【佐久間盛政、前田利家に戦功を譲る】

2016年08月11日 13:48

55 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/10(水) 20:06:22.68 ID:kv4aHxC0
佐久間盛政前田利家に戦功を譲る】

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が織田家に敵対し、越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵した。
天平寺は要害の石動山を本拠地とし能登の国人衆に強い影響力を及ぼした強大な組織であり、北陸で猛威を振るった一向一揆が能登国に浸透しなかったのは、天平寺の存在があったからだった。
織田信長が存命だった頃、織田家は天平寺の寺領の大半を没収した。
また能登国人衆の温井家や三宅家などは織田家に降ったが、彼らに恨みを持つ長連龍に攻撃されて逃亡し、故郷へ戻る機会を窺っていた。
上杉景勝は能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。
反織田家の軍勢は、能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事を始めた。

当時の上杉家は宿敵だった北条家と和睦の交渉を進めて背後を固めていた。
上杉家が越中・能登の反織田勢力を糾合して北陸方面軍と対決するには都合の良い時期だった。
本能寺の変の直後に信長の元馬廻り衆だった前田利家が明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実を考えると、北陸の情勢は深刻で荒山合戦は北陸の勢力図を塗り替える可能性が
あったかもしれない。

天平寺が挙兵すると、前田利家は柴田勝家と
佐久間盛政に応援を要請した。
要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出陣した。
盛政と拝郷家嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高畠という土地に入った。
この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。

拝郷家嘉の居城は加賀南部の大聖寺城で、
兵の召集から現地入りまで二日は驚異的
な速さになる。
おそらく盛政たちは天平寺の挙兵に備えて、
予め兵を集めていたのだろう。

盛政と拝郷は現地の人々の協力を取り付け、荒山の砦改修の情報を知ると、直ちに出陣して荒山へ向かった。盛政は斥候を出して状況を把握すると、反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃した。佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の指導者は尽く戦死。
指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。

友軍を失い孤立した石動山は前田利家
制圧して反乱を鎮圧。
上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。
合戦の結果、織田家は能登と越中北部から
上杉家の影響力を排除することに成功した。
その後は佐々成政と傘下の越中国人衆が
独力で上杉軍を抑え込み、
北陸の情勢は安定した。

荒山合戦における佐久間盛政の働きは、
350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
『第九師団管古戦史』では、参考にした
史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた。速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・諸将とよく協力した
・手柄を前田利家に譲った
(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、
盛政は前田利家に譲った。
能登を安定させるためか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した




56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 20:38:48.25 ID:BlSChZfX
>>55
>・手柄を前田利家に譲った
ほんまかいな…?家臣や兵士が反乱起こしそう。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 22:02:11.36 ID:0rKTAGi4
柴田が諭したんじゃね

58 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/10(水) 23:46:30.98 ID:Aep4nCw4
>>56
書いてあるとおり能登を安定させるためじゃないかな~

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 02:48:55.26 ID:d07OqDCz
で 350年後の陸軍の連中はこれを手本と出来たのかね

60 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/11(木) 03:09:01.69 ID:u+mu/5nD
>>59
どうだろうね。
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佐久間盛政の処刑

2012年09月22日 20:29

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 07:34:28.08 ID:/3atuCBe
柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与え戦後処理を終えると帰洛。
捕縛された佐久間盛政も山口甚兵衞、副田甚左衞門に警護され京へとその身を移された。

秀吉は浅野長政を使いに立て盛政にこう言った
「私はお主の大功を知っているので、殺すに忍びない。そこで怨敵と言う思いをひるがえして、私に従ってはくれないか?
九州の諸大名は未だ服属していない。私はお主に肥後を与え、九州の討伐を任せたいと考えているのだ。」

盛政はこれを聞くと
「命を助けてもらい、その上大国を与えられるということ、これは後代までの名誉である。
私が九州に行けば1年のうちに平定するだろう。平定を終えて上洛をして、秀吉に対面すれば、
その時私は必ず憤怒の感情が生じて、思わずとも秀吉を斬り捨てるだろう。
そうでなくても肥後に下って、反乱を起こすだろう。私は秀吉とはそれほど相容れないのだ。

命を助けてもらった恩、国主としてもらった恩を返すこと無く却って災いになるというのはどうかと思うだろう?
恩というなら、速やかに死罪にしてもらいたい!」

長政は帰って秀吉にこれを報告すると、秀吉は再び長政を盛政の元に使いさせた

「もしかしてお主は、私が何かはかりごとをお主に対して企んでいると考えているのではないか?
私はそんなことはしない!その事は天のご照覧に任せる!とにかく、早く私に従って欲しい。」

盛政は答えた
「私は秀吉にはかりごとが有ると考えてはいない。そもそもそういう話ではない。
勇者たるもの発した言葉を、再び翻すべきではない!
私に対しては明日、必ず車に乗せて洛中を一見させて、河原にて殺されるのが良いだろう。」

秀吉もこれには
「勇者の一言というものは俚諺にもあるように、もはやとても、私に従うような事はないだろう。」
と、ついに盛政の助命を諦め、彼に最期の衣装を与えた。

佐久間盛政は自らの小袖の上に染物の赤い大広袖を着て車に乗った。
その姿は、身長六尺(約180センチ)、顔は紅潮し、頬髭があったと云う。

天正11年(1583)5月12日、年齢は30、車にて洛中を引き回れた。
世に聞こえた鬼玄蕃を見ようと貴賎上下を問わず馬車道に横たわり、
男女が巷に立ち並んでこれを見た。

盛政は引き回されながら彼らを睨みつけ、河原において処刑されたとの事である。
(佐久間軍記)

以上、佐久間軍記に見える、佐久間盛政の処刑に至る様子である。





517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 08:51:18.05 ID:lu9U/Xis
肥後はアカン

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 09:24:56.87 ID:LIK4VB4Q
ここで素直に部下になっても、佐々のようになるのがオチか

あの藤吉猿面郎にひとこと言っておきたいことがある

2012年09月21日 20:39

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 18:03:47.66 ID:MHus+mKZ
賤ヶ岳の合戦で柴田軍が討ち負け崩壊すると、佐久間玄蕃允盛政はともかくも合流しようと加賀まで
向かったところで、中村と言う場所で落ち武者狩りの郷民に取り囲まれた。
盛政は彼らを睨みつけ

「私の命運はここに付きた!再び合戦をしても勝機はないだろう。
お前たち、あの藤吉猿面郎のところへ私を連れて行け!ひとこと言っておきたいことがある。」

こうして盛政はこの郷民たちに捕われ、北の庄の浅野長政のもとに連行された。
長政は盛政を見て、彼を侮るように言った

「あなたは鬼玄蕃とまで言われた人ではないか!どうして未だ死なずにいるのか!?」

盛政はこれを聞くと
「汝はなんと愚かなことか。かつて源頼朝は大庭景親に負けて伏木の中に隠れ、将軍足利義稙(原文では義昭)は
細川政元に捕われ幽閉されたが、後についに脱出し大功を立てたではないか!
将たるものが、どうして容易く敵に自分の死を許すことがあろうか!」

これを聞いた人たちはみな、盛政の凄まじい気魂に舌を巻いたという。

(佐久間軍記)




504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 18:18:55.37 ID:61LT6kna
それなら素直に捕まえろと言わず、うまく買収でもすべきなんじゃ…

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 19:02:33.25 ID:2M0Px8yd
問答無用で竹槍や妖怪首置いてけの餌食にならんかっただけマシか

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 19:29:48.96 ID:ggKjd+3g
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4596.html
郷民も身ぐるみはぐより褒美をもらうほうが得だと思ったんだろうね

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 20:10:46.61 ID:eEqRxYjX
>>505
(諦めが)悪いように見せかけていい話かな

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 21:15:12.12 ID:Dhfzjym2
連れてきた連中の玄蕃さんの扱いがあまりに酷いので秀吉が処罰したとかなかったっけ?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 21:20:11.71 ID:N7QhuWx+
>>509
>>507に書いてある

虎姫の戦い

2012年04月26日 21:14

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 20:57:25.11 ID:sev6+b2r
虎姫の戦い

賤ヶ岳で有名な鬼玄蕃・佐久間盛政が滅んだ時、一人娘である虎姫が残された。

盛政を高く評価していた秀吉は、この虎姫の結婚の仲立ちをした。
結婚相手は何と、その佐久間盛政が賤ヶ岳においてその陣を急襲し討ち死にさせた中川清秀の次男、
中川秀成であった。
秀成の兄、播州三木城・6万6千石の中川秀正が文禄二年(1594)、朝鮮水原城のほとりで
鷹狩りをしていたところを毒矢で射かけられて没すると、秀吉は秀成に家督を継ぐことを
認めると同時に、この結婚を命じたのだ。

中川家では佐久間盛政との戦いで、清秀を始めとして多数の死者を出したこともあって、この結婚に
大いに不満であったが、秀吉の命には逆らえず、秀成は虎姫を迎えた。

しかしこの夫婦の仲は至って良く、嫡男久盛をはじめ、多くの子宝に恵まれた。

慶長15年(1610)1月、7人目の子を妊娠した虎姫は、夫・秀成に願い事をした

「もし今度の子供が男子ならば、その子に盛政の佐久間家を継がせたいのです。」

はたして生まれた子は男子であった。ところが虎姫は産後の肥立ちが悪く、間もなく死んでしまう。
しかし秀成は妻との約束を守った。彼は生まれた子を内記と名付けると、これを佐久間盛政の弟、勝之
(鬼玄蕃の弟たちのその後http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6335.htmlこの話の佐久間源六)
に養子に出した。勝之はこの甥を養育し、元服すると『佐久間勝成』を名乗らせ、自分の娘と結婚させた。
ここに盛政流佐久間家の復興は成った。

この後、この新生佐久間家は中川家の親族衆として存続、明治まで至る。

余談だが、虎姫は息子である嫡男の中川久盛にも一つ頼みごとをしていた。それは父、佐久間盛政
菩提寺を建立して欲しい、ということであった。

彼も母の死後、その約束を果たした。その菩提寺の名は『英雄寺』という。


佐久間盛政の娘、虎姫の、佐久間家のための戦いであった。





842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 21:26:20.78 ID:esZJkMB/
またもイイ話

映画化されてもいいくらいだと思うが
賤ヶ岳の戦犯にされてるから
あまり世間受けしないのかな?

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 21:41:29.74 ID:GEiclbes
シエや山内妻の活躍なんかが捏造されるのに比べて
こういう実際にあった女性の働きが埋もれるのはもどかしいな

豊臣秀吉と佐久間盛政・いい話

2008年10月15日 14:36

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 13:24:58 ID:Ae8IrA+b
賤ヶ岳戦の終了後、怪我をしていた佐久間盛政が褒美狙いの農民に捕らえられ引き出された
縄を打たれた盛政を見た秀吉は慌て、繰り返し謝罪し縄を解くよう御側衆に命ずる
秀吉は賤ヶ岳の盛政采配に感激し家臣になってくれと二時も口説き続けた
秀吉 「加賀、越後、関東好きなところをやる。頼む俺の家臣に加わってくれ」
盛政 「筑前殿の計らい誠に嬉しく思いますが、こたびの敗戦は某の責任でござる」
    「勝家殿の恩を忘れる事も出来ず。某の命数が続けば必ず筑前殿の首を取ります」
ここまで明確に否定されて、さすがの秀吉も家臣化を諦め死罪を言い渡す
切腹を命ずるも断固拒否。市中引き回しの上磔を所望する盛政でした
そこへ盛政に討たれた中川清秀の息子が秀吉呼ばれ
秀吉 「この男がお前の父を殺したのだ。憎いだろう?」
息子 「いえ父上を討つ事の出来る武将は大変立派な武将と思います。勝も負けるも兵家の常、憎いなどと思いません」
盛政 「なんと立派な御子息をお持ちか。この方が我が娘の婿なら嬉しいかの」
数年後秀吉の勧めで仇同士の子供だった二人が婚約する事になりました
天国の盛政からみると「なんだあのサル結構いい奴じゃん」と思っていた事でしょう

※盛政を捕らえた農民ですが厳しい褒美が出されました
秀吉「農民の分際でなんと言う事をしてくれたのだ。お前らへの褒美は磔よ」
と全員死罪となりました




143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 13:41:18 ID:6zB4poEt
最後のが無ければ「サル結構いい奴」で終わるのになw

144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/02/12(火) 13:47:50 ID:EF2T3KE/
>>142
いい話なのだが、これを見るだけでも太閤が百姓の出というのは、
ちょっと無さそうだな。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 14:18:18 ID:nvqDIdHl
>>142
その「盛政の娘」つーのが中川清秀の息子より10歳も年上だったというのも付け加えてやって下さいw
※ただし、年齢についてはガセ説もあり