落とすものだと思ってたらしいなw

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 12:37:31.89 ID:ey9X4Nto
まとめブログの管理人さんの紹介していた本を読んでいたら
フロイス「日本史」西九州編第52章には、沖田畷の戦いに出向く龍造寺軍について
「その隊列は見事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし(戦術)計画を
入手しているかのようであった。彼は一万二千の戦闘員を率いていたが、彼らは豪華(に装い)、
また清潔で気品があり、戦場で練磨された兵士たちであった。」
と書いてあるらしい

>>776や
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4623.html
の権現様やラスボスの感想とずいぶん違う気がする

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 13:20:51.48 ID:ey9X4Nto
上のは両方ラスボスの感想だった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4624.html
島原の乱の時の話もあったか

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 13:59:11.72 ID:VenOIFOI
幕末、西洋風近代軍隊の装いの長州勢をみて、
勝海舟「奴らは紙屑拾いのような格好でやってきた」

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 14:30:12.64 ID:r628FkdX
>>908
要は沖田畷以前と以後とで変わったってことでそ。

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 16:13:22.40 ID:7mCOxMCs
完璧なるものは、わずかなほころびで崩れるのだ(ドヤァ

お安の方の生涯

2012年02月07日 21:53

妙安尼   
16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 16:52:03.18 ID:AaiOcSAR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1008.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html
このあたりで出ている人だが、お安、後に秀の前と呼ばれる女性についてまとめてみたいと思う。

お安は龍造寺胤栄の娘であり、後に龍造寺隆信の養女である。
父の胤栄は水ヶ江龍造寺家当主だったが、病死してしまう。
胤栄の妻は隆信に再嫁し龍造寺家を統合することとなったが、彼女は前の夫を忘れず隆信と不仲であった。
これを憂えた家老小河信安がまだ幼い娘に刃を押し当て、未亡人を諭したのは既に語られているところだが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3909.html
その娘こそ、まさしくこのお安なのである。

お安は美しく成長し、蓮池城城主の小田鎮光のもとに嫁ぐことになる。
この鎮光の父小田政光は、龍造寺隆信によって見殺しにされて戦死しており、
蓮池城は龍造寺隆信によって占拠、鎮光は筑後に落ち延びたという過去を持っていた。
隆信はそんな鎮光を要衝蓮池城にはおいておけないと考えたのか、
蓮池城を弟長信に渡し、鎮光はお安と共に多久の梶峰城へと移ることとなってしまった。
父祖伝来の地を失った鎮光はこれを恨み、大友宗麟が龍造寺家を包囲したときはそれに呼応して
龍造寺家を攻めた。
しかし大友の龍造寺包囲網は瓦解、鎮光はお安を隆信のもとへと戻し自身は筑後へと落ち延びていった。
隆信はお安を使い、鎮光宛てに書状を出させた、改めて詫びるのであれば裏切りを許してやるというのである。
義父の言葉を信じ佐嘉にやってきた鎮光は、そこで隆信により皆殺しにあってしまう。
お安は隆信に謀略の道具として使われたのであった。

鎮光の死後、お安は自害しようとしたが果たせず、次は松浦党の波多氏へ嫁ぐこととなった。
この時からお安は秀の前と呼ばれるようになったという。
秀の前が嫁いだ波多鎮は子がおらず、隆信の孫を養子に受け入れることになった。
さらに九州征伐の折には遅参を豊臣秀吉に咎められ、鍋島直茂のとりなしにより改易を逃れ、
以降龍造寺家に従属することとなった。
波多鎮は朝鮮出兵のときも遅参や軍令違反を犯し、秀吉の不興を買ってしまったという。
一方で秀の前もその美貌からか秀吉に目を付けられていた。
秀吉から、名護屋城へ出向くように使者が送られ、やむなく秀の前は名護屋城へと赴いた。
秀の前は秀吉に対して不服従の意思を示す為に、わざと懐剣を落として見せたというが、
それが災いして大いに秀吉の不興を買ってしまった。
これらにより波多氏は取り潰し、鎮は常陸へと流されることとなった。
秀の前は佐嘉へと戻り、妙安尼と名乗って仏道に入った。
その後寛永元年(1624)まで生き、79歳で生涯を終えたという。


生涯翻弄され続けた武家の女のちょっと悪い話
ところでまとめブログは龍造寺隆信のところにある小河信安の話とかは本人のところに移した方がいいと思うんだ

※直しておきましたー




17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 20:08:35.34 ID:WsVDhmBh
秀吉から見たら脅す気かこやつ、になるからそりゃ不興買うわな

権力者の我侭への意思表示は難しいとは言え

問註所統景の孤軍奮闘

2011年07月04日 23:41

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 07:18:28.60 ID:3JQA4VCG
大友氏の忠臣といえば衰退する本家を筑前から支えた立花道雪・高橋紹運らが有名だが
筑後国にも大友義鑑の時代から大友家に仕えた国人領主・問註所氏があった。

筑後というところは昔からこれといって突出した大勢力がいない国で、室町時代初期から
大友氏が守護職を得て(途中、今川了俊や菊池氏に守護職が移った時期もあるが)
代々大友氏の影響が強い地域ではあったが、大友氏は守護代を置いて任せる程度の緩やかな支配で
筑後十五城主と呼ばれる小勢力が点在していた(ちなみにその中で一番の勢力だったのは蒲池家)。

そんな筑後国も戦国時代の荒波の中で小勢力たちは翻弄されていくことになる。
大内氏や毛利氏の筑前侵攻、立花鑑載・高橋鑑種の反乱、筑紫や秋月はしょっちゅう裏切る。
問註所氏は秋月領に近いこともあり、秋月の動きを大友に伝える監視役として働いた。
しかし大友氏が耳川の合戦で大敗、筑後国は竜造寺氏の台頭により風雲急を告げる。
大勢力の蒲池氏を始めとして筑後勢力のほとんどが龍造寺方につく中、当主の問註所統景は
本当によく頑張った。一族で龍造寺側についた鑑景や、龍造寺方についた星野氏、
筑前からは秋月氏などが連合して何度も領内に攻め入るも、その度に撃退。守るだけでなく
星野氏の白石城を攻め取ったりもした。そんな中「肥前のクマー」龍造寺隆信が蒲池鎮漣を誘殺、
蒲池一族を皆殺しにし、筑後勢力の多くが龍造寺に反感を持ち始める。
さらにクマーが沖田畷で戦死、そうなると今度は龍造寺を離れて島津方につく勢力が頻出。
筑後国内は龍造寺方・島津方・大友方(問註所氏と五条氏のみ)の3勢力に分かれていった。

そうする内に今度は島津軍が本格的に北進を開始。島津方についた勢力どころか、
龍造寺本家も島津に味方して大友家を攻めることになったため、筑後国内で問註所氏は孤立。
しかしそんな絶体絶命の状況でも統景は孤軍奮闘。島津本隊が筑紫広門の篭る肥前の勝尾城や
高橋紹運の筑前岩屋城を辛くも陥落させ立花山城に攻め入る。ここで豊臣本隊の九州上陸の報を受け
島津軍は本国へ退却するが、この間統景は長岩城に籠城して島津方の攻勢から居城を守りきったのだった。

大友家臣として島津の侵攻に耐えた「忠臣」として筑前の紹運・宗茂父子、豊前の志賀親次は
よく取り上げられるけど、筑後に問註所統景という武将がいたことも覚えておいてあげてください。




468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 09:04:45.09 ID:3JQA4VCG
補足ですが、問註所統景は秀吉により本領安堵されますが領地は以前の1/5ほどに減らされ、
筑後入国した小早川の家臣となりますが、太閤検地の際にさらに転封を命じられ本領を明け渡すことになり、
泣く泣く居城・長岩城を明け渡します。その後朝鮮の役で戦功を挙げるも、当地で弟の正白とともに戦死。
嫡男に政連がいましたがなぜか父の領を継ぐことができず浪人します。どうやら豊臣政権下で国人領主に対する
締め付けが厳しくなり(検地で大きな不満が出て肥後国人一揆が勃発したように)筑後国でも同様だったようです。
問註所氏もあるいは計画的に潰されたのかもしれません。元々の小早川家臣への領地も必要ですからね。
しかし、立花家や筑紫家が大名に取り上げられているのにこの仕打ちはひどい・・・。

ちなみに、小早川家臣にはならずそのまま大友家臣の身で朝鮮の役に臨んだという話もあります。
この場合統景の死とともに主家・大友義統の例の敵前逃亡による改易で、政連は浪人になることに。

政連は後に筑後を治めた立花宗茂に仕官し家臣となります(統景のおばが道雪継室で、ギン千代の母。
さらに統景の正室・政連の実母が宗茂の実方従姉妹という関係)。政連は宗茂に従い関ヶ原にも参戦、
戦後宗茂は改易され、政連は他の家臣らとともに加藤家のお世話になります。
その後、宗茂が赦されて筑後に戻ってきた際に再仕官、問註所は柳川藩士として続くことになります。





467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 08:07:37.26 ID:E2DI015g
島津自重しろ

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 12:09:31.11 ID:i83WCuqg
戦国時代の筑後は不思議だよねほんと
肥後も国人の力が強かったけど阿蘇とか甲斐とかいたし
他にも国人領主がめいめいに支配していた国ってあったっけ

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1190.html
蒲池さんとこは家兼じいちゃんとクマーを大友側にも関わらず助け
「義心は鉄のごとし」と言われた鑑盛さんがその名に偽らず大友氏の殉じ耳川で戦死
それを機に以前から龍造寺と手を結びたがってた鎮漣(鎮並)がすぐに動いたわけだけど
(母の姉妹が龍造寺家臣の田尻鑑種、妻が隆信の娘というのもあって)
隆信は大友の頃みたいに緩やかじゃない直接的支配を目指したもんで反発したようだ
それにしてもクマーは・・・>>467じゃなく龍造寺自重しろって話だ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 12:51:24.84 ID:i83WCuqg
ざっと調べてみると筑後十五城のほとんどが九州征伐その他諸々で
滅亡に近いくらいまで衰退しているね
一部は子孫の代で立花、鍋島あたりの藩士になったりもしてる
高橋紹運の高橋家もこの筑後十五城なんだけど統増は立花に改姓して高橋家も消滅
まあ全国の国人領主も似たようなもんかもしれん・・・

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 14:58:50.52 ID:4v6XOxaM
もし義統改易で浪人の方が正しかったら
朝鮮で死んでも死に切れないよなあ

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 15:14:13.10 ID:4v6XOxaM
十五城主の河崎氏と黒木氏は同じ調氏出身なのに犬猿の仲だったらしい
河崎の居城が犬尾城というのに対抗して、新しく建てた黒木の居城は猫尾城と名付けたほど
犬猫の仲だな


479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 00:09:16.27 ID:g60gBxWE
>>469
豊後と筑後は山はさんで東西だけど、肥前と筑後は筑後川挟んで真向いだからなあ
隆信としても筑後で自由にやられるのも困ったもんだったんじゃないのかしら

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 12:51:10.58 ID:sIf5AJj1
>>479
そうだろうね
蒲池討伐には嫡男の政家を差し向けるくらいだったし
肥前は山と海に囲まれてて身動き取りづらいから
直接筑前・肥後・豊後へ自由に動ける筑後を
どうしても手に入れたかったのは間違いない
大友は筑後への進軍が難しく影響力を出そうとしても出せなかったのかも

それにしてもだよ・・蒲池への酷い仕打ちのせいで
どんどん悪い方向に向かったしなあ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 13:54:17.70 ID:iqB3pKqH
>>484
相良に対して援軍送らなかったのがでかいってのも聞くなあ
島津が肥後の方に勢力伸びてくれば有馬がひよるのもわかるし

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 23:12:10.03 ID:IxEo2vtb
>>493
豊後から筑後は移動が難しいのに、筑後から豊後は移動が自由なの?

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 23:31:35.77 ID:O07eooBE
肥前から豊後へ直接向かうのは大変だろ

和製カエサルの末の息子、後藤家信のちょっと情けない話

2011年02月28日 00:01

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 00:27:52.14 ID:ZFtXCcQe
異教徒嫌いのフロイスさんから、和製カエサルとまで言われたわれらが五州太守龍造寺隆信、
龍造寺隆信には三人の息子がいて、長男を政家、二男を家種、三男を家信といった。
長男の政家は家督を継いで、龍造寺政家となり、二男の家種は江上氏を継いで江上家種を名乗った。
そして三男の家信は武雄の肥前後藤氏を継ぎ、後藤家信を名乗ることになった。

家信が継いだ後藤氏の領地武雄は、肥前の中央に位置して大村や有馬なんかのキリシタン大名の領地に
近いところにあって、
家信の先代の後藤貴明も大村氏からの養子だったり、西肥前の影響も強い土地だったと思う。
そのためか、この家信一度キリスト教に入信しようとしてキリスト教嫌いの隆信にこっ酷く叱られてたりする。

さてこの家信、ほかの兄弟と一緒に肥後に出征したりして活躍してるんだけども、
ご多分に漏れず沖田畷の戦いにも出陣して戦ってるんだな。
結果はまぁ、言わずもがなで、家信もまた命からがら逃げだして所領の武雄に戻り、
武雄城から要害住吉城に、その居城を移した。
たぶん有馬や島津の侵攻に備えたんだろうなと思う。
そこまではいいんだけど、この家信。親父が死んでから弱気になったのかまたキリスト教に入信しようとして、
今度は家臣に猛反発されて閉じ込められてしまったらしい。
和製カエサルの末の息子の、ちょっと情けない話


ちなみに、この肥前後藤氏、家信の息子の代から鍋島を名乗って、後藤家はそこで途絶えてしまってたりする。
武雄鍋島は幕末の蘭学研究とかで頑張ってるし、そこは別に悪い話でもないかななんて思ったりしますが。




21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:08:46.74 ID:xSMMZ71R
なんで龍さん家は漏れなく従筋の鍋さんに何事もなかったかの様に臣従したん?

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:26:47.17 ID:3Bm3Jvq3
>>21
臣従したというより、事実上の肥前のオーナー一族である龍造寺一門が
鍋島勝茂をお雇い社長として雇い、めんどくさい事を直茂に全部押し付けたと考えたほうがいい。

直茂は龍造寺一門があまりに勝手に動くので「大名なんて辞めたい」と泣き言を言ってる
書状が残ってる。

鍋島が君主権を確立したのはなんのかんので勝茂の時代。
勝茂が地道に家中改革を行った成果。

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:37:24.53 ID:M0dz7/pX
熊さん家臣の無茶っぷりは、ちょっとスレでも結構見かけるしね~
もっと勝茂さんは評価されていいのかもね~

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/27(日) 18:59:16.39 ID:c77Pe9IX
龍造寺自体が統治の正当性を主張できるほどの名門でもないしな