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其の方の只今の退き様、殊勝である。

2020年12月30日 15:57

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/30(水) 01:13:19.01 ID:Gm9dgAyq
ある時、織田信長公が「誰にても参れ」と仰せになったため、近習の小姓一人参って仰せを待った。
しかし「もはやよし」と仰せに成り、小姓は座より罷り出た。
そして再び前と同じように人を呼ばれたため、他の小姓が参ったが、これもしばし有って、「いらず」と
仰せに成ったため、罷り出た。

また、やや有って「誰ぞ参れ」とあり、また他の人が参った。暫く有って、これも事無くて
罷り出でる所に、座の側に塵が有るのを、取って罷り出た所に、信長公が「待て」と仰せあり

「総じて人は心と気を働かすを以て良しとするものだ。武辺というものは、かかるのも引くのも
時の潮時を見るのが合戦の習いである。其の方の只今の退き様、殊勝である。」

と褒められたという。

備前老人物語

「森蘭丸」の逸話の元ネタですね。



803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/30(水) 07:16:01.50 ID:RuoDJSgR
この前の麒麟が来る

光秀が諫言
→信長「もうよい、帰れ!」光秀「帰りまする!」
→あわてる近習に信長「帰りたいものは帰せ!」
→数秒後、近習に信長「ぐずぐずするな、呼び戻せ!」

塵は関係なく、ただ気が変わりやすかっただけだったり

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/30(水) 20:38:26.76 ID:OHqAH3+d
>>803
うっかり本題の丹波攻めを命じ忘れたから呼び戻しただけだぞ

比叡山焼き討ちについて

2020年11月22日 15:35

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 15:15:05.29 ID:AyJDst3j
9月朔日より3日に至り、信長は志村・小川・金ヶ森三城を攻落し、猛威に乗じて12日には大軍を勢揃いして
比叡山にぞ向かいける。これは延暦寺の衆徒が朝倉・浅井に一味して信長を討ち滅ぼさんと謀り、朝倉・浅井の
方へ軍糧まで運んだが故に、信長の憤りは大方ならず、急に攻め立てたられたのである。

山門の大衆は昔より猛威を張って、王命をも武威をも物の数とせざる習いであったため、法衣の上に甲冑を着し、
念珠を離すまじき手には太刀・長刀を引っさげて、坂下に下り立ち散々に切り立てれば、織田勢はこれに追い崩
され坂より下に追い落された。されども寄手は大勢なので新手を入れ替えて、踏み越え踏み越え攻め戦う。

その間に信長は忍の兵を山上に紛れ入らせ、堂社仏閣僧坊ことごとくに火を放たせた。折しも魔風吹き散り峰々
谷々院々坊々を黒煙が覆い火炎一円に蔓延れば、山法師どもは心は弥猛にはやれども、後ろからは猛火に責めら
れ、前からは敵に囲まれて逃げ出る道はなし。寄手の大軍は時を得て切り伏せ薙ぎ伏せ、たまたま逃れた者は縲
絏の恥を受け、法師児童おしなべて助かる者は稀だったのである。

今年今日はいかなる日であろうか。元亀2年(1571)9月12日、その昔、桓武天皇が伝教大師と御心を合
わせて草創し給いし王城鎮護の零場、根本中堂、文珠楼、日吉山王二十一社、およそ山上の三塔院々、経蔵、仏
宇、神社、一宇も残らず焦土となる。浅ましかりける事どもなり。

この時、金剛相模という悪僧は強弓の手練れであったが、如意ヶ嶽から2度まで信長を狙い射た。されども当た
らず。信長は山門を焼滅し、山麓に新城を構造して明智十兵衛光秀に守らせ、信長は岐阜へ帰陣せられける。

――『改正三河後風土記(武徳編年集成・織田真記)』


この時、信長公は東坂本の大鳥居をまっすぐに攻め上らせ給うと、山門の中衆、金剛相模という法師は無双の大
力強弓で、如意嵩から狙いすまして大きな矢をひょうと放つ。その矢は信長公の召されたる御馬の太腹に当たり、
馬はただ一矢に倒れてそのまま死に入った。

信長公はそれから大鳥居の石の上に腰掛けて居直り給い、諸方の焼けるのを御覧になっているところを、相模は
また二の矢を放った。その矢は信長公の腰掛けなさる石に当たり、たちまち砕けた。それより近習の軍兵どもは
鶴瓶打ちに鉄砲を揃え如意嵩へ撃ちかければ、相模はそれよりその場を落ち失せて行方知れずになったのである。

流石の精兵強弓なれども信長公の御運強く、2つの矢を射損じた。その矢の根は1尺2寸。後には京都大仏伝の
宝蔵に伝わり、籠め置かれた。信長公の腰掛石も坂本の大鳥居に近頃まで残った。

――『織田軍記(総見記)』



金ヶ崎の戦いについての京での様子

2020年11月12日 18:45

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/12(木) 16:04:36.47 ID:7iTRDrjx
永禄十三年(元亀元年)四月二十日
早朝、弾正忠(織田)信長の出陣を見物する。一条から東に、坂本に下った。三万ばかりの軍勢であった。
両三日以内に若狭へ罷り越すという。
三好左京大夫(義継)はこれを送り、松永山城守(久秀)は共に下った。摂津の池田筑後守(勝正)は
三千ばかりの人数でこれに従った。
公家より、飛鳥井中将、日野等もこれに従った。今日は鰐まで行くのだという。
貴賤男女僧俗が見物をした。

二十三日
今日改元これ有り(永禄→元亀)。方々より借用の遣いがあった。
高辻よりは石帯、持明院・同、四辻相公羽林袍太刀、坊城沓、勧修寺辯大帷、等である

二十七日
一昨日、越前国に於いて合戦があったという。信長衆千人余り討ち死にしたという。
不確実な注進であり、詳しいことはわからない。

二十八日
禁裏に於いて御三間五常楽急百返、八幡御法楽があった。信長のための御祈祷であろうか。
十六反であり、次に太平楽急二反があった。

二十九日
越前の事について、毎日様々な沙汰が有るため、弾正忠宿舎へ行き、留守の衆である島田但馬守、
佐藤三河入道、猪子外記入道、鷹師衆等と雑談した。福角、森伝兵衛(可隆・森可成長男)、毛利河内守(秀頼)
等の討ち死には必死だという。

信長より自筆の書状が届き、金之崎(金ヶ崎)の城を開城させるため、作事、番匠、鍛冶、をか引き等
七十人ばかりを下すよう言ってきたという。

近江に六角が出兵し、方々を放火したという。そして北郡の浅井(長政)はこれと申し合わせ、信長に別心
したという。これによって越前から美濃への通路は封鎖されたという。ただし越前から若狭の西路は
往還できるという。

武家(義昭)の奉公衆である松井七郎は越前に於いて負傷したという。

弾正忠信長が、亥の刻(午後十時頃)帰陣したという。

言継卿記

金ヶ崎の戦いについての京での様子。浅井の寝返りが、朝倉ではなく六角と連動したものと捉えられていたのですね。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/12(木) 17:30:38.36 ID:3GjHpviy
京極の臣下→独立→朝倉に攻められる→六角に半臣従→信長と同名結んで独立→なかば信長の臣下で、信長政権的には名目上京極の臣下→朝倉・六角と同名結んで独立→滅亡という具合だから、
浅井のどこが義理堅い大名なのかを小一時間…

志賀の陣の様相

2020年11月07日 17:41

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/07(土) 17:17:59.84 ID:y38pgAVu
我等は当面の難破を逃れ、少しく静穏であることを得たが、それから一ヶ月を経ずに突然、更に激烈な
暴風が起こった。
即ち、信長が都に来た時、彼のために亡ぼされた二人の王(朝倉義景浅井長政)が急遽軍隊を集め、
その国に帰るに先立って、これを殺さんと図ったのである。

信長は既に軍兵を帰らして、当地にはただ一万三千人を留めていたが、彼はこの事を聞くと、即夜出発し、
翌日(九月二十四日)未明、当地より4レグワにして、坂本と称し、コーチンより少し小さな町に於いて
彼等を待ち受けた。

敵は六万にして、皆甚だ良き金の武具を着し、甚だ高き山に上った。同所には五百の僧院より成る、比叡の山の
大学が在った。
彼等の軍隊は山中に、信長は山麓に在って、既に一ヶ月を経過した。
寒気、風雪、霰雹甚だしく、風も又寒冷であり、ただ寒気の為に死す者、双方甚だ多かった。

敵は都の周囲、多数の村落を焼き、市内の混乱、不安甚だしく、一ヶ月以上、最後の審判の様相を呈していた。
何故ならば、勝利が何れに帰すべきか知ることを得ず、信長が敗戦すれば、直ぐにこの市(京都)は焼かれ、
的に蹂躙されるために、市民は、或いは山上に穴を掘り、或いは街路に逆茂木を設け、また家財を隠匿し、
或いは妻子を市外に出した。

而も、市を出れば直ぐに盗賊に襲われ、又は敵に殺された。
夜警、叫喚、警鐘、突撃、等、実に憐れなることばかりであった。

(一五七〇年十二月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰)

いわゆる志賀の陣の様子について。



フロイス達の信長への訪問について

2020年10月31日 18:06

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/31(土) 00:23:39.93 ID:CqjrL7Qy
最も愛するパードレよ、前の続きに立ち戻り、我等の最も大なる敵である霜台(松永久秀)は、和田殿(惟政)が
信長を訪問するため、私を招くことを命じ、私が都に到着したことを聞くと、霜台は私に先んじて
信長を訪問し、私が到る所は悉く擾乱し、破壊されるが故に、再び放逐することを懇願した。

信長はこれを笑い、「一人が都のように大きな都市に在って、一国を擾す原因と成るなどと考えるが故に、
汝の心は甚だ狭いのだ。」と云った。しかして、彼の顔色が悪しき時は、これに抗弁し、またこれを
見上げる者は無い。

私はロレンソ、ベルショール、アントニオ、及びコスモ、並びに主立ちたるキリシタン達と共に城に到ったが、
彼は内に在って休息し、音楽を聞いていた。このため佐久間(信盛)及び和田殿が、私が携えてきたもの、
即ち尊師が三年前、豊後より私に贈った天鵞絨(ビロウド)び帽子、及び鏡、ベンガラの杖、及び孔雀の尾、
等、富に関する諸人の考えによれば、私からの贈りものとして価値少き物を、彼に運んだ。彼は他の品を
不必要であるとして、帽子のみの受納し、私が来たのを喜び、「他日、閉暇ある時に面会すべし。」と告げた。

佐久間殿は内より多くのサカナ、即ち食物を容れたゼキンロ(食籠:金を塗った小筥)を持ってきて、
和田殿と共に挨拶し、私に何を与えるべきかと語った。
両人は私を送って外に出、美しき辞を述べ、好意を表して別れた。而して、この光景を見て大いに驚きたる
群衆を意に介さなかった事はここに説かない。

その後信長は、和田殿及び佐久間殿に対し、私を引見しなかったのは、数千レグワの地よりこの教えを説くため
日本に来た外国人に対し、いかなる礼儀を用いるべきか解らず、また密に面会する時は、私が彼に洗礼を
授けるために赴いたと、懸念する者が出てくるのを恐れたためだと云った。

『一五六九年六月一日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

フロイス達の信長への訪問について



信長狙撃事件について

2020年10月29日 16:05

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/28(水) 22:11:22.91 ID:T0SBhEYQ
永禄十三年
五月二十二日
摂州、江州等よりの注進があった。六角入道(承禎)、同右衛門督(義治)らが、一昨日に甲賀の
石部城に出てきたという、その軍勢は二万ばかりという。
そして織田弾正忠(信長)が、甲津畑において、鉄砲四丁にて山中から撃たれたという。
ただし当たらず、笠の柄が打ち折れたという。言葉にも出来ない(不可説不可説)。

言継卿記

杉谷善住坊による信長狙撃事件についての、言継卿記の記事



『老人雑話』より、信長?の意外な発明など

2020年09月10日 18:11

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 22:11:14.28 ID:uTWXNuJz
老人雑話』より、信長?の意外な発明など

・お弁当箱
織田信長の(初期の)時代には弁当というものはなかった。安土城ができて、弁当というものができた。小芋くらいの大きさの中にいろいろなものを詰めていたそうだ。
信じない者がいそうだが、また挟み箱というものもなかった。挟み竹というものを使っていた。
挟み箱は大坂の(織田一族)津田信成が初めて作ったそうだ。

・江村老人が見た信長、細川忠興、そして思い出
織田信長は二条御新造を築き、将軍の足利義昭を従えて慶賀の能があった。「老人」(江村専斎)も4歳くらいで、乳母に抱かれて見物した。
その日、信長は自ら小鼓を打っていた。細川忠興は私よりも年が上で、6歳くらいで猩々を1番舞っていた。
そのとき、帰りに門外にて盗人に(乳母が担いでいた?それとも持ち物の?)後ろのひもを切られたことを覚えていると語った。
その頃、盗人は小柄・笄などを抜き取ることがあった。このために盗人を「ぬき」といった。いまの「すり」と同じことだ。

・三斎さまの母もファッション発明家
木綿足袋がいまのような製法になるのは、細川忠興の母(沼田麝香)が初めて作り、忠興の茶会に出るときに足が冷えるので履いたそうだ。

・自分の昔を思い出した?太閤秀吉
あるとき、太閤秀吉は宇喜多秀家の屋敷で能見物を楽しんだ。
庭に降りるとき、家康が先に降りて(秀吉の)草履をそろえた。
秀吉は家康の肩に手を置いて、「徳川殿に草履を直させるとはねえ」と言ったという。



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/09(水) 23:24:45.40 ID:UVHCOss5
>>526
こういう話好きだわ

528 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/09/10(木) 15:27:01.51 ID:k5JSoFGR
一番下の、家康が嫌味なやつになってない?

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 15:57:50.37 ID:Ffsvj1im
妖説太閤記で
家康が秀吉の草履を揃えて秀吉が
「わしもとうとう家康に草履を揃えさせるまでになったか」
と大喜びするシーンがあったけど

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/10(木) 21:21:32.16 ID:c8+1bs8C
しかしまさか脱ぎっぱなしで放ってあった訳でもあるまいに礼儀的に草履に手を添えてみたぐらいかな

『老人雑話』から2話

2020年09月03日 16:20

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/02(水) 21:55:37.14 ID:nhGZs0se
老人雑話』から2話。豪放磊落な人と秀吉の底意地?の悪い話

織田信長の家臣、市橋下総守(長勝)は「放狂の者」だった。(名門である)若狭の武田家より信長に使いがあったとき、(武田家の使いは)広間で威儀正しく控えていた。
市橋が広間を覗いたところ、いかにもすました有様だったので、「見たくもなき奴也」と思った。
そこで使者の前に出て、寝転んで足を使者に向け、手で陰嚢をたたき、「御使者、これほどの(大きな)餅をどれほど食えるか?」と言い放った。
信長は後で聞いて笑いが止まらなかったという


秀吉が小田原の役のとき、関東の地図を見ていて、家康が近侍していた。
このとき、真田昌幸(原文では「阿波守」)が末席にいた。
秀吉は「昌幸、こっちに来て地図を見ろ。おまえは中山道の先手に申しつける」といった。
昌幸は信之の父で、家康と意趣があって仲が悪かった。
その後、秀吉は昌幸を近くに呼んで、「おまえは家康に礼に参じて仲をよくしなさい。長いものには巻かれよ」といった。
(さらに)「長い距離を出陣中で不如意だろう」と袷20枚を進物として与え、富田一白を供に添えた。
家康も「太閤のおっしゃることならば」と仕方なく対面した。
その後に家康が一白に会っていうには「先日(昌幸との対面)のことは仕方ない。今度は石川数正がこのように面会してこぬように太閤様に取りなしを頼む」。
石川とも大いに意趣があって、仲が悪かった。しかし、石川も秀吉は小田原の陣中で家康へ礼に参らせたという

そりゃ、東照宮はどっちとも会いたくないですよね、まして石川数正は。秀吉の配慮なのか、嫌がらせなのか?



『当代記』より、本能寺の変

2020年07月16日 17:32

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 15:30:44.82 ID:4Mxqh86c
天正十年六月朔日、惟任日向守(明智光秀)は重臣である明智左馬介、同次右衛門、藤田伝五、斎藤内蔵助、
溝尾勝兵衛を召して、これからのことについて調談した。彼ら五人に起請文を書かせ人質を取り、

「明日中国へ打ち立てるべき人数を、信長にお目に懸けるべき。」

と伝え、戌刻(午後十時ころ)亀山を立ち大江山を越え、京へと急速に到着すると、二日の曙、信長の宿所
である本能寺を取り巻き、弓鉄砲を撃ち込んだ。信長はこれを聞かれて「謀反か、何者ぞ」と問われた。
森の乱丸走り出て、惟任反逆の故を言上した。これに信長は「是非に及ばず」と答えられた。

信長は弓を取って矢を数射された。屋代勝助以下が厩より出てきて、相戦って討ち死にした(この勝助は
馬についての目利きで、奥州の者であった)。近習の輩、同じく小姓衆も比類なく相働いたため、暫くは
支えたものの、寄手は大勢である故に、皆以て討ち死にした。

信長は弓の弦が切れたため、鑓を以って戦われたが、その時に右の肘を突かれた。そして内に入り、
女房衆に対し「女は苦しからず、急ぎ退くように」と三度まで言われてから、奥の間に入られた。
その後焼死されたのか、後に御遺骸は発見されず、惟任も不審に思い、色々と捜索させたがその甲斐は
無かった。

当代記

本能寺の変について



恵林寺焼き討ちの事

2020年07月15日 18:13

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 13:28:15.62 ID:SgIWpVh4
天正十年四月三日、甲斐に在った織田信長は、江州佐々木二郎(六角義定)が恵林寺に隠れ居るという
風聞を聞かれ、恵林寺に対しすぐにこれを出すように、検使を以て再三要請したが、恵林寺からは
「それは全く事実ではない。」と返答し、実際には密かに佐々木二郎を他所へと逃していた。

これを知って信長は甚だ立腹し、津田九郎二郎(元嘉)、長谷川丹波(与次)、関小十郎右衛門(成重)、
赤座七郎右衛門(永兼)に申し付け、恵林寺に火を掛け、快川国師、長禅寺の高山和尚をはじめ、
大綱、睦庵、両人は単寮(禅寺で首座、知事などの、単独で一寮に住むことを許された高位の僧)であったが。
悉く焼死した。その中に未宗という単寮が在ったが、彼は山門から飛び降り逃げ出した。
下法師、若僧などが火の中で躍り上がり、飛び上がって死ぬ有様は、言語に絶するもので、哀れであった。

東光寺の藍田和尚は、その場から逃げることが出来たが、途中において尾張の者と行き合い、強奪に
及ばれ持っていた金を全て奪い取られ、その後殺された。

当代記

恵林寺焼き討ちについて



200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 15:56:11.70 ID:KpZDFIsf
金の仏具なのか金銭のほうなのか、どちらにせよ悪い話だ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/15(水) 16:02:19.59 ID:Ul9TM2TJ
>下法師、若僧などが火の中で躍り上がり、飛び上がって
高僧は心頭滅却して泰然自若として死んだということだろうか

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/16(木) 01:06:02.24 ID:nHqIQs2/
>>199
美濃土岐氏出身の快川和尚を焼き殺したから本能寺に到るわけだな?

諸士は難儀に及んでいたと云々

2020年07月12日 17:38

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 13:15:27.07 ID:TOB5fOEN
天正十年三月二十一日、甲州征伐を果した織田信長の元へ、武田穴山(陸奥守入道梅雪)が徳川家康の取り持ち
によって出仕した。國久の太刀一腰、金三百両を進上。信長からは半俗の脇差の三つ刀を下された。そして
今回の甲州征伐における穴山梅雪の行動を信長は誉められ、甲斐駿河の本領を安堵した。
信州松尾小笠原掃部太夫も同じく出仕し、太刀、馬を進上し、本領を安堵された。
相州の北条氏政より太刀、馬、金千両、江河の酒十樽、白鳥十、漆桶二千が進上された。

二十三日、滝川左近(一益)に上野国、並びに信州の内二郡を添えて下され、上州厩橋に移り、また御腰の物も
下された。
深志之城に武田軍の残した兵糧が有り、陣中の衆に下された。
上野国の小幡上総介、織田信忠に出仕し、貞宗の脇差、金五百両を進上した。信忠よりは左文字の脇差が
下された。

北条氏政より、白米二千石が進上された。また徳川家康よりも兵糧の進上が有った。これらは織田軍の陣中にて
諸士に充てがわれた。諸士は(兵糧不足で)難儀に及んでいたと云々。

当代記

甲州征伐で、実は織田軍が兵糧に苦しんでいたとされる記事ですね。



190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:33:50.28 ID:z1pyTWFl
>>189
家康の接待とはいえ、のんびり物見遊山しながら御一行は帰ってるんだよなあ

かつよりと なのる武田之かいもなく

2020年07月11日 17:24

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:17:31.05 ID:3i8UXQ9T
天正十年三月五日、織田信長は甲州征伐のため安土を立たれ、翌日濃州六の渡に飛脚が来て、
『甲信駿三ヶ国異議なく討ち果たした』という旨が伝えられた。
仁科盛信(勝頼弟)の首がここに持参され、信長は大いに悦ばれた。

十三日、信長は信州の根羽に到着されると、ここに武田勝頼、並びにその息子太郎の首がもたらされた。
信長は甚だしく喜悦され、狂歌を読まれた

『かつよりと なのる武田之かいもなく いくさにまけてしなのなければ』

当代記



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 07:17:50.69 ID:jBC+6l/v
勝つしか無い武田勝頼くん ワシと戦いをした結果 負けて甲斐も信濃も失って 品のないことだよね

高野聖誅伐

2020年07月10日 18:50

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 12:29:43.45 ID:9UfOtJty
天正九年八月十七日、織田信長は高野聖を方々にて搦め捕らえるよう仰せに成った。その仔細は、摂州伊丹の
牢人(荒木村重残党)の内二人がかの山に在ると聞き召され、急ぎその者たちを出すように、使者を以て
仰せ遣わした所、返事さえ申さず、あまつさえ使者上下の者共二十余人を討ち果たした事も申し届けなかった。
事に御腹立てられ、方々に仰せ触れたのである。
これによって高野聖数千人が搦め捕られ引き立てられた。その誅伐の有様は非常に哀れであった。

昔、高野聖が諸国に下る時、予め宿を取るという事はなかった。路巷において「宿かや宿かや」と呼びかけ、
これに心有る人は、上下によらず宿を貸した。もし宿がなければ、そのまま路頭にて夜を明かした。

しかし信長がこの年に聖たちを殺害して以来、こう言ったことは無くなった。信長が相果てた後でも、
これ以後元のように戻る事は無く、普通の旅人のように宿を取るように成った。
(殊に現代では、聖は商人のように、衣類など様々なものを持ち運び、これを売却する。
少しの坊をも持つような聖であれば、笈(書籍を入れて持ち運ぶ箱)も持たず、馬上にて国を上下する。
何れも大師の掟に違うのではないだろうか。)

当代記

高野山側の記録だと、この時信長から遣わされた使者というのが非常に横暴で猛反発を受けたとあったりますね。



金銀を 遣捨てたる馬揃

2020年07月09日 18:21

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 13:15:27.85 ID:8tUCxMUS
天正九年、正月二十三日より触れられてた馬揃が、二月二十八日に行われた。
各々美を尽くした色々な出で立ちであった。
馬上の者達は百騎に及び、一番の明智日向守(光秀)は紅の出で立ちであった。
そこから次々と、書き表すのも及ばぬほどの、結構の体であった。

信長はこれらの馬の後に乗られ、先馬の前に(武井)夕庵法師を通した。その体は小袖をつまんではしょり、
白髪をかぶった出で立ちで、鞍に取り付き、まるで誠の老女が馬に乗っていて危ないように見えた。
この夕庵は信長の右筆で、歳は七十余の入道であった。

信長公の出で立ちは、ほほに頬紅をされ、牡丹の造花を腰に指し、冠物にも花を指されていた。
馬先に乗り換えの馬が十疋、それぞれ無量の仕立てであった。或いは唐織、或いは染綾薄、猩々緋などにて
泥障(あおり:鞍の四方手に結び付けて馬の腹の両脇に下げる、泥よけの馬具)とし、例えるべき様もない
結構であった。

信長の馬の廻りには小人衆が紅梅の袷、上に黄衣、立烏帽子、のし付脇差、金の鼻ねち、紅のうてはしりにて
思い思いに乗った。

池田庄九郎は惣金の出で立ちであった。その身については申すに及ばず、馬の毛や爪まで何れも金であった。
馬の毛には、ふのりを以て薄を置いたという

主上(正親町天皇)は御桟敷にて御見物された。馬場は内裏の東に、縦三町横二町ばかりに構えられた。
周りに柳を植えてあった。

また翌日には、「昨日の馬揃残り多し」と羽織頭巾にて馬に乗り、この時猩々緋を羽織った。それぞれ
先の馬上衆が、一夜の間に仕立てたのだという。

そして何者の仕業か、落書があった

『金銀を 遣捨てたる馬揃 象棋に似たる王の見物』


当代記



394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 19:37:38.79 ID:Pvl2OpoO
>>393
金銀を捨てても王様が詰まされなければ勝ちだからね、将棋は
京童としては成り上がりの信長なんぞ捨て駒で、天皇こそ、といいたいのかな

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 21:52:22.55 ID:f3UPKo8d
援助が無ければ没落する哀れな王様なのにか?

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 23:58:32.00 ID:Pvl2OpoO
>>395
それが天皇の権威であり、皇家でもないのに京に住んでるだけでぶら下がるぶぶ漬けどものアイデンティティー

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 11:06:40.83 ID:zbAHFZVo
>>393
先頭は丹羽じゃなかった?

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 17:12:15.97 ID:ZQ4CsC64
中国攻めのためこの馬揃えに参加出来なかった秀吉が長谷川秀一に宛てた
「馬揃えに参加出来なくて無念だ。せめて各々がどんな出で立ちだったか教えて欲しい」って言ってる書状があるな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 10:03:43.79 ID:9xGCmwhn
秀吉がキングコングのコスプレで参加していたら実物だわ。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:13:09.98 ID:z1pyTWFl
>>400
かといって十八番の瓜売りの格好で馬揃えに出られてもなあ

献上された人魚

2020年07月07日 17:38

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:33:40.85 ID:SGT8Vxh6
天正七年二月十八日、織田信長が上洛された。この春、信長公が在京の砌、若狭国の丹羽五郎左衛門(長秀)
が人魚を献上した。これの顔や手足は人と違わず、長さは五尺(約1.5メートル)ばかりであった。
この人魚は岩の上に登ってしばらく寝ており、その所を見つけ、これを取ったのだという。
この在京中に、三条の宗運という町人が、老父に至孝であるという事を信長公が聞かれ、諸役を免許し
米百石を下した。

当代記



381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:43:52.64 ID:1MncSJu9
足がある人魚?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:49:11.85 ID:vnEUtyqx
半魚人?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z
河童やね(適当)

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:59:52.28 ID:emopB1HD
>>380
福知山城に行ったら丹後浦にトドが迷い込んで捕まったという手紙が絵付きで展示されてた
多分トドじゃなくアザラシだと思った

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:10:02.84 ID:3vqzziLb
献上された人魚って食べるの?生け簀みたいなので泳がせるの?

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:34:01.50 ID:n4Ey8St4
海獣の類いでしょ
日本だと海獣以外にリュウグウノツカイを人魚と見間違えたという話もあるとか聞いたけど

やっぱ食べるのかな?海獣だったらしばらくは飼えそうだけど

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 20:50:16.68 ID:UOpvQdJP
>>380
八百比丘尼「食べなきゃ(使命感)」

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 21:48:27.41 ID:sY0DV/cH
家康も不老妖怪の逸話あったし権力者あるあるか

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:51:51.78 ID:OWOT8Gkc
>>380
家忠日記に人魚みたいな絵があったね、これのことかな?

と思って調べたら家忠日記のは天正九年に安土に揚がったヒト食い人魚のようだ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 00:01:29.70 ID:rjLtYiQe
戦国日本ヤバイ

信長の鷹

2020年07月05日 17:34

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 23:32:18.18 ID:K1RlApYW
天正四年十一月、織田信長公は叡覧に入れるため、内裏に鷹を据え、庭上まで参内された。
各供奉の衆の装束は結構を尽した。
退出の後は常の狩の出で立ちにて、東山の鷹野へ向かったが、雪甚だしく、秘蔵の鷹を見失ってしまった。

信長はこれを本意無きことに思われ、「この鷹を据え来た者には必ず褒美を与える」との札を立てた所、
一両日後に、大和国で発見された。信長は甚だしくこれを悦ばれた。

当代記

この時期の信長の威令の強さを感じさせるお話。



371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 17:26:01.40 ID:uMAdPURW
>>368
そんなひどい雪の中で鷹狩りすんなよって思ったけど
内裏に鷹を据えるというセレモニーの一環だから延期や中止はできなかったんだろうな

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 08:14:05.60 ID:tQwxA9zj
11月に雪降るとか妄言も大概にしろよ
いくらなんでも盛りすぎだろ

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 09:05:49.99 ID:1iAfCj1a
旧暦計算なら今の11月よりは後ろになるからその年の気候次第ではあり得るんでは。
しかし腹も減ってないのに雪の中飛ばなきゃならんとか、鷹のほうも嫌だったに違いない。

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 11:06:26.16 ID:s0CFQ3DQ
天正4年11月20日明け方に京都で初雪、ただ一寸降っただけ
信長内大臣任官お礼の参内が23日
この間、21日~25日の京都は晴(『言継卿記』)

ただし京都の東山じゃなくて近江石山寺近辺で鷹野をしてる(『信長公記』)から
当代記』の通りに滋賀だと大雪だった可能性もほんのわずかながらあるかも

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 07:47:43.39 ID:yPD1u5Ou
そもそも、戦国時代は小氷期で地球全体が今より寒冷な気候だ

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 08:54:49.45 ID:piBEUhHC
信長公記に同じ話があった気がするが、天正4年条には見当たらなかった

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:02:59.13 ID:IvWV8E6Z
御鷹山猟御参内の事
天正5年11月18日

これかな

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:40:20.70 ID:piBEUhHC
>>377
手元ので改めて確認

天正6年11月27日条
「北野まはり御鷹つかはされ、御秘蔵の鷂(はいたか)失せ申候。方々御尋ねなされ候処、十二月朔日、丹波より居上せ進上」

これは見つけたんだが、もうちょっと詳しい描写があったような、なかったような…

公記を見る限り、信長は天正4年11月に上洛参内し、内大臣の官位を得ている。公家にもいろいろ配っている。鷹狩りについてはその後、石山世尊院で二日間、行っている。なんらかの混同が当代記ではあったのかな
京童の噂話が間違って伝わった可能性もあるし

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:41:56.90 ID:piBEUhHC
>>374
あ、見落としてました。一次史料をどうもです

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z

>>378
>>377も信長公記です。「俄かに大雪降り来たりて」等、>>368の当代記よりも詳細な記述。

同じ日の兼見卿記にも「内府御鷹山也 各着頭巾道服 心々之仕立也 御分国之大名其外馬廻数百人也
見物無比類云々 祇候禁中於小御所 有御盃之義云々 其以後東山へ御鷹山也」(東大史料編纂所より。
転記ミス御容赦)とあるので、当代記の記述(国会図書館DBで確認)が1年ずれてるのでは。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 16:26:01.69 ID:Mg35n5Ah
太陰太陽暦では冬至を含む月を11月とするから11月に雪が降ってもおかしくはない

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:41:18.03 ID:OWOT8Gkc
>>383
おー、ありがとうございます!これこれ!
越智玄番が欠地を回復する話。
しかし、信長は2年連続、11月に御秘蔵の鷹を逃がしていたことになる。鷹匠の消息は触れられていない。

弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ

2020年07月01日 17:13

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 21:54:30.51 ID:G1TABAxh
織田信長公より九八郎(奥平信昌)が拝領した刀は、目貫口蓋は、去々年後藤光乗に仰せ付け、京都に於いて
掘られたもので、昔、弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ、それは、女は色に耽る者なれども、
老年なれば面は猿に似て手にあじか(土を運ぶ道具)を持ち、その中にくわえ蕨など入れ、肘に掛け後ろに
袋を負い、前打ち広げて腰を掛けていたる体が書かれており、信長はこれを見給うと、「この図を写すべし」
と命ぜられ、そうして掘られた口蓋であった。

その頃、この図を明智日向守(光秀)が狩野が絵像に写させた所、尽く出来、眼に点入れまでしてあったのが、
一夜の内にこの絵が腐り果てた。この事を明智に申し上げた所、「権者の筆跡を凡夫として写しけるによって、
このように成ったのだろうか。奇特である」と云ったという。

『当代記』



十七ヶ条の意見書

2020年06月30日 18:00

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 01:40:08.43 ID:G1TABAxh
元亀三年の冬、織田信長は十七ヶ条の書付を以て足利義昭に諫言を遂げた。
この諫言の書は信長記(信長公記)にこれ有り、右は何れも忠言である。
後に武田信玄はこれを見て、信長を「ただ人ならず」と云ったという。

元亀四年(天正元年)正月十日、松永久秀は織田信長に降参し、岐阜へ参上した、
この時、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差を進上した。これらは何れも天下無双の名物であった。
このように松永が降参したのは、佐久間右衛門(信盛)の取り扱いを以てであった。

この頃、将軍足利義昭は信長を亡ぼす旨を思い立てられた。これは去る年の冬に信長が出した
諫言の書(十七条の意見書)が御耳に逆らう故であると聞こえた。

当代記



乱以後その猿は居なく成った

2020年06月29日 17:17

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/29(月) 15:44:13.80 ID:tj/soCjd
元亀二年九月十二日、織田信長は叡山を退治した。
近年朝倉義景と内通し、特に去年、越前衆がかの山に陣を敷き、信長に敵対したために斯くの如くとなった。

この時の消息に依ると、衆徒、児童に至るまで、或いは首を刎ね、或いは焼き殺し。逃げ去る者から
衣類を剥ぎ取った。堂舎仏閣一宇も残らず焼き払い。哀れなりし事共であった。

これは偏に近年、叡山が大師の掟に背き、衆徒乱行、殊には去年越前衆が陣を張り、この時伽藍、仏前で
食事に魚鳥を用い、男女が登り乱れ放蕩したため、自業自得の果の道理ではないか。

これについて、山王の使者であるため、この乱の時までは山に猿が限りなく充満していたのだが、
乱の以後はその猿が全く居なく成った。奇特なことであると云われた。

信長はこの時、「後代にもし、当代の衆天下に知られていると云えども、叡山を建立しないと、各々に
起請文を捧げさせた。

当代記



猶以てこのように

2020年06月28日 17:11

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/28(日) 10:40:18.37 ID:vBavp88v
元亀三年、武田信玄は遠州に発向した。この時織田信長公はその歴々の衆を徳川家康公へ
加勢有り、またかの信玄の娘と信長息(信忠)との縁辺の契約もあり得なくなった。
年来家康と信長は別して子弟同然の間であり、その贔屓の沙汰も斯くの如しであったが、
この時の信長の真実の心底は、「家康が滅亡すれば、定めて信玄は信長を討ち、天下を取るべき
企てがある」と予てより推察されていたため、猶以てこのように援助したのである。

当代記