督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で

2017年08月03日 18:19

督姫   
33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/03(木) 11:14:05.46 ID:o7Tvq0XV
督姫、駿府の家康へ会いに行ったときの行列で


兵庫県加古郡播磨町北本荘にある蓮華寺には
古い礼盤(本尊の前で導師が礼拝し誦経するための高座)がある。
ttps://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/kanko/rekishi/bunkazai/images/2012122316226.jpg
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平成に入ってから内側に墨書で、宥恵というお坊さんが礼盤の寄進者等の名と共に
慶長14年に見た督姫の行列の様子を記していることが発見された。
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/67/5499bb5e4cefffcc252b301616d6ab0e.jpg
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内容を意訳すると
『御前様(督姫)は、かご五、六十、お付の女性は三百人を超え、家臣などを合わせると
 総勢五千人余りの大行列で駿府に向かっていた。お供の贅沢で派手な衣装を見た人は
 目を驚かすばかりで「前代未聞有るまじき」と国中に広まる有様だった』

督姫は実際に慶長14年には息子の忠継、忠雄、輝澄を連れて駿府に行き
(夫の輝政は恐らく篠山城の普請中)6才の輝澄に松平氏を授かっているが
仮に墨書が本当なら、民衆には余りに大げさな里帰りに見えたのかもしれない。


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督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術

2017年01月07日 16:46

督姫   
491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 00:05:16.87 ID:bmWHBbtu
督姫、池田家への入輿/伊庭惣兵衛の弓術


神君(家康)の次女督姫君(諱は風子)は、母は参州西郡の鵜殿善介長忠の娘で
神君の侍女であった。
督姫君ははじめ北条相模守氏直に嫁がれたが、小田原没落の後
太閤のお仲立ちによって国清公(池田輝政)に再嫁された。
文禄3年8月15日(一説には9月とも)、参州吉田の城で婚儀をあげられた。

このとき諸士はお迎えとして今切(浜名湖今切の渡し)に出ていたが
伊庭惣兵衛という者がただひとり弓を持っていた。
御輿副の人が使いをよこして
「人が多い所にひとり弓を持っているということは、聞いていた伊庭殿だろうか」
と問うと
「どうして尋ねられたのですか、私が伊庭です」
と答えたので、(御輿副の人が)また使いをやり
「それならば、この洲崎にハジロがひとつがい浮かんでいるので
 どうか一矢遊んでくれないだろうか、見物しましょう」
とされたので伊庭は心中で
(難儀なご所望だなぁ、両家の諸士の前で気兼ねするのに……)
と思いながらもしょうがないと矢をつがえて進み寄った。
間は30丈ほどだったが、彼の鳥はしだいに沖に出て遠ざかっていった。

伊庭は弓を十分に引き絞って余りにも長く保っていたので
どうしたのだろうと思って見ていたところに、忘れていたかのような矢が放たれ
ハジロの雄の胴を貫き雌の尻を射切ったので、両家の一同の声が洲崎に響いた。
所望した人がその鳥と矢を欲しいと言ったので持ち帰った。

伊庭の友が
「どうしてずっと放たなかったのか」
と問うと、伊庭は
「今日はご祝儀なので、いっそのこと"つがい"を射ようと思って
 鳥が並ぶのを待っていたが雌鳥を捕えられず残念だ」
と語ったという。

(督姫君は)御子がたくさんいらっしゃり、左衛門尉忠継殿
宮内少輔忠雄殿、石見守輝澄殿、右京太夫政綱殿、右近大夫輝興殿
伊達忠宗殿の御内室(振姫)、京極丹後守高広殿の御内室(茶々姫)など
みなお生みになられた。


――『池田家履歴略記』



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 00:13:41.83 ID:hrJF1YZ5
そして継子に毒まんじゅうを食わせて実子に池田家を相続させようとしたら
実子が継子をかばって毒まんじゅうを食らって死亡し、発狂したという噂話ができると
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3869.html
「風子」なんて「狂人」の意味を持つ名前なんてつけるからそんなことに

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/07(土) 15:34:22.27 ID:7TcVELI3
婚儀なのに番射るって縁起悪くないのかよw

督姫、悪女のレッテルを貼られる

2010年03月23日 00:00

督姫   
504 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/03/22(月) 13:56:16 ID:b3XlViDi
慶長18年春、江戸に急ぐ女駕籠があった。徳川家康の次女、督姫である。
1月に夫、池田輝政が急死し、その相続について幕府から問い合わせがあったためである。
夫、輝政には11人の男子がいたが、そのうち6人が正室との間にできた子だった。そして、そのうち長男の利隆だけが
督姫との子ではなかったのである。
一方、輝政は52万石の所領があったが、もともとは吉田15万石であったところを、督姫の婿ということもあって
大幅加増された背景もあり、相続には微妙な問題があった。
さらに、当時は長男が相続するという制度も確立しておらず、細川家、最上家、仙石家などでは、年長の子が廃嫡され、
徳川家と縁の深い弟が跡取りとなっている。

しかしながら、督姫を交えて協議した結果、幕府は52万石のうちの42万石と家督を利隆に譲るという決定を下す。
(残り10万石は督姫の子である次男忠継に譲られた。)
この決定には、督姫から伝えられた輝政の遺言の影響が大きかったといわれる。
自分の子への愛よりも、夫の遺言を尊重した、督姫のいい話・・・・・・・・・・・・で終わればスレ違いなのだが、
この話には後日談がある。

その後、池田家は2家(利隆の家系と督姫の子の家系)に分かれたが、督姫の子の家系のほうが官位が上であった。
これに不満を持った利隆の子孫は、毒饅頭事件
(督姫は実子・忠継を世継ぎにすべく、継子・利隆に毒を仕込んだ饅頭を馳走して毒殺を企てたが、
利隆は女中の密告によって計画を把握しており、饅頭を食わなかった。
ところが、母の計画を知った忠継が兄をかばって毒饅頭を食べて死んでしまい、さらに悲観した督姫も
毒をあおって後追い自殺した、というお話)をでっちあげ、督姫を悪女に仕立て上げてしまう。

実子を跡継ぎにしたいなら、どうして相続のときに訴えなかったとか、
後追い自殺も何も督姫のほうが半月以上早く忠継より死んでるんですがとか、
毒饅頭事件のとき、すでに利隆には将軍へのお目見えも済ませた跡取り長男、光政がいたので、
忠継を一足飛びに世継ぎにはできないとか、
いろいろ突っ込みどころ満載のお話であるが、話として面白いので、今日、あちこちで実話として伝わっている。

せっかく相続に尽力した継子の子孫から悪女のレッテルを貼られてしまう、督姫の悪い話