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されば流言とは

2018年07月30日 18:16

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/30(月) 16:47:23.05 ID:W5bsNJ4y
天正3年、臼杵の浦に明船が着岸し、このとき猛虎四匹、大像一匹、孔雀、鸚鵡、麝香、そのほか
書巻の名筆、あるいは絵讃、並びに綾羅綿繍伽羅猩々緋の皮二十間つづき、以下種々の珍宝が渡された。

天正4年の夏、南蛮国より大いなる石火矢が到来した。肥後国より修羅を以て、豊後臼杵丹生の島に
引き上げた。大友宗麟は大いに喜び、この大石火矢を『国崩』と号した。

然るに、誰言うと無くこの大石火矢を国崩と号したこと、大いに不可であると沙汰された。
また、それに続いての流言には、前に渡ってきた四匹の虎も不吉であり、日取りを以てこれを見るに、
その文字に違いが有ると言っても四匹の虎は滅ぶ日であり、これを不吉の相であるという。
またある人が言うには、尚書に珍禽奇獣国に育たわずと伝わり、これを育てるのは然るべからずと申した。

されば流言とは、根のない言葉が水のように流れ、世間に至る。これを流言とも残言とも言う。
天に口無く人をして言わしむとはこれであると、諸人密かに言い合った。
しかし宗麟はこれを聞いて、「一人虚を伝えれば万人実と伝う。一犬吠える真似をすれば万犬声を上げて
吠えるという事もある。」そう言ってこれらの話を気にかけようとしなかった。

(豐薩軍記)



欲の熊鷹股裂くる

2018年03月08日 18:32

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/08(木) 10:35:06.04 ID:RnHAl6SO
天正6年8月中旬の頃、大友宗麟公は豊筑肥の大軍を擁して日向に馬を向けた。
日向国は豊後の分国として本来属していたのだが、近年は漸く半国ばかりが大友の手に属し、
残りは皆御手に従わなかった。そのため、大友に属す半国の内、土持の城を御隠居所として
宗麟公は御座を移され、依然命に従わぬ残り半国を従わせるため大軍を起こし御弓箭に及んだのだ。
諺に言う『欲の熊鷹股裂くる』(あまりに欲が深いと、自分の身に災いをもたらすというたとえ)
というが、後になってその事を、思い知らされたのである。

当時は切支丹が行われていた最中であった。軍の首途として、松原八幡に矢入をし、社人のうち
害意を企てる者があるようなら討ち果たすよう命じられた。
しかしこのような中、松原八幡の社人衆は「八幡への報恩は今こそ」と決意し、鉾をよこたえ
兵仗を帯び身命を惜しまず、攻撃を加えられれば即座に反撃する姿勢を取った。これを見た寄せ手衆は
社人たちに気圧されている体に見えた。

『神いかり人恨れば必ず災害す』とはこのような事を申すのであろう。このように、まだ戦わぬ内から
早くも負けたような様子では、今度の御弓箭ははかばかしい事はないだろうと、人々みな眉をひそめた。

かくして、大軍を擁しながら、八幡宮への矢入は不吉の表れた事だったとは、後になって思い合った。
人々が案じたように、日向高城の一戦において立ちどころに敗北し、あまつさえ元々支配していた
日向半国すら敵に侵攻され、宗麟公は豊後へと引き取った。

これ以来、諸国の諸将は大友家より自立し、胡越千年の隔たり(気持ちが全くあわない事)となった。

(高橋紹運記)



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/09(金) 23:50:29.63 ID:eFeStxnL
>>587
>諺に言う『欲の熊鷹股裂くる』(あまりに欲が深いと、自分の身に災いをもたらすというたとえ)

龍造寺隆信「呼ばれたような気がしないでもない」

とにかく大砲を早くよこせ

2017年03月23日 18:12

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/23(木) 13:14:43.44 ID:lIeg49m7
1568年(永禄11年)、豊後の王よりニセアの司教ドン・ベルショール・カルネイロに贈りし書簡

『私はジョゴ・バズ・ダラガンより貴方が支那に渡来されたこと、並びに貴方の病気について聞き、
甚だこれを悲しんでいる。そして更に悲しみが強くなるのは。このために貴方が日本に来ることが
不可能に成ってしまうと思ってしまう故である。

私は貴方がいかなる人かを聞き、また貴方の請求により総督が大砲(espera)を私に贈られたことを
聞きたるにより、貴方が私の領国に来ることを大いに希望していた。
この大砲はマラッカよりの船中にて(船の沈没により)失われたことは私の不運ではあるが、
安全に到着したのと等しくこれを感謝し、貴方に恩を負うと考えている。

私は大砲を得ることの希望を捨てていない。
私が(ポルトガル)国王の僕にして、またその友人であることは、デウスの事について、また私の領国に在る
キリシタン等、及びポルトガル人一同に対し庇護を加え、好遇を与えることで示し、またデウスが私に
生命を与え給う間は、常にこれを継続し、また貴方の要求されることをなすべきを以て、貴方が総督に
書簡を送り、私が大砲の贈与を受ける資格の有ることを通知されることを希望する。

私が再び大砲を求めるのは、私が海岸に住み、敵と境を接し、私の防御のためこれを必要とする事
大なるが為である。

私がもし領国を防衛し、これを繁栄ならしむ時は、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタンたち、
並びに当地に来るポルトガル人一同もまた同様に繁栄するだろう。

先年、私はポルトガル王妃の書簡を接受したが、大いにこれを尊重し、宝物としてこれを首から下げている。
当地には王妃の如き方に贈るべき物は無いと雖も、私の領国に有るものは喜んで殿下に献ずるだろう。

この他述べたいことは多いが、長きに失するがゆえにこれを書簡に綴らない。
ジョゴ・バズ・ダラガンがその地に赴いた時に陳述するであろう。

1568年9月13日(永禄11年8月22日)』

(異国叢書)


とにかく大砲を早くよこせ、という大友宗麟の書簡である。



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 11:19:30.51 ID:B6+kOeJd
>>695
時期的に対毛利で欲しかったんだろうな大砲w

1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡

2017年03月20日 12:43

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟

隅州高城、日州耳川での大友家敗北により

2017年02月01日 09:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 18:51:07.68 ID:n10zVkN4
この年(天正6年(1578))、隅州高城、日州耳川での大友家敗北により、国々の城主、郡主は
大友家から背いた。

肥前の龍造寺隆信は、肥筑を討ち平らげ、大友・島津もろとも滅ぼそうと謀った。
同国の小田重光を謀って閨の中に殺し、筑後の蒲池鎮漣舞楽に事寄せ、肥州与賀宮にて殺した。
両人とも、隆信の婿であった。

また龍造寺は松浦、波多、大村、有田などを攻めた。或いは降参し、或いは籠城して大友に加勢を
乞う者もあった。

筑前では秋月種実が、肥後五箇山の城主・筑紫広門と同心し反逆を企て、城井、千手、長野、上原、
原田、麻生、杉、宗像などに手を付け、筑前、豊前を治めようとした。

肥前・肥後では、宇土城、川尻、合志、詫摩、赤星、和仁、相良、有動、小代、隈部、本山、天草山、
山田、津守といった者達が大友の下知に従わず、島津に内通し、あるいは龍造寺に同心した。

筑後では田尻、蒲池、三池、江上、豊持、豊穣、黒木、斎藤、草野、大鳥井らが皆龍造寺隆信
打ち負けて、隆信の幕下となった。
生葉郡井上城の問註所一族と、高良山良寛法印ばかりが、終始大友の味方として忠を成した。

(大友公御家覺書)

耳川合戦以降の、九州の有様について。



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 20:03:55.01 ID:OjIdd8mX
隆信の西肥前勢攻めと鎮光忙殺は耳川前だなあ

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 23:50:32.13 ID:S12jdg3l
耳川後にしないと格好がつかないもんな

大友宗麟の日向出陣に

2016年10月30日 20:58

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 20:13:58.54 ID:D/qq4jRl
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」

これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。

そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。

龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。

それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」

そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った

「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。

宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。

今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。

吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。

島津中務(家久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」

これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。

(大友記)

大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。



浅はかというのも愚かである

2016年10月08日 21:09


智有る者達はこの行為を恐れ


大友宗麟





183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 19:08:46.94 ID:6k9oMf0i
天正6年(1578)3月、大友家は評定によって、日向に侵攻した島津勢に対する攻撃を決定し、支配下の国々に
その旨を伝達した。

この決定以降、大友一門や重臣の面々は日夜あちらこちらで寄り合い、会合を設け珍膳を尽くした饗宴ばかり
行い、また茶の湯の会、酒宴と暇もない有様であった。これは彼らが、大友家の武運が徐々に傾いていることを
理解していたので、それぞれ討ち死にして生前の報恩として、死を以って報いようと一途に思い定め、
その最期の名残として、このような宴を設けたのだと言われた。

こうして大友宗麟は3万5千3百の軍勢にて豊後府中から出陣した。
そして、まず戦場に向かう門出であると、豊後一宮である柞原八幡宮に「矢を一筋奉れ」と命じた。
すると足軽2,3百が打ち出て弓鉄砲を揃えて、八幡宮に射かけた。

また行軍中、道の悪しき場所では仏神の尊容を取り壊して、これを踏んで通るようにさせた。
これらは前代未聞の悪行である。

いにしえ、高師泰は石川河原に陣取り楠を攻めた時、彼の配下の悪逆無道の者共が仏塔の九輪を外して
帷子に鋳たという。

また延文四年の夏の頃、畠山入道が楠を攻めた時は、その奴たちが神社仏閣に乱入し神宝を奪ったという。
この時の狼藉はもはや制止がきかず、獅子や狛犬も打ち割られ薪にされ、仏教典は売り飛ばされ
その代金で魚鳥を購入したそうだが、これなどは師泰の悪行に百倍する稀代の罪業であると書き残されている。

しかしこの度の大友勢のやったことは、それと比べてすら千倍する。浅はかというのも愚かである。
心無い者はこのような悪行に却って勇んだが、智有る者達はこの行為を恐れ、
「今度の合戦ははかばかしく成らないだろう。」
そう囁き合ったという。

(大友記)

耳川の戦いに至る大友軍の日向出陣について



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/08(土) 03:05:23.56 ID:fSd8+Dwx
道長「…」

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/08(土) 10:06:15.64 ID:uu7ZPwxT
まるでISIS.....

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/08(土) 19:02:49.06 ID:Z6eeHzVq
宗麟「わしキリシタンだから神社仏閣を壊してもノーカン」

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/08(土) 19:52:30.77 ID:9bgS062b
高山重友も同じことしてたぞ!

大分名物、だんご汁事始

2016年04月20日 17:24

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 11:46:00.47 ID:IUZy39Ty
九州の雄、大友宗麟はアワビの腸が好物で常日ごろから食していたが、
あるとき戦場で食べたいと言い出した。
それを聞いた家臣たちはアワビを探しに出かけたが、
場所はあいにくと山の中、見つかるはずもない。
困った彼らは小麦粉をこねて伸ばし、「アワビです(すっとぼけ)」として出したところ、
たいそう喜ばれたという。
これが大分県の名物、だんご汁の始まりとか(諸説あり

先の地震で由布院のあたりにも被害が出ているようですが、
お前らもだんご汁を買って被災地を応援するがよい。うまいよ。
http://www.rurubu.com/season/special/gourmet/img/gourmetphoto/G00434_1.jpg




609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 12:22:43.13 ID:b/bo/+I+
今日のおやつは、朝鮮飴を食べて応援♪

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 17:35:49.46 ID:aUHcehPc
>>608
それ宗麟の悪い話な気もするが

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 17:57:55.63 ID:IUZy39Ty
>>610
現代まで伝わる名物を生み出したということで、そこはひとつ…

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:12:34.86 ID:CQRPzq1v
しかし練り物とアワビの肝を間違えるとは
宗麟はかなりのバカ舌なんだな

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:21:49.30 ID:U55pfKwR
宗麟「アワビ大好きっ!」

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:22:08.51 ID:IUZy39Ty
宗麟様の名誉のために別パターンも。

あるとき、宗麟は菊池氏の家臣を居城に迎え宴を行った。
(両者はドンパチやってたような気もするが逸話ではそうなってる)
その日のメインディッシュはアワビの腸だったのだが、
菊池氏の従者の数が想定していたより多く、アワビが足りない。
困った彼らは小麦粉(略
これが大分県の名物(略


615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:50:19.69 ID:ELGMQhwz
ノブはアワビの醤油付けが好きなんだっけ?

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:51:43.97 ID:fhHu8Jbn
>>613
人妻のか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 20:46:47.62 ID:aUHcehPc
畠山義続「アワビは若いのに限るのに…」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 21:01:11.45 ID:ELGMQhwz
人によっては小さいモノより大きいモノのほうがいいらしい

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 04:29:16.50 ID:vt3vGCzo
義隆 義隆 盛隆「ふん!アワビなど大した事ないわ!」

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 05:27:26.78 ID:QRy/Q4FX
政元「せやな」

大友宗麟と怪異

2015年03月26日 18:44

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 20:07:16.68 ID:Y/d1PWex
大友宗麟がある時病を患ったことがあったが、この折、屋敷の天井に血のついた巨大な人の足跡が出現した。
しかし宗麟は、かねてからこのような事を気にしない人物であったので、これが報告されても少しも臆する
様子もなく、

「私の煩いも平癒した。やがて体力も回復するだろう。」

などと言って、驚くことすら無かった。

またある日、お座敷の塀から、小さな松の木が少し顔を出した、かと思うと、にわかに大木と成って
枝を垂れ葉を繁らした。
これに当番の侍が慌てて駆けつけると、この松は次第に細くなり、うつつのように消えてしまった。

人々はこれこそ稀代の珍事だと思ったが、その後のある夜に大友宗麟の座していた畳の間から、
六尺ほどの屏風が自ら出ていき消え失せた。

当時、これだけでなく様々な不思議なことがあった。
人々は、これはきっと不吉の前兆ではないかと、なにか悪いことが起こるのを待ち受けるような心地をしたという。

(大友記)



607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 20:11:22.62 ID:1uV8E8O4
前兆で記録終わりかよw

宗麟公悪逆之事

2015年03月25日 18:41

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 00:03:33.69 ID:Y/d1PWex
宗麟公悪逆之事

豊後の国の鎮守である須原八幡宮の神事は、毎年8月14日から明けて15日まで、放生会御祭として行われた。
所がその年、祭りの最中に恐ろしいことが起こった。
供僧たちが運んでいた御輿がにわかに重くなり、まるで巨岩のようになったためそのまま持ち上げることが出来ず、
御輿は地面に落ちてしまた。
供僧たちは慌てて再び持ち上げようとしたが、動かすことすら出来ない。困り果てている所を、
老僧が一人現れ輿の前に畏まり、三度首を傾け御神体を取り出して、神事の行われる場所へと戻した。
実にただごと成らぬ有り様であった。

この報告を聞いた大友宗麟は言い放った
「そのような世の差し障りなる祭りを渇仰すべきではない!よいか、私はただ、その祭りを今回は中止しろと
言っているのではない。永遠に止めよと言っているのだ!」

これを聞いた人々は困惑した。その祭りは豊年の年にも増やさず、凶年にも減ずること無く、
上古より今まで欠けること無く執り行われてきた祭礼なのだ。それを今に至って捨て去れば、
神慮もいかばかりであろうかと考えたのだ。しかし宗麟は

「それら仏神は、我が宗にとっての魔である!しかれば国中の大寺大社一宇も残らず破却せよ!」

そう言って、先ず第一に住吉大明神の御社の破壊を、山森紹庵に申し付けた。
紹庵は馳せ向かうとこれを焼き払い、御神体を打ち崩した。
紹庵はその後3日を過ぎずに死んだ。

次に豊前国彦山に、清田鎮忠に三千の兵をつけて遣わした。
彦山山中の三千の山伏たちは身命を捨ててこれを防いだが、命知らずのあぶれ者たちが弓鉄砲を揃えて
攻め寄せてきたので、山中の衆も山々谷々に逃げ散った、
鎮忠は上宮まで上り、一宇も残さず灰燼となした。

そんな所に、山伏二人が現れ声高に言い放った「我ら、大友七代までの怨霊となる!」
そう罵倒すると腹を掻っ切り、猛火の中に飛び入った。

さてまた、万寿寺の破却を命ぜられたのは橋本正竹であった。彼は寺に向かうと山門より火をかけた。
その時丁度辻風激しく吹きかけて、回廊、本堂、東行堂に燃え尽き、寺中は瞬く間に灰燼となり、
仏像、経論、聖教はたちまちに寂滅の煙と成って立ち上った。
東堂西堂の人々はこの事態に、わけも分からず裸足のまま、行く末も定めず逃げ惑った。

誠に稀代不思議の悪逆であると、眉をひそめぬ者は居なかった。

吉弘内蔵助には、国中の佛神を薪にせよと命じた。
内蔵助は山々在々を駆け巡り、仏神の尊容(仏像)を日々五駄十駄と集めては打ち割り薪となした。

ある時内蔵助が、阿弥陀観音釈迦如来の仏像を取り集めて湯を沸かそうとした時、釜の中で鉄砲を放った
ような響きがあった。下人たちはこれを怪しみ、内蔵助に報告したが、彼は
「それは膠の焼ける音だろう」と、少しも騒がなかったが、今度は雷が落ちたかのように揺れて鳴り響き、
風呂を沸かしていた仏像の燃え指しが一つ、屋根の上に飛びあがった。

その時、魔風が炎を吹きたて、猛火と煙があっというまに十方全てを覆い尽くした。
内蔵助は慌てふためき逃げようとしたが、逃げ場を失い終に焼死した。
内蔵助の屋敷の者達は七転八倒し、女が泣き叫びながら焼死する有様は、話に聞く八大地獄の罪人が
剣樹に貫かれ、猛火鉄湯に身を焦がす姿というのは、このような物かと思えるほどであった。

(大友記)

関連
大友義統悪逆の事及び彦山の意地


603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 09:59:24.78 ID:AoB6rU9A
山伏「七代祟ろうとしたら保たなかったでござる」

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 12:11:36.07 ID:ArryPMjm
明治の廃仏毀釈より酷い弾圧はかつて無い
日本の文化大革命と言うべき蛮行

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/25(水) 18:20:19.23 ID:4zrWmo/w
松永ボム正「つまりワシは微罪」

大友宗麟の入信

2015年03月22日 16:08

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/21(土) 17:30:00.70 ID:gnSwSeyw
南蛮国よりキリシタンという宗旨が伝わり、豊後国の府内丹生島に一寺を建立してその宗旨を布教した。
大友家中の清田鎮忠、田原近江守らはこの宗教に入信し、日夜聴聞した。

大友宗麟はこのことを聞いて、田原近江守を召して吉利支丹宗の事を尋ねた。
近江守は九州一の弁舌の人であったので、切支丹の外道(寺社を認めない事)の仔細を、さも面白く語った。
これを聞いた宗麟は

「昔、源頼朝公の仕置にも、神仏を鎮めよという内容は第一に見える。そのような大法であるので、私も神仏を
渇仰している。所がそうしているのに、良き事はなく世の災いは多い。
そのような役に立たぬ諸寺諸社を破却するには、外道宗でなければ成り難い。」

そう言って、切支丹に入信した。

この事について、ある年、豊後国内の社家の者が、宗麟を調伏するという事があった。
この事が宗麟の耳に入ると彼は激怒し
「私の武運長久の祈祷などこそすべきであるのに、そうではなく私を調伏するとは、手飼の犬に
脛を噛まれるとの言葉通りだ!事を良くしようとして返って悪くすると言うのはこういう事だ。
この事件に関わった者は、一人残らず死罪にせよ!」

そう命じたが、これを重臣である吉岡宗観が留め、領内からの追放処分で済ませた。
しかしこの事で宗麟の憤りは却って深くなり、それがあって切支丹に成ったのだという。

(大友記)



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/21(土) 19:59:52.45 ID:vQ+0f67r
吉岡宗歓が生きてる間はまだキリスト教に入信してないんだけどな

大友宗麟調伏事件

2015年03月08日 16:07

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/08(日) 07:55:30.98 ID:ZcJkqeU1
大友義鎮公の不行儀を、その御簾中(正妻)は深くお恨みになり、調伏させた事こそ愚かである。
国中の社僧山伏らをここかしこに集め、昼夜の境もなく祈ること夥しかった。
「いかなる祈祷であるのか」と、人々は皆不審しあった。

このことは深く忍んで行われていたが、ついに義鎮公の耳に入った。
義鎮公は大いに立腹し、「これに関わった者は一人残らず成敗せよ!」と仰せになったが、
吉岡三河守の詫び言により、国内からの追放となった。

その後、不審なことが起きた。義鎮公の姿が突然見えなくなったのである。
家中の者達が国中を探すと、府内間近のクコミ浦と言う場所で見つかった。
そこは大変粗末な柴の庵で、豊後の国主たるものが少しでも住むべき所とは見えなかった。
「このような場所に、お伴を一人も無い軽々しい有り様、一体どういうことですか!?」
と申し上げると、

「それがな、紅葉の景色に惹かれて、心ならずも浮かれ出でたのだ。
府内には思う仔細がある。上ノ原に御座所を移すように。」
そう仰せ下した。

これに重臣である戸次伯耆守(道雪)、臼杵越中守、斉藤兵部少輔を始め、ご一門中その他は話し合ったが、
「確かにお心をはかられての事なのだろうが、上ノ原の普請と言っても、あの場所は御屋形様が
御座を移されるべき場所ではない。どうにかして府内に帰っていただかなければ。」
そうまとまり、様々に申し上げたが、義鎮は同心せず、上ノ原に滞在した。しかしそこは探題御座所では
なかったので、臼杵丹生島に移られた。

その後、義鎮公は御髪を下ろさせられ、宗麟公と名を変えられた。
御一門の老中も思い思いに法体となった。
宗麟公は御患いのようであったが、様々な御養生にて本復し、その後府内へと帰られた。

(大友記)

大友宗麟調伏事件とその出家に関する記事である。




戸次道雪、大友義鎮を諌める

2015年03月07日 16:52

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/07(土) 16:47:23.10 ID:5liutiCy
当屋形である大友義鎮公は、幼少の頃より政道正しき大将であり、儒学の達者にて堯舜湯武の古き跡を
御尋ねになり、何事も、廃れた道を改め、古式の例に任せて御仕置をされた。
かねてより怪力乱神といった徒な事を聞くことはなかった。

所が、このような大将であったのに、いつの間にか性格が変わってしまった。
ある時、御簾の間に移って御酒宴の御慰があったが、その後踊りを見物したいと、国中から二十歳前後の女を
すべて踊り子にするため召し出した。義鎮公が行ったこのような事は限りなかった。

義鎮公は相手がいかなる野人であっても、色良き女をさえ差し出せば、機嫌よく御前に召し、財宝を与えた。
都より楽の役者を召し、酒宴、乱舞、詩歌、管弦に日を送り、偏に好色に傾いた。
美女に対する潰えは万民の苦しみであり、侍の権威は女に掠め取られた。これこそ傾城傾国の基であり、
次第に、日々猥らとなり、いつしか礼儀を忘れ、偏に好色に傾けば、国家滅亡となるであろうと、
これに眉をひそめぬ者はなかった。

戸次伯耆守(道雪)はこれを悔やみ、どうにかして制止したいと日々登城するも、御簾の内に入るのは
許されなかったため、どうにも出来なかった。
そこで戸次は踊り子を用意し、御簾の間にで日々夜々に踊りをした。

これを義鎮公が聞き及び、「伯耆守は月見、花見、酒宴、乱舞といったものを大いに嫌っていたのに、
今踊りを好むとは不審なことだ。きっと私への馳走のつもりなのだろう。見物したい。」と言い出し、
戸次の元へと出向いた。戸次伯耆守は大いに喜び、踊り子たちに三拍子という踊りを三度踊らせ、
それが首尾よく済むと、義鎮に向かって申し上げた

「恐れ多きことですが、請い願わくばその御不行儀を止めて頂きたい。
かつて、御父君である義鑑公の時代は、ご領内六カ国においてさえ、猥らがましきことばかりでしたが、
御屋形様がご若年で家督を継がれてからは、程なくその風潮も収まりました。これも偏に、御屋形様の
ご威光が浅からぬ故でしょう。

さりながら、近年は何事も御政道を投げ打たれ、御簾の間に移られ、家臣たちの言うことは何も聞きたくないと
仰せられました。これでは悪しき事も良き事も申し上げる方法がございません。

毛利陸奥守(元就)は立石合戦で利を失い、御屋形様を恨み、様々な武略を巡らせ、当家を滅ぼす時節を
待っております。
只今の大友家の御様態、御幕下は内より御屋形様を疎んでおります。
義鑑公の時代のように、世間で再び兵乱が始まってしまっては、なんと御勿体なき儀ではありませんか。」

そう、涙を流し申し上げると、義鎮も「ありがたし」と改心した。
翌日は七夕の御礼の儀があったが、諸士が登城すると、義鎮は例年通りの儀式において、
家臣たちと対面し御礼を請けた。このことに、豊後の国中喜悦の思いをなしたのである。

(大友記)



698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/07(土) 20:46:37.55 ID:P9TUOMNt
大友って盟主的な扱いだから義鎮本人の能力が分かりづらい
直接指揮した合戦もなさそうだし今川氏真と大差無さそう
あるいは一条兼定なみか

「柳川3年、肥後3月、肥前・筑前朝茶の子」

2013年02月09日 19:51

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/08(金) 20:23:28.68 ID:QSJ/rZu2
大友家の全盛期に軍中ではやった戯歌があった

「柳川3年、肥後3月、肥前・筑前朝茶の子」

大友支配下の蒲池氏の居城柳川城の堅牢ぶりを唄った戯歌である。

しかし、その後の大友は朝茶の子呼ばわりした「肥前」の竜造寺に今山合戦で敗れ、肥後筑前の半分を失い、
柳川城も竜造寺に奪われ、
名将立花道雪が最晩年命を削って戦った柳川城攻略戦の敗退を見るに栄枯盛衰を感じさせる戯歌である。






神々の争い

2012年09月08日 20:30

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 05:18:47.30 ID:XGjCSYo5
神々の争い

 武士に戦神と崇められている八幡神を祭る宇佐八幡宮。
 その由来は謎な部分が多いが元はどうも渡来系の鍛冶の神らしく、弓削道鏡の野望を砕いた
宇佐八幡神託事件など朝廷の庇護も厚く、九州最大の荘園領主として君臨していた。
 という訳で、八幡神は天津神として扱われる事が多い。
 また、宇佐八幡は神仏混合政策を主導していた事もあって弥勒寺という寺を抱え、国東半島は
六郷満山という仏教の拠点にもなった。
 さて、今度は国津神である。
 豊後の国の南部、祖母山を中心とした山岳信仰から、とある一族が豊後国に台頭する。
 大神氏。
 この一族、その祖が蛇神という血統を有していた彼らは豊後南部に根を張り、土地は貧しいが
港に適した地形から海上交易によって富を築き勢力を拡大していた。
 そして、彼らが持つ水軍は平家台頭の時代の流れに乗り、源平以前から九州最大の荘園領主であった
宇佐八幡と必然的に利害が衝突する。
 大神氏の子孫である緒方惟義は平家を見限り源氏につき、平家が避難していた宇佐八幡宮を焼き討ち。
 だが、平家が壇ノ浦にて滅んだ後の源頼朝と源義経の対立に巻き込まれた大神氏は義経側について失脚。
 時代は下がり、豊後に下向してきた大友氏はこの神々の争いを徹底的に利用し、
宇佐八幡信仰を利用して地元国人衆であった大神系国人衆を粛清してゆく。
 ただ、宇佐八幡は豊前にあり豊後とは隣とはいえ国が違うために、その八幡信仰を担ったのは
国東半島にある奈多八幡宮である。
 この争いは戦国時代になるまで続けられてゆく。
 大友家が合戦や血縁政策にて大神系国人衆を取り込めば、大神系国人衆はやばくなったら船を使って
伊予に逃げ出しほとぼりが冷めたら豊後に帰還する始末。
 その戦いの決着は全てを否定するこの男の信じる神によってもたらされた。

 大友宗麟『主の為に』

 大神系国人衆は小原鑑元の乱を最後に無力化されるが、宇佐八幡をはじめとする旧態依然として
既得権益の塊だった寺社勢力全てをキリスト教信仰によって大友宗麟は敵に回した。
 
 1561年 宇佐八幡宮焼き討ち

 こうして神の国を作ろうとした男の夢は耳川合戦の大敗にて散り、大友家もその息子義統の代に
朝鮮出兵の不手際にて滅ぶ。
 その不手際の一説に名前があがったのがキリシタンだった志賀親次というのは何の因果だろうか。

 天津・国津・仏教にキリスト教、豊後にはこのような神々が流れた残滓が残り、20世紀その後豊後こと
大分県は国東半島を中心に仏の里をキャッチフレーズに観光資源としてPR。
 最後まで残ったのは仏教だったという神々の争いとその顛末の話。




372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 06:07:11.81 ID:aRY9MqBK
確かに信長っぽい
最終的にキリスト教に取り込まれてしまったが

雑談・大友宗麟のこと

2012年09月07日 20:38

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 08:53:38.23 ID:rDTCjwjr
やめとけ…(´・ω・`)

【大分】大友宗麟PR大作戦 大分市 まちづくりへ検討委
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1346829411/


325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 10:23:52.29 ID:TpRga5x+
ヤブヘビって言葉を思い出した・・・

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 10:52:42.98 ID:W59RMvbQ
太閤秀吉は百姓から天下人になった英雄
なんて思ってた頃に戻りたい

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 11:37:13.75 ID:fAY4MyLn
戦国時代の一番のDQNは織田信長

そう思ってた時期が懐かしいねみんな

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 11:59:09.10 ID:hkfZeY7T
>>326
俺も気配りと頭の回転の速さと人間的魅力で貧民から天下人になったって思ってた・・・

あれ、間違ってないな・・・あれ?

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 14:44:57.60 ID:GkDvIw8o
誰もが言うのは「天下人になるまでの秀吉は好き」

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 14:53:18.40 ID:PpEWX2Gg
ずいぶん前にヒストリアでキリスト教によって愛に目覚め理想の国家をつくろうとした
西洋音楽(ムジカ)を愛した大友宗麟、なんて持ち上げられてたから、そこらでとめとけばいいのに

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 15:09:28.47 ID:ub9Z13rJ
>>326-328
一度知ってしまった以上、
知らなかった頃にはもう戻れない・・・


332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 15:14:00.48 ID:qlwzXjvw
いい意味でも悪い意味でもデカイ男だからな

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 17:11:02.59 ID:Wjow5dIE
ソーリンのキリスト教は市松の酒みたいなもんだな。

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/06(木) 17:14:49.07 ID:MfMuhx+J
宗麟公とその周辺は、キリスト教宣教師の側の記録と日本人の側の記録の格差があまりに酷くて
比べてると乾いた笑いしか出ない。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 01:01:03.11 ID:kWlvANan
大分が生んだ戦国時代のキリシタン大名、大友宗麟(1530~87)を大分市のまちづくりに生かしていこう、と同市は有識者や町おこしグループをメンバーに
大友宗麟プロモーション検討委員会」(委員長=吉津弘一・日本文理大学経営経済学部教授、9人)を発足させた。

 宗麟は南蛮貿易に取り組み、西洋音楽や西洋医術などを積極的に導入。宣教師フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許した。
ヨーロッパでは、九州の地図は「BUNGO(豊後)」と記され、宗麟が描かれた絵画も残っており「王として知れ渡っていた」(鹿毛敏夫・東京大学史料編纂所国内研究員)。

 3日に同市役所であった検討委初会合では藤沢卓弘・大分商工会議所青年部副会長は「パエリアなど南蛮料理を飲食店と提携して出してみたらどうか」と提案。
牧達夫・NPO法人大友氏顕彰会理事長は「業績や資料を目にすることができる場所の確保を」と求め、
県立芸術文化短期大学1年の竹中容子さんは「歴女(歴史好きな女性)の学生には甲冑を着けたいという人もいる。難しい話よりインパクト重視で」とアイデアを出した。

 委員会は、来年1月まで毎月1回開き、具体的なPR方法をまとめ、来年2月に釘宮磐市長に報告書を提出する。

 同市は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて知名度の低い宗麟にあらためてスポットライトを当てよう、
と昨年の市制施行100年を契機に宗麟を柱の一つにしたまちづくりに着手。本年度は児童向けの副読本作成や
国史跡「大友氏遺跡」を観光拠点とするための保存事業など14事業を予算化。観光客を意識し宗麟像があるJR大分駅前に、
ザビエル像を3年以内に新設することも予定している。

=2012/09/05付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/322259

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 01:26:54.08 ID:AryGjO1K
>>342
人妻は宿泊割引とか、仏教徒は2割増しとかで

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 01:31:38.20 ID:4sIVIzBZ
それはちょっと・・・
つか宗麟押しは悪い話かよw

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 01:33:50.86 ID:O62kEgbm
>織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて知名度の低い宗麟

この3人と比べる事自体間違ってるだろw

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 07:26:14.49 ID:VP9ypd+i
あんまり宗麟は掘り起こさない方がいいと思うな
情けなくなるから


347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 11:03:00.85 ID:xlZ8SbNS
宗麟の知名度よりも隣の島津さんや家来の道雪・宗茂の方が高そうだし。

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 11:57:11.88 ID:JIkweN8t
知名度は低いが優秀なキリシタン大名って所で
終わらせておいたほうがいいよね。

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 12:04:08.31 ID:9qqHBY3H
>>児童向けの副読本作成や
宗麟ってR15指定だよな

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 12:17:34.17 ID:iZdvwBUr
知らない方がいい事もある…


351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 12:44:48.03 ID:/nOj86H9
輝元よりはマシだと思うがねえ…

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 12:51:37.45 ID:taYFq6P2
最後の方で見せた意地は良いと思うんだけどな

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 13:42:35.00 ID:yIisNEzp
ゆるキャラ:大友宗リン

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 14:42:21.41 ID:tmTZfyp3
TERUには愛嬌があるけど、宗リンはなんていうか、のりがガチなんだよ

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 15:38:15.40 ID:qOrIL3ku
靖国の遊就館にある国崩しって実戦使用した物なんだろか?

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/07(金) 20:26:22.72 ID:jCfq0HyF
>>353
はるか昔、某誌で女子大生がムネリンと呼んでゲームで使用してだな

青年武士シマンとその叔父

2012年07月13日 20:59

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/13(金) 20:01:51.45 ID:rf3Ug6Rg
『日本人イルマンがパンタリヤン(田原親盛大友宗麟三男)の城に於いて説教を行なっていた時、
豊後国の大身の一人の兄弟にて、名を式部殿と呼ぶ武士がこの場所にあって、ことごとく説教を聴き終わった後
洗礼を受け、バスチャンという名を与えられた。
翌日彼はパードレ・ペロ・ゴメスと日本人イルマン一人を伴ってその家に帰り、直ちにその妻と家族及び
家人一同に説教を聞かせ、約80人に洗礼を受けさせた。

また、このパンタリヤンの城において、偶然彼を訪問していた青年武士が一人キリシタンとなった。
彼については特に報ずるべき事件が起きた。

シマンと名付けられたこの青年は、説教を聞くと熱意に満ち、偶像を崇拝していた過去を恥じて、次の手段によって
これを改める決心をした。すなわち洗礼を受けた後、その家に戻らず、直ちに領内の町村に行って、同所にある
寺院に火を放ったのだ。

この事は突然行われたので、坊主も俗人も驚き、火災が甚だしいため、住民は彼が豊後の王(大友宗麟)に叛いたか、
あるいはその地が敵の手に落ちたものかと考えた。

彼は領内にある、彼の父の兄の寺院に至ると人を遣わして、

「私は既にキリシタンになったことにより、その領内における神仏の愚行を容認することが出来ない。
しかしこの寺院は叔父上のものであるのであえてこれを焼却しないが、叔父上が自ら命じてこれを焼き払われる
事を望む」

との旨を伝えた。叔父はこれに返答をせず、異教徒である親類及びその兵士とともにこの寺院を守る決意を固めた。
この叔父の態度にシマンは大いに怒り、彼を殺すことを決心し、必ずその首を取ると言い放った。

叔父は偶像崇拝の保護者たる親賢(田原親賢大友宗麟の妻奈多夫人の兄。反キリスト教)に頼り事の顛末を
伝えた。この事は神仏を守ることであると田原親賢はこの要請を引き受け

「怖れるには及ばない!私自ら保護に当たろう!」

と宣言した。それでも青年は叔父を殺す決心を動かさず、また田原親賢は既に約束した事によりこの叔父を守ろうとした。
しかしその田原親賢の婿であるパンタリヤン(田原親盛)は、こと信仰に関することであるので青年に好意を寄せ、シマンの
許に人を遣わして、この問題においては感情的にならず、道理によって処置すべきだ。もしその結果によってあなたに
見の危険が迫ることがあれば生命をかけて防ぐ。そう伝えた。

(中略)

その後パンタリヤンはパードレ・ペロ・ゴメスに使者を遣わし、シマンとその叔父のことは既に解決し、二人の裁判官を定め
その正当と認める所に従うよう伝え、裁判官たちは田原親賢が約束を破棄し叔父を保護せず、またこれを臣下とせず
国外に追放し再び入国することを許さず、その所領の半分を没収し、残りの半分はその子に与えると決定した。

その後パードレはシマンがその家臣約2000人をキリシタンにしようと切望していると聞いた。しかし全員をキリシタンにすれば
労役者が不足するので来れをするのは不可能であった。(キリシタンは労役義務を免除されていたようだ)
シマンは信仰のことに甚だ熱心であり、たとえ世子(大友義統)が反対の命令を下しても、既に説教を聞いた上は
必ず洗礼を受けると言い、ついにこれを受けた。』


大友宗麟の時代の、豊後で起こったキリスト教絡みの騒動の一つである
(天正12年・日本耶蘇会年報)




512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/14(土) 06:54:03.49 ID:zz3tN4If
>>505
キリシタンは労役を免除されてたのか
これはメリットあるな

大友宗麟、天正3年三浦次郎宛書状

2012年06月08日 21:00

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 06:07:33.45 ID:+fkYE8yS
毛利の支援を受けた宇喜多直家が、浦上宗景に対し反乱を起こした状況の中、豊後の大友宗麟
浦上宗景の家臣にあてて出した書状


『天正2年閏11月13日付けのあなたからのご音信が、今月(天正3年正月)16日に到着しました。これを見たところ、
宇喜多直家は逆意を起こして兵乱をなし、浦上宗景はこれに攻められ籠城をしているとのこと。是非もないことです。

しかし三村貞広は宗景に対して累年の甚だ深い同盟関係にあるので、些かも別儀は無いと承っております。
これをお頼り成されるべきでしょう。

なお、かねがね宗景に申し語った内容は、我々による防長攻めが余技なくなっているみぎり、
芸州の者(毛利家)は備中表に侵攻しています。私は家中に対し、急速な出兵を申し付けました。

あなた方は三村元親と話し合って行動して下さい。ご才覚によって敵(毛利)を抜かりなく足様にするするのは
今この時です。三村元親兄弟に書状を送った所、今後は別して我らに入魂いたすとのこと。祝着な事であります。
よくよく連絡をとりあうことが肝要です。

なお、田原近江守(親実)が詳しく説明いたします。恐々謹言。

(天正3年)正月30日                    宗麟(花押)

 三浦次郎殿』

(上利文書)

この時大友は毛利領への侵攻を本気で考えていたようであるが、おそらく龍造寺との紛争などで動けず、
結局この、毛利を挟撃する計画は実行されずに終わる。
しかし織田包囲網ならぬ、毛利包囲網も形成されていたんですね。

当時の大友家をめぐる、西日本の外交環境がよく見えてくる書状である。




839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 14:04:20.70 ID:1uyas2wL
>>831
三村って正直なところ、家親が狙撃された以外はマイナーな大名ってイメージだし
ウィキペディアの記事もたいしたことないけど、
戦に万単位で兵を繰り出してるし、こういう書状なんかを見るに結構脅威だった感

なんでいまいち日が当たってないんだろう・・・

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/08(金) 16:50:02.47 ID:fKhD3yeK
>>839
一国の覇者とはいえ、なんともあまり存在感のない備中だし、家親は一代の傑物とはいえ、これまた西と東が黒い話には事欠かない、毛利と宇喜多だしで、知名度が劣るのは仕方ないんじゃないかな。
何より大名としては次代で滅んじゃったし。

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/09(土) 02:55:39.41 ID:R9jla7JH

>>831
防長攻めて、北九州止まりじゃん

雑談・宗麟の悪い話は

2012年06月04日 21:05

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 17:14:59.63 ID:bP9OqWak
宗麟の悪い話は、後世に作られたデマ
って書き込みを以前みたけど、どういう根拠だっけ?

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 18:27:08.07 ID:P4o9dyjQ
>>607
宗麟の悪行は主に、宗麟と敵対していた毛利系の記録に残されているものだから、ってやつだったかな?
まあ宗麟の悪行は別に毛利系の記録だけに残ってるわけじゃないけどねw

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 18:37:51.88 ID:x1Moj6SH
被害者が不明瞭な話が多くて、実際創作の悪行も多そうではあるがな

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 18:41:55.11 ID:LSsEfHgr
ぶっちゃけ、いい話悪い話のほとんどって後世の創作臭いしなw

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 18:42:56.21 ID:mwMqvhKs
大友から離れた自分達を正当化するために立花あたりがでっちあげたんだよ、たぶん

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 19:01:15.80 ID:K3Xn2Hyl
大友は没落してるからキリスト教の保護者で有名な宗麟の悪口は禁教政策を進める時に
使い易いネガキャン材料だったのもあるんじゃない?
バカボンの分もまとめた寺社の私怨もありそうだがw

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 20:05:54.90 ID:CSQk4Jro
>>610
それは織り込んだ上での、スレですからw

どうしても信濃黒が欲しくなってしまった親教は

2012年06月03日 21:07

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 13:00:03.56 ID:dJ73p7nk
天正三年、宗麟のもとに信長から名馬が届いた。
宗麟は喜び、信濃黒と名付けて第一の馬として大切に扱った。

ある時、志賀親教は宗麟に拝謁して吉光の脇差をもらった帰りに厩を通りかか
った。そこに馬は二百疋はいたが、その中でも信濃黒は抜群であった。
どうしても信濃黒が欲しくなってしまった親教は、

「さっき、信濃黒を拝領した」

と嘘をつき、責任者がいないからと制止する厩番を振り切り、乗って宿舎へ
帰ってしまった。

戻ってきた厩の責任者はこれを聞いて驚愕、確認のため館へ走った。
近習たちに親教の詐称を確かめ、宗麟に報告した。
すると宗麟は爽やかに笑って言った。

「ちょうど今、脇差だけ与えて信濃黒を与えなかったことを悔やんでいたのだ」


人々は、寛容さで勇士を育てる名将の心だ、と感嘆した。




これ、宗麟のいい話でいいんだよな。
宗麟が志賀の勢力に屈した、親教の悪い話じゃないよな…




597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 13:01:38.06 ID:87XLycsJ
いい話でいいじゃない。そーりんさんのほかの逸話がアレだからって、先入観はよくないよ!

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 13:07:36.76 ID:K2eLk1pE
宗麟さんは名君の片鱗見せるときと暴君の全容見せるときの差が激しいよなぁ

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 13:11:25.42 ID:AtroaGLf
プチラスボスな宗麟、秀吉と気が合うわけだ

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 13:31:27.66 ID:JJc7S4Nn
女好きだしな・・・道雪先生、折檻お願いします

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 13:33:06.18 ID:WSkcNH0Z
しなのくろ、でいいのか?読み方は

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 13:42:01.42 ID:6KWmle2h
志賀親教(親度)も女好きで宗教狂いみたいだし、
宗麟もシンパシー感じてたんじゃ?

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 14:58:15.60 ID:RnnRot/o
これはきれいな宗麟

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 16:09:29.32 ID:3ZxlzVtG
ちょっとケチな憶測になるかもしれないが

実際に宗麟が「脇差あげるだけだと物足りなかったかも」って考えてた所に馬パクられた話が来たから
「馬あげた事にすれば釣り合いがとれるうえに恩も売れてお得じゃん」って思ったのかも

605 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/03(日) 16:15:23.34 ID:s6aLizjf
信長「いい話だ! よし長可は許しちゃお」

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/03(日) 16:52:06.30 ID:G9rCyuKd
悪い話でも長可は許すくせに・・・