きうりの紋

2017年10月07日 15:59

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:28:53.28 ID:KxLBGXY6
牛頭天王を信仰する者は、必ず胡瓜を食らうことを禁じている。これを食らうとたちまち邪疫に
感染すると言うのだ。或いは云う、牛頭天王の紋所は木瓜であり、これを”きうり(胡瓜)”と
読み誤ったのだ、とも、

しかし素戔嗚尊(牛頭天王の本地とされる)に紋所があるとも覚えず。
これについては、かつて織田信長がこの牛頭天王を深く信仰し、神輿の類ことごとくに、織田家の紋所である
木瓜を染めて納めたため、終にはこの木瓜が牛頭天王の紋所であると誤って伝えられたのだと言われる。

(今古雅談)



169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:39:35.87 ID:sv0B/QpK
瓜にかぶりついていた若いころの信長…
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今朝とあけて 麓は柳桜哉

2017年09月24日 16:36

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 14:39:42.65 ID:4xTwE4Xq
織田信長が岐阜に在城していた時、城内に桜の馬場を取り立て、その祝いとして連歌師の里村紹巴
発句をするよう命じた。そこで紹巴は

『今朝とあけて 麓は柳桜哉』

そう連歌したところ、これを聞いた信長は

「城に”あくる”と言う事は禁忌である!時と場合によってはこの城を調伏する言葉であり、
遠島に配すべし!」

と、命じたという。

(士談)



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 15:34:24.41 ID:WJQIg07t
信長が言うととんちとか禅問答をしているようにもとれる

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 19:37:19.83 ID:Tjttvdh3
里村紹巴っていろいろ不運な目に会いつつもギリギリ許されることが多くて運が良いのか悪いのかよくわからん奴だな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 04:01:35.13 ID:OzTAV6SS
生き残ってる以上死ぬ話を作るにはいかんからな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 08:02:54.28 ID:cqcIMXVs
>>147
天庵様は生き残ってるけど、軍記物では死んでるよ

【雑談】信長が生きていたら次に追放されるのは

2017年09月18日 18:37

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 21:31:49.60 ID:GB5g7IWs
初めから預けてあるだけだから仕方ないね

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 02:51:37.49 ID:SAQd3Wid
領地も預けてるだけだからしゃあないつか秀吉も同じだし

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 09:38:19.60 ID:S6O7voU+
堀家の文書だと秀吉も長浜から追い出されることになってたんだよね

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:03:08.13 ID:8hOQvV3e
>>117
光秀が追い出されるのだから、まあ当然そうなるでそ。

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:10:19.11 ID:duF2E/F9
滋賀とか奈良って現代だと糞田舎で全く無価値な場所だけど
近江とか大和って言われると輝いて見える不思議
戦国脳のなせる業なり

首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


蜂屋を加えておけば、

2017年07月22日 18:50

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/22(土) 18:44:44.31 ID:q3SVQupX
織田信長の初めの頃、柴田勝家と坂井右近(政尚)の二人が軍奉行を担当し、織田家の弓矢のことは
全てこの二人が指引した。信長はここに「蜂屋兵庫頭(頼隆)をこの両人に加えるように」と命じた。
蜂屋は武功抜群の者であった。

ところが柴田と坂井は、信長に対し
「蜂屋を加えられるのであれば、我々は軍奉行の役儀を返上します。」と、強い拒絶を表明した。

信長はこれを聞いて、
「こういったことは両人も進んで同意すべきなのに、そうしないのは不審である」と、
再び使いを以て命じたが、両人は猶以て役儀の辞退に及んだ。

信長はやむを得ず、両人に対し何故蜂屋を加えるのかを、直に説明した。

「蜂屋については、お前たち両人と同じ武功の者であるとは考えていない。だが彼は
諸事口才のある者である。合戦の最中、戦場から両人のうち一人帰って報告を行わなければ
いけない事もあるだろう。またこちらから両人の一致した判断に疑問を持つこともある。
そういう時、蜂屋を加えておけば、私の元に使いとして送るときも、また判断について
問い合わせるのにも便利ではないか。」

柴田、坂井はこの理に納得し、反対を取り下げたという。

(士談)



108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 02:08:28.81 ID:4+4ziU7k
始めの頃っちゃまだ尾張の頃かな?

織田信長の頃まで、槍という功名は

2017年06月25日 17:43

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/25(日) 12:18:03.00 ID:MAg8NU8C
古の者の云えることを記せる書に、一番先陣、一番乗り、一番頸のそれぞれに軽重があるとしている。
但し名を得て人々から唱えられる為には、一に天命、二に国、三にその場、四に主人、といった要素が
必要であり、こう言った条件が揃わなければ、世に隠れない高名というのは成り立ち難い。

永禄天正以来の名を顕す輩は、この4つの条件を外していないのだ。
しかし高名があっても隠れて人に知られないのも、また皆天命であるから、更に恨むべきではないだろう。

また永禄天正以来、一番槍には千石、二千石、三千石、八千石までの賞が与えられている。
一番乗りには、豊臣秀吉は、一万石を宛てがうべきと定めたそうである。

保元・平治より織田信長の頃までは、槍という功名はなかった。信長の頃より、槍を以て世に誇るようになって、
それより皆以って、槍にあらざれば功にならない程に成った。

(士談)


「南蛮寺興廃記」より、南蛮寺ができるまで

2017年06月07日 18:51

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 11:11:11.05 ID:xmUg3Ve1
「南蛮寺興廃記」より、南蛮寺ができるまで

頃は人王百七代正親町天皇の御宇。
織田信長は尾張より発起し斎藤を討って美濃を奪い佐々木を追って近江を取り
将軍義昭を保護して上洛、徳川と合縦し北越の朝倉、江北の浅井を滅ぼし
武威中国を呑まんとし高名西国に轟く。
この時九州肥前の領主竜造寺高重の領分長崎に南蛮船一艘着岸せり。
この船に異相の者一人来る。その人身長九尺余、面赤く眼丸く鼻高く肩広し。
歯は馬のごとく雪よりも白し。爪は熊の手足に似たり髪は鼠色で年齢五十ばかり。
名はウルカン破天連といい、南蛮切支丹国の者で天帝の宗門弘法のために渡来せり。
日々に長崎の霊社仏閣に徘徊するに其の異相を見る人群衆をなせり。
或いはその異相を絵に写し書に記して中国に伝え京師に入る。
信長江州安土に在りて是を伝え聞きし召して見んと欲すると言えども
領主龍造寺の押留せしものなれば思慮して謀を廻らし将軍家の従臣フカヤ源内に
義昭公が異国人を召すとのご教書偽造し、源内を西国に下し龍造寺に渡す。
この異国人京着は九月三日なりし。
その前八月二十四日摂州住吉の社鳴動して松樹六十六転倒すると奏聞あり。
朝廷僉議あって松樹の木数六十六本と限ること日本の国数にて凶事とすべしとて
寺社に仰せて祈祷ありける。これ異人渡来して邪法を弘め人民の害を成すべき前兆なるべし。

異国人安土の城に到着しければ妙法寺に入りて三日休息し九月三日城中へ召し信長謁見せられける
ウルカン破天連身にハァイトというものを着す。毛氈の様なる類なり。
裾短く袖長し左前に合わせその体相甚だ卑しく声は鳩の鳴くがごとく言舌わからず
蝙蝠の羽を広げたる如く最も見苦し。各香を懐中して御殿に薫り渡る。
ウルカン、信長に対して礼する法、両臑指先を揃え向こうへ差し出し両手を組みて
胸に当て頭を仰ぐ誠に不思議の礼式なり。
献する所の物七種、七十五里を一目に見る遠眼鏡、芥子を卵の如くに見る近眼鏡
猛虎の皮五十枚、毛氈五丁、鉄炮、伽羅百斤、八畳釣りの蚊帳、一寸八分の香箱に入る
コンタツという数珠、紫金にてこれを造る四十二粒あり
(切支丹国四十二国あり、これに擬す)
信長、ヴルカン何のために日本に来ると尋問せらる。ウルカン答えて曰く
この度渡来すること唯仏法を弘めたき願望のためのほか更になしと。
信長、謁見畢(おわ)りて妙法寺に入れ置き、ウルカンの弘法のこと安土において
評議あり、信長菅谷九衛門に命じて京都四条坊門に四町四方の地を寄付し石垣を築き
一寺を建てて永禄寺と号す。
これにより叡山の衆徒憤り、延暦寺の外、年号を以て寺号とすること不可なりとて
座主要圓僧正へ訴えければ僧正の曰く「其の儀、故ありと言えども今朝廷衰え王位も軽く
仏法の威力もまた薄し。信長権勢に募りて我が意を働くと言えども之に敵して却って
叡山の街ある時は王威を以て制しがたし。穏便の沙汰あるべし」と制せられけれども
衆徒朝廷へ強訴の奏上を認め、朝廷僉議あって強訴沙汰延引せば、また神輿など
捧げきたらんは京都の騒動なるべし、早く信長へ命ぜらるべしとて、
花山院中納言廣政を以て山門奏状の趣信長へ命ぜらる。
信長不快なりと雖も勅命に従い永禄寺を改めて南蛮寺と号す。

延暦寺衆徒の教会建設反対理由が「年号を寺の名前に使うな!」だったという話



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 14:36:04.02 ID:tlQMINJk
延暦って暦じゃ…

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 17:20:58.58 ID:xmUg3Ve1
だから
「延暦寺」のほかの寺が、年号を寺号にするのは許せん!てこと

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/07(水) 17:37:51.95 ID:FhLlsoTq
ギリギリまで堪忍する信長の姿がこんなところにも

この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある

2017年04月23日 16:54

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 02:16:34.28 ID:rgVM3E7M
同年(天文18年)2月下旬より、備後守殿(織田信秀)は疫病を患いなさった。
療治祈祷の効果もなく、同3月3日夜、ついに末森の城で病死なさった。

行年42歳。上下万民は愁嘆追悼し合った。法名を桃巌居士と号す。曹洞家
の禅宗である。備後守殿は存命の時に一宇を建立し、これを萬松寺という。

すなわち、この寺で信長公より、たくさんの施行を引き、関東上下の会下僧
3百人余を集めなさり、美々しき法事を行いなさった。

嫡男なるが故に、信長公は今年16歳なれども、すなわち家督を継ぎなさった。
右の法事の時、萬松寺へ参詣され、林、平手、内藤、青山が御供に参った。

次男・勘十郎信行は武蔵守と号す。これも同じく参詣なさり、御供には家臣の
柴田権六(勝家)、佐久間大学(盛重)、佐久間次右衛門、山田弥右衛門、
長谷川宗兵衛らがいた。また聴聞見物のために貴賎上下が群がり集まった。

信長公は焼香に出なさった。その出で立ちは甚だ異形であり長柄の刀と脇差
をみご縄に巻いて差し、袴も着なさらず髪は茶筅に巻き立てて結いなさった。

仏前へ出でなさると、信長公は抹香をくわっと取り掴み、仏前へ投げ掛けて
帰りなさった。勘十郎殿は折り目高の袴に肩衣で、あるべき体の装束だった。

見物の諸人らは皆、信長を指差して、「これはまた例のうつけ者よ」と言って、
とりどりに批判した。しかし、その中に筑紫往来の客僧が1人いて、

「何と見ていたのだろうか。この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある」と、
相し申したということである。

さて、信長公は末森の城を勘十郎信行へ進ぜなさり、柴田、佐久間以下歴々
の臣下を付け置きなさった。また信長は自ら改名して上総介と名乗りなさった。

――『織田軍記(総見記)』



750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 07:15:38.30 ID:p+EnUnNt
上総守に改名したんじゃないのか

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 07:16:17.37 ID:p+EnUnNt
改名じゃなかった、名乗ったんじゃなかったのか

遠吠えしてぞ 返る犬山

2017年04月20日 21:17

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/20(木) 01:51:53.36 ID:70+44rP6
備後守殿信秀は古渡の城を破却して、末森というところに山城を築き移り居なさった。

信長公を名古野に置きなさり、また守山というところに要害を構えて、舎弟・孫三郎
(信光)を差し置きなさった。

天文18年1月17日、上の郡犬山、楽田より人数が出されて、春日井原を駆け通し、
龍泉寺の下、柏井口へ相働き、所々を放火して煙を上げた。

即時に備後守は軍兵を率いて末森より駆け付けなさり、一戦に及び切り崩し、数十人
を討ち取りなさった。犬山楽田の衆は春日井原を逃げ崩れて、ことごとく敗軍した。

その時に落首があった。

「鑓縄を 引き摺りながら 広き野を 遠吠えしてぞ 返る犬山」

――『織田軍記(総見記)』


上様団子

2017年04月08日 09:51

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/08(土) 00:07:22.55 ID:q3GXgDxs
織田信長公は時々京に団子を求められた。
よく参りに来るというので京童どもは上様団子と申し合っていた。
ある時一段と粗忽な御小姓が御前近くの所で、うっかり雑談の中で申してしまったのを
信長公は聞かれ御立腹なされた。
御勘気を蒙られるすんでのところで(曲直瀬)一渓道三が御登城されて、

「ごもっとものことではありますが、
世上にそのように申す事はかえって御誉れでございます。
昔天子様がちまきを御覧になられ一段面白いものとの勅定を出されたことがありました。
それから京童どもは内裏粽と今でも申し慣わしております。」

と申し上げました。
この言葉で信長公はご機嫌が治りその御小姓も御赦免なされた。
総じて上の御側にある人は万事に気遣いを致す事じゃ。

(昨日は今日の物語)



これよりしてこそ、信長公の名誉は

2017年03月19日 15:44

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG
今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』

「織田信長は類なき大うつけ者」

2017年03月10日 13:11

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 03:14:47.66 ID:wBEwJPR7
さて、信長公は17,8の御歳まで、特別の御遊びをなさらず、朝暮武芸を御好みになり、
日夜合戦の御嗜みであった。

弓の師は市川大介、鉄砲の師は橋本一巴、剣術の師は平田三位で、この者どもを
毎日召し寄せて稽古しなさった。朝夕、馬に乗りなさったが馬も優れた上手であった。

3月から9月までは、河水の遊びを御好みになり、たいそうな、水練の達者であった。
その頃、若侍どもを呼びなさり、竹で叩き合わせたのを見なさると、

「とにかく、槍は短き柄は良くないであろう。長柄に優ることはあるまい」と、仰せになり、
三間柄、あるいは三間半の柄で槍を拵えさせなさった。

その頃、信長の御行儀は甚だもって異相であった。日頃着なさる帷子の両袖をほどき
なさり、半袴や燧袋など、色々数多のものを身に付けなされた。

御髪は茶筅頭に紅糸、あるいは萌黄糸などで巻き立て結いなさり、太刀は朱鞘で皆
ことごとく赤武者の出で立ちにするよう仰せ付けなさった。

さてまた、鷹狩りを御好みになり、鷹野に出なさる時に毎度町を通りなさると、人目を
少しも憚らず、栗や柿、梨を馬上でかぶり食い、町中では立ちながら餅などを食い食い
通りなさった。

あるいは人に寄り掛かり、または人の肩に取り付き、連なりぶら下がって通りなさった。
その頃、世間は古風を慕って人は皆公方家の礼義を忘れず、儀式を好む世であった故、

このような異相であったから、近国や他国は押し並べて「織田信長は類なき大うつけ者」
と、申し合った。

――『織田軍記(総見記)』



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 04:43:13.72 ID:e8L42e2/
三男坊だしええやん

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 08:09:59.39 ID:Ku4oyBYM
順序は関係ない
嫡男やし

すなわち御名を織田三郎信長と付けなさる。

2017年03月09日 20:38

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 04:04:26.09 ID:v5m1NhMr
さて、吉法師殿(織田信長)を名古野(那古野)の城に差し置きなさり、備後守殿
(織田信秀)より、林新五郎(秀貞)、平手中務(政秀)、青山与三右衛門(信昌)、
内藤勝介、この4人が家老に付けられ、もっぱら傳り立て奉った。台所(財政)の
賄いは平手中務が奉行したということである。吉法師殿は内外共に、ことのほか
困窮しておられた。

成長に従い天王坊という寺へ毎日登山して、手習いをなされたが、すでにその頃
から気性は異相にして世の常人とは違っていた。信秀は古渡の新城におられた。
台所賄は山田弥右衛門がこれを勤めた。

かくて天文15年に吉日良辰を選び、吉法師殿は四家老を召し連れ、古渡の城へ
参上なされて、その城内で元服なさった。御歳積もって、13歳ということである。

備後守殿は怡悦なさり、上下の身分とも御祝いの酒宴をなさった。すなわち御名を
織田三郎信長と付けなさる。

翌天文16年、信長公は武者初めとして三河へと御出陣となった。この時、信長公
は紅筋の頭巾と羽織、馬鎧の出で立ちだった。これは、平手中務が計らい申した
ということである。

さて三河へ至り、今川家から人数を籠め置いていた吉良大浜という場所で信長公
は民屋を焼き払い、その日は野陣を張って一宿され、翌日に名古野へ帰陣された。

これが信長公の陣初めである。

――『織田軍記(総見記)』



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 07:48:00.48 ID:577KVNZe
宿舎を焼いて寒空の下で泊まるなんてバカな奴だな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/09(木) 08:12:59.84 ID:O8/yWz+H
家康「というわけで信長公にあやかるため、秀忠の傅役には青山と内藤をつける」

浅井殿を打ち潰そうと心がけなさったことによって

2017年03月07日 21:34

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/07(火) 02:24:25.85 ID:f/PBwvWV
信長公はもともと上戸である。浅井殿を妹婿に取って後、浅井殿を
何とかして、打ち潰そうとの謀ばかりを心がけなさったことによって、
大酒を止めなさったという。

――『武功雑記』

桶狭間の戦いの時

2017年03月05日 18:35

697 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:56:50.58 ID:yOjylQgb
(桶狭間の戦いの時、)さて、信長公が「今日の合戦は首を取るべからず! 打ち捨て
にするべし! この戦場へ出た者は家の面目、末代の高名であるぞ!」と、諸勢を
勇めて攻め掛かりなさると、

先駆けの前田犬千代(利家)生年18歳、毛利河内(秀頼)、森十助、木下雅楽助、
中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人などが高名をなし、
手に手に首を持って来た。

信長公は御感あって、「皆々旗を巻き、忍びやかに山際まで押し付け、敵勢の後ろの
山を押し廻り、義元の本陣に打って掛かれ」と下知しなさった。この時、簗田出羽守
が申し上げるには、

「敵は今朝鷲津・丸根の両城を攻めてから未だ備えを変えていないはず。この分にて
攻め掛かりなされば、敵の後陣は先陣となりましょう。只今、この口より突き掛かって、
差し向かいなされば、必ず大将・義元を討ち取ることでしょう!」

とのことで、これは甚だ御心に叶うと信長公は御満足なされた。さて、忍んで山際を
御廻りなさると、にわかに急雨が降り、石などを投げる如く敵の顔へ風が吹きかけた。

敵にとっては逆風、味方には後ろから吹く風である。余りに強い雨風で、沓掛の山の
上に生えている、二峡三峡の松の木や楠の木なども吹き倒すほどである。

「これは只事ではない。熱田大明神の神戦、神風か」などと、言うほどであったので、
味方の大勢が廻り来る物音は、少しも敵には聞こえなかった。

698 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:59:19.28 ID:yOjylQgb
かくて雨の晴れ間を御覧になり、晴天になると等しく、信長公は槍を押っ取り真っ先に
御進みになり、「掛かれ掛かれ!」と大声をあげて下知しなさるところを、森三左衛門
(可成)が申し上げて、

「味方が下り立ち攻め掛かれば、敵はきっと備えるでしょう。ただこのまま馬を入れて
乗り崩しなされ!」と言い、信長公はもっともであるとして、

毛利新助(良勝)、林佐渡守(秀貞)、織田造酒丞(信房)、簗田出羽守、中条小一郎
(家忠)、遠山甚太郎、同河内守等が、大将に打ち続いて一度に馬をどっと入れ、

その勢いは勇みに勇んで黒煙を立てて駆け破れば、敵陣は思いも寄らぬところへ、
にわかに攻め掛かられ、心ならずも後ろへさっと崩れてしまった。敵どもはあまりに
慌て騒ぎ、喧嘩かと言う人もあれば、謀反人や裏切りかと思う人もいた。

取り捨てられた弓や槍、鉄砲、旗指物は算を乱すに他ならない。なかでも、義元の乗り
なさっていた塗り輿を捨て置いた。信長公はこれを御覧になり、「敵の本陣に疑いなし!
ますます追い詰めよ!」と、同未の刻、東へ向けて追い掛けなさった。

初めは3百ばかりの敵が義元を囲んで退いたのだが、繰り返し繰り返し追い付かれて
2,3度、4,5度取って返しては討死し、次第に次第に薄くなった。後にはようやく50騎
だけが取って返して戦っていたところへ、

信長公を初めとして皆々が馬から下り立ち、若武者は互いに先を争い、しのぎを削って
鍔を破り、切っ先からは火炎を出して散々に戦う内に、手負いや死人は数知れず。

今川義元は無双の勇者であり、なおここまでも騒がずに諸勢を下知しておられたところ、
織田方の服部小平太(一忠)が槍で義元を突き通した。義元は太刀を抜いて小平太の
膝の口を一刀で切り割きなさった。

小平太は尻もちをついて切り付けられ、起き上がることが難しいところを、毛利新助が
やって来て隙間なく切って掛かり、義元の首を取ろうとした。義元は組み伏せられ、

すでに、刀で切ることも叶いなさらず、新助の人差し指に、がばと噛み付き、ついにその
指を食い切りなさった。新助はもとより強かな者なので指を食い切られながらも押し付け、
義元の首を取った。義元はこの年、42歳であった。

――『織田軍記(総見記)』



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:10:55.55 ID:C2X6WTSC
今日の大河のネタバレされた…
まさか先週あんなに勝ち誇っていた今川義元
桶狭間で殺されるなんて…


703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 21:47:41.55 ID:/43BOv/l
    ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  今川義元  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |2万5千で上洛| ::|   | よし、決まったな!風呂にでも入るか
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∬  (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄

   ~30分後~
     ___________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |  桶狭間で  | ::|   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  |…. |:: |義元討ち死に| ::|   | ふう、いい湯だった…アレ?
  |…. |:: |          | ::|   \_ ______
  |…. |:: └──────┘ ::|      ∨
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
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             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )
           /             \
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
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織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ

2017年03月05日 18:30

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 14:02:31.44 ID:HSagfeNr
 織田信長殿、内裏様を殊の外大切に思われ、村井春長(貞勝)を奉行に任命し禁中を尽く御修理をなされた。

 このことであるうつけ者が言った。

「内裏様の御念者は村井殿じゃ。」
「なぜに。」
「今日も『内裏様のみしりをしに行く』と、日に日に御出かけされるのでそうだと思ったのだ。」

※みしり 御修理 御尻

(昨日は今日の物語)


【ニュース】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述

2017年02月04日 17:37

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/04(土) 16:46:58.10 ID:qH0d9C1Q
【歴史】織田信長=「大猿」「黒鼠」 豊橋金西寺文書に辛辣な批判記述、恨み辛み込め「苛政暴虐枚挙に堪えず」弾圧時の仏教界感情示す

http://www.tonichi.net/news/index.php?id=58285

内裏の修理を完了

2017年02月03日 10:59

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:29:23.06 ID:sJ2XoiVV
内裏の修理を完了

内裏はいまや朽廃し、元の姿をとどめぬほどだったので、
信長は御恩に報いるため修理して差し上げようと考え、
先年(永禄12年)日乗朝山と村井貞勝を担当の奉公に任命した。
それから3年かかって紫宸殿、清涼殿、内侍所、昭陽舎、
そのほか諸々の建物などすべての工事を完了した。

さらに宮中の収入面において後々まで困ることがないようにと、
信長は思案を廻らし、京都市中の町人に米を貸付け、
毎月その利息を宮中に献上するよう命じた。
また零落した公家たちの領地と相続のことに関しても、復興のための諸施策を実施した。
天下万民の満足、これに過ぎるものはなかった。
信長の功績と名誉、および織田家の威勢は我が国において他に並ぶ者がいないものである。

また信長は領国中の関所を撤廃した。
点火の安泰を図り、往還の旅人の便を思いやる施策は、
慈悲深い信長の心から発したものであって、
このことにより神仏の加護も果報も誰にも増して恵まれ、
織田家がますます栄える基礎を築いたのである。
これもひとえに信長が
「道を学び、身を立てて、後世に名を残そう」
と望んだことだからである。めでたいことである。

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 11:43:11.27 ID:sJ2XoiVV
>>574
信長公記 巻4 元亀2年(1571)です


575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:40:23.32 ID:iWka4lYR
いい話だけど、その数年後に本能寺の変か・・
諸行無常、盛者必衰

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 00:51:25.94 ID:gB0AAng4
信長より父親の信秀が尾張守護代家臣の地位で内裏修繕費に4000貫寄進している事に驚く

津島支配だけでそれだけの経済力があるなら、子供の信長が上洛後、堺を支配したがるのも分かる

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 17:26:24.38 ID:iWka4lYR
>>582
本能寺の変の約10年前だったんですね
御貸米制度や内裏修理完成はもう少し後の話だと思い込んでました(汗)
ご指摘ありがとうございます

白熊の引きまわしなどでは、

2017年01月12日 08:38

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/12(木) 04:42:22.31 ID:fItAvr7B
信長の御前へ武者修行を致しているという武功の者がまみえた。

冑に白熊の引きまわし(引き回し合羽)をつけて、甲立に立てて
出たのだが、公は見なさって、

「この者は手酷き合戦に、いままで合わなかったものだと見える。
白熊の引きまわしなどでは、なかなか戦の急な時には、叶わない
ものである」

と、仰せになったということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



承諾の無い以上は、力及ばず

2016年12月01日 16:13

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/01(木) 04:29:29.58 ID:tN7pLp6l
信長は9月11日(元亀2年)、勢多の山岡玉林斎(景猶)の所に
止宿しなさった。

「明日、叡山を攻め崩すべし」との旨を言うので、佐久間右衛門
(信盛)並びに、夕庵入道(武井夕庵)が達て諫言に及んだ。

信長は曰く、「去年、汝らをもって懇意の言葉を尽くしたが、承諾
の無い以上は、力及ばず」と、理を尽くして言うため、

彼らの考えは及ばず、各々は未明に出発致した。

――『当代記』