わが一生は清正に騙されたのだ

2016年05月07日 17:37

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 19:32:50.06 ID:Y602gNMy
加藤肥後守清正は、武勇のみならず能く人を使ったそうだ。彼の家来に、飯田覚兵衛という武功の者があった。

ある本に、飯田覚兵衛ははじめは「角兵衛」と書いたが、朝鮮征伐の時、手柄があったため、
豊臣秀吉の命により、「覚」の字にした。これは文禄二年の事だという。

肥後加藤家が滅亡ののち、飯田覚兵衛は京へ引き込んで、再び奉公もせずに居た時の物語に、

「わが一生は清正に騙されたのだ。最初、武辺を仕った時、その場から帰ってみれば、
私の朋輩たちは皆々鉄砲に当たり、或いは矢にあたって死んでいた。
さてさて危ういことである。もはやこれ限りにて武士の奉公を止むべし。そう思って帰るやいなや、

『さても今日の働きは神妙、言う事無し!』

そう言われて清正より腰のものを給わった。
私はこのように、戦のたびに毎回武士をやめようと思っていたが、清正は時節を逃さず、
陣羽織、或いは加増、感状を与えられ、このため諸傍輩も羨み、讃嘆したため、その空気に
引っ込む事も出来ず、侍大将と言われるほどになった。

一生清正に騙されて、私は本意を失ったのだ。」

そう語ったという。

(新東鑑)




595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 20:36:11.23 ID:MGASwZu/
>>594
ツンデレ過ぎだろ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 11:50:16.78 ID:yCZ3XLCc
>>594
なんつーかツンデレw

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 16:30:48.27 ID:S0r/bwAA
>>594
部下のそういう気配をしっかり察知したのかw
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飯田覚兵衛の覚悟

2015年04月20日 18:41

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/19(日) 20:49:31.11 ID:G6DXaNoe
飯田覚兵衛(直景)は、加藤清正以来の名高き武士であったが、肥後加藤家が改易されると、その後
黒田家に招かれて仕えた。

ある年、長崎警護の番頭として詰めていた時、南蛮国より黒船が入港した。
これに奉行人・諸役人評議し、黒田家の番頭を召し出して、
『今回黒船が入港したことを江戸表に報告するが、その往来の間、この船を預かり守るべし』
と申し渡した。

この役割は、元来大儀なものの上に、黒船は水上24間(約44メートル)の大船であったので、
50万石の人数を尽くしても半分にも届かないような海上のことでもあるから、
『黒田家の番頭も定めて難儀を申してくるだろう。その時は加勢として誰々を』等相談していたのだが、
飯田覚兵衛は意外にも、心やすく申し渡しを受諾した。早速筑前表に申し遣わすと、かねて用意のことであったので
上下の士たちが集合した。

この時、黒田家の家司某が飯田を招いて尋ねた
「この黒船守衛の事並々のことではない。万一黒船に異変が有れば、大海を手にて防ぐという諺のように、
黒田家の名折れにもなるだろう。であるのに、加勢等の沙汰にも及ばず簡単にお請けしたのはどういうことか」

飯田、これに申し上げた
「大筒や石火矢など多くの仕掛けがある南蛮船を取り逃がすべからずとの事、かつ海上の事ですので、
非常に難しいといえば、幕府からも聞き届けられるでしょう。
しかし、鍋島家と当家は、所役免除あって異国守衛を仰せ付けられ、この長崎表に人数を置いているからは、
異国船が何百艘来たとしても、取り逃がすことは出来ません。であれば、何が起こるかわからない海上の
異変について、計るべきではありません。
この考えで、私は筑前を出る時から死は覚悟しておりますので、今更思慮にも及びません。
異変が有れば、それまでの命と存じて、軽々しくお請けいたしました。

我々が今さら、大した理由もないのに難渋を申し立てて辞退すれば、長崎警護としての甲斐もなく、
鍋島家からも笑われてしまうでしょう。これは武勇の御家に疵を付けることです。
それ故に決断して、請け合ったのです。」
これに、家司を初め皆々、尤もであると感じ入った。

それより飯田覚兵衛は指図して、段々の船組を定め、番船の最初に自分が乗って押し出し、海上の行列、
使番船の進退、大筒等の火器の取り扱いに至るまで、飯田の下知の行き届くこと、陸地を往来するが如くであった。
これには、黒田家の、旧来からの海上のことに熟練している者達も感服したという。

(明良洪範)



848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/19(日) 21:24:21.90 ID:QDSfDsnB
>>847
京都に隠棲して没かと思っていたら、福岡藩に仕えたのか。
それとも子孫のエピソードが混同されたのだろうか。いずれにしても面白いねえ。

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 08:04:52.53 ID:pLVSgz7z
長崎警護の時代だと覚兵衛は亡くなってるもんな

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 19:35:06.42 ID:rt3EIGdP
>>848
頓知狂歌なら細川幽斎とか
ケチくさい話なら東照大権現様とか
真偽は別として、さもありなんと思わせる
説得力を持つ人物ってのは結構いるよね。
事実とは違っても、その逸話の成立過程を想像すると面白い。

飯田覚兵衛は、初めは六石だった

2014年05月31日 18:51

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 14:19:48.91 ID:CcsG86Lw
加藤清正の家士である飯田覚兵衛(直景)は、初めは六石だった。
その後、二千石になって部将となる。

さらにその後、覚兵衛は清正の命に背くことがあって浪人し、
伏見に退居して草鞋や馬踏などを作って生計とした。

福島正則は以前から覚兵衛の武勇を知っていたので四千石で彼を
招くも、覚兵衛は正則に仕えなかった。その後、たびたび正則方から
使いが来た時、覚兵衛は答えて、

「それがしは清正の不興を蒙り、このように浪士の身となりましたが
二君に仕える心はありません。今にも清正が出陣するような時には
一番に馳せて付き従い、清正の馬前で討死いたす覚悟です」

と、言った。正則はこれを聞いて深く心を動かされ、さっそく清正に
その事を語ったので、清正はやがて覚兵衛を呼び戻して元の通りに
二千石を与えた。覚兵衛はその後、たびたびの武功によって六千石
にまでなった。

――『明良洪範続編』




43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/31(土) 15:22:46.54 ID:mCFaeIof
いいね

飯田覚兵衛は明軍について

2013年06月19日 19:51

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:53:52.50 ID:GX+AQOoR
加藤清正の家臣飯田覚兵衛は明軍について
「わが国では大軍が陣を敷いた跡を見れば糞が満ち満ちて足の踏み場もない。
 しかし明軍の陣の跡では糞をした跡を見たことがない。
 どういうわけかはわからぬが、法令が整っているからであろう。」
と感心していたという。

荻生徂徠『政談』




536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 09:29:04.57 ID:sN7H3ym7
>>531
みんなその辺でしてるのかよ。汚ねえなあ。
明軍は近代の軍みたいに、トイレ用の穴掘っていっぱいになったら埋めるとかしてそう。

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 09:37:50.46 ID:tK1CznwF
>>536
マジレスすると、戦国期の日本も糞便は放置すると疫病の元になると経験的に解っていたので、トイレ作って一ヶ所にまとめて
その後遠くに捨てさせるか百姓に飼料として買い取らせたりしてた。

まあ荻生徂徠はこの時代から100年以上たった徳川綱吉の時代の人だから、信頼出来る話とは思えないなw

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 01:01:47.62 ID:Cy723GO0
>>537
徂徠の叔母の嫁ぎ先というのが加藤家の家臣の堀江家で、その一族の堀江小右衛門という人がいるんだが
この人は1700年ころに亡くなった時80歳あまりで、加藤家の軍物語にも詳しかったと徂徠は記している。
『政談』 のこの話は「加藤家の故老が語った話」とされていて、おそらく徂徠はこの小右衛門からこの話を聞いたと思われる。

そんなキヨマサに騙されて・悪い話

2009年03月19日 00:14

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 11:00:19 ID:YJRrX5d6
そんなキヨマサに騙されて

加藤忠広の大力になりたい・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-56.html
に出てくる飯田覚兵衛。
覚兵衛は初めは角という字であったが、太閤秀吉は覚の字に書き換えさせた。
この覚兵衛が言うには、
「俺の一生は主計頭(加藤清正)に騙されっぱなしだった」
というのである。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/18(水) 11:01:33 ID:YJRrX5d6
「初めて戦に出て功名を立てたとき、同輩が多く鉄砲に当たって死んでいった。
なんと危ないことか、もはやこれまで!わしは武士をやめよう。
そう思って城に帰るやいなや、
清正が時を移さず 『今日の働き神妙である』と褒め称え、刀を与えた。
このように戦に出る度に後悔するのだが、
その度に清正が陣羽織や感状を与え、人々も皆羨んで褒め称えたりした。
それに惹かれて武士をやめることができず、
弓矢をとり侍大将といわれるようになったのは、
主計頭(加藤清正)に騙されて、本意を果たせなかったからである。」
加藤忠広没落後、京に引きこもり、再仕を求めていた時語ったそうである。

常山紀談