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江州の滑者共さこそあらめ

2018年11月14日 19:13

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:37:54.35 ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 12:42:34.27 ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか
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早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ

2018年11月14日 19:12

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:39:43.95 ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』



442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 14:51:12.18 ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 04:05:32.41 ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か

春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様

2018年11月13日 21:16

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:04:49.28 ID:L+t9VgNU
織田上総介信長はこの度足利義昭を守護して近江より切り上り、三好・松永などの逆徒を誅伐して足利家
再興の功を成就し、中国へ旗を立て将軍家を堅く抱えて四海を令すれば、斉の桓公や晋の文公のような

覇業も瞬息のうちに定まるであろうと喜び勇み、その旨早く近国へ触れ渡されると美濃・尾張・伊勢3国
は言うまでもなく近国の諸軍勢は我劣らじと、美濃岐阜城下へ馳せ集まる者は雲霞の如し。

信長は近江一円の地図をもって軍議を凝らして、永禄11年(1568)9月7日、5ヶ国の大軍を引き
連れて早く出陣すべしと、まずは義昭の旅館・立政寺に参上して細川藤孝をもって申し上げられ、

「5ヶ国の大軍は早くも参着しました。よって速やかに上洛を急ぐべきといえど、近江の佐々木六角承禎
父子は内々に三好・松永などの逆徒と志を通じ、伊勢国司・北畠の加勢を受けてこの度の主君御上洛の

御道を遮らんとすると聞きます。まず承禎父子を誅し、彼らの首を刎ねて軍神を祭り、その後に御迎えを
奉りましょう」と御伝えすると、義昭も対面されて世にも嬉し気に「当家再興の事をひとえに頼み参らす」
と礼を厚くへりくだって仰せになれば、信長も「畏まり候」と返答なさって退出された。

(中略)

都合4万余騎と聞こえる織田勢は先陣がすでに近江平尾辺りに至るも、後陣は未だ美濃垂井・赤坂辺りで
遮られるほどの数だった。信長は先祖・平相国清盛より相伝の蝶1羽を染め出した赤旗と、この度義昭

より賜った桐紋・二引両紋の旗、斯波武衛家より伝えられた瓜紋の旗、また織田殿の馬前には黄絹1幅に
永楽通宝の銭を墨で描いた1流の旗、また妙法蓮華経と題目を書いた馬印9本を立てて、この日は

平尾村に着陣された。8日には近江南宮山に滞留されて人馬の息を休めなさった。茫々たる平原に色々な
旌旗が翻っている有様は、春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様に異ならず。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 22:42:11.03 ID:E/F+EuE0
桓公に文公とはまるで漢書のような

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


手ひどき合戦には不合と見へたり

2018年11月08日 18:23

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 17:41:29.66 ID:Y2HvOdmo
ある時、織田信長の前に武者修行をしているという武功の者がまみえた。
彼は冑に白熊の引き回しを付けて、冑立てに立てさせ、後ろに持たせて出た。

信長はこれを見て「彼はいままで手ひどい合戦には出会わなかったらしい。気に入らない。」
(彼はつひに手ひどき合戦には不合と見へたり。心にくからず。)
と言った。

これは白熊の引き回しなどと言うものは、それを損ねずに戦をするなどありえないためだという。

(士談)

関連
白熊の引きまわしなどでは、



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 18:07:11.78 ID:/DFHlKKj
おお。読んだことあると思ったら違うソースだった
いい悪いブログ10501 (まとめサイトのURL貼るとエラー出る)

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:17:44.62 ID:1gkzLAvN
>>414
信長公へのお目通りという事で気合入れて新調しただけかも知れないのに…
まぁ、何となく信長ってこういうの嫌いそうなのも判る
でも傷だらけの甲冑で来たらそれはそれで主張がワザとくさくて信用ならないとかも言いそう

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:34:15.44 ID:0WodYPFi
白熊ってホッキョクグマじゃなくてヤクのことなんだな

御父 織田弾正忠殿

2018年11月07日 19:38

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 04:36:39.32 ID:yJTjxHUj
足利義昭将軍宣下の時)

信長が帰国の暇を申し上げられると、義昭は不日に逆徒を退治し将軍家を再興した御感激のあまりに3通の
御内書を賜った。そのうち一通は信長を左兵衛督にと仰せ出されたものだったが信長はこれも辞退された。

その他には、

 今度国々の凶徒らを日を経ず時を移さずして退治せしめたのは武勇天下第一なり。当家再興の大忠として
 これ以上のものはない。ますます国家の安治をひとえに頼み入り候。この他に頼み入る他事はなし。なお
 子細は藤孝(細川藤孝)と惟政(和田惟政)が申すものである。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

また1通には、

 今度の大忠により桐紋と引両筋の紋を遣わし候。武功の力を受けることだろう。祝儀である。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

信長は大いに面目を施され、ただちに暇を賜り25日に京を発って、28日に美濃岐阜城へ帰陣され諸軍勢
に銘々賞禄を施して帰国せしめられた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』


信長が少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬこと

2018年10月14日 18:15

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 19:46:33.21 ID:+oppITPP
日本人の清潔を好むことは想像が出来ないほどで、特に家および常に座する畳の清潔なことは、
最も忠実な聖器所預かり人の保った祭壇の清潔さに比べることができる。私はビジタドールのパードレと共に
織田信長、及び内裏の邸に行ったが、新しい靴でなければ入ることが出来ず、広間を通る時には、
暗黒の祝日の墓所の階段を登る時のようで、しかも一人が箒を持って塵を掃きつつ後ろから随って来た。
土間、及び縁側も清潔で、唾を吐くことが出来ず、ハンカチを用いなければならない。

台所には大きな鍋があり、沸騰していたにもかかわらず、水も灰もその他も、箒で掃いたように綺麗であり、
馬の居る厩もまた同様であった。

信長がその居室に落ちていた果物の皮を掃かなかった少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬことで、
非常に清潔に注意するため、少しの不潔も大いなる罪と成るのである。

広間、居室、聖堂等は皆畳を敷き、外で靴を脱がねば入ることが出来ない。
庭(niuas)すなわち庭園は常に清潔で、箒を以て掃き、特別の位置に据えたものの他、一草一石も無く、
果樹を喜ばず緑と陰を珍重する。

(1586年1月6日付、パードレ・ロレンソ・メシヤ書簡)

ちょっとまて信長果物の皮掃き忘れた女の子斬ったんかい。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 20:57:51.28 ID:z69OWUY6
信長って自分の爪を小姓たちに切らせたときに1つ隠して、あとでわざと落としたことあるよね

中国の逸話が元ネタだけど

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/13(土) 21:22:11.58 ID:dQRjJYkR
内裏の邸って安土城を指すのかな?

織田信長公は信を堅く守る人物であった。しかしそれ故に

2018年09月21日 10:00

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/20(木) 22:38:34.64 ID:myQ+WRsY
織田信長公ご自身は、金石をも欺くほど、信を堅く守る人物であった。
しかしそれ故に、人の非を以ての外に悪まれた。そして臣の職分に違う事があれば、
殊に記憶し忘れること無く、一旦はそれを宥しても、腹の中に籠め、多くの年月を経て
何人かは流罪に処せられた。

一善を賞する時は衆も善を励み、一悪を罰する時は衆は自らの悪を恐れる。況やその類悪であれば
なおさらである。これを以て惟任日向守(明智光秀)は、己がこれまでした事を顧みて、
非義が累積していると感じた。しかし

「それを弁解した所で宥してはもらえないだろう、今はそのような色が見えなくても、今後必ず
戒められるだろう。」

そう思い究め、却って逆寄せして弑したのだ。

自分は忠を尽くしても、人が己に忠を尽くすことを欲するべきではない、という言葉があるが、
これが至当であろう。上下共に旧怨というものは、義を優先して捨てるべきなのだ。

(甫庵信長記)

信長が、自分と同じ倫理基準を家臣にも求めたために結果として裏切られ殺された、という批評。



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/20(木) 23:22:50.07 ID:FJ0UgTgQ
>>186
突然過去のやらかしを理由に追放されたのが林秀貞だけじゃなかったならなおのこと光秀じゃなくても誰かに討たれそうだな

今川の ながれの末も絶えはてて

2018年09月16日 17:27

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/16(日) 14:19:10.26 ID:BFVsBUOo
天正10年の甲州征伐を終えた織田信長は富士遊覧の後駿河へと回り、駿府に到着すると
そこでは徳川家康が假屋を宜しく立ち置き、一献を進められた。

その頃は卯月の十日あまりであったが、今川義元が植えさせたという千本の桜も、花はすっかり
散り去っており、信長は「植え置きし主の栄えも、このようになってしまったな。」とつぶやき、
続けて思い浮かんだ一首を詠んだ

『今川の ながれの末も絶えはてて 千本の桜ちりすぎにけり』

(甫庵信長記)

ここから信長の「桜」が散るまで、4ヶ月あまりであった



信長は彼が陪臣であるにもかかわらず

2018年09月15日 19:05

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/15(土) 13:14:52.04 ID:134JHZze
天正9年3月26日、若狭の逸見駿河守(昌経)が病死した。彼の所領は八千石であったが、
相続すべき実子が居なかったため、織田信長の命により、そのうち三千石は武田孫八郎(元明)へ、
残りの五千石は溝口竹(秀勝)に与えられた。この溝口は後に受領して、伯耆守と名乗ったが、
彼は惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)が幼少の頃より取り立てた者で、普段より正意誠心にして
武道を心がけ、何事にも心を尽くす人物であったため、信長は彼が陪臣であるにもかかわらず、
五千石を与えたのである。

このように信長は、陪臣であってもそういった人物であるなら賞禄を与えたため、彼の配下は
上下の区別なく功に励むこと、日々新にして、日々に新に、また日々に新たなりとも申すような
雰囲気であった。

(甫庵信長記)

直接の部下でなくてもきっちり評価してくれる信長公であった。


汝の不明は私の不明

2018年09月14日 10:36

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 22:27:15.75 ID:pFVibWI+
ある時、織田信長の元へ、村井長門守(貞勝)が、鏡屋宗白という者を召し連れ、
彼は手鏡を信長に献上し、御礼申し上げた。

信長はこれを取り上げて眺め
「非常に明白な鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡であればなあ。
世の癖として、諸侯大夫、寵臣たちの為したことは、良いことも悪いことも、
人は皆極端に語るために、却って心を暗ませるという事が、日々月々に悪化している。
しかし行いの悪さを諌めるという事はしない。
そういう事に左右されない諫臣を求め得なければ、政道の実態を聞くことは出来ないのだ…」

などと物思いにふけりながら、ふと鏡の裏を見るとそこには『天下一』と銘があった。
これを見て信長たたちまち気色が変わった

「去る春、どこかの鏡屋が献上してきた鏡にも、裏に『天下一』と銘があった!
『天下一』はただ一人であってこその、一號にてあるべきなのに、二人あるというのは
猥りというものではないか!
これ偏に長門守、お前の不明より起こったことだ。そして汝の不明は私の不明なのだぞ!」

そう、殊の外悔やむ様子であった。

(甫庵信長記)


腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり

2018年09月11日 17:17

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 21:40:00.05 ID:kgqM6l2n
織田信長が有る時。安土城の御物預かりの者を召して、

「(信長の御物である)武具小袖、錦糸扇子等を、価値の高い順に千種広間に並べ置くように。
楠(信長の右筆である楠木正虎か)は給人帳(信長が禄を与えた者を記録したもの)を持ってくるように」

と命じた。
翌日、「その事調い候」と申し上げると、信長は給人帳の上下を切って、真ん中の紙に
千種広間に置かれた御物を書かせた。それが終ると三つに別れた給人帳を再び元に戻し
これを開くと、そこには

『扇筒井順慶』『小袖十村田吉五』『馬正林坊』

という具合に、御物と給人の名前が並んだ状態になっていた。

これを見た信長は「こんな高下(ランク付け?)になったか!」と、お腹も背中も切れてしまうかと思うほど
大爆笑し、あまりに笑いすぎて呼吸が苦しくなり倒れて転がる有様であった。
(斯様に高下ある事よとて、腹も背も切るる計に笑ひつつ、息しもあへず臥轉び給ひけり)

万座も一入興に入り、笑いを含んだという。

(甫庵信長記)

御物の名前と家臣の名前をドッキングさせる遊びが信長のツボにはまって、呼吸困難になって
ヒーヒー言いながら転げ回るくらいに爆笑したらしい。ちなみに名前とドッキングした御物はその者に与えられたそうで。

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 06:08:45.23 ID:shsob15l
>>275
かわいいな
上司にしたい

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 13:11:12.76 ID:OkP/KYSh
>>275
何がそんなに面白かったのかわからんw

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 18:56:19.42 ID:bJM+QjnP
惟任日向(・・・今なら言上しても殴られないかな?)

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/11(火) 19:00:52.86 ID:ucgBqjD7
>>277
御物と大名小名たちの組み合わせのギャップでしょ

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:26:40.23 ID:7ozAjbvN
絶対周りも空気読んで愛想笑いしてる

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 00:56:06.11 ID:zs9vkfK6
ちゃんと物をくれるあたりがさすが信長

真実無妄の誠を以って

2018年08月28日 18:44

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 21:33:24.49 ID:FERgEUgq
天正7年(1579)11月3日、二条御新造の御所が完成し、織田信長は則ち四伝奏を以て奏聞あって、
皇太子誠仁親王へこれを奉った。
同じく22日に、式掌の御移徒(わたまし)があった。その後信長は参内したが、このとき親王に夥しい
捧げ物が贈られた。
かくして信長は妙覚寺において巻物、板の物二千端ばかり包みおき、近習外様の人々を召し寄せ、
それぞれに下された。

12月6日、山崎方積寺に至って御座を移されたが、俄に大雨があり両日逗留した所、八幡宮の木桶が
朽ちてしまったことを申し上げると、「唐金を以て鋳てまいれ」と、武田左吉、林甲兵衛に仰せ付けた。
また同所において片岡鵜左衛門尉が、周光香炉を所持していたのを召し上げ、対価として銀子一千両を
下した。

同17日、各方面において苦労をした諸侯大夫を慰るとして、天下一共の藝者を揃え、桟敷を作り、能を
仰せ付けた。そして桟敷桟敷へ四日の間、毎日食事として折二十合、柳五十荷づつ賄うようにと
京中に宛行わせ、その代金として黄金二百両を下した。そのほか見物の下々へも食事を配り、
寒飢を補った。
これぞ一河の箪醪(河に酒を流し兵士たちと分かち合う中国の故事)ではないか。

これは五逆罪の荒木村重に対し、幾程もなく御本意に達せられ天下静謐に帰した悦びの為であると言われた。
総じて信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
誠に今の世には稀なことである。

同じく20日、天下の仕置等仰せ付けられ安土に帰城したが、この時も京中に八千石、安土の町中に三百石、
酒を食べよと下された。

(甫庵信長記)

凄まじいほどに気前の良い天正7年の信長公であった




230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:16:21.53 ID:uouo1Z/w
>>229
>信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
宮本武蔵かな?
今じゃすっかり神仏に祈願するのが当たり前になっちゃったけどこのころはそうでもなかったのかな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:21:28.83 ID:FA447Pf0
苦しい時の神頼み

信長公、検校からの罰金で

2018年08月26日 18:14

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 22:11:53.36 ID:vdaAkkxv
摂津国兵庫の町人に、常見という、飽きるほど富み楽しむ者があったが、一生の間財産を減らさず
生きていく方法を考えた結果、検校の仲間に入り、その配下である座頭達からの配分を取れば、
そんな商売よりも効率的であると思い付き、すぐに良きように工作し、検校中へ本銭千貫を出して
その中に加わり、検校職と同じように、座頭からの配分の下りものを受け取った。

しかし配分を取られる側の座頭たちは、このように法度の濫用を行えば、果ては町人の過半が検校職を
持ってしまうようになると思ったものの、検校たちが一味して計ったこと故力及ばず、すでに数年、
その状況が変わらなかった。

そこで座頭たちはついに「織田信長公の正しき御制断を頂き、年来の愁眉を開き、先規のように
戻すべし」と衆向一同したため、信長に直訴を遂げた。

信長はこの訴えを聞き、暫く馬を止め内容を右筆に一々書記させ、
「申し状の如くならば不便の次第である。訴えどおりに計らうべきである。」
そう言って、直ぐに検校中へ問い合わせた
「云々の事聞こえあり、これは事実か?」
「左様候」

そこで信長は命じた
「法令を乱す事、悪行の内何がこれに過ぎるだろうか!されども盲目であるので斬刑まではしない。
検校の位をすべて剥奪する。今後再び、昇進のための功を励むように。」

これを村井長門守より申し付けられると、検校中は非義極々としたが弁解することも出来ず、
後悔してももはや及ばず、「御憐を垂れられて宥し置かれますように」と、五山僧侶を頼み
嘆き申し上げた

これに対し「ならば懈怠として黄金二千両出すべし」との事になり、検校中は畏まり、悦んでこれを出した。
すると信長は「ならば此れを以て宇治橋を掛けよ」と、宮内法印、山口甚介に命じて架橋させた。
翌年6月、橋は完成し、上下の往還安らかにしてその恩恵を楽しむ声、さらに洋々であった。

(甫庵信長記)

信長公、検校からの罰金で宇治橋を掛ける



221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:20:32.18 ID:dncSpBoR
>>220
ただの名君じゃねーか!

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:38:18.91 ID:Jwmeqw3a
やるなノブ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 21:29:24.28 ID:W3LlOJZ8
ノッブは日本改造論の初代だな

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:31:04.77 ID:KYawnVbX
ノブ君の野望

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:37:22.65 ID:Sse4I+gN
腐儒の甫庵著作出展だからこれは疑わしいゾ

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:58:29.01 ID:xKUTCWuX
検校の話はこれとほぼ同じ内容で牛一の信長公記にもあるぞ

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 13:11:04.51 ID:rhnB8gQ5
宇治橋ってすぐに壊れたの?

右府信長公は末世において稀なる大将

2018年08月22日 19:24

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 18:21:57.45 ID:LwZBVn2t
織田信長は若年より弓箭を業として長じ、今天下を平らげたが、戎夷猶属せざるもの多かった。
そのため昼夜天下一統の事業のため暇なく、士の賞罰、国の安否、おおよそそういった物ばかりで
心安らぐこともなかった。

しかし、多くの場合己の功に誇って、古き事などは嘲り要らぬことと思うのが世の常であるのに、
信長は古き政に心をかけられ、それを知る者には様々に尋ねた。これは絶えてしまったものを継ぎ、
廃れたものを興そうという心からであった。
中でも、右筆である二位法印(武井夕庵)には特に尋ねること多く、夕庵も事に触れて信長を諌めた。

或る時、夕庵が申し上げた
「朝廷の節会が久しく廃絶して、中老以下の者では礼楽の事名も知らず、勿論見聞など夢にも
経験がなく、哀れにもその様になって十年あまりも過ぎたため、我が朝の礼楽は跡形もない
有様です。
国家を治めるには礼楽の正しきを以てする事、和漢の流例であり、哀れにも浅ましいことです。」

こうしめやかに語った所、信長がそれを痛ましく思う表情は、涙もさらに咽び顔であった。
上下万民を一子として天下を慰撫したいと二六時中励んでいるその耳に、どうしてその言葉が留まらない
事があるだろうか

「直ぐにお前たちで対策を計るように。そういった事は誰に問えば良いのか?」

「何と言っても、禁中伺候の老者たちでしょう。」

そこで誰彼と人の薦めるにまかせて問いただし「先ず何から初めて興行すべきか」と
詳細を求め、菅屋久右衛門尉(長頼)、武井夕庵を以て夫々改めた。
節会、あるいは謡物などにおいて、中老以下の諸卿殿上人も、まるで今はじめて稽古するようで、
大変趣深かった。

このようであったので、貴賤おしなべて、この右府信長公は末世において稀なる大将であると
誰言うと無く諷した。

(甫庵信長記)

古を尊び旧来のものを復興する事に熱心な信長



201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 19:22:27.49 ID:EP5h4uYx
>>200
意外と皇室を大事にしてるんだよね~。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 20:46:30.27 ID:hlLUN9am
朝廷・公家に対してラディカルにめちゃくちゃやらかすのは秀吉のほうがよほどひどいのに、
なぜかそのイメージが信長についちゃっているんだよなぁ。

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:15:31.40 ID:Hw58TqZF
まるで儒者だな
国学者の書いた創作の文ではないか?

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:42:27.63 ID:CBq0+MkX
朝廷にこまめに献金してた=皇室の権威を重んじていた大名って、毛利家と織田家ぐらいしかわからん。
朝廷が間に入れば両家の和睦ができたんじゃねえかと思う。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 23:32:48.70 ID:3GVdf7rN
信長以前は大内が莫大な献金してた

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 07:46:09.66 ID:0Yr8qeZS
信長のは親父譲り

各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に

2018年08月21日 19:43

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 14:29:17.07 ID:UbRWxlbF
去る程に、天下泰平に治まり行くによって、大名小名は尽く安土に集まり、織田信長に対し
歳暮の御礼を申し上げた。棒物(歳暮の御礼の贈り物)の類の夥しさは、限りもないほどであった。

明ければ天正6年正月の早旦、信長より諸侯大夫へ御茶を下されると兼ねて仰せが有ったため、
寅の刻(朝4時頃)より登城された。その面々は、まず三位中将信忠卿、羽柴筑前守秀吉、
二位法印(武井夕庵)、長岡兵部太夫(細川藤孝)、林佐渡守(秀貞)、長谷川丹波守(与次?)
惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)、滝川左近将監(一益)荒木摂津守(村重)、市橋九左衛門尉、
長谷川入道宗仁、以上11名であった。

お座敷の構は、六畳敷に四尺の縁、床には彼岸の絵、中に万歳大海、右に松島、左に三日月。
花の水差し、周光茶碗、うば口の釜、竹筒の花入れといったものであった。

信長は自身で迎えに出られ、座敷へ招き入れた。そして手づから配膳された。
この座の衆の中には後に、あまりの事に何を食べても、一切物の味の記憶が無いと言った人もいたとか。

御茶過ぎて、その日出仕した者達へは、諸大夫までは三献の土器(かわらけ)を、福富平左衛門尉、
矢部善七郎、大津伝十郎、大塚又一郎らの御酌にて下された。
平侍以下にはお通り(お通し)が出された。

翌日、大名小名尽く召されて「殿守見参らせよ」と、名物の茶器をかれこれと御見せになり、
南蛮、大明、珍奇の茶の子、数を尽くして下され、その後こう言われた

「各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に、この山が成就した事は、誠に珍重余りある。」

そう再三に仰せに成ったため、諸侯大夫は皆、感動に首を地に付け御返事を申し上げる者も無かった。

同じく4日に、信長より信忠へ贈られた数寄道具が、万見仙千代(重元)の所で御開きになったが、
羽柴秀吉、武井夕庵、宮内法印(松井友閑)、林秀貞、滝川一益、長谷川与次、市橋九郎左衛門尉、
丹羽長秀、長谷川宗仁、以上9人を召されて、終日丁寧のおもてなし、誠に善尽くし美を尽くされた。

(甫庵信長記)

この時は「お前たちが頑張ってくれたおかげだ!」って言ってるのに、何故甲斐征伐の時「我々も頑張ったかいがありました」
って言った光秀はあんな目に…



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:03:49.56 ID:hEIi7MKj
信長は躁鬱の気がありそう、自分のメンタル具合によって似たような場面でも処置がまちまち

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:05:49.13 ID:CBpikV1D
>>190
仕事を頼まれる時と、仕事をこなした後で
上司の腰の低さが変わるのはブラックあるある。

上司『工程ミスったんで、しばらくサビ残よろしく』
部下達『…』
上司『俺のミスだから晩飯奢るし…取敢ずやって』
後日
部下達『やっと終わったけど、上のミスでサビ残とかきついよねw』
上司『会社批判か?こ○すぞ!?』

193 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/21(火) 15:50:12.38 ID:bCT5bmSJ
飯食ってるなら仕方ないね

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:17:12.20 ID:jZ5eq/tb
小姓たちじゃなくて福富や矢部たち奉行らが酌をして廻るのか

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:29:32.93 ID:CLHFQZxu
滝川が地方に飛ばされると茶会ができなくなると嘆く気持ちがこれでわかった

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:20:47.49 ID:AAf+nT0O
>>190
光秀は対武田において何か貢献してたか?
おべっか使うような家臣は折檻されて当然だろ

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:56:14.23 ID:PXuG0xCs
おべっか?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 13:43:03.41 ID:JOs6uGd/
ノブは新興成り上がりベンチャーの神経質社長やからな
そういう人物にありがちなステレオタイプの性格だったんだろう

仕事ができても人間性終わってるやつは今も昔もごまんといる

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 14:58:18.12 ID:L+C5gw+1
忠興さんとか鬼武蔵さんとか・・・

【話題】織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光

2018年07月18日 17:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 17:16:20.74 ID:HBQe+2EB
https://newsphere.jp/culture/20180714-1/
織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 ハリウッド映画化も


映画化か、面白そうだけど、まさか白人がノブ役するんじゃないだろな



82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/17(火) 20:53:55.29 ID:pQPinb+R
欧米からすると衆道はどうなのかな??ウィーン少年合唱団みたいなもんか…

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 22:45:35.41 ID:H5KjFGzu
古代ギリシャから中世修道院にいたるまでやってることだから違和感ないんじゃない

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 23:37:05.03 ID:IibntZeN
弥助とホモだちだったの?
特に関係なきゃスルーでしょ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:24:12.40 ID:uXyvS12w
キリスト教宣教師からは強く非難されたらしいけど。 主に、大内義隆が。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:40:54.03 ID:0wRJjWz4
どうしてすぐ衆道と結びつけたがるのか

息子が分別無く深入りしたのだ

2018年05月04日 14:26

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 22:44:30.19 ID:02WQirZy
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀して申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:11:21.12 ID:vUy0oAOP
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:20:37.16 ID:Z/z82csV
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 10:39:43.81 ID:FnXiDPmu
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態

日本の歴史を大きく変えた偽メール事件

2018年05月01日 21:09

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 00:20:36.62 ID:QiEhFTVJ
桶狭間の戦いの直前、三人の武将が無念の死を迎えた。
二人は鳴海城主山口教継と桜中村城主山口教吉の親子、一人は戸部城主戸部新左衛門である。
三人の城は織田と今川の勢力が衝突する最前線に位置しており、しかも一里以内に集中していた。
どちらがどちらを攻めるにも、ここを落とさねば話にならぬという要衝であった。

この三人、織田信秀の代までは織田家の忠勇なる武将であった。
ところが信長とかいう、うつけの若造に愛想をつかして今川方へ寝返ってしまったのである。
これが今川義元に尾張侵攻を決断させた一因とも言われている。

当時の信長の力量ではこの三人を倒すことは到底不可能。
そこで祐筆に猛練習を命じ、三人の筆跡を真似た偽の書状を作成する。
「信長くんへ、やっぱり義元を裏切って君んとこ戻るわ」
これを商人に変装させた森可成に持たせ、今川方へ持ち込ませた。
さても今川義元、この偽書状を信じ込み三人を呼び出した上まともに調べもせず処刑してしまった。

この事件が無ければ今川義元は悠々楽々と尾張を併呑した事であったろう。
信長は良くて臣従、悪ければ織田家ごと滅んでいただろう。
日本の歴史を大きく変えた偽メール事件である。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 04:51:08.74 ID:QiEhFTVJ
さて、織田家を裏切った挙句に謀殺された山口教継・教吉親子ですが、家臣に成田弥六・助四郎という武将を抱えていました。
彼らもまた、大声出せば聞こえるほど御近所にある鳥栖城の城主でした。(この地域は徒歩一時間で六つの城を回りきれるくらいの城密集地帯でした)
成田氏は赤塚の合戦で山口氏に従って織田勢と戦ったのですが、その後は山口親子を裏切って織田方についています。

この結果、主家を裏切った山口氏の城と、主家を裏切った主家を更に裏切った成田氏の城の間が織田勢力と今川勢力の境界線となりました。
ちなみに山口氏の桜中村城と、成田氏の鳥栖城は200メートルほどしか離れていません。
尾張者のフレキシブルな生き方は、お隣の頑固な三河者と見事な対比をなしていますね。

されどこの成田氏、その後の行跡はあまり残っておりませんが敢えて挙げるならば、
子孫で尾張藩士だった成田甚右衛門がある日突然「平和が好き!戦は嫌い!」と刀を折って帰農したことくらいでしょうか。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 20:54:47.50 ID:uxusBUfH
>>700
三河者=頑固も後から作られた物語でしかなくて、家康がガチっとまとめるまでは誰もが転身しまくりなんですけどね

信長と云う者だ。

2018年04月27日 21:34

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 22:26:16.06 ID:Yot5dwqf
豊臣秀吉の小田原征伐の頃、尾張清州城の城代は植原加賀守という人であった。
彼は元々甲州からの巡礼であったが、織田信長が鷹狩をしていた折、六角堂にて
この巡礼の姿を見て、尋ねた

「汝はどこから来た者だ?」
「甲州者です。」

すると信長は聞いた
武田勝頼はうつけ者であり、悪しき法度の運用をしているというが?」
巡礼は答えた
「その事であります。彼は人を釜で炒り殺し、臼にて突き殺すなどしています。」

信長は呆れた
「それは勝頼が食うつもりなのか?勝頼は小気なる故にそういう事をするのだ。天下の望みは
成らないであろう。汝は奉公をする気はないのか?」

「それよりも、あなたは一体何者なのですか?」

「信長と云う者だ。」

巡礼はひれ伏し「何であっても奉公仕りたく思います!」

そこで信長はこの巡礼を即座に召し抱えると、彼を召し連れ、程なく御手のかかった
女房を下され、清須の城代としたのである。

(祖父物語)



814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 02:26:57.60 ID:ORHXMRvf
嘘くさい

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 07:46:22.58 ID:2ugiwSuW
>>814
永録10年11月の信長の朱印条によれば美濃で20貫の地行を貰ってるみたいだね
本当は勝頼じゃなくて信玄なんじゃないかな
埴原の出身である埴原谷てのが信濃(!)のどこにあるのか知らないけど、信濃では信玄の評判が良くない所もあったわけでしょう
又聞きの間に色々と入れ替わっていそうな気がする

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 08:31:36.59 ID:z6z/Bm5p
>>815
信玄と言うか武田の評判って甲斐以外だと酷いもんだからなぁ
特に信濃と上野

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 09:59:15.65 ID:+HCTm/8h
信濃は場所によるが

818 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 18:11:01.95 ID:LH5poK+P
信濃は北が武田アンチで南が武田贔屓と聞いた