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太刀受けの阿弥陀如来

2020年10月22日 18:16

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/22(木) 00:31:52.31 ID:AywwUuma
ではその香川から

太刀受けの阿弥陀如来

戦国時代、土佐の長宗我部元親が讃岐を平定しようと、阿波から乱入してきた。そして本山寺を
本陣としようとしたが。この時の住職は
「ここは殺生禁断の地であり、立ち入られては困る。」
と言って、長宗我部軍の要求を拒否した。
すると兵士たちは、やにわに住職を、一刀のもと斬り殺した。

そして寺院の中に入ろうとすると、先程斬り殺したばかりの住職が本堂の縁側に立って、兵の侵入を
拒んでいた。これは不思議なことだと思って彼等がよく見ると、赤い血の跡が点々として、本堂の
内陣の中まで入っていた。尚もその跡を辿ったところ、厨子の中にまで血の跡は続いていた。

厨子の扉が少し開いていたため中を覗くと、脇仏の阿弥陀如来の、右の肘から血が流れていた。
「さては阿弥陀如来が住職の身代わりの成ったのか」と恐ろしくなり、長宗我部の軍は早々に
引き退いていったという。

これ以後、その阿弥陀如来は「身代わりの阿弥陀如来」と呼ばれるようになった。

『巡礼と遍路・寺々の物語』



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/22(木) 07:59:12.36 ID:JQqpQXTA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5989.html
同じ話は前にも出てた
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長曾我部元親の降伏

2020年01月02日 15:46

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 02:30:52.93 ID:4TxiWVEV
天正十五年の夏、太閤様(豊臣秀吉)より四国に御討手の勢が下ることを、長曾我部元親公は聞き及ばれ、
防衛のため城ごとに御手分けを成され、一宮へは江村孫左衛門(親俊)、谷忠兵衛(忠澄)の両頭が
仰せ付けられた。

ここには上方勢の内、大和大納言殿(豊臣秀長)が向かわれたが、大納言殿はこの城に入った谷忠兵衛が
知慮有る者と聞き及ばれており、未だ城攻めを行わない先に、谷に対し
「自分が扱いをするので、長曾我部元親へ降伏するよう伝えるように」と仰せ付けられた。
谷は江村孫左衛門と相談し、秀長軍と矢留(停戦)を申し合わせ、神文の一札を請い、羽久地(白地)の城へ
参ると、この事を詳細も報告した。

ところがこれを聞いた元親公は以ての外に立腹され、谷忠兵衛は即時に面目を失った。しかし谷は、これが
一大事の儀であると理解しており、終夜に渡り長宗我部家の総老中と相談を極め、何れも谷に同心した。
谷は三日間この城に留まり、総老中たちは元親公へ御諌め申し上げた、終には元親公もこれに同意した。
そして谷忠兵衛と老中の一札を取り、一宮に帰ると大納言殿へこの事を申し上げ、降参の首尾は相調った。

これ故に城中の者達も外に出て上方勢と出会ったが、上方勢は第一に馬が大きく、物具等も花やかで、
千騎が二千騎にも見えた。
それに対し四国勢は、第一馬細く、物具等も侘びしく、千騎が五百騎ほどにしか見えなかったと伝え聞いている。

同年十月、太閤様へ元親公の御降参が成った時、谷忠兵衛もこれに御供をし、太閤様に御目見得仕り、
家助の御刀を拝領した。この時人は皆、「谷忠兵衛は特に侍名利の者である」と褒め称えたという。

その後、谷忠兵衛は中村の城主を仰せ付けられ、この中村で相果てた。現在も正福寺にその位牌がある。
この谷忠兵衛の嫡子は豊後陣にて長宗我部信親公の御供をし、一所にて討死した。信親公御死骸の
御迎えにも、この忠兵衛が遣わされたと伝えられている。

なお、先にある神文の一札とは、美濃守殿(豊臣秀長)より元親公の御身上について、四国の内三ヶ国は
御取り上げになり、本国土州一ヶ国にて御断成されば、自身がその扱いを成すと申され、この時に
江村孫左衛門と申し合わせ、谷忠兵衛が元親公を諌め奉る為に頂いた神文一札なのである。

(長曾我部覺書)

長曾我部元親の降伏について



どうして信長の命を受けられようか

2020年01月01日 17:32

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/01(水) 05:18:10.53 ID:f2m7axWc
長宗我部元親は、織田信長が上洛する以前より、明智光秀を通じて音信を成し、また斉藤内蔵助(利三)は
元親の小舅であり、故に斎藤、明智は専ら信長に対し、元親との和睦を進め、また元親は加久見因幡守を
使いとして太刀、馬、黄金十枚、鷹を献上した。信長はこれを悦び、元親の嫡男彌三郎に「信」の字を
賜った(これは明智がかねてより信長の申し述べていた故であった)。またこの献上の謝礼として太刀、馬を
元親に贈り、且つ四国は元親の切り取り次第とする朱印状も賜った。

ところが信長の上洛後、讒言をする者があり、「元親の勇名、彼は四国を平らげた後、必ず天下の患となります。」
と説いた。信長はこれに同意し、使いを遣わして元親にこのように伝えた
「阿波半国(南郡)、土佐は元親の領分とする。讃岐、伊予の二州は信長に献ずべし。」
これを聞いた元親は大いに怒った
「四国は私が切り取った国である、どうして信長の命を受けられようか。」と、返報すらしなかった。
これに対し、明智はまた使いとして、斎藤利三の兄である石谷兵部(頼辰)を遣わし、「和議を破るべきではない」
と述べたが、元親の怒りは堅く、明智よりの信長への使いも絶えた。

信長の子である三七信孝が四国を領するために出発し、三好笑岩がその先鋒とされた。信孝は陣を泉州岸和田に
敷き、五月下旬に、三好笑岩が先に阿波に至り勝端を攻め落とし、一宮蛮山に城を築いた。

六月二日、織田信長明智光秀のために弑せられた(四国の違変によって、斎藤利三がその身に災いが及ぶ事を
思い、明智に謀反を決意させたのだと言う)

(長曾我部譜)

いわゆる本能寺四国説ですね



721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 00:24:37.47 ID:8UXIolu7
>>713
長宗我部の国は俺のもの
俺の国も俺のもの

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 03:02:16.34 ID:GqVm1U9D
>>721
まあ、本能寺陰謀論はあくまで陰謀論だからどうでもいいとして、
この頃の信長は北条に対しても非常に高圧的な態度だったのがちょっと不思議。

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 06:26:47.36 ID:OtrX6ndU
北条が甲州征伐で役に立たなかったから?

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:04:35.65 ID:Wcs3LzPY
>>723
むしろ甲斐制圧したからじゃないかしら。
信長って、武田や上杉、毛利に対しても最初は低姿勢だったけど本願寺降したり勢力拡大や地盤固めしていくに連れ高圧的になってくし。

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:08:11.91 ID:Wcs3LzPY
>>724書いてて何となくジョジョの奇妙な冒険3部のDIO思い出した。

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 08:38:24.09 ID:i89aLd10
低姿勢にしてた武田上杉毛利に裏切られて
下手すれば滅亡に追い込まれかけたんだからキレてもしゃあない

727 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/02(木) 08:52:34.82 ID:xZSYssKi
>>726
盟友焼き味噌ダヌキを攻めた武田はともかく、上杉は自分からちょっかい出してませんかね?
毛利も安芸門徒の総本山たる本願寺に頼まれたら嫌とは言えないし。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/02(木) 09:50:29.58 ID:Uvjf7L6k
>>724
信長だけじゃなくてあの時代のほとんどの武士のメンタルだと思うぞ

信長四国征伐の事情

2018年10月08日 18:37

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 17:44:01.59 ID:N7Ecm7CH
元親(長宗我部元親)は天正4年(1576)よりおよそ7年の間に四国を切り従え、天正10年には元親が
ことごとく押領した。(原注:長曽我部記・土佐軍記)信長公はこれを御聞きになって元親に対し、

「土佐・阿波両国は与えよう。伊予・讃岐は献上せよ」と仰せ遣わされた。元親は「これは思いも寄らぬ仰せ
かな。それがしが四国を押領したのは、まったくもって信長から恩賜されたわけではない。すべてそれがしが

数年武力をもって切り取った国々である。何の子細があって信長に進上することだろうか。仮に討手を差し
下されようとも、どうして容易に避け渡すことであろう」と返答した。これに信長公は、

「元親は猛勇に誇り、不礼の返答をしたことは捨て置けぬ。それならば武力をもって討ち滅ぼすべし」と仰せ
になって三男・三七信孝に四国を拝領なされ、「手柄次第に切り取るべし」と丹羽五郎左衛門長秀・

織田七兵衛信澄(津田信澄)・蜂屋伯耆守頼隆を差し添えなさった。この輩は「近日中に四国へと押し渡って
長宗我部の領国をことごとく切り取り、元親のこの頃勝ち誇る矛先を挫く」と大軍を引き連れ摂津住吉の浦に

参着した。折しも梅雨の晴れ間もないので大坂の城で人馬を休め、雨が晴れて順風の時節を待って過ごした。

古写本の長曽我部記、ならびに土佐軍記を捜索するに元親は四国押領の後は織田殿へ5,6度も使者を出して
ますます昵懇との旨を記し、織田殿がとかく争論したとは見えない。まして信孝の四国拝領のことも聞こえず。

今その事情を按ずるに、元親は明智光秀の被官・斎藤利三の妹婿である。それゆえに元親がその初め織田殿へ
通じた時も光秀の計らいであっただろう。とすれば光秀の救援となるのは元親の右に出る者はいない。

織田殿は近頃光秀を快しとされなかったために、その助けとなるであろう元親をまず除きなさらんとの内意で
元親へは御指図もなく信孝らをただちに討手に遣わされたのか、または三好笑岩(康長)は秀吉の甥・秀次を

養子としたわけだが、いま四国で元親に従わないのは三好一族ばかりであった。その三好が元親に攻められて
危うきこと旦夕に迫るゆえに、笑岩から秀吉の備中の陣へそのことを申し送って愁訴し、秀吉から織田殿へ

四国征伐を勧めてにわかにこの事が起こったのか、この二つの内どれかだろう。元親の側ではその事を知らず、
その内に織田殿も横死され、信孝らも大坂まで出軍したのみでこの事は止んだために、四国の側ではこの事に
ついてまったく取り沙汰さなかったものであろう。

――『改正三河後風土記』


伊予日振島における戦後処理の逸話

2017年12月13日 19:35

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:36:08.43 ID:RImMcwen
戸次川合戦敗退後、長宗我部元親は伊予日振島に逃れ
桑名将監を使者として、合戦詳細を秀吉公に知らせた
秀吉公はじめてそのいくさの詳細を知り
さても仙石手に合わざる合戦し
信親を討たさつる事の不便さよと仰せられ涙を流された

また合戦の三日後にあたる十二月十五日
大友宗麟は慰問状を日振島の元親に使わし
その内容は以下の通りである

この度のいくさはご挨拶の仕様もないが
無事御渡海の段は安堵に存じます
(長宗我部殿の当方に対する)これまでの様々な件に御入魂の次第は
永々忘却してはならぬ事であります
勝敗については戦場の習いにて、お気になさることもないでしょう
また兼ねて戸次利光城(鶴ヶ城)に差し向けられた鉄砲衆ですが
昨夜全員無事にこちらに帰還いたしました
そちらにお送りしたいと存じますが、船を揃えるのに難儀しており
船便があり次第お送りいたします

天正十五年十二月十五日
                         休庵宗滴判
追伸
 御子息信親戦場の儀については、様々な風聞があり
 未だ実否は分明ならず、奇怪千万な次第です
 こちらで詳細がわかり次第、お知らせ申し上げます

(続く)

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:37:24.97 ID:RImMcwen
(続き)

信親遺骸返却について島津と交渉しつつ
合戦後十三日目には奥長門守を使者とし
宗麟がこもる丹生島城(臼杵城)へ鉄砲隊を派遣した
その際の書状の大意は以下の通り

この度敗戦の成り行き、都鄙において外聞を失い全く無念な次第です
されども今はお城を固守することが肝要であり
自分も加勢に馳せ、共に籠るべき所ですが
退陣口の仕合、覚悟に任せず困難なため
まずは有り合わせの鉄砲の人数を差し出しますのでお頼み申します

天正十五年十二月二十五日
                         長宮元親判

結局元親は土佐本国に帰ることはなく
敗軍を糾合し、丹生島城宗麟と連携を取りながら豊臣本軍を待ち
翌天正十五年三月の秀長軍到来をもってはじめて伊予日振島を出た

(土佐軍記その他)

長宗我部元親、伊予日振島における戦後処理の逸話である



504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:57:19.08 ID:b83ZmTWr
この頃は宗滴と号していたのか

その持ち主の名をしるして

2017年10月31日 18:02

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 17:31:16.90 ID:jQaAtfFj
長宗我部元親が土佐において弓矢の盛りであった頃、家中の者、各役の道具番は道具にその持ち主の
名をしるして置いた。
このため普段も取り違えること無く、戦の場においても、取り落とした様が無作法であれば、その者の
誤りとなった。
これによって、持ち主たちはそれぞれ、一層心を尽くして疎かにしなくなったそうである。

弓矢の詮議が詳細な家では、心の付けように工夫があるものなのだ。

(士談)



子孫秋月氏と改称す。

2017年02月10日 14:09

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 23:28:32.86 ID:JuuVXvpS
吾が高麗町、土佐秋月氏併唐人街、今薩摩鮮俘、陶器を鬻(すきわい)とする事

 前編五十七に、朝鮮の役で法印公(松浦鎮信)がかの地の人を虜として帰陣された後、
その者達を一ヶ所に住ませて、諸臣が在城しているときの食事を調えさせた。
それを人呼んで高麗町ということを記した。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10527.html

 この頃『征韓偉略』を見ると、
「此の役で、慶州の将朴好仁が来援して城に入て勇戦す。
城陥るに及んで囲を潰て走る。
(長宗我部)元親の兵、吉田政重が彼を捕らえ獲た。
翌年に及んで元親は土佐に帰る。
その良将たるを以て、これを遇るに賓客の礼を以てす。
その身を終ふ。子孫秋月氏と改称す。
その余俘を獲る所八十余人。元親はこれを憐れみ宅地を賜って居らしむ。
皆販売を業と為す。時に唐人街と称す。」

 これらは法印公のことと同じである。
ならばさぞ渡鮮の諸家には、これに類似したことがあるのだろう。

 後にまた聞いた。
今薩摩には
島津氏が朝鮮での戦からの帰陣のときの俘虜を住ませたという村がある。
よって今も鮮国の風を存じていて、
その村の者が皆有髪で陶器を造るのを生業としているとか。
きっと世で薩摩焼と称するものは、この朝鮮の子孫が作っているのだろう。

(甲子夜話三篇)

なぜ、秋月と名乗らせたのだろうか?



612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/10(金) 09:24:29.95 ID:VHI4AhJD
秋の月が故郷の月と同じだった

長宗我部家督のこと

2016年05月14日 08:27

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 20:46:22.05 ID:SNQmTQv8
ある記録によると、豊臣秀吉在世の頃、長宗我部元親は京より帰国し、一門衆・家老を集めて言った

「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてから、未だ家督をだれに継がせるべきか定めていなかった。
しかし私も高齢となったので、信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、彼を家督に立てようと考えているが、
お前たちはどう思うか?」

一座の人々は盛親が不肖であることを知っていたが、あえて返答する者はいなかった。
しかし、元親の婿である吉良親実が進み出て

「信親様のご息女を右衛門太郎殿の奥方として、跡継ぎとされるというのは、御嫡子の筋目が立つに
似たりと雖も、三男の津野孫次郎(親忠)殿は既に秀吉公にも見知り置かれ、御器量も優れておりますから、
津野氏の家を誰か別の者に御相続おおせ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられるのが宜しいと
考えます。」

しかし元親はこれを聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、即ち家長久の基となるのだ!」
そう、いかにも不機嫌そうに反論した。

それでも親実は重ねて
「私は両者何れにも親疎があるわけではありません。私がこの様に申し上げるのは、国家静謐の基を
固く定めたく思っているからです!」

家老の比江山掃部助親興も最前よりこの座に在って控えていたが、進み出て
「只今、吉良氏の仰せられたことは、誰かのためというような依怙の沙汰ではありません。
御家繁盛、子孫長久を祈る良策であります。ですので、是非ともご了承なさるべきです!」

だが、元親は怒りの顔色にて、一言も発せず座を立ち奥へと入り、その日の談合は終わった。

しかし佞臣たちが元親の傍にあり、親実、親興の両人の事を様々に讒言したことで、終に
天正16年10月14日、比江山親興に切腹申し付けられた。吉良親実もこれを聞き、同じく
切腹したと言う。
以後は誰一人元親を諌める者無く、思いのままに盛親を家督に立てた。

(新東鑑)



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:19:35.34 ID:MAGd5jI6
一方武田では…

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 07:51:32.09 ID:Qzbcp+k7
叔姪婚には特に反対はしないんだ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 08:07:45.90 ID:lMYQd5Fe
兄貴たちが死んでしまった表裏さんみたいに、一度別家に入った人間が家督を継ぐのは異例だと思うんだけど、盛親ってそんなに評判良くなかったのかな

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:12:04.97 ID:b93BGPM7
改易されてしまった人を良いように書くわけにはいかんだろ

「いや~ん、いや~ん」

2014年04月22日 18:47

36 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/21(月) 16:39:19.98 ID:/IcLHN8X
四国霊場五十四番札所、延命寺は天平年間に行基が開基したと伝わる古刹である。
元の寺号は円明寺といったが、五十三番の円明寺と同じで紛らわしかったため、延命寺に改めたという。

この寺の梵鐘は古くから素晴らしい音色で知られ、近見太郎と呼ばれた名物だった。
梵鐘は伊予の国に長曽我部元親が乱入した時に略奪されてしまい、兵たちにより船に積まれ持ち去られた。
しかし洋上に出ると、誰も叩かぬのに
「いぬ~いぬ~(帰る帰る)」
と唸りをあげ大きく動き出し、とうとう船を傾け海中へ転がり落ちてしまった。
これを見た長曽我部の者たちは
「鐘が自ら動き、略奪を拒んだのだ。」
と不思議な仏力に恐れおののいたという。

その後、梵鐘が無くては不自由だということで、当時の住職が私財で梵鐘を鋳造した。
この二代目の鐘は近見次郎と呼ばれ、やはり音色の良さで知られたが、松山城に時鐘として持ち去られることになった。
しかし、いざ運ぼうとした時、誰も叩かぬのに
「いや~ん、いや~ん」
と唸りをあげたので、置き去りにされたという。

この次郎は引退し、今は三代目の近見三郎が使われているが、除夜の鐘だけは今でも近見次郎が使われ、その音色を響かせている。

関連
「いぬ~いぬ~」


37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 16:59:23.34 ID:lgWi0JxU
なお今年は四国霊場開創1200年
ゴールデンウイークはぜひ四国でスタンプラリーをとステマしてみる

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 19:35:21.76 ID:ahGkrcyI
今年の日程で遍路巡りは厳しくないですかね

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 21:37:51.56 ID:5YRmUs0n
さすがというかなんというか四国の鐘はよく喋るなぁw
しかも「いや~ん、いや~ん」ってw
「嫌よ嫌よも好きのうち、男心をくすぐる良い音でなく鐘よ」
とか言い出すのがいなくてよかったね

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/21(月) 23:23:43.22 ID:WaJ0rS+K
愛媛と呼ばれるだけあってなんとも卑猥な音を出す鐘よ

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 09:53:22.86 ID:K6SPwjmj
ところで近見三郎はどう唸るんだ?

47 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/22(火) 14:05:20.89 ID:MjRFUtAj
どすこい

万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴

2014年04月11日 18:54

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/10(木) 18:44:29.57 ID:bHuZaDVA
長宗我部元親はかねてより秀吉公の御成(おなり)を願い
その準備に二・三年をかける程であり
金銀珠玉を費やしたその普請の結構な事、言うことなしであった。
さて既に普請も完了し、御成の日時も決定した所に
どうして誤ったのであろう、御門の寸法が低く、御車の出入りができないとわかった。
これを聞いた元親、大いに怒られたが、余日もなかったので
俄に白木にて御門を建てた。
始めの門は毀ち置かれたが、元親卒去の後、土州吾川郡長濱に菩提寺を建てた際
これを流用し今もあると聞いている。
(土佐物語)

万全を期したつもりが思わぬ所に落とし穴、という逸話。
ちなみに慶長元年4月に秀吉は元親伏見邸に無事御成となり
以下の超豪華メンバーが一同に揃いました。
江戸大納言、筑前中納言、加賀中納言、安芸宰相、大野宰相、越中宰相
結城少将、若狭侍従、郡山侍従、伊賀侍従、吉川侍従、出羽侍従
大崎侍従、安房侍従などなど。




948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 10:55:33.78 ID:cleLH+iX
>>943
えっと、ラスボスと随行が家康・隆景・利家・秀元・信雄・忠興・秀康・木下勝俊
秀保・筒井定次・吉川広家・(´・ω・`)・正宗・里見義康
こんなメンバーの中で恥かいたら....

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 12:00:38.42 ID:vY3+eKpC
そらもう金の十字架よ

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/11(金) 13:47:17.37 ID:kYjoAw2H
大崎侍従にいじられる

西内喜兵衛、大いに笑って

2014年03月01日 18:45

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:14:28.54 ID:E46mrwC0
西内喜兵衛という者は国中武辺の強力(ごうりき)であった。
長宗我部元親の土佐一国平定後、本山城の城任番として
七日詰めに行ったのだが、常に言うことには
「わしは小身なので、食糧を揃え、嶮岨(けんそ)な山坂を持ち運ぶのは
人馬の費えである。僅か七日間の逗留なれば、その間の飯は自分の家で食えば良い」
そうして七日分の飯を炊かせ、これを一度に食すと
「ああ、これで安心だ。家人共は勝手気ままにさせて良いぞ」と言い残し
馬にも乗らず立ち越えて、七日番を勤めて帰ってきた。
そうして「しばらく飯を食ってないので力が落ちたのか、草履が少し重く感じるわい」
と笑いながら人に語った。

さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい
農民は田を返す(※耕すこと)のに犁(すき)を使うことができなくなった。
仕方なく若者十人程が一つの犁に取り付き、牛に代わって田を返したが
これを見た喜兵衛、大いに笑って
「お前たち、そこをのけ。わしが引いて見せてやる」と言い
その犁を取って牛の如く往来し、田を返し始めたので
往来の男女は皆立ち留まり、呆れ果ててこれを見物した。
そこに元親が通りかかり、人が群がり集まってるのを見て
一体何事かと尋ねその理由を知ると、喜兵衛を召し出し
「士たる者が畜生の役をするとはどういうことだ。重ねてこの様な振る舞いはしてはならぬぞ」
と堅く制したので、喜兵衛は恐れ入って退去したということだ。

「土佐物語」
土佐侍の純朴でユーモラスな面が伝わってくる、ちょっといい話。




491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 13:51:53.20 ID:pUH9TpJ/
>さてその頃、どういうことか国中の牛が悉く死んでしまい

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 口蹄疫じゃ、口蹄疫の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////


虎の爪

2014年02月27日 19:09

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:16:14.48 ID:aiM0GJBc
長曾我部元親が朝鮮の唐島という所に在陣した時の話である。

この頃何処からともなく大きな虎が現れ
あまたの軍兵が食い殺されたので、陣中騒動すること甚だしかった。
浅野孫次郎親忠の家臣、下元勘助・興次兵衛兄弟は
隠れなき鉄砲上手、大胆不敵の勇者だったので
目に物みせん!と駆け出でて、勘助が狙いすまして虎を撃つと
弟興次兵衛もこれに続いて撃ち放った。

ところが虎はこれをものともせず、いよいよ猛狂って本陣へ近づいたので
大高坂七三郎(この時十五歳)が本陣へは入れさせぬと
小刀を抜いて一文字に駆け向かった。
虎は七三郎に飛びかかり、その胴体を横ざまに咥え、駆け出そうとしたので
吉田市左衛門政重、走りかかって虎の首の根を丁と切った。
[1/2]

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 16:18:59.16 ID:aiM0GJBc
虎は七三郎を打ち捨てて、市左衛門の首にただ一口に食らいついたが
かたい鎧のために砕くことができず、市左衛門、虎の喉笛に手をかけて
七たび刀で突き刺した。

さしもの虎も急所を刺され、鉄砲で撃たれてはかなわず、立ち竦んで死んだ。
七三郎も助かったので、元親大いに喜び
感状に康光の太刀を添えて市左衛門に与え、帰国後に加恩もあったそうだ。
「その虎の爪を取って、日本の土産にせよ」と元親が言ったので
市左衛門、畏まり候と虎の爪を切り取って国に持ち帰った。
その爪は子孫持ち伝えて、今も彼の家にあると聞いている。

「土佐物語」
[2/2]




466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 19:21:47.80 ID:V1cIhpSV
朝鮮てなんか動物しか存在しないサファリランドだな。

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 21:00:26.04 ID:xt96hlO6
>>464
朝鮮どんだけ虎の楽園なんだよ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:21:40.32 ID:egPFUAPb
>>464
朝鮮武勇伝ネタで虎じゃないのはないのか?w

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:24:07.37 ID:B1JE84mz
加藤清正の家臣が虎を退治して苗字が「金玉」になったり
虎退治は勇敢さを示すのに便利なんだなw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/26(水) 22:31:53.98 ID:Zhf3pNOF
敵兵がそれほど強くなかった分、虎退治がより大きく扱われてるのもあるな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 01:05:34.78 ID:onJgSEDK
虎がいるのに平然と昼寝するジミー加藤の虎逸話もあるね

長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

2014年02月23日 18:59

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:06:06.55 ID:GO9A0zPx
長宗我部元親、朝鮮の陣でのお話その二

長宗我部元親は全羅道の担当で、西南の方へ平押しに十四、五日ほど行くと、平々たる広野に出た。
そこには村もなく里もなく、また山もなく、ただ大きな川原があった。
東西の方向も定かではない広野にたたずんでいると、どこからともなく雷のような音が鳴り響いた。
一体なんだろうと、諸人が怪しみながら川端に近づくと、音も次第に大きくなる。
元親が「誰かある、あれを見てくるのだ」と言うと、若侍二人がかしこまって駆け走り
その後に別の三人が続いていった。
驚くなかれ、そこにはふた抱えほどある大木で、枝のない松のようなものが一丈ばかり立ち上っており、見るとそれは大蛇であった。
両の耳は唐犬の如く垂れ、目は日の如く光り、口広く耳の根まで裂け、紅のような舌をひらめかせて立ち上がった。
先の二人は驚いて立ち止まり見入ると、続いた三人も同様に立ち止まってしまった。
そこに土佐国韮生の住人小松左衛門が馬で駆け寄せ、鉄砲で狙いすまして撃つと、喉笛に発止と命中した。
大蛇とてこれは急所なので、仰傾けに倒れ川に入り、身悶えしてしばらく流れていたが
ついに沈んで見えなくなり、たちまちに川は紅色に染まった。
左衛門が川端に馳せ寄せみると、大蛇が倒れた際、石か何かに当たったのであろうか
大きな鱗が落ちているのを見つけたので、元親に差し出した。
元親は「これは日本では見たことのないものである。故郷への土産にせよ」と言い
そのまま左衛門に賜わったそうである。

「土佐物語」

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:45:31.03 ID:f27vMd/J
コブラみたいなガラガラヘビの大きなやつかな?

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 22:39:05.06 ID:QphLMAUJ
朝鮮に渡った諸将が散歩で遭遇するのは虎といにしえから決まっている

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:14:10.77 ID:U2GCbk1u
耳のあるヘビ?

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 10:33:22.46 ID:cWrDbmU5
コブラの腹の広くなってるところじゃね?

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:24:31.29 ID:vrRx5zHc
コブラは熱帯の生物だから、半島じゃ寒すぎないかな?

図体でかいのに、鉄砲一発とは情けない。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 12:39:48.99 ID:3rGzu6Jd
落ちてた鱗はおそらく目の鱗だろうな。
現存してるのかな?

俵兵衛の鉄砲

2014年02月21日 20:41

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:04:23.94 ID:VVpA5cFN
文禄元年、朝鮮陣の頃の話しである。
壱岐島の海辺に福島左衛門大夫正則、戸田民部少補氏繁、蜂須賀阿波守家政、生駒雅楽頭近世、長宗我部宮内少補元親の五大将が集まり
対馬への渡海について詮議していた。

この時、沖の方で鳥が飛び回っているのが見えたので
正則が「昔、本間孫四郎(南北朝期の武士)は沖の鳥を敵船へ射落としたそうだ。当世ではいかがであろう?」
と言ったところ、元親が「近代は昔と違い、弓の射手は少なくなりました。
しかし鉄砲ならば昔の射手に劣らぬ者がおりましょう」と答えた。

正則これを聞き「土佐の士には鉄砲の名人ありと伝え聞いています。いずれかを召して
あの鳥を撃たせて見せてくださいませんか?」と言い出した。
元親は「家中に鉄砲を撃つ者は数多いが、飛んでいる鳥を撃てる程の者は知りません」と断ったが
正則が「いやいや、たとえ外れたとしても苦しからず、ただ慰みに撃たせてみせてください」と重ねて言うので
元親はそれならば、と足軽の俵兵衛を呼び、あの鳥を撃ち落とせる者を呼んで来いと命じた。

すると俵兵衛「わざわざ人を呼ぶまでもありません。私にお命じ下さい。
常日頃飛ぶ鳥を撃っているので、あの程度の鳥ならば必ず仕留めます」と申し上げた。
元親は打ち笑い「諸将の前を憚らぬその心意気や良し、たとえ撃ち外したとしても恥辱にはあらず。やってみろ」と
命じた。
四人の大将を始めとして、その下の諸士がみな集まり見物となったので、これ以上の晴れがましさはなかったが
元親はもし外れたのならば恥辱とはならずとも、場が白ける事は必至であると内心穏やかではなかった。
                                                (1/2)

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 15:05:38.15 ID:VVpA5cFN
さて、俵兵衛が飛び回る鳥を狙いを定め打つと、寸分の狂いもなく鳥の体の真ん中に当たり、白毛がばっと散り
沖の方の岩の上へと落ちていった。
大将を始め、皆一同に「やや!撃ち落としたぞ!」と叫び、その賞賛はしばらく鳴りやまなかった。
されば間(距離)を打たせるべしと縄を張らせたところ、おおよそ五十八間であった。

正則は感極まり、昔の那須与一にも劣るべからずとして着ていた羽織を俵兵衛に賜ったので
残り三人の大将もこれにならって羽織を下された。
元親も悦に堪えず、また諸将への返礼なればとして俵兵衛をその場で士分に取り立て
太刀一腰を与えたので、当家他家の面々でこれを羨ましく思わないものはいなかった。

「土佐物語」 (2/2)




426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 17:36:03.92 ID:xCa6m9ns
酔ってなくても気前のよい正則

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 19:37:09.59 ID:3Cg7k0Cq
飛ぶ鳥を落とす勢いの出世だな

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 12:20:21.36 ID:1dTZhzw9
100m越の狙撃とかすっごいやん!

竹内弥藤次の妻

2013年04月08日 19:53

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 06:39:43.13 ID:kIdZmlHW
長宗我部元親の家臣である久武内蔵助は、伊予国宇和郡の岡本城そ攻略する計略を立て、
この合戦には、侍大将の竹ノ内虎之助、およびその娘婿である弥藤次も一騎当千の侍20人、
小者20人と共に参戦した。

この戦いは不意打ちにより本丸の奪取に成功したものの、竹内虎之助・弥藤次父子は重症を負い、
さらに長宗我部軍は西の丸を確保できず反撃を受け、結果本丸も追い出され攻略に失敗。
久武内蔵助をはじめ佐竹太郎兵衛、山内外記といった3人も討ち取られ、大勢の兵も討たれる大敗を喫した。

敗戦の5日後、土佐の竹内の在所では、『岡本城では、竹内虎之助・弥藤次父子も含め
一人残らず討ち死にをした。』との風聞が流れた。

この時、弥藤次の妻は13歳であったが、「父も夫も討死したのであれば、同前に果てる」と
書き置きし、守り刀にて喉笛を掻っ切って死んだ。

そんな中、虎之助と弥藤次は伊予で傷を直し帰還した。そして妻の自害を知った弥藤次は、
嘆きのあまり切腹しようとした。

しかし虎之助は弥藤次を止めて、言った
「お前は私の甥であり、聟である!そして私にはお前の他にもはや、苗字の一類はおらぬのだ!
お前が死んだからといって、私の娘が帰ってくるわけではない。娘の後世の助けになるという
わけでもない。

そして、我が家も絶え、君にも不忠となる。

どうか、思いとどまってほしい。」

弥藤次はこの理に服し、切腹を止めた。
そして虎之助は知行を弥藤次に譲り、弥藤次は後に竹内玄蕃と名乗った。

虎之助は隠居料を取って、佐竹という城の番頭を勤めた。
(長元物語)





203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 20:44:48.26 ID:OoOODWD4
>>201
戦国時代だけじゃないけど、訃報を信じて殉じちゃう例って案外あるよな。
13歳とは何とも哀れだ。

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 21:08:05.15 ID:Y9Ukvved
フィクションだけどジュリエットを思い出した。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 21:53:26.70 ID:qvHDiQxr
>>201
そりゃ殉死連鎖で一族絶えたら洒落にならん

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 11:05:11.58 ID:W0KcGvTL
>>203
白虎隊とかw

207 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/09(火) 19:23:54.65 ID:bYfOHI31
戦国白虎隊

一領具足の提言

2013年04月02日 19:54

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/02(火) 14:09:33.92 ID:vwvdjhzB
長宗我部元親が阿波から帰陣し、家老や城持ちの重臣を召して座敷に集め置かれた。
この時一領具足の武功者たちも10人ばかり召しだされ、これは別の座敷に置かれた。
この両方に元親より仰せ下された内容は

『阿波の攻略がはかどっていない。そこで、なにか良い計略があれば申し出てほしい』

という物であった。家老城持ち衆が申し上げたことは

「阿波の府中の付近は山もなく、長駆して攻撃に向かっても、陣取りが大変難しいと思われます。
その上三好も、未だ阿波半国の大将であり、多くの軍勢を保持しております。
ここはすでに確保した山間部の近辺から、毎年出撃し秋ごとに稲をなぎ倒し、敵の下々を
疲弊させるべきです。そうすれば謀反人も、降参する人間も出てくるでしょう。」

一方、一領具足の者達はこう申し上げた

「我々は早急に阿波を攻略せねばなりません。そうしないと阿波どころか、この土佐本国すら
三好家に取られてしまうからです。何故なら、三好笑巌(康長)は河内の国の半国を知行して
いますが、彼の養子は羽柴筑前守殿(秀吉)の甥(後の秀次)であります。
であれば、筑前守殿に加勢されて笑巌が阿波に渡れば、さほどもかからず三好正安(十河存保)を
討ち果たし、阿波国を残りなく取ってしまわれるでしょう。

決断するのはこの時です!(御分別此時ト言上ス)」

元親は「一領具足の申し様、誠にもって神妙である。では具体的な作戦内容を申してみよ」
と再び尋ねた。

一領具足どもは畏れながら申し上げる

「三好正安の居城の勝端8里隔てた、土佐からの大道筋の抑えの城、一之宮、夷山がありますが、
この間に大道があります。ここを押えて人数をおき、出撃して勝端から3里こちら側の、
中富川までご出馬されたなら、「少人数にて長距離を出撃してきた、これ幸い」と、三好正安自身が
これを討つため出撃してくるでしょう。この時に正安を討ち果たす事が可能だと考えます。」

この一領具足というのは、他家において馬廻分ほどの侍である。
(長元物語)

一領具足による阿波攻略作戦の提言、という逸話である。




901 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/04/02(火) 19:37:19.41 ID:ASLUBERs
これ結構有名な話だよな?

長宗我部家の61人

2013年03月30日 19:54

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 13:45:26.91 ID:iE0N7KTB
長宗我部元親が逝去した時、御世継ぎであった盛親は、土佐国中の長宗我部直臣の武士の
リストを作り、その中でも元親の覚え優れた者は、特に書き付けて報告するように、と
仰せ付けられた。

これにより久武内蔵介は国中の在地を廻り、村々に在住する小身の侍で、年齢10歳以上を
帳面に書き付けた。
この結果、長宗我部の直臣の武士は老若合わせて9,736人。そのうち元親の覚え優れたものは
61人であった。

この61人の中には、槍働きもなく首も取った事もないのに入ったものも有り、逆に
細々とした合戦で5つ3つの首を取っていても61人の中に入らないものもあった。
それは何故かといえば、こんな仔細が有った。

勝ち戦の時は、ただ首を取れば手柄になるわけではない。功者衆集まり証拠を正し、
しかも証拠が紛れもなくても、証人によって正義の立つことも立たないこともある。

61人の選定は厳重な吟味が行われた。
数年の合戦で首一つを取っただけでも、その首が名の有る侍であるか、又取り難い所で首を取り
朋輩衆に誉れを立てれば、この書き立て中に入った。

首も取らず槍も使わずに書き立てに入るものも有ったが、このような人々は、
懸るべき所で懸り、引くべき所で引く、この判断に優れ的確に部隊を指揮出来る者達である。
このような人は一騎当千と云うべきである。

この調査で槍の武勇は特に入念に調査され、相掛りの槍は書き付けに入れられた。

長宗我部元親が四国において、20年にわたって打ち続いた弓矢の事を、支えた家中を
今回改めて調査し、特に書き付けた老若61人について、このような経緯で選定されたのである。
(長元物語)




872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:16:31.15 ID:WF4EIqSf
直臣だけでほぼ1万とは随分多いな
隠居や部屋住みまで含んでるんだろうけど

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 15:56:59.07 ID:awDEIkUt
徳川の旗本八幡機ってどんな機体だったんだろうな

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 16:00:07.15 ID:xblWz0i5
そういや徳川の旗本でも5千人くらいだっけか
まあ御家人が倍以上いるだろうけど…

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 16:09:09.26 ID:pie1/wct
勝った兵法が正しい兵法
残念ながら間違いない

臆病についてのこと

2013年03月29日 19:50

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 14:14:52.59 ID:4Ot2OoDm
長宗我部元親家臣、立石正賀の著した長元物語より、臆病についてのことなど

『田中新右衛門と言う人が語ったことには、臆病という字を”むねの病”と書くのは
尤もだ、と言う。合戦で不利な状況になると、私も人も鑓を取るとき胃が逆流して
吐き出す事がある。これは持病であるからそう言う時に吐きそうになるのである。

桶山善兵衛という武勇の道の巧者の老人の話によると、臆病者というものは、船に酔うような
ものである、例えば、船酔いをする人は、船に乗る時に酔わないよう、胸に灸をすえたり、
あるいは蜜柑の皮を鼻に差し込んだりして予防をし、小浪の時は大丈夫なのだが、
いざ大浪になると胸の内がどうしようもなくなり吐瀉してしまう。

武の道もそういうものである。誰であっても普段は嗜みがあって人並みよりも良く見えるが、
いざ敵との強烈な競り合いになった時には、呼吸が苦しくなり思考は混乱し、
義も理も外聞も忘れてしまうのだ。こういう時は無理をセず、能く能く養生を専らにするのが
第一である。

右の桶山氏がまた言うことには、逃げる時、殊の外急に追われると、腰の抜けるものがある。
しかしそれが臆病だと一概に言うことは出来ない。何故かといえば、いろいろな戦場で
様々な勇者と呼ばれている人の中にも、こういう時腰が立たなくなる者が多かったからである。

また桶山氏の言うことに、敗軍の時、遠くまで逃げるという状況で急に追われると、
先ず兜を捨て、次には具足を捨て、その次には刀脇差を捨て、最後には丸裸になって逃げる
ものである。

このような事について兼ねてから思うのは、人と心を変えることは出来ないので、逃げているその人の
身にならなければ、その気持ちを知ることは出来ない。
合戦で不利な状況になった時に、自分と我が身がどうなるか、実際に試さなければ、
他人の行為について考えても言及しても、必ず真実とかけ離れたものに成るだろう。

ある老人が云うには、具足震い(武者震い)の事について、敵を見てそれに攻め進む心で
震える事もあり、また恐れて震える事もある。その震えがどういうものかは、自身の身の内に
見知るものなのである。』
(長元物語)




863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 15:09:59.20 ID:ovQA0ppI
雷神男塾『臆病者は当家に来い!剛の者に生まれ変わらせてやる』

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 21:27:54.51 ID:Q4f9yYZJ
逃げるときはフルチンで逃げよ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 22:24:13.76 ID:H15/4sm3
>このような事について兼ねてから思うのは、人と心を変えることは出来ないので、逃げているその人の
>身にならなければ、その気持ちを知ることは出来ない。
>合戦で不利な状況になった時に、自分と我が身がどうなるか、実際に試さなければ、
>他人の行為について考えても言及しても、必ず真実とかけ離れたものに成るだろう。

色々と考えさせられるねぇ。

人間なんて、知識や科学技術の面で進歩はしても、
根本的な部分はそんなに簡単には変わらないってことだろうな。

>>864
「ヤバいと思ったらすぐ逃げろ」ってのは普遍かつ不変の教訓だと思うw

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/29(金) 23:38:20.49 ID:1gbpsi9F
逃げる時は茶店のババアに気を付けろ

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 00:12:36.65 ID:pie1/wct
ヤバいと思ったらすぐ逃げろは個人単位だと間違いない原則だけど、
集団戦で個人判断で逃げるとそこから崩れる場合もあるんだろうな
大将って凄い大変だろうな
兵の士気たもつのとか

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 08:35:46.81 ID:586Bs28J
気分はけっこう伝染するから、リーダーは大変だよね

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 08:38:43.34 ID:u9opqUn7
臆病者には臆病者の、暴虎馮河の無謀者には無謀者の、平凡な者には平凡な者なりの働き場を与えよう
が出来る堀、蒲生、黒田も世代変わると仕え勝手激変だしなぁ。

>>867
この大将なら、と思わせる信頼感保つのは大変だろうなぁ。
何度討ち死にの報が飛んでもどうせまた量産型信龍だろ、と思わせて士気が落ちない、なんてのはちょっと異形だけどw

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/30(土) 10:18:33.71 ID:Ggjwg6L2
「あの一条さんが死ぬわけないじゃん、どーせ下賜されたモン身に着けたヤツを敵が見間違えたんだろ」
と共通した見解が出されるってことだからなw
なかなかねーわ

貫高と石高

2013年02月27日 19:50

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 23:03:24.50 ID:k4fnI85x
昔は、地方の知行を測るのに、『百貫千貫』という単位を使っていた。現代でも仙台では、その単位を使っているところがあると聞く。
しかしこの単位は、西国においてはもはやはっきりと知る人はいない。

武家系図の、相模入道高時(北条高時)の項に領地28万7千貫とある地が、現在知行143万5千石であり、これから
おおよそ田5段を1貫としている計算となる。

またある人が、奥州の人に聞いたことだとして語ったことには、昔は永楽銭10文で、米4合8勺が販売されていたという。
故に100文は4升8合、1貫は4斗8升、100貫は48石に当たる。
ということは、知行100貫というものは、今の知行100石とほぼ同じになる。(おそらくは5公5民計算)
後世、家によっては知行を蔵米にして渡すが、4つ8分の免ならしとして、米48石と名付けて遣わすのは、この古法によるのだという。

しかし今考えてみると、この土佐はそのようではない。
私の友人が、古い證文などによってこれを研究したのだが、彼が言うには、土佐国幡多郡は、中村郷不破村の八幡宮の宝蔵に、
かつてこの地域を治めた一条家の古文書があって、それによると


     於本郷中村
    八幡江新御寄進田之事

                       有間之内
中ノ前田               光任小作
一所壹貫                彌五郎

ハシラ松               目黒之内
一所壹貫分               泉(欠損)

大ホトケ
一所七百五十分          蔵橋分

ミソノ下
一所貳百五十分          立石分

合参貫分宛
 永禄二年巳未3月吉日
                  康政(印)      』

この文書から、現在の八幡の地領の土地を比較して考察してみると、田1歩を1文として、100歩を100文、1000歩を1貫と
していることが解った。これは銭1000文を1貫とするのと同じである。とすれば、1貫は3段3畝10歩である。
100貫は10万歩、現在の計算では33町3段3畝10歩、知行333石3斗3升3合、とするべきであろう。(但し1反=1石とする)
おそらくは関東でも計算式もこのようなものであったのだろう。

かつて一条殿を、幡多郡1万6千貫の主と呼んでいたと伝わる。
これに、先の計算式を当てはめると、5万3千3百石あまり、となる。

現在の幡多郡の石高は、元親以後の(検地の)改出と、開発された新田等を加えて、7万石あまりである。
ということは、かつて幡多郡が1万6千貫であったというのは、この法則からいってほぼ相違無いと考えられる。
(土佐物語)

以上、土佐物語より、貫高と石高についての考察である。土佐物語が成立した頃は既に、貫高の事は全く解らなくなっていたのですね。




758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 23:14:30.67 ID:x1emc8lH
読んでて混乱してきた

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 09:48:40.03 ID:vwFC7TfY
>>757
その頃には「石高」も意味不明になってるけどね。

生産高なのか物成なのかさえ分からなくなってて
現代も議論が分かれてるし。


長宗我部元親が織田信長公に通じられた事に関して

2013年02月26日 19:50

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 12:47:46.52 ID:k4fnI85x
長宗我部元親織田信長公に通じられた事に関してだが、
明智日向守(光秀)家来、斎藤内蔵助(利三)は元親の小舅であった。ここから元親は明智の取り成しを以って、
元親の嫡子。弥三郎の実名の契約を信長公といたし、その偏諱を頂いて、信親と名乗った。
このような友好関係から、四国のことは元親手柄切り取り次第との御朱印を、信長公より下されたのである。

ところがその後ある人が、元親のことを信長公にこう申し入れた
「元親という人物は、四国に並びなき弓取りです。今のように切り取り次第を許していては、後々天下の災いにも
なるでしょう。阿波・讃岐まで手に入れその上淡路にまで手を出すことは、あってはならないと考えます。」

信長もこれを尤もだと考え、その後、先の朱印の内容を一方的に変更し、『切り取っていいのは伊予・讃岐まで。
それに阿波南郡半国を付けて与える』と伝えてきた。

元親はこれに大いに怒り
「四国のことは、私が自分の実力で切り取ったもので、これは信長卿のご恩義ではない!
この要請は私が思いもしなかったことで、驚き入っている。」
と、これを完全に拒絶した。

その後、織田方より重ねて、斎藤内蔵助の兄・石谷兵部少輔(頼辰)が使者に使わされたが、元親はこれにも
拒絶することを言い切った。

これによって織田と長宗我部は断交し、信長は息子である三七殿(信孝)を四国征伐の大将として
泉州岸和田まで出陣させた。

この時、斎藤内蔵助は四国のことを強く気遣かい、明智に謀反を急がせた。よって6月2日、
信長卿は御切腹された。
このため四国は無事にすんだのである。
(土佐物語)

土佐物語より、本能寺の原因についての言及である。




746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 17:03:22.16 ID:Zr0bAbLG
急がせたってことはそれ以前から叛意を持ってたってことだから原因なんかね?

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 21:48:58.74 ID:hTVtKC/m
>>745
結果的には滅んじゃったけどな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:08:59.67 ID:c5vsZAoX
>>753
長宗我部に限った話じゃないけど、そうやって家を大きくしても
結局たったの十数年後に滅びましたというオチが付いちゃうと悲しいねい。

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:28:46.68 ID:Ad6RZUrn
俺も滅亡しようかな・・・

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/26(火) 22:38:53.97 ID:2US/it7g
まだ興ってもないじゃないですか!

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 04:52:51.84 ID:mznTk9Ao
>>754
いまの日本企業の平均寿命が30年くらいだったか

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 05:03:00.63 ID:zOS/PnjH
街のラーメン屋の平均寿命も知りたい

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/27(水) 05:52:59.08 ID:1zHo4Y8F
>>760
今の勤務地の近くにここ2年で4回テナント変わった建物があって内3回はラーメン屋だった

駅前で周りの店は昔からあるのにその建物だけ次々に変わる


スレチすまん