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信長の唐櫃

2019年08月04日 15:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 15:12:01.37 ID:20SiqXwU
霜月21日(1567)に織田信長より織田掃部助(忠寛)を使いになされ、「信玄公の御料人(松姫)が
御歳7歳になられるのを承り及び、信長の嫡子・城介(織田信忠)の内方に申し受けたい」と仰せ遣された
のである。武田の家老衆各々は寄り集まって談合し、信玄公へ申し上げられるには、

織田信長はすでに34歳に罷りなられ、27歳の時に義元を討って庚申より去年まで7年の間に美濃・尾
張を治めて今は美濃岐阜に居住されています。

殊更今年は公方の霊陽院殿義昭公を都へ御供申し、信長の被官の柴田修理(勝家)・野村越中の両侍大将を
都に付け置き申されているので信長は望みも多く、万一どのような謀で信玄公と縁を結び申したいと申され
るのかも分かりませんので、これはまず差し置きなされ」

と諫め申し上げた。信玄公は聞こし召して、

「それは各々の意見もっともであるが、近年信長が信玄に入魂仕りたがることは少しも偽りには見えない。
その訳は、信長が音信に小袖を送り、信玄の召すものを格別に致すと言って入れて送った箱を削らせて見る
に殊の外の堅地で、蒔絵も我が家の菱を同じ具合になしたのは、町物ではなく念を入れて、わざわざ申し付
けたと見える。勝頼と縁者になる2年前からこの如くである」

と仰せられ、各々にその唐櫃を取り出させ、年々のを見せなされば仰せの如くである。信玄公は仰せられて、

「人の真実・不真実は音信で知るものである。1度や2度は念を入れるとも、3度までは主か親を除いては、
その他の只の者には重ねて念を入れることなど小身な者でさえしないというのに、ましてや国持ちは自分も
人も事が多いので、年々このようにはならない。

信長は1年に7度ずつ必ず使いを送る。それでさえもこちらから使いを遣るならば、その返報とも存じよう
が、2年に1度でもこちらから人を遣ることはないというのに、親主の如くに信長が仕るのならば、縁者に
信玄となりたいと信長が存じるのは一段と真実であろう」

と仰せられ、御合点あって御返事なされた。そうして織田掃部が長坂長閑(光堅)を介して申し上げ、「こ
の上は細かな事をも申し上げます。私めに万一暇があって、佐々権左衛門や赤沢七郎左衛門が参る時は誰を
介して申し上げるべきでしょう」と申せば、信玄公は仰せ出され「高坂弾正に付いて申せ」とのことだった。

掃部はまた申し上げる。「高坂弾正殿は信州川中島に罷りおられますが、甲府に弾正がおられぬ時に川中島
まで参るのもいかがなものでしょう。小事で大名の弾正をここまでというのも申し悪いので、御膝下で奏者
を仰せ付けられれば、その上でも大あらましの事は高坂弾正殿へ申します」と織田掃部は申すので、原隼人
佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)両人を仰せ付けられ、織田掃部と原隼人・跡部大炊助を長坂長閑のところ
まで呼んで引き合わせたのである。

掃部は甲府に長く奉公仕った故、両人とも知人である。中でも跡部大炊助は織田掃部が信玄公へ御奉公申し
た時の奏者である。ことさら掃部が岐阜へ帰り、やがてその年11月中旬に御祝言の御樽肴を持たせて甲府
へ参り、御祝めでたきことである。よって件の如し。

信長より信玄公への御音信は、
一、虎の皮3枚 一、豹の皮5枚 一、段子百巻 一、金具の鞍鐙10口 以上。

御料人様への御音信は、
一、厚板百端 一、薄板百端 一、緯白百端 一、織紅梅百端 一、代物千貫 一、毛掛の帯上中下3百筋。

この他御祝の御樽肴は作法の如くで、御使は織田掃部助である。

――『甲陽軍鑑』



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:57:51.98 ID:W6PzTXQ5
そんな信長を平然と踏み潰そうとする信玄公

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:59:53.94 ID:w2LBZ5n+
その頃は信長のがデカいのにその表現は
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家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。

2019年07月29日 17:29

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 23:37:06.23 ID:wJxV0U2v
(永禄13年)

駿河田中に御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門(長穐)を使者にして御音信があった。唐の頭20・
毛氈3百枚、そして猩々緋の笠。これは4年前に公方の霊陽院殿(足利義昭)と都へ御供仕り征夷将軍に備
え奉った時のもので、「弓矢に縁起の良き笠です」と信長は申されて、信玄へ送り進上なさった。

信長の使者がいる所で土屋平八郎(昌続)にその笠を下され、「信長の武辺にあやかれ」と信玄公は仰せら
れた。唐の頭は奥近習衆に下され、籤取りを仰せ付けられた。そうして2月下旬に江尻へ御馬を寄せなさる
と、江尻までまた織田信長より飛脚を御越しになされた。その御状は、

 三河岡崎の松平家康(徳川家康)は、私めが取り分けて目を掛けている者ですので、御引き回しを頼み
 入ります。そこで、その地に今川殿へ前々より差し置いていた家康の弟(松平康俊)を召し置きなされ
 ているそうですが、幸いですので家康の人質として甲府まで召し連れなさって、御心安く御用などを仰
 せ付けられますようにと、家康も私めの方へ申し越していますのでこの次第です。家康の事は良きよう
 に頼み入ります。恐惶謹言。

   2月18日                           織田上総守
      甲州法性院殿 人々御中                      信長

――『甲陽軍鑑』



ついにその名は高きものだという

2019年05月29日 18:26

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 23:02:18.14 ID:nF4+lOrm
  此比の大将衆弓矢取様之事

一、織田信長は取り巻いている城の包囲を解いて退き、境目の小城をいくつ競い落されても苦しからず。

  追い崩されて自分の人数を追い打ちに討たれなければ、世間の取り沙汰しは無いものなので、難しい
  ところを急いで引っ込み、やがて出て行き国を多く取って持ち、大身になったので、ついにその名は
  高きものだということである。

――『甲陽軍鑑』



藤きちろうおんなども  のぶ(印)

2019年05月26日 15:16

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/26(日) 14:18:28.07 ID:mopXN2yD
同集(古筆集)に、足守候(足守木下家)の蔵物として、織田信長が木下藤吉郎の妻に賜う書という
ものが掲載されている

『仰せの如く、今度こちらへ初めて越し、見参に入り祝着に候。殊にみやげ色々、美しさ中々目にも余り、
筆にも尽くし難く候。祝儀ばかりに、この方よりも何やらんと思い候へば、その方より見事なるもの
持たせ候あいだ、べちにこころざし無くのまま、まずまずこの度はとどめ参らせ候。重ねて参るの時、
それに従うべし。

なかんずくそれの見目振り、かたちまで、いつぞや参らせ候折節より、十の物、廿程も見上げ候。
藤吉郎、近々不足の旨申すのよし、言語道断、曲事候が、何方を相訪ね候とも、それさまほどのは
又二たび、かのはげねずみ、相求めがたき間、これよりいかにもかみさまなりに重々しく、悋気などに
立ち入り候ては然るべからず。ただし女の役にて候あいだ、申すものの申さぬ中に、もてなし然るべし。

猶文ていにはしいり、拝見請い願うものなり。
まいらせ候かしく

 月 日
  藤きちろう
     おんなども
             のぶ(印)』
(訳)
「前から仰られていた通り、今度こちらに初めて来られ、見参されたこと、祝着です。殊に様々なみやげは、
その美しさは目にも余り筆にも尽くせないほどで、こちらとしては祝儀であるのだから、何か与えようと
思っていたのですが、そちらが大変見事なものを持って来られたため、それに釣り合うようなものを思いつかない
まま、とりあえず今回は思い止めました。次に来られた時に、この思いに従った物を下すでしょう。

それにしてもあなたの見目ぶり、姿形まで、以前に参られた頃よりも、十のものが二十に成ったかと思うほど
見違えました。藤吉郎は最近、あなたに対し不足の旨を申しているようですが、言語道断、まさしく曲事です。
今、どこを探したとしても、あなたほどの女性は二度と、あのはげねずみが求めることは出来ないでしょう。
ですので、あなたも今後はいかにも御上様らしく重々しく、悋気などを起こすべきではありません。
ただし女性の役なのですから、物事を語らない中にも、察して対応するべきでしょう。

文末に至りましたが、拝見を請い願います。かしこ。」

(甲子夜話)

有名な織田信長が高台院に宛てた書状



信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず

2019年05月22日 13:20

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:40:38.18 ID:D7yWtb0Y
(前略。元亀元年(1570)12月の事)

馬場美濃(信春)が申すには、

「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり“犬山哲斎”と申しております。

この人の物語りによれば、信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、舅の斎藤山城守(道
三)の弓矢形儀を仕っております。『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』と、犬山
哲斎は沙汰致しました」

と申し上げた。信玄公が仰せられたことには、

「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕
致した。斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、斎藤の弓
矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。

しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、父の弾正の代には小家中であった
故、侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、自然と信長衆の大方のことは斎藤山城の
ように致すものであろう。それはあえて真似るわけでなくとも、浄土寺へ行けば自然と『念仏申したい』と
の心になるのと同じことである」

と仰せになられた。

――『甲陽軍鑑』



勝ちを千里の外に決す

2019年05月16日 16:44

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:47:31.40 ID:JyrqVqki
その後、信長公は24歳で是非義元(今川義元)を討たんと心掛け給えども、ここに妨げる男あり。
戸部新左衛門(政直)といって笠寺の辺りを知行する者なり。

能書才学が形式通りの侍で、主君を無二と思って義元に属し、尾張を義元の国にせんと二六時中謀る
ことによって、些細であっても尾張のことを駿河へ書き送った。

これにより信長は心安き寵愛の右筆に、かの新左衛門の消息(手紙)を多く集めて1年余り習わせな
さると、新左衛門の手跡と違わず。この時に右筆は義元に逆心の書状を思うままに書きしたためて、
「織田上総守殿へ。戸部新左衛門」と上書をし、頼もしき侍を商人として出立させ駿府へと遣された。

義元は運の末であったのか、これを事実であると御思いになり、かの新左衛門を御呼びになると「駿
府まで参るに及ばず」と、三河吉田で速やかに首を御刎ねになった。

その4年(永禄3年の誤り)にあたって庚申、しかも七庚申のある歳5月。信長27の御年で人数は
700ばかり。義元公は人数2万余りを引率して出給う(桶狭間の戦い)。

時に駿河勢が所々へ乱妨(乱取り)に散った隙をうかがい、味方の真似をして駿河勢に入り混じった。
義元は三河国の僧と路次の傍らの松原で酒盛をしていらっしゃるところへ、信長は切って掛かりつい
に義元の首を取り給う。この一戦の手柄によって日本においてその名を得給う。

これでさえも件の戸部新左衛門が存命であれば中々難儀であったろうが、信長公は智謀深く、陳平と
張良が項王の使者を謀ったのと異ならず。

信長公の消息の手立ては24歳の御時なり。評言すれば、『籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外
に決す(戦略の巧妙なこと。漢の高祖が張良の軍事的才能を評した言葉)』。

そのため、尾張の諸侍で義元を大敵と称し信長を軽んじた者どもは、翌日から清洲へ参候して信長を
主君と仰ぎ申したのである。

――『甲陽軍鑑』



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:54:39.69 ID:i428Al7X
ゆらり

小次郎は信長の時分の脇の上手であるという

2019年05月04日 14:54

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 01:12:13.79 ID:LlOPDr9S
小次郎(観世元頼)は信長の時分の脇の上手であるという。信長の初めの頃である。

小次郎の嫡子に弥次郎という者がいた。これも脇の上手で小次郎に劣るまいという。これは大徳寺
だったかで能があって、その帰りがけに僕に殺されたのである。

優れた男色でその弟に了室という者がいた。了室は近頃まで存生した。これは脇は下手なり。

――『老人雑話』



978 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/04(土) 17:29:40.26 ID:1Ob+Bu4A
>>977
>これは大徳寺
だったかで能があって、その帰りがけに僕に殺されたのである。

犯人は江村専斎か…(すっとぼけ)

又ものの分として何とて能せん

2019年05月01日 16:18

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 13:19:53.30 ID:8nKSRDUM
信長が甲斐の四郎(武田勝頼)と対陣の時(長篠の戦い)、鳶の巣の城を乗っ取ることを酒井左衛門尉
(忠次)が信長に乞うた。信長は叱って曰く、「陪臣の分際でどうして良い働きができるか!(又もの
の分として何とて能せん)」と。

左衛門尉は重ねて乞わず、即時に赴いて城を乗っ取ったという。左衛門尉は東照宮(徳川家康)の家臣
なり。東照宮が甲斐・信濃・上野を所領し給う時、威勢は一人盛んであった。今の宮内(原注:四郎)
の父なり。

――『老人雑話』



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 14:45:50.07 ID:zLaAnMy+
信長の功績を過少にしてる話多いよね

951 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 15:29:18.99 ID:2GWH/FK7
後であの場ではああ言ったが良い案だ、やれって言われたってバージョンもあったな。

これ武略なり

2019年04月27日 15:54

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:13:34.77 ID:2r7o4uZh
信長は5千騎で今川義元の4万の人数を鳴海で敗った。義元の首を取ったのは川尻与兵衛(河尻秀隆
という者なり。後に信濃で死す。

この時、信長は清洲にいて乱舞し、先手から送られる文箱をも開き見ず、皆が「負けた」と推し量った
のである。信長は馬を出し、熱田の神前でしばしまどろみ夢を見ている体で、応じる声が3度あった。
これ武略なり。

さて大雨の降る中で信長が馬を進めると、輿を控えて諫める者あり。その時、信長は鞍の前輪を叩いて
敦盛の『人間五十年』のところを舞われたという。

人々は皆それならばと押し掛かった。義元が台子で茶会をしているところに急に打って掛かって、勝利
を得たり。この時、義元の勢4万は七備に陣を立てていた。しかし間道から本陣へ掛かった故に、七備
も空しくなったという。

――『老人雑話』



936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:18:07.66 ID:mExy/+Tj
>>935
毛利新介「!?」

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 16:24:35.08 ID:YVf5kat/
伝言ゲームのように話が変わっていくんでしょう
それにしてもこの場合の乱舞ってなんだ

織田信長公、座興ふかき事

2019年04月10日 17:16

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 00:31:04.91 ID:Y0JDf8tv
織田信長公、座興ふかき事

正月五日、「節振舞あるべし」と言うことで、佳例にまかせ、諸大名を集められた。
さて、種々の饗応あって後、夜に入ると信長公より「大盃にて、上戸も下戸も押し並べて給うべし」と
仰せになり、「余興として順に舞をするように」と言われ、面々は嗜んでいた芸を以て舞い歌い
入り乱れ、各々前後も解らぬほどの大酒盛りとなった。

このような所に、柴田修理介(勝家)が飲もうとしていた大盃を見て、信長公は「今一つ明智光秀に指すように」
と仰せになった。「畏まって候」と勝家は一息に飲み干し、これを日向守(光秀)に渡したところ、光秀は
「これは困ったことだ、たった今ようやくその盃を飲み干して貴殿に回したというのに、またそこから
給わるという事、どうやって給わればいいのか。そうか御免を頂きたい。」と、頭を畳につけて辞した。
これに修理介「私もそう思うが、殿の御意によって指すのだ。否応有るべからす。」
「如何ほど御意にても、もはや塞ぎ詰まっています。御宥免頂きたい。」
そう申して、座敷の隙間から次の間へと逃げた。

その時、信長公は座敷を立った。光秀が次の間でうつ伏せにひれ伏していると、その首を取って押し付け、
御脇差を引き抜き

「いかに、きんかん頭、飲むのか飲まないのか、一口に返事をせよ。飲まぬと言うならこの脇差の切っ先を、
後ろから喉まで飲ませてやろう。光秀いかに、いかに!?」

これを聞いて光秀も心乱れるが、この有様に酒の酔も俄に醒め、

「ああ殿様、切っ先がひやひやと見に覚え候。さりとては御脇差御ゆるし候へ。死に申すことは、
今少し早うございます。」

そう申し上げる。これに信長公

「そういう事なら、仰せを背かず飲むべきか、さに非ずば、脇差を飲ますべきか、何れを飲むのか、
はやはや返事をせよ。いかに、きんかん頭!」
そう言いながら、脇差のみねにてかなたこなたを撫で回した。
光秀は気も魂も消える心地して
「御ゆるし候へ、起き上がって、御意のごとく御酒を飲みましょう。」

「なるほど、それならば立ち退こう。もし飲めなければ、今度は脇差をしかと飲ますぞ!」
そう仰せになって立ち退かれると、光秀は顔の色青く、目の色、顔つきも変わって起き上がり、かの大盃を
取って戴き、酒を請けた。
そしてようやく九分ほど飲み及んだ時、信長公ご覧になり

「あれを見よ人々、何ほど詰まりても、酒は自由なる物にて飲めるものだ。餅や飯などは、詰まった時は
どうあっても食せない。私は饗宴の亭主役をつとめて、飲ませることが面白いのだ。」
そう仰せになると、座中一同、どっと興じた。

かくして夜も、はや東が白んでくると、信長公は簾中へ下がられた。これを見て、諸侍は、
我先にと帰っていった。


光秀は宿所に帰ってつらつらと考えた
「助かった。危うき命を保つことが出来た。諸侍数多ある中に、私一人がこのような目に合わされること、
今回も含めて三度目である。これは普段から、私を殺そうと折を待っているのではないだろうか。
酒というものは、必ず心底を打ち明けるものであれば、あのようにされたのだろう。
『思う内に有れば色外にあらはるる』という言葉はまさにこれだ。重ねてよくよく心得ておくべきだ。」

この事があってから、光秀は事(謀反)を思い立たれたと言われる。

(室町殿物語)



840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:16:14.65 ID:/JL74bm0
さすがに嘘だろ

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:24:54.58 ID:Y0JDf8tv
>>840
室町殿物語の元になった「室町殿日記」は慶長二年から慶長七年の間には成立したと考えられていて、なおかつ文禄五年ころに成立したとされる
「義殘後覺」にもほぼ同じ内容の話が収録されているので、事実かどうかはともかく、秀吉の時代に、光秀の謀反の理由についてこういう話が
語られていたのは確実だと思う。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:30:16.23 ID:zxEYpi3D
年次はいつなのか 3回目というが1回目と2回目は何があったのか

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 04:14:55.06 ID:oaAsJqRE
「是非もなし」

やっぱアイツ怒ってたのか
( ´•ω•` )

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:55:15.98 ID:LRQ0nIoS
>>841
思い付くのは2つあると思うんだ

そんなに極端に本能寺から経ってないこの時代でも
光秀謀叛の理由は良く分かってなくて話の種になってたんだなってことと

なんかもう面白くする方向に走っちゃってるんじゃないかということ

今宵、なんとも心得ざる夢を見たため

2019年04月09日 12:23

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 07:59:58.78 ID:aTiipaij
ある時織田信長公は不思議の夢を見て、心もとなく思い「誰かこの夢を判じてくれないものか」と
かれこれ案じわずらっていたが。急に思いついて、乗慶僧都を召され、仰せに成った

「ちと御坊に考えて頂きたいことが有って、このように招いたのだ。」

「承ってみましょう。どのような事でしょうか」

すると信長
「今宵、なんとも心得ざる夢を見たため、御坊の判断を聞きたいのだ。その内容を具体的に言うと、
広々とした山野に、私は唯一人躍り出て、東から西へと向っているようだったが、道の中ほどと
思しき所に、その向こうに半反(約5.5メートル)ほどと見える大河が有った。それは岸打つ波荒く、
水面の様子も凄まじく、どうやってこれを渡ろうかと立ちすくんでいた所に、この河の水が俄に
紅血に変じ、生臭いことこの上なかった。

そのような中、三尺ほどに見える剣が流れてきた。夢心にこれを取ろうと思ったが、たやすく取れず、
どうするべきかと色々考えていた所、そのまま汗して夢が覚めた。
この夢は一体どう言うことなのか、心もとない。」

そう仰せに成ったのを僧都は聞かれて
「これは誠にめでたき御夢です。近きうちに、河内(河血とかける)の国が手に入るでしょう。
また、その剣は、則ち敵の魂であり、その精魂が抜け出て水に流れ失せる、という御告げでしょう。」

そう判じた所、信長公は大いに感じ入り、御手をちょうと打って
「さてさて目出度く判じられたものかな。そういう事であれば、年来の本意を達するための不安や心配が
消滅した!」そう喜び、「それそれ」と宣うと、当座の引き出物として料足五貫文、白布弐端を賜った。
僧都は「ありがたし」と拝領し、御前を立たれた。

(室町殿物語)



779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 11:59:53.32 ID:+CA7OqT0
ニンジャの仕業ですね間違いない

782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/09(火) 20:40:54.30 ID:OrWwEnk8
>>778
人の夢と書いて儚い…何か物悲しいわね…。

禁中は信長の時から興隆した

2019年04月05日 16:42

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 19:45:06.04 ID:/rqPzBC8
信長の時代の禁中が微々なりしことは、近郊の民屋と異ならず。築地などは無く、竹の垣に茨などを
結い付けた有様であった。老人(江村専斎)が児童の時は遊びに行って、縁で土などをこね、破れた
簾をちょうど開けて見れば、人もいない様子であった。

信長が知行などを付けられて、造営など寄進があった故に、少し禁中の居做は良くなったのである。
これによって信長を御崇敬なされて、高官にも進められた。

禁中は信長の時から興隆したといえども、太閤の時代の初めまでは未だ微々たるものであった。近衛
殿(近衛前久か)のところで歌の会などがあると、三方の台の色はあくまで黒く、ころころとする赤
小豆餅を乗せて出されたのであった。しかしながら、歌は今時の人に10倍した。

――『老人雑話』



この時に及んで富士山が私の山となり

2019年03月02日 09:27

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 21:43:00.97 ID:AJJackbD
(甲州征伐後)

将軍(織田信長)は年来、富士山御見物の望みがあった。この山は天竺・震旦・扶桑三国に無双
の名山なり。

「この時に及んで富士山が私の山となり、これを見たことで大望が叶った」と、将軍は快喜する
こと斜めならず(於是成吾山見之、達大望、快喜不斜)。

そうして、遠州と参州の主・徳川三河守家康の館があってそこに滞留となり、御父子で伴って御
馬を納めなされたのであった。

――『天正記(惟任退治記)』


信長信託

2019年03月02日 09:27

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 09:10:48.38 ID:MUrTNxKn
信長信託


足利義昭を擁して上洛した織田信長は、皇室の窮状を憂い、元亀2年(19711571年)に財政支援を行うこととした。

そのために洛中洛外の全田畑に税を課し、米を徴収したが、信長はそれをそのまま皇室に献上するのではなく、いったん町衆に預託し、町衆が運用した成果である「利米」を献上することとした。

こうすることによって、皇室は継続的に利米を得ることができ、安定的な財政基盤とすることができるため、信長はあえてこの形をとったといわれる。

信託制度は受託者に対する信頼がベースになるが、委託者である信長を裏切ればどうなるかは自明であったので、その点では信託に必要な要素がうまく揃っていたといえる信長の構想であった。
信長がおこなったこの政策は「信長信託」とも呼ばれる。

余談であるが、日本における信託の活用のさらに古い事例としては綜芸種智院の設立・運営が挙げられる。


新井誠「信託法」ほか



702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 19:03:23.25 ID:RKcGEcQw
利米が安定的?

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/03(日) 19:29:16.79 ID:d3zIT82y
>>702
強制的に貸し付けて利子を取るっていうやり方。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 08:35:01.82 ID:fv/Rq9Yr
>>703
なるほど

姉川勝利

2018年11月22日 18:15

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 02:44:20.60 ID:hd5SfMHy
(姉川の戦いの時)

浅井長政も叶い難く小谷を目指して敗走すると、味方は矢島郷の尊照寺・田川辺りまで追い討ちした。安養寺
三郎左衛門経世(氏種)は生け捕りとなり、信長の前に引き出された。信長はかねてよりその名を

聞き知っておられたのでその命を許され、「私はこの軍威に乗じてただちに安養寺に案内をさせて小谷を攻め
ようと思うがどうだ」と問われた。安養寺は答えて「長政は今日は敗走したといえども、父の下野守久政の勢
1,800ほども備えて城を守っていますので、軽々しく押し寄せなさるのは御遠慮あるべきでは」と言った。

信長はその言葉をもっともであるとして、「小谷はまたのことにしよう」と安養寺を助命し、そのうえ願いの
ままに小谷へ送り帰しなさった。かくて今日討ち取った敵の首を数えると3,170級。多くは徳川勢の討ち
留めたところである。信長は神君の大功を感心されて、

 今日の大功は殊更に言うまでもない。前代に比類なく後世の誰が雄を争えようか。当家の綱紀にして武門
 の棟梁というべきものである。(今日大功勝て言う可からず。前代比倫無し。後世誰か雄を争う。当家の
 綱紀武門の棟梁と謂う可き也)

以上の感状に長光の刀を添えて進上された。この刀は光源院将軍(足利義輝)の秘蔵でその後に三好下野入道
謙斎(政勝)が所持した世に優れた名物である。(原注:『柏崎物語』にこの時、信長より源為朝の用いた

矢根を進上され、御当家で槍にされたと見える)その他氏家・稲葉・伊賀の3人(美濃三人衆)も横槍の功を
賞して感状を賜り、諸手の将卒の勲功も漏らさず褒美なされ、姉川で勝利の凱歌を奏せられた。

姉川の戦い大勝により信長は頻りに礼謝の言葉を尽くされ、神君は御勢を引き連れられて三河へ凱旋された。
信長はただちに横山城を囲んで攻めなさった。大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭などは
随分と防戦するも叶い難く、ついに城を渡して小谷に引き取ったため、ここは木下藤吉郎秀吉に守らせ、

姉川で討ち取った首は京都へ遣わして、義昭将軍の実検に備えて六条河原で梟首せしめた。京都では「ああ、
おびただしい首かな」とこれを見る貴賤ともども驚嘆して肝を潰したということである。信長は7月に至り
軍勢を進めて、磯野丹波守(員昌)が籠る佐和山城を囲み攻められた。この城は険阻な要害の地であり、

丹波守はさる老練の宿将で防戦の術を尽くしたので容易に攻め取り難く、そのうえ織田方の軍勢は打ち続いた
合戦で人馬も大半が疲れたため「この城はまた攻めるとする」と城の近辺に獅子垣を結い回し、鳥居・本口・
百々屋敷に向かい城を取って丹羽五郎左衛門(長秀)に守らせ、北方の尾末山に市橋九郎左衛門(長利)、

南方の佐渡山には水野下野守(信元)、西の彦根山には河尻与兵衛(秀隆)などと定め佐和山を押さえさせて
信長は入洛なさり、義昭将軍に謁して姉川の戦い勝利のことを告げられ、7月8日に岐阜城へ帰られた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞・織田真記)』


おそらくこれが信長であった

2018年11月22日 18:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 20:25:38.67 ID:ucCeN/Yq
明智日向守が本能寺に押し寄せ、その軍勢が織田信長の御座所まで入った時、日向守の家臣である
天野源右衛門、鑓を持って縁へ上がると、鴨居に兜を当てて尻餅をついた。そこに森乱丸が鑓で源右衛門の
外腿を突いた。その後乱丸は内へ入ったが、源右衛門立ち上がり、障子越しに人影を見てこれを突いた。
おそらくこれが信長であったのだという。

(武功雑記)



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 22:08:46.32 ID:sPYXC3wR
確かこの人はこの後に森長可の部下になるんだよな
そして信長と同じ日に死んだ

江州の滑者共さこそあらめ

2018年11月14日 19:13

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:37:54.35 ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 12:42:34.27 ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか

早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ

2018年11月14日 19:12

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:39:43.95 ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』



442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 14:51:12.18 ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 04:05:32.41 ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か

春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様

2018年11月13日 21:16

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:04:49.28 ID:L+t9VgNU
織田上総介信長はこの度足利義昭を守護して近江より切り上り、三好・松永などの逆徒を誅伐して足利家
再興の功を成就し、中国へ旗を立て将軍家を堅く抱えて四海を令すれば、斉の桓公や晋の文公のような

覇業も瞬息のうちに定まるであろうと喜び勇み、その旨早く近国へ触れ渡されると美濃・尾張・伊勢3国
は言うまでもなく近国の諸軍勢は我劣らじと、美濃岐阜城下へ馳せ集まる者は雲霞の如し。

信長は近江一円の地図をもって軍議を凝らして、永禄11年(1568)9月7日、5ヶ国の大軍を引き
連れて早く出陣すべしと、まずは義昭の旅館・立政寺に参上して細川藤孝をもって申し上げられ、

「5ヶ国の大軍は早くも参着しました。よって速やかに上洛を急ぐべきといえど、近江の佐々木六角承禎
父子は内々に三好・松永などの逆徒と志を通じ、伊勢国司・北畠の加勢を受けてこの度の主君御上洛の

御道を遮らんとすると聞きます。まず承禎父子を誅し、彼らの首を刎ねて軍神を祭り、その後に御迎えを
奉りましょう」と御伝えすると、義昭も対面されて世にも嬉し気に「当家再興の事をひとえに頼み参らす」
と礼を厚くへりくだって仰せになれば、信長も「畏まり候」と返答なさって退出された。

(中略)

都合4万余騎と聞こえる織田勢は先陣がすでに近江平尾辺りに至るも、後陣は未だ美濃垂井・赤坂辺りで
遮られるほどの数だった。信長は先祖・平相国清盛より相伝の蝶1羽を染め出した赤旗と、この度義昭

より賜った桐紋・二引両紋の旗、斯波武衛家より伝えられた瓜紋の旗、また織田殿の馬前には黄絹1幅に
永楽通宝の銭を墨で描いた1流の旗、また妙法蓮華経と題目を書いた馬印9本を立てて、この日は

平尾村に着陣された。8日には近江南宮山に滞留されて人馬の息を休めなさった。茫々たる平原に色々な
旌旗が翻っている有様は、春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様に異ならず。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 22:42:11.03 ID:E/F+EuE0
桓公に文公とはまるで漢書のような

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』