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貝原益軒「朝野雑載」から大友宗麟の和歌

2023年04月06日 19:18

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/05(水) 19:27:04.81 ID:jWaTSmOW
貝原益軒朝野雑載」から大友宗麟の和歌

大友義鎮(宗麟)は諸芸に通じ、歌道にも達していた。
あるとき戯れにオウムの歌を詠んだ
「なびくなよ、しめておく野の女郎花 思ふかたより風はふくとも」
「なびくまじ、しめて置のの女郎花 思ふかたより風はふくとも」
この両首をどうしたわけか天子が聞こしめし、「雪の中の早苗」「蛍火の灰」という難題を豊後国に下されたため、この禁題にて義鎮が詠んだ

雪中早苗
富士うつる田子の浦わの里人は 雪の中にもさなへとるなり

蛍火灰
夜もすがらともす蛍の火も消て いけの真こもに、はひかかりけり

天子より題を下されたるこころを
思ひきや筑紫の海の果までも 和歌の浦波かかるべしとは

この三首を奏聞したため、叡感があったという。

※存斎(貝原益軒の兄)が言うには、終わりの歌は難題二つの歌に対する天子の賞賛の御製であろう

なびくなよ…なびくまじ…の両歌は
細川忠興「なびくなよ我が姫垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
ガラシャ「なびくまじ我がませ垣の女郎花 男山より風は吹くとも」
に似ているが、本歌があるのだろうか

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/05(水) 19:31:53.70 ID:jWaTSmOW
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3316.html
名門武家の若者、後奈良天皇の求めに

こちらの話だと宗麟が若い頃に参内して後奈良天皇の前で「雪中早苗」一首を詠んだことになっていた



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「大友興廃記」より「遣唐使の事」

2022年07月11日 18:33

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/11(月) 18:20:37.96 ID:cem3OHMR
大友興廃記」より「遣唐使の事」

大明国より唐船が豊後に天文十年(1541年)、同十二年、同十五年、永禄年間、天正三年(1575年)とたびたび到来し、猛虎四頭、大象、孔雀、鸚鵡、麝香、書画、錦繍綾羅、伽羅、猩猩の皮などがもたらされた。
そのため大友宗麟公もいろいろ進物を集め、金札銀札を調え、遣唐使を立てるために文武両道の達人を選ばれた。
ここに生国美濃の住人、齋藤某というものが国が乱れたため和泉堺に居住していたのを宗麟公が聞こしめし、使者をあもってめしだされた。
そののち入道して稙田玄佐と号した。
宗麟公より遣唐使を命じられ、いろいろ辞退したけれども再三の貴命、断りがたく了承し、金銀の王札、音物を携えて、数千里の海を越えて唐帝のもとで朝礼を拝した。
帝王より日本の勅使並みの扱いを受けたが、にわかに重病となり、帝より名医が差し向けられたが薬石効なく逝去した。
帝はこれを憐れみ国中の僧たちを集め丁重に供養し葬ったのち、玄佐の家人に種々の重宝を下賜した。
残りの者たちは帰りに嵐に遭い難破し、命からがら二十余人が宝物とともに帰朝した。
玄佐の嫡男虎松丸は三歳より母共に宗麟公の援助を受け、七歳の春より大友義統公に奉公しながら成長した。
なお稙田玄佐の先祖は清和源氏で多田満仲の頃より渡辺氏に入り(?)、藤原実綱と縁を結び、美濃斎藤家を継ぎ、数代を経たところ不思議なことがあった。
どこともしれぬ容姿に優れた女があらわれ奉公人となったが、一を聞いて十を知る聡明さであり、領主が言わぬうちから思い通りの働きをしたため、おおいに寵愛を受けた。
やぎて懐妊し、出産する段になって女は産室を作らせ、
「七日の間、どなたも入りませんよう」と伝えた。
三日を過ぎて領主は怪しみ、隙間からひそかに見たところ、恐ろしい姿の大蛇が子供を抱いて、赤い舌を出して子供を舐めていた。
領主は肝を潰し、人を集めて産室の扉を破って入ったところ、赤子だけで蛇は行方知らずであった。
産室は池となり、風の匂いがすさまじくなった。
その子を育てたところ、背中に巴の紋があり、子孫代々同じところに巴の紋が現れるようになったという。
これが稙田の起りであり、今に至るまで背中の紋は続いているという。

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/11(月) 18:28:06.43 ID:cem3OHMR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13394.html
一祐働きの事 付、月山の長刀
こちらの話に出てくる「植田玄佐鎮定の嫡男で善三郎」が虎松丸のことだと思われる。
同じ「大友興廃記」出典ではあるが、「稙田」と「植田」で字が異なっている。
ついでに新井白石「西洋紀聞」では豊後の領主とフランシスコ・ザビエルについてシドッチが語っている箇所で
https://ja.m.wikisource.org/wiki/西洋紀聞
按ずるに、フランシスクスは、漢に波羅多伽兒人、佛釆釋古者といふもの、卽此也、
豐後の屋形は、大友左衞門督入道宗麟也、其使せしものは、植田入道玄佐(玄佐、もと淸和源氏にて、渡邊の家をつぎ、又齋藤の家をつぐ、家紋巴なり、其子名虎松、時に三歲也といふ)もとは、美濃國齋藤の族也、
天正十二年に、宗麟がために使して、ローマに死す、西人懷にせし册子に、一道人の甁を持て、童子の頂に灌ぐ所を、繪かきし圖を指示て、これ豐後の大名の子の、法を受くる圖也といふ、但し豐後の屋形、其使等の姓名を問ふに、其姓名は、つたはらずといふ

と植田玄佐が明ではなくローマに行ったとしている



小笠原宗忠、大神見介、臼杵主税介、渡唐の事

2022年07月03日 15:32

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/02(土) 19:17:50.79 ID:sNNpHE3Q
大友興廃記」から「小笠原宗忠大神見介臼杵主税介、渡唐の事」
小笠原晴宗の次男、宗忠は浪人として豊後で年月を送っていたが、これまたいたずらに浪人の日々を過ごしていた大神見介臼杵主税介とともに
「無為に過ごすよりは唐に渡り見物をしよう」ということで三人とも肥前長崎から海を越えて明の大王の都に渡った。
もともと大友宗麟公は明の大王と通交して遣唐使や明の勅使の往来もあったため、三人が宗麟公の御判の状を持参すると
明の天子も「懇切に遇せ」との綸言を発してくれたため、言語は通じないまでも文字により数日を暮らしていた。
あるとき禁中から遠くないところで謀叛が起きたため、御誅伐の綸言が将軍たちに申し付けられた。
宗忠たち三人は「われわれ三人に先鋒を仰せつけください。官軍は後陣で遊ばされよ」と申したところ、天子からのゆるしがでた、
三人はよろこび先手となり、わずか九十三人が籠る城へと向かった。
宗忠は小笠原の末子ではあるが軍法を極めており、槍の秘術を会得していた。ほかの二人も一流の槍の使い手であった。
城から出てきた敵兵を三人で六十八人討ち取り、大将も討ちふせ首をとった。
逃げた者どもは後軍の官軍が退治した。
明の天子の叡慮は浅くなく、望みの褒美を与えようと仰られた。
三人が言うには「先年、信長公が安土におわしたとき、道坊と言うものが
『信長公への一日の進物をください。自分の運を試そうと思います』
と申したところ、その日の進物は銅銭一貫文だけだったので、信長公は道坊を憐れんだということです。
明であればそのようなことはないでしょうから、一日の御調物を下されたく思います」
と奏聞した。
しかしその日の御調物は常々よりも少なかった。
かわった風流者だったためにこのような果報だったのだろう。
そんなこんなで明の都に一年滞在したのち、対馬・壱岐の間で嵐に逢いながらも壱岐についた。
宗忠「あら波に 船も酔へるかのみ吐て 危なき命 生(いき)の島かげ」
こうして三人とも大明国に武勇を残し、異国見物をして帰朝した。

小笠原宗忠の兄の小笠原晴定についての話は以下参照
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13514.html
信長公 鬼月毛という名馬を豊後へ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13522.html
小笠原晴定誅伐の事


272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:29:49.56 ID:2nwEiHig
>>271
調物の件の意味がよくわからんのだが、誰か親切な人解説してもらえませんか?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:38:32.31 ID:htPLDiVZ
>>272
貢ぎ物のことだよ
あと安価ミスってるよ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 10:56:12.62 ID:ZJgGd5kV
租・調・庸の調

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/03(日) 11:53:21.91 ID:48uUtX46
ありがトン

大久保蔵人のこと

2022年06月03日 18:26

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/02(木) 23:19:58.24 ID:NuOKPlYc
豊後国の朽網(くたみ)の歴史を描いた「救民記」から大久保蔵人のこと

大久保蔵人は、朽網家に数代仕え、忠勤に励み戦功も多かった。
あの頭に角を生やした馬鬼を殺した時の長刀は、蔵人の死後に山原八幡宮に奉納したそうだ。
(馬鬼の話は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13411.html
「大友興廃記」より「馬鬼退治の事 ならびに七不思議」
参照)
ある年に大友宗麟公は耶蘇の会主の僧を朽網に派遣しようとした。
朽網鎮則は大久保蔵人に命じて梨原で耶蘇僧を追い返した。
このとき宗麟公からはとくに咎めはなかったそうだ。
蔵人は鎮則に従って筑前・筑後の戦でも数度軍功を現した。
朽網氏が(豊薩合戦で島津に降伏し、その後の豊臣による九州平定の際に大友義統から討伐され)没落した後、
大友義統公も朝鮮の陣では、忠臣たちが新参の者どもの讒言により罪を得、戦で敗北することが多かったため、毛利輝元へ預かりとなってしまった。
関東大坂動乱(関ヶ原の合戦)のとき、大友義統公は毛利方として速見郡立石で黒田軍と合戦に及んだ。
大久保蔵人も駆けつけて義統公に拝謁し、軍奉行を命じられ、黒田如水と戦ったが鉄砲に撃たれて死んだ。



小笠原晴定誅伐の事

2022年05月18日 16:38

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 20:41:27.78 ID:FCxFjtgU
大友興廃記」から小笠原晴定誅伐の事

古文に「筆は鋭く、墨は筆に次ぎ、硯は鈍い。しかし硯のように鈍いものは寿命が長く、筆のように鋭いものは夭折する」とある
小笠原刑部大輔晴宗というものはもとは義輝公方の家臣であったが、永禄の変で三好・松永により義輝公方が弑された時、たまたま大友家に来住していたためそのまま木付(杵築)に居住した。
晴宗嫡男大学兵衛晴定には人に勝れる大力があり、術芸に優れていた。
たとえば蛇に手縄を付けたものだとしても、馬と呼ぶようであれば乗って見せよう、と大言をはいていた。
天正十二年(1584年)の春の終わりに南郷岡の城主・志賀兵部入道※道懌(志賀親度、道益)のところに見舞いに行った。
なおこの岡の城は山の前後に大河が巡り、岩壁は四面にそびえ滑らかで、大木が盾の羽を並べたように林立し、鳥でなくては登りがたい名城であった。
(豊薩合戦のときに志賀親度の息子・志賀親次は、この岡の城で島津相手に「天正の楠木」と呼ばれるほどの籠城戦を行うことになる)
晴定は「これぞ九州第一の城郭であります」と挨拶し、道懌も晴定を馳走した。
酒宴がたけなわになった折、晴定は酔ったまま冗談めかして
「このような名城にありながら、野心がないとは心の鈍いお方ですな」と述べた。
これに対して道懌は何も発言しなかった。
悪事千里を行くのならいで、この雑言が宗麟公御父子の耳に入り、それから晴定が御前に呼ばれることはなくなった。
天正十四年には道懌に野心の風聞が立った。
そこで天正十六年の春、晴定を誅伐するための討手として臼杵美濃守が選ばれた。
宗麟公は晴定を召し、晴定が居住地の木付から臼杵に向かったところ、途中の産島の茶屋で美濃守は待ち構えていた。
美濃守「今時分に御登城とは、何の御用での御登城でしょうか」
晴定「とりあえず宗麟公のお召に従っての登城である」
その頃、晴定の家臣たちは干潟で潮干狩りをして遊んでいた。
美濃守は禿(かむろ)に茶を点てさせ、自分も飲み、晴定にもすすめて時分を見計らった後、刀をするりと抜き
「上意であるぞ!」と打ち付けた。
晴定も「心得たり!」と三尺八寸の刀を抜こうとしたが、あまりの大刀のため(または「あまりの大力」か)、刀のこじりを茶屋の腰板に一尺二尺突き通してしまい、抜くのが遅れてしまった。
美濃守は続けざまに三刀を入れて討ち取った。
さしもの名のある晴定も力が過ぎたため、かえって刀を抜く速さが遅くなり、無下に討たれてしまった。
ものごとに、過ぎたるは猶及ばざるが如し、というとおりである。
晴定は氏素性といい、骨柄といい、芸能の惜しい武士であったが若さの故このようになった。
ある人が言うには、「尾が剣に変じた牛がいた。牛はその尾を舐めると血の味で甘かったため舐め続けた。すると舌が破れて牛は死んでしまった」
晴定も舌のおもむくままに後先考えず悪言をはいてしまったため、その身を滅ぼすこととなった。牛と同じことである。
人はあまり好きたることに熱中すると過ぎたることになるため、好きでも無いことに心を寄せるべきである。

※「道懌」であれば「ドウエキ」となり「道益」と同じ読みなので、以前出てきた「道択(擇)」は「道懌」の誤字だと思われる



「大将心持の事 附・星を祈る事」

2022年04月22日 17:29

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/22(金) 12:27:30.84 ID:BLpusYEu
大友興廃記」より「大将心持の事 附・星を祈る事」

薩摩の太守・島津義久公の家臣、河田大膳入道休叱(入道名が牛室である川田義朗?)は高名な軍法者であり、神変奇特のことが多かった。
たとえば力攻めしても落とせないような城郭を、祈祷により天から火を下すことで焼却するような神変があった。
まことに飛ぶ鳥を落とすほどの奇特をなし、かれが行くところ大勝を得ないことがなかった。
さるほどに、島津義久公は天正十四年(1586年)丙戌の冬、諸勢を豊後に発向すべきか運を占えと休叱に申し付けた。
休叱「運ははかるまでもござなく候。
豊後両大将の星は、それがし存知のことなれば、大友宗麟子息義統の星を祭りもうすべく候。
星の奇瑞、次第になされよろしからん」と申す。
さて宗麟公の星は禄存星、義統の星は破軍星に当たっていたため、休叱は両星をそれぞれ祈祷したところ、忽然として奇特があった。
この星回りであれば、運の甲は乙となり、島津が利を失うことはあるまい、と休叱は喜悦の眉を開いた。
一方、豊後においても津野隈越前守(角隈石宗と思われるがすでに耳川の戦いで戦死しているはず)という軍法者があって、宗麟公父子の星が怪しいのを見咎め
越前守「かくのごとくは敵のためになすところの災いか、または国中の大乱か、常のことにはあらず。我かく見る上は、念じ返さん」
と思い、宗麟公に言上申したが御同心なく、
宗麟公「運は天にあり」とただ天運に任せよとの御意であった。
孔子曰く「祭ること在(いま)すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」
宗麟公のお言葉はよろしくないと人々は言い合った。

島津の軍師が星を祈祷して、大友宗麟・義統親子の運を転じたという話



大友宗麟、猿のために岩屋重氏を殺すこと

2022年02月08日 16:30

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 08:46:36.54 ID:EhFZQJMw
朝野雑載」より、大友宗麟、猿のために岩屋重氏を殺すこと
(「大友興廃記」にもほぼ同じ話があるのでそっちが元と思われる)

豊後国岩屋の地主岩屋五郎三郎重氏というもの、つねに猟を好み、ある時、鹿をいようと思い山に行き、岩壁に沿って鹿を追いかけたが、足を踏み外して岩上から落ちてしまった。
しかし岩の中腹の壇石に運良く落ちることができた。
岩を登ろうとしたがとりつくような出っ張りもなく、途方に暮れていると老猿が一匹来た。
老猿は重氏を見ていたが、しばらくして大勢の猿を集めた。どの猿も葛を手に取っており、重氏のもとに葛の端を下ろした。
重氏は不思議なことだ、とよろこび、葛をよりあわせ一本の大きな綱とした。
猿たちは大木に葛を絡めつけ、それぞれ葛の端を手に取り支えたところ、重氏は葛をよじのぼり、危うく命が助かった。
大勢の猿はすぐに逃げ去ったが、初めの老猿は残り重氏の方を見ていた。
重氏が帰ろうとすると老猿が後からついてきた。
重氏は恩知らずのあさましい小人だったため、その猿を一矢で殺してしまった。
宗麟公はこれを聞きたまい、重氏を呼んで仔細を問うと、翌日切腹させた。
宗麟公「重氏我に対して罪なし。子孫において仔細なし」と子供に父の領地全てを相続させた。
重氏にとって老猿は天地父母主君の次に来るほどの大恩人であるのに、恩を仇で返すとは禽獣にも劣ることだ。
そのため重氏の子孫にも老猿の精が祟りをなしたため、社をつくり、山王権現として祀ることになった。

関連
その行司に切腹を仰せ付けた



321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 08:51:42.70 ID:UWWLnGEW
猿ものは追わず

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 08:52:40.31 ID:EhFZQJMw
むしろ来るものを拒んだ結果

今や日本は戦国にして

2021年10月17日 16:24

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 14:28:30.51 ID:MKa9KZNU
大内義隆逆亡の後、豊前筑前は大友義鎮(宗麟)が治めた。この時にあたって大明王
嘉靖帝)より日本国王に璽書を贈って曰く、

「中華と日本は勘合によって古くから通じてきたが、近頃はその交友を失って来聘を
絶している。また毎年倭の賊船がしばしば来て、大明の辺境を侵している。切に望む
ことはその剽掠を禁止して衆民に安寧を得させることである。故に書をもってこれを
諭す。今や旧好に復して睦をなす時は、すなわち幸いのみ」

とのことであった。大明の使、鄭舜候という者は博多津に入り来る時に、豊後の大友
義鎮は西州を統領するため日本国王であるとしてその璽書を義鎮に奉り、またその意
を述べた。義鎮曰く、

「いわゆる日本国王はすでに王畿の君あるなり。私は西州の地を領してその藩屏を守
るのみであり、国王にあらず。しかしながら今や日本は戦国にして諸州の豪家は王命
を聴かない故、朝廷に達することができない。

そのうえまた自国は日々に兵備をなしてその領域を守り、ともに雌雄を争って他国へ
兵を出すことに暇がない。これはただ海島の群賊のなすことであろう。朝廷より制止
を加えるべき限りにあらず」

と諭すと、三使はこれを聞いて還った。

――『南海通記



我等の友である豊後の王は

2019年09月23日 16:24

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 13:21:31.58 ID:CxpARK4j
我等の友である豊後の王(大友義鎮)は、我等の君なる国王(ポルトガル王セバスティアン1世)が甚だ
年少であると聞き(1562年で8歳)、甚だ立派なる短剣で、鞘には金の蛇を巻き、甚だ良き細工の飾りを
施したものを贈り、またインド総督には良き剣を贈るため私に託した。しかしこれらは輸送の途中
暴風に遭ってみな大いに破損したため、修理のため日本に返送した。

当62年にはインド総督に武具を贈った。すなわち、甚だ立派な鎧に絹の飾りを施し金細工をなしたもの、
および頸甲その他付属品、並びに戦争に用いる銅製の面、および兜で金細工をなし装飾を施したもの、
および長刀、すなわち長さ1ブラサ余りの柄に剣を付け、これに装飾を施し銀を鏤めたものであるが、
総督の伯爵(レドンド伯爵ドン・フランススコ・コウチニョ)は大いにこれを喜んだ。国王がこの贈り物を
なしたのは総督ドン・コンスタンチノ(デ・ブラガンサ)が使者を以て書簡を贈ったことに対するもので
あり、同書中には日本に於いてパードレたちが創造主の真の教えを説く事について、便宜を与えたことを
称賛している。マラッカよりこの贈り物を携えた人に、王は700クルザド余りを与えた。

この王は我等の最良の友であり。親愛を示し、好意を以て助言を与え、またキリシタンを庇護し、
必要あって我等キリシタンのために斡旋する事もあれば、身分低き者には名を与え、これを招いて
引見する。名を貰うことは日本人が大いに名誉とする所である。

王はキリシタンである家臣を使いとして会堂に遣わすことが度々有る。当地より送る書簡に、王のことを
”太守”と称することが有るが、当国に於いては自ら低い称号を用いるが、他者からは相当なる名誉を
与えられることが期待されている。

王は先年、略奪を被った博多の国を鎮定するため5万人を派遣したが、もし自ら出陣する時は10万人を
率いるだろう。私が今、日本からの書簡によって見た所、王はほとんど山口の国を占領した。
同国の王であったその弟が殺された故である。
王は戦場に20万の武士を動員することが出来る。王の領内にはイスパニア最大の有爵者よりもさらに大きな
多数の大身が有る。この他にも多数の城主、および部将が有る。

貴族であるカピタン・モール(ポルトガル船の司令官)が貿易のためにその港に来て、王を船内に招いて
饗応した時に、彼はポルトガルの商人達とともに談笑して楽しんだが。カピタン・モールは帽を脱いで
起立すること長時間に及んだ。

(1562年12月10日(永禄五年十一月十四日)付、パードレ・バルデザル・ガゴ書簡)

大友義鎮(宗麟)についての報告。20万動員かー。



206 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/23(月) 13:43:02.15 ID:msBqlvZy
>>205
大本営発表だなぁ…

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 23:50:18.30 ID:Pi/XGgC+
宣教師が本国に送る報告書じゃないの

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/26(木) 10:50:53.92 ID:WXP64Q5R
>>205
キリシタン日本からインドまで移動したの?
死ぬわ普通

良き老王フランシスコは

2019年06月20日 17:09

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 00:37:47.96 ID:EX6KxfGe
王(大友宗麟)は今(既に通信した通り)臼杵より3レグアのアクミ(津久見)と称する町にいる。
この頃、同所に甚だ良き家数棟を建て、その中にミサを行うべき立派な祈祷書を設けた。
彼は老後の休憩所(隠居所)として世子(大友義統)から、その滞在している地方を貰い受けることを
希望していたが、世子が昨年これを与えたため、ここに移った翌日、イルマン二人を招いて、
同地方に有る寺院三ヶ所にある仏像を尽く破壊し、一つも残らず焼く事を命じたためこれを実行した。

王はまたビセプロビンシヤル(ガスパール・コエリョ)より、同所に駐在するためのパードレ一人、
イルマン一人を請い受け、同地方の二千人を超える異教徒に説教を行わせることとしたが、一部は既に
洗礼を受け、他の者は今教えを受けている。
この町に居た坊主たちには甚だ親切に話させ、彼(宗麟)が既にキリシタンに成っている故、彼等も
キリシタンと成ることを勧め、己(の生活)を支えるに足るものを与えることを約束した。諸人皆これを
良しと考え、今ドチリナを授けられている、

この町は甚だ静かであるため、パードレ一人とイルマン一人が駐在していた小僧院には、豊後の国の
坊主達が木の箱の中に、他の立派な箱を納めたものを宝物として密かに蔵してあった。
この箱には釈迦の教えが、金の文字によって九巻に認められた、甚だ珍しいものが納めてあった。
この書物は彼等の習慣に従って製本され、確実なる文書によれば、これが作られて270年経っているが、
今も新しいもののように見えた。その一巻はインドの管区長に送るが、同所より尊師の元に送り、
坊主達がその宗旨の書物を尊重している事を御覧に供するであろう。

この他に彼等が甚だ珍重する、釈迦の門弟19人の絵を描いた19枚の紙を納めた箱がある、世子が
父なる王にこの地方を譲った後、豊後の坊主達は世子の元へ行き、急いでかの書物と肖像を取り出し、
パードレ達の手に入らないようにすることを願った。この宝物を失うだけでなく、これを焼かれることの
危険があったためである、世子は直ぐに人を遣わして書物と画像を王に請わせたが、良き老王フランシスコは
世子の使者の来る前に使いをイルマン等の元に遣わし、彼等が寺院に於いて第一に取り棄て、又は焼却すべき
ものはかの書物及び画像であると伝えさせた、そのためこの事は既に実行されており、世子に対しては
その使者が遅かった旨を答えた、

右のほか、王はイルマン一人を外の二つの町に派遣し、その住民に説教をさせた、これにより400人余が
キリシタンと成った、

(1584年1月2日(天正11年11月30日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)


うーん…



180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/20(木) 08:43:33.06 ID:3qib0QTB
庶民から金を巻き上げるアイテムなんだし焼却した方が後々良い事になる

老王は堅固な柱のように

2019年05月15日 17:44

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/15(水) 13:42:07.62 ID:vxZvkeB7
豊後の領内は(耳川の戦いにおける)国王(大友宗麟)の軍隊敗北の報を聞いて悲嘆している頃、
日本の領主達は常に領地を増加する機会を待っている者たちであるため、国王が兵力を失ったこの時を
最も良い機会であると考え、豊前、筑前、筑後および肥後四ヶ国に於いて多数の大身たちが叛起した。
彼らは皆、豊後の王並びにその配下の大身達の領地をできるだけ奪い、自ら領主にならんと欲し、
この目的を果たすため同盟を結んだ。

既に述べたように、龍造寺(隆信)は肥前全土の領主であったが豊後の周囲に有る先の四ヶ国に於いて
国王に対し激烈なる戦争を始めた。これによって豊後の事情は一層悲しむべきものとなり、我等
キリシタンに対する迫害者は力を得て迫害を行い、両王(大友宗麟・義統)を動かしてその意に従わせ
ようとした。

老王(宗麟)は堅固な柱のように少しも変わること無く、我等に対する愛と親しみは日々加わり、また信仰の
事については一層熱心を増したが、若王(義統)は漸次冷淡と成り、我等から遠ざかった。しかして国を
治めているのは彼であるので、彼が冷淡と成るに従って、我等に対する迫害は増加した。
先の四ヶ国の内、肥後と称する国の主だった大身の一人は国王の味方であったが、若王の元に人を遣わして
「今後デウスの教えを庇護することを止め、自らが希望する条件を守ることを神仏に誓わないのであれば、
自分も他の大身達も王に服従できない。」と伝えた。

このため若王は全く信仰を棄て、要求どおりに神仏に誓いを立てた。このようにして彼はデウスの御恵を
失い、再び昔の罪と暗黒に陥った。我が教の敵は若王が信仰を棄てたのを見て豊後に集まり、前よりも一層
悪しき条件を定め、偶像に収入を返し、慣例の祭儀を行い、世子がキリシタンと成り教化を援助することを
止めるよう要求した。世子はこの要求を悉く容れ、異教徒の慣例に従い神仏によって宣誓をなし、完全に
異教徒であることを公表した。

ただし我等に対しては、「これはみな強制させられた為やむを得ず成したことであり、その悪しき事、
また自分が臆病であることは承知しているが、領国を失わないためには他に方法はなく、このようにしなければ
大身達が我等に援助を与えないためである。」と弁解した。
この事は彼の大いなる誤りであり、もしその父のように信仰が堅固であれば、その望みに対して却って
好都合であっただろう。

このように若王が屈服したため、我等に対する迫害は増加し、迫害者は言葉によって侮辱するだけではなく、
各地において毎日のように死刑の宣告を下した。こうしてしきりに友人、並びに敵の使者が来て、間もなく、
或いは夜中に殺されるだろうと知らせたため、我等は毎日毎夜、絶えず恐怖を抱き死の準備をなした。
府内の住院においては夜になると上長(カブラル)が一同を激励し、死を迎える力をつけた後、互いに
抱擁決別し、終夜殺しにくる人を警戒した。

老王はしばしば我等を励ましまた慰め、もし事起こらば我等と共に死すべしとまで言ったが、騒ぎは大きく
敵は甚だ強力にして、さらに政治は既に老王の手に無かったため、我等の恐怖には正しい理由があった。

かくしてこの苦難は数日継続し、その間祈祷、ジシピリナおよび断食を成し、二ヶ月半の間は昼夜祈祷を
続け、イルマン達は各々時間を定め、常に何人か祈りをすることと成した。
若王が信仰を棄て、この迫害によりキリシタン達は嘲笑を被ったため、新たに洗礼を受けた者の多数は
信仰を棄てたが、老王および野津のレアンのように信仰堅き者も少なからず、その熱心は益々加わり、
また新たにキリシタンと成る者も絶えなかった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)



耳川の敗戦後の、豊後国内

2019年05月14日 17:27

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/13(月) 19:50:33.25 ID:mxOrsGk9
老王(大友宗麟)は(耳川の戦いの敗北による)混乱の際、前に述べたように急遽出発し、食料も携えず、
所有の品の大半を失ったが、パードレが会堂に備え置いた十字架上のキリスト像を請うため人を遣わし、
これを携帯することを望む旨を伝えた。
またこのように大敗したが少しも恥じる所無く、デウスに対する信頼を失わない旨も伝えた。その後パードレが
王の陣所に到着した時、王は諸人の面前に於いて跪いて手を天に挙げ、現在の艱難に対して我等が主に感謝し、
パードレと語って彼は「キリシタンとして、このような不運に会うも心を変えず、むしろその熱心と
デウスに仕える希望はさらに加わった」と言った。この事を公言したのは、パードレに対する豊後の人たちの
不平と怒りを抑えるためであり、王の信仰がこのように固いことを聞けば、何人もパードレに対して無礼、
または害を加えることが出来ないためである。その後パードレと数回談話した際、「我等が主デウスは
我が意志と、私が日向においてキリシタンの教えを広めようと図っているのを知り給い、隠れたる御裁断に
よりこのような不測のことが起こった。しかしこれに満足し、己の弱き判断を捨てデウスの賢慮に
服従する。」と言い、また他の機会にパードレを慰めて、「デウスが私の軍隊を敗北せしめ給いしは、
この戦争においてデウスの教の最大の敵にして、帰依に反対していた者たちが多く死して、以後の教化に
便ならしむためであろう。」と言った。
若王(大友義統)もこれに劣らぬ勇気を示し、その父がパードレ・フランシスコ・カブラル対して言ったのと
同じことをパードレ・ルイス・フロイスに伝えた。

しかしながら豊後に於いては今回のことは全く神仏の罰であるとされ、我らに対する不平が大いに訴えられた。
よって若王の義兄弟の一人が彼を訪問し、「かくの如き不幸起こり、その部下たちは甚だしく憤慨しているが
故に、今後デウスのことに関係すべきではない。」と勧めたが、若王はこれに答えて
「従来臣下の意向を尊重し、また母(奈多夫人)の機嫌を損じ無いよう努力してきたが、今後は誰にも
譲歩せず、その(キリスト教の)救いのために適する事をする。」と言い、パードレ・フランシスコ・カブラル
臼杵に到着すれば、他人の意向に頓着せず、直ぐに自らキリシタンと成り決してこれを見合わすことはないと
宣言し、また自らキリシタンと成ることを示すため、ロザリオを取り、公にその首に懸けた。その後同一の事を
パードレ・フランシスコ・カブラルに語り、またシナのビジタドールのパードレに通信し、従来よりも遥かに
その信仰心が強くなったことを示した。

国王父子の決心がこのように固いのを見て、我が教の敵は、我等並びにキリシタン等に反対する言を成し、また
行動をすること出来なかった。キリシタンと成って多くの日を経たわけではない国王と、受洗の希望者に過ぎない
世子とが、古きキリシタンにすら信仰への疑惑を懐かしめるこの大いなる不幸に遭遇して、このように堅信を
保持しているのは驚くべきことである。豊後の王は多年非常に幸福であったが、キリシタンと成った直後に
この不幸が起こり、殊にこう言った事態は、かねて坊主たちが威嚇していた事にも関わらず、少しも心を動かさ
なかったのは、我等が主の大いなる御恵である。

その後ほぼ一ヶ月を経て、日向の軍隊の総指揮官であり、死んだと思われ、ゼザベル(奈多夫人)一同も既に
その死を嘆いていた、彼女の兄弟である田原親賢が表れ出た。この残酷なる敵が豊後に戻ってきたと同時に、
キリスト教への迫害は新たに起こり、我等に対する不平の声挙がり、姉妹である悪王妃、およびこの戦において
父子、兄弟、親戚を失った多数の大身及び武士たちは合同して、『今回のことは宣教師たちが豊後に於いて
教化をなし、偶像を破壊したことに原因を発するものである』と成し、我等を殺し、または当国より追放
することに全力を尽くす決心をなした。
戦争において死んだ者は多く、諸人敗戦を嘆いていた故に、我等は町に出れば多くの罵倒の言葉を聞いた。
しかしながら老王は、動かざる柱のように我等を庇護し、若王もまた強く信仰を守ったため、敵はその望む
所を行うこと出来ず、ただ不平を述べるのみであった。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の敗戦後の、豊後国内の動揺の様子。



30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:40:43.36 ID:G3wFrSId
大友宗麟ってデビュー当時からピンチの時の判断が素早く的確
成功した戦国大名ってそういうものなんだろうけど

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 14:05:44.57 ID:9vYs8KUt
自分の首を取られたら終わりだからね
今川さんみたいになっちゃう

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 15:04:21.80 ID:x0PW2SgR
動かざる柱のようとか大敗しても恥じないみたいな姿勢はかっこいい

フランシスコ・カリヤン書簡より、耳川の戦い

2019年05月10日 16:42

17 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:28:01.42 ID:0VkCxDIG
両王(大友宗麟・義統父子)が日向及び豊後に於いて(キリスト教のために)為したる事は右の通りであるが、
それに対するパードレ等の満悦甚だしく、また大友統治下の諸国に於いて、帰依のために開かれた門戸は広く、
キリシタンたちが満足したことは、尊父も察せられるでしょう。
であるが他方に於いて我が教の敵は悲しみ、邪悪なるゼザベル(奈多夫人)と坊主達の不満甚だしく、
坊主たちは両王が寺院を破壊し彼らを侮辱したことに対し、神仏の罰が諸国に及ぶと脅したのであるが、
キリシタン並びに王達は、神仏がいかに激怒しても何もすること能わないのを笑った。

事情かくの如くであった時、我等の主デウス(御判断は我等には解らざれども、聖にして常に正しく、また
一般の幸福と成るものなり)は、日向の軍隊に油断の生じることを許し給い、これによりキリシタン及び
我等の喜びは嘆きに変じ、キリシタンに対する大迫害が起こり、豊後の王が多年領内に維持していた平和は
忽ち激烈なる戦争に変わり、国内の事情は一変した。
世の事は無常であり、日本の事情が変わりやすいこと、また我らが進まんと欲する道が、我等の主が定め
られたものと大いに相違していたことが、明らかに認められたのである。

日向に在った総司令官である田原親賢の油断と無能により、既に手中に在った勝利と、その指揮する全軍は
失われた(耳川の戦い)。軍隊は同国一帯の鍵であり、多数の兵の籠りたる一城(高城)を囲んだが、
それ以前に攻めた城においては少しも抵抗を受けなかったため、敵を軽蔑し警備を怠っていた。それに反し
敵である薩摩の王(島津義久)は少しも油断せず、高城の陥落が全領土の喪失と成るべきことを慮り、全力を
尽くしてこれを救援する決心をなし、噂によれば所領の三ヶ国より老人と少年を除き貴族及び平民の兵を
悉く召集して無数の兵を得、これを率いて城に向かって進軍した。そうして先ず伏兵を設け、全く警備を
怠っていた豊後の軍を平地に誘ってこれを攻撃した。城内の兵もまた打出て、豊後の軍を真ん中に挟んで
おおいに戦った。豊後の兵はよく防ぎ多数の敵を殺したが、大軍に対抗すること出来ず、大部分は戦死し、
残兵は戦場を敵に委ね、列を乱して敗走し、生命を全うするために全力を尽くした。

18 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 09:29:00.68 ID:0VkCxDIG
風評は事実より誇大に伝わり、また逃げる者には恐怖が伴うのが常であり、多数の敗残者は戦場より数レグワ
離れた老王(大友宗麟)の滞在地(無鹿)に着くと『全軍殺され、または敗走し、敵は急激に追撃し、数時間の
内にはここに到着し占領を始めるであろうから、少しも時を失わず豊後に遁るべし。』と言った。
多数の人が逃げ帰って同じことを繰り返したため、話は益々大きくなり、前よりも悪しき報伝わり、人々の
恐怖は甚だしかった。パードレ・フランシスコ・カブラルは王に対し、「同所は堅固であるから引き上げを
急がず、残りの軍隊を収拾すべきで、敵が急に来ることも無いし、味方の死者も話よりは少ないはず。」と
言い、王もその勧告に従う決心をしたが、部下の恐怖甚だしく頻りに騒いだため、遂にこれに負けて急遽豊後へ
撤退することと成った。夜中人をパードレに遣わして己の去る事を告げ、少しも躊躇すること無くイルマン達と
共に出発するよう命じた。この夜の混乱は甚だしく、王と共に逃げる者が途中の食料を携えることも忘れたため、
豊後までの3,4日路の間非常なる苦労と飢えを覚え、国王も妃も大いに困窮した。

パードレ・フランシスコ・カブラルおよびイルマンたちは、国王が同日午後、彼らの説得により一端、敗残兵を
収拾して同所に留まることを決断していたため、撤退の用意を少しもしておらず、王が撤退の使いを出した
直後には出発してしまったため独り後に残り、馬はわずかに一頭しか無く、しかもこの馬は、病気のため
付近の他の町で療養していたイルマン・ルイス・ダルメイダを迎えるために送る必要があり、どのようにしても
他の馬を得ることが出来ず、又これを捜す余裕もなく、しかももしすぐに出発せず豊後の王から離れた時は、
我等は敵、もしくは味方であるはずの豊後の逃亡兵から殺される危険があった。この兵士たちは異教徒であり、
パードレたちが国王をキリシタンとなしたが故に、神仏の罰が彼らに及んだのだと言い、そういった迷信を
抱いていたためである。
パードレ及びイルマン等は如何とも出来ず、会堂の最も大切な品を少しばかり従僕たちに運ばせ、冬の最中に
険しい山道を通り、食料も無く、肉体及び精神上非常なる疲労を覚えたが、王が恥じて引き返してくることを
懸念して前進した。彼らの困難は甚だしく、大いに飢餓に苦しみ、三日の道中を成した力があったのは不思議と
思うほどである。
日本の戦争の習慣に従い、全土は焼かれて居住する者もなく、食料も、夜休憩する家もなく、飢餓と寒気と
疲労のため、絶えず死に瀕していたが、我等の主の御助により。夜の宿泊所において従僕たちから少しの米を
与えられた。また山の険路において足を痛め、履物もなく、降雨のため水多く冷たい河を渡り、濡れた体を拭く
物もなく夜を過ごした。これにかかわらずダライニヤを唱えてデウスの一身を委ね、かくの如くしてデウスの
御恵により慰めを得た。
(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

耳川の戦いの敗北についての宣教師の記録。やはり神仏の罰だったのでは。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/10(金) 13:28:47.46 ID:C+7oiKRh
これは前スレの空気読まない学級委員長みたいな大鹿剣助も激怒

豊後の王の勝利

2019年04月21日 16:22

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 09:14:51.28 ID:WjCbBoTL
この頃豊後の王が戦争に勝利を得たという報告が我らに達した。大内輝弘王が毛利占領下の山口に渡り、
(永禄十二年九月、大内輝弘の乱)、その地に軍備がないのを発見し、その大部分の占領を始めた。
この報が暴君(毛利元就)の軍隊に達すと、毛利軍は一晩の間に、大友方に悟られること無く九州の戦線より
撤退した。豊後の王(大友宗麟)の部将たちはこれを知り、大兵を集めたため、1ヶ月の間に城十ヶ所を
陥落させ、これによって戦争の目的であった二ヶ国(豊前、筑前)の主となった。

領内が安全と成った後、戦争中最も強かった肥前国の領主(龍造寺隆信)らから受けた危害に対して報復を
せんと決し、軍隊を同地方に差し向けた。ドン・ベルトラメウ(大村純忠)は、豊後の王が自分の領地と
接した龍造寺を滅ぼそうと来て、これを滅ぼした後自分にその刃を向けるのではないかと恐れ、しかし
大友に抵抗する力は有していなかったため、パードレ・コスモ・デ・トルレスに依頼して豊後の王と親交を
結ばんと決し、「王(宗麟)がもしこれを許諾するのならば、自分も大友の肥前攻めに兵を出して協力する」
と申し出た。

豊後の王は今日まで我々(宣教師)に対し何事も拒絶したことはなく、パードレ・コスモ・デ・トルレスが
今回請うた事も悉く許容したため、ドン・ベルトラメウは大いに満足し、その兄弟である有馬の王(有馬義貞
も又、豊後の王と親交を結び、パードレ・コスモに大いに感謝した。
ただしこのようになったのは、彼らが暴君(毛利)のために利益を計った事があったためである。

(1570年10月12日(元亀元年九月十三日)付、イルマン・ミゲル・バズ書簡)



御為なれば申すのである

2019年04月07日 17:15

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/07(日) 10:27:40.58 ID:ENAGpagC
豊後の大友と、薩摩の島津が相争い、大友は島津の領地に入って剽掠した。島津これを防いで
決戦は明日と決めたが(耳川の戦いか)、大友の兵士・大鹿剣助といって、その時18歳、しかも
初陣であったが、家老に向ってこのように言った

「味方に敗形あり、よく察して軍を定めるべきです。」
そう、具体的な根拠を引いて説明した。しかし家老は
「若輩の身として何を知っているというのか。無礼である」と怒り、剣助もまた怒り
「御為なれば申すのである、私は戦死する。貴殿はおそらく敗れ走り帰り、戦うことはないだろう。
この若輩者に劣れば大恥ですぞ。嗚呼、命が二つ有れば後を見て笑えるというのに!」
そう言い捨てて座を立った。

この時、剣助の親しい友人が彼を諌めた
「家老に向って言うべきではない言葉である。何を目当てに負けと見るのか。」
これに剣助

「お主たちは気が付かないのか!?私が陣中を巡った所、皆合戦を励もうという心がなく、財宝を
気にかけ、乱取りをして逃げる覚悟であると見える。家老としてこのように軍法が整っていないことに
気が付かず、怠緩を戒めてさえいないのに、何ぞや、さらに私を罵るなど暗愚の至である!
ともあれ明日は一番に御用に立って、久しく不埒な下知を受けないようにする。只今より以後を見て
私の言葉を思い合わせられよ。」

そのように答えたが、言葉を違えず衆目を驚かす働きをして遂に戦死した。そして剣助が言ったように、
大友の兵は大いに敗れた。
(武将感状記)



831 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/07(日) 17:01:18.84 ID:RgIuf1C1
>>830
どの家老だったのかな?

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/07(日) 23:59:31.14 ID:eLx1hWs2
剣助「正直、スマンカッタ。」

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/08(月) 12:29:20.31 ID:LOacRqRR
18歳でこのノリだと、剣助は間違いなくめんどくさい奴になってたな
すでに同年代からうざがられる雰囲気出てるし

硝石の当地への輸入を一切禁止し

2019年04月01日 16:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/01(月) 08:46:41.78 ID:giU8cdsj
最も尊敬すべき君

我々はあなたが本年当地に来られることを大いに待ち望んでいる。あなたの渡航を妨げる原因は
小さくないと想像するが、近くに相見える希望を捨てていない。

私が常にあなた方のコンパニヤ(イエズス会)を庇護せんと望んでいることは、既にあなたの耳に
達していると信ずる。私が山口の王(毛利元就)に対して勝利を望むのは、彼の地にパードレ達を
帰住させ、かつて彼らが受けていたよりもさらに大いなる庇護を与えたいためである。

しかしながら、私の希望を実現するのに必要なのは、あなたの援助により、硝石の当地への輸入を
一切禁止し、私の領国の防衛のために、カピタン・モール(ポルトガル船の司令官)をして、
毎年良質の硝石二百斤を持ち来る事である。私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、またはあなたの
指定される金額を支払うだろう。

この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元に在る正当な領主(大内輝弘)がその国に入ることを
得るだろう。あなたの手に接吻する。

  本日陰暦第九月十五日(一五六七年十月一七日)

(一五六七年(永禄十年)付、大友宗麟より中国滞在中のニセヤ司教ドン・ベルシヨール・カルネイロ宛て書簡)



王は常に大いに歓待する

2019年03月30日 21:19

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 07:24:05.14 ID:kZ7C7nJ0
私は時々当国の国王(大友宗麟)を訪問するが、王は常に大いに歓待する。
王は五ヶ国を領し、いつでも十二万の武装した兵を出せる故に、日本の最大の領主の1人である。

この日本の国は六十六ヶ国を有し、領主は一国、または二,三国、または四ヶ国ないし五ヶ国を領する
者もある。豊後の王もその一人なのであるが、私が訪問するごとに丁重に、そして愛を以て接する事は、
とても異教徒とは考えられないものである。
彼はデウスを尊崇し、異教徒ではなくキリシタンなのではないかと思うほど、キリスト教のことに
庇護を与えている。

思うにこの事は、彼ら日本人は占いを信じ、これに従って進退し、何事もその力に帰するという
習慣があるのだが、パードレが豊後国に来た時、彼がそれまで非常に切望していた男児に恵まれ、
またそれ以前に領していたよりも二ヶ国多く征服し、これによって日本の領主の中でも最も金銀に
富める者となった事によるのだろう。

(一五六四年十月九日(永禄七年九月五日)パードレ・ジョアン・バウチスタ書簡)

宣教師、大友宗麟のキリスト教への傾倒の理由をかなりクールに分析していた模様。



816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 11:19:24.19 ID:O5/2aBkT
十二万は分からんが最大の領主の一人ってとこは誇張ではないな

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 13:27:56.65 ID:BZhnTyJy
12万も最大動員兵力ということで考えれば、最盛期なら大げさではないからなぁ。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 19:40:03.09 ID:oe3Ai3u3
永禄7年は第二次国府台の戦い、川中島の戦い、三河一向一揆の年か

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 20:10:05.91 ID:ALv0PpD+
宣教師のいう「国」ってどういうニュアンスなんだろな
ヨーロッパの小国一つくらいなのかな

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/30(土) 20:38:26.37 ID:zNhPWjNN
ヨーロッパでもまだ都市国家が健在な時代だから国=一個の町ぐらいなんじゃないの

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/31(日) 12:08:21.24 ID:xEI16gZJ
キリスト教に傾倒したくらいだし戦が嫌いだったんじゃないの?今山も耳川も後詰めだし総大将の任命にしても人選最悪だし。
一条を婿にするくらいだから類友だったんだろう。

国王はかくのごとくして殺したり

2019年03月24日 14:12

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/24(日) 02:06:50.71 ID:eMEw4cGy
国王(大友宗麟)が己に叛き、または叛逆を謀りたる大身を罰する方法はつぎのごとし。
王が死すべしと定めたる人は、当日これを解放して、何日死すべき旨を伝へしむ。叛逆者は殿下の命あらば
自殺すべしと答へ、王もし可なりと言へば大なる名誉とし、所有の最もよき衣服を着し、短剣を手に執り
胸より刺して腹の下にいたり、十字形に転じて一側より他側に腹を切りて死す。
かくのごとくして死する者は叛逆の譏りを受けず、相続人およびその家は従前のごとし。
右は皆悪魔の謀にして、彼等が自殺して地獄において大なる苦を受けんがためなり。

国王もし叛逆者に対して、自殺するなかれ、人を遣はしてこれを殺さしむべしと答ふれば、叛逆者は伝令に接して、
家臣、友人および子息等とともに武器を執りて、その家において戦闘の準備をなし、国王はこれを職とする
司令官、または市の理事官のごとき大身をして、充分なる兵を率ゐて行きてこれを殺さしむ。
市民は叛逆者が自邸、或は田野において攻撃を受くるを見物す。

双方まづ矢を放ち、更に近づきて槍を用ひ、最後に剣を交ふ。かくのごとくして叛逆者はその家臣子息および
家族とともに死し、その家は焼かれ、一族の名は滅び、彼等はその蒙昧なるため地獄に赴けり。

彼等はこのことにつきては全く盲目にして、名誉を重んず。国王は我等の到着前彼に叛起せる者数人を
かくのごとくして殺したり。
(一五五七年十月二十八日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラが平戸よりインドおよびヨーロッパの耶蘇会のパードレおよびイルマン等に贈りし書翰)



宣教師も燻される

2018年10月22日 17:29

351 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2018/10/22(月) 08:50:39.48 ID:2QB8bUrM
翌日の早朝、(大友家の)軍隊は2レグワ前進して敵に接近することになったため、私はその地方に
在住するキリシタンを訪問するため引き返すことと成った。彼等キリシタンの多くは私が何度か
この地を通過した際に帰依した者たちであって、かつてパードレを見たことが無かったためである。

軍隊は食事が終わると喇叭(法螺貝)を吹き、部将たちはそれぞれ部下の兵士、および行李(資材を運ぶ
部隊)とともに出発した。兵士は皆よく武装し、列を整えて馬上の部将に随い、宿舎を出るや、この宿舎に
火をかけた。

陣営は約1レグワの長さがあり、約30ヶ所に別れていたが、悉く竹木及び藁を以て造られていたため、
またたくまに恐ろしき大火となり、四方は叫喚と煙のため地獄のような様相であった。
しかし軍隊には労働者多数があり、この日の正午には朝焼いたのと同じ宿舎を備えた陣営が、
次の場所に出来るのである。

私は宿舎を焼かれたため希望より早く出発したが、この日、風は私が進む方向へ吹いたため、
1レグワあまりの間、この煙のため苦しめられた。

そしてこの軍隊は行進中も火を放ち、敵の諸村は終日燃えた。

(1570年10月15日(元亀元年9月16日)付イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

敵も味方も燃やすし宣教師も煙に燻される大友軍



天井に血の足痕、急成長する松、飛び出る屏風

2018年07月31日 19:54

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 18:56:09.83 ID:8q4xI7wn
天正5年の夏の頃、大友宗麟は体調を崩し、心地例成らざる状態であった。
この時、宗麟は天井に血がついているのを見つけた。それはよく見ると、巨大な人間の足の痕であった。
しかし宗麟は元来、そのような事に驚く人ではなく、少しも臆する景色無く
「これは私の病が平復し、却って盛んとなる印であろう!」
そう言って聊かも心に掛けなかった。

また或る時、座敷の庭より小松が生え出たように見えた所、俄に大木となって枝を垂れ葉を並べた。
番の者達あまりの不思議さに目も離さず警戒して居ると、この松次第に細くなり、幻のごとく消え失せた。
これこそ稀代の珍事と思っている所に、或る夜宗麟の座している畳の間より、6,7尺ばかりの屏風が出て
消えた。

これだけでなく色々と不思議のこと多かったため、人々不屈の前兆ではないかと怪しみ、何か事が起こる
予感をしていた。

(豐薩軍記)

これだけ色々あって特に動じない宗麟も相当な大物の気がしてきた。


985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 20:38:20.77 ID:hhf0OESO
>>984
キチガイは心霊スポット平気って笑い話思い出した。

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 22:46:01.24 ID:0jRcZv1l
池田輝政も怪異に動じない人だったよね
そういう人じゃないと大名は務まらないのではないのか

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 23:52:35.83 ID:7ScV7NvP
心中どうであっても、こんな流言飛語に惑わされるようでは政治家は務まらないでしょ

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 10:59:09.65 ID:iwh3xFfI
平穏に家督が継げなかった人ほど肝が座ってたりする

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 14:16:56.79 ID:dRV0UO46
父親に殺されかけたら生きてる人間が一番怖いってなるわなw

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 19:09:50.79 ID:WxT6Ig3O
>>985
どちらかというと確固とした信仰心の賜物じゃね?
「これは悪魔が私の信仰心を脅かそうとしているのである」

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 19:16:49.06 ID:ShI8x7u0
>>990
信玄「せやせや」