180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/14(日) 17:12:00.36 ID:6NTUgv30
或る記に、太閤御在世の時、長宗我部元親は京都より国元の土佐に下り、一門衆・家老を集めて申した
「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてより、未だ家督を誰に継がしむべしとも定めず、私も傾く年齢と成った。
そこで信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、家督に立てようと思う。如何あるべし。」
そのように尋ねると一座の人々は、盛親が不肖であることを知りつつ、敢えて返答する者も無かった所に、
元親の婿である吉良左京進親実が進み出て言った
「信親御息女を右衛門太郎殿の奥方と成して跡継と成されるというのは、御嫡子の筋目立つに似たりと雖も、
津野孫次郎殿(親忠:吉良親実が実際に跡継として推したのは次男・香川親和とされ、ここでは
三男・津野親忠と混同されている)は、秀吉公にも知られておられ、御器量も優れておられます。
津野氏の家を別人に御相続仰せ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられることが宜しいでしょう。」
そのように申すと元親は聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、家長久の基である!」と、甚だ不興げに
申された。しかし親実は重ねて
「私は何れにも親疎はありません。私の申し上げる所は国家静謐の基を固く定めたい為に
考えたところなのです。」と諫言した。すると家老である掃部助元辰(比江山親興)も、
最前よりこの座に在って控えていたのだが、進み出て
「只今吉良氏が仰せに成った事は、誰かのためというような、依怙の沙汰では有りません。
御家繁栄、子孫長久を祈る良策でありますから、是非ともこれをご了承なさるべきです。」
と諌めた。
しかし元親はいよいよ怒れる顔色にて、一言の答えも無く座を立ち、奥へと入った。そのため、
その日の相談は中止と成った。
然るに佞臣たちが元親の傍に在り、親実、元辰両人の事を様々に讒言したことで、遂に
天正十六年十月十四日に掃部助に切腹を仰せ付けられた。親実もこれを聞いて、同じく切腹したとか。
(吉良親実の切腹は実際には天正十七年九月以降と考えられる)
その後は誰も元親を諌める者は無く、思いのままに盛親を立て、家督としたという。
(新東鑑)
「七人ミサキ」の話に繋がる、長宗我部家盛親家督相続についてのお話
或る記に、太閤御在世の時、長宗我部元親は京都より国元の土佐に下り、一門衆・家老を集めて申した
「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてより、未だ家督を誰に継がしむべしとも定めず、私も傾く年齢と成った。
そこで信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、家督に立てようと思う。如何あるべし。」
そのように尋ねると一座の人々は、盛親が不肖であることを知りつつ、敢えて返答する者も無かった所に、
元親の婿である吉良左京進親実が進み出て言った
「信親御息女を右衛門太郎殿の奥方と成して跡継と成されるというのは、御嫡子の筋目立つに似たりと雖も、
津野孫次郎殿(親忠:吉良親実が実際に跡継として推したのは次男・香川親和とされ、ここでは
三男・津野親忠と混同されている)は、秀吉公にも知られておられ、御器量も優れておられます。
津野氏の家を別人に御相続仰せ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられることが宜しいでしょう。」
そのように申すと元親は聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、家長久の基である!」と、甚だ不興げに
申された。しかし親実は重ねて
「私は何れにも親疎はありません。私の申し上げる所は国家静謐の基を固く定めたい為に
考えたところなのです。」と諫言した。すると家老である掃部助元辰(比江山親興)も、
最前よりこの座に在って控えていたのだが、進み出て
「只今吉良氏が仰せに成った事は、誰かのためというような、依怙の沙汰では有りません。
御家繁栄、子孫長久を祈る良策でありますから、是非ともこれをご了承なさるべきです。」
と諌めた。
しかし元親はいよいよ怒れる顔色にて、一言の答えも無く座を立ち、奥へと入った。そのため、
その日の相談は中止と成った。
然るに佞臣たちが元親の傍に在り、親実、元辰両人の事を様々に讒言したことで、遂に
天正十六年十月十四日に掃部助に切腹を仰せ付けられた。親実もこれを聞いて、同じく切腹したとか。
(吉良親実の切腹は実際には天正十七年九月以降と考えられる)
その後は誰も元親を諌める者は無く、思いのままに盛親を立て、家督としたという。
(新東鑑)
「七人ミサキ」の話に繋がる、長宗我部家盛親家督相続についてのお話
スポンサーサイト