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アンコールワットに渡ったという森本一房について

2019年05月24日 14:41

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 11:45:39.91 ID:ISgK1XN7
加藤清正の家臣である森本義太夫(一久)の子(次男)を宇右衛門(一房)という。
牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。

この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)

またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)

近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。

また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。

彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。

(甲子夜話)

アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 13:34:27.02 ID:DIUlQ1Gk
>>61
ガリバー旅行記みたいだなw

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 15:24:00.04 ID:5bhEUb8Y
ガリバー「踏み絵を拒否したら怪しまれた」
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森本宇右衛門天竺より小人国に往く事

2016年06月26日 17:56

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 00:23:04.18 ID:6jeSAv6P
森本宇右衛門天竺より小人国に往く事

清正の臣森本儀大夫の子を宇右衛門と称す。
儀大夫が浪人の後、宇右衛門は、わが天祥公(松浦重信)のときしばしば伽に出てきて、
天祥公はその咄などを聞かれたという。
この人はかつて明国に渡り、それから天竺に行こうとして、
かの国の境にある流沙河を渡る時に蝦を見たという。殊に大きくて数尺に及んだそうだ。
それから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様を自ら図記して携えって帰った。
〔今その子孫は、我が領内にいる。正しくこれを伝える。しかし今は模写である。〕

また方々をめぐり歩く内に、小人国に至ると、折節小人が集まっていた。
一石を運んで橋に架けようとしていたのを宇右衛門は見て、
自ら一人で石を水に渡したら、小人達は大いに喜んで、
報酬と思しき菓物を多く贈ってくれた。
これも今に伝えているが、年を経たためか、今では梅干のようなものとなったという。
〔初めは多かったが、人に与えていくうちに今はわずか二、三だけである。〕


近頃、ある人が曰く、これらの行ってきたところは、真の天竺ではなく他邦であると。
流沙河もその本当のところでは沙漠で水はない。
なので、我が国で常に聞き及んでいたので、これを名付けたのだ。
また山や舎の如きも皆異所であろう。
かの国にはこの類のことがなお多い。
また小人国も南北所々にあり、この小人はどこのものであろうか。
たしかに外域、はるか遠くの地に至ったのは疑いもないけれど、
その頃は世界四大洲の説もまだ明らかでなかったので、
あいまいで分かり難い。
とのことであった。


(甲子夜話)

実際は、祇園精舎ではなくアンコールワットだそうで
小人国って、ガリバーみたいだなあ



森本右近太夫の落書きについて・悪い話

2009年03月16日 00:22

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/14(土) 23:37:48 ID:pnoApfQ3
海外渡航つながりで。

カンボジアはアルコールワットに落書きし
その名を後世に残した森本右近太夫。
観光客のマナー違反の例として取り上げられる
右近太夫の落書きだが、渡航当時の本人の境遇を考えると
一概に非難はできなさそうである。
というのは
親子して仕えた肥後熊本藩で清正死後にお家騒動が勃発。
その混乱につくづく嫌気がさした右近太夫
出奔して肥前松浦家に仕えるがどうにも心が晴れない。
人の世の空しさを感じたのか、何か悟るものがあったのか
「亡き父の菩提と老母の後生のために千里の海上を渡って」
はるばるカンボジアに来たという背景があったからだ。
書き残した内容もかなりしっかりとしたモノで
安易に落書きと片付けるのは難しい。
右近太夫本人にしか知りえぬ、深い心の葛藤が
きっとそこにはあったはずである。

・・・とここまでだと「いい話」で終わるのだが
念願の祇園精舎に辿りついてハイになった右近太夫
なんと合計三ヶ所に落書きを残していったのだった。

何事もやりすぎはいけないというお話。





859 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/15(日) 01:13:58 ID:xT1Y1/rG
墨で書いたお陰で今でも残ってるんだっけ?
ペンキ落書きは消されたのに消えなかったという…

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/15(日) 02:05:53 ID:/p7HcSG6
>>894
聖地巡礼みたいなもんであって観光客とは違うよな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/15(日) 03:21:06 ID:TG5csUFl
初めてアキバ行った時についついテンション上がっちゃって、ハシゴして同人誌買いすぎた
みたいな状況か

加藤家家臣、右近太夫の落書き・悪い話

2008年11月11日 00:05

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/10(月) 17:11:15 ID:nr+oOLHe
戦国の話ではないが…

肥後の加藤清正の家臣・森本儀太夫の子に右近太夫という男がいた。
右近太夫は、父の菩提を弔うために噂に聞く「祇園精舎」を訪れるために日本から出航して
ある寺院を訪れた際に落書きをした。落書きの日付は寛永9年正月30日とある。

その落書きはポルポト政権下に兵士によって上からペンキを塗られて抹消されたが、現在では
そのペンキが剥がれ、現在ではその落書きを読むことができる。

右近太夫が落書きした寺院とは、アンコールワットである。



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/10(月) 17:11:58 ID:JRDJmGGL
>>879
今では観光名所だよな

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/10(月) 17:49:16 ID:LAHndSXC
おお・・・ワールドワイドなSAMURAIの話だ

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/10(月) 18:04:29 ID:2LzkHin6
世界遺産に落書きする馬鹿大学生のルーツですね

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/10(月) 18:30:56 ID:6txt+stK
>>882
神社やお寺に自分の名前なんかを書くのは縁起が良いという文化があるんだよ。
江戸時代になって千社札に進化するんだけどw

ローマまで行ったり、アンコールワットまで行ったり、日本人の宗教的情熱もたいしたもんだ。