賭け売りと、三井越後屋への嫌がらせなどについて・雑談

2009年01月19日 00:06

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/17(土) 23:40:49 ID:fbye6glY
京や大阪の町人なら、特に考えもせず習慣的に値切っているような気もするけどw
無論、売る方も売る方で、同じ町の人間なら値切られるのが普通でどうこう思わないかも…。

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/17(土) 23:52:06 ID:7kEIN35B
>>522
どっちかって言うと、代金の一部を踏み倒してるようなもんだから、
合意の上で安くする値切りとは根本的に違うんじゃないかな

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 03:10:43 ID:fZExFHUG
>>523
本当に押買いしてたんならそうだろうねぇ。
まあ真相は闇の中だと思うけども。

>>522
少なくとも江戸期の感覚で言えば京、大阪に限らず掛け値はあって当たり前だね。
外国では、今でも現地語が喋れても方言がちゃんとしゃべれないと割高で
売りつけてくるところあるよw

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 03:14:46 ID:IIVbzOSB
>>524
だからこそ三井越後屋の「現銀掛値なし、切売り」が画期的だった。
越後屋が江戸で繁盛しだした頃の、同業他社の執拗な嫌がらせとか、今見ると
ものすごいことやってるw

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 11:10:24 ID:XZTc3vS/
>>525
佐江先生の『江戸の商魂』を読んだら、
同業の嫌がらせのすさまじさに、正直びびった。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 12:06:03 ID:xDtnw3Jt
>>455みたいな話、信長にもなかったっけ?
どうにも記憶が曖昧で、もしかして全然違ったら申し訳ない。

ある時、信長が金を出して、商人だったかに物を揃えさせた。
んで、切り詰めたんだか値切ったんだかで金が余った。
物を揃えた上に金を残して、その人は得意そうにしていたんだが、信長の家臣からは、
「ウチの殿は金勘定は厳しい。渡した金も過不足ないようちゃんと考えて出してるんだから、余計な事すんな(値切ったり安物買いしたら、ショボイ物掴まされたり、品質落ちたりすんだろがコラ。今回は良くても、今後の事も考えろや)」
って怒られたって話。

記憶が曖昧すぎて、どこで拾った話だったか、そもそも信長の話だったかもちょっと怪しいのだが、こんな話なかったっけ?
既出とか、他の人と間違えてたらゴメン。

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 12:17:20 ID:jJ/+ZldI
>>526
kwsk

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 12:34:37 ID:XZTc3vS/
>>528書いてある内容を列挙すると、
・同業の寄り合いの席上で、越後屋を面罵
・越後屋との取引停止(越後屋は京都での仕入れは続ける事ができた)
・手代のヘッドハンティング
・越後屋の低廉な価格は、古物を染め直しているとの事実無根の風評を流した
・家主を抱き込んで、越後屋の台所先に共同雪隠を作り、台所の方に汚物を流した
とある。ひど~い。

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 12:50:53 ID:jJ/+ZldI
ひでぇ
今でも越後屋といえば時代劇じゃ悪役の代名詞にもなって受難は続いてるしw
三越も大変だったんだな


536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 14:25:01 ID:i0RF8X8J
越後屋のチラシとか現代にまで残ってるし三井って凄いよな。
明治のポット出の三菱あたりの10倍は凄い。

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 14:36:40 ID:IIVbzOSB
>>536
三井越後屋は今も三越として残っているしね。

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 15:21:27 ID:6kaCngcE
http://www.geocities.jp/kyo_oomiya/newpage4.html
これっていつ頃のチラシ?
読める方翻訳プリーズ
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越後屋誕生・いい話

2009年01月07日 00:07

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/06(火) 20:10:07 ID:eJwug9YJ
近江、六角氏の家臣に、越後守高安という侍がいた。

この高安、永禄十一年(1568)、六角氏が滅亡すると牢人となり、伊勢において
蒲生氏郷が建設した城下町、松坂に移住し、治郎右衛門を名乗り、町人となった。

高安は慶長十五年(1610)に没し、その長子、高俊が後を継いだが、この男、遊興に
うつつを抜かし、たちまち家産が傾く有様であった。
夫を見かねたその妻、殊宝は、家を何とか建て直そうと、8人の子育てをしながら
質、酒、味噌、茶、煙草などの商いをはじめた。

やがてその商いは軌道に乗り、高俊が早くに没し、彼女が寡婦となった頃には、
さらに規模を大きくし、独立した商店を構えるまでになった。
彼女はその商店の屋号を、義父の官名から、『越後屋』と名付けた。

これこそ近世日本最大の豪商、三井越後屋、誕生の瞬間であった。



864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/06(火) 20:48:07 ID:P6BX2VPM
>>862
越後屋カッケー
今や越後屋といえば悪徳商人の代名詞だもんな
不本意かもしれんが、それだけ名が通ってたってことなんだろうな