FC2ブログ

諸士は難儀に及んでいたと云々

2020年07月12日 17:38

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 13:15:27.07 ID:TOB5fOEN
天正十年三月二十一日、甲州征伐を果した織田信長の元へ、武田穴山(陸奥守入道梅雪)が徳川家康の取り持ち
によって出仕した。國久の太刀一腰、金三百両を進上。信長からは半俗の脇差の三つ刀を下された。そして
今回の甲州征伐における穴山梅雪の行動を信長は誉められ、甲斐駿河の本領を安堵した。
信州松尾小笠原掃部太夫も同じく出仕し、太刀、馬を進上し、本領を安堵された。
相州の北条氏政より太刀、馬、金千両、江河の酒十樽、白鳥十、漆桶二千が進上された。

二十三日、滝川左近(一益)に上野国、並びに信州の内二郡を添えて下され、上州厩橋に移り、また御腰の物も
下された。
深志之城に武田軍の残した兵糧が有り、陣中の衆に下された。
上野国の小幡上総介、織田信忠に出仕し、貞宗の脇差、金五百両を進上した。信忠よりは左文字の脇差が
下された。

北条氏政より、白米二千石が進上された。また徳川家康よりも兵糧の進上が有った。これらは織田軍の陣中にて
諸士に充てがわれた。諸士は(兵糧不足で)難儀に及んでいたと云々。

当代記

甲州征伐で、実は織田軍が兵糧に苦しんでいたとされる記事ですね。



190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:33:50.28 ID:z1pyTWFl
>>189
家康の接待とはいえ、のんびり物見遊山しながら御一行は帰ってるんだよなあ
スポンサーサイト



かつよりと なのる武田之かいもなく

2020年07月11日 17:24

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:17:31.05 ID:3i8UXQ9T
天正十年三月五日、織田信長は甲州征伐のため安土を立たれ、翌日濃州六の渡に飛脚が来て、
『甲信駿三ヶ国異議なく討ち果たした』という旨が伝えられた。
仁科盛信(勝頼弟)の首がここに持参され、信長は大いに悦ばれた。

十三日、信長は信州の根羽に到着されると、ここに武田勝頼、並びにその息子太郎の首がもたらされた。
信長は甚だしく喜悦され、狂歌を読まれた

『かつよりと なのる武田之かいもなく いくさにまけてしなのなければ』

当代記



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 07:17:50.69 ID:jBC+6l/v
勝つしか無い武田勝頼くん ワシと戦いをした結果 負けて甲斐も信濃も失って 品のないことだよね

高野聖誅伐

2020年07月10日 18:50

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 12:29:43.45 ID:9UfOtJty
天正九年八月十七日、織田信長は高野聖を方々にて搦め捕らえるよう仰せに成った。その仔細は、摂州伊丹の
牢人(荒木村重残党)の内二人がかの山に在ると聞き召され、急ぎその者たちを出すように、使者を以て
仰せ遣わした所、返事さえ申さず、あまつさえ使者上下の者共二十余人を討ち果たした事も申し届けなかった。
事に御腹立てられ、方々に仰せ触れたのである。
これによって高野聖数千人が搦め捕られ引き立てられた。その誅伐の有様は非常に哀れであった。

昔、高野聖が諸国に下る時、予め宿を取るという事はなかった。路巷において「宿かや宿かや」と呼びかけ、
これに心有る人は、上下によらず宿を貸した。もし宿がなければ、そのまま路頭にて夜を明かした。

しかし信長がこの年に聖たちを殺害して以来、こう言ったことは無くなった。信長が相果てた後でも、
これ以後元のように戻る事は無く、普通の旅人のように宿を取るように成った。
(殊に現代では、聖は商人のように、衣類など様々なものを持ち運び、これを売却する。
少しの坊をも持つような聖であれば、笈(書籍を入れて持ち運ぶ箱)も持たず、馬上にて国を上下する。
何れも大師の掟に違うのではないだろうか。)

当代記

高野山側の記録だと、この時信長から遣わされた使者というのが非常に横暴で猛反発を受けたとあったりますね。



金銀を 遣捨てたる馬揃

2020年07月09日 18:21

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 13:15:27.85 ID:8tUCxMUS
天正九年、正月二十三日より触れられてた馬揃が、二月二十八日に行われた。
各々美を尽くした色々な出で立ちであった。
馬上の者達は百騎に及び、一番の明智日向守(光秀)は紅の出で立ちであった。
そこから次々と、書き表すのも及ばぬほどの、結構の体であった。

信長はこれらの馬の後に乗られ、先馬の前に(武井)夕庵法師を通した。その体は小袖をつまんではしょり、
白髪をかぶった出で立ちで、鞍に取り付き、まるで誠の老女が馬に乗っていて危ないように見えた。
この夕庵は信長の右筆で、歳は七十余の入道であった。

信長公の出で立ちは、ほほに頬紅をされ、牡丹の造花を腰に指し、冠物にも花を指されていた。
馬先に乗り換えの馬が十疋、それぞれ無量の仕立てであった。或いは唐織、或いは染綾薄、猩々緋などにて
泥障(あおり:鞍の四方手に結び付けて馬の腹の両脇に下げる、泥よけの馬具)とし、例えるべき様もない
結構であった。

信長の馬の廻りには小人衆が紅梅の袷、上に黄衣、立烏帽子、のし付脇差、金の鼻ねち、紅のうてはしりにて
思い思いに乗った。

池田庄九郎は惣金の出で立ちであった。その身については申すに及ばず、馬の毛や爪まで何れも金であった。
馬の毛には、ふのりを以て薄を置いたという

主上(正親町天皇)は御桟敷にて御見物された。馬場は内裏の東に、縦三町横二町ばかりに構えられた。
周りに柳を植えてあった。

また翌日には、「昨日の馬揃残り多し」と羽織頭巾にて馬に乗り、この時猩々緋を羽織った。それぞれ
先の馬上衆が、一夜の間に仕立てたのだという。

そして何者の仕業か、落書があった

『金銀を 遣捨てたる馬揃 象棋に似たる王の見物』


当代記



394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 19:37:38.79 ID:Pvl2OpoO
>>393
金銀を捨てても王様が詰まされなければ勝ちだからね、将棋は
京童としては成り上がりの信長なんぞ捨て駒で、天皇こそ、といいたいのかな

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 21:52:22.55 ID:f3UPKo8d
援助が無ければ没落する哀れな王様なのにか?

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/09(木) 23:58:32.00 ID:Pvl2OpoO
>>395
それが天皇の権威であり、皇家でもないのに京に住んでるだけでぶら下がるぶぶ漬けどものアイデンティティー

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 11:06:40.83 ID:zbAHFZVo
>>393
先頭は丹羽じゃなかった?

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/10(金) 17:12:15.97 ID:ZQ4CsC64
中国攻めのためこの馬揃えに参加出来なかった秀吉が長谷川秀一に宛てた
「馬揃えに参加出来なくて無念だ。せめて各々がどんな出で立ちだったか教えて欲しい」って言ってる書状があるな

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 10:03:43.79 ID:9xGCmwhn
秀吉がキングコングのコスプレで参加していたら実物だわ。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/12(日) 16:13:09.98 ID:z1pyTWFl
>>400
かといって十八番の瓜売りの格好で馬揃えに出られてもなあ

献上された人魚

2020年07月07日 17:38

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:33:40.85 ID:SGT8Vxh6
天正七年二月十八日、織田信長が上洛された。この春、信長公が在京の砌、若狭国の丹羽五郎左衛門(長秀)
が人魚を献上した。これの顔や手足は人と違わず、長さは五尺(約1.5メートル)ばかりであった。
この人魚は岩の上に登ってしばらく寝ており、その所を見つけ、これを取ったのだという。
この在京中に、三条の宗運という町人が、老父に至孝であるという事を信長公が聞かれ、諸役を免許し
米百石を下した。

当代記



381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:43:52.64 ID:1MncSJu9
足がある人魚?

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 13:49:11.85 ID:vnEUtyqx
半魚人?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z
河童やね(適当)

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:59:52.28 ID:emopB1HD
>>380
福知山城に行ったら丹後浦にトドが迷い込んで捕まったという手紙が絵付きで展示されてた
多分トドじゃなくアザラシだと思った

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:10:02.84 ID:3vqzziLb
献上された人魚って食べるの?生け簀みたいなので泳がせるの?

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 15:34:01.50 ID:n4Ey8St4
海獣の類いでしょ
日本だと海獣以外にリュウグウノツカイを人魚と見間違えたという話もあるとか聞いたけど

やっぱ食べるのかな?海獣だったらしばらくは飼えそうだけど

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 20:50:16.68 ID:UOpvQdJP
>>380
八百比丘尼「食べなきゃ(使命感)」

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 21:48:27.41 ID:sY0DV/cH
家康も不老妖怪の逸話あったし権力者あるあるか

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:51:51.78 ID:OWOT8Gkc
>>380
家忠日記に人魚みたいな絵があったね、これのことかな?

と思って調べたら家忠日記のは天正九年に安土に揚がったヒト食い人魚のようだ

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 00:01:29.70 ID:rjLtYiQe
戦国日本ヤバイ

信長の鷹

2020年07月05日 17:34

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 23:32:18.18 ID:K1RlApYW
天正四年十一月、織田信長公は叡覧に入れるため、内裏に鷹を据え、庭上まで参内された。
各供奉の衆の装束は結構を尽した。
退出の後は常の狩の出で立ちにて、東山の鷹野へ向かったが、雪甚だしく、秘蔵の鷹を見失ってしまった。

信長はこれを本意無きことに思われ、「この鷹を据え来た者には必ず褒美を与える」との札を立てた所、
一両日後に、大和国で発見された。信長は甚だしくこれを悦ばれた。

当代記

この時期の信長の威令の強さを感じさせるお話。



371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/05(日) 17:26:01.40 ID:uMAdPURW
>>368
そんなひどい雪の中で鷹狩りすんなよって思ったけど
内裏に鷹を据えるというセレモニーの一環だから延期や中止はできなかったんだろうな

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 08:14:05.60 ID:tQwxA9zj
11月に雪降るとか妄言も大概にしろよ
いくらなんでも盛りすぎだろ

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 09:05:49.99 ID:1iAfCj1a
旧暦計算なら今の11月よりは後ろになるからその年の気候次第ではあり得るんでは。
しかし腹も減ってないのに雪の中飛ばなきゃならんとか、鷹のほうも嫌だったに違いない。

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/06(月) 11:06:26.16 ID:s0CFQ3DQ
天正4年11月20日明け方に京都で初雪、ただ一寸降っただけ
信長内大臣任官お礼の参内が23日
この間、21日~25日の京都は晴(『言継卿記』)

ただし京都の東山じゃなくて近江石山寺近辺で鷹野をしてる(『信長公記』)から
当代記』の通りに滋賀だと大雪だった可能性もほんのわずかながらあるかも

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 07:47:43.39 ID:yPD1u5Ou
そもそも、戦国時代は小氷期で地球全体が今より寒冷な気候だ

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 08:54:49.45 ID:piBEUhHC
信長公記に同じ話があった気がするが、天正4年条には見当たらなかった

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:02:59.13 ID:IvWV8E6Z
御鷹山猟御参内の事
天正5年11月18日

これかな

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:40:20.70 ID:piBEUhHC
>>377
手元ので改めて確認

天正6年11月27日条
「北野まはり御鷹つかはされ、御秘蔵の鷂(はいたか)失せ申候。方々御尋ねなされ候処、十二月朔日、丹波より居上せ進上」

これは見つけたんだが、もうちょっと詳しい描写があったような、なかったような…

公記を見る限り、信長は天正4年11月に上洛参内し、内大臣の官位を得ている。公家にもいろいろ配っている。鷹狩りについてはその後、石山世尊院で二日間、行っている。なんらかの混同が当代記ではあったのかな
京童の噂話が間違って伝わった可能性もあるし

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 10:41:56.90 ID:piBEUhHC
>>374
あ、見落としてました。一次史料をどうもです

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 14:13:15.68 ID:IvWV8E6Z

>>378
>>377も信長公記です。「俄かに大雪降り来たりて」等、>>368の当代記よりも詳細な記述。

同じ日の兼見卿記にも「内府御鷹山也 各着頭巾道服 心々之仕立也 御分国之大名其外馬廻数百人也
見物無比類云々 祇候禁中於小御所 有御盃之義云々 其以後東山へ御鷹山也」(東大史料編纂所より。
転記ミス御容赦)とあるので、当代記の記述(国会図書館DBで確認)が1年ずれてるのでは。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 16:26:01.69 ID:Mg35n5Ah
太陰太陽暦では冬至を含む月を11月とするから11月に雪が降ってもおかしくはない

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/07(火) 23:41:18.03 ID:OWOT8Gkc
>>383
おー、ありがとうございます!これこれ!
越智玄番が欠地を回復する話。
しかし、信長は2年連続、11月に御秘蔵の鷹を逃がしていたことになる。鷹匠の消息は触れられていない。

弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ

2020年07月01日 17:13

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 21:54:30.51 ID:G1TABAxh
織田信長公より九八郎(奥平信昌)が拝領した刀は、目貫口蓋は、去々年後藤光乗に仰せ付け、京都に於いて
掘られたもので、昔、弘法大師が玉造という双紙を絵に書き置かれ、それは、女は色に耽る者なれども、
老年なれば面は猿に似て手にあじか(土を運ぶ道具)を持ち、その中にくわえ蕨など入れ、肘に掛け後ろに
袋を負い、前打ち広げて腰を掛けていたる体が書かれており、信長はこれを見給うと、「この図を写すべし」
と命ぜられ、そうして掘られた口蓋であった。

その頃、この図を明智日向守(光秀)が狩野が絵像に写させた所、尽く出来、眼に点入れまでしてあったのが、
一夜の内にこの絵が腐り果てた。この事を明智に申し上げた所、「権者の筆跡を凡夫として写しけるによって、
このように成ったのだろうか。奇特である」と云ったという。

『当代記』



十七ヶ条の意見書

2020年06月30日 18:00

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/30(火) 01:40:08.43 ID:G1TABAxh
元亀三年の冬、織田信長は十七ヶ条の書付を以て足利義昭に諫言を遂げた。
この諫言の書は信長記(信長公記)にこれ有り、右は何れも忠言である。
後に武田信玄はこれを見て、信長を「ただ人ならず」と云ったという。

元亀四年(天正元年)正月十日、松永久秀は織田信長に降参し、岐阜へ参上した、
この時、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差を進上した。これらは何れも天下無双の名物であった。
このように松永が降参したのは、佐久間右衛門(信盛)の取り扱いを以てであった。

この頃、将軍足利義昭は信長を亡ぼす旨を思い立てられた。これは去る年の冬に信長が出した
諫言の書(十七条の意見書)が御耳に逆らう故であると聞こえた。

当代記



乱以後その猿は居なく成った

2020年06月29日 17:17

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/29(月) 15:44:13.80 ID:tj/soCjd
元亀二年九月十二日、織田信長は叡山を退治した。
近年朝倉義景と内通し、特に去年、越前衆がかの山に陣を敷き、信長に敵対したために斯くの如くとなった。

この時の消息に依ると、衆徒、児童に至るまで、或いは首を刎ね、或いは焼き殺し。逃げ去る者から
衣類を剥ぎ取った。堂舎仏閣一宇も残らず焼き払い。哀れなりし事共であった。

これは偏に近年、叡山が大師の掟に背き、衆徒乱行、殊には去年越前衆が陣を張り、この時伽藍、仏前で
食事に魚鳥を用い、男女が登り乱れ放蕩したため、自業自得の果の道理ではないか。

これについて、山王の使者であるため、この乱の時までは山に猿が限りなく充満していたのだが、
乱の以後はその猿が全く居なく成った。奇特なことであると云われた。

信長はこの時、「後代にもし、当代の衆天下に知られていると云えども、叡山を建立しないと、各々に
起請文を捧げさせた。

当代記



猶以てこのように

2020年06月28日 17:11

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/28(日) 10:40:18.37 ID:vBavp88v
元亀三年、武田信玄は遠州に発向した。この時織田信長公はその歴々の衆を徳川家康公へ
加勢有り、またかの信玄の娘と信長息(信忠)との縁辺の契約もあり得なくなった。
年来家康と信長は別して子弟同然の間であり、その贔屓の沙汰も斯くの如しであったが、
この時の信長の真実の心底は、「家康が滅亡すれば、定めて信玄は信長を討ち、天下を取るべき
企てがある」と予てより推察されていたため、猶以てこのように援助したのである。

当代記



大船検分と茶の湯

2020年06月19日 18:04

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/19(金) 11:40:20.33 ID:eM6MrUNt
大船検分と茶の湯

1578年9月30日、織田信長は第二次木津川口の海戦で活躍した大船の検分の為、昵懇の公家、重臣、側近を引き連れて堺の港へ赴いた。
大船は九鬼嘉隆がのぼりや旗指物をたてるなどして飾り立てており、堺衆は信長の御座船に唐物の茶道具を集めていた。
その他各所から集まった船もそれぞれに武具を並べ立てるなど装飾を凝らしていた。
堺中の人々が着飾って見物に集まり、彼らが衣服に炊きこめた香りがあたり一帯に立ち込めたという。

その後、堺衆の今井宗久、紅屋宗陽、津田宗及、天王寺屋道叱の屋敷に順番に御成した。
この時信長に同道したメンバーが宗及の『天王寺屋会記/自会記』に記録されている。

・宗及の茶の席に同席した者
近衛前久、松井友閑、佐久間信盛、滝川一益

・御供衆として供奉した者
細川昭元、津田信澄、細川藤孝、佐久間信栄、筒井順慶、荒木村次、
万見仙千代、堀秀政、矢部家定、菅谷長頼、長谷川秀一、大津長昌、
河尻秀隆、三好康長、若江三人衆



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/20(土) 03:28:51.70 ID:r6tZbjLO
河尻がいるのが興味深い

298 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/06/21(日) 11:29:41.97 ID:VyXDYm6h
有閑、佐久間、滝川がトップで
中でも息子も供奉している佐久間が別格か。

存命は 又信長や忍ばれん

2020年06月13日 17:26

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/13(土) 01:31:09.72 ID:C/rfgG4J
永禄十二年(1569)五月二十日、織田信長は勢州の北畠が上洛しないため征伐するとして、数万人を率いて
彼の国へ発向し、同十一月まで百余日在陣し、所々の城を攻め破り、或いはまた和議を知れて、勢州を残らず
一統に退治すると、直ぐに同十一月十一日、勢州より上洛し、この事を将軍・足利義昭に言上すると、
公方家は大いに御感有って、國光の御脇差を下賜され、御暇を賜り帰国して、長陣の疲労を休息し、大将も士卒も
相悦んで越年した。

そのような中、信長より任命された朝山日乗村井貞勝島田秀満の三人の奉行は、諸公家と相談し、旧式
先例を正し、禁中の御修理の事も三ヶ年で成就したため、今上の御移徒があった。
諸公家、堂上の面々も皆、信長より宅地を修理され、乱中に領地を奪われた人には、旧規証文の旨に任せて
各領地を還付されたため、朝廷も諸公家も皆々安堵の思いを成し、

「織田弾正忠信長は近代無双の執権也」

と、都鄙遠近ではそう美談した。然れども、京童の曲として、その頃このような一首の落首があった

「存命は 又信長や忍ばれん 憂と三好ぞ今は恋しき」

續應仁後記

本圀寺の変の後くらいの、信長の評判について



桶狭間後日譚

2020年06月11日 17:03

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 02:07:06.11 ID:HTSH4nvb
上総介信長は御馬の先に今川義元の首を持たせられ御急ぎなさり、その日の内に清州へ御出あって
翌日に首実検をなされた。首数3千余あり。そこへ義元の差された鞭と弓懸を持った同朋衆を、下
方九郎左衛門と申す者が生け捕りにして進上した。「近頃の名誉を仕った」との由で御褒美があり、
御機嫌ななめならず。

同朋衆は義元前後の始末を申し上げ、首々に一々誰々と見知り申す名字を書き付かせなさった。か
の同朋衆には、のし付きの大刀脇差を下された。そのうえ10人の僧衆を御仕立てになり、義元の
首を同朋衆に添えて駿河へ送り遣わされたのである。清州から20町南、須賀口・熱田へ参る海道
に“義元塚”という塚を築かせなさり、弔いのためと千部経を読ませ大卒塔婆を立て置きなさった。

今回、分捕りになった義元が日頃差されて秘蔵した、名誉の左文字の刀を召し上げられて何度も切
らせられ、信長は日頃差しなさったのであった。御手柄は言葉で申し尽くせない次第である。

――『信長公記 首巻』


桶狭間の戦場で義元の同胞衆の権阿弥という者は、義元の差された弓掛けと鞭を持っていた。下方
九郎左衛門という者はこの権阿弥を生け捕って大将へ奉る。(中略)大卒塔婆を立てなさり「信長
は情けある大将かな」と、近国までも沙汰しけり。

熱田大明神へも今回の御願成就があった奉幣を捧げ、御修理を加えなされた。また今回、義元が陣
中へ差しなさった松倉郷義弘の刀をこちらへ分捕りに取って差し上げると、「これは天下の重宝で
ある」と信長公は御秘蔵なされ、この刀を御差料になさった。

――『織田軍記総見記)』



濃州稲葉山由来之事

2020年05月29日 17:13

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 03:19:43.35 ID:L0gBJ9YR
濃州稲葉山由来之事

そもそも当国稲葉山は不双の勝跡で、いわゆる和歌の名山なり。当山は3つの名があって“金華
山”“一石山”“破鏡山”とも申すなり。この場所を言う和歌はおよそ21首が万葉集に見える。

仁明帝の御宇に中納言行平卿(在原行平)は勅命によって、陸奥国より金華石を引かせられた。
この石が濃州に到着する。その頃またにわかに勅詔あって、行平を京に召し上げられた。行平
はかの石を捨てて上洛なさる。後にこの石を召して山の神と崇め“金太大明神”と号したという。
行平卿がこの時に歌を詠ぜられたことは、世に知られている。

そもそも当大明神は、人皇11代・垂仁天皇の第8の皇子・五十瓊磯城入彦命を祭る所である。
清和天皇の御宇、貞観元己卯年(859)2月、正一位因幡社と勅額を賜る。蓄奥の院峰権現
は陰神にして五十瓊磯城命の后という。

また峰の権現は垂仁天皇を崇めるともいう。いわゆる“岐山”と号す。麓の里を“岐阜”と号する
ことは往古よりの称号で、明応から永正(1492~1504)までの旧記に多く載せるとこ
ろである。後世に織田家が名付けたということは信ずるに足りない。

ただ一説に往古は加納を沓井・吉田と称して、岐阜を今泉・忠節・井の口・宗田と言ったのを、
織田家入城の時に及んで沓井・吉田を合わせて加納と言い、今泉から宗田までを岐阜と称した
のだという。

――『土岐累代記



【雑談】織田信長と弟・信勝との争い等について

2020年05月24日 16:20

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 19:46:27.56 ID:mS797We3
自分と弟の家老両方に見切られた信長が勝利する運の強さは異常

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 00:07:33.67 ID:B7yyK1lo
信勝方に油断があったんじゃないのかな

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 01:29:39.83 ID:xoSedNu4
林秀貞「三代相恩の主人だから押し込めて腹を切らせるなんてとんでもない」
稲生の合戦で大苦戦中の信長が怒ると、優勢の柴田勢は家臣だから威光に恐れて逃げ崩れた
                    (上の『総見記』と『信長公記』だと若干合戦の推移が違う)

もちろん、太田牛一らの信長称揚もあるだろうけど
なんだかんだで信秀の認めた当主の威光も大きかったんじゃないかと

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 11:51:51.26 ID:T2cDKMkS
むしろ穏健的な信成が正当な後継者だったという論文最近見たな
なかなか衝撃的

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 12:53:05.09 ID:8CTNbWdt
>>213
スケート選手がなんかしたのか?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 14:17:31.03 ID:rR8W1qw3
多分信勝と書き間違えたんだろう
論文出すだけならとんでもだろうとなんだろうと出せるからね、とんでもな方が衝撃的になりやすいし

内容見てないのでどういう証明のされ方をしてるのかわからんけども

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:14:56.39 ID:n0g5aAoo
信広と間違ったんじゃない?
人質になったせいで廃嫡されたんじゃないかって聞いたことある
そういう論説があるのかまでは知らんけど

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:33:31.57 ID:8CTNbWdt
いくらなんでも同母弟の信勝が嫡男なのはありえない。齋藤家が嫡男でもない輩に娘を嫁に出すわけがないし。
ただ、信秀の居城の末森城を信勝に譲られたのは大きい。事実上、二頭体制になっていた可能性は高い。

信広は捕虜にならなきゃ家督継いでいた可能性はもちろんある。
けど、大きな実績挙げる前に捕虜になってアウトだったからなぁ。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 15:37:57.30 ID:0FVd0Msv
文書上は信行は信勝だったけど
信長の上総介の名乗りに対抗して
弾中正建成に(建は守護代家の通字)改名
稲生の戦いで後継者争いに負けた後は「信成」に
と谷口克広「天下人の父・織田信秀」に書いてた

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 17:43:42.67 ID:6knF1Ax8
谷口先生がいうのなら、そうなのだろう。

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 19:27:36.34 ID:B7yyK1lo
いまは分割相続・共同統治からの主導権争いって見方なのかな?

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 07:32:50.31 ID:lbGMsvkA
>>220
タワケの語源って知ってるか?

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 22:04:49.63 ID:Z78nCZoG
>>225
田分け?
戯け?

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 23:28:49.96 ID:388ZJOBP
古事記の仲哀天皇段の
上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚(うまたはけ)、牛婚(うしたはけ)、鶏婚(とりたはけ)、犬婚(いぬたはけ)
近親相姦や獣姦の禁止の箇所で出てくる「たはけ」が初出ではないか

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 02:45:00.99 ID:7sddv3kp
たわけ うつけ 
似てるよね。どっちも信長のイメージ

まず今回は御赦免なさった

2020年05月23日 16:46

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 06:05:32.82 ID:QRLkc+Fv
(稲生の戦い後)

それより後、敵は末森・那古野に籠城したのを節々御働きなされて町口を皆々放火し給う。しかる
に信長公の御母堂(土田御前)と武蔵守殿(織田信勝)は御一緒に末森城にいらっしゃたが、清州
より島田所之助、村井民部を御使に遣わされた。

武蔵守殿謀叛の罪科を今後御赦免なさって和睦させなさるようにとの由で信長公へ様々の御詫言が
あり、信長もさすがに御舎弟といい御母堂の御詫言といい、いずれにしても捨て置き難くすなわち
御同心なされた。

以来、武蔵守殿より信長公へ疎意あるまじき由の起請文を書き遣わされ、御母堂の御同道で武蔵守
殿、ならびに柴田権六(勝家)、津々木十蔵(蔵人)が黒染の衣を着て清州城へ参上申し、御目見
と御礼を申し上げた。

林佐渡守(秀貞)はひとしお罪科の者で御赦免なりがたき輩であったが、諸々の御詫言を申し上げ、
先年に安房守殿(織田信時)御同道で彼の館へ御入りになった時、舎弟の美作(林通具)は信長公
を殺害しようと申したが、佐渡守は差し止めたということをよくよく聞こし召し届けられて、まず
今回は御赦免なさった。

これも首を延べて清州へ参り御許しの御礼を申し上げれば、信長公よりあまつさえ元の如く那古野
城を守るようにとの旨で安堵の御書を賜った。

――『織田軍記総見記)』



尾州稲生合戦事 同美作守被討捕事

2020年05月22日 18:13

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 03:50:07.09 ID:Qm/OZvwl
尾州稲生合戦事 同美作守被討捕事

弘治2年(1556)の夏頃より、林佐渡守(秀貞)・同美作守(林通具)・柴田権六(勝家)3人
の勧めによって武蔵守殿(織田信勝)は謀叛を企てられ、信長公御台所入りの御知行・笹木三郷を押
領なされた。このままではきっと河際に砦を付けられ、河東の御知行をも押さえられること必定であ
るとして、こちらより先立って清州の東50町にあたる名塚村という所を砦の城に拵え、佐久間大学
(盛重)を籠め置きなさった。

かくてこの年の8月、霖雨晴れ間なく降り続き水洪大いに流れるのを良き時節と思ったか、同月24
日朝、柴田権六勝家は末森城を出て1千余人の軍兵を引き連れ、林美作守は那古野城より7百余の人
数を率いて両口より我も我もと名塚村へ押し寄せた。

名塚村の砦よりこの由を清州に告げるため、当月21日より毎日の大雨で小多井河の水は出で鳥でも
なければ渡り難きものを、さすが水の上手を便りにして難無く川を泳ぎ越し、この由を清州へ申し上
げた。

信長公は聞こし召され「名塚村の砦はようやく塀1重堀1つ、そして大学は無勢で籠っている。両手
の大軍を引き受けて難儀に及ぶことは察し入る。今日某が後詰せねば、間違いなくこの城は落ちるで
あろう。後悔何の益かあらん。速やかに打ち立つべし!」と、上下7百に足らぬ人数を引き連れて、
即時に清州を出発されて小多井河に到着なさった。

水上みなぎり波高く渡れる様子もないところ、河向かい名塚の砦では合戦は今が盛りと見え、弓鉄砲
鬨の声おびただしく聞こえたり。信長公仰せられるは「私がこの河を渡りかねて目の前で味方を討た
せれば、これ以上の弓矢の恥辱はない。我と思う者は続いて渡れ!」と下知し給い、自身馬を入れて
さすがの大河を真っ先に駆けて一文字に渡りなさる。大将が渡り給うのを見て、総勢は我劣じと乗り
入れ、7百の人数残らず大河を渡り越えて向かいの岸に駆け上がる。

柴田これを見て稲生村の外れの道を西向きに掛かり来る。林美作は南の田方より北向きに備を立てる。
信長公は総人数を2つに分け織田造酒丞直政(信房)・同勝左衛門に人数を添えて柴田の方へ差し向
けなさる。信長公は林の陣へ指し向いて、同日午の刻に辰巳へ向かって無二無三に合戦を始められた。

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 03:52:39.31 ID:Qm/OZvwl
一番の合戦は柴田がいささかの勝利を得て、造酒丞は打ち負かされた。山田治部左衛門・佐々孫助を
始め数輩が討死し、山田の首を柴田自身が討ち取って残る軍兵を散々に追い崩し、信長公の御前近く
に追い掛かる。信長公御馬の周りには森三左衛門(可成)を始め、わずかに持槍の中間ばらまでのよ
うやく40ほどであった。

織田造酒丞・同勝左衛門は大原という大剛の者を突き伏せ首を奪ったところへ敵兵多く取り掛け、合
戦すでに大事と見え、信長公は大声で「憎き奴ばらめかな!」と御怒りになれば、さすが主君の御事
なので敵ながら恐れ憚り、そのまま掛かることはできなかった。河村助右衛門はこれを見かね、御馬
の先へ4,5町ほど進み出て晴れなる討死をしたのだった。

美作守はいよいよ勝利に誇り、信長公の御方を捨て置いて逃げる勢を追いすがって切り掛かるのを、
信長公は南へ向かって横合いに突き掛かりなさる。森三左衛門以下が槍を取って進み掛かれば、美作
勢は敗軍して信長公自身で美作を目掛け給うと、近習に召し使われた黒田半平が槍を持って美作に渡
り合い互いに突き合って、半平は左手を切り落とされた。美作も戦い疲れて互いに息継ぎするところ
を信長公はキッと御覧になり「天の与えた幸いなり!」と自身槍を引っ下げ美作を突き伏せなさった。

美作も剛の者でなお働きたるところを、御小人の口中杉若という者が走り掛かってついに美作を切り
留め首を取って差し上げた。杉若は今度の御褒美として後には侍になされ、黒田杉左衛門と名乗らせ
なさった。

織田造酒丞の下人の禅門という中間も敵方の勇士・河辺平四郎を切り倒し、主人に「この首を御取り
なされ!」というのを、造酒丞は申して、「いくらでも切り倒せよ!私めは首を取るに及ばず!」と、
なお先へ進んだが、造酒丞も森三左衛門も終始戦の下知のみしてついに首を取らなかった。

さて柴田権六は造酒丞・勝左衛門・織田左馬允(津田盛月)・佐久間大学などの諸勢に向かってなお
支えて戦っていたのを、信長公は大声を揚げて「林美作は某が自身で討ち取ったるぞ!柴田めを余す
な漏らすな!」と、一度にドッと突き掛かり給うや否や、その御威光に騒ぎ立ってさすがの柴田も崩
れ立ち、四角八方へ敗軍した。

ここで橋本十蔵という者は佐久間大学に討たれた。前田又左衛門利家はその頃は未だ犬千代といって
16歳の若武者であったが、敵方の宮井勘兵衛が射た矢を右の眼の下に受け止め、その矢を抜かずに
ついに勘兵衛を討ち留め、首を取って御目に掛けた。誠に古の権五郎景政(鎌倉景正)にも劣らない
働きであると皆人これを誉め合った。

さて信長公の御勢は皆々馬を引き寄せて打ち乗り、敵が逃げるのを追って行き、小幡守山の辺りまで
ことごとく追い打ちした。これより追い捨てて引き返し清州城へ御入りになり、この日は御休息用心
なさって討ち取った首を翌日に御実検なされた。

まず林美作守を御大将・信長公自身がこれを討ち取り給う。鎌田助之丞を織田左馬允が討ち取る。富
野左京を高畠三右衛門が討ち取る。宮井勘兵衛を前田又左衛門が討ち取り、山口又五郎を木全六郎三
郎が討ち取る。橋本十蔵を佐久間大学が討ち取る。大脇虎蔵は織田勝左衛門が討ち取る。角田新五郎
を佐々内蔵助(成政)が討ち取る。この他に河辺平四郎を始めとして屈強の首を討ち取り、その数は
450余とぞ聞こえける。

信長公は清州城へ御居住以後、初めての勝ち合戦でそのうえ逆心の張本人である林美作を討ち取りな
さったと、殊の外御怡悦であった。

――『織田軍記総見記)』



207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 11:49:34.21 ID:sEvfHqod
林美作を討ったのが大きい

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/22(金) 15:29:52.42 ID:9CMjUVvv
よく勝家は許されたよな。信長政権が続いたら、いつか追放されたかもしれないけど。

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/23(土) 09:01:54.02 ID:pvlENMfI
>>208
後継が無能だったら佐久間と同じ道を辿る

下郡半国も過半は御敵となったのである

2020年05月11日 17:37

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 02:53:00.32 ID:2m/XX9y0
(長良川の戦い後)

戦が終わり首実検をすると(斎藤義龍は)信長の御陣所である大良口へ人数を出した。信長は大良
から30町ほど駆け出て、および河原で戦い合う足軽合戦があって、

山口取手介 討死
土方喜三郎 討死
森三左衛門(可成) 千石又一に渡し合い、馬上で切り合って三左衛門は脛の口を切られ引き退く。

しかし、山城(斎藤道三)も合戦に切り負け討死の由なので、信長は大良の御本陣まで引き入った
のだった。ここで大河を隔てていたので、雑人・牛馬をことごとく退かせなさり、殿は信長がなさ
るとの由で全ての人数に川を越させなさり、上総介殿(信長)の乗られる御舟1艘を残して各々は
川を打ち越えた。

すると馬武者少々が川端まで駆けて来た。その時に信長は鉄砲を撃ちなさり、敵はそこから近くに
は寄らず、信長はそこを去って御舟に乗られて御越しになった。

そのようなところで、尾張国半国の主・織田伊勢守(信安)は濃州の義龍と申し合わせて、御敵の
色を立てる。信長の館・清州の近所、下の郷という村を放火したとの由が追々注進された。信長は
御無念に思し召し、ただちに岩倉口へ御遣わしになって岩倉近辺の知行所を焼き払い、その日の御
人数は御引き取りになった。

このようであったため、下郡半国も過半は御敵となったのである。

――『信長公記 首巻』



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 15:47:24.33 ID:YxnV2kQk
土岐のご落胤なんてのは取って付けた名分であって実際は国人領主に担ぎ上げられた義龍が道三を討っただけ
伊達も武田も似たようなものでしょう

西明寺の焼き討ち

2020年04月18日 18:56

12 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/18(土) 11:56:52.65 ID:25IT3XhX
西明寺の焼き討ち

西明寺は滋賀県犬上郡にある天台宗の寺院。金剛輪寺、百済寺とともに「湖東三山」の1つに数えられる名刹だが、
ある時、滅亡の危機に瀕したことがあった。

元亀2年(1571年)、延暦寺の焼き討ちを行った織田信長は、この機会に比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを計画した。
当時の西明寺は十七の諸堂、三百の僧坊を持ち、何百人もの修行僧がいる一大寺院だったのでその対象となってしまった。
信長の命を実行するため、佐和山城将の丹羽長秀・河尻秀隆両将が軍勢を率いて西明寺に迫った。

西明寺では僧侶と周辺の住民が守備の体制を固めていた。しかしある僧の機知により、自ら房舎に火をかけ、全山焼失のように見せかけることで御本尊を守るという手を打つことにした。
僧侶らは山門近くは徹底的に燃やし、特に本堂前では一層激しい火災を発生させたため、丹羽、河尻はこれを確認すると満足して軍を返した。
この様にして、西明寺の本堂、御本尊・薬師如来、山奥に位置する三重塔、二天門は焼失を免れ現在に伝わるという。

西明寺略縁起
『2014年11月7日 日本経済新聞電子版 -織田勢も畏れた?極彩色 西明寺の本堂・三重塔(時の回廊)
滋賀県甲良町』



13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 14:21:12.11 ID:ZzvyIiea
丹羽川尻の二人も気が進まなかったとこがあるかも

【雑談】信長と”天下”の関わりについて

2020年04月11日 14:49

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 14:22:51.90 ID:E6v72Oay
そも天下人なる気満々ですって大名いないって言いきってしまっていいんじゃない?
信長も成り行きで義昭追放しちゃっていつの間にか天下人にならざるを得ないって感じだし

みんな成り行きでそうなっちゃってるだけで信長の野望みたいなみんな天下狙ってるってのは幻想じゃないかね
二天戴かずが前提思想の三国時代の皇帝とはまた全然違うんだしさ

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 21:03:16.67 ID:6VXTQWG8
天下統一なんて言い出したら、周りの大名全員敵になるんだし、なかなかそんなこと言えないわな

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:34:41.43 ID:8eO/gKZ8
言えないし、そんな言えもしないこと狙わないわな
基本的に戦国大名権力て中央から自立した地方政権目指してる

元々三好政権は管領家の有力家臣だったからこそそれに代わって
中央政権を握ったわけだしちょっと意味合いが違う

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 22:40:59.69 ID:ML/TB4kM
信長は義昭連れて上洛してから一年後にはもう天下を差配する気満々だっただろ

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/09(木) 23:13:46.94 ID:fCteDSrE
天下を差配ってのが義昭を盛り立ててって意味ならそうかも

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 20:25:12.48 ID:8cJCxjG2
>>942
秋に義昭を上洛させて年明けすぐに殿中御掟で義昭縛ってるんだから義昭なんかお飾り程度、せいぜい和睦便利ツールの認識だろ

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 20:45:15.98 ID:tmPlr+RY
殿中御掟は至極当然のものってのが今の研究よ
あれは縛りでもなんでもなく、当時の将軍の慣習をそのまましたためたと見るべきって感じなんだそうな

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:11:50.75 ID:8cJCxjG2
という体裁で義昭をコントロールしてるわけだが
本当に義昭親政を望んでるなら御内書の発給をやめろとかましてや上意を得るに及ばずとか言わんわ

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:21:02.64 ID:tmPlr+RY
うーん、その辺りもちゃんと理由があって信長は蔑ろにしたわけじゃないんだけど
多分説明をいくら重ねてもあなたは納得しないだろうから
とりあえず最近の信長研究のいくつか追うのをおすすめするよ

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:35:41.94 ID:8cJCxjG2
>>957
君こそ新しい研究に振り回されすぎ
歴史研究ってのは前の研究否定しないと始まんないから一般人は騙されやすい
気をつけな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:43:04.83 ID:tmPlr+RY
その辺りも読んだうえで納得できる研究として最近の研究読んでるから、振り回されてないと自負してるよ

とりあえず最近の研究だからって理由で読まない信じないとかしないで読んでみてね

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 21:48:02.59 ID:q/S1iuqm
事実として、殿中御掟は出されたあともまるで守られていないし、
信長側もそれを、少なくとも記録上は問題視して無いんだよな。

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:09:39.65 ID:8cJCxjG2
>>960
追加の五ヶ条を何のために出したと思ってんのか

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:19:19.41 ID:tmPlr+RY
信長の求めてるのは今までの慣例の室町公方としての義昭であって
節操なくそこらじゅうにお手紙攻勢しかけて将軍親政を目指したかったであろう義昭の思惑とは別やからね

ただそれはおみこしにしたいとは別やろって話
それこそ最初から言う事聞かせたいなら追加なんて形じゃなく最初から出すわけでな

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 22:59:05.69 ID:8cJCxjG2
>>962
なんで義昭に従うつもりの信長が義昭の目指したい思惑を無視してコントロールしようとするんや?自分でおかしなこと言ってると思わんのか?
そもそも室町幕府のオーソドックスな幕臣であることに甘んじるならなんで義昭からの職を受けんのや?
なんで慣例通りに京に住まずに岐阜に留まり続けたんや?
信長は追放するまでは義昭に従って室町幕府を盛り立てようとしたって視点は面白いかもしれんが色々説明できんことが多すぎると思わんのか
まぁもうスレと関係無くなりすぎたんでもうこれで仕舞いにしますわ
すんませんな皆さん

964 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/10(金) 23:07:37.57 ID:mN+/uhzy
学者の新説ってのは主に業績アッピルのためだからな
最近は「実は~~」ってのに弱いやつが増えたおかげで新説のバーゲンセール状態

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:08:09.38 ID:9u0C0cg2
将軍より幕府が大事っておかしなもんじゃない、この時代でもいくらでも例があるし
その後もある、お家を守るために藩主を押し込めるってね

最近の研究だと、信長は管領と同等の扱いを幕府・朝廷から受けていたという説もある

京都に邸は、実はなんどかしようとした、義昭の斡旋もあった
その都度いろんな理由で案が潰れているけど

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:18:03.47 ID:tmPlr+RY
君はそこ疑問に思うのか
いや従うって別に将軍に好きなようにさせる事でもなんでもないでしょ?
ましてや今までの将軍家の慣習を完全に無視して行動しようとするなら猶更

義昭からの職を断るってのはどこの話をしているのかちょっとわからなかったので返答を控えさせていただきます

また慣例通りも何も信長は幕臣でありつつも国の当主です、住まないのは義昭なんてどうでもいいってのは暴論が過ぎるかと

それこそ義昭追放は義昭をおみこしにしたかったからだっていう結論のために無理くり行動をいくらか無視したり無理のある動機付けばかりじゃないですか、改めて言いますが偏見持たずに一度最新研究も読んでみてください
こちらもお騒がせしたことをお詫びします、皆さん申し訳ありません

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/10(金) 23:55:07.04 ID:RKKErLK6
俺は評価するよ

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 00:06:07.03 ID:7FRNHSYh
最新研究連呼するだけで具体的な論拠無し