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「乳母神様」

2015年10月30日 09:01

559 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/10/29(木) 14:18:57.04 ID:wvwnUCJ1
地元に伝わるお話。既出気味だが御容赦を。


戦国時代、三河山間部に勢力を張った菅沼氏は田峯城を根拠地として、次第に勢力を拡張し
長篠、島田、武節、野田、大谷、布里、大野、新城といった地に城を構え、一族の者を城主に
据えて支配を行った。やがて駿河今川氏が遠江に進出するとその傘下に入った。およそ40年に
わたりこの関係は保たれ続けた。

田峯菅沼宗家四代目の菅沼大膳亮定継の時、変化が生じる。弘治元年(1555年)、定継は
作手の奥平貞勝とともに今川氏に背き、尾張の織田氏に通じた。定継が叛乱に到る経緯はよく
わからない。何を思って40年に及ぶ関係を断ち切ったか、余程のことがあったのだろう。しかし、
叛乱を行うにはあまりにも根回しがお粗末であった。各地に一家を構えた菅沼一族のうち、宗家
に従うものは数えるほどしかおらず、有力な分家の島田・野田両菅沼当主及び菅沼定直ら定継
の弟の大半は今川方に残ったのである。「兄者、気でも狂ったか?」菅沼定直らは実際こう叫んだ
かもしれない。ひょっとしたら事前に何にも打ち明けてなかったとか?

ともかく敵味方に分かれた菅沼一族、骨肉の争いは兄から弟への先制攻撃で始まった。翌年5月、
菅沼定継は奥平貞勝の加勢を得て、菅沼定直の居城である布里城を襲った。小勢では敵わぬと
判断した定直は城を捨てて撤退、今川義元へ事態を報告する。事態を重く見た義元は直ちに
援軍派遣を決定、8月21日、今川の援軍を得た定直は、布里城外で兄の軍勢と激突しこれを
破った。定継に従っていた少数の一族は全て討ち取られ、定継自身も布里の黒ヌタというところで
自害して果てた。なお、この黒ヌタというところ、名前は知られていても現在のどの場所に当たるのか
よくわからないそうである。哀れだ。

さて、定継が自害して城主不在となった田峯城、ここには定継の一子小法師丸(三歳)がいた。
戦に勝利した(小法師丸から見ると)叔父の軍勢が城へと迫る。「若様のお命が危ない!」
定継から前もって言い含められていたかは知らないが、小法師丸の乳母は敵勢迫る田峯城から
小法師丸を抱いて抜け出し、奥三河の深い山中へと入っていった。小法師丸の姿が見えない
ことを知った定直の兵は直ちに探索に乗り出す。悲しい哉、小法師丸、いきなり山の中へと
連れて行かれてすっかり怯えきってしまったようだ。大声で泣き喚いてしまい、行方を探索の兵に
教えることとなってしまった。かくして発見された小法師丸と乳母。引渡しを拒んだのであろうか?
可哀想に乳母はその場で斬殺された…。

だが、小法師丸の命は助かった。兄を討ち果たした菅沼定直、無論その胸中にはさまざまな
打算・目論見があったには違いないが、「馬鹿なことを仕出かした兄だが兄は兄。」という
肉親の情も強かったのだろう。田峯城は一時他の菅沼一族が預かったものの、最終的には
定直の意向がとおり、小法師丸を正式な城主とすることで決着した。成人した小法師丸は
命をなげうって自分を救おうとした乳母のために「乳母神様」という祠を作り、乳母の冥福を
祈ったという…。


20年後、こんなことになるとは乳母も定直も小法師丸(菅沼定忠)も誰も思わなかっただろう…。


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田峯城の惨劇

2010年03月25日 00:06

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 12:07:01 ID:sGuRgWYh
田峯城の惨劇

天正三年(1575)長篠の戦いに敗れた武田勝頼の一行に信濃までの道を案内するのは、奥三河田峯城城主、
菅沼定忠とその家老城所道寿であった。遠征をする場合、攻め込むときも撤退するときも地元の武将が道案内をする。
この時は定忠が、その役割を引き受けた。

やがて自城田峯城にたどりつくと、定忠は勝頼一行に休息をとってもらおうとした。
ところが、である。留守居の菅沼定直と今泉道善は、城主定忠らの入城を拒絶したのだ。

これには、このような経緯がある。
弘治元年(1555)、まだ今川義元の時代、定忠の父定継は今川から寝返り尾張の織田に通じた。
このため義元の討伐を受け敗北、定次は自刃して果てた。
田峯菅沼宗家はこれで滅亡かと思われたが、この時、三才であった定継の一子小法師丸(定忠)は、叔父である
菅沼定直に助けられ、やがて定直らの努力により、新たに三河の支配者となった徳川家康によって
田峯菅沼宗家の家督と所領安堵を認められた。

しかし定忠と家老城所道寿は、武田の調略に乗り家康を裏切り武田に通じた。家督のことで徳川に恩義を感じていた
菅沼定直らはかねてからこれに批判的であったが、長篠における武田の大敗という事態を受け、ついに
城主拒絶という挙に出たのだ。

菅沼定忠と城所道寿は激怒したが、敗走の最中にここでもたもたしているわけにも行かず、致し方なく田峰城を離れ
更に奥の武節城まで勝頼一行を案内し、そこで休憩をとってもらい信州へと入った。


さて、定忠は勝頼に許しをもらうと、早速田峯城の者たちへの復讐を計画した。
しかし田峯城は堅城であり、まともに攻めても攻め落とせないだろう。そこで定忠と城所道寿はまず、
自分達が絶望のあまり自刃して死んだ、と言う噂を流した。遺髪を田峯の菩提寺に届け、念の行ったことに
埋葬した証拠として土を盛りそこに卒塔婆まで立てた。
田峯城の定直らは終にこれを信じた。

天正四年7月。盆の時期であるこの期間、田峯の城兵は交代して帰宅する習わしがあった。
つまり、城の警備が手薄になるのだ。

定忠と城所道寿は密かに武節城に兵を集結させ、十四日の未明、まだ寝静まっている田峯城に斬り込んだ。
襲撃側も元は田峯の者たちであり、勝手知ったる城である。それらに寝込みを襲われた城方は何の応戦も出来なかった。

定忠達は菅沼定直をはじめ、女子供の区別なく城方のものを皆殺しとした。その数九十六人という。今泉道善は捕縛され、
今回の首謀者として鋸挽きにされた。
定忠と城所道寿は復讐を遂げると、再び信州の伊那に引き上げた。


更に時は過ぎ天正十年(1582)、織田信長による武田征伐により武田家は滅亡する。

五月、信州伊那に進出してきた徳川軍に、菅沼定忠と城所道寿は帰参を願い出た。いまさら、であろう。
当然認められることは無く、彼らは誅殺された。菅沼定直らによって救われた田峯菅沼宗家は、この時滅びた。

やがて家康は田峰城に、終始徳川方として行動していた道目記城主、菅沼定利を入れた。
この定利は、定忠に殺された菅沼定直の嫡子であった。

奥三河のとある城をめぐる、物語である。




580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 12:42:07 ID:2SWi0bEz
戦国時代において、家を保つのがどれほど難しいかよく分かる話だな。

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 13:00:51 ID:wMJV9ME3
奥平家とは対称的

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 14:03:49 ID:XeCGHHrn
大勢力の狭間にならざるをえない家だものな、菅沼や奥平は

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 14:11:44 ID:hhhDLIdB
>>579
菅沼定盈は、終始徳川の味方だから、江戸時代に子孫は、分家だけどもっとも栄えた。

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/24(水) 16:47:23 ID:6ddly/MM

>>579
死んだフリで卒塔婆まで立てる本気度が怖い
そこまで用心深くても生き抜けないご時世がもっと怖い