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御自身御取り立ての侍によって命を失われたこと

2020年03月08日 15:35

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 11:04:03.83 ID:T94EJuRk
天正十年には正二位右大臣平信長公、嫡男三位中将信忠卿御父子、甲斐国へ御出馬有りて武田四郎勝頼を討ち果たし、
瀧川左近将監一益に関東八州切り取りにし、それより出羽奥州まで打ち平らげよと遣わした。

その頃、次男北畠中将信雄朝臣は伊勢国ホクスミという所へ、大河内の城を移され松ヶ島と改められた。
また、土佐国守護の長宗我部より、四国の大将を申し乞いければ、三男神戸三七殿に四国を給わって大将に
遣わされた。この時、関安芸守盛信は江州日野に預け置かれていたが、勘当を許され、流石文武を得たる者なればとて、
本領伊勢亀山を給わり三七信孝へ付けられ四国の御供に遣わされた。彼は蒲生賢秀の娘婿であったので、日野よりも
結解十郎兵衛を盛信へ付けられた。
こうして、信孝は一万五千余騎の人数を揃えここに神戸を立って摂津国住吉に下着された。

この時、羽柴筑前守秀吉は近年播磨国に在って中国毛利右馬頭輝元と合戦し数ヵ国を切り取ったが、将軍(信長)が
今度西国に出馬あって、九国二島(九州全域)まで太平に帰せんと宣いて、諸勢に触れさせられ、、京都にて
御勢を待たれるために、先手、手廻ばかりを召し具され、信長公、信忠卿御上洛されて仮に京都に御在されたのだが、
同六月二日、丹波守護明智日向守光秀が謀反を企て、二万余騎にて攻め上がり、先ず信長公を本能寺に取り囲み、
攻め奉った。この時戦うべき士卒も無かったため、将軍も叶わせ給いはて、遂に御年四十九歳にて御腹を召し果てられた。

次に信忠卿を二条の御所に取り囲み、御腹召させ奉る。御年二十六歳にお成りであった。

数度の大事を逃れられてきた将軍(信長)であったが、光秀という御自身が御取り立ての侍によって命を失われたこと、
御果報の程を申すも中々口惜しい事共である。

氏鄕記

「氏郷記」より天正十年の本能寺の変までの様子。長宗我部が信長に敵対したのではなく、むしろ信長に四国の総大将を
求めて来た、という描写はちょっと面白いと思いました。



906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 19:08:14.52 ID:sPex4AbI
>>905
信長が将軍というのは大将くらいの意味なのか、はたまた征夷大将軍なのか。いろいろ特殊な史料ですね

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:15:30.80 ID:U+SZeuSt
ヨーロッパの人は大名のことをショーグンっていうよね

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:38:14.12 ID:gAuGI6S0
ショーグンがジェネラル的な訳だと日本の王と伝わらないのでタイクーンなる単語が出来た

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 23:33:22.46 ID:sPex4AbI
将軍は台風や津波ということだな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/09(月) 19:55:32.70 ID:9Wi1g3Dz
頼朝と同じ右近衛大将になってるからかな?

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/10(火) 16:37:09.05 ID:B1PPJbD0
氏郷記を読んでみたけど、この章から急に信長公や信長卿から将軍に変わるね。
官位としては右大臣と明記(やめてるはずだけど)しているし、一般名詞として使っているみたい。
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織田信長による北伊勢攻略

2020年03月06日 18:36

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 02:18:33.57 ID:LPrscr5h
その頃、尾張国の守護であり、平相国清盛公二十一代の後胤である織田上総介平信長は(この場合の「守護」は
室町幕府の役職ではなく、単にその国の支配者という意味で用いられている)、武道に長じられていたため、
先の駿河国の守護。今川義元を討って三河遠江両国を従え、次に美濃国の守護斎藤右兵衛太夫龍興を滅ぼし
美濃国へ打ち越し、岐阜の城に居給いける。

その後、永禄十年春の頃、信長は数千騎を率いて伊勢国へ発向され、先手の兵たちは久須の城に押し寄せ攻め立てた
ところ、城中叶い難く思ったか、降参して先陣を申し請けた。その他当国の住人等降人に参る輩多かった。

こうして、神戸蔵人(具盛)の家人・山路紀伊守、子息久丞が立て籠もる高岡城に押し寄せ攻め立て、町口悉く
放火した。神戸城は北伊勢の要害であるので、すぐには落とせぬと見てこれより先ずは御勢を引き上げた。

翌永禄十一年の春、また信長は数千騎を率いて北伊勢へ出張し、高岡まで押し寄せると、北伊勢の侍たちの過半は
その味方に参った。ここに於いて、信長は神戸蔵人太夫方へ使者を以てこう宣った

『現在、源氏の輩は無道にして国土の乱逆は未絶である。故に信長は、苟も平氏の苗裔として、身をくだき
朝暮弓箭を放たず某逆の輩を討って国土を安んぜんと欲している。

御辺は平家の嫡流である、どうして一家の者と戦うのか。速やかに和睦し給え。
私が聞いている所によると、御辺は蒲生下総守定秀の娘の腹に一人の息女が有るが、子息は無いという。
私には数多の子供が有る。一人を養子に遣わそう。』

これを聞いて蔵人太夫も
「仰せの趣忝なし。」と同意し、直ぐに扱い(和睦)となった。これによって信長の三男、三七殿といって
この時十一歳の若君に、幸田彦右衛門を乳人として、その他岡本太郎左衛門、坂仙斎などという侍たち数多を
相副えて神戸家への養子に遣わされると、直ぐに祝言は調った。
こうして神戸蔵人太夫、嶺治部少輔、関安芸守を始めとして味方奉れば、北伊勢の侍たちは一編に従った。
そして上野城には信長の弟である織田上野介殿、安濃城には織田掃部助殿が置かれた。

氏鄕記

織田信長による北伊勢攻略についての記事。



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 02:47:13.43 ID:fRaitGr9
そういえば織田信長の伝記?系の漫画なんかでも伊勢攻略の段ってなぜか飛ばされるよね
美濃とったらすぐ義昭奉じて上洛してって感じで
神戸氏に息子差し出したりなかなか重要視してるのに

神戸氏も北畠氏もなかなか凄惨な最期遂げてるし描きにくいんだろうか

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 10:29:29.38 ID:Lyr4UoL7
>>708
三河は安泰、信玄とは懇ろ。伊勢が安定するとこのときなら後背の不安がなくなり、上洛しやすくなるもんねえ
上洛に備えた事前作戦だから地味は地味だけど

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 11:02:11.23 ID:WzBM7Fcq
北伊勢侵攻は1567年初め~1568年半ばで、義昭が頼ってきたのは1568年7月
中小国人ひしめく北伊勢に勢力を伸ばした結果、
それまで北伊勢に影響力を持ってた南伊勢の北畠や近江の六角との対立が始まり
強力な敵を増やした藪蛇なわけで
上洛の事前作戦とはそこまで関係ないかと

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 11:59:50.31 ID:Lyr4UoL7
>>710
その前に一回頼られて、破談になってる。詳細は忘れたけど、六角の情勢かなんかじゃなかった?

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 20:33:32.50 ID:052K8XhH
>>708
信長公記に書かれてないからじゃないかな。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 22:33:33.39 ID:Wo3VQ8NE
なんで太田牛一は伊勢攻略書かんかったのか
何か書くとまずいことでもあったんだろうか

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 22:58:11.06 ID:Lyr4UoL7
>>713
内容が薄いだけで巻二に出てくる。それよりエピソード0みたいな首巻がいい加減なのが気になる。後から書いたにしても、まだメモ魔じゃなくて記録がなかったのかな。
そのメモ全部どっかから出てきてほしい。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 18:25:54.32 ID:rkLCkXKD
単純に伊勢攻略が比較的うまくいって
あまり特筆することがないからかと

長野神戸北畠どれも家としては
一族養子にして吸収してしまってる
旧当主が不満から策動してたりはあるけど
いずれも大きな動きに発展せず成敗されてる

そこを細かく描写し始めるとかなりややこいし
マニアックな割に盛り上がらないから
さらっと流される傾向あると思うよ

信雄とか信包とか大河ドラマになりでもしたら
クローズアップされる機会もありそうだが
何処かが後押しするような人物でもないし難しいな

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 00:27:53.44 ID:kxooVDd2
>>716
世間の人が求めてるのは伊賀忍者vs信長とかそういうことでしょう

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 10:57:44.67 ID:fFDqWvdN
>>720
伊忍道か

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 14:23:20.71 ID:v4cf6sdX
打倒信長か

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 20:20:10.22 ID:gAuGI6S0
妖術師ニコラス

我等が首を切られないように

2020年02月19日 17:52

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/19(水) 15:18:10.60 ID:FZ2wos7X
長(続連)、神保(長住ヵ)が相謀り、上杉謙信と取合を始めんとする時、長は安土へ行き、織田信長に謁して
このように申し上げた

「ご存知のように、上杉輝虎は強き将であり、我々両人が相約し、敵対の色を見せれば、無二無三に押し来て
我等が首を切られることは目前であります。彼は大身である事と言い、その強さといい、殊に弓矢の道に
とっては神変とも申すべき名将ですから、我等の僅かな小勢ではどう考えても叶いません。
そのようにして負けた場合、我等は今年生まれた児童まで、越後衆に殺されてしまい、根を絶ち葉を枯ら
されるでしょう。

ですのでその時は、信長公ご自身の出馬があるか、そうでなければ柴田(勝家)、羽柴(秀吉)等の
数将を差し越され、我等が首を切られないように防戦されるとの事であれば、我々は二の足を踏むこと無く、
一筋に謙信と取合を始めます。

しかしそう出来ないのであれば。我等は妻子を世に立てるために艱難を凌いでいるのですから、輝虎と
対陣することは出来ません。」

そう、面と向かって申し上げた。信長はこれに大いに納得し、即座に誓紙を書いて長に与えた。
これによって長続連も二心なく安土の味方となることを決めた。

松隣夜話

いわゆる手取川合戦に至る、信長による長続連への援軍派遣を決めた時のお話。



669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 00:31:36.05 ID:C9mdKgq2
>>668
連龍じゃないのね、これは。
信長出馬か勝家、秀吉出馬の下りは、いかにも結果を知ってますから感が強い。

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/20(木) 12:16:26.53 ID:Cr1Ny+sS
とは言うものの物語としては面白いです

【雑談】織田信長についてのことなど

2020年02月06日 17:15

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:17:49.48 ID:5OMCCWI9
そういえば信長も無断外出した女房達を処罰してたな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 11:49:01.96 ID:JdBizlSl
信長って安土に移った頃ですら馬廻りや弓衆に命令を聞かない連中がいて処罰してるよね

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:02:25.48 ID:1+5PdDNQ
信長の言う事聞かない家臣結構多いですよね
秀吉も手取川前だかに無断で帰ってるし

勝家宛だかの書状でも陰口叩くなよワシの方に足向けるなよみたいな内容出してる辺り
陰口叩いたり足向けるような連中である事認識してたわけだし

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:08:21.59 ID:OD3qETlT
火事があって引っ越してないのがバレてさらに燃やされたんだっけ?

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 12:41:09.38 ID:ytodUhRl
>>800
天正9年の桑実寺事件は同時代的にも異様なものだったらしく、
毛利へ「信長が取り乱している」と報告されてるな(石見吉川家文書)

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:27:34.45 ID:/N2UOQXO
信長居ない時のフリーダム感すげえだろうなっては思う

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 13:28:04.42 ID:ClW7PRNL
馬廻りは家族ごと安土に引っ越せって言われてたんだけど
家族を岐阜に置いてきてた人の家から火事が出て調べたら同じような奴がたくさんいて
岐阜の家を焼いて家族を強制引っ越し
罰として道路工事もさせた

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 16:57:49.65 ID:yuA3pMt6
そう考えると織田ですら大名集権化にかなり手間取ってたんだなーって、というか出来てないからド油断したのを抜け目なくやられたと言うべきか
大名はあくまでも権利の保証者であって一挙手一投足まで指図される謂れもないわって考えもありそうだし
戦国大名から近世大名化失敗しまくる大名が星の数程いたのもむべなるかな

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:18:38.98 ID:ClW7PRNL
ちなみに信長は着工してすぐ安土に来た
信長がせっかちなのを知ってる丹羽は屋敷を用意しておいたのでますます重用されるように

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:36:18.21 ID:n3zjBlsZ
信長は自分の意にそぐわないとすぐ激怒するイメージだけどな、馬廻り衆でさえ指示を聞き流しているのか

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:46:59.50 ID:1+5PdDNQ
だからこそ激怒しないといけないんじゃないの
いう事聞いてくれるならわざわざ激怒する必要もないし

急激に勢力でかくなったせいで集権化急がなきゃいけない状況になって
綱紀粛正するために厳しめで行かないといけないパターン

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:48:55.11 ID:KELwHSj/
秀吉が古参に対して恐怖政治をやった理由の一端なんだろうなぁ。

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 17:52:01.98 ID:dT08o3j2
秀吉は「信長の時代みたいに甘くない」って書状残してるくらいだしね。

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 19:21:03.19 ID:BVx81U5Z
激怒っていうか家臣はすぐに誅殺しないとダメなんだよ
そうじゃないと逆に自分が殺される
とオルガンティーノも書いている

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 19:38:25.63 ID:5aGsRTSp
>>761
>信長卿が武田勝頼を攻められた時、御嫡子である信忠公に数万の軍兵相添えて、関東へ差向けられた。
せっかく関東に差向けられたんだから、
そのまま武田領の上野に全軍で攻めこんでなに食わぬ顔で武蔵へ南下すれば良かったのにな。
>そして信忠公は関東平均を打ち納め、京都へ上洛された。
ここ、ここがアレだよね?高々甲斐を落として関東平均などと大抑にならずに、
愚直に武蔵まで押さえて本当に関東平均しておけば本能寺の変も起きなかったんじゃないか?

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 20:44:40.28 ID:yandyTqS
>>815
どうも甲州征伐の織田軍は兵糧不足に陥っていたらしいので無理だな。
なので昨今では、勝頼も粘ってたら織田軍は撤退したんじゃないか、なんて言われたりもしてる。

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 21:19:40.60 ID:ClW7PRNL
>>816
おもてなししてくれた徳川に米を置いていってるよ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 21:41:04.61 ID:yandyTqS
>>817
平山優『武田氏滅亡』より、天正10年3月23日付山口秀景書状によると、この時の織田軍は
「一、信州雪深く一段と凍っていて人馬が足も立てることができない。寒さは想像以上である
一、不足しているのは兵糧で、諸陣は大変困っている。多くで脱走が起こっている」
と報告してる。また織田軍に対し家康、北条氏政から兵糧が提供されている。

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 22:29:26.79 ID:n3zjBlsZ
氏政から兵糧を貰っておいて関東制圧するぞとはならんよな

信長は律義で有名だから

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/05(水) 23:38:00.41 ID:IgwN6hfh
>>819
北条が駿河に攻め込んだのに取り上げ、それどころか上野・北武蔵などの国人衆が
滝川一益の指揮下に収まることになり事実上領地取り上げになりましたけど、なにか?

そりゃ、信長死んだのがわかったら、即、滝川一益を攻めるわな。

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/06(木) 00:37:29.52 ID:a/URv4ty
攻め込んだの滅茶苦茶遅いけどな

”岐阜”の変転

2020年01月28日 17:47

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 13:40:48.67 ID:VFA0F6Hg
永禄七年(正確には永禄十年)九月中旬、織田上総介信長は稲葉山の城に移り岐阜と称した。
この城の麓、常在寺は元の寺領五百貫を召し放たれていたが、由緒ある寺であるので、当住の
日韵上人の申出により日野村にて百貫文の朱印を賜った。
その後、信長は江州安土に城を築いて移り給い、信長長男信忠を岐阜城の守とした。

天正十年六月二日、明智(光秀)謀反にて信長信忠父子とも、京都にて生害の後、岐阜城は
信忠の長男・秀信の後見として神戸三七信孝が当城に住せられた。

天正十一年、柴田修理亮勝家に同意して秀吉と取り合いが発し、そのため三七信孝は当城を去り、
尾州野間の内海にて、二十六歳にて切腹した。この時の乱に、常在寺も兵火にあい、信長より賜った
朱印、そのほか遺物共に焼失した。しかしながら、その後当寺は再興された。

三七信孝の跡に、少将豊臣秀俊(間違い。実際には豊臣秀勝)が住せられた。これは織田秀信の後見であった。
秀勝は朝鮮軍の時、肥前の名護屋へ出陣して、彼の地にて病死した、

慶長五年、岐阜中納言秀信公は石田三成に与して岐阜城は攻め落とされ、終に紀州高野山に入って卒し給う。
この時の兵火に瑞龍寺も炎焼したが再興された。常在寺は信長に賜った日野村百貫文の朱印を、秀信公まで
相違なく給わっていたのだが、慶長五年に秀信公が亡びられた後は寺領断絶し、常在寺に現在残っているものは、
斎藤道三の画像と斎藤義龍の寿像ばかりである。

道三の画像は、信長の北の方が、父のために建立したもので、また義龍の寿像は、その子息である龍興が
建立したものである。
常在寺の本尊である文殊菩薩は、昔長井藤左衛門長弘が本巣郡文殊の城が落ちた時、そこの文殊堂も兵火に
かかった。この時本尊を取り出し、斎藤氏の由緒ある寺なればと、常在寺に安置したものである。

(土岐累代記)

この常在寺に残った道三の画像というのが、有名なこちらですね。
https://i.imgur.com/RPTq9Wt.jpg
1024px-Saito-Dozan-2.jpg



信長は京の町衆の面前で

2019年12月23日 18:36

432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 07:50:34.05 ID:njmClHvo
織田信長が若かりし頃の事、尾張統一を果たした1559年、彼は80人の側近を連れて室町将軍・足利義輝との謁見のため上洛する事になった。
その情報を得た隣国の斎藤義龍は好機到来と信長を暗殺するための刺客を選抜して信長一行の後を追わせた。
背後より刺客が迫り来ているとは知らず、京を目指す信長一行であったがこの時美濃からの刺客とは別に、尾張から信長一行を追う者があった。
男色でも知られる那古野弥五郎の配下で丹羽兵蔵と言う侍である。
丹羽と美濃の刺客らは偶然にも琵琶湖を渡る舟の上で鉢合わせ、互いに身の上話をする事になったが、相手の美濃衆を怪しいと感じた丹羽は、三河者を装い巧みに情報を聞き出すと、何と彼らは信長への刺客であると判明。
丹羽は素知らぬフリで京における彼ら刺客連中の宿舎を見定めると、そこに目印(柱を削ったとか)を付け信長一行が逗留する宿舎へ急行。
赤母衣衆の金森長近と蜂屋頼隆に報告。金森と蜂屋が信長にこれを報告した所、信長は美濃の出である金森長近に対し顔見知りも居るだろうから、
彼ら美濃衆に対し信長の元へ「挨拶」に来る様、伝達する旨を命じた。
金森は丹羽に案内され、刺客らの宿舎に向かうと彼らに面会し、暗殺計画が既にバレている事を告げると今なら穏便に済ますから信長の元へ「挨拶」に来る様伝え、刺客らの宿舎を後にした。
刺客らは翌日、今日の町を見物中の、信長と対面。信長は彼ら美濃衆に対し京の町衆の面前で

「この信長を殺しにわざわざ美濃より参った事、祝着至極である。だが、そなたらごときがワシに歯向かうのは蟷螂の斧が如しである。それでもやるかね!?」

と、啖呵を切った為刺客の者達は信長に対して詫びを入れると、はうはうの体で美濃へと逃げ帰ったと言う。

(信長公記)(名将言行録)

余談であるが、丹羽兵蔵が暗殺計画の情報を引き出したのは、刺客一行のなかの最年少の童であったと伝わるが、その方法が如何様な物だったのかは伝わっていない。



434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:05:55.81 ID:1nldD7ts
>>432
原哲夫に採用されそうだな

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/23(月) 08:39:56.69 ID:z+pALg4m
信長公記の若き信長暗殺計画といえばまとめの2907
信長暗殺計画~比良の奥地に大蛇を見た!~

池の水、全部抜く
みたいな話があったっけ

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/23(月) 12:37:50.41 ID:DNuEgi6u
>>434
調べ直したら、30名くらいの徒党組んだ刺客集団を率いる6名の武士(小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門)に出会した丹羽兵蔵が、ただ事では無いと感じ、三河の人間を名乗って接近するも斎藤義龍の大事な用事とだけ答えて、後は喋らない。
そこで丹羽は賢い子どもを手懐けて、言葉巧みに彼らの目的を聞き出させた後に刺客連中の宿所を突き止め、金森長近と蜂屋に報告。
信長は金森長近を遣わし、金森は旧知の美濃衆に対し信長は君ら美濃衆の上洛知ってるから自分を挨拶に遣わせた。明日返礼の挨拶に来いと伝達。
ビビった美濃衆は指定された京小川表の管領屋敷で信長と対面して、>>432の通りの啖呵を切られてその迫力に黙り込み退散。
その後、信長一行は近江から念のためルートを変えて八風峠を越えて尾張に帰還。と言う流れの様だ。

信長の唐櫃

2019年08月04日 15:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 15:12:01.37 ID:20SiqXwU
霜月21日(1567)に織田信長より織田掃部助(忠寛)を使いになされ、「信玄公の御料人(松姫)が
御歳7歳になられるのを承り及び、信長の嫡子・城介(織田信忠)の内方に申し受けたい」と仰せ遣された
のである。武田の家老衆各々は寄り集まって談合し、信玄公へ申し上げられるには、

織田信長はすでに34歳に罷りなられ、27歳の時に義元を討って庚申より去年まで7年の間に美濃・尾
張を治めて今は美濃岐阜に居住されています。

殊更今年は公方の霊陽院殿義昭公を都へ御供申し、信長の被官の柴田修理(勝家)・野村越中の両侍大将を
都に付け置き申されているので信長は望みも多く、万一どのような謀で信玄公と縁を結び申したいと申され
るのかも分かりませんので、これはまず差し置きなされ」

と諫め申し上げた。信玄公は聞こし召して、

「それは各々の意見もっともであるが、近年信長が信玄に入魂仕りたがることは少しも偽りには見えない。
その訳は、信長が音信に小袖を送り、信玄の召すものを格別に致すと言って入れて送った箱を削らせて見る
に殊の外の堅地で、蒔絵も我が家の菱を同じ具合になしたのは、町物ではなく念を入れて、わざわざ申し付
けたと見える。勝頼と縁者になる2年前からこの如くである」

と仰せられ、各々にその唐櫃を取り出させ、年々のを見せなされば仰せの如くである。信玄公は仰せられて、

「人の真実・不真実は音信で知るものである。1度や2度は念を入れるとも、3度までは主か親を除いては、
その他の只の者には重ねて念を入れることなど小身な者でさえしないというのに、ましてや国持ちは自分も
人も事が多いので、年々このようにはならない。

信長は1年に7度ずつ必ず使いを送る。それでさえもこちらから使いを遣るならば、その返報とも存じよう
が、2年に1度でもこちらから人を遣ることはないというのに、親主の如くに信長が仕るのならば、縁者に
信玄となりたいと信長が存じるのは一段と真実であろう」

と仰せられ、御合点あって御返事なされた。そうして織田掃部が長坂長閑(光堅)を介して申し上げ、「こ
の上は細かな事をも申し上げます。私めに万一暇があって、佐々権左衛門や赤沢七郎左衛門が参る時は誰を
介して申し上げるべきでしょう」と申せば、信玄公は仰せ出され「高坂弾正に付いて申せ」とのことだった。

掃部はまた申し上げる。「高坂弾正殿は信州川中島に罷りおられますが、甲府に弾正がおられぬ時に川中島
まで参るのもいかがなものでしょう。小事で大名の弾正をここまでというのも申し悪いので、御膝下で奏者
を仰せ付けられれば、その上でも大あらましの事は高坂弾正殿へ申します」と織田掃部は申すので、原隼人
佐(昌胤)・跡部大炊助(勝資)両人を仰せ付けられ、織田掃部と原隼人・跡部大炊助を長坂長閑のところ
まで呼んで引き合わせたのである。

掃部は甲府に長く奉公仕った故、両人とも知人である。中でも跡部大炊助は織田掃部が信玄公へ御奉公申し
た時の奏者である。ことさら掃部が岐阜へ帰り、やがてその年11月中旬に御祝言の御樽肴を持たせて甲府
へ参り、御祝めでたきことである。よって件の如し。

信長より信玄公への御音信は、
一、虎の皮3枚 一、豹の皮5枚 一、段子百巻 一、金具の鞍鐙10口 以上。

御料人様への御音信は、
一、厚板百端 一、薄板百端 一、緯白百端 一、織紅梅百端 一、代物千貫 一、毛掛の帯上中下3百筋。

この他御祝の御樽肴は作法の如くで、御使は織田掃部助である。

――『甲陽軍鑑』



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:57:51.98 ID:W6PzTXQ5
そんな信長を平然と踏み潰そうとする信玄公

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/04(日) 16:59:53.94 ID:w2LBZ5n+
その頃は信長のがデカいのにその表現は

家康の事は良きように頼み入ります。恐惶謹言。

2019年07月29日 17:29

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/28(日) 23:37:06.23 ID:wJxV0U2v
(永禄13年)

駿河田中に御逗留の間に、織田信長より佐々権左衛門(長穐)を使者にして御音信があった。唐の頭20・
毛氈3百枚、そして猩々緋の笠。これは4年前に公方の霊陽院殿(足利義昭)と都へ御供仕り征夷将軍に備
え奉った時のもので、「弓矢に縁起の良き笠です」と信長は申されて、信玄へ送り進上なさった。

信長の使者がいる所で土屋平八郎(昌続)にその笠を下され、「信長の武辺にあやかれ」と信玄公は仰せら
れた。唐の頭は奥近習衆に下され、籤取りを仰せ付けられた。そうして2月下旬に江尻へ御馬を寄せなさる
と、江尻までまた織田信長より飛脚を御越しになされた。その御状は、

 三河岡崎の松平家康(徳川家康)は、私めが取り分けて目を掛けている者ですので、御引き回しを頼み
 入ります。そこで、その地に今川殿へ前々より差し置いていた家康の弟(松平康俊)を召し置きなされ
 ているそうですが、幸いですので家康の人質として甲府まで召し連れなさって、御心安く御用などを仰
 せ付けられますようにと、家康も私めの方へ申し越していますのでこの次第です。家康の事は良きよう
 に頼み入ります。恐惶謹言。

   2月18日                           織田上総守
      甲州法性院殿 人々御中                      信長

――『甲陽軍鑑』



ついにその名は高きものだという

2019年05月29日 18:26

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/28(火) 23:02:18.14 ID:nF4+lOrm
  此比の大将衆弓矢取様之事

一、織田信長は取り巻いている城の包囲を解いて退き、境目の小城をいくつ競い落されても苦しからず。

  追い崩されて自分の人数を追い打ちに討たれなければ、世間の取り沙汰しは無いものなので、難しい
  ところを急いで引っ込み、やがて出て行き国を多く取って持ち、大身になったので、ついにその名は
  高きものだということである。

――『甲陽軍鑑』



藤きちろうおんなども  のぶ(印)

2019年05月26日 15:16

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/26(日) 14:18:28.07 ID:mopXN2yD
同集(古筆集)に、足守候(足守木下家)の蔵物として、織田信長が木下藤吉郎の妻に賜う書という
ものが掲載されている

『仰せの如く、今度こちらへ初めて越し、見参に入り祝着に候。殊にみやげ色々、美しさ中々目にも余り、
筆にも尽くし難く候。祝儀ばかりに、この方よりも何やらんと思い候へば、その方より見事なるもの
持たせ候あいだ、べちにこころざし無くのまま、まずまずこの度はとどめ参らせ候。重ねて参るの時、
それに従うべし。

なかんずくそれの見目振り、かたちまで、いつぞや参らせ候折節より、十の物、廿程も見上げ候。
藤吉郎、近々不足の旨申すのよし、言語道断、曲事候が、何方を相訪ね候とも、それさまほどのは
又二たび、かのはげねずみ、相求めがたき間、これよりいかにもかみさまなりに重々しく、悋気などに
立ち入り候ては然るべからず。ただし女の役にて候あいだ、申すものの申さぬ中に、もてなし然るべし。

猶文ていにはしいり、拝見請い願うものなり。
まいらせ候かしく

 月 日
  藤きちろう
     おんなども
             のぶ(印)』
(訳)
「前から仰られていた通り、今度こちらに初めて来られ、見参されたこと、祝着です。殊に様々なみやげは、
その美しさは目にも余り筆にも尽くせないほどで、こちらとしては祝儀であるのだから、何か与えようと
思っていたのですが、そちらが大変見事なものを持って来られたため、それに釣り合うようなものを思いつかない
まま、とりあえず今回は思い止めました。次に来られた時に、この思いに従った物を下すでしょう。

それにしてもあなたの見目ぶり、姿形まで、以前に参られた頃よりも、十のものが二十に成ったかと思うほど
見違えました。藤吉郎は最近、あなたに対し不足の旨を申しているようですが、言語道断、まさしく曲事です。
今、どこを探したとしても、あなたほどの女性は二度と、あのはげねずみが求めることは出来ないでしょう。
ですので、あなたも今後はいかにも御上様らしく重々しく、悋気などを起こすべきではありません。
ただし女性の役なのですから、物事を語らない中にも、察して対応するべきでしょう。

文末に至りましたが、拝見を請い願います。かしこ。」

(甲子夜話)

有名な織田信長が高台院に宛てた書状



信長の武辺形儀は父の弾正忠を少しも真似ず

2019年05月22日 13:20

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/21(火) 18:40:38.18 ID:D7yWtb0Y
(前略。元亀元年(1570)12月の事)

馬場美濃(信春)が申すには、

「尾州犬山の城主・津田下野守(織田信清)は信長の姉婿ですが、信長に負けて追い出され諸国を浪々致し、
3年以前より当国へ参って御舎弟の一条右衛門太夫殿(信龍)の咄衆となり“犬山哲斎”と申しております。

この人の物語りによれば、信長の武辺形儀は父の弾正忠(織田信秀)を少しも真似ず、舅の斎藤山城守(道
三)の弓矢形儀を仕っております。『(信長は)そそくさとしている様で、殊の外締まって働く』と、犬山
哲斎は沙汰致しました」

と申し上げた。信玄公が仰せられたことには、

「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることならずして、小身故に故今川義元の旗下となって駿府へ出仕
致した。斎藤山城は殊に私めを頼っておられた。土岐殿浪々の後に美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には、越前から朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどなれば、斎藤の弓
矢と弾正忠とはかけ離れた弓矢の位、山城が上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取るところと致すは、
もっともなり。

しかも山城の孫・龍興を信長は押し散らして美濃侍を数多抱えたわけで、父の弾正の代には小家中であった
故、侍はどのようにしても大家中の家風を真似るものであるから、自然と信長衆の大方のことは斎藤山城の
ように致すものであろう。それはあえて真似るわけでなくとも、浄土寺へ行けば自然と『念仏申したい』と
の心になるのと同じことである」

と仰せになられた。

――『甲陽軍鑑』



勝ちを千里の外に決す

2019年05月16日 16:44

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:47:31.40 ID:JyrqVqki
その後、信長公は24歳で是非義元(今川義元)を討たんと心掛け給えども、ここに妨げる男あり。
戸部新左衛門(政直)といって笠寺の辺りを知行する者なり。

能書才学が形式通りの侍で、主君を無二と思って義元に属し、尾張を義元の国にせんと二六時中謀る
ことによって、些細であっても尾張のことを駿河へ書き送った。

これにより信長は心安き寵愛の右筆に、かの新左衛門の消息(手紙)を多く集めて1年余り習わせな
さると、新左衛門の手跡と違わず。この時に右筆は義元に逆心の書状を思うままに書きしたためて、
「織田上総守殿へ。戸部新左衛門」と上書をし、頼もしき侍を商人として出立させ駿府へと遣された。

義元は運の末であったのか、これを事実であると御思いになり、かの新左衛門を御呼びになると「駿
府まで参るに及ばず」と、三河吉田で速やかに首を御刎ねになった。

その4年(永禄3年の誤り)にあたって庚申、しかも七庚申のある歳5月。信長27の御年で人数は
700ばかり。義元公は人数2万余りを引率して出給う(桶狭間の戦い)。

時に駿河勢が所々へ乱妨(乱取り)に散った隙をうかがい、味方の真似をして駿河勢に入り混じった。
義元は三河国の僧と路次の傍らの松原で酒盛をしていらっしゃるところへ、信長は切って掛かりつい
に義元の首を取り給う。この一戦の手柄によって日本においてその名を得給う。

これでさえも件の戸部新左衛門が存命であれば中々難儀であったろうが、信長公は智謀深く、陳平と
張良が項王の使者を謀ったのと異ならず。

信長公の消息の手立ては24歳の御時なり。評言すれば、『籌を帷幄の中に運らし、勝ちを千里の外
に決す(戦略の巧妙なこと。漢の高祖が張良の軍事的才能を評した言葉)』。

そのため、尾張の諸侍で義元を大敵と称し信長を軽んじた者どもは、翌日から清洲へ参候して信長を
主君と仰ぎ申したのである。

――『甲陽軍鑑』



925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/16(木) 01:54:39.69 ID:i428Al7X
ゆらり

小次郎は信長の時分の脇の上手であるという

2019年05月04日 14:54

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 01:12:13.79 ID:LlOPDr9S
小次郎(観世元頼)は信長の時分の脇の上手であるという。信長の初めの頃である。

小次郎の嫡子に弥次郎という者がいた。これも脇の上手で小次郎に劣るまいという。これは大徳寺
だったかで能があって、その帰りがけに僕に殺されたのである。

優れた男色でその弟に了室という者がいた。了室は近頃まで存生した。これは脇は下手なり。

――『老人雑話』



978 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/04(土) 17:29:40.26 ID:1Ob+Bu4A
>>977
>これは大徳寺
だったかで能があって、その帰りがけに僕に殺されたのである。

犯人は江村専斎か…(すっとぼけ)

又ものの分として何とて能せん

2019年05月01日 16:18

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 13:19:53.30 ID:8nKSRDUM
信長が甲斐の四郎(武田勝頼)と対陣の時(長篠の戦い)、鳶の巣の城を乗っ取ることを酒井左衛門尉
(忠次)が信長に乞うた。信長は叱って曰く、「陪臣の分際でどうして良い働きができるか!(又もの
の分として何とて能せん)」と。

左衛門尉は重ねて乞わず、即時に赴いて城を乗っ取ったという。左衛門尉は東照宮(徳川家康)の家臣
なり。東照宮が甲斐・信濃・上野を所領し給う時、威勢は一人盛んであった。今の宮内(原注:四郎)
の父なり。

――『老人雑話』



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/01(水) 14:45:50.07 ID:zLaAnMy+
信長の功績を過少にしてる話多いよね

951 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/01(水) 15:29:18.99 ID:2GWH/FK7
後であの場ではああ言ったが良い案だ、やれって言われたってバージョンもあったな。

これ武略なり

2019年04月27日 15:54

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:13:34.77 ID:2r7o4uZh
信長は5千騎で今川義元の4万の人数を鳴海で敗った。義元の首を取ったのは川尻与兵衛(河尻秀隆
という者なり。後に信濃で死す。

この時、信長は清洲にいて乱舞し、先手から送られる文箱をも開き見ず、皆が「負けた」と推し量った
のである。信長は馬を出し、熱田の神前でしばしまどろみ夢を見ている体で、応じる声が3度あった。
これ武略なり。

さて大雨の降る中で信長が馬を進めると、輿を控えて諫める者あり。その時、信長は鞍の前輪を叩いて
敦盛の『人間五十年』のところを舞われたという。

人々は皆それならばと押し掛かった。義元が台子で茶会をしているところに急に打って掛かって、勝利
を得たり。この時、義元の勢4万は七備に陣を立てていた。しかし間道から本陣へ掛かった故に、七備
も空しくなったという。

――『老人雑話』



936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 14:18:07.66 ID:mExy/+Tj
>>935
毛利新介「!?」

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/27(土) 16:24:35.08 ID:YVf5kat/
伝言ゲームのように話が変わっていくんでしょう
それにしてもこの場合の乱舞ってなんだ

織田信長公、座興ふかき事

2019年04月10日 17:16

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 00:31:04.91 ID:Y0JDf8tv
織田信長公、座興ふかき事

正月五日、「節振舞あるべし」と言うことで、佳例にまかせ、諸大名を集められた。
さて、種々の饗応あって後、夜に入ると信長公より「大盃にて、上戸も下戸も押し並べて給うべし」と
仰せになり、「余興として順に舞をするように」と言われ、面々は嗜んでいた芸を以て舞い歌い
入り乱れ、各々前後も解らぬほどの大酒盛りとなった。

このような所に、柴田修理介(勝家)が飲もうとしていた大盃を見て、信長公は「今一つ明智光秀に指すように」
と仰せになった。「畏まって候」と勝家は一息に飲み干し、これを日向守(光秀)に渡したところ、光秀は
「これは困ったことだ、たった今ようやくその盃を飲み干して貴殿に回したというのに、またそこから
給わるという事、どうやって給わればいいのか。そうか御免を頂きたい。」と、頭を畳につけて辞した。
これに修理介「私もそう思うが、殿の御意によって指すのだ。否応有るべからす。」
「如何ほど御意にても、もはや塞ぎ詰まっています。御宥免頂きたい。」
そう申して、座敷の隙間から次の間へと逃げた。

その時、信長公は座敷を立った。光秀が次の間でうつ伏せにひれ伏していると、その首を取って押し付け、
御脇差を引き抜き

「いかに、きんかん頭、飲むのか飲まないのか、一口に返事をせよ。飲まぬと言うならこの脇差の切っ先を、
後ろから喉まで飲ませてやろう。光秀いかに、いかに!?」

これを聞いて光秀も心乱れるが、この有様に酒の酔も俄に醒め、

「ああ殿様、切っ先がひやひやと見に覚え候。さりとては御脇差御ゆるし候へ。死に申すことは、
今少し早うございます。」

そう申し上げる。これに信長公

「そういう事なら、仰せを背かず飲むべきか、さに非ずば、脇差を飲ますべきか、何れを飲むのか、
はやはや返事をせよ。いかに、きんかん頭!」
そう言いながら、脇差のみねにてかなたこなたを撫で回した。
光秀は気も魂も消える心地して
「御ゆるし候へ、起き上がって、御意のごとく御酒を飲みましょう。」

「なるほど、それならば立ち退こう。もし飲めなければ、今度は脇差をしかと飲ますぞ!」
そう仰せになって立ち退かれると、光秀は顔の色青く、目の色、顔つきも変わって起き上がり、かの大盃を
取って戴き、酒を請けた。
そしてようやく九分ほど飲み及んだ時、信長公ご覧になり

「あれを見よ人々、何ほど詰まりても、酒は自由なる物にて飲めるものだ。餅や飯などは、詰まった時は
どうあっても食せない。私は饗宴の亭主役をつとめて、飲ませることが面白いのだ。」
そう仰せになると、座中一同、どっと興じた。

かくして夜も、はや東が白んでくると、信長公は簾中へ下がられた。これを見て、諸侍は、
我先にと帰っていった。


光秀は宿所に帰ってつらつらと考えた
「助かった。危うき命を保つことが出来た。諸侍数多ある中に、私一人がこのような目に合わされること、
今回も含めて三度目である。これは普段から、私を殺そうと折を待っているのではないだろうか。
酒というものは、必ず心底を打ち明けるものであれば、あのようにされたのだろう。
『思う内に有れば色外にあらはるる』という言葉はまさにこれだ。重ねてよくよく心得ておくべきだ。」

この事があってから、光秀は事(謀反)を思い立たれたと言われる。

(室町殿物語)



840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:16:14.65 ID:/JL74bm0
さすがに嘘だろ

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:24:54.58 ID:Y0JDf8tv
>>840
室町殿物語の元になった「室町殿日記」は慶長二年から慶長七年の間には成立したと考えられていて、なおかつ文禄五年ころに成立したとされる
「義殘後覺」にもほぼ同じ内容の話が収録されているので、事実かどうかはともかく、秀吉の時代に、光秀の謀反の理由についてこういう話が
語られていたのは確実だと思う。

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 01:30:16.23 ID:zxEYpi3D
年次はいつなのか 3回目というが1回目と2回目は何があったのか

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/10(水) 04:14:55.06 ID:oaAsJqRE
「是非もなし」

やっぱアイツ怒ってたのか
( ´•ω•` )

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:55:15.98 ID:LRQ0nIoS
>>841
思い付くのは2つあると思うんだ

そんなに極端に本能寺から経ってないこの時代でも
光秀謀叛の理由は良く分かってなくて話の種になってたんだなってことと

なんかもう面白くする方向に走っちゃってるんじゃないかということ

今宵、なんとも心得ざる夢を見たため

2019年04月09日 12:23

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 07:59:58.78 ID:aTiipaij
ある時織田信長公は不思議の夢を見て、心もとなく思い「誰かこの夢を判じてくれないものか」と
かれこれ案じわずらっていたが。急に思いついて、乗慶僧都を召され、仰せに成った

「ちと御坊に考えて頂きたいことが有って、このように招いたのだ。」

「承ってみましょう。どのような事でしょうか」

すると信長
「今宵、なんとも心得ざる夢を見たため、御坊の判断を聞きたいのだ。その内容を具体的に言うと、
広々とした山野に、私は唯一人躍り出て、東から西へと向っているようだったが、道の中ほどと
思しき所に、その向こうに半反(約5.5メートル)ほどと見える大河が有った。それは岸打つ波荒く、
水面の様子も凄まじく、どうやってこれを渡ろうかと立ちすくんでいた所に、この河の水が俄に
紅血に変じ、生臭いことこの上なかった。

そのような中、三尺ほどに見える剣が流れてきた。夢心にこれを取ろうと思ったが、たやすく取れず、
どうするべきかと色々考えていた所、そのまま汗して夢が覚めた。
この夢は一体どう言うことなのか、心もとない。」

そう仰せに成ったのを僧都は聞かれて
「これは誠にめでたき御夢です。近きうちに、河内(河血とかける)の国が手に入るでしょう。
また、その剣は、則ち敵の魂であり、その精魂が抜け出て水に流れ失せる、という御告げでしょう。」

そう判じた所、信長公は大いに感じ入り、御手をちょうと打って
「さてさて目出度く判じられたものかな。そういう事であれば、年来の本意を達するための不安や心配が
消滅した!」そう喜び、「それそれ」と宣うと、当座の引き出物として料足五貫文、白布弐端を賜った。
僧都は「ありがたし」と拝領し、御前を立たれた。

(室町殿物語)



779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/09(火) 11:59:53.32 ID:+CA7OqT0
ニンジャの仕業ですね間違いない

782 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/09(火) 20:40:54.30 ID:OrWwEnk8
>>778
人の夢と書いて儚い…何か物悲しいわね…。

禁中は信長の時から興隆した

2019年04月05日 16:42

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/04(木) 19:45:06.04 ID:/rqPzBC8
信長の時代の禁中が微々なりしことは、近郊の民屋と異ならず。築地などは無く、竹の垣に茨などを
結い付けた有様であった。老人(江村専斎)が児童の時は遊びに行って、縁で土などをこね、破れた
簾をちょうど開けて見れば、人もいない様子であった。

信長が知行などを付けられて、造営など寄進があった故に、少し禁中の居做は良くなったのである。
これによって信長を御崇敬なされて、高官にも進められた。

禁中は信長の時から興隆したといえども、太閤の時代の初めまでは未だ微々たるものであった。近衛
殿(近衛前久か)のところで歌の会などがあると、三方の台の色はあくまで黒く、ころころとする赤
小豆餅を乗せて出されたのであった。しかしながら、歌は今時の人に10倍した。

――『老人雑話』



この時に及んで富士山が私の山となり

2019年03月02日 09:27

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/01(金) 21:43:00.97 ID:AJJackbD
(甲州征伐後)

将軍(織田信長)は年来、富士山御見物の望みがあった。この山は天竺・震旦・扶桑三国に無双
の名山なり。

「この時に及んで富士山が私の山となり、これを見たことで大望が叶った」と、将軍は快喜する
こと斜めならず(於是成吾山見之、達大望、快喜不斜)。

そうして、遠州と参州の主・徳川三河守家康の館があってそこに滞留となり、御父子で伴って御
馬を納めなされたのであった。

――『天正記(惟任退治記)』


信長信託

2019年03月02日 09:27

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 09:10:48.38 ID:MUrTNxKn
信長信託


足利義昭を擁して上洛した織田信長は、皇室の窮状を憂い、元亀2年(19711571年)に財政支援を行うこととした。

そのために洛中洛外の全田畑に税を課し、米を徴収したが、信長はそれをそのまま皇室に献上するのではなく、いったん町衆に預託し、町衆が運用した成果である「利米」を献上することとした。

こうすることによって、皇室は継続的に利米を得ることができ、安定的な財政基盤とすることができるため、信長はあえてこの形をとったといわれる。

信託制度は受託者に対する信頼がベースになるが、委託者である信長を裏切ればどうなるかは自明であったので、その点では信託に必要な要素がうまく揃っていたといえる信長の構想であった。
信長がおこなったこの政策は「信長信託」とも呼ばれる。

余談であるが、日本における信託の活用のさらに古い事例としては綜芸種智院の設立・運営が挙げられる。


新井誠「信託法」ほか



702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/02(土) 19:03:23.25 ID:RKcGEcQw
利米が安定的?

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/03(日) 19:29:16.79 ID:d3zIT82y
>>702
強制的に貸し付けて利子を取るっていうやり方。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 08:35:01.82 ID:fv/Rq9Yr
>>703
なるほど