【話題】織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光

2018年07月18日 17:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 17:16:20.74 ID:HBQe+2EB
https://newsphere.jp/culture/20180714-1/
織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 ハリウッド映画化も


映画化か、面白そうだけど、まさか白人がノブ役するんじゃないだろな



82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/17(火) 20:53:55.29 ID:pQPinb+R
欧米からすると衆道はどうなのかな??ウィーン少年合唱団みたいなもんか…

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 22:45:35.41 ID:H5KjFGzu
古代ギリシャから中世修道院にいたるまでやってることだから違和感ないんじゃない

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 23:37:05.03 ID:IibntZeN
弥助とホモだちだったの?
特に関係なきゃスルーでしょ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:24:12.40 ID:uXyvS12w
キリスト教宣教師からは強く非難されたらしいけど。 主に、大内義隆が。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:40:54.03 ID:0wRJjWz4
どうしてすぐ衆道と結びつけたがるのか
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息子が分別無く深入りしたのだ

2018年05月04日 14:26

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 22:44:30.19 ID:02WQirZy
織田信長が甲州に出陣するとして、安土を出立し美濃国呂久の渡において、信濃国伊奈郡
高遠の城主仁科五郎(盛信)の首が曲げ物に入れられ織田信忠より飛脚によって届けられた。
その首は大髻にて、年齢は20ばかりに見えた。

首が届けられると、信長の近習であった菅屋九右衛門(長頼)、野々村三十郎、福富平左衛門、
オロシ彦右衛門といった者達、馬より飛び降り

「御出陣したばかりで五郎の首が届けられたこと、大変めでたいことです。」

そう賀して申し上げると、忽ち信長の機嫌が変わった

「何を以てめでたいというのか!?若輩なる奴原が深入りして追い立てられたらどうなるか、
面目を保ったまま討ち死にできるのは滝川(一益)一人だけだ、他の者達は芭蕉の葉で
位牌を払うような有様に成るだろう。
先陣の者達が残らず討たれたとしても、後陣が遠方ではすぐに弔い合戦をすることも出来ない
ではないか!」

そう殊の外の御気色であり、息子が分別無く深入りしたのだと思っておられた。

(祖父物語)



711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:11:21.12 ID:vUy0oAOP
武田を心底恐れていた信長ならではの慎重論

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 23:20:37.16 ID:Z/z82csV
武田の東濃侵略の際、馬場の800の兵に恐れをなして1万の織田軍が撤退するぐらいだからなぁ。

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/04(金) 10:39:43.81 ID:FnXiDPmu
この時期の史料を読めば判るけど信長は武田を恐れてはいないね
武田にちょっとでも噛みつかれて「自分の評判が傷つく事」を恐れていた状態

日本の歴史を大きく変えた偽メール事件

2018年05月01日 21:09

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 00:20:36.62 ID:QiEhFTVJ
桶狭間の戦いの直前、三人の武将が無念の死を迎えた。
二人は鳴海城主山口教継と桜中村城主山口教吉の親子、一人は戸部城主戸部新左衛門である。
三人の城は織田と今川の勢力が衝突する最前線に位置しており、しかも一里以内に集中していた。
どちらがどちらを攻めるにも、ここを落とさねば話にならぬという要衝であった。

この三人、織田信秀の代までは織田家の忠勇なる武将であった。
ところが信長とかいう、うつけの若造に愛想をつかして今川方へ寝返ってしまったのである。
これが今川義元に尾張侵攻を決断させた一因とも言われている。

当時の信長の力量ではこの三人を倒すことは到底不可能。
そこで祐筆に猛練習を命じ、三人の筆跡を真似た偽の書状を作成する。
「信長くんへ、やっぱり義元を裏切って君んとこ戻るわ」
これを商人に変装させた森可成に持たせ、今川方へ持ち込ませた。
さても今川義元、この偽書状を信じ込み三人を呼び出した上まともに調べもせず処刑してしまった。

この事件が無ければ今川義元は悠々楽々と尾張を併呑した事であったろう。
信長は良くて臣従、悪ければ織田家ごと滅んでいただろう。
日本の歴史を大きく変えた偽メール事件である。

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 04:51:08.74 ID:QiEhFTVJ
さて、織田家を裏切った挙句に謀殺された山口教継・教吉親子ですが、家臣に成田弥六・助四郎という武将を抱えていました。
彼らもまた、大声出せば聞こえるほど御近所にある鳥栖城の城主でした。(この地域は徒歩一時間で六つの城を回りきれるくらいの城密集地帯でした)
成田氏は赤塚の合戦で山口氏に従って織田勢と戦ったのですが、その後は山口親子を裏切って織田方についています。

この結果、主家を裏切った山口氏の城と、主家を裏切った主家を更に裏切った成田氏の城の間が織田勢力と今川勢力の境界線となりました。
ちなみに山口氏の桜中村城と、成田氏の鳥栖城は200メートルほどしか離れていません。
尾張者のフレキシブルな生き方は、お隣の頑固な三河者と見事な対比をなしていますね。

されどこの成田氏、その後の行跡はあまり残っておりませんが敢えて挙げるならば、
子孫で尾張藩士だった成田甚右衛門がある日突然「平和が好き!戦は嫌い!」と刀を折って帰農したことくらいでしょうか。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 20:54:47.50 ID:uxusBUfH
>>700
三河者=頑固も後から作られた物語でしかなくて、家康がガチっとまとめるまでは誰もが転身しまくりなんですけどね

信長と云う者だ。

2018年04月27日 21:34

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 22:26:16.06 ID:Yot5dwqf
豊臣秀吉の小田原征伐の頃、尾張清州城の城代は植原加賀守という人であった。
彼は元々甲州からの巡礼であったが、織田信長が鷹狩をしていた折、六角堂にて
この巡礼の姿を見て、尋ねた

「汝はどこから来た者だ?」
「甲州者です。」

すると信長は聞いた
武田勝頼はうつけ者であり、悪しき法度の運用をしているというが?」
巡礼は答えた
「その事であります。彼は人を釜で炒り殺し、臼にて突き殺すなどしています。」

信長は呆れた
「それは勝頼が食うつもりなのか?勝頼は小気なる故にそういう事をするのだ。天下の望みは
成らないであろう。汝は奉公をする気はないのか?」

「それよりも、あなたは一体何者なのですか?」

「信長と云う者だ。」

巡礼はひれ伏し「何であっても奉公仕りたく思います!」

そこで信長はこの巡礼を即座に召し抱えると、彼を召し連れ、程なく御手のかかった
女房を下され、清須の城代としたのである。

(祖父物語)



814 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 02:26:57.60 ID:ORHXMRvf
嘘くさい

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 07:46:22.58 ID:2ugiwSuW
>>814
永録10年11月の信長の朱印条によれば美濃で20貫の地行を貰ってるみたいだね
本当は勝頼じゃなくて信玄なんじゃないかな
埴原の出身である埴原谷てのが信濃(!)のどこにあるのか知らないけど、信濃では信玄の評判が良くない所もあったわけでしょう
又聞きの間に色々と入れ替わっていそうな気がする

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 08:31:36.59 ID:z6z/Bm5p
>>815
信玄と言うか武田の評判って甲斐以外だと酷いもんだからなぁ
特に信濃と上野

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/27(金) 09:59:15.65 ID:+HCTm/8h
信濃は場所によるが

818 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/27(金) 18:11:01.95 ID:LH5poK+P
信濃は北が武田アンチで南が武田贔屓と聞いた

”信長”という字が欲しい

2018年04月23日 12:04

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:23:47.49 ID:0sNfbvnH
織田信長という人は、若い頃はお供を一人も召し連れず市町在々を歩き回るような、
諸人にすぐれたわやく者(無法者、いたずら者)であった。

御若名を三郎と申していた時、中間一人に荷俵を背負わせ矢立を腰に挿し、西国巡礼に
出かけた。
堂宮に落書きをしながら廻り、摂津国天王寺に参ったが、近くの寺に侍らしき者6,7人
寄り合い、名乗り字を書き読んでいた。
信長はこれに近づくと

「その名乗り字一つ、私に頂きたい。国への土産にいたしたい」

そう望んだ所、先の者達尋ねた

「何れの字が欲しいのか?」

「”信長”という字が欲しい」

「これは天下取りか国盗りの付ける名前だ。その方などにはもう少し身の丈に合った
名乗りのほうが良い。」
そう笑いながら言われたが、三郎は

「それを付けるというのではない。ただ国の土産にしたいとだけ考えているのだ。」

「そういう事なら、使わない、付けないのであればこのまま取らせよう。」

そう言って、”信長”の書かれた所を切り取って三郎に渡した。

(祖父物語)

この話、司馬遼太郎の国盗り物語にまんま出てたけど、祖父物語が元ネタだったんだな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 10:40:38.48 ID:Wg26+URo
武田信長は上総国盗りを意味する名前だったのか

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/23(月) 19:21:46.66 ID:rCIHAaKF
>>786
甲斐を追われたあとは義教に仕えて結城合戦とかで活躍してるんだよね
義教が没したあとは成氏を頼ってその命で上総の上杉領を攻略して息子たちに残した
結構、激動の人生を歩んでるよね

信長公、木曾義昌を酷評

2018年04月18日 10:01

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:48:00.99 ID:fBlgphlZ
織田信長の甲州征伐の折、諏訪の寺へ本陣を据えるため入る折に、信長は
木曾(義昌)に軍勢を見せるべしと思われたためか、「従う大名小名、一人も
騎馬してはならない。歩行にて我が馬の先へ立つように」と命じ、五千人の人数皆、
信長の御先を歩んだ。

その頃、燻革(ふすべがわ)のたちつけ(膝から下の部分を脚絆のように仕立てたもの)が
流行っており、殆どはその装束であった。

寺の門前にて菅谷九右衛門(長頼)が信長に申し上げた「木曾殿がここに参られました」
信長は「寺に入れ、ここで礼を申させよ」と命じ、木曾義昌を寺の中に通すと、
礼を述べる木曾に対し、黄金二百枚を台に積んでこれを与えた。
この時、木曾義昌は台を持ち上げてこれを戴こうとした。

後に信長はこう言った
「木曾はうつけ者であるな。二百枚を積んだ台が持ち上がるものか。ああいう時は
台に手をかけ頭を付けて礼をするものだ。山家の遠国者は何も知らぬ。」

(祖父物語)

信長公、木曾義昌を「うつけ者」「田舎の礼儀知らず」と酷評



674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:47:39.53 ID:KT0ozs1S
持ち上がったら危険だからと謀殺するんだろうなあ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 21:49:48.25 ID:9ncWBotz
自称、木曽の山猿の子孫だし
なお義昌に裏切られた勝頼の敗走ぶりは木曽義仲に例えられたとか

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:05:20.90 ID:TfZAIlfs
まあ、本能寺後の動向やら末路やらを考えるに、木曾義昌は本当にうつけだからしょうがない

今後『菊石』と呼ぶ

2018年04月17日 16:11

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 22:17:26.90 ID:1I0mDnDt
ある時、織田信長は御刀持に名をつけたことがあった。

「汝の事を今後、『菊石』と呼ぶ。何故ならば、長刀持は庭に居て良きものである。
また菊石も庭にあって見事であるからだ!」

そのように仰られたのである。

(祖父物語)

信長のネーミングセンスもわりと反応に困るものが多いような。
菊石というのはこういう「菊花石」の事でしょうね
https://i.imgur.com/jE6DOtF.jpg
img27.jpg




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 08:31:00.65 ID:Tn6Pyrjz
庭にいていい者か
なら禿鼠でいいんじゃね?

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 20:22:44.33 ID:DiicARIH
まあ菊石なら名字にしてもカッコがつくからええわ

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/17(火) 22:14:32.61 ID:b4/LIygH
人「」

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/18(水) 12:57:54.91 ID:4ciD4O7a
ノブ「お前の菊花は実に締まり具合が良いので、お前は菊石だ」

汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?

2018年04月16日 18:29

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/15(日) 23:12:20.06 ID:jJSKP1dL
織田信長の甲州征伐の折、

織田信長は信州諏訪郡の何れの寺であったか、御本陣を据えられると、その席にて
明智光秀がこう申した

「このような目出度き事は御座いません。私も年来骨を折りたる故、諏訪郡の内は皆
織田家に従っています。何れも御覧ぜよ!」

そのように武田の総崩れを喜んだ所、信長の御気色たちまち変わり

「汝は何方にて骨折り、武辺を仕ったか!?我こそ日頃粉骨を尽くしたのだ!
憎き奴なり!」

そう激怒し、懸造りの欄干に明智の頭を押し付け叩いた。
その時、明智は諸人の中で恥をかき無念千万と存じ詰めた気色が現れたという。

(祖父物語)

有名な逸話ですが、出典は祖父物語だったのですね



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 03:07:07.82 ID:7xkzIepw
川角太閤記にもあるので、そっちが原典かもしれないし、いずれにせよ又聞きした話だからなぁ。
ただ、フロイスの書簡にも光秀が殴打されたという話はあるらしい。

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 04:27:04.65 ID:PS026Nxp
川角太閤記の光秀殴打に関する記事は至って簡潔で「信濃の上の諏訪にての御折檻」としか書いてないな

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/16(月) 23:23:57.60 ID:9mr2vYq2
おまゆう

諍いの原因は、「男色のもつれ」

2018年03月18日 19:08

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:23:05.91 ID:T43lWMTR
「信長記」首巻によれば、織田信長は父信秀から那古野城を譲られた際、四人の家老を付けられたという。
その筆頭は林秀貞(通勝)、次席に平手政秀、三番が青山与三右衛門、末席が内藤勝介
林・平手の二人がよく知られているのに対し、青山・内藤の知名度は低い。青山などは信長元服前に戦死
したのではないかとも言われ、内藤も家老と呼べる程の分限であったか疑わしい、などとされている。

信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、三河の徳川家康と同盟を結び、美濃攻略のため、本拠を清洲から
小牧山に移そうかという永禄六年(1563年)のこと。
既に廃城となっていた古渡城付近の松原で一つの事件が起きた。青山与三右衛門の嫡男虎と内藤勝介
嫡男小三郎の二人が織田因幡守家臣桜木隼人助を襲撃したのである。といっても、虎と小三郎の二人で
襲撃したのではない。青山・内藤両勢合わせて八十六人!対する桜木も三十人を揃えていたというから、
これはちょっとした合戦である。戦いの結果、双方合わせて四十二人の死人が出て、桜木隼人助は青山の
家臣に弓で射殺されたという。虎と小三郎はそのまま織田家を退転、揃って三河に逃げて家康を頼ったと
いわれる。


諍いの原因は、「男色のもつれ」。


息子の不始末ゆえ、内藤勝介の立場が弱くなり、既に冥途へと旅立ち現世で活躍できなかった青山とともに
影の薄ーい存在とならざるを得なかったのかも知れない。

それにしても、男色のもつれで五十人近くが死ぬとは… すごく 濃い世界です…


以上、和田裕弘「織田信長の家臣団」からの受け売り。
名古屋の鶴舞中央図書館にある「津島十一党家伝記及牛頭天皇社記」に書かれているそうな。
誤読あったらごめんm(__)m。



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:56:52.98 ID:5nKM9M85
秀忠「こっちの傅役の青山・内藤はかなりの知名度なのに
地名になるほど」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 21:19:39.10 ID:xl9vsyvP
徳川に使えたのが正解だったようですね

桶狭間の戦い

2018年03月17日 18:18

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 19:40:54.30 ID:FA5jxJkX
ここに織田弾正正信長と申す人、父に少年にて死別したが、少しもその跡を敵に侵入
させなかった。

そのような中、駿河国の今川義元は、三河遠江駿河伊豆四ヶ国の軍勢を率い、三河と尾張の間の、
信長方の城である大高、沓掛二ヶ所の取手(砦)を一刻に攻め取り、永禄三年五月十八日の晩、
桶狭間と申す所に今川義元は陣をとった。

一方、尾張清州城では、林、平手を始めとした信長の重臣たちが揃って、
「清須は日本一の名城なれば、籠城こそ最善です」
と申し上げたが、信長はこれを聞くと拒絶した
「昔より籠城して運の開けたことはない。明日は未明に鳴海方面へ打ち出て、義元の首を
刎ねるか、私が討ち死にするかである。」

信長が日頃から心をかけていた侍である、森三左衛門(可成)、柴田権六(勝家)といった者達は、
「快き仰せである。我らは御馬の先に立ち、討ち死にを致しましょう!」
と申し出、その他何れも、信長の方針こそ然るべしと申し上げ、座敷を立った。

十八日の夜半過ぎ、信長は広間へ出て、”さい”という女房に「今は何時か」と尋ねた。
「夜半過ぎです」と申し上げると
「馬に鞍を置かせよ!湯漬けを用意せよ!」と命じ、御前に昆布、勝栗を持って参らせた。
そして床几腰を掛け、小鼓を取り寄せ、東向きになり

「人生五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の間なり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」

そう、三度舞われて、城の内より、小姓七、八騎を引き連れただけで出立した。
既に大手の口にて、森三左衛門、柴田権六、その他三百ばかりが控えていた。信長は森、柴田へ
「両人早し!早し!」と声をかけた。

熱田源太夫殿の宮の前にて、千七、八百となった。星崎方面に控えていた佐々下野守(政次)は
その手勢三百あまりにて今川軍六万を抑える役割を仰せつかり、信長の前に出ると

「それがし、一人であっても今川と組み合い、討ち死にしようと考えていたところ、
さても妙なるお出でです。それがしが命を捨てる以上、今日の合戦に御勝ちすること
必定です。今日の戦いこそ、天下分け目の合戦です。殿が天下を治められた時、
弟の内蔵助(成政)、また私の倅を、お見捨てなされませんように。

我々は東向きに、今川の旗本へ乱れ入ります。殿は脇鑓に向かわれ、鉄砲弓も打ち捨て、
ただひたむきに打ってかかって下さい。」

そう伝えて攻撃へと向かった。

今川義元は油断していた所に、織田軍三百五十ばかりが突然攻撃をしてきた事で、「本陣で
喧嘩が起きた」と、六万余騎の者達騒ぎ立てた所へ、信長が二千あまりにて
「一人も逃さじ!」
とわめき叫んで大音を上げて切ってかかった。

これに今川勢は一支えも出来ずたちまちに敗軍し、義元の頸は毛利新助が取った。
この時、大風、あられが降り、大高、沓掛では大木が吹き倒れたという。

五月十九日巳の刻(午前十時ころ)、首数五千ばかり討ち取り、大利を得た。
この時織田信長、二十七歳であった。

(道家祖看記)



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 07:59:50.97 ID:q6+MveO/
柴田勝家は桶狭間に参加してないと思うけどね

両大将の御軍法

2018年02月18日 19:04

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:31:02.46 ID:dR3J4lSy
一、信長様の御軍法は、敵と成った者は、その子々孫々までも討ち果たし、その跡まで
  掘り返すほどに厳しくして、天下を治められた。内裏の修理など仰せ付けられ、王法の
  衰えたのもお取り立てされ、その後仔細あって、上京の騒ぎを払うとして、京の地子を
  御免になられた。万事において賞罰を正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで、
  その仰せを奉らないという事は無かった。
  ではあったが、一度敵対した者は、詫び言を申し上げ旗下に付いても、お心を許すこと無く、
  御憎み浅からず、故に謀反人が多く出た。こういう時は、強いだけではどうにもならないものだ。

  こういった事を太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、敵対した者へは厳しく申し付け、
  これに対し詫び言申し上げ旗下と成れば、御譜代同然に懇ろに心を開かれた。是故に、昨日まで
  敵対していた者でも、身命を捨て忠節を致すべきと考え、故に謀反人も無く、早く天下を
  治められたのだ。

  両大将の御軍法はこのように裏腹に違う、この心持ちは、小身の召使の者にも心得あるべきである。

(細川幽齋覺書)



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:57:18.66 ID:cegVxge2
秀頼シフトを敷かなければ豊臣政権は続いたのだろうか?

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/19(月) 15:28:24.75 ID:TRb3+EFk
>>650
信長のほうが寝返りに甘い印象あるけどなー、細川の処世術かな

>>651
秀吉死後に秀次派と秀頼派で関ヶ原なりそう

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/19(月) 15:41:39.50 ID:jY3t1EHB
>>652
「信長と消えた家臣たち」って本を読むと細川幽斎の気持ちが少しわかるよ

信長の度量

2017年12月08日 21:24

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:42:06.30 ID:ZG2/Mmcy
織田信長は二十年あまり、憤怒を抑えていたが、石山本願寺が和睦し開城すると、
天下はここに平均成った。

すると天正八年、信長は林佐渡守を流罪とした。
彼がかつて、名古屋において信長を謀ろうとした罪によってであった。
また安藤伊賀守を流罪とした。
これは、彼がかつて武田信玄に内通したためであった。

小さなことであっても、自分が恨みに思ったことを、後に自身が世に盛んになってから、
報復することを考えるのは、おおよそその人に度量があるとはいい難い。
我が身の遺恨故に人を害し、損なおうというのは、大丈夫の心とはいい難い。

織田信長にはこう言った誤りがあった故に、荒木村重、松永久秀らは安んずること出来ず、
天下に乱逆を成した。惟任光秀による禍も、この故であると言えるだろう。

一方秀吉は、毛利が柴田と内通し、室町殿(足利義昭)を再び京に復帰させようとしたことを
知りながら、後に毛利や義昭に対し、聊かもそういった気色を見せなかった。
信長と比べ、その度量大きく違うと言うべきであろう。

(士談)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 21:46:35.05 ID:ek3nQsgY
毛利そんなことしたの

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/08(金) 07:31:31.32 ID:H32lLvCl
>>397
史実で言うと本能寺の変後にあった義昭の京復帰話は秀吉や家康も絡んでて
史料を見てるとかなりの進展を見せていた時期もあったようです。

柴田に内通うんぬんは秀吉と勝家のどっちが勝つか分からんので片方に加担せず
様子見を続けたってのが真相ですね。

そういった事で勝家滅亡後に秀吉から隆景へ送られる脅迫状としか思えない書状へとつながる訳ですが....

江戸のもののはじまり事典

2017年11月24日 17:18

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 21:29:17.74 ID:XjByv4RE
江戸のもののはじまり事典「本朝世事談綺」よりいくつか


鹿苑相国義満公の時、内野合戦が正月元日に起き、殿中の祝賀会に出席していた者共が
素襖の袖と裾をとって戦に従事したことが吉例となった。
細川頼之の行いであった。
一説によると、信長公の時に松永弾正がはじめたとも。

月代
月代を剃ることは、鎌倉北条執権(泰時の頃)に始まった。
その昔は本朝では貴賤ともにみな総髪でお歯黒をつけていた。
山海経に言う「東海に黒歯国あり、その俗、婦人の歯悉く黒く染む」というのは日本のことである。
その後、貴賤を分かつために男の歯を染めることを禁じたが、気が発さなくなったせいで歯の痛みとなった。
そこで月代を剃ることとなったのだ。
一説によれば、鎌倉時代は髪を抜いたという。信長公のときに剃刀で剃るようになったという。
おそらく髪を抜くというのは額のことであろう。
剃刀は眉を剃るために神功皇后の時に始まった。眉剃り用の剃刀は小さかったのを、
信長公の時に大きくしたのが今の剃刀であろう。
(信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

ロウソク
文禄年中までは日本にロウソクなし。呂宋助左衛門が秀吉に献ずるところのロウソクを真似してこれをつくった。

一里塚
正親町天皇の御世に信長公の下知にて一里を三十六町に定めてその表示に一里塚をつくり榎を植えさせた。



457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 17:55:58.07 ID:E7qzUXBx
>>450
> (信長が毛を抜くのを痛がって剃ることにした、という説もある)

    ノノ
 〆 ⌒ヽ∩ ブチ!ブチ!
 (  ゚ω゚)ノ⌒ ミ
 ヽ⊂彡(´・ω・`) <信長「…」

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 18:05:03.73 ID:b86Bif5A
抜くんじゃ時間かかりそうだしね

『松野平介に劣らぬよう』

2017年11月14日 21:29

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 07:41:35.14 ID:GSRO0ABL
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、
武義の詮議を行い、家職を忘れず、武運のことを神慮に祈った。
また同士の輩は、一同に誓詞を記し、互いの非を伝えあった。

ある時、何れも寄り合いをして、願書を書いて武運を祈るとき、
「皆は何を目標にして、どのように武職を勤めたいと思っているのか、それぞれその趣旨を書いて
入札にしよう」
という事になり、集まって書き出した所、皆『松野平介に劣らぬよう』『松野平介より先を致したい』
といった心がけが書かれていた。

この松野平介という人物は、美濃の三人衆に仕えていた武士であり、後に信長に召された、
信長は、その身が陪臣であると雖も、武の職業を勤めたる者であると、彼を非常に高く評価し、
岐阜の大手先の侍町に屋敷を与え、「諸人の規範にもなる人物だ」と言った。

このため織田家の諸侍は彼を見習い勤めを甚だ励み、それぞれに武義の職を勤め守った。

(士談)



421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 17:52:44.33 ID:tx0xGda4
織田信長の家中の諸侍は、ひと月のうち2度ほど、八幡講愛宕講と称して会合し、

初めて聞く話やな

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 18:53:48.72 ID:Un1oa4VD
織田家では月二回、職場内の勉強会兼飲み会をやっていたという事か。

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 19:49:11.27 ID:71UKaADV
織田家中自己啓発セミナー

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 20:33:05.07 ID:Cr5IYuoH
織田家で自己啓発とか
無道なことを

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/14(火) 21:07:10.78 ID:WV2H8aGD
庚申講みたいに実質、ただの飲み会じゃないの?
まあ庚申講はいろいろと危ない相談もされてたんじゃないかって話もあるけど

武田左吉の子

2017年11月03日 20:57

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 21:10:59.46 ID:j17J6I/M
織田信長足利義昭を戴いた上洛戦の時、近江北郡にて坂井右近将監の子である久蔵が、この時わずか13歳にて
鑓を合わせ、彼の働きに義昭ならびに信長より感状が与えられた。
その頃、武田左吉という者の子も同じ13歳で、信長の側に仕えていたが、久蔵の振る舞いを羨ましく思った。

信長は入京すると、京より青龍寺、山崎あたりに退いていた三好勢を続けて攻めた。
この時、武田左吉の子が一番に、三好の陣へ馬を入れた。彼は敵との距離が良い所で馬より降りて
闘おうと思っていたが、其の身、未だ幼く、また馬は癇が強く逸っていたため、降りること出来ず
そのまま敵陣の中に引き込まれ、討たれた。
志は猛しといえども、本意無きことである。

武田左吉はこの他に子が無く、後に土方彦三郎という者の弟を養子とし、その者は武田宮内と名乗った。

(士談)



きうりの紋

2017年10月07日 15:59

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:28:53.28 ID:KxLBGXY6
牛頭天王を信仰する者は、必ず胡瓜を食らうことを禁じている。これを食らうとたちまち邪疫に
感染すると言うのだ。或いは云う、牛頭天王の紋所は木瓜であり、これを”きうり(胡瓜)”と
読み誤ったのだ、とも、

しかし素戔嗚尊(牛頭天王の本地とされる)に紋所があるとも覚えず。
これについては、かつて織田信長がこの牛頭天王を深く信仰し、神輿の類ことごとくに、織田家の紋所である
木瓜を染めて納めたため、終にはこの木瓜が牛頭天王の紋所であると誤って伝えられたのだと言われる。

(今古雅談)



169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 23:39:35.87 ID:sv0B/QpK
瓜にかぶりついていた若いころの信長…

今朝とあけて 麓は柳桜哉

2017年09月24日 16:36

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 14:39:42.65 ID:4xTwE4Xq
織田信長が岐阜に在城していた時、城内に桜の馬場を取り立て、その祝いとして連歌師の里村紹巴
発句をするよう命じた。そこで紹巴は

『今朝とあけて 麓は柳桜哉』

そう連歌したところ、これを聞いた信長は

「城に”あくる”と言う事は禁忌である!時と場合によってはこの城を調伏する言葉であり、
遠島に配すべし!」

と、命じたという。

(士談)



145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 15:34:24.41 ID:WJQIg07t
信長が言うととんちとか禅問答をしているようにもとれる

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/24(日) 19:37:19.83 ID:Tjttvdh3
里村紹巴っていろいろ不運な目に会いつつもギリギリ許されることが多くて運が良いのか悪いのかよくわからん奴だな

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 04:01:35.13 ID:OzTAV6SS
生き残ってる以上死ぬ話を作るにはいかんからな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/25(月) 08:02:54.28 ID:cqcIMXVs
>>147
天庵様は生き残ってるけど、軍記物では死んでるよ

【雑談】信長が生きていたら次に追放されるのは

2017年09月18日 18:37

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 21:31:49.60 ID:GB5g7IWs
初めから預けてあるだけだから仕方ないね

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 02:51:37.49 ID:SAQd3Wid
領地も預けてるだけだからしゃあないつか秀吉も同じだし

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 09:38:19.60 ID:S6O7voU+
堀家の文書だと秀吉も長浜から追い出されることになってたんだよね

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:03:08.13 ID:8hOQvV3e
>>117
光秀が追い出されるのだから、まあ当然そうなるでそ。

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 14:10:19.11 ID:duF2E/F9
滋賀とか奈良って現代だと糞田舎で全く無価値な場所だけど
近江とか大和って言われると輝いて見える不思議
戦国脳のなせる業なり

首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


蜂屋を加えておけば、

2017年07月22日 18:50

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/22(土) 18:44:44.31 ID:q3SVQupX
織田信長の初めの頃、柴田勝家と坂井右近(政尚)の二人が軍奉行を担当し、織田家の弓矢のことは
全てこの二人が指引した。信長はここに「蜂屋兵庫頭(頼隆)をこの両人に加えるように」と命じた。
蜂屋は武功抜群の者であった。

ところが柴田と坂井は、信長に対し
「蜂屋を加えられるのであれば、我々は軍奉行の役儀を返上します。」と、強い拒絶を表明した。

信長はこれを聞いて、
「こういったことは両人も進んで同意すべきなのに、そうしないのは不審である」と、
再び使いを以て命じたが、両人は猶以て役儀の辞退に及んだ。

信長はやむを得ず、両人に対し何故蜂屋を加えるのかを、直に説明した。

「蜂屋については、お前たち両人と同じ武功の者であるとは考えていない。だが彼は
諸事口才のある者である。合戦の最中、戦場から両人のうち一人帰って報告を行わなければ
いけない事もあるだろう。またこちらから両人の一致した判断に疑問を持つこともある。
そういう時、蜂屋を加えておけば、私の元に使いとして送るときも、また判断について
問い合わせるのにも便利ではないか。」

柴田、坂井はこの理に納得し、反対を取り下げたという。

(士談)



108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 02:08:28.81 ID:4+4ziU7k
始めの頃っちゃまだ尾張の頃かな?