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武功を挙げた盛政は

2019年04月13日 12:47

794 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:41:30.13 ID:8euuL6hJ
佐久間盛政は、1554年尾張国御器所に生まれた。
『佐久間軍記』によれば、長じては身の丈六尺(約182㎝)となったとある。
相当な巨漢だったらしい。
盛政は勇猛果敢な武将であったが、微笑ましい逸話も残されている。
『陳善録』によると、まだ18歳の頃のこと、前田利家の家臣村井長頼とともに敵将の首をとるという武功を挙げた盛政は、信長ではなく真っ先に叔父の柴田勝家に首を見せに行ったため、一番首の恩賞を信長からもらえなかったという。



795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:48:49.39 ID:aHLiQiKX
>>794
確か比叡山焼き討ち直前の金ヶ森攻めの時のエピソードだよね?

796 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:53:12.45 ID:8euuL6hJ
>>795
よく知ってるな!どマイナーEpなのに...
盛政からしたら立場的に一段下の村井長頼と仲が良かったのは意外だったことは印象に残るて

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 12:41:34.23 ID:aHLiQiKX
佐久間盛政って面白い逸話多いよね~

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 17:47:33.27 ID:w1OWPUsS
地下鉄で有名なあの御器所出身の人なんだ!
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玄蕃助は罪多き故

2019年02月23日 17:24

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 13:40:02.74 ID:HxtaoOXS
柴田勝家討伐後)

また勝家嫡男の柴田権六と佐久間玄蕃助(盛政)は先刻、越前府中の山林に馳せたところを生け捕ら
れて来た。そこで後日の戒めのために、隣国方々の城で引き回した(爲後證引廻隣國方々城)。

権六は近江佐和山で誅殺し、玄蕃助は今回の矛盾の主犯格にして罪多き故(玄蕃助今度矛楯張本人而
罪多故)、車で洛中を渡して六条河原で誅殺し、柴田権六の首と同じく獄門に掛けたものである。

――『天正記(柴田退治記)』

最期の美談で知られる佐久間玄蕃だが、柴田退治記には「大罪人だから処刑した」としか記述されず


佐久間玄蕃の最期

2019年02月07日 09:39

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 19:54:36.66 ID:Ofct1FS2
(柴田勝家自害後)

秀吉卿より諸侯大夫、その他馬廻小姓中へと端午の祝儀として美酒肴がおびただしく下し賜れた。

秀吉卿は坂本に10余日御滞留されたが「権六郎(柴田勝家の子)と玄蕃(佐久間盛政)は洛中を
引き渡して六条河原で生害するように」との旨を浅野弥兵衛尉(長政)へ仰せ出されたことにより、
その沙汰に及んだ。権六は是非に及ばず、その様子は骨髄に徹して見えたのであった。玄蕃は曰く、

「中川(清秀)を討ち取った後、勝家の下知に任せ早々に本陣へ引き取っていたならば、どうして
この期に及んだだろうか。戦功をまっとうして上方勢を侮らなければ、秀吉を今の私のようにして
いたというのに。果報甚だしき筑前であることよ」

と言ったので、浅野はこれを聞いて数々の悪口をすれば、玄蕃は振り仰いで、

「大忍の志をおのれらに言って聞かせるのもどうかと思うが、そもそも頼朝は虜の身となり池の尼
(池禅尼)の便りで許しを受け、後に平家を攻め平らげて父の仇を報じたのだ。生きて封候を得ず、
死して五鼎に煮られようとも侮らない。これが偉丈夫の志ではないのか! 知らぬのだな!」

と言って浅野を睨み付け大いに叱り、「あっぱれ大剛の者なり!」と人は皆感心し合ったのである。
玄蕃は「所詮夢なり」と言って硯を乞い、一首をこう詠んだ。

「世の中をめくりも果ぬ小車は 火宅の門を出るなりけり」

玄蕃は途中で表情を変えることもなく首を打たれた。“鬼玄蕃”と言われたこともあったというのに
(このような最期を迎えてしまった)。

――『賤嶽合戦記』



秀吉は越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与えて上洛した。山口甚兵衛(宗永)と副田甚左衛門
(吉成か)は佐久間盛政を警固して上洛する。秀吉は浅野長政を使者にして盛政に曰く、

「私は汝の大功を知っているので誅するに忍びない。怨敵の心を翻して私に従うのだ。九州の諸将
は未だ私に属してはいない。汝に肥後国を授けて九州を征伐させよう」

盛政は答えて曰く、

「命を助かり、あまつさえ大国を授けられることは後代の誉れである。私が九州に赴けば、これを
討ち治めるのは1年の内に実現することであろう。しかし、私が上洛して秀吉に対面すれば、必ず
や憤怒を生じ、思わず秀吉を切ることだろう。そうでなくとも肥後に下って謀叛を起こすであろう。
命が助かる恩も国主となる恩も報じずに、かえって災いをなしても良いのだろうか。殊の外の恩で
はあるが、早く死罪にするべきである(返テ禍ヲナサハ可乎トテモノ恩ニハ早死罪ニ可行也)」

長政は帰って秀吉にこれを告げ、秀吉はまた長政を使者にして曰く、

「私に謀があると思うのか。天の照覧に任せて私は偽ってはいない。早く私を求めて従うのだ」

盛政はこれに、

「まったく秀吉に謀があるとは思っていない。勇士たる者、一言を出して翻してはならない。私は
明日必ず車に乗って洛中を一見し、河原で誅されるものである」

と答えたという。秀吉はこれを聞き「勇士の一言は綸言(綸言汗の如し)。もう一度言い聞かせた
としても、従いはすまい」と盛政に最期の衣装を賜った。盛政は白小袖の上に、染物の赤裏が付い
た大広袖を着て車に乗った。その姿は身長6尺、血眼で面は曲見、頬には髭があった。

5月12日。盛政30歳。盛政は洛中を渡り、世に聞こえる“鬼玄蕃”を見ようと貴賤上下は馬車道
に横たわって男女は巷に立ち並んだ。これを見て盛政は睨み回し行き、河原で討たれたという。

――『佐久間軍記』


668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:07:43.45 ID:Ofct1FS2
秀吉が佐久間玄蕃(盛政)を御教訓されるために、蜂須賀彦右衛門(正勝)を槇島へ御使者に立て
られて仰せになったことには、

「勝家(柴田勝家)は以上の次第なれば、必ず是非もなしと思いなさるのだ。早く後のことは何事
も目算して捨てられよ。やがて年が明ければ、多くの国が手に入ろう。その時に大国を一国与える
ものである。この上は秀吉を勝家と思いなされば、秀吉も満足するものである」

ところが、思いの外の玄蕃の返事であったと聞いている。

「仰せの次第は承り届けました。合戦の勝ち負けは世間の習いであるものです。勝家に合戦の御利
運があったなら、秀吉を私めの成り行った姿になされたと存じます。しかし、勝家が自害した以上、
玄蕃は浮世に留まりたとえ天下を下されようとも、秀吉と勝家を思い替えるなど思いも寄りません。

自害したく存じますが、心で考え直すと『どのような糾明を受けるかと悲しんで自害したのだよ』
と取り沙汰されれば、屍の上の不覚であるため自害は留まったのです。死罪の体を如何様にも行わ
れよ。さあ早く早く!」

玄蕃はこのような御返事に及んだ。その返事の次第を申し上げれば秀吉は「それは玄蕃に似合った
返事だな。心底を残しなさらぬ事の神妙さよ。君子に二言は無い故、重ねての教訓には及ばず。そ
れならば腹を切らせよ」と、森勘八(毛利高政)を御使者に立てられた。すると玄蕃は申されて、

「秀吉に一言の訴訟あり。ここで首を刎ねられては密かに死んだようなものです。願わくば車に乗
せて縄下の体を上下に見物させ、一条の辻から下京に引き下げさせなさって頂ければ、忝く存ずる
ものなり。その上であれば、秀吉の威光も天下に響き渡るのではないか」

秀吉はこれを聞こし召され「玄蕃の遺言に任せよ」と仰せになり、玄蕃を京に召し寄されて「車の
次第は粗相にしてはならぬ。潔く飾り立てよ」との仰せで、玄蕃の所には「これを着なされ」と御
小袖2重を遣しなさった。玄蕃がこれを見て申し上げたことには、

「忝く存じます。しかしながら、紋柄仕立ての様は気に入り申しませぬ。大紋の紅物の広袖で、裏
は紅絹紅梅の小袖を賜りたく存じます。これを着て車の上に乗り、目立って『あれこそ玄蕃よ!』
と見られるためなり。軍陣の時の大指物ように人目に掛かり申したいのである。紋柄の小袖では、
軍陣の時の鉄砲の者などの指物に似ているようなものである」

秀吉は聞こし召され届けて「最期まで武辺の心を忘れずにいることよな。惜しい惜しい」と仰せに
なり、望みの如くのような小袖を2つ用意され、1つは白の小袖でいずれも広袖である。それを玄
蕃の宿へ遣されて差し上げ、玄蕃はこれを戴き紅物の横紋を着た。さて車を差し寄せた時に玄蕃は、

「わざと縄を掛けよ。越前敦賀の在郷で百姓めらに召し捕らえられた時、玄蕃に縄を掛けたことは
天下に隠れなき事である。縄を掛けずに渡されたならば『玄蕃は縄の詫び言を致したか』と見物の
者も不審を思い立てるであろう」

と縄に掛かって車に乗り、一条の辻から下京まで玄蕃の遺言に任せて渡した。京中の上下見物衆は
取り囲んで群衆をなすこと限りなし。玄蕃は「さて、下京の町屋に入れ置け」と申し上げた。

秀吉の仰せには「夜に入ってからまた槇島に玄蕃を遣しなさり、御成敗の次第を昼に行うことは無
用である。夜に首を刎ねよ」と仰せ出され、また森勘八に仰せ付けられて「槇島に着いたらすぐに
野に敷皮を敷かせる。ただちに御切腹召されよ」と、脇差を扇に据えて玄蕃に差し出した。

すると玄蕃は「腹を切るなどということは、世の常のよくあることでしょう。腹を切るくらいなら、
どうして今日の車の上で縄を掛けようか。この上から縄を後ろ手に回して、よく縛められよ」と申
されたが、昼の高手小手の縄で縛めたまま、玄蕃の首を刎ねた。勘八殿は玄蕃の遺体を念を入れて
よく納め置き、この後に石堂を据えて玄蕃の墓印に定め置かれた。

秀吉が玄蕃を槇島に長く御置きになったのは、玄蕃を惜しく思し召され「長く置けば心も和らぐだ
ろう」と思し召されたためと聞いている。秀吉直々の御教訓をなされれば、おのずと玄蕃が申し上
げることもあるだろうとのことであった。しかしそうはならず、この通り彦右衛門を遣されて君子
に二言は無しと思し召されてこのあらましと、相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:03:01.87 ID:J4Ys0hA7
>>666
面白い違いだ

彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ

2019年02月02日 20:01

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/01(金) 23:31:44.36 ID:wYso0K98
佐久間玄蕃允盛政は21日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では険阻を隔てて勝家(柴田勝家)に通じる
ことができず、蔵王社を出て北之庄城の後巻のために加賀へと赴いたが、そのようなところに中
村の郷民が赴いて、盛政を取り囲んだ。盛政はこれを見て、

「私はすでに運命尽き、また戦おうとも利はあるまい。かの藤吉猿面郎の所へ私を連れて行け!
一言申すべき事がある!(彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ)」

と申し彼らに捕らわれた。その後、北之庄でこれを見た浅野弥兵衛長政は「あなたは“鬼玄蕃”
と言われた人ではないのか。どうして死ぬことができなかったのだ」と申した。盛政は笑って、

「汝は愚かだな。源頼朝は大庭景親に負けて節木の中に隠れ、義昭将軍(足利義稙か)は細川政
元に捕らわれてその囲みを受けるも、ついには免れて大功を立てたのだ。将たる者が、どうして
容易く敵に死を許すことあらんや!」

と申し、聞く者は皆舌を鳴らして感嘆したという。佐々源六勝之(佐久間勝之)は勝家に従って
北之庄に至り、その後に盛政のことを聞き加賀尾山へ赴いて北之庄の後詰をしようしたが、兵は
集まらず越中に帰ったという。

――『佐久間軍記』


【佐久間盛政、前田利家に戦功を譲る】

2016年08月11日 13:48

55 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/10(水) 20:06:22.68 ID:kv4aHxC0
佐久間盛政前田利家に戦功を譲る】

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が織田家に敵対し、越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵した。
天平寺は要害の石動山を本拠地とし能登の国人衆に強い影響力を及ぼした強大な組織であり、北陸で猛威を振るった一向一揆が能登国に浸透しなかったのは、天平寺の存在があったからだった。
織田信長が存命だった頃、織田家は天平寺の寺領の大半を没収した。
また能登国人衆の温井家や三宅家などは織田家に降ったが、彼らに恨みを持つ長連龍に攻撃されて逃亡し、故郷へ戻る機会を窺っていた。
上杉景勝は能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。
反織田家の軍勢は、能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事を始めた。

当時の上杉家は宿敵だった北条家と和睦の交渉を進めて背後を固めていた。
上杉家が越中・能登の反織田勢力を糾合して北陸方面軍と対決するには都合の良い時期だった。
本能寺の変の直後に信長の元馬廻り衆だった前田利家が明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実を考えると、北陸の情勢は深刻で荒山合戦は北陸の勢力図を塗り替える可能性が
あったかもしれない。

天平寺が挙兵すると、前田利家は柴田勝家と
佐久間盛政に応援を要請した。
要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出陣した。
盛政と拝郷家嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高畠という土地に入った。
この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。

拝郷家嘉の居城は加賀南部の大聖寺城で、
兵の召集から現地入りまで二日は驚異的
な速さになる。
おそらく盛政たちは天平寺の挙兵に備えて、
予め兵を集めていたのだろう。

盛政と拝郷は現地の人々の協力を取り付け、荒山の砦改修の情報を知ると、直ちに出陣して荒山へ向かった。盛政は斥候を出して状況を把握すると、反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃した。佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の指導者は尽く戦死。
指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。

友軍を失い孤立した石動山は前田利家
制圧して反乱を鎮圧。
上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。
合戦の結果、織田家は能登と越中北部から
上杉家の影響力を排除することに成功した。
その後は佐々成政と傘下の越中国人衆が
独力で上杉軍を抑え込み、
北陸の情勢は安定した。

荒山合戦における佐久間盛政の働きは、
350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
『第九師団管古戦史』では、参考にした
史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた。速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・諸将とよく協力した
・手柄を前田利家に譲った
(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、
盛政は前田利家に譲った。
能登を安定させるためか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した




56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 20:38:48.25 ID:BlSChZfX
>>55
>・手柄を前田利家に譲った
ほんまかいな…?家臣や兵士が反乱起こしそう。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 22:02:11.36 ID:0rKTAGi4
柴田が諭したんじゃね

58 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/10(水) 23:46:30.98 ID:Aep4nCw4
>>56
書いてあるとおり能登を安定させるためじゃないかな~

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 02:48:55.26 ID:d07OqDCz
で 350年後の陸軍の連中はこれを手本と出来たのかね

60 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/11(木) 03:09:01.69 ID:u+mu/5nD
>>59
どうだろうね。

佐久間盛政の処刑

2012年09月22日 20:29

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 07:34:28.08 ID:/3atuCBe
柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与え戦後処理を終えると帰洛。
捕縛された佐久間盛政も山口甚兵衞、副田甚左衞門に警護され京へとその身を移された。

秀吉は浅野長政を使いに立て盛政にこう言った
「私はお主の大功を知っているので、殺すに忍びない。そこで怨敵と言う思いをひるがえして、私に従ってはくれないか?
九州の諸大名は未だ服属していない。私はお主に肥後を与え、九州の討伐を任せたいと考えているのだ。」

盛政はこれを聞くと
「命を助けてもらい、その上大国を与えられるということ、これは後代までの名誉である。
私が九州に行けば1年のうちに平定するだろう。平定を終えて上洛をして、秀吉に対面すれば、
その時私は必ず憤怒の感情が生じて、思わずとも秀吉を斬り捨てるだろう。
そうでなくても肥後に下って、反乱を起こすだろう。私は秀吉とはそれほど相容れないのだ。

命を助けてもらった恩、国主としてもらった恩を返すこと無く却って災いになるというのはどうかと思うだろう?
恩というなら、速やかに死罪にしてもらいたい!」

長政は帰って秀吉にこれを報告すると、秀吉は再び長政を盛政の元に使いさせた

「もしかしてお主は、私が何かはかりごとをお主に対して企んでいると考えているのではないか?
私はそんなことはしない!その事は天のご照覧に任せる!とにかく、早く私に従って欲しい。」

盛政は答えた
「私は秀吉にはかりごとが有ると考えてはいない。そもそもそういう話ではない。
勇者たるもの発した言葉を、再び翻すべきではない!
私に対しては明日、必ず車に乗せて洛中を一見させて、河原にて殺されるのが良いだろう。」

秀吉もこれには
「勇者の一言というものは俚諺にもあるように、もはやとても、私に従うような事はないだろう。」
と、ついに盛政の助命を諦め、彼に最期の衣装を与えた。

佐久間盛政は自らの小袖の上に染物の赤い大広袖を着て車に乗った。
その姿は、身長六尺(約180センチ)、顔は紅潮し、頬髭があったと云う。

天正11年(1583)5月12日、年齢は30、車にて洛中を引き回れた。
世に聞こえた鬼玄蕃を見ようと貴賎上下を問わず馬車道に横たわり、
男女が巷に立ち並んでこれを見た。

盛政は引き回されながら彼らを睨みつけ、河原において処刑されたとの事である。
(佐久間軍記)

以上、佐久間軍記に見える、佐久間盛政の処刑に至る様子である。





517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 08:51:18.05 ID:lu9U/Xis
肥後はアカン

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 09:24:56.87 ID:LIK4VB4Q
ここで素直に部下になっても、佐々のようになるのがオチか

あの藤吉猿面郎にひとこと言っておきたいことがある

2012年09月21日 20:39

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 18:03:47.66 ID:MHus+mKZ
賤ヶ岳の合戦で柴田軍が討ち負け崩壊すると、佐久間玄蕃允盛政はともかくも合流しようと加賀まで
向かったところで、中村と言う場所で落ち武者狩りの郷民に取り囲まれた。
盛政は彼らを睨みつけ

「私の命運はここに付きた!再び合戦をしても勝機はないだろう。
お前たち、あの藤吉猿面郎のところへ私を連れて行け!ひとこと言っておきたいことがある。」

こうして盛政はこの郷民たちに捕われ、北の庄の浅野長政のもとに連行された。
長政は盛政を見て、彼を侮るように言った

「あなたは鬼玄蕃とまで言われた人ではないか!どうして未だ死なずにいるのか!?」

盛政はこれを聞くと
「汝はなんと愚かなことか。かつて源頼朝は大庭景親に負けて伏木の中に隠れ、将軍足利義稙(原文では義昭)は
細川政元に捕われ幽閉されたが、後についに脱出し大功を立てたではないか!
将たるものが、どうして容易く敵に自分の死を許すことがあろうか!」

これを聞いた人たちはみな、盛政の凄まじい気魂に舌を巻いたという。

(佐久間軍記)




504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 18:18:55.37 ID:61LT6kna
それなら素直に捕まえろと言わず、うまく買収でもすべきなんじゃ…

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 19:02:33.25 ID:2M0Px8yd
問答無用で竹槍や妖怪首置いてけの餌食にならんかっただけマシか

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 19:29:48.96 ID:ggKjd+3g
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4596.html
郷民も身ぐるみはぐより褒美をもらうほうが得だと思ったんだろうね

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 20:10:46.61 ID:eEqRxYjX
>>505
(諦めが)悪いように見せかけていい話かな

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 21:15:12.12 ID:Dhfzjym2
連れてきた連中の玄蕃さんの扱いがあまりに酷いので秀吉が処罰したとかなかったっけ?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 21:20:11.71 ID:N7QhuWx+
>>509
>>507に書いてある

虎姫の戦い

2012年04月26日 21:14

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 20:57:25.11 ID:sev6+b2r
虎姫の戦い

賤ヶ岳で有名な鬼玄蕃・佐久間盛政が滅んだ時、一人娘である虎姫が残された。

盛政を高く評価していた秀吉は、この虎姫の結婚の仲立ちをした。
結婚相手は何と、その佐久間盛政が賤ヶ岳においてその陣を急襲し討ち死にさせた中川清秀の次男、
中川秀成であった。
秀成の兄、播州三木城・6万6千石の中川秀正が文禄二年(1594)、朝鮮水原城のほとりで
鷹狩りをしていたところを毒矢で射かけられて没すると、秀吉は秀成に家督を継ぐことを
認めると同時に、この結婚を命じたのだ。

中川家では佐久間盛政との戦いで、清秀を始めとして多数の死者を出したこともあって、この結婚に
大いに不満であったが、秀吉の命には逆らえず、秀成は虎姫を迎えた。

しかしこの夫婦の仲は至って良く、嫡男久盛をはじめ、多くの子宝に恵まれた。

慶長15年(1610)1月、7人目の子を妊娠した虎姫は、夫・秀成に願い事をした

「もし今度の子供が男子ならば、その子に盛政の佐久間家を継がせたいのです。」

はたして生まれた子は男子であった。ところが虎姫は産後の肥立ちが悪く、間もなく死んでしまう。
しかし秀成は妻との約束を守った。彼は生まれた子を内記と名付けると、これを佐久間盛政の弟、勝之
(鬼玄蕃の弟たちのその後http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6335.htmlこの話の佐久間源六)
に養子に出した。勝之はこの甥を養育し、元服すると『佐久間勝成』を名乗らせ、自分の娘と結婚させた。
ここに盛政流佐久間家の復興は成った。

この後、この新生佐久間家は中川家の親族衆として存続、明治まで至る。

余談だが、虎姫は息子である嫡男の中川久盛にも一つ頼みごとをしていた。それは父、佐久間盛政
菩提寺を建立して欲しい、ということであった。

彼も母の死後、その約束を果たした。その菩提寺の名は『英雄寺』という。


佐久間盛政の娘、虎姫の、佐久間家のための戦いであった。





842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 21:26:20.78 ID:esZJkMB/
またもイイ話

映画化されてもいいくらいだと思うが
賤ヶ岳の戦犯にされてるから
あまり世間受けしないのかな?

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 21:41:29.74 ID:GEiclbes
シエや山内妻の活躍なんかが捏造されるのに比べて
こういう実際にあった女性の働きが埋もれるのはもどかしいな

豊臣秀吉と佐久間盛政・いい話

2008年10月15日 14:36

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 13:24:58 ID:Ae8IrA+b
賤ヶ岳戦の終了後、怪我をしていた佐久間盛政が褒美狙いの農民に捕らえられ引き出された
縄を打たれた盛政を見た秀吉は慌て、繰り返し謝罪し縄を解くよう御側衆に命ずる
秀吉は賤ヶ岳の盛政采配に感激し家臣になってくれと二時も口説き続けた
秀吉 「加賀、越後、関東好きなところをやる。頼む俺の家臣に加わってくれ」
盛政 「筑前殿の計らい誠に嬉しく思いますが、こたびの敗戦は某の責任でござる」
    「勝家殿の恩を忘れる事も出来ず。某の命数が続けば必ず筑前殿の首を取ります」
ここまで明確に否定されて、さすがの秀吉も家臣化を諦め死罪を言い渡す
切腹を命ずるも断固拒否。市中引き回しの上磔を所望する盛政でした
そこへ盛政に討たれた中川清秀の息子が秀吉呼ばれ
秀吉 「この男がお前の父を殺したのだ。憎いだろう?」
息子 「いえ父上を討つ事の出来る武将は大変立派な武将と思います。勝も負けるも兵家の常、憎いなどと思いません」
盛政 「なんと立派な御子息をお持ちか。この方が我が娘の婿なら嬉しいかの」
数年後秀吉の勧めで仇同士の子供だった二人が婚約する事になりました
天国の盛政からみると「なんだあのサル結構いい奴じゃん」と思っていた事でしょう

※盛政を捕らえた農民ですが厳しい褒美が出されました
秀吉「農民の分際でなんと言う事をしてくれたのだ。お前らへの褒美は磔よ」
と全員死罪となりました




143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 13:41:18 ID:6zB4poEt
最後のが無ければ「サル結構いい奴」で終わるのになw

144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/02/12(火) 13:47:50 ID:EF2T3KE/
>>142
いい話なのだが、これを見るだけでも太閤が百姓の出というのは、
ちょっと無さそうだな。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 14:18:18 ID:nvqDIdHl
>>142
その「盛政の娘」つーのが中川清秀の息子より10歳も年上だったというのも付け加えてやって下さいw
※ただし、年齢についてはガセ説もあり