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「続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗

2023年03月01日 19:46

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 21:16:51.50 ID:rNDNB3Wk
続武家閑談」から姉川の合戦と太郎作正宗

江北姉川で大御所様ならびに信長公が勝利された。
信長がおっしゃるには
「家康家中のものはよく合戦するとは常々聞いていたけれども、今眼前で見るに愛すべき者どもの働きであった。
家康の者どもが、こうも薄くのびて敵について離れないことを知らなかったぞ」
とお戯れになられたそうだ。
大御所様、御家中衆の誉となった。
この合戦の時、太郎作(水野正重)の刀がよく切れ、兜の鉢を切り割り、歯まで切り付けたという。
この刀は水野下野殿(水野忠政?)からたまわった、かくれなき名刀であったという。
大御所様もよくご存知であり、その刀には様々な不思議のことがあったという。
(このあとは有名な浅井長政ら三人の髑髏の話)

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/28(火) 21:29:21.32 ID:rNDNB3Wk
というわけで>>682
藤六の刀は太郎作の兜を割れなかったが、太郎作の刀は割れたようだ。

なお昭和18年刊行の「日本刀と無敵魂」には
「前田侯爵家の家宝太郎正宗は正宗中の傑作であるのみでなく、其の歴史は此の名刀に一段の光輝を添へるものである。
此の刀は磨上無銘で、長さは二尺一寸二分、切先から八寸五分程下所のに、小さき刃こぼれがある。
又切先から五寸二分程下の所に、矢目といって矢の当たった四角な小さな穴がある。
(>>683の話)刃こぼれは此の時の功名傷である。
清久(太郎作)も正宗の切れ味が余りによいので、自分ながら驚いて家康に話すと、
家康「それは下野守が常々自慢していた刀であろう」といって、自ら手にとり見て、「此は正しく五郎入道である、大切に所持されよ」と云はれた。
此刀後に徳川二代将軍秀忠に入り、三代家光に伝はり、家康の養女が加州四代藩主前田光高に嫁した時、光高へ贈られ以来前田家の家宝の一となった。」
と書かれている。現在国宝指定。



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現代、織田信長は天下に意見するほどであるが

2023年02月27日 19:31

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/26(日) 20:07:30.52 ID:X2ZD+Z14
ある時、穴山(信君)殿が馬場美濃守(信春)に尋ねられた
「現代、織田信長は天下に意見するほどであるが、聞き及んで人の手本に用いるような軍法が一つも無い。
これは一体どういうことだろうか。」

馬場美濃、答えて曰く
「信長の敵は、美濃衆相手に七年にわたって手間取ったばかりで、残りは皆、信長に怯える人々です。
故に軍法も必要ありません。その上、信玄公は長尾輝虎との戦いの中で、おおかた世間で考えられるほどの
手立て、はかりごとを成しました。そのため他国の弓矢は御当家においては、さほど面白く思えないのです。

殊更、信長も当年三十八歳、天下においても三好殿を押し退け、都の事をまことに自身で意見するように
なったのは、去年七月からのことです。軍法というものも、大敵、強敵に遭遇しての行いです。
信長は国を隔て、信玄、輝虎とは終に武辺の参会が無く、そのような中に現在では、信長は嫡子の
城之介(信忠)殿を、信玄公の聟にとある、武田の縁辺となっています。そう言ったわけで、信長は
手立てすべき敵はさほどありません。

十二年前、今川義元との合戦(桶狭間の戦い)の時は、信長は二十七歳で無類の手柄を成しました。
その頃、信長は小身であり若く、大敵に対し様々なはかりごとを行って、勝利を得られました。

はかりごと、手立ての軍法が無い弓矢(合戦)は、例えば下手が集まって催す能を見物するようなものです。
しそこなわないかと思い、見ながら危なく感じます。

信長の弓矢というものも、美濃国と七年の間取り合いをしたことで、武功の分別が定まりました。
信玄公の弓矢は、村上(義清)殿との取り合いにて、武功の分別を定められました。当時、村上殿は
信州の内四郡、越後一郡ほどの、合計五郡を領していましたが、広き国なる故に、甲州と比較して一国半ほども
ある勢力でした。その上強敵でもありました。

また、徳川家康はこの頃の日本において、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長の四大将に続いて
名を呼ぶほどの大将である十三人の中でも、殆どの者が家康の名を一番に上げる程であり、今年か明年の間には、
この家康と一戦せざるをえないでしょう。そうなった時は信長も、後を考えて、現在でこそ当家の縁辺として
無事であると雖も、家康に対して加勢を行うでしょう。その時は両家を相手になさって信玄公は合戦を遂げられ、
都まで誉れを上げねばなりませんから、これには猶以て軍法を必要とするところです。」

そう、馬場美濃は穴山殿に申し聞かせた。

甲陽軍鑑



信長の弓矢が締まっているとは

2023年01月25日 19:25

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/24(火) 21:32:04.96 ID:bZTeiPzH
午の年(元亀元年)の極月に武田信玄公は、馬場美濃、内藤修理、山縣三郎兵衛、高坂弾正、
小山田兵衛尉、原隼人助、跡部大炊介の七人を召して、弾正にこのように仰せになった。

「信長の使いである織田掃部(忠寛)は、家康の人質(松平康俊)が甲府から逃亡した事について
どのように申していたか。」

高坂承り
「掃部が申すことによると、

『信長がこれを聞けば、家康も届かないことだと考えるでしょうが、定めてこれは家康も知らない事でしょう。
源三郎(松平康俊)が不覚悟であったために、そのような事態になったのだと推量いたします。
ですので、やがて又、定めて別の人質を、家康より武田に進上するでしょうし、そうしなかったとしても、
信長は信玄公に御無沙汰申し上げるような事は少しも有りませんので、以後は信長からも、
舎弟なりとも子息なりとも、進上致されるでしょう。』

このように、いかにも異議無きように、織田掃部は請け合いました。」

信玄公はこれを聞かれ
「信長は去年近江坂本において朝倉義景と対陣し(志賀の陣)、又は当年七月より天下を支配仕るにつき、
我々としては信長家中の者を深く取りなし、弓矢の義を能々問わなければ、弾正に対して本音を申すような
事は無いだろう。隼人、大炊介に対しても申さないだろう。偶々であっても、各々の被官共に語ったような
事はなかったか?」

高坂も隼人、大炊介いずれも「承らず候。総じて信長の使いに限らず、どこからの使者衆も、当方に参って
武者雑談などは終にいたしません。」と申し上げた所、馬場美濃がこのように申した

「尾州犬山の城主であった津田下野守(織田信清)は、信長の姉婿でしたが、信長に負けて追い出され、
諸国を牢々いたし、三年前より東国へ参り、御舎弟の一条右衛門太夫(信龍)殿のはなしの衆に成り、
犬山哲斎と称しております。この人の語った所によると、信長は武辺形義について、父弾正忠(信秀)を
少しも真似ず、舅であった斎藤山城守(道三)の、弓矢形義を仕ると。そしてそそけた(乱れてだらしがない)
ように見えても、実際は殊の外締めた働きをしている、そのように沙汰致しました。」

信玄公は仰せになった
「信長の父・弾正忠は尾張を半分も治めることが出来ず、小身故に今川義元の旗下となり駿府に出仕した。
斎藤山城は、殊に我らを頼まれていた土岐(頼芸)殿牢々の後、美濃一国の主となり、越前の方まで掠め、
山城の嫡子・義龍の代には越前より朝倉常住坊と申す従弟坊主を美濃へ人質に取るほどであり、斎藤の弓矢を
弾正忠と比べると、はるかにその弓矢の位は上である。信長が斎藤山城の弓矢の家風を取り入れたのは尤もである。

しかも、山城の孫である龍興を信長は押し散らし、美濃侍を数多抱えたのであるから、父弾正の代には小家中
である故に、侍はどうしても大きな家中の家風を真似るものであり、おのずから信長衆も大体の事は、
斎藤山城のやっていたように致すのだ。それは意図的に真似ようとしなくても、例えば浄土寺へ行けば、
自然と念仏を申したく成る心が湧くのと同じ事である。」

また信玄公は馬場美濃に問われた
「信長の弓矢が締まっているとは、どういった事を根拠に犬山哲斎は申しているのか。」

馬場は
「ある時、犬山勢が油断し、侍を在々へ皆返した時、信長は七千の人数を以て犬山の宿町まで乱入しました。
しかし哲斎方十八人が反撃し彼らを追い出し、その後信長勢を追尾し、上方道を一里あまり追ったものの、
信長勢は返してこれと戦おうとせず、逃げ散ったような形となりました。しかし尾張中は皆信長に降参仕り、
犬山一人で信長に楯突くこともは今後成り難くなったため、終に城を渡し牢人仕りました。

信長の七千の人数が、十八騎に追い出されるということは無いでしょうが、尾張一国が皆信長に
従う上は、犬山も問題なく手に入るものであると判断したため、分別して哲斎をさほど強硬に攻めなかった、
という事から、「締りある」と哲斎は物語ったのです。」
と申した

甲陽軍鑑

武田家における信長の軍略についての認識について



586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/25(水) 00:08:10.64 ID:AqQAHLQG
一矢報いたというのが言いたい負け惜しみやんけ

636 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/02/10(金) 10:46:03.47 ID:GWEK21bA
>>585

徳川家康の異母弟・松平康俊(勝俊)は、今川氏への人質に出されたり、その次は武田氏の元に、さらにそこを脱出してと
波乱の人生を過ごしたひとでしたが、早くに亡くなりました。
娘が一人しかいなかったので水野家から従兄弟にあたる松平勝政が婿養子となって入り、子孫は交代寄合の大身旗本として続き、
江戸中期の加増で多古藩(千葉県香取郡多古町)の大名となっています。

歴史のさと多古を歩く
https://www.town.tako.chiba.jp/docs/2018013100486/file_contents/11_TakoKanko_A4_p2229m.pdf

さて、康俊の娘(もしくは勝政)は伝承では天正14年(1586)伯父の家康から雨乞いの神通力がある龍頭「?蛇頭(りょうじゃとう)」を授かり、
代々の家宝として伝え、現在はご子孫から多古町に寄贈されています。
その?蛇頭はリンク先の町誌に写真があるんですが、どう見てもミイラ化したワニ頭骨。ヨウスコウワニ?
唐の頭も含めて、家康は早い時期から舶来品好きですよね。

【ニュース】キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人

2022年11月07日 19:13

632 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/11/07(月) 14:15:59.44 ID:w/hY/uup
岐阜新聞2022年11月7日
キムタク信長「出陣じゃ!」武者行列に最多46万人 信長まつり厳戒態勢、事故なし
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/155364

俳優の木村拓哉さんと、岐阜市出身の伊藤英明さんが出演した「信長公騎馬武者行列」が6日、
市中心部の金華橋通りで3年ぶりに開催された。木村さんは織田信長役、伊藤さんは信長の
正室・濃姫の侍従福富平太郎貞家役を務め、沿道を埋めた観衆に笑顔で手を振り、一帯は
華やかな雰囲気に包まれた。

※岐阜市人口40万2千人


一に憂き事金ケ崎

2022年10月08日 19:16

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/08(土) 19:06:37.52 ID:10zWzOY3
尾州織田信長は日本において、上杉管領入道輝虎(謙信)に次ぐのは織田右大臣信長であると言われ、
武田信玄公が他界ましまして後は、この両大将を弓矢の花の本のように申した。中でも信長は、
六年以来都の異見であるので、武辺の強みである場数は、輝虎と言えども結局は信長に先を譲る、
と評価する者が多い。

しかしそんな信長に対しても、下郎たちはこのような歌を作り歌い申した

『一に憂き事金ケ崎、二には憂き事志賀の陣、三に野田福島の退き口』

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑が書かれた段階で、金ケ崎、志賀の陣、野田福島の戦いが信長の三大苦戦と考えられていたらしい、
というお話。



大和は神国であり、往代より子細がある

2022年09月25日 15:29

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 07:18:45.87 ID:2kIRZglE
蓮照院記録』より
甥の身を心配する?信長のちょっといい話(有名な話ですがまとめになかったので一応)
※天正十年正月、信長が安土で拝賀を受けたあとに記された記事

ある人が語るところによると、昨年の冬に津田信澄が当国(大和)を拝領したいと信長に願い出た
「上様」(信長)は「大和は神国であり、往代より子細がある。その国の住民はよく知っている」旨の話をし、声を荒げたので、重ねて訴えはしなかった
信長がそうした理由は、先年に原田(塙)直政を大和支配のために配置したところ、ほどなく大坂(石山本願寺)で討ち死にした
その前の松永以来、武家が当国に乱入するとことごとく退散しているので、つらつら信長がそういう話を聞いているからだろうということだった



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 15:45:39.91 ID:H154cQhb
筒井を追い出して乗っ取った大和大納言

甲斐・越後之弓矢天下一之軍士之由風聞

2022年09月25日 15:28

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 07:37:48.79 ID:2kIRZglE
いい話でもないがついでに
蓮照院記録』より
どこの国の兵隊が強いか弱いかという不毛な議論の一つに使われる部分を原文で

(織田による甲州征伐の動員で)「諸力衆・少分限之衆事他国立殊更遠国迷惑之由也、甲斐・越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也」

そういう「風聞」が西国にあったという程度ではないかと思いますが、さて



信長のビジュアルイメージに関して

2022年09月25日 15:28

593 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/25(日) 09:34:51.20 ID:bQiBHZfx
信長の「南蛮甲冑」について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html

南蛮胴(西洋式鎧)は過去ログのこれのように、織田信長所用と伝わるものが現存するものの、後世に伝来が
作り上げられたものと考えられています。

史料上はあくまでも、1590年に帰国した天正遣欧少年使節団が持ち帰り、翌年秀吉に献上された目録上のものが
最古となりますので、信長は持ってなかっただろうというのが正直なところですね。

信長が上杉謙信に洛中洛外図屏風などと贈った西洋マントが上杉神社に現存しますが、同時に贈られた甲冑が
金小札色々威胴丸という華美だが若干古風で品の良いデザインのものです。
また最上義光には筋兜と実戦的な桶側胴を贈ったとされます。兜は最上義光歴史館に現存し有名ですけれども
この兜も古風な体裁だったものを実戦用に改造したのではないかという考察があります。

贈答品には相手があることですから、自分の趣味全開で贈ったりはしないでしょうけれども、珍奇なマントと一緒に
贈った甲冑が当時でも趣味の良いものだったというのは、信長の好みの一端が見えてこないでしょうか。

1570年代には存在したといわれている、九州中心に使用された桃型兜は、西洋のモリオン兜に似ているので
それまでに渡来したものがデザインの元となった説が有力ですが、これも確証はありません。

信長の時代までに西洋鎧が到着してそれを入手した可能性はありえますが、証拠は全くないというのが正しいようです。

実際に舶来品を愛用した証拠も遺品も豊富な徳川家康が、その点を来年大河でクローズアップされたりはするのでしょうか?



信長のビジュアルイメージに関しては、大河ドラマ「黄金の日日」(1978年)の信長は月代頭に日本甲冑、
黒澤明の「影武者」(1980年)での信長が総髪髷に南蛮胴、大河ドラマ「徳川家康」(1983年)の信長は総髪髷に
(西洋鎧に影響受けたデザイン説がある)仏胴。
影武者がネタ元と思われますが、どの段階から広まったものか。

594 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/25(日) 09:37:13.66 ID:bQiBHZfx
なお東京国立博物館所蔵の伝明智光春所用の和製南蛮胴は実際には17世紀のもの、榊原康政所用の南蛮胴は舶来品改造のものと
長らく言われてきましたが、榊原のものの胴が和製と判明したために、その影響なのか明智の和製胴も館公式では安土桃山時代となってしまいました。

面倒ですよね、あったという証拠は全くないが、なかった証拠だってないでしょと言われたり。

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/25(日) 10:44:57.96 ID:Zo+L+aNk
その時歴史が動いた、で
家康はリーフデ号に積んでいた南蛮胴を持っていた
→家康は関ヶ原に南蛮胴を持ってきていた?
→家康はその南蛮胴を関ヶ原で着ていた?
→家康は南蛮胴を着たまま銃弾飛び交う戦場にいた?
(南蛮胴は銃弾に強いため)
→小早川秀秋は松尾山からこれを見て家康の勇姿に感動した?
→小早川秀秋が西軍を裏切ったのは南蛮胴のため?
→関ヶ原の戦いの帰趨を決めたのは南蛮胴?
とかやってたから家康の大河でもやりかねない



596 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/25(日) 12:23:09.51 ID:ZWe67ssy
大砲撃たれて爆風で飛ぶまでかワンセットにさらにプラスがあるのか

597 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/25(日) 20:24:41.44 ID:lGuhc/xt
そんな番組本当にあったのかよと思ったら本当だった

2000年10月4日放送 関ヶ原合戦 家康 なぞの大突撃 ~ヨーロッパ製甲冑の威力~

花よりも 団子の京となりにけり

2022年08月22日 18:28

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/21(日) 21:39:56.39 ID:2Xr6PBKW
かくれなき藤戸石(現在京都醍醐寺三宝院の庭園の主石として設置されている名石)を、上京細川殿の御屋敷より、
室町畠山殿御屋敷へと、織田信長公が引かれたのだが(永禄12年の義昭二条城建設の時の輸送)、
これを引くのに数日間の御手間がかかった事について、京の徒者たちはこのように詠んだ

『花よりも 団子の京となりにけり けふもいしいしあすもいしいし』
                    ※いしいしは女房詞で団子の意味

この年の御普請には、江州衆が別して精を入れられたため、その事についても又徒者たちが

『なまなりの すしとぞ見ゆる あふみ衆 おもさの石をもたぬるはなし』

寒川入道筆記



信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ

2022年05月13日 19:18

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/13(金) 16:58:04.81 ID:uwclWyl4
大友興廃記」より「信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ遣わさるる事」

永禄の末、信長公が天下の権柄を執ることとなり、威を海内に振るうこととなったため、大友宗麟公は豊後から御祝いの使者を送った。
そののち信長公から鬼月毛という名馬を豊後に遣わされることとなった。
この馬は尋常の馬より遥かに長い顔で八、九寸ほどあり、骨がごつごつし筋が太かった。
眼は朱を差したようで、いつも怒り、常にいななき、歯噛みし、人にも馬にも食らいつくようだったので、鬼月毛と名付けられた。
宗麟公はこの馬を誰に乗らせようかと考えたところ、小笠原刑部大夫晴宗という、もともと義輝公方の侍があり、その子息で大学兵衛(大友興廃記によれば諱は晴定)というものが荒馬乗りの達人であった。
小笠原大学兵衛ではなくては乗りこなせられないだろうということで、明朝に乗ることになった。
鬼月毛は金覆輪の鞍、紅の大房に真紅の縄を八筋つけ、舎人八人が持ち、そのほかに綱を二本つけて計十人で馬場に引いてこさせた。
鬼月毛は轡を噛み切っていなないてやってきた。
宗麟公はじめ諸侍そのほか何人もが見物にやってきて見守る中、大学兵衛尉は白い小袖にかちんの上下、金ののし付きにした大小を差して、六尺あまりの巨体でゆらりと打ち乗った。
手綱、鞍、鎧などを例式のごとくにして、序盤から早駆けさせ、自在に操った。
のちには曲乗りの秘術をつくし、梯子を踏ませたり、碁盤の上に四つの蹄を縮めて立たせたり、
あるいは鞭を塀の向こう側に投げ捨て、その五丈あまりの塀を越えさせ、鞭の上をまっすぐにかけさせたりした。
宗麟公は御覧になり感じ入り、父親の晴宗方へさまざまな褒美を与えた。
鬼月毛は大学兵衛が乗りこなしたため、より速く駆けるようになり九州一の名馬となった。
日に日に見物人は多くなり、七町余の馬場を、人が四回か五回息をつけばたやすく往復するような俊足であった。
その後、馬術の上手なものが何人も挑戦したが、十人に一人か二人は腰を下ろすものの、馬が足を踏み出す前に諦めてしまい、
そのほかの八、九人は馬を見ただけで恐れて乗らなかった。
こうして大学兵衛は自由自在の御者として名誉に預かった。
厩舎別当の雄城無難は
「常の馬であれば我らとそう変わらないように見えるが、この鬼月毛ばかりは上手だけではなく力乗りでなければ乗りこなせない。
大学兵衛の力は馬よりもまさり、しかも上手のためこのように乗りこなせるのだろう」
と申したそうである。



小幡景憲が又聞きした有名な信長のパワハラ 付、権六も被害に

2022年04月19日 18:42

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/18(月) 18:51:46.68 ID:F7aHokVL
景憲家伝」より、小幡景憲が又聞きした有名な信長のパワハラ 付、権六も被害に

信長は長篠で勝ってからことのほか不行儀が増した
柴田修理(勝家)すらも主の小鼓にて柴田に熊谷(能の敦盛)の脇を申し付け、「男(主役のシテ)見事とて脇無用引込候へと呵(大声で叱る)」
甲州没落のときも諏訪にて明智光秀の陣取りが見事だったことに嫉妬し、「明智があたまを打、その上小姓ともに明智があたまを打候へと被申、榊原小平太(康政)われら所より使に行、則其次の間にて見之物語仕る也」

榊原小平太もドン引きしたのか嬉々としてしゃべったのか
権六はいらない子

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/18(月) 18:54:43.65 ID:F7aHokVL
又聞きと書きましたが、正確には家康が語ったことを小幡景憲が記した部分です



信長明後日爰元ヘ下向也、如何ゞゞ

2022年04月01日 18:41

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/01(金) 17:06:42.17 ID:wHBWm+ci
天正二年
三月二十五日
織田信長が明後日こちら(奈良)に来るという。一体何事なのか
(信長明後日爰元ヘ下向也、如何ゞゞ)

二十七日
信長が多聞城に来た。人数は三千余りという。そして配下の者達に、奈良中の僧坊以下への陣取りを停止した。
宿所を縁を以て借りることも禁止した。一段の善政の下知に、奈良の上下は安堵した。

大乗院の新御所が、宇治まで昨日、迎えに出られたという。当国衆も悉く迎えに上がった。
(春日大社の)神人百人、地下衆は一町より十人づつ、肩衣・袴姿にて木津まで迎えに出た。
六方衆(興福寺末寺衆徒)少々が般若寺まで、公人(興福寺の下級職員)は専ら供の者を付けて
迎えに出た。事々しい事であった。大雨が降っていた。

二十八日
東大寺の蘭奢待が、信長へ切り取られた。五つ切り取り、再び三庫(三蔵)へ返し入れられた。その他のものは
取り出されることはなかった。勅使は三人。三庫に返されると再び勅符が付けられ封じられた。
蘭奢待全体の長さは五尺、直径一尺ほどの木であるという。
もう一つの香木である紅沈(紅沈香)も同じく取り出そうとしたが、これは切り取ることについて先規が無い
ということで返された。こちらは三尺あまりの沈香であるという。

三庫へ、東大寺満寺の衆が、法眼以下まで出仕しこれを見た。
蘭奢待は大仏師が切ったという。

四月一日
信長は今朝早々に帰った。先ず以て珍重である。
(信長今朝早々被帰、先以珍重ゞゞ

多聞院日記

多聞院日記から信長の蘭奢待切り取りの様子。奈良の人たちに対しても相当気を使っていた感じがしますね。



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/01(金) 17:22:09.94 ID:dU0uKnNY
三好と比較させて評判を上げようとしたんだろ
上洛の時にもやった使い古した手だよ

かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事

2022年03月16日 18:46

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/16(水) 17:41:44.68 ID:wsz562j2
織田信長が(本能寺の変で)弑せられた時、加賀の前田利長は瀬田の橋に着いた辺りでその事が聞こえた。
すると付き従っていた諸卒は悉く逃散して、ただ七人程の他は利長に付き添う者は無かった。
現在でもその七人の子孫が残っているという。

逃散した人々も、何れも譜代の歴々であった。何故逃げたのかと言えば、この頃信長は既に天下を半ば
手に入れられていた以上、今度の上洛では諸国も次々平均して、皆人安楽になるだろうと思って上ったのだが、
そこでこのような事(本能寺の変)が起こったことで、又々天下の大乱となりいつ治まるかも知れず、
「早く国に帰って妻子の行衛をも見ん」為であったと伝え聞く。

私が覚えている話に、若輩の人が、「今は治まった世なので、武を用いるべき様が無い。」と言ったのを、
老武者で、度々武功のあった人物が曰く

「若き人々、何事を宣うのか。私もここかしこにおいて、例えば百人、二百人の内、漸く生き残った
一人二人の中に入った故に世に永らえた。もし明日にも変乱の事があれば、皆々も生き残るという事は
稀である。このような太平の世にめぐり逢ったのは、ありえないほどの事なのだ(かかる太平の世に
逢候事ハなりかたき事)。」と言われたという。

紳書抄

乱世というものについてのお話



本能寺にて囲碁の事

2022年02月05日 16:06

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/04(金) 22:25:17.41 ID:Xc5xSs4f
囲碁についての様々な話が書かれた「爛柯堂棋話」から
本能寺にて囲碁の事

天正十年、信長公、光秀が毛利征伐援兵に赴く武者押しをし給わんとて、江州安土より御登り、京都本能寺に御座あり。
六月朔日、本因坊(算砂)と利玄坊(林利玄)の囲碁を御覧あるに、その碁に三劫というもの出来て止む。拝見の衆、奇異の事に思いける。
子の刻過ぐる頃、両僧暇給わりて半里ばかり行くに、金鼓の声起こるを聞き驚きしが、これ光秀が謀反にして、本能寺を囲むにてぞありける。
後に囲碁の事を思い出て、「前兆ということもあるものかな」と、みな言いあえりとぞ。
その時の棋譜なりとて、今も伝えり。この碁を思い見るに、利玄が隅の石を取らるるを見損じたる、本因坊が布置・手配りの様子、これまた前兆とも言うべきか。

有名な話ではあるものの残されている棋譜(128手まで)
https://i.imgur.com/alX3zFc.jpg
alX3zFc.jpg

を見る限り、三劫の余地はないと思われるため捜索と考えられていた。
しかし
https://news.yahoo.co.jp/articles/ab6176974f6bc9348e206a6426d2c13273407fc1
1万局に1回?本能寺の変前夜に出現の「三コウ」、出雲のプロ棋士が手順を発見


129手以降を考察した結果、159手目でついに三劫が出現する手順が見つかったらしい
棋譜については山陰中央新報を読まないとわからないようだが



【ニュース】信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕

2021年09月05日 17:56

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/04(土) 10:37:36.72 ID:0/jGQlpA
信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕
https://news.yahoo.co.jp/articles/827ec400e767b88cea6dedff1946c4c88fab7a5e

墓だけ残して公園にするのか....。



10 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/04(土) 11:53:46.28 ID:8ZUaR3qE
>>9
はぁ〜住職いねぇ、檀家もねぇ(10軒)、維持費は毎年積み嵩む。お布施もねぇ、支援もねぇ、劣化は毎年進んでく。


こういう状況では止むを得んわなぁ。観光資源化もコロナ禍の昨今では厳しいし自治体も手を上げて予算付けてやろうとはよう言えないだろうしなぁ。

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/04(土) 12:09:55.31 ID:7oTGnM5e
まあ武功夜話ベースの歴史だから本当にそこに祀られてるのか怪しいけどな

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/04(土) 12:48:45.80 ID:4D3eGfWB
信長関連で稼いでる企業なり作家が支援したら良いのにね
NHKとか散々信長扱ってるけどこういう時はスルーなんだよなあ
フリー素材かあ

13 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/04(土) 14:42:46.47 ID:WVNsbdMX
>>11
・寺は1384年創立で生駒家の菩提(ぼだい)寺にあたる。
・寺の西側にある吉乃の墓は、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されており
・寺を所有する宗教法人役員の19代生駒家当主、生駒英夫さん(48)
・本堂内にあった吉乃や信長の位牌はすでに別の寺などに移しており、

これで武功夜話がどうとか、本当にそこに祀られてるのが怪しいって言えちゃう?
まぁ言い出したら他の墓地が複数有る戦国時代の人物とか皆怪しいけどさ。

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/05(日) 08:13:34.76 ID:WjaHif/k
>>12
だってNHKだぞ

小田原で与八郎に切腹させ

2021年08月01日 17:16

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 16:30:00.46 ID:LhTTMgH8
天正2年、勝頼(武田勝頼)は高天神の城へ取り掛け攻める。

家康公へ御加勢のために、信長公も遠州塩見坂まで5千余騎で出馬されたところ、
城代の小笠原与八郎(信興)が降参して城を渡し、勝頼に従う。それ故、信長公
はそれより引き返しなさった。

信長公のこの時の御憤りは浅からずして、甲州没落の後に小笠原与八郎が小田原
へ退くと信長公は氏直(北条氏直)へ再三御所望なさったので、小田原で与八郎
に切腹させ、首にて送らせなさったという。

――『岡崎記



いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命

2021年02月07日 17:28

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 16:48:57.43 ID:nyQaOx/U
6月朔日の夜、惟任日向守光秀は丹州亀山の城で反逆を企て、家臣の明智左馬助(秀満)、同次右衛門尉(光
忠)、藤田伝五(行政)、斎藤内蔵助(利光)、溝尾庄兵衛(茂朝)らを呼び寄せ、密かに閑所に請じて曰く
「各々、予がために一命を申し受けるべし。もし同心なくば予の首を刎ねられよ」と云々。

各々、黙口するところで左馬助が進んで曰く「臣らは主君のため、大事に当たってどうして猶予しましょうか。
某におきましては、まず畏まり入り候」と言った。残って四臣も皆これに同ず。

時に光秀言葉を設けて曰く「予が大悦これに過ぎず。さても伴の趣旨は予が身の上において大臣家(織田信長
の勘気を蒙り、誅伐に及ぶであろう事数多これあり。つまるところ、こちらから謀叛を起こし、いま大臣家の
無勢の在京を幸いとして、かの公に御事あらしめ予天下の主とならん。これすなわち止む事を得ざるの時なり。
各々、いよいよ同心においては、霊社の誓書を記されよ」と云々。

五臣すなわち誓書をしたため、この旨相違すべからざる由をひたすらに請け負い、人質を献じた。しかれば、
今夜光秀は多勢を率い、中国出勢の行装を大臣家へ御目に掛けるため上洛との由を披露せしめ、亀山より中国
への道筋三草越より取って返し、東面に馬を向けて大江山を打ち越え、左へ下って桂川を渡り越え、今夜暁方、
諸勢は本能寺へ参陣し、かの寺を取り巻いた。

同月2日明け方、光秀の総人数は弓鉄砲をしきりに放ち鬨をあげて本能寺を攻めた。大臣家を始め御小姓供廻
の面々まで、ただ当座の喧嘩による下々の騒動だろうと思い「各々御前近くで緩怠の働きとは、すこぶる慮外」
との由を仰せ出されたところ、次第に弾矢がしきりに来る。「さては謀叛か。誰だ」と仰せのところで森蘭丸
が門外を見帰り、惟任謀叛の由を申す。

大臣家は慌てることなく、不慮の大変是非に及ばざるの由で、自身矢を放って数多の敵を射殺し給う。

(中略。信長の近習たちが討死)

この時まで大臣家は未だ殿中において御弓を射給うところで、たちまち弦が切れてしまった。時に御弓を投げ
られ、自身また槍をひっさげて度々敵を突き払われた。しかるところで右の肘を槍で突かれ、御手重く進退叶
わず。これによって殿内へ入らせ給う。

その時まで女中は未だ御側に侍り、「女は苦しからず。早々に罷り出て一命助かり候へ」との由を3度仰せ下
され、すでに御殿に火がかかり来る時に奥深く御入りになり、内からも御納所口を引き立てられ、御切腹これ
あり。これは御姿を隠されるためだろうか。

その時、女房どもが取り巻いていて御最後の様体を見届け奉るという。また一説に御殿焼失の後、御死骸を探
し求めるといえども、ついに探し出せず、それかと疑う程の人もなかった。御自害か御討死か、人ついにこれ
を知らず。いずれにしても今日、平丞相信長公、本能寺にて御落命。御歳49歳なり。

――『総見記



550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/07(日) 18:38:20.19 ID:bjp1HABi
このころすでに「森蘭丸」表記?
後世に「森乱」から変えられたかもしれないけど

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 10:35:59.15 ID:bG7yJPbV
早稲田が公開してる総見記(織田軍記)だと乱丸表記だな

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/12(金) 21:33:14.78 ID:hMmMh+W+
>>550
通俗日本全史版だと蘭丸でした

鏡島村梅之寺・乙津寺の事

2021年01月12日 16:44

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 00:50:45.38 ID:6vjf8+TQ
鏡島村梅之寺・乙津寺の事

厚見郡鏡島村の梅之寺というのはその昔は乙津寺と号し、ここはすなわち7里の渡海の大湊であった故
に船付大明神を鎮守とした。

(伝承によれば、この辺りはかつて「乙津島」と呼ばれて、海に浮かぶ島だったが、弘法大師によって
桑田となり、地名を「鏡島」と呼ぶようになったという)

その後、一寺に点ぜり。この寺一派の本寺にして、土岐・斎藤の両家が殊にこれを帰依して、数ヶ所の
庄園を寄付した。その記録は宗別に見えたり。

当村院内はことごとく梅樹を植えている。故に“梅之寺”と号す。按ずるに斎藤家信仰の一寺と見える。
信長御入国の後も、もっとも寺務繁く、並びもなく栄えた。

しかるに信長公は元来仏法を嫌い給いて、所々で寺院仏閣を数多破却し給いたけれども、故あって当寺
をのみ甚だ尊敬し給い、とりわけて当山の梅を愛し給いて、すなわちこれを分けて江州安土、ならびに
京都妙心寺などに移し給わったのである。よってその寺の威は甚だしく、勅願所にも異ならず。

しかるところ、天正10年(1582)6月2日、信長生害し給いてよりこの寺の威勢も薄くなったの
だという。その後、文禄2年(1593)癸巳閏5月、秀吉より寺領の御朱印を改正せられたという。

――『美濃国諸旧記



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/12(火) 12:58:07.18 ID:O8i+wnF4
>>836
美濃に海なんてなくね?と思ったら、長良川の湊なのね。

能ある鷹は爪を隠す

2021年01月06日 18:30

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/06(水) 17:21:27.53 ID:hk6W+Ej8
織田信長公の家に、弓好きの人が有り、的を射て当たらぬということがなかった。

ある時信長公がその様子を見たい言われ、日を定めてそれを見たが、他の人は的に当てるのに、
その者は当てることが出来なかった。そのうちに日が暮れ、信長公が的場より帰られる時、
「人の言うのと見る事とは違うものかな。」と仰せになった。

その後、一揆が蜂起したため人々馳せ向かったが、かの弓好きの人、信長公の馬先に進み、
さし詰め引き詰め敵を射ると、ほとんど外れた矢はなかった、そして味方はこれによって勝利を得たため、
信長公も悦ばれること斜め成らず、

「能ある鷹は爪を隠すという事がある。先の的場での事は、このような時を思って当てなかったのだな。
たしなみ深し。」

そう感じ入られ、褒美の物を給わった。
物と時によって、その種類は多いだろうが、人の芸はこのように慎むべき事なのだと、
弓をよく知れる人が言っていた。その時、かの弓を射た人の名も聞いていたのだが、忘れてしまった。

備前老人物語



827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/06(水) 18:44:07.62 ID:9ZqabgiX
本多忠勝のように普段は下手だけど戦場だけ強いのかと思った

「愛宕参りに袖を引かれた」

2020年12月31日 17:21

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 10:13:32.94 ID:uwNc3Av6
これもいつの陣の時だろうか、その人の名も忘れたが、信長公の侍に、賭博に負けて、
馬、物の具まで取られて、浅ましき有様と成った。その明くる日、どうしようもないので、
討死すべしと思い定めて、紙子羽織の後ろに黒き餅を書き付け、大きなささ板を求めて
鋸で刻み、腰指物にして戦いを待った。

ほどなく敵味方近づいて、互いに白眼を合わせるほどに、左手に扇を持ち、右手に刀を抜いて、
大音を上げて

「愛宕参りに袖を引かれた」

という小唄を歌って一人出た。

両陣はあまりのことにあきれて、しばし見物していたが、時分を見て「さあかかれかかれ!」と
一先にかかると、続いて七、八人、声をかけ合わせ、とつと、一度にかかって突き崩すと、大方
大利を得た。
突き懸かって駆け入った七、八人の者は、あらかじめ言い合わせていたと聞いている。

備前老人物語



806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 11:00:02.00 ID:Rtjp6XfZ
>>805
名前も忘れられたということは、死ぬ気で一発芸かましたけど結局モブで終わったのか