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今川の ながれの末も絶えはてて

2018年09月16日 17:27

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/16(日) 14:19:10.26 ID:BFVsBUOo
天正10年の甲州征伐を終えた織田信長は富士遊覧の後駿河へと回り、駿府に到着すると
そこでは徳川家康が假屋を宜しく立ち置き、一献を進められた。

その頃は卯月の十日あまりであったが、今川義元が植えさせたという千本の桜も、花はすっかり
散り去っており、信長は「植え置きし主の栄えも、このようになってしまったな。」とつぶやき、
続けて思い浮かんだ一首を詠んだ

『今川の ながれの末も絶えはてて 千本の桜ちりすぎにけり』

(甫庵信長記)

ここから信長の「桜」が散るまで、4ヶ月あまりであった



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信長は彼が陪臣であるにもかかわらず

2018年09月15日 19:05

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/15(土) 13:14:52.04 ID:134JHZze
天正9年3月26日、若狭の逸見駿河守(昌経)が病死した。彼の所領は八千石であったが、
相続すべき実子が居なかったため、織田信長の命により、そのうち三千石は武田孫八郎(元明)へ、
残りの五千石は溝口竹(秀勝)に与えられた。この溝口は後に受領して、伯耆守と名乗ったが、
彼は惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)が幼少の頃より取り立てた者で、普段より正意誠心にして
武道を心がけ、何事にも心を尽くす人物であったため、信長は彼が陪臣であるにもかかわらず、
五千石を与えたのである。

このように信長は、陪臣であってもそういった人物であるなら賞禄を与えたため、彼の配下は
上下の区別なく功に励むこと、日々新にして、日々に新に、また日々に新たなりとも申すような
雰囲気であった。

(甫庵信長記)

直接の部下でなくてもきっちり評価してくれる信長公であった。


汝の不明は私の不明

2018年09月14日 10:36

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:27:15.75 ID:pFVibWI+
ある時、織田信長の元へ、村井長門守(貞勝)が、鏡屋宗白という者を召し連れ、
彼は手鏡を信長に献上し、御礼申し上げた。

信長はこれを取り上げて眺め
「非常に明白な鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡であればなあ。
世の癖として、諸侯大夫、寵臣たちの為したことは、良いことも悪いことも、
人は皆極端に語るために、却って心を暗ませるという事が、日々月々に悪化している。
しかし行いの悪さを諌めるという事はしない。
そういう事に左右されない諫臣を求め得なければ、政道の実態を聞くことは出来ないのだ…」

などと物思いにふけりながら、ふと鏡の裏を見るとそこには『天下一』と銘があった。
これを見て信長たたちまち気色が変わった

「去る春、どこかの鏡屋が献上してきた鏡にも、裏に『天下一』と銘があった!
『天下一』はただ一人であってこその、一號にてあるべきなのに、二人あるというのは
猥りというものではないか!
これ偏に長門守、お前の不明より起こったことだ。そして汝の不明は私の不明なのだぞ!」

そう、殊の外悔やむ様子であった。

(甫庵信長記)


腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり

2018年09月11日 17:17

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:40:00.05 ID:kgqM6l2n
織田信長が有る時。安土城の御物預かりの者を召して、

「(信長の御物である)武具小袖、錦糸扇子等を、価値の高い順に千種広間に並べ置くように。
楠(信長の右筆である楠木正虎か)は給人帳(信長が禄を与えた者を記録したもの)を持ってくるように」

と命じた。
翌日、「その事調い候」と申し上げると、信長は給人帳の上下を切って、真ん中の紙に
千種広間に置かれた御物を書かせた。それが終ると三つに別れた給人帳を再び元に戻し
これを開くと、そこには

『扇筒井順慶』『小袖十村田吉五』『馬正林坊』

という具合に、御物と給人の名前が並んだ状態になっていた。

これを見た信長は「こんな高下(ランク付け?)になったか!」と、お腹も背中も切れてしまうかと思うほど
大爆笑し、あまりに笑いすぎて呼吸が苦しくなり倒れて転がる有様であった。
(斯様に高下ある事よとて、腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり)

万座も一入興に入り、笑いを含んだという。

(甫庵信長記)

御物の名前と家臣の名前をドッキングさせる遊びが信長のツボにはまって、呼吸困難になって
ヒーヒー言いながら転げ回るくらいに爆笑したらしい。ちなみに名前とドッキングした御物はその者に与えられたそうで。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 06:08:45.23 ID:shsob15l
>>275
かわいいな
上司にしたい

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 13:11:12.76 ID:OkP/KYSh
>>275
何がそんなに面白かったのかわからんw

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 18:56:19.42 ID:bJM+QjnP
惟任日向(・・・今なら言上しても殴られないかな?)

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 19:00:52.86 ID:ucgBqjD7
>>277
御物と大名小名たちの組み合わせのギャップでしょ

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:26:40.23 ID:7ozAjbvN
絶対周りも空気読んで愛想笑いしてる

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:56:06.11 ID:zs9vkfK6
ちゃんと物をくれるあたりがさすが信長

真実無妄の誠を以って

2018年08月28日 18:44

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 21:33:24.49 ID:FERgEUgq
天正7年(1579)11月3日、二条御新造の御所が完成し、織田信長は則ち四伝奏を以て奏聞あって、
皇太子誠仁親王へこれを奉った。
同じく22日に、式掌の御移徒(わたまし)があった。その後信長は参内したが、このとき親王に夥しい
捧げ物が贈られた。
かくして信長は妙覚寺において巻物、板の物二千端ばかり包みおき、近習外様の人々を召し寄せ、
それぞれに下された。

12月6日、山崎方積寺に至って御座を移されたが、俄に大雨があり両日逗留した所、八幡宮の木桶が
朽ちてしまったことを申し上げると、「唐金を以て鋳てまいれ」と、武田左吉、林甲兵衛に仰せ付けた。
また同所において片岡鵜左衛門尉が、周光香炉を所持していたのを召し上げ、対価として銀子一千両を
下した。

同17日、各方面において苦労をした諸侯大夫を慰るとして、天下一共の藝者を揃え、桟敷を作り、能を
仰せ付けた。そして桟敷桟敷へ四日の間、毎日食事として折二十合、柳五十荷づつ賄うようにと
京中に宛行わせ、その代金として黄金二百両を下した。そのほか見物の下々へも食事を配り、
寒飢を補った。
これぞ一河の箪醪(河に酒を流し兵士たちと分かち合う中国の故事)ではないか。

これは五逆罪の荒木村重に対し、幾程もなく御本意に達せられ天下静謐に帰した悦びの為であると言われた。
総じて信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
誠に今の世には稀なことである。

同じく20日、天下の仕置等仰せ付けられ安土に帰城したが、この時も京中に八千石、安土の町中に三百石、
酒を食べよと下された。

(甫庵信長記)

凄まじいほどに気前の良い天正7年の信長公であった




230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:16:21.53 ID:uouo1Z/w
>>229
>信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
宮本武蔵かな?
今じゃすっかり神仏に祈願するのが当たり前になっちゃったけどこのころはそうでもなかったのかな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:21:28.83 ID:FA447Pf0
苦しい時の神頼み

信長公、検校からの罰金で

2018年08月26日 18:14

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 22:11:53.36 ID:vdaAkkxv
摂津国兵庫の町人に、常見という、飽きるほど富み楽しむ者があったが、一生の間財産を減らさず
生きていく方法を考えた結果、検校の仲間に入り、その配下である座頭達からの配分を取れば、
そんな商売よりも効率的であると思い付き、すぐに良きように工作し、検校中へ本銭千貫を出して
その中に加わり、検校職と同じように、座頭からの配分の下りものを受け取った。

しかし配分を取られる側の座頭たちは、このように法度の濫用を行えば、果ては町人の過半が検校職を
持ってしまうようになると思ったものの、検校たちが一味して計ったこと故力及ばず、すでに数年、
その状況が変わらなかった。

そこで座頭たちはついに「織田信長公の正しき御制断を頂き、年来の愁眉を開き、先規のように
戻すべし」と衆向一同したため、信長に直訴を遂げた。

信長はこの訴えを聞き、暫く馬を止め内容を右筆に一々書記させ、
「申し状の如くならば不便の次第である。訴えどおりに計らうべきである。」
そう言って、直ぐに検校中へ問い合わせた
「云々の事聞こえあり、これは事実か?」
「左様候」

そこで信長は命じた
「法令を乱す事、悪行の内何がこれに過ぎるだろうか!されども盲目であるので斬刑まではしない。
検校の位をすべて剥奪する。今後再び、昇進のための功を励むように。」

これを村井長門守より申し付けられると、検校中は非義極々としたが弁解することも出来ず、
後悔してももはや及ばず、「御憐を垂れられて宥し置かれますように」と、五山僧侶を頼み
嘆き申し上げた

これに対し「ならば懈怠として黄金二千両出すべし」との事になり、検校中は畏まり、悦んでこれを出した。
すると信長は「ならば此れを以て宇治橋を掛けよ」と、宮内法印、山口甚介に命じて架橋させた。
翌年6月、橋は完成し、上下の往還安らかにしてその恩恵を楽しむ声、さらに洋々であった。

(甫庵信長記)

信長公、検校からの罰金で宇治橋を掛ける



221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:20:32.18 ID:dncSpBoR
>>220
ただの名君じゃねーか!

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:38:18.91 ID:Jwmeqw3a
やるなノブ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 21:29:24.28 ID:W3LlOJZ8
ノッブは日本改造論の初代だな

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:31:04.77 ID:KYawnVbX
ノブ君の野望

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:37:22.65 ID:Sse4I+gN
腐儒の甫庵著作出展だからこれは疑わしいゾ

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:58:29.01 ID:xKUTCWuX
検校の話はこれとほぼ同じ内容で牛一の信長公記にもあるぞ

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 13:11:04.51 ID:rhnB8gQ5
宇治橋ってすぐに壊れたの?

右府信長公は末世において稀なる大将

2018年08月22日 19:24

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 18:21:57.45 ID:LwZBVn2t
織田信長は若年より弓箭を業として長じ、今天下を平らげたが、戎夷猶属せざるもの多かった。
そのため昼夜天下一統の事業のため暇なく、士の賞罰、国の安否、おおよそそういった物ばかりで
心安らぐこともなかった。

しかし、多くの場合己の功に誇って、古き事などは嘲り要らぬことと思うのが世の常であるのに、
信長は古き政に心をかけられ、それを知る者には様々に尋ねた。これは絶えてしまったものを継ぎ、
廃れたものを興そうという心からであった。
中でも、右筆である二位法印(武井夕庵)には特に尋ねること多く、夕庵も事に触れて信長を諌めた。

或る時、夕庵が申し上げた
「朝廷の節会が久しく廃絶して、中老以下の者では礼楽の事名も知らず、勿論見聞など夢にも
経験がなく、哀れにもその様になって十年あまりも過ぎたため、我が朝の礼楽は跡形もない
有様です。
国家を治めるには礼楽の正しきを以てする事、和漢の流例であり、哀れにも浅ましいことです。」

こうしめやかに語った所、信長がそれを痛ましく思う表情は、涙もさらに咽び顔であった。
上下万民を一子として天下を慰撫したいと二六時中励んでいるその耳に、どうしてその言葉が留まらない
事があるだろうか

「直ぐにお前たちで対策を計るように。そういった事は誰に問えば良いのか?」

「何と言っても、禁中伺候の老者たちでしょう。」

そこで誰彼と人の薦めるにまかせて問いただし「先ず何から初めて興行すべきか」と
詳細を求め、菅屋久右衛門尉(長頼)、武井夕庵を以て夫々改めた。
節会、あるいは謡物などにおいて、中老以下の諸卿殿上人も、まるで今はじめて稽古するようで、
大変趣深かった。

このようであったので、貴賤おしなべて、この右府信長公は末世において稀なる大将であると
誰言うと無く諷した。

(甫庵信長記)

古を尊び旧来のものを復興する事に熱心な信長



201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 19:22:27.49 ID:EP5h4uYx
>>200
意外と皇室を大事にしてるんだよね~。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 20:46:30.27 ID:hlLUN9am
朝廷・公家に対してラディカルにめちゃくちゃやらかすのは秀吉のほうがよほどひどいのに、
なぜかそのイメージが信長についちゃっているんだよなぁ。

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:15:31.40 ID:Hw58TqZF
まるで儒者だな
国学者の書いた創作の文ではないか?

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:42:27.63 ID:CBq0+MkX
朝廷にこまめに献金してた=皇室の権威を重んじていた大名って、毛利家と織田家ぐらいしかわからん。
朝廷が間に入れば両家の和睦ができたんじゃねえかと思う。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 23:32:48.70 ID:3GVdf7rN
信長以前は大内が莫大な献金してた

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 07:46:09.66 ID:0Yr8qeZS
信長のは親父譲り

各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に

2018年08月21日 19:43

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 14:29:17.07 ID:UbRWxlbF
去る程に、天下泰平に治まり行くによって、大名小名は尽く安土に集まり、織田信長に対し
歳暮の御礼を申し上げた。棒物(歳暮の御礼の贈り物)の類の夥しさは、限りもないほどであった。

明ければ天正6年正月の早旦、信長より諸侯大夫へ御茶を下されると兼ねて仰せが有ったため、
寅の刻(朝4時頃)より登城された。その面々は、まず三位中将信忠卿、羽柴筑前守秀吉、
二位法印(武井夕庵)、長岡兵部太夫(細川藤孝)、林佐渡守(秀貞)、長谷川丹波守(与次?)
惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)、滝川左近将監(一益)荒木摂津守(村重)、市橋九左衛門尉、
長谷川入道宗仁、以上11名であった。

お座敷の構は、六畳敷に四尺の縁、床には彼岸の絵、中に万歳大海、右に松島、左に三日月。
花の水差し、周光茶碗、うば口の釜、竹筒の花入れといったものであった。

信長は自身で迎えに出られ、座敷へ招き入れた。そして手づから配膳された。
この座の衆の中には後に、あまりの事に何を食べても、一切物の味の記憶が無いと言った人もいたとか。

御茶過ぎて、その日出仕した者達へは、諸大夫までは三献の土器(かわらけ)を、福富平左衛門尉、
矢部善七郎、大津伝十郎、大塚又一郎らの御酌にて下された。
平侍以下にはお通り(お通し)が出された。

翌日、大名小名尽く召されて「殿守見参らせよ」と、名物の茶器をかれこれと御見せになり、
南蛮、大明、珍奇の茶の子、数を尽くして下され、その後こう言われた

「各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に、この山が成就した事は、誠に珍重余りある。」

そう再三に仰せに成ったため、諸侯大夫は皆、感動に首を地に付け御返事を申し上げる者も無かった。

同じく4日に、信長より信忠へ贈られた数寄道具が、万見仙千代(重元)の所で御開きになったが、
羽柴秀吉、武井夕庵、宮内法印(松井友閑)、林秀貞、滝川一益、長谷川与次、市橋九郎左衛門尉、
丹羽長秀、長谷川宗仁、以上9人を召されて、終日丁寧のおもてなし、誠に善尽くし美を尽くされた。

(甫庵信長記)

この時は「お前たちが頑張ってくれたおかげだ!」って言ってるのに、何故甲斐征伐の時「我々も頑張ったかいがありました」
って言った光秀はあんな目に…



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:03:49.56 ID:hEIi7MKj
信長は躁鬱の気がありそう、自分のメンタル具合によって似たような場面でも処置がまちまち

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:05:49.13 ID:CBpikV1D
>>190
仕事を頼まれる時と、仕事をこなした後で
上司の腰の低さが変わるのはブラックあるある。

上司『工程ミスったんで、しばらくサビ残よろしく』
部下達『…』
上司『俺のミスだから晩飯奢るし…取敢ずやって』
後日
部下達『やっと終わったけど、上のミスでサビ残とかきついよねw』
上司『会社批判か?こ○すぞ!?』

193 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/21(火) 15:50:12.38 ID:bCT5bmSJ
飯食ってるなら仕方ないね

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:17:12.20 ID:jZ5eq/tb
小姓たちじゃなくて福富や矢部たち奉行らが酌をして廻るのか

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:29:32.93 ID:CLHFQZxu
滝川が地方に飛ばされると茶会ができなくなると嘆く気持ちがこれでわかった

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:20:47.49 ID:AAf+nT0O
>>190
光秀は対武田において何か貢献してたか?
おべっか使うような家臣は折檻されて当然だろ

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:56:14.23 ID:PXuG0xCs
おべっか?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 13:43:03.41 ID:JOs6uGd/
ノブは新興成り上がりベンチャーの神経質社長やからな
そういう人物にありがちなステレオタイプの性格だったんだろう

仕事ができても人間性終わってるやつは今も昔もごまんといる

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 14:58:18.12 ID:L+C5gw+1
忠興さんとか鬼武蔵さんとか・・・

【話題】織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光

2018年07月18日 17:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 17:16:20.74 ID:HBQe+2EB
https://newsphere.jp/culture/20180714-1/
織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 ハリウッド映画化も


映画化か、面白そうだけど、まさか白人がノブ役するんじゃないだろな



82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/17(火) 20:53:55.29 ID:pQPinb+R
欧米からすると衆道はどうなのかな??ウィーン少年合唱団みたいなもんか…

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 22:45:35.41 ID:H5KjFGzu
古代ギリシャから中世修道院にいたるまでやってることだから違和感ないんじゃない

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 23:37:05.03 ID:IibntZeN
弥助とホモだちだったの?
特に関係なきゃスルーでしょ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:24:12.40 ID:uXyvS12w
キリスト教宣教師からは強く非難されたらしいけど。 主に、大内義隆が。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:40:54.03 ID:0wRJjWz4
どうしてすぐ衆道と結びつけたがるのか

息子が分別無く深入りしたのだ

2018年05月04日 14:26

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 22:44:30.19 ID:02WQirZy
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀して申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:11:21.12 ID:vUy0oAOP
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:20:37.16 ID:Z/z82csV
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 10:39:43.81 ID:FnXiDPmu
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態

日本の歴史を大きく変えた偽メール事件

2018年05月01日 21:09

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 00:20:36.62 ID:QiEhFTVJ
桶狭間の戦いの直前、三人の武将が無念の死を迎えた。
二人は鳴海城主山口教継と桜中村城主山口教吉の親子、一人は戸部城主戸部新左衛門である。
三人の城は織田と今川の勢力が衝突する最前線に位置しており、しかも一里以内に集中していた。
どちらがどちらを攻めるにも、ここを落とさねば話にならぬという要衝であった。

この三人、織田信秀の代までは織田家の忠勇なる武将であった。
ところが信長とかいう、うつけの若造に愛想をつかして今川方へ寝返ってしまったのである。
これが今川義元に尾張侵攻を決断させた一因とも言われている。

当時の信長の力量ではこの三人を倒すことは到底不可能。
そこで祐筆に猛練習を命じ、三人の筆跡を真似た偽の書状を作成する。
「信長くんへ、やっぱり義元を裏切って君んとこ戻るわ」
これを商人に変装させた森可成に持たせ、今川方へ持ち込ませた。
さても今川義元、この偽書状を信じ込み三人を呼び出した上まともに調べもせず処刑してしまった。

この事件が無ければ今川義元は悠々楽々と尾張を併呑した事であったろう。
信長は良くて臣従、悪ければ織田家ごと滅んでいただろう。
日本の歴史を大きく変えた偽メール事件である。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 04:51:08.74 ID:QiEhFTVJ
さて、織田家を裏切った挙句に謀殺された山口教継・教吉親子ですが、家臣に成田弥六・助四郎という武将を抱えていました。
彼らもまた、大声出せば聞こえるほど御近所にある鳥栖城の城主でした。(この地域は徒歩一時間で六つの城を回りきれるくらいの城密集地帯でした)
成田氏は赤塚の合戦で山口氏に従って織田勢と戦ったのですが、その後は山口親子を裏切って織田方についています。

この結果、主家を裏切った山口氏の城と、主家を裏切った主家を更に裏切った成田氏の城の間が織田勢力と今川勢力の境界線となりました。
ちなみに山口氏の桜中村城と、成田氏の鳥栖城は200メートルほどしか離れていません。
尾張者のフレキシブルな生き方は、お隣の頑固な三河者と見事な対比をなしていますね。

されどこの成田氏、その後の行跡はあまり残っておりませんが敢えて挙げるならば、
子孫で尾張藩士だった成田甚右衛門がある日突然「平和が好き!戦は嫌い!」と刀を折って帰農したことくらいでしょうか。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 20:54:47.50 ID:uxusBUfH
>>700
三河者=頑固も後から作られた物語でしかなくて、家康がガチっとまとめるまでは誰もが転身しまくりなんですけどね

信長と云う者だ。

2018年04月27日 21:34

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 22:26:16.06 ID:Yot5dwqf
豊臣秀吉の小田原征伐の頃、尾張清州城の城代は植原加賀守という人であった。
彼は元々甲州からの巡礼であったが、織田信長が鷹狩をしていた折、六角堂にて
この巡礼の姿を見て、尋ねた

「汝はどこから来た者だ?」
「甲州者です。」

すると信長は聞いた
武田勝頼はうつけ者であり、悪しき法度の運用をしているというが?」
巡礼は答えた
「その事であります。彼は人を釜で炒り殺し、臼にて突き殺すなどしています。」

信長は呆れた
「それは勝頼が食うつもりなのか?勝頼は小気なる故にそういう事をするのだ。天下の望みは
成らないであろう。汝は奉公をする気はないのか?」

「それよりも、あなたは一体何者なのですか?」

「信長と云う者だ。」

巡礼はひれ伏し「何であっても奉公仕りたく思います!」

そこで信長はこの巡礼を即座に召し抱えると、彼を召し連れ、程なく御手のかかった
女房を下され、清須の城代としたのである。

(祖父物語)



814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 02:26:57.60 ID:ORHXMRvf
嘘くさい

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 07:46:22.58 ID:2ugiwSuW
>>814
永録10年11月の信長の朱印条によれば美濃で20貫の地行を貰ってるみたいだね
本当は勝頼じゃなくて信玄なんじゃないかな
埴原の出身である埴原谷てのが信濃(!)のどこにあるのか知らないけど、信濃では信玄の評判が良くない所もあったわけでしょう
又聞きの間に色々と入れ替わっていそうな気がする

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 08:31:36.59 ID:z6z/Bm5p
>>815
信玄と言うか武田の評判って甲斐以外だと酷いもんだからなぁ
特に信濃と上野

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 09:59:15.65 ID:+HCTm/8h
信濃は場所によるが

818 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 18:11:01.95 ID:LH5poK+P
信濃は北が武田アンチで南が武田贔屓と聞いた

”信長”という字が欲しい

2018年04月23日 12:04

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:23:47.49 ID:0sNfbvnH
織田信長という人は、若い頃はお供を一人も召し連れず市町在々を歩き回るような、
諸人にすぐれたわやく者(無法者、いたずら者)であった。

御若名を三郎と申していた時、中間一人に荷俵を背負わせ矢立を腰に挿し、西国巡礼に
出かけた。
堂宮に落書きをしながら廻り、摂津国天王寺に参ったが、近くの寺に侍らしき者6,7人
寄り合い、名乗り字を書き読んでいた。
信長はこれに近づくと

「その名乗り字一つ、私に頂きたい。国への土産にいたしたい」

そう望んだ所、先の者達尋ねた

「何れの字が欲しいのか?」

「”信長”という字が欲しい」

「これは天下取りか国盗りの付ける名前だ。その方などにはもう少し身の丈に合った
名乗りのほうが良い。」
そう笑いながら言われたが、三郎は

「それを付けるというのではない。ただ国の土産にしたいとだけ考えているのだ。」

「そういう事なら、使わない、付けないのであればこのまま取らせよう。」

そう言って、”信長”の書かれた所を切り取って三郎に渡した。

(祖父物語)

この話、司馬遼太郎の国盗り物語にまんま出てたけど、祖父物語が元ネタだったんだな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:40:38.48 ID:Wg26+URo
武田信長は上総国盗りを意味する名前だったのか

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 19:21:46.66 ID:rCIHAaKF
>>786
甲斐を追われたあとは義教に仕えて結城合戦とかで活躍してるんだよね
義教が没したあとは成氏を頼ってその命で上総の上杉領を攻略して息子たちに残した
結構、激動の人生を歩んでるよね

信長公、木曾義昌を酷評

2018年04月18日 10:01

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:48:00.99 ID:fBlgphlZ
織田信長の甲州征伐の折、諏訪の寺へ本陣を据えるため入る折に、信長は
木曾(義昌)に軍勢を見せるべしと思われたためか、「従う大名小名、一人も
騎馬してはならない。歩行にて我が馬の先へ立つように」と命じ、五千人の人数皆、
信長の御先を歩んだ。

その頃、燻革(ふすべがわ)のたちつけ(膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもの)が
流行っており、殆どはその装束であった。

寺の門前にて菅谷九右衛門(長頼)が信長に申し上げた「木曾殿がここに参られました」
信長は「寺に入れ、ここで礼を申させよ」と命じ、木曾義昌を寺の中に通すと、
礼を述べる木曾に対し、黄金二百枚を台に積んでこれを与えた。
この時、木曾義昌は台を持ち上げてこれを戴こうとした。

後に信長はこう言った
「木曾はうつけ者であるな。二百枚を積んだ台が持ち上がるものか。ああいう時は
台に手をかけ頭を付けて礼をするものだ。山家の遠国者は何も知らぬ。」

(祖父物語)

信長公、木曾義昌を「うつけ者」「田舎の礼儀知らず」と酷評



674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:47:39.53 ID:KT0ozs1S
持ち上がったら危険だからと謀殺するんだろうなあ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:49:48.25 ID:9ncWBotz
自称、木曽の山猿の子孫だし
なお義昌に裏切られた勝頼の敗走ぶりは木曽義仲に例えられたとか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:05:20.90 ID:TfZAIlfs
まあ、本能寺後の動向やら末路やらを考えるに、木曾義昌は本当にうつけだからしょうがない

今後『菊石』と呼ぶ

2018年04月17日 16:11

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 22:17:26.90 ID:1I0mDnDt
ある時、織田信長は御刀持に名をつけたことがあった。

「汝の事を今後、『菊石』と呼ぶ。何故ならば、長刀持は庭に居て良きものである。
また菊石も庭にあって見事であるからだ!」

そのように仰られたのである。

(祖父物語)

信長のネーミングセンスもわりと反応に困るものが多いような。
菊石というのはこういう「菊花石」の事でしょうね
https://i.imgur.com/jE6DOtF.jpg
img27.jpg




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 08:31:00.65 ID:Tn6Pyrjz
庭にいていい者か
なら禿鼠でいいんじゃね?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:22:44.33 ID:DiicARIH
まあ菊石なら名字にしてもカッコがつくからええわ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:14:32.61 ID:b4/LIygH
人「」

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 12:57:54.91 ID:4ciD4O7a
ノブ「お前の菊花は実に締まり具合が良いので、お前は菊石だ」

汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?

2018年04月16日 18:29

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/15(日) 23:12:20.06 ID:jJSKP1dL
織田信長の甲州征伐の折、

織田信長は信州諏訪郡の何れの寺であったか、御本陣を据えられると、その席にて
明智光秀がこう申した

「このような目出度き事は御座いません。私も年来骨を折りたる故、諏訪郡の内は皆
織田家に従っています。何れも御覧ぜよ!」

そのように武田の総崩れを喜んだ所、信長の御気色たちまち変わり

「汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?我こそ日頃粉骨を尽くしたのだ!
憎き奴なり!」

そう激怒し、懸造りの欄干に明智の頭を押し付け叩いた。
その時、明智は諸人の中で恥をかき無念千万と存じ詰めた気色が現れたという。

(祖父物語)

有名な逸話ですが、出典は祖父物語だったのですね



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 03:07:07.82 ID:7xkzIepw
川角太閤記にもあるので、そっちが原典かもしれないし、いずれにせよ又聞きした話だからなぁ。
ただ、フロイスの書簡にも光秀が殴打されたという話はあるらしい。

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 04:27:04.65 ID:PS026Nxp
川角太閤記の光秀殴打に関する記事は至って簡潔で「信濃の上の諏訪にての御折檻」としか書いてないな

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 23:23:57.60 ID:9mr2vYq2
おまゆう

諍いの原因は、「男色のもつれ」

2018年03月18日 19:08

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:23:05.91 ID:T43lWMTR
「信長記」首巻によれば、織田信長は父信秀から那古野城を譲られた際、四人の家老を付けられたという。
その筆頭は林秀貞(通勝)、次席に平手政秀、三番が青山与三右衛門、末席が内藤勝介
林・平手の二人がよく知られているのに対し、青山・内藤の知名度は低い。青山などは信長元服前に戦死
したのではないかとも言われ、内藤も家老と呼べる程の分限であったか疑わしい、などとされている。

信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、三河の徳川家康と同盟を結び、美濃攻略のため、本拠を清洲から
小牧山に移そうかという永禄六年(1563年)のこと。
既に廃城となっていた古渡城付近の松原で一つの事件が起きた。青山与三右衛門の嫡男虎と内藤勝介
嫡男小三郎の二人が織田因幡守家臣桜木隼人助を襲撃したのである。といっても、虎と小三郎の二人で
襲撃したのではない。青山・内藤両勢合わせて八十六人!対する桜木も三十人を揃えていたというから、
これはちょっとした合戦である。戦いの結果、双方合わせて四十二人の死人が出て、桜木隼人助は青山の
家臣に弓で射殺されたという。虎と小三郎はそのまま織田家を退転、揃って三河に逃げて家康を頼ったと
いわれる。


諍いの原因は、「男色のもつれ」。


息子の不始末ゆえ、内藤勝介の立場が弱くなり、既に冥途へと旅立ち現世で活躍できなかった青山とともに
影の薄ーい存在とならざるを得なかったのかも知れない。

それにしても、男色のもつれで五十人近くが死ぬとは… すごく 濃い世界です…


以上、和田裕弘「織田信長の家臣団」からの受け売り。
名古屋の鶴舞中央図書館にある「津島十一党家伝記及牛頭天皇社記」に書かれているそうな。
誤読あったらごめんm(__)m。



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:56:52.98 ID:5nKM9M85
秀忠「こっちの傅役の青山・内藤はかなりの知名度なのに
地名になるほど」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 21:19:39.10 ID:xl9vsyvP
徳川に使えたのが正解だったようですね

桶狭間の戦い

2018年03月17日 18:18

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 19:40:54.30 ID:FA5jxJkX
ここに織田弾正正信長と申す人、父に少年にて死別したが、少しもその跡を敵に侵入
させなかった。

そのような中、駿河国の今川義元は、三河遠江駿河伊豆四ヶ国の軍勢を率い、三河と尾張の間の、
信長方の城である大高、沓掛二ヶ所の取手(砦)を一刻に攻め取り、永禄三年五月十八日の晩、
桶狭間と申す所に今川義元は陣をとった。

一方、尾張清州城では、林、平手を始めとした信長の重臣たちが揃って、
「清須は日本一の名城なれば、籠城こそ最善です」
と申し上げたが、信長はこれを聞くと拒絶した
「昔より籠城して運の開けたことはない。明日は未明に鳴海方面へ打ち出て、義元の首を
刎ねるか、私が討ち死にするかである。」

信長が日頃から心をかけていた侍である、森三左衛門(可成)、柴田権六(勝家)といった者達は、
「快き仰せである。我らは御馬の先に立ち、討ち死にを致しましょう!」
と申し出、その他何れも、信長の方針こそ然るべしと申し上げ、座敷を立った。

十八日の夜半過ぎ、信長は広間へ出て、”さい”という女房に「今は何時か」と尋ねた。
「夜半過ぎです」と申し上げると
「馬に鞍を置かせよ!湯漬けを用意せよ!」と命じ、御前に昆布、勝栗を持って参らせた。
そして床几腰を掛け、小鼓を取り寄せ、東向きになり

「人生五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の間なり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」

そう、三度舞われて、城の内より、小姓七、八騎を引き連れただけで出立した。
既に大手の口にて、森三左衛門、柴田権六、その他三百ばかりが控えていた。信長は森、柴田へ
「両人早し!早し!」と声をかけた。

熱田源太夫殿の宮の前にて、千七、八百となった。星崎方面に控えていた佐々下野守(政次)は
その手勢三百あまりにて今川軍六万を抑える役割を仰せつかり、信長の前に出ると

「それがし、一人であっても今川と組み合い、討ち死にしようと考えていたところ、
さても妙なるお出でです。それがしが命を捨てる以上、今日の合戦に御勝ちすること
必定です。今日の戦いこそ、天下分け目の合戦です。殿が天下を治められた時、
弟の内蔵助(成政)、また私の倅を、お見捨てなされませんように。

我々は東向きに、今川の旗本へ乱れ入ります。殿は脇鑓に向かわれ、鉄砲弓も打ち捨て、
ただひたむきに打ってかかって下さい。」

そう伝えて攻撃へと向かった。

今川義元は油断していた所に、織田軍三百五十ばかりが突然攻撃をしてきた事で、「本陣で
喧嘩が起きた」と、六万余騎の者達騒ぎ立てた所へ、信長が二千あまりにて
「一人も逃さじ!」
とわめき叫んで大音を上げて切ってかかった。

これに今川勢は一支えも出来ずたちまちに敗軍し、義元の頸は毛利新助が取った。
この時、大風、あられが降り、大高、沓掛では大木が吹き倒れたという。

五月十九日巳の刻(午前十時ころ)、首数五千ばかり討ち取り、大利を得た。
この時織田信長、二十七歳であった。

(道家祖看記)



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 07:59:50.97 ID:q6+MveO/
柴田勝家は桶狭間に参加してないと思うけどね

両大将の御軍法

2018年02月18日 19:04

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:31:02.46 ID:dR3J4lSy
一、信長様の御軍法は、敵と成った者は、その子々孫々までも討ち果たし、その跡まで
  掘り返すほどに厳しくして、天下を治められた。内裏の修理など仰せ付けられ、王法の
  衰えたのもお取り立てされ、その後仔細あって、上京の騒ぎを払うとして、京の地子を
  御免になられた。万事において賞罰を正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで、
  その仰せを奉らないという事は無かった。
  ではあったが、一度敵対した者は、詫び言を申し上げ旗下に付いても、お心を許すこと無く、
  御憎み浅からず、故に謀反人が多く出た。こういう時は、強いだけではどうにもならないものだ。

  こういった事を太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、敵対した者へは厳しく申し付け、
  これに対し詫び言申し上げ旗下と成れば、御譜代同然に懇ろに心を開かれた。是故に、昨日まで
  敵対していた者でも、身命を捨て忠節を致すべきと考え、故に謀反人も無く、早く天下を
  治められたのだ。

  両大将の御軍法はこのように裏腹に違う、この心持ちは、小身の召使の者にも心得あるべきである。

(細川幽齋覺書)



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:57:18.66 ID:cegVxge2
秀頼シフトを敷かなければ豊臣政権は続いたのだろうか?

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/19(月) 15:28:24.75 ID:TRb3+EFk
>>650
信長のほうが寝返りに甘い印象あるけどなー、細川の処世術かな

>>651
秀吉死後に秀次派と秀頼派で関ヶ原なりそう

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/19(月) 15:41:39.50 ID:jY3t1EHB
>>652
「信長と消えた家臣たち」って本を読むと細川幽斎の気持ちが少しわかるよ

信長の度量

2017年12月08日 21:24

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:42:06.30 ID:ZG2/Mmcy
織田信長は二十年あまり、憤怒を抑えていたが、石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。

すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。

小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。

織田信長にはこう言った誤りがあった故に、荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。

一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを
知りながら、後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。

(士談)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:46:35.05 ID:ek3nQsgY
毛利そんなことしたの

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/08(金) 07:31:31.32 ID:H32lLvCl
>>397
史実で言うと本能寺の変後にあった義昭の京復帰話は秀吉や家康も絡んでて
史料を見てるとかなりの進展を見せていた時期もあったようです。

柴田に内通うんぬんは秀吉と勝家のどっちが勝つか分からんので片方に加担せず
様子見を続けたってのが真相ですね。

そういった事で勝家滅亡後に秀吉から隆景へ送られる脅迫状としか思えない書状へとつながる訳ですが....